一般社団法人 日本ネット輸出入協会 – JNEIA

夢がかなう場所、ディズニーランドパリ

2014-07-25 [EntryURL]

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(映画『眠れる森の美女』のお城がシンボルになっているディズニーランドパリ)


「ディズニーランドは永遠に完成しない。この世界に想像力がある限り、成長し続けるだろう」
これは、ウォルト・ディズニーの有名な言葉です。
彼の飽くなき想像力は、常に私たちを楽しませ、夢を見せてくれました。
そして、またウォルト自身もそんなゲストの姿をこのディズニーランドで見たかったのではないでしょうか。
彼の、人を楽しませたいという想いから始まったディズニーランドのイズムは、ここヨーロッパでも受け継がれています。

ディズニーランドパリは、カリフォルニア、フロリダ、東京に続き、世界で四カ所目のディズニーランドとして92年にパリに建設されました。
実は、65歳の若さでこの世を去ったウォルトがディズニーランドの誕生を見届けたのは、15年もの歳月を費やして55年に初めて造られた、米・カリフォルニアのディズニーランドのみなのです。

その後にフロリダに誕生したウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートは建設中にウォルトが逝去したため、彼自身はその姿を目にすることは叶いませんでした。
それでも、ウォルトの遺志を受け継いだ兄のロイ・ディズニーがその5年後、オープンへと漕ぎつけたのです。

東京をはじめとしたディズニーランドの多くは、どれもウォルト亡き後に彼の遺志を引き継ぐ者たちによって創り上げられてきました。
ディズニーランドパリも、またその一つです。
ヨーロッパで唯一のディズニーランドとして、オープン以来多くの人々に愛されてきました。
ディズニー映画『眠れる森の美女』のお城をシンボルにしたこのパークは、ピンクを基調とした可愛らしい作りが子供たちだけでなく、多くの大人たちをも夢の世界へと導いてくれます。

そして、その可愛らしさとは裏腹に、東京でも馴染みのある、ビッグサンダーマウンテンやスペースマウンテンなどの人気アトラクションはその怖さを増して、大人たちを楽しませてくれるのです。
また、ランドの隣にはウォルト・ディズニー・スタジオ・パークという映画の撮影スタジオを再現したパークが併設されており、こちらでもタワー・オブ・テラーなどのアトラクションがゲストを待ち構えています。
「大人が子供のようにはしゃぐなんてかっこ悪い」そんな大人たちの哀しい性を、ディズニーマジックはいとも簡単に忘れさせてくれるのです。

一方で、私がディズニーランドパリを訪れた際に困らされたのは食事でした。
東京で人気のポップコーンやチュロス、タンドリーチキンなど気軽に食べ歩きできるものはほとんどなく、開いているお店もあまりありませんでした。
あるのはまったくお腹を満たしてくれない小さなワッフルや、お世辞にも美味しいとは言い難いハンバーガーくらいです。
どうやらヨーロッパでは、ディズニーランドの中でもストや定休日、潰れたお店が存在するようです・・・。
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(いつだって忘れないで欲しい。すべては、一匹のねずみから始まったということを ―Walt Disney―)



ウォルトによって生み出されたたった一匹のねずみは、その手を離れ、世界中の人々に愛されて来ました。
それは恐らく、ウォルトが想像したよりも遥かに大きなものだったでしょう。
私たちは、様々な人と様々な想いでパークを訪れます。
それは、年に一度の家族旅行や大切な友人たちとの卒業旅行、或いはカップルの初デートかもしれません。
そんな、一度でも愛する人と特別な想いでディズニーランドを訪れたことのあるすべての人々が抱く、「愛の象徴」としてミッキー・マウスは世界中の人々に愛され続けているのではないでしょうか。

かくいう私にも、その特別な思い出がディズニーランドには数多く存在します。
その一つ一つは、どの瞬間を切り取っても忘れることのできない大切な思い出なのです。
だからこそ、私たちはその思い出を増やしに、また時には過去の思い出に会いに、幾度となくパークを訪れるのです。
それは、今一緒にいる人とは限らないけれど、きっとまた一緒に行けるはず。
なぜなら、そこは夢が叶う場所だから。

そんなほんのり甘い期待を込めて、私たちはこれからもミッキー・マウスを愛し続けることでしょう。
そして、最後に我々は願うのです。
永遠に、ディズニーランドが完成しないことを・・・。

Kisaki Tsujimoto
2014.07.25
辻本貴幸

パリで出会った日本人(家庭料理研究家 奥田玲子さん)

2014-05-31 [EntryURL]

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(奥田玲子×辻本貴幸)


「家庭料理は家族という人間関係を繋ぎ、培うもの。いつの時代も食卓は家族が集まる場として普遍的な存在であって欲しいと思っています」

こう語るのは、家庭料理研究家で、ケーキ教室『Eclat』(エクラ=大阪府)を主催する奥田玲子さん。
食育や、口からの美を伝える奥田さんが語る、いつまでも健康で、輝き続ける秘訣とは?
私の友人でもある、奥田さんにお話しを伺いました。

まず、奥田さんがパリに来ようと思ったきっかけはなんだったんですか?
奥田さん(以下、奥田)「以前に日本で『秋の味覚の一週間』というシンポジウムがあり、私もそれに参加したんです。その時に、フランスのシェフの方たちもたくさんいらっしゃって講演されていたんですね。そこで彼らのような有名なシェフたちが食育の活動をしているということを知ったんです。日本ではまだまだ正しく周知されていなかったことが、フランスでは何年も前から既にはじまっているということに驚きました。国民が食に興味を持っていて、有名シェフたちによる食育活動もさかんな国で作られ、食べられている家庭料理というものに興味を抱いたのが最初のきっかけでした」

実際にパリに来られていかがですか?
奥田「パリに来てまず驚いたのは、家族の食卓の在り方でした。こちらでは少し遅くなっても家族が全員揃ってから、皆でご飯を食べるんです。もちろん食事をするダイニングルームにはテレビや新聞は置いていません。家族皆が忙しく時間に追われている日本ではなかなか見られなくなった光景だと思いますが、家族で会話を楽しみながら食卓を囲むというのは家族の基本。忙しい現代人にとって、テレビや携帯を見ながら一人でささっと済ませるという食事スタイルが必要になるときもあるかと思います。でも、だからこそ心や時間に余裕をみつけて、大切な人たちと食事を楽しむということを大事にして欲しいと思っています」

奥田さんの思う、パリの魅力とは何だと思いますか?
奥田「美しさと汚さが共存しているところだと思います。パリってこんなに綺麗な街なのに足元をみると汚いですよね。ちゃんとゴミ箱もあるのにタバコの吸い殻や空き缶、ありとあらゆるゴミをその辺にほかす(捨てる)。犬の糞は皆拾わずに置きっぱなし。日本から来た私は、もっと綺麗にすればいいのにと思ってたんです。でも、日本人の方でパリにはもう40年以上住んでらっしゃる、ある偉い先生とお食事をご一緒した時に「パリって汚いですよね?」って私言ったんですね。そうしたらその方が「汚さも含めてパリの魅力だ」っておっしゃるんです。「どんなに綺麗な女性でも、パンツの中は汚くて臭いでしょう?それと同じだよ」って」(笑い)

汚いものがあるからこそ、綺麗なものがより引き立つ訳ですよね?
奥田「そうなんです。それは辻本さんのファッションでも同じだと思うんですけど、表も裏もただ綺麗なだけのものってつまらないと思うんですね。明暗があるからいい。だから私は、そこも含めてパリの魅力だと思っています」

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個人的な話をすると、僕はいつも玲子ちゃんって呼ぶんだけど。
奥田「はい」

この写真もそうなんだけど、たまに玲子ちゃんがお菓子とかいろいろ差し入れしてくれるじゃない?
あれって美味しくて大好きなんだけど、いつも玲子ちゃんの手作りなんでしょう?

奥田「そう。あれは私が作ってるの。ちゃんと健康にも気を遣って甘さ控えめで、その分フルーツをたくさん使ったりして」

玲子ちゃんとは時々食事にも行くんだけど、その時にいつも思うのは、玲子ちゃんは野菜とかいろいろバランスよく食べていて凄いなって。
僕はいつもお酒を飲みながら、何も考えずに好きなものだけを食べてるから・・・。

奥田「きさきくんは偏食だし、私は野菜ソムリエでもあるから、どうしても気にはなるのよね。でも、子供の頃に楽しくバランスよく食べることを知っていたら、特別意識しなくても、自然と食べられるようになる。そういう風にしてあげるのも食育の一つだと思うの」

なるほど。食育の大切さ、身に沁みますね。
奥田「だけど、きさきくんはいつもたくさんの人と一緒にいるでしょう?相手が日本人でもフランス人でも、いつも楽しく食事をして、お酒を飲んでる。それってすごく大切だし、難しいことなのよ」

確かに、日本では今ぼっち飯っていうのが話題になってますよね?
京大の学食ではお一人様席、いわゆるぼっち席を作ったら大人気だとか。

奥田「そうね。それに便所飯(友達がいないため、トイレで一人でご飯を食べること)っていうのもあったでしょう?そういう人たちだって、きっと一人で食べるのが好きなんじゃなくて、誰かと食べたいと思っているはず。大学の学食なんてあんなに友達がたくさんいる中で、本当に一人で食べたくて食べてる人ってどれくらいいるのかなって。家族や友人、恋人と会話をしながら食事をすることってとっても楽しいことなのに。だけど最近は誰かと食事をしていてもテレビや携帯に夢中なんて人も多い。私たちは孤独の孤と書いて孤食なんて言い方をするんだけど、寂しいですよね」

フランスではその辺りはどうなんですか?
奥田「フランスでは一人で食事をする人があまりいません。一人の場合は「ここに座っていいですか?」から会話が始まりますよね。会話をしながら食事を楽しむことを本当に大切にするフランス。気軽に声をかけあうことが大切なんじゃないかと感じます」

玲子ちゃんが主催しているエクラではそういうことも伝えてる?
奥田「これからそういうことも伝えていきたいですね。私はこれまで口からの美について伝えて来ました。生きるエネルギーとなる食べ物を摂取する口、会話しながら笑顔が生まれる口、それが、人の輝きに繋がると思っているんです。口からの美は笑顔を出せる自分だから」

これからのエクラ、どうしていきたいですか?
奥田「パリに来て、こちらのマダムから料理を教わったり、フランス語のレシピ本を翻訳したりと、濃密なパリ生活で学んだことを今度は私の教室で生徒の皆さんに発信していけたらと思っています。今は私の誕生日にきさきくんからいただいたラデュレのレシピ本を一生懸命翻訳しているところ。ただ、フランスにはフランスの、日本には日本の食文化があるでしょう?その国の風土に合った食ってとても大切だと思うんです。その辺りも意識しながら、私なりに工夫したレシピを皆さんに伝えていけたらいいなと思っています」

最後に、このコラムを読んでいる日本の皆さんになにか一言いただけますか?
奥田「フランス語でエクラは輝きという意味。私にとってキラキラ輝くことは料理だったんです。だから、皆さんも少しでも興味のあることを見つけたら、まずは悩む前に扉を叩いてみて欲しいですね。そうすれば、きっとそこにはキラキラ輝くことが待っています」

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家庭料理研究家 奥田玲子

京都府出身。
家庭料理研究家として、自身でエクラ教室を主宰する一方、野菜ソムリエ、歯科衛生士としての顔も持つ。
歯科衛生士としての知識を活かし、食だけでなく口から考えるトータルビューティ―も伝えている。
また、エクラでは野菜ソムリエ認定教室として、自身の故郷である京丹後市で採れた野菜を使い、野菜の美味しさを伝える食事プレートも提供している。

ケーキ教室『Eclat -Patisserie Class-』
大阪市北区中之島
TEL090‐5151‐7102

Kisaki Tsujimoto
2014.05.31
辻本貴幸

夢と現実のヴェルサイユ宮殿

2014-04-25 [EntryURL]

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(ヴェルサイユ宮殿前に設置された太陽王、ルイ14世の騎馬像)



私がパリに来てどうしても行きたかった場所。
それは、かの有名なヴェルサイユ宮殿でした。
ここには、私の夢の形があったのです。
パイロットにスポーツ選手、アイドルにお医者さん、幼い頃に思い描く夢は人それぞれ様々でしょう。
そして、夢と呼ぶにはあまりに大層で、現実味のない空虚な妄想というものを、子供の頃にはみんな多かれ少なかれ体験したことでしょう。
私にとってのそれは、王様でした。
私は変わった子で、他の子供たちがウルトラマンや仮面ライダーになりたいと願った幼少時代、「僕は王様になりたい」と思っていたのです。

大豪邸に、目が眩む程の貴金属、一生かかっても着尽くせない程の洋服や毛皮の数々に、ピカピカに磨かれた銀食器で毎晩フォアグラやフカヒレ、シャンパンの晩餐。
当時、私がそこまでの想像をしていたのかは、今となっては思い出せませんが、多くの召使いに囲まれて、王様の様に振る舞う事を想像して楽しんでいたのは間違いありません。
今にして思えば、あの頃から人にチヤホヤされるのが好きだったのでしょう。

我ながら、浅ましい少年時代だったと思います。
ですが、どんな夢も妄想も、大人になるに連れ、そんな事は一生起こらないのだと勝手に学び、そんな妄想をすることが虚しくなると、いつしか忘れていくのです。

そして、気付けば現実になるかもしれないと願った夢すらも遠く彼方にあるという現実・・・。
さて、前置きが長くなりましたが、ヴェルサイユは私の心の奥底に眠っていたかつての妄想を想起させるに十分な場所でした。
美しく、厳かなこの宮殿に、私は一瞬で魅了されたのです。
あまりに現実離れした広大な敷地や、映画でしか観たことのないような宮殿に私は圧倒され、「ここに本当に人が住んでいたのだろうか?」と疑わずにはいられないほどでした。

今、自分が立っているこの部屋で、数百年前、あの太陽王やマリー・アントワネットが暮らしていたなんて想像できるでしょうか?
私には出来ませんでしたが、事実彼らはここで暮らしていたのです。
幼少の私が、小さな脳みそで妄想していたものを遥かに超える王室の暮らしが、そこには間違いなく実在したのです。
私は中世の世界史を彩る彼らが、かつて暮らしたこの宮殿に心躍りました。

ですが一方で、この宮殿やここでの暮らしが、あのフランス革命の原因になったのかと思うと、何とも言えない虚しさが残るのです。
ヴェルサイユ宮殿とは、そもそも1682年に太陽王と呼ばれたフランス王・ルイ14世が建てた宮殿であり、パリを忌み嫌ったとされるルイ14世が、パリから離れたこの地に建てさせたのです。

その後、後に起こるフランス革命により、ルイ16世がパリに連行されるまでの107年間に渡って王族の人々がこの宮殿に暮らしてきました。
その間、宮殿は造園や増築を繰り返し、現在の姿になっているのです。
しかし、ヴェルサイユをただ豪華な宮殿として見物するにはあまりに勿体ないでしょう。

フランスの歴史として見れば、フランスの絶対王政の実現に一役買ったというこのヴェルサイユ宮殿は、1919年、第一次世界大戦終結の、ヴェルサイユ条約の調印が成された場所としても有名で、その豪華さだけでなく歴史的価値という面でも計り知れないものがあるのです。

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そして、ここがその調印式が行われたとされる、あの鏡の間です。
鏡の回廊とも呼ばれるこの場所は、500枚以上もの鏡が壁一面にはめ込まれ、全長73メートル、高さ12・5メートルの天井にはルイ14世が戴冠以来18年に渡って成し遂げてきた偉業の数々が、ル・ブランによって天井画として描かれています。
21世紀を生きる私たちが見ても度胆を抜かれるこの宮殿は17、18世紀に訪れた人々に王の威厳を示すには申し分ないものだったことでしょう。
 
まさに豪華絢爛、贅の限りを尽くしたヴェルサイユ宮殿は、かつての王族が確かにここに権力と富を築き上げてきたという象徴であり、332年の歳月を経た今なお、かつての権威と繁栄を堂々と、惜しむことなく誇示すると共に、世界中から訪れる人々を魅了し続けているのです。

Kisaki Tsujimoto.
2014.04.25
辻本貴幸

ありがとう、フランス人。ありがとう、日本人。

2014-03-21 [EntryURL]

はじめまして。
フランスより海外コラムを書かせていただきます辻本(つじもと) 貴(き)幸(さき)です。
このコラムでは、パリのこと、ファッションのこと、ヨーロッパの近隣諸国のこと等様々なことを書いていきたいと思っています。

そして、私のコラムが日本の皆さんのお役に立つと共に、私と日本を繋ぐ貴重なツールとなってくれることを心より願っています。
さて、2月2日の未明、私はパリ留学のため、シャルルドゴール空港に着きました。
私にとってのパリとは、これまで数々の映画で観てきた憧れの舞台そのものです。

私はパリに向かう飛行機の中で、ある映画の主人公が「パリは雨が最も美しい」と言っていたことを思い出しました。
これはニューヨークに生まれ育った脚本家、ウッディ・アレンのパリに対する憧憬が言わせた言葉なのでしょう。
でも、私は少なくとも日本の雨は大嫌いなのです。
私は、朝ベッドの上で目を覚ました時に窓の外から雨の音が聞こえてくると、それだけで一日憂鬱な気分になります。

でも、映画の巨匠はパリに降り注ぐ雨に何かを感じたのでしょう。
「パリの雨は私をも魅了してくれるのだろうか?」
そんなことを考えながら、私はパリに着きました。
ですが、パリに着いてみると残念なことに雨は降っていません。

しかしながら、フランス語はおろか、英語すらまともに話せない私にとって、天気の事等どうでもよい事だとすぐに気づきました。
なぜなら、私にはタクシーで空港からホテルに行くことさえ、大変なミッションだったからです。
しかし、言葉や文化は違えども所詮は同じ人間です。片言の英語とフランス語、それに精一杯のジェスチャーを加えて話せばなんとかなるものなのです。

もっとも、黒人のタクシードライバーには運賃を随分と吹っかけられたようですが、何より無事に着いたのだからよしとしなければならないのでしょう。
私は日本にいた時、「フランス人は冷たい」と聞いていました。
でも、決してそんなことはありません。
むしろ私は、パリに来てフランス人の温かさに感動しているのです。
彼らはどちらかというと優しく、人懐こい人種なのではないかとさえ思うほどです。
というのも、私はパリに来た翌日にパリのど真ん中で迷子になったのです。

私はその日の朝、ホテルからタクシーでパリ市内の自宅に向かい、そこで不動産契約を済ませた後、午後から地下鉄に乗ってLCL銀行に行かなければなりませんでした。
ですが、問題なのは地下鉄ですらなかったのです。
アパルトマンを出て駅に向かおうとしたものの、そもそも駅の場所がわからないではありませんか。
1時間程さまよったのでしょうか・・・。

私は諦めて家に帰ろうとしたところで、さらに重大なことに気づきました。
「家の場所がわからない」のです。
似たような建物が多く立ち並ぶパリの街で、一度タクシーで行っただけの自分の家を探すのは至難の業です。
携帯も日本で解約してきた私には、どこかに連絡を取ろうにもその手段がありません。
でも、私はここでもツイテいました。
たまたま成田の自動販売機で売っていたワールドカードという代物を購入し、しかもそれを持っていたのです。

私は必死で公衆電話を探し、「何かあったら連絡を」と言ってくれていたムッシュ松山と連絡が取れたのです。
ですが「迎えに行く」と言ってくれた彼に、迎えに来てもらおうにも自分のいる場所がわからないのです。
私は一先ず銀行に行くことを諦め、彼のいる場所に向かう他ありませんでした。
道行くフランス人たちに下手くそなフランス語で声をかけると、彼らは足を止め、私の言葉に耳を傾けてくれました。
私は凱旋門、セーヌ河、エッフェル塔と様々な観光名所をさまよいました。
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この私の放浪記はまた別の機会に書くとして、簡単には辿り着けなかったということだけは理解しておいていただきましょう。

結局着いたのは、少なく見積もってもその電話から2~3時間が経過した後だったと思います。
彼は私の顔を見ると優しそうな笑顔と握手で迎えてくれました。
関西弁の強い彼の日本語に私はどれほど安堵したことでしょう。
彼はそれから私に地下鉄の切符を買ってくれ、地下鉄の乗り方を教えてくれました。
そして私の曖昧な記憶と地図を頼りに自宅まで送ってくれたのです。

実は私はもう一つ、日本で嫌な話しを耳にしていました。
それは「海外に住んでいる日本人は日本人に冷たい」というものです。
でも、それもまた嘘でした。
彼は私を家まで送ると、近くのスーパーを探し、買い物を手伝ってくれました。
そして私の部屋で簡単な夜食と共にワインを飲むと様々な話しで盛り上がりました。
私が彼にどれほど救われたかは言うまでもないでしょう。

その翌日も、彼はまた私を気遣ってくれました。
一緒に本屋に行き地図を選んでくれ、その翌日には語学学校と銀行に案内してくれました。
でも、いつまでも彼に頼り続ける訳にはいきません。
彼にも仕事があり、私にも失敗と経験をするという大事な仕事があるのです。

これから私が、どれほどの失敗をすることになるのかは想像も及びませんが、私は今日も未知なる経験と共にパリの街をさまよっていることだけは確かです。
『М・松山』私はこの名前を生涯忘れないでしょう。
彼がいなければ、私はパリにすべてを捨てて空港へ行き、成田に帰っていたかもしれないのです。
なにより、今私がこうしてパリでコラムを書けているのは彼とたくさんのフランス人たちのお陰なのです。

それでは、私の最初のコラムを彼らへの心からの感謝と敬意を込めてこう締め括らせていただきましょう。
ありがとう、フランス人。
ありがとう、日本人。
そして、ありがとうМ・松山。

Kisaki Tsujimoto.
2014.03.21
辻本貴幸

青木千映 (フランス在住)プロフィール

2011-01-28 [EntryURL]

s-portraittchie3.jpg上智大学卒業後、パリ郊外の高校にてインターン講師として日本語を教える。
その後、通訳・翻訳、コーディネーター、日仏系企業にて輸出入業、広告代理店にてイベント企画などに携り、2007年独立。
日仏企業間をつなぐエージェントとして業務に携わっています。
実績はコチラ
◆ 日本人クリエイターのフランス進出をサポート(Paris-Art-Debut
サービス内容:
1) フランス語&英語版オンラインショップサービス
2) フランスエージェントサービス
3) イベント開催、展示会・見本市へ参加のためのサポート&コーディネート
4) イベントコーディネート&リサーチ (ジャンル問わず)
5) 市場調査&マーケティングリサーチ
6) 通訳・翻訳・アテンド業務
◆ 外国人へ向けたオンライン・ショップ Expo Shop Japon を運営。


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