ピクトグラム 〜 グローバル時代の視覚的バリアフリー
2016-02-16
世界中の誰もがわかるような共通する言葉があったらどんなにいいだろう、そう思ったことはありませんか?だれにでも一目でわかる、そんな夢のような情報伝達方法が、実はあります。100年以上前に作られはじめ、次第に普及し、今日まで重宝されているものです。ただしそれは通常の「言語」ではありません。音声を伴う一般言語とは全く異なる形態で、ピクトグラムと総称されています。
ウィキペディア(日本語)によるとピクトグラムは、「一般に『絵文字』『絵単語』などと呼ばれ、何らかの情報や注意を示すために表示される視覚記号(サイン)の一つである。地と図に明度差のある2色を用いて、表したい概念を単純な図として表現する技法が用いられる」とあります。この説明では少しわかりにくいので、 言葉のわからない海外のどこかに飛行機でとび、空港に降り立った時のことを具体的に想像してみましょう。預けていた荷物を早速取りに行きたい時、荷物の受け取り場所を英語で「Baggage Claim」と言うことを知らなくても全く支障はありません。スーツケースの絵が指し示す方に進んでいけば、無事に預け荷物を受け取ることができるからです。この様に(言語などの)特別の知識や細かい説明がなくても、一般の人が情報を理解できるような簡単な絵や図が、ピクトグラムです。
英語は、異なる言語を話す人たちの対外コミュニケーションの手段として世界的に最も普及している言語ですが、情報のやりとりするための十分な英語能力をもつ人の割合は、全世界的にみればいまだ一部にすぎません。一方、ピクトグラム以外の写真や映像などの視覚的な伝達ツールや、人が言葉を介さずに伝えるノンバーバル・コミュニケーションは、そこから誰もが何かのメッセージを受けとることができますが、明確で一様なメッセージを伝える手段としては適切ではありません。これらに対して、目にみえるわかりやすい形やサインを使うピクトグラムは、世界のどこででも普通の人たちが、 明確なメッセージを簡単に共有できるという意味で画期的なものです。
ピクトグラム は、人の行き来が多くなり、それぞれの土地の事情や情報の共有が当たり前ではなくなるようになってきて、はじめて発達してきました。交通標識は、世界的な普及にはじめて成功したピクトグラムです。文字のかわりに図式ですぐに認識できる標識が1909年にフランスで初めて取り入れられると、またたくまにヨーロッパ各国に広がりました。その後第一次世界大戦後の1927年に、正式に国際的に共通の交通標識を制定する委員会が発足し、以後、言葉を減らすあるいはなくし、そのかわりにピクトグラムを使用した交通標識の体系が確立され、世界的に導入されています。 ピクトグラムを駆使した交通標識のおかげで、外国でもいかに支障なく車の運転ができるかは、海外での運転を経験した方は、よくご存知のことでしょう。
1930年代には、交通標識に限らず、公共的な情報全般を万人にわかりやすい簡素にデザインされたグラフィックで国際的なピクトグラムの体系を作り上げようとするISOTYPEという動きもオーストリアで生まれました。しかし、ピクトグラムが自動車交通網以外にも広く普及していくのは、第二次世界大戦以降です。特にドイツでは、1968年ドイツ国内の空港で共通で ピクトグラム の導入以降、その後 近距離交通を結ぶ鉄道網や自治体でもピクトグラムの利用が広範に普及していきました。ただし、当初は違和感を感じる人もいたようです。ミュンヘンのオリンピックでもピクトグラムが大きく注目された1970年代はじめのドイツでは、文字もろくに読もうとしない慌ただしい時代の幕開けを象徴するもののように映り、批判する声もあったといいます。
今日、交通網をはじめとして世界津々浦々に広がっているピクトグラムですが、ピクトグラムも万能ではなく限界もあります。流暢に説明できる言語によるコミュニケーションと異なり、大量あるいは詳細の情報を伝えることはできません。また文化の違いに配慮し、それをも超越して理解されるものを表現するのが理想ですが、文化や個々人の多様性が大きな障壁となることもあります。人はそれぞれのそれまでの経験や知見に照らし合わせて、ピクトグラムを理解しようとするので、個々の解釈に幅(ひらき)がでてきてしまうのです。
さらに、一度は広く認知されるピクトグラムになっても、それが未来永劫続く保証はありません。むしそ、時間がたつにつれて意味合いがあやふやになることのほうが多いといえるかもしれません。技術がめまぐるしく変化し、人の職住環境やライフスタイルも不断に変化していく現代に、不変の意味や価値を持ち続けるのは、何にとっても困難であり、ピクトグラムも例外ではありません。1970年以降ピクトグラムを積極的に導入してきたヨーロッパの駅が、随時、ピクトグラムをリニューアルしていることもその証左です。アンテナが見える機種からスマートフォンタイプのものに電話のピクトグラムを入れ替えるようなケースや、「祈りの場」のように時代の需要を受けて、駅構内に整備された新しい施設を対象にしたピクトグラムの作成等、適宜見直し、必要に応じて新しく作ることが大切です。
また、見るだけでわかることを目指しているピクトグラムにとってパラドックスなのですが、迅速で正確に理解するには、 スカートのあるなしが女性と男性の差異を表現している場合と、スカートをはいていない姿が人全般を指す場合があるとか、 矢印の意味など最低限のルールや知識が必要です。また、 最低限のルールや体系を知っておくことが、新しいピクトグラムの理解の助けにもなります。例えば、赤い丸枠の中に赤い斜線があるのが一般に「禁止」を意味すると知っていれば、中にたばこが描かれた赤い斜線入りの丸枠が、何を意味するかもすぐにわかります。
ともあれ、ピクトグラムにすぐれた特性があることは確かで、その特性をいかして、ピクトグラムの活用領域はさらに、産業やビジネス、娯楽やアート分野にまで今日、広がっています。
まず、危険物を扱う企業や電気機器などを作るメーカー等、海外に多くの顧客を抱える業界全体にとって、ピクトグラムは心強い助っ人です。これらの企業は、顧客に商品の扱い方や危険性などを伝える責任がありますが、多言語で文章を羅列するだけではなく、ピクトグラムを使うことによってわかりやすく顧客に伝えることができます。
情報量の多さに伴って、情報の摂取にも加速化が必要となる今日、情報の交通整理にも、ピクトグラフの効力が発揮されています。観光パンフレットなどのホテル紹介で使われるピクトグラフは、その端的な例でしょう。自分の希望にあったホテルをみつけるのに、様々な情報、朝食、プール、無線LAN付きかなどの情報がピクトグラフで一望できると、ホテルの選択にとても便利です。また、金融サービスなど一見難しそうにみえる商品やサービスも、ピクトグラムを使うと、具体的でわかりやすい商品イメージが生み出され、好印象を与える効果があるといいます。
また、オリンピックごとに開催地でデザインされるスポーツ競技のピクトグラムのように、地域やデザイナーの独創性を競う娯楽やアートとしての性格が強いものも生まれてきており、従来の普遍的で公正な役割を超え、ほかのグラフィックデザインと融合した多様な形が、一つのトレンドともなっています。
出典: Olympic studies centre,
The Sports Pictograms of the Olympic Summer Games fromTokyo 1964 to Rio 2016, 11.2014
日本では、外国からの観光客数が近年急増しているだけでなく、東京でのオリンピックとパラリンピックもいよいよ4年後にせまっています。今後、日本中のいたるところで、交通や観光分野に限らず、文化や風習も異なる外国人との コミュニケーションが発生することになってくることでしょう。日本人と外国人と間でトラブルをなるべく避け、おたがいを尊重できるようなルールや情報を明示してくために、わかりやすく視覚化するピクトグラムの活躍の余地が、大いにあるかもしれません。
参考サイトと文献
「ピクトグラム」ウィキペディア、日本語(2016年2月10日閲覧)
Rayan Abdullah, Roger Hübner, Piktoramme und Icons. Pflicht oder Kür?, Mainz 2005.
Oliver Hervig, Macht der Piktogramme. Die Zeichen der Zeit, Ist es ein Leit- oder ein Leidsystem? Wie Piktogramme als Chiffren der Globalisierung die Welt erobern, Süddeutsche Zeitung, 17. 5. 2010,
ÖBB entwickeln neue Piktogramme, Wien ORF.at, 17.8.2015.
Bebildertes Labyrinth am Bahnhof, Kurier lifestyle, 19.8.2015.
Julia Sysmäläinen, Say it with a picto /// Lasst Piktogramme sprechen. Edenspiekermann, 1.3.2013.
Knigge für Asylbewerber mit 20 Piktogrammen, Tagblatt Online: 27.1.2016.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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