ウェルネス ヨーロッパの健康志向の現状と将来
2016-02-23
日本もスイスも冬の真っ只中ですが、冷え込む夕暮れに帰宅し、一日の疲れをとってくれるものといえば何を連想するでしょうか?日本では「風呂」を真っ先に思い浮かべる方が多いのではないかと思います。しかし、毎日のように自分の家で湯船に浸る習慣は、世界的にはめずらしいようで、ドイツ語ウィキペディアの「入浴文化 Badekultur」という項目には、日本特有の入浴事情が詳細に記述してありますし、英語のウィキペディアでは「Furo」という項目が立てられて、西洋と比較して日本の風呂について説明されています。
体を清潔にするのにヨーロッパで一般的なのは、19世紀以降、軍隊生活を通じて庶民にも広く知られるようになったシャワーです。今でも、古い町並みが残る都市ではバスタブがなく、簡易シャワーをとりつけただけのアパートもありますし、近年では、エネルギーや水の消費量といったエコロジーの観点から 、入浴よりシャワーの方が日常的な体の洗浄に望ましいとする考えも強くなっているようです。昨年11月に、スウェーデン王が半分冗談とした上で、バスタブを禁止したらどうか、と発言したのも同様の背景からでした。また、お年寄りの転倒などの事故予防の観点から、バリアフリーを売りにしたアパートがシャワーだけだったり、もともとあったバスタブを撤去してシャワーだけにする改装工事の話もたびたび聞きます。そもそも、水の硬度が高く肌が荒れやすい地域が多いためか、おむつをしている乳幼児も、毎日入浴させず、週に2回程度にひかえるように医師にもすすめられます。日本で小さい時から毎日入浴して、お風呂好きになるようにしましょう、と言われるのとは対照的です。
それでは、ヨーロッパの人たちは、どこで疲れをいやし、リラックスしているのでしょう?もちろん、十人十色いろいろな答えが返ってくると思いますが、「ウェルネス」という言葉がキーになると思います。「ウェルネス」とは、戦後の経済的な繁栄期を経た1970年代のアメリカから広がった健康志向で、飽食や衣装などに金銭と時間を消費するかわりに、健康や体調を意識した消費生活や、余暇の行動様式を重視します。この新しい健康ブームにのって、マッサージやサウナなどの施設、様々なリラクゼーションの講義や講座、 関連する書籍や機具類、また食料やレストランまで、多岐にわたるサービス・ビジネスが発展してきました。
ウェルネス志向はすぐに世界的に広がり、ヨーロッパでも、 特に90年代以降、「ウェルネス」と名のつく施設や講座や報道が急速に増え、 社会でもてはやされてきました(ドイツ語では「ウェルネス」という英語の表記をそのまま使います)。 今では「ウェルネス」という言葉は斬新な流行語でこそありませんが、「ウェルネス」の考えやサービスは、広くヨーロッパに普及・定着しています。世界のウェルネス業界のまとめ役であるGlobal Wellness Institute 、International Spa Association 、Global Spa Summitの近年の調査報告を中心にして、近年のヨーロッパを中心にしたウェルネス業界の現状を具体的に俯瞰してみましょう。
21世紀、世界的に不穏な政治・社会状況また経済不況があったにもかかわらず、2007年から2013年まで年間平均7.7%と、ウェルネス業界全体としては安定した成長を続け、2013年の世界全体のウェルネス経済規模は、3兆4000億ドルにまで拡大しました。ウェルネス産業の核として 急成長している分野は、スパとのその関連産業です。スパとは健康維持のための施設で、(水泳用)プール、温水、冷水浴槽、サウナ、フィットネス施設、マッサージ施設、ほかのリラクゼーション施設など全般をさします。2013年の世界スパとその関連産業は940億ドル市場と推計され、2013年には世界で10万カ所以上、190万人以上の雇用を生み出しているとされます。
近年のアジアでのスパ産業はめざましいものがありますが、現状では、もともとクアやサナトリウムなどの保養施設の長い伝統があるヨーロッパが、世界で最大のウェルネス及びスパ市場を誇っています。 特にさかんなのは、ドイツとフランスとオーストリアの三国で、この三国の年間ウェルネスとその関連ビジネスだけで、全世界の市場の約2割を占める58億ユーロの市場を作り出しています。スパでは、富裕層や疾患を抱える人に限らず、健康志向の人に広く利用される施設として、ハーブティー風呂や、泥や藻のトリートメントなどの伝統的なサービスに加えて、プールや様々なマッサージやセラピーのサービスを組み合わてが発達してきました 。
スパの増加に並行して、ウェルネス・ツーリズムと呼ばれるものも好調です。ウェルネス・ツーリズムとは、個人的な健康の維持や向上を主あるいは副目的として旅行することことで(日帰り旅行を含む)、全世界的に2013年は、市場規模は前年比で12.7%増の4940億ドルでした。ヨーロッパ人のする全旅行の4割は、ウェルネス・ツーリズムにあたるとされ、毎年、ヨーロッパ人は総計で1億4900万ユーロを支出しているとされます。ドイツだけでも、スパなどを付設したウェルネスホテルと称するものは1200から1500箇所あり、さらに2017年までにドイツのウェルネス・ツーリズム市場は年間平均4.7%成長がみこまれています。ウェルネス・ツーリズムをする人は、経済力がある高学歴の人が多く、84パーセントが国内旅行であり、ほかの旅行よりも6割も支出額が高いというのも、大きな特徴です。
このように、ここ数十年でウェルネス市場は急成長してきました。世界的な健康志向の高まりと、お金と余暇に恵まれたベビーブーマー世代を中心とした社会の高齢化にに後押しされ、ウェルネス業界は、今後も安定した成長が続くと考えられています。ただし、現状のウェルネス業界が必ずしも安泰であるというわけではありません。年々、ウェルネス利用者の経験や知見が豊富になっており、みかけだけ快適にみえる施設やサービスではなく、実際の内容に高い質を求めるようになってきています。またウェルネスの手法や内容自体が世界中の様々な要素をとりいれ多彩になってきているため、利用者の多数が求めるものを、スパやウェルネス・ホテルのような限られた施設で対応するのは難しくなってきています。また、急成長の分野ではよくあることですが、熟練した専門家も不足しており、海外から必要な専門家を確保するなど苦心しています。さらに、安く同じウェルネス・サービスを提供する近隣国が台頭してくれば、競争が今後厳しくなることも必至です。
一方、人々の健康志向も、ウェルネスが流行りだした当初とは変わってきているとされます。単にスパ施設へ赴いて「体にいい」マッサージや食事を楽しむというような受動的な姿勢が薄れ、積極的に体を動かすなどの自助努力を自らに課す姿勢が強まってきているようです。このような新しいウェルネスの代表格と思われるのが、ヨガです。ヨガは現在、世界的なブームとなっており 、世界で420億ドルの市場と言われます。ドイツでは、ヨガ・インストラクターだけで2万人おり、ベルリンだけでもヨガの専門教室は200箇所以上あります。フィットネススタジオでのヨガ講座などをあわせれば、ヨガのコースはさらに増加し、ドイツ全体でヨガ人口は、現在500万人にのぼるとされます。スイスの地元の市立図書館が所蔵している書籍を調べると、2010年以降に発行されたウェルネス関連の書籍の圧倒的多数がヨガに関するもので、開架図書の本棚まるごとひとつが、現在ヨガの本で占められています。 ヨガ指導者とヨガのポーズがパッケージに印刷され、値段がかなり通常のお茶類より高めの「ヨギ茶(ヨギとは、ヨガをする人のこと)」というシリーズのブレンド茶が、どこのスーパーでも入手できるようになるなど、ヨガの「商品化」も身近でみられます。
以上、ウェルネス志向とその産業の近年の動向と今後の見通しをみてきましたが、今後ウェルネスの健康志向がビジネスとしてさらに拡大していくことになると、具体的な人々の生活に、どんな影響をもたらすということになるのでしょう?少しまえに、人工知能やロボットが労働市場に進出してもなくならない仕事の例として、ベビーシッターとヨガのインストラクターがあげられているのを目にして、なるほどと思ったことがありました(どこで読んだのかは残念ながら失念しましたが)。確かに両者の仕事は、人間の最大の特性ともいえる情緒を全面に出して相手と交流する仕事であり、人工知能やロボットに任せることに強い抵抗感を感じる人が(少なくとも今の段階では)多いのではないかと思います。
ヨガのインストラクターに限らずウェルネス・ビジネスとしてみても、多岐にわたる産業ではありますが、コアの部分では、サービスを提供する側と享受する側の間の、毎回同じではない体験ややりとりや感受といった、人的な交流が基調になっているように思われます。もしそうだとすれば、ウェルネス・ビジネスは、今後市場を単に拡大するだけでなく、機械化などで雇用の場がある程度は奪われることはいずれ免れないでしょうが、それでも比較的手堅い雇用の場を将来も提供していくことになるでしょうし、利用者たちにとっても、人的交流や一回性の多彩な体験を享受できる貴重な場として、残っていくことでしょう。
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参考サイトと文献
ヨーロッパのシャワーと浴槽事情について
Dusche, 100 Sekunden Wissen, SRF, 27.11.2015.
Dusche statt Wanne: Schwedens König will Badewannen verbieten Duschen für die Umwelt, Tiroler Tageszeitung, 23.11.2015.
ウェルネス産業についての近年の世界的動向について
Global Wellness Institute, Global Spa and Wellness. Economy Monitor, 2014.
Global Spa Summit, Spas and the Global Wellness Market, 5.2010.
Research Inernational, ISPA 2008. Global Consumer Study
ヨーロッパのウェルネス産業について
Ingo Schweder, Aktuelle Zahlen aus dem internationalen Wellnesstourismus: wo liegt das Potential für Deutschland?, 3.10.2014.
Kira Hanser und Sönke Krüger, Ein bisschen Spa muss sein, Die Welt, 09.02.2014.
Patricia Engelhorn, Das lukrative Geschäft mit den Wellness-Ferien Gesundheit, Bilanz. Das schweizer Wirtschaftsmagazin, 08.02.2016.
ヨガ・ブームについて
Carla Neuhaus, Volkssport Yoga. Das Geschäft mit der Entspannung, Der Tagesspiegel,
そのほかの参考文献
Welcome to Wellness. Die besten Wohlfühltipps und -programme für Körper, Geist und Seele, Das grosse Wellness-Buch, München 2006.
Heinz Kaiser, Die besten Bäder zum Wohlfühlen, München 2012.
Gabrielle Arringer, Spa-Hotels im Trend, Zürich 2010.
Hademar Bankhofer, Winter-Wellness, 2005 Wien.
Karin Schutt, Wasser. Quelle für Schönheit und Wohnbefinden, München 1997.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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