ジャーナリズムの未来 〜センセーショナリズムと建設的なジャーナリズムの狭間で
2016-05-26
新聞社や放送局などの伝統的なメディア産業はどこも購読者数や視聴者の減少を食い止めることができず、存続の危機にある、とよく聞きます。一方、危機的状況であることは認めつつも、それは、通常言われるような多様に氾濫するデジタル情報や無料のニュースとの競争激化などの外的な要因によるのではなく、むしろジャーナリズム自体の内在する問題のためだ、と言う人がいます。前回の記事「『リアル=デジタルreal-digital』な未来 〜ドイツの先鋭未来研究者が語るデジタル化の限界と可能性」で紹介したドイツ語圏で未来研究第一人者として知られるマティアス・ホルクス氏Matthias Horxです。ホルクス氏は、自身がかつてジャーナリストとして働いていたこともあり、ジャーナリズムの問題を、内部と外部の両面から冷静に指摘し、ジャーナリズム の変革の可能性をかかげます。具体的にジャーナリズムのなにを糾弾し、どのような改革の必要性を論じているのでしょうか。そしてそれは、今日のどんな潮流と結びついているのでしょうか。今日のジャーナリズムをめぐる状況や抱えている問題は、世界的に共通する部分が多く、日本の方にも一見に価すると思われるため、今回ご紹介したいと思います 。ジャーナリズム全般に関心がある方や、前回のコラム記事でホルクス氏の一刀両断の物言いに思わずうなった方はもちろん、日々大量のメディアに浸っている一方、普段メディアの効用や問題性についてほとんど意識していないすべての方に、立ち止まって考えるよいきっかけを作ってくれるのではないかと思います。
メディアのネガティブなものに対する依存体質
ホルクス氏が、メディアにおいて最も大きな問題と捉えているのは、一見メディアの死活問題に関係ないように見えますが、メディア全体を支配しているネガティブな物事に対する比重過多の体質だと言います。雑誌やニュースは、明日にでも世界は滅びるかのような語調で語られ、討論番組は「国家は市民をまだ守ることができるのか」とか「高齢者総貧困化」など黙示録的な題目をかかげ、あげくの果てには、視聴率をあげるために叫んだり怒鳴り合うだけでなんの結論も出てこない、と非難します。実際に世界的に報道されているニュースの6割がネガティブなニュースという統計もあります。センセーショナリズムとネガティブな報道はいまにはじまったものでなく、「批判的精神」という名の下に、これまで受けついできたジャーナリズムの遺産であり、今日まで「悪いニュースはいいニュース」が暗黙の黄金律になっているが、このままで本当にいいのか、とホルクス氏は問いかけます。
氏の答えははっきり、否です。なぜなら、地球上の大多数の人間が平和裡に暮らし、その生活水準も治安も健康状態も、過去数十年間で全体として 明らかによくなってきているのに、ニュースではいつも世界中で大惨事が起きているように報道されるのは、全体像を把握する上でバランスを非常に欠いていると考えるからです。 また、ネガティブな報道ばかりに浸っていれば、当然不安があおられ、社会全体が恒常的なパニックや過敏なヒステリック状態になります。 不安を感じ、そこから逃れるための性急な解決案を望む人たちが増えれば、政界ではポピュリズムの政党の勢力拡大を許すことになります。現在、ヨーロッパやアメリカにおいて台頭するポピュリズム政党をあげようとすれば、ドイツやイタリア、東欧諸国など枚挙に暇がありませんが、これらの勢力拡大が進んだ背景にジャーナリズムの影響は大きいと考えます。
確かに多くの人は昔も今もセンセーショナルな話題やゴシップが大好きであり、時代は紙面からデジタルに変わりつつあっても、常に大勢の読者に要望されていることは、無料ニュースのよく見られているもののトップランキングをみても明らかです。上位を占めているのは、いつもゴシップ記事や三面記事的な事件や災害の内容が圧倒的です。
そして実際、今日のデジタル・メディアは、高いクリック数を叩き出るためにこれらのテーマに飛びつき、金儲けに走っている傾向が強くみられます。また、センセーショナルなタイトルなどで、人の興味をひきながら、実際の内容はそれと異なったり、内容が薄くて失望させる「釣りタイトル」のようなマーケティングのトリックを節操なく使ったりもしています。
しかしクリック率を上げるために、安直にそれらのテーマやトリックを使い続けていたら、どうなるのでしょうか。メディアにとって命とりになるとします 。まず、メディアがよってたかってすべて同じような報道をすることになれば(実際に現在のウェッブ上のニュースはこの傾向が強いですが)、論理的な帰結として、特に気に入る記事もなくなることになり、全体として記事につく「お気に入り」クリックの数は減少の一途をたどる傾向を食い止められないでしょう。さらに、一時的に財政を潤わせても、長期的にジャーナリズムにとってろくなことは一つもありません。節操ないトリックを使い、扇動的な内容ばかりを流すメディアに読者に嫌気がさした時、メディアは、なににも代えがたいメディアそのものへの信頼を失うこととなり、そのようなメディアは自滅します。
デジタル媒体の使い方
ホルクス氏は現状のジャーナリズムの体質と体制を抜本的に代えない限り、ジャーナリズムに将来はないとする一方、今日、ジャーナリズムには未曾有の大きなチャンスが横たわっている転機だともいい、具体的な改革点を提示します。
まずメディアやジャーナリスト自身がそれぞれ、なんの目的で、どのようにデジタル媒体を使用するのか、はっきり自覚し、それに沿う形で使うことを勧めます。これまでの大きな問題は、どのメディアもデジタル媒体を使って可能なことをすべてしようとしていることだったと言います。日刊紙がデートのポータルサイトを作ったり、ニュース専門誌のウェッブサイトで男性靴下の販売などに関わり、そこで得られる個人情報をもとに新たなビジネスに結びつけることに執心しています。その一方、はなから将来はメディアの報道では十分収益あがらないと諦めて、また中核であるはずのメディアの中身はもはや重要ではなくなったと幻想をもっているようにすらみえます。しかしそれはとんでもない大間違いだ、と反論します。そして、オンラインでもいいものがつくれるし、いいオンラインとプリントアウトしたものを組み合わせることもできるが、 オンラインでいくらきれいに飾り立てても、低質のコンテンツ報道では失敗するだけだとします。
ちなみに以前、顧客とメディア業界をデジタル・サービスで結ぶつける新たなサービスとしてデジタル・キオスクが ヨーロッパ に急速に広がっていることを以前「ジャーナリズムを救えるか?ヨーロッパ発オンライン・デジタル・キオスクの試み」で紹介しましたが、これは、ホルクス氏が言うようなオンライン技術を組み合わせで成功した例の一つにあげられるでしょう。このデジタル・キオスクの登録者数は2年足らずでオランダとドイツで65万人以上に達し、今年3月からは北米にも進出しています。
ジャーナリズムにおける黄金時代という逆説
またホルクス氏は逆説的に、大手ソシアルメディアやグーグルなどがこぞってニュース産業に参入しており、無料のニュースが氾濫しているという現状だからこそ、良質のジャーナリズムの需要もまた高まっているとも言います。よいジャーナリズムとは、見えるままの事実を報道するのではなく、意味のあるものとないものを判別し、事象の背景を探り、分析し、解釈したもので、言わば社会を照らす灯台の役割を担うものであり、そのような役割は、あまたのフリーのニュースソースがあってもそれらに代替されるものではないと考えます。そして、そのような役割を担ってこそはじめて、ジャーナリズムは、デジタル時代にも経済的にも存続できることになるとします。
その一例として、氏が80年代まで勤務していたハンブルクのリベラル週間新聞「ディ・ツァイトDie Zeit 」をあげます。この新聞は長い特集記事が特徴で、当時いずれ誰も読まなくなると言われていましたが、現在は、経済的にもメディアの影響力としても黄金時代を享受しているそうです。
ここまで聞いて昨年末のスイスのラジオで聞いたノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング(略してNZZ)のソシアルメディア編集員の話を思い出しました。スイスを代表する日刊経済新聞であるNZZでも、 長文の特集記事に力をいれており、概ね好評だという話です。NZZデジタル版(一部有料)のクリック数が多いものやシェアされている記事をみると、分析的な記事や背景について調査した長文のものが多く、 昨年末の時点で、フェイスブックで最も多くシェアされたNZZ の記事も、ルーマニアの市民社会における民主化への変化についての特集記事だったといいます。実際にこの記事のコメント欄をみてみると、このような記事を読むためにNZZを購読している、ルーマニアのイメージが変わるポジティブな記事だ、といった執筆者やNZZへの賛辞が書き込まれていて、実際に記事に満足している読者の姿がかいまみえる気がします。
ホルクス氏の主張と合わせると、どこの国においても、社会の出来事を表層的に追うのではなく、分析的な視点で解釈、説明するようなニュースのコンテンツを求める潜在的な読者数は、今後もメディアの多数派にはならないにせよ(つまり、タブロイド系の話題や猫のビデオが上位にランクングされるニュース・コンテンツが、これからの時代も高い人気を保つことは変わらないにしても)、決して少なくはないと言えそうです。
建設的なジャーナリズム
ジャーナリズムを改革するほかのひとつの策として、ホルクス氏は 「建設的ジャーナリズム」 という考え方にも注目します。この考え方はもともと、デンマークの公共放送局報道局局長ウーリック・ハーゲルップ氏Ulrik Haagerup が実際の番組構成にあたって推進してきたものです。彼の2012年に出された著作『建設的ニュース Constructive news』が昨年ドイツ語に翻訳されたこともあって、ドイツ語圏でも徐々に知られるようになりました。
ハーゲルップ氏は、公共放送において単なる出来事や、社会のヒステリー化を助長するトークショーとは違う、別の報道の形があるべきではないかと考えました。そしてたどりついたのが、現状を報道するだけではなく、一歩前へ進み、解決の可能性を意識し、実際に模索しながら「建設的に」報道するというものです。しかし、単に形式的あるいは表層的に取り繕ったり、ポジティブなことを無批判に報道するということではありません。例えば公共放送の討論番組においては、単に参加者がそれぞれ意見を主張するのではなく、課題や問題を前に共同して解決方法をみつけるように義務づけました。ハーゲルップ氏によると、デンマークではこのような報道姿勢の変化の結果、ニュース番組が15年ぶりに最高の視聴率を記録するなど、視聴者からの肯定的なフィードバックを享受し、経済的にも成功したと言います(ヨーロッパの公共放送は広告を放送し、広告収入を得ています)。ちなみに、このようなハーゲルップの提案は、概ねジャーナリストからも好意的に受け取られているといるとのことです。唯一反対されたのが、五〇代以上の自分のやり方を変えることに強い抵抗を感じる世代だったと言います。
ホルクス氏によるとドイツでも「建設的ジャーナリズム」への関心は高まってきており、「建設的ジャーナリズム」をかかげたウェッブサイトが、クラウドファンディングですでに成功をおさめているといいます。また、最新の短期的なニュースを追うのではなく、長期的に影響する話題やテーマを扱うスロー・ジャーナリズムという従来の報道と異なるメディアも形成されてきており、経済紙でも良質のスロー・ジャーナリズムを売りにした雑誌がでてきていることにも言及します。
このように今後もこれまでと変わらず、よいジャーナリストが良質の記事をかくことはできるはずだと確信しているホルクス氏ですが、そのためにはまずメディア関係者は、メディアを取り巻く環境や可能性にふりまわされず、改めて自問自答しなくてはいけないといいます。コンテンツにほとんど差異もなく、収益も低い競争市場で互いに足を引っ張り合う中に留まりたいのか。それともほかのメディアと違うものを作りたいのかと。そして、独自のコンテンツを世に送り出したいのなら、ジャーナリズムとしてなにに主眼を置くべきなのか。デジタル時代の未曾有のニュース・メディア競争の勝負にのぞんでいく自覚と覚悟が、メディア関係者やジャーナリスト一人一人に改めて問われていると言い換えられるかもしれません。
ジャーナリズムと人工知能
ところで、今回注目したホルクス氏の発言では一切言及がありませんでしたが、人工知能が記事を書くことが最新の話題としてここ半年ほどメディアで多く報道され、近い将来ジャーナリストの仕事がなくなるのではという危惧も聞かれますが、これについては、ホルクス氏はどのようなコメントをするでしょうか。前回の記事で紹介したホルクス氏が理想とするデジタル・ツールとアナログ形態をバランスよく組み合わせた「レアル=デジタル」志向に沿って考えれば、氏にあえて聞くまでもないのかもしれません。 人工知能が書く記事の量は相対的に増えるようになっても、一方でデジタル・ツールをうまく使い、ジャーナリズムに必要なデータ収集や調査を効率良く行うことで、ジャーナリストにとってより洗練した記事を世に次々と輩出できるような環境も整うはずだ。そうやって人に書かれた記事を、人工知能の書く記事が、質的に超越することにはならない。しかし実際に人がそれを書けるか否かは、結局ジャーナリスト本人の意思次第であり、ジャーナリズムを生かすのも殺すものも、 人工知能などの外部要因ではなく、報道側の姿勢と力量にかかっている、 そんな主張が聞こえてきそうです。
実際に、アメリカの ジャーナリズム養成カリキュラムにおいて、プログラミングなど情報処理能力を重視するようになるなど、デジタル時代にふさわしい新しい力量をジャーナリストに強化すべく、アメリカの大学ではすでに動きだしています。 未来のジャーナリズムが、ジャーナリストが独占する仕事という形態では存続せず、「ジャーナリスト、データ分析官、プラグラマーがいっしょになってジャーナリズムを作り上げていく」(Roche, 2016) という時代が、すぐそこまできているということかもしれません。
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参考サイト、文献
—-マティアス・ホルクスのジャーナリズムの問題と改革への提案について
Matthias Horx über Netzkommunikation”Die Erregungskultur, die wir erzeugt haben, ist toxisch” (Moderation: Andre Zantow), Deutschlandradio Kultur, 2.4.2016.
1000 Freunde bei Facebook sind die neue Einsamkeit, Zukunftsforscher Matthias Horx prophezeit Medien, die Sinn stiften, eine grosse Zukunft- und sieht Anzeichen für eine neue Offline-Kultur als Gegengewicht zur allgemeinen „Verschitstormung”, Handelsblatt, Wochenende 6./7./8.5. 2016, Nr.87.
—-NZZソシアルメディア編集員のコメントと、シェア数が最も多かった記事
«2015 - fünf Versuche» (2/5): Das Phänomen der Abstinenz, Kontext, SRF, 29.12.2015. (本文で紹介した内容は、特に番組の38分ごろ)
Jens Schmitt, Lichtblick im Osten, NZZ, 26.11.2015.
—-ハーゲルップの建設的ジャーナリズムについて
«Das Unerwartete macht uns schlauer», Mit Ulrik Haagerup sprach Jean-Martin Büttner, Tagesanzeiger, 5.9.2015.
Mathhias, Sander, Der Journalist, dein Freund und Helfer, NZZ, 7.7.2015.
Konstruktiver Journalismus, 100 Sekunden Wissen, SRF, 19.4.2016.
—-スロー・ジャーナリズムの例
brand eins
Perspective daily
—-人工知能とジャーナリズムについて
Sophie Roche, Wenn Algorithmen Texte schreiben - Roboter im Journalismus, Arte, 27.4.2016.
Sophie Roche, Das Internet gefärdet den Journalismus nicht, Arte, 27.4.2016.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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