急成長中のスイスの補習授業ビジネス 〜塾業界とネットを介した学習支援

急成長中のスイスの補習授業ビジネス 〜塾業界とネットを介した学習支援

2017-02-03

スイスでは小学5年生から中学3年生までの生徒の6人に一人が、学習塾や家庭教師など、学校以外での補習授業を受けています。この割合は、ヨーロッパのほかの諸国からみると少なめですが、年々増加傾向にあります。一方、顔を見合わせる授業を売りにするこれら塾業界と並行して、ネット上でも学習支援のコンテンツが近年急速に普及してきました。今回は、これらスイスの塾業界(学校外の有料の補習授業を総称してこの記事では「塾業界」と表記することとします)やネット上の補習授業の最新事情についてお伝えしたいと思います。
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塾業界への批判
年々塾業界の門をたたく生徒が増えているとはいえ、スイスではいまだ塾業界に対し批判的な姿勢が目立ちます。 補習自体の在り方と、社会全体への影響の両方に向けられた批判の主旨は以下のようなものです。
■ 教育ドーピング
2013年、バーゼル大学教育学のグルンダー教授Hans-Ulrich Grunderによって、ドイツ語圏の小学校5年から中学3年までの1万人の生徒を対象にした大規模な補習授業に対する調査結果が公表されました。そこでは、塾業界で補習を受けても生徒の成績はわずかしかよくなっておらず、ほとんどその効果はないに等しいという結論が導きだされていました。
この調査報告に前後して、調査を行ったグルンダー教授やほかの教育専門家の間では、むしろ補習を受けることによる弊害が多いという指摘が目立つようになりました。確かに病気などの理由で、一時的に学校の授業に遅れがみられた場合などに、集中的に補習を受けることには意味がある。しかし長期の間定期的に補習を受けるとなると、補習授業に依存する体質ができあがり、自分に合った学習方法を自分で発展させたり、自律的な学習をすることがむしろ困難になる、といいます。このため、補習を受けている間は一時的に多少成績が上がってなんとか進学校に入学しても、そこでの授業についていくために補習がさらに必要になり、その延長で大学に入学をしても、大学の授業についていく実力がなく、そこまでいってから脱落・挫折するようでは、なにより本人にとって大きなリスクや損失になると言います。そして、補習授業で学業成績を多少あげることに労力を使うのではなく、むしろ自分の実力にあった分野やキャリア(中学卒業後に職業訓練過程に進むなど)で専門的な技能を高めることに終始するほうが、本人にとって確かなキャリアとなり、良い選択だ、という見解につながります(スイスの若者の6割以上が進む職業訓練過程についての詳細は、「スイスの職業訓練制度 〜職業教育への世界的な関心と期待」をご覧ください)。
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職業訓練過程を目指す若者を対象にした職業紹介メッセ

補習授業についてメディアでとりあげられる際、塾業界全般について「教育ドーピング」や「脳ドーピング」といった表現が(国営放送やまっとうな日刊紙でも)よくみかけられます。このようなかなり荒っぽい言い方がされても、社会で問題沙汰にもならないという事実が物語っているように、塾業界が提供するものが、その場しのぎで、長期的な解決になるものではないという理解が、(塾業界の人気の上昇とはうらはらに)今も、社会の多くの人に共有されているようです。
■ 社会格差を広げる
2013年の調査で、中学2年と3年生だけをみると34%、つまり3人に一人がなんらかの補習を受けており、これは、その3年前に比べて10%も増えています。補習だけではうまくいかずに、最後の手段として私立の学校に通う生徒も増えています。現在スイスでは、9万人の生徒が私立の学校に通っているといいます。(ただし調査の結果では私立学校にいくからといって一概に成績アップにつながっているわけではないといいます。)
スイスの学習塾は、 一時間平均48スイスフラン(日本円で約5500円)とかなり高価です。家庭教師の相場はそれよりは安いとのことですが、いずれにせよ、長期で補習を受けさせるのは保護者にとって大きな経済的な負担です。まして、授業費に最低でも一人1500スイスフラン(約17万円 )はかかる(中学校の場合)私立の学校に通わせるのは至難の技です。中学生が費やす私立学校と塾業界への費用を合わせると、毎年1億から3億スイスフランの市場になります。
これはつまり、補習を受けられるか、受けられないかは、保護者の経済的な余裕の有無に大きく左右されることを意味します。経済的に裕福な家庭の子どもだけが、プライベートに補習を受けて高学歴化していけば、社会に格差が広がる危険があります。このような望ましくない社会の方向へ拍車をかるとみなされる塾業界の存在自体が、批判の対象となっています。
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学校が面倒をみる補講
塾産業が攻勢の近年の状況に対して、州や自治体は、ただ手をこまねいているわけではありません。すべての生徒が公平なチャンスを得られるように、例えば、チューリッヒ州の公立小中学校では10年ほど前から無料の二種類の補習授業が行われるようになりました。一つは放課後に週2回、学校で出された宿題をみてもらうための補習授業です。もう一つは進学校への進学を目指す生徒のための準備授業です。チューリッヒ市では、2010年より ドイツ語を母語としない子どもたちが全体の半分以上となっており、ドイツ語の宿題などで子どもを十分サポートできず、かといって有料の補習授業に通わせる余裕もない外国人家庭にとっては、このような補習授業は大きな助けになると考えられます。
セルフ・ラーニングのコーチング
一方、従来の塾産業路線とは異なる、自分で勉強できるようになるための技術を学ぶというセルフ・ラーニングのコーチングにも最近、関心が集まっています。一言で言えば、一人一人に合った自律的で効率的な学習の仕方を習得するための塾です。中学の教師をしながらセルフ・ラーニングの塾も運営している知人によると、受講者は小学生から大人まで幅広いと言います。成績をあげることでなく、自己の能力の向上を目標とするこのような補習授業形態は、 値段は補習授業よりさらに高めですが、塾産業への風当たりが強いスイスでも、今後、受け入れられていくようになるのかもしれません。
ネット上の補習授業
補習授業の世界には、さらに全く違う方向からの新風も吹いています。インターネットを経由した補習授業です。10代の若者が日々何時間も消費しているコンテンツの 一つと言えば、ユーチューブなどのネット上のビデオ・コンテンツです。それらのほとんどは娯楽的内容ですが、近年ドイツ語圏では学習の助けとなる高質のコンテンツも多く生まれてきました。(具体的なビデオの内容については、下の参考文献に記載された公式サイトからご覧ください)
なかでもドイツ、スイス、オーストリアなどのドイツ語圏で人気を博し、中学・高校生の間で高い知名度を誇っているのは、「シンプル・クラブThe Simple Club 」というコンテンツです。小学5年生から大学生までの数学、物理、化学、生物学、歴史、地理、経済、情報処理の科目の1300以上のショート・ビデオからなっており、学年、科目、知りたいテーマなどから検索・選択して視聴できます。これらのビデオはすべて無料です。ビデオ視聴だけでなくインターアクティブな補習サービスを受けたい場合は、月9,99€の有料のコンテンツが別にあります 。
2013年に数学授業からはじめったコンテンツの配信は、またたくまに人気を集め、2015年4月までにクリック数が6百万となり、毎月50万人の生徒や大学生が視聴しているといいます。なかでも人気なのは数学で、34万人が登録しています。内容は世界的にも高く評価され、2015年には国際エミー賞デジタル部門(子どもと青年)の候補にもなりました。
物理でもとりわけ難解な量子物理学の内容を、手書きのイラスト入りでユーモラスに、またわかりやすくしかもコンパクトに教える「100秒物理(100 Sekunden Physik )」も、ドイツ語圏の無料学習ビデオとして最も人気の高いビデオの一つです 。2012年からユーチューブでビデオ配信がはじまり、これまでのトータル・クリック回数は約1300万回(2017年1月30日現在)にのぼります。シンプル・クラブほど頻繁に新しいビデオは出されていませんが、根強いファンが多く、30万3千人がチャンネル登録しています。2014年には、ビデオの一つ「透明人間になる方法」が、Fast Forward Science のCommunity Award (2013年からドイツでできた、ウェッブビデオを使って科学を一般に伝えるのために貢献した人に送られる賞)という賞を受賞しています。
作成者は高校生
これら二つの人気のデジタル・コンテンツには注目すべき共通点があります。それは「シンプル・クラブ」 が二人の高校2年生の男子、「100秒物理」が一人の16歳の男子と、ドイツのティーン・エイジャーによってつくられたものだったということです。今日、国際的な名門の大学からTED Talk まであらゆるジャンルの人が、こぞってユーチューブ上でビデオを公開していますが、若い世代が重視すること(ビデオの長さや表現方法やユーモアなど)を知り尽くしている同世代の強みが、最大限生かされて成功につながったのでしょう。
シンプル・クラブの二人は、当初、人助けにもなるし、大学進学に必要な資金稼ぎにもなればと思って始めたそうで、こんな大きな反響があるとは全く思っていなかったそうです。素人の若年層が作ったものがこれほどの人気を得、またその内容が国際的あるいは学術的にも賞の受賞やノミネートという形で評価されたことは、プロ顔負けの、素人集団の計り知れない潜在的な力を見せつけてられているように感じられます。
同時に、手放しで喜べない懸案もあります。子どもでも自作コンテンツを広く世に広めることができたことは確かに一方では、デジタルメディアの風通しのよさというか、草の根民主主義的な性格の証左と評価できます。他方、ツイッターやフェイスブック上で意見操作する大量のソーシャル・ボッツが昨年世界的に注目されましたが、誰もが参加できるというネット上の自由さは、ソーシャル・ボッツに限らずさまざまな恣意的操作が挿入され 、それが蔓延する危険性もあることも意味します。(ソーシャル・ボッツの危険性については、「デジタルメディアとキュレーション 〜情報の大海原を進む際のコンパス」をご参照ください。)特に、数学や物理ではあまり問題なさそうですが、子どもたちが視聴する歴史や政治のテーマなどについては、コンテンツがどのような内容であるかに、教師や親などの周囲の大人も関心をもって、たびたび一緒に視聴したり、話し合うことが大切でしょう。
おわりに
学習のトータルの性能や効率をみると、顔をみながら授業を進める学校や塾という形が、依然として有望なのでしょうか。それとも、デジタル世代の若者たちを受け皿として、 デジタルな形の学習支援のコンテンツの比重は、今後高くなっていくのでしょうか。デジタル・コンテンツの効用については 、教育学者や脳科学者の間で意見が割れていますが(詳細は、「デジタル・ツールと広がる読書体験」をご覧ください)少なくとも、ネットを介する学習支援は、子ども部屋の誰より頼もしい助っ人として、今後も進化・多様化していくことは確かでしょう。そしてそのことは、特に塾には経済的に行けないけれどインターネットにはつながる環境をもつ子どもたちにとっては、自宅での学習の仕方の選択肢の幅が広がることを意味し、歓迎すべきことに違いありません。
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<参考文献>
—-スイスの塾業界について
Schweizerischer Nationalfonds zur Förderung der wissenschaftlichen Forschung(SNF), Nachhilfe nützt wenig,12.09.2013.
Andrea Jaggi, Nachhilfeunterricht nützt wenig, SRF, 12.9.2013.
Sibylle Stillhart, «Vielleicht überschätzen Eltern den Effekt», Nachhilfeunterricht, Interview mit Stefan Wolter, NZZ, 22.3.2015.
Sibylle Stillhart, Gehirndoping für die Schulkarriere, Hohe Ambitionen, NZZ, 22.3.2015.
Jeder dritte 8. und 9.-Klässler nimmt bezahlte Nachhilfe-Stunden, SRF, 8.11.2014.
Der Nachhilfeboom: Gut ist nicht gut genug!, Kontext, SRF, 6.6.2016.
—-「シンプルクラブ」と「100秒物理」について
「シンプルクラブ The Simple Club」
Alex, Wie ist TheSimpleClub entstanden?, The Simple Club, 27.02.2016.
2015 International Digital Emmy® Awards Nominees Announced(2017年1月31日閲覧)
「100秒物理 100 Sekunden Physik」
100 Sekunden Physik Youtube statistics
Learning by watching: Herausragende Wissenschaftsvideos gekürt, Wissenschaft im Dialog, 17. November 2014.
Louise Westermann, 100SekundenPhysik gewinnt Fast Forward Science Award, broadmark, 20.11.2014.
Fast forward science
—-ネット上のコンテンツを使った学習についての他の参考サイト
Anna Zimmermann, Lernen mit Youtube, Wirtschaft, Tagesanzeiger, 07.04.2014
Christoph Steiner, YoutuberInnen erklären Mathematik, digithek blog, Publiziert am 14. April 2016. (2017年1月25日閲覧)
Ruben Wolff, Schüler setzen beim Lernen auch auf Youtube, Geislinger Zeitung, 14.11.2016
Dominik Landwehr, Wo es die Jugend hinzieht, TV-Konkurrent Youtube, Feuilleton, NZZ, 6.8.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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