「今日はちょっと、いろいろあって」 〜言葉の通訳と異文化間のコーディネイト

「今日はちょっと、いろいろあって」 〜言葉の通訳と異文化間のコーディネイト

2018-11-26

わたしはプロの通訳ではありませんが、これまで、たびたび日独の通訳の仕事に携わることがあり、通訳という仕事をテーマに、先日スイスの新聞社から取材を受ける機会がありました。

質問を機に、自分のこれまでの通訳の仕事について改めて考えてみて、気づいたことがありました。それは、一つの言葉から違う言葉への変換作業だけでなく、その背後で、日本とドイツ語圏という二つの大きく異なる文化圏の人々のコミュニケーションの最適化をはかるため、なにができるか、必要かということに重きを置いてきた、ということです。そのことが、新聞の記事においても中心的に扱われていたため、もしかしてこのことは、自分ではこれまであまり意識せずに当然のことのように行なってきましたが、それほど自明なことではなく、新鮮に思う人がいたり、あるいは全く違う意見を持つ人もいるのかもしれない、と推察しました。

このため、今回は、自分が通訳する際の、表面的な通訳作業と同時に重視しているそのような部分について、ご紹介してみたいと思います。ただし、これはまったく私の主観的な判断と意見にすぎませんので、異文化間のコミュニケーションに関わっておられる方や、関心をもたれている方に、参考にしていただけるならもちろんうれしいですが、私の意見と違う方がいれば、どんな風にお考えなのかも、聞かせていただければうれしく思います(ちなみに、同じ言語の橋渡しであっても、全く違った条件と環境で橋渡しする作業である翻訳については、今回、対象外とします)。

「あんた、頭がおかしいのか!」

いきなり人を罵倒する乱暴な言葉で恐縮ですが、これは以前、日本である銀行に、一人の外国人に通訳として同行した際、その人が不満を爆発させて発した言葉です。知り合いでも、恋敵でもなんでもない、単なる窓口業務担当の人に発したこんな言葉を、わたしはそのまま通訳しませんでした。

その理由を、今改めて言葉で説明するとすれば、面と向かった人たちのコミュニケーションの間に立ち会う通訳という仕事においては、言葉を右から左、左から右に訳すことだけではなく、コミュニケーションを円滑にすること、そのためのケアサポートも重要な要素だと思うためです。

もちろん、法には例外がつきものであるように、状況によっては、この鉄則がむしろ不適切なこともあります。お互いがよくお互いを知っていて信頼関係がある場合や、ビジネスの交渉などで、言葉の正確な内容をできるだけ伝えることが、ほかの要素よりも最優先にされる場合です。そのような場合に、このような言葉が発せられたとしたら、それは、発話者が対話をどうすすめたいかの意図が込められた言葉として、強い語調やその直接的な意味を通訳することは、割愛できません。

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しかしそのような例外的な状況をのぞく、一般的な対話のなかでは、このような罵倒する言葉を一字一句訳すのでは、不十分であり、不適切であると思います。日本でこんな風な言葉を銀行の窓口担当者が投げかけられることは非常に異例であり、窓口担当の人に、ただ通訳するだけでは、状況や内容を理解してもらうのが非常に困難と考えるためです。

代わりにすべきことは二つあると思います。まず、発話者の言葉を無視するのではなく、違う言い回しを用いて(つまり、担当者の一般的な社会規範で許容されやすいような形で)、その発話者の主な意図を、相手に伝えること。またそれと同時に、発話者がなぜこのような態度や意見にいたったのか、その背景や状況を説明すること。実際に、それを通訳・説明された人が納得するかはわかりませんが、怒れる人の意図を察しやすく、また、状況を理解しやすくなるように、補足説明するところまでは、わたしにとって通訳の務めの範疇だと思われます。

言葉でない部分もカバーする通訳

このように考えると、わたしの想定している通訳、したい通訳の仕方というのは、プロフェッショナルな通訳業とは、かなりかけ離れているのかもしれません。正確に一字一句を吟味しながら真摯に伝え、その中で双方が理解し合えるのを目指すのがプロの通訳なら、わたしのするのは、個人的な裁量に基づきお節介なお膳立てにまで目配りし、時には言葉の正確さよりもほかのことを優先してしまう、手ぬるい通訳作業です。

しかし、それでもいつも、手ぬるい通訳作業のほうに心が傾いてしまうのは、ドイツ語圏と日本語圏の文化間のコミュニケーションの仕方やそのバックボーンとなる礼節や行動規範、優先されることが大きく違うためです。そして、そのような(個人的な問題でなく文化的な)違いがあるがために、相手側の目につき、気に障って、誤解や不快な印象を与えるのは、あまりに残念だと思うからです(冒頭の例は、発話者の文化圏的な背景よりも、本人の性格的な要素がむしろ強い例かもしれませんが)。

せっかく通訳を介して、対話する機会があるのなら、そのような文化的な誤差による不和を最小限にし、最大限、対話の内容のほうに、両者が集中して、内容を充実させてほしい。そんな気持ちが強くあり捨てられないため、言葉と考えを汲み取る意訳専門の手ぬるい通訳作業になっているのだと思います。

キャッチボールの球を空中で調整する

大きな違いとして、例えば、話す態度や表現の仕方などの(対話の内容とは直接関係のない)周辺の部分があります。ヨーロッパでは、ざっくばらんとしてオープンな語り口が、相手への信頼や好感度の高い人格的な部分を示しており、誠意ある態度として、ヨーロッパでは評価される傾向があります。これに対して日本では、そのような面が評価されることがある一方、全く対照的的な面、礼儀正しく、「なれなれしい」と感じさせない丁寧な態度が、(特に年齢が高い世代においては)、相手を敬う誠意的な態度として評価される傾向があると思います。

このため、率直な意見やダイレクトな質問がポーンとヨーロッパ人側から日本人側にされることや、逆に丁寧すぎてヨーロッパ人にはまどろっこしく感じられる説明が、日本人側からヨーロッパ人側に伝えられたりすることがあった際に、そのままで伝えるのでは、不十分でぎくしゃくしてしまいそうなことがあります。

このような場合、発話者のメッセージが、双方の文化圏で、しこりなく、できるだけしっくり受容されるように、それぞれの文化圏の礼儀作法に合うように多少変更したりします。やわらかな表現にしたり、丁寧さを少し加えたり、丁寧すぎずにざっくばらんとした感じになるよう丁寧さを一部削除したりする、といった具合です。

通訳を間に双方がキャッチボールをしている状況を想像してもらうとわかりやすいかもしれません。双方とも、ボールの受け投げ方にも、また受け取り方にも特徴があり、そのままではキャッチボールはうまくいかないというケースです。そこで片方からもう片方に飛んでいくボールに、それぞれが受け取りやすいように、空中で適切な速度や角度をつけていく。そんな感じに、少なくとも私自身はイメージしています。

「いっしょにご飯を食べに行きませんか?」「今日はこれから、いろいろあって」

別の例をご紹介しましょう。ドイツ人の独日通訳者に聞いた、上のような短いささいな会話でも、文化的な差異が、溝や影をつくることになりかねない、という事例です。

ある日、仕事のあとに「いっしょにご飯を食べに行きませんか?」とそのドイツ人が日本人を誘うと、「今日はこれから、いろいろあって」と言う返事が返ってきたそうです。

これは、日本人にあっては珍しくない返答パターンの一つで、特に問題ありませんが、普通のドイツ人に対しては、非常に不可解に映るといいます。まず、いろいろあって、というだけでは、はっきりした否定形が入っていないので、断っているのだとある程度推測はできるものの、断られているのが、わかりにくいこと。また、ドイツ人は誘われて断るときに、はっきりした理由を言う・言われるというのが慣例であり、「いろいろあって」というような漠然とした断り方自体に馴染みがなく、困惑してしまうといいます(このドイツ人は日本の文化風習に精通しているので問題ありませんでしたが)。

困惑すると、人間は良い方よりも、悪いほう、不安な方に気持ちが動き、よからぬ憶測に陥りがちです。日本人に距離を置かれているような、他人行儀にされているような、なんの配慮もなく、そっけなく断られているような、そんな憶測にまでなってしまうと、日本人はそれを全く意図していないにもかかわらず、誘った相手を、誘いを断ったこと以上にがっかりさせてしまうことになります。

要するに、ドイツ人にとっては、はっきり断られるほうが、答えがわかりにくいよりも、はっきりして気持ちがいいし、断られる時に、なにか理由が提示されていれば一番しっくりくる。一方、日本人としては、相手を困惑させたり、がっかりさせる、そんなことはなるべく避けたいと思っている、そんな状況であるとわかれば、通訳として、つい、ゆるくてお節介な異文化間の配慮を盛り込んだ通訳をしたくなる、ということになります。

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行動様式についても「通訳」

深々とお辞儀をして、相手への礼儀を示す日本人を通訳する時はどうでしょう。通訳を「言葉」の行き来とだけとるのであれば、お辞儀に関して、通訳の出る幕はありません。

しかし、この時、その日本人は言葉でなく態度で礼儀を示していることがよくわかれば、お節介通訳としては、一言二言それを「通訳」したくなります。それが、日本では相手への高い敬意を示す高い礼儀作法の一つであると、ヨーロッパ人の目に映る日本人の姿に、映像につけるナレーションのように、念のため、言葉をつけたしておきます。

それによって、目を合わせずにお辞儀で挨拶することが、相手に対して愛想がないからでも、目をそらしたいからでもないというと確認できて、先方が余計な困惑をせず、安心してもらえればいいと思います。

コミュニケーション・コーディネイトを目指した時の落とし穴

つまり、私にとって、通訳とは、言葉の通訳と同時に、双方に信頼できる快適な環境を最大限整える、いわばコミュニケーション・コーディネイトの比重が大きな仕事です。

そのためには、どちらか、あるいはどちらにも個人的に同調する必要はありませんが、どちらの文化やしきたりも、ある程度、理解する必要があります。しかしここで同時に、自分が陥りやすい落とし穴があり、肝に命じておく必要がある、と思っていることが二つあります。

それは、「文化」の違いを強調したり、ステレオタイプ化しすぎて理解することの危険性と、そのような文化的な違いが静態的でいつまでも変わらないものであるように捉える危険性です。二つの文化に接する時間が長くなっていくと、自分はわかっている、という思いが強くなります。その思いが、次第に先入観になり、多様な側面からなる文化や人に対する理解が、自分でも意識しないうちに、大雑把で単純なものになってしまう危険があります。また、それぞれの文化圏の人々の考えや行動様式は、すぐに目に映らなくても、常に変動しています。しかし、単純な見方をする傾向が自分のなかに強まることで、変化する部分を過小評価したり、見落とす恐れもあります。

それでなくても、こどもの連想ゲーム(いくつかのチームに別れ、最初の人が聞いた話を、順番に次の人に伝えていって、どのチームが一番正確に最初に伝えた内容を最後まで伝えられたかを競うゲーム)に象徴されるように、対話する人の間に入る仲介者が多くなれば多くなるほど、意訳や誤解の余地が増え、うまく伝わらない可能性が大きくなります。ですから、そんな先入観や大雑把な文化理解に凝り固まった通訳者が、自分流の解釈で筋を通そうとすれば、通じる話も通じなくなり、かえって誤解や問題を引き起こすことにもなりかねません。

常に時代は変化し、社会は胎動を繰り返し、世代は移り変わっていくことを肝に命じ、違いや変化に目をむけ、関心を持ち続けることが大切だと思います。

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おわりに

ところで、通訳業において、まもなく、これまで想像もしなかったような、とんでもないライバルが登場する可能性があります。膨大なデータを背後に急成長している自動通訳機能です。自動通訳は、多くの人にとって、通訳を介さずに直接多言語の人と対話できるという大きな恩恵をもたらしますが、その一方、自動通訳の質が人の通訳術にどんどん近づいてくれば、人の「通訳」はいらなくなるのでしょうか。

自動翻訳に代替され、ほぼ消滅するという可能性もありますが、自動翻訳との差異化に挑み、新たな形を模索しながら、生き残っていく道もあるかもしれません。例えば、こんな通訳者がいたらどうでしょう。ユーモアを盛り込んだ楽しい語り口でただの対話でもたのしく弾むようになる芸人風の通訳、マインドフルネス効果をいかして対立が緩和されたり商談が成立しやすくなるような通訳、あるいは、双方の異文化の違いだけでなく、世代の差にも配慮をした「誰にでもわかりやすい」が売りの通訳。

これらは、かなり飛躍した想定のようにも聞こえますが、これからの時代、通常の通訳業が危機に陥ったとしても、これまでなかったような付加価値がついた、たぐいまれな通訳者たちが新たに誕生することになるのかもしれません。

わたしも、自動通訳に完全駆逐されずに、これからもたびたび通訳業にたずさわっていくことができるように、知恵を絞って切磋琢磨していけたらと思います。

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穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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