人生(と)ゲーム(2) 〜ゲームという現実社会の写し鏡
2019-01-10
前回、ゲームデザイナーという職業についてスポットをあてて、人とゲームの関係を考えてみました(「人生(と)ゲーム(1) 〜ゲームデザインに人生をかける人たち」)。今回は、ゲームにみえる人々の嗜好性や、現実社会とゲームとの相関性といったことについて注目し、現実世界におけるゲームの未来の可能性について考えてみたいと思います。
ゲームは、改めていうまでもなく、必要にせまられてやるものではなく、楽しむという目的でやるものです。しかし、一言で「楽しむ」といっても、人によってその楽しみ方は異なります。スイスのゲーム開発会社Gebrüder Freiのゲームデザイナー、フライ Andreas Frei氏によると、大きく分けて、ゲーム好きの人の楽しみかたは、以下のような四つに分類されるといいます(以下の説明は、基本的な分類はフライ氏の指摘に基づいていますが、以下の説明にはわたしの解釈や補足が多分に含まれています)。
1。コレクター・タイプ
ゲーム好きの人の中には、まず、集めて増やすことに、とりわけ強い愛着と喜びを感じるというタイプがいます。このようなタイプの人たちは、ゲーム上の「お金」でも「ポイント」でもなんでも、とにかく集めることが、ゲームの進行上で重要となるようなゲームが好きなため、極端に言えば、必要な量のお金やポイントを集め終えたあとも、さらには、ゲームが終わってしまっても、関係なく、集めるという行為をずっと続けたくなるほどです。
デジタルゲームは(ゲームの環境や条件上)、このような人を対象にしたゲームがかなり多いと言われます。
2。好奇心旺盛タイプ
おもしろいこと、新しいことを体験したい、知りたい、という好奇心を満たすためにゲームに魅せられるタイプの人もいます。このタイプの人たちにとっては、ゲームでの最大の関心ごとは、どのような新しいことが体験できるのかであり、ゲームの斬新性を知り、それを自ら堪能するだけで、ある程度、満足できます。そこでの勝ち負けや、ポイントを多く集めることは、それほど重要ではありません。
一方、何度も繰り返し行って、スキルを磨いたり、ポイントの最高記録をたたき出すことにやりがいを見出すゲームファンとは違い、このタイプの人たちは、繰り返し同じゲームをすることに意義はあまり見い出せません。この人たちをゲームに長期的に惹きつけるためには、常に新しいゲームや、バージョンアップしたゲームが必要になります。
3。社交優位タイプ
世の中のゲーム好きには、ゲームそのものに強い興味がないのにゲーム好き、という「異端の」ゲーム好きもいます。一見矛盾に聞こえますが、自分の目的のためにゲームを手段として使っているという人たちで、その目的は、広義の社交です。ここでいう社交とは、みんなで遊ぶことやそこでの交流、やりとり、という意味です。
いつもはバラバラの家族が、週末に同じテーブルについていっしょにゲームをする。そんなゲームの遊び方に、とりわけ高い価値を置く、あるいはそれを楽しいと思う人は、このようなタイプといえます。
世界的に人気のエスケープゲーム(1箇所の一定時間閉じ込められた数名の仲間が協力してそこから脱出をこころみるゲーム)は、2のタイプ(新しいことを体験するのが好きなタイプ)の人にとっても魅力的ですが、社交優位のタイプの人たちにとっても魅力的なゲームといえるでしょう。みんなでやりとりしながら協力してなにかを成し遂げるということが、ゲームそのものの目的であるためです。
4。勝利執着タイプ
最後に、ゲーム上で、覇気をむき出しにバトルし、勝利することに、なにより楽しさを感じる人がいます。これは囲碁やチェス、オセロなどの定番戦略ゲームが提供する楽しみ方であり、クラシックなゲームの楽しみ方の一つといえるかもしれません。
日常生活ではなかなか起きない明らかや勝敗、そしてそこで(もちろん敗北するのでなく)勝利し、勝利感にひたることが、このタイプの人にとって、ゲームの最大の最大の目標となります。
ゲームにも人生にもあてはまる「蓼食う虫も好き好き」
ゲームの嗜好が人によって違うということは、おもしろいと思うことが根本的に違うということであり、同じゲームをみても、評価がかなり変わるということを意味します。換言すれば、どんなにある人がおもしろいと思うものを、他人にすすめても、ストライクゾーンが違う人であれば、喜んでもらえないことになります。例えば、集めるのがこの上なく好きなタイプに、勝負ゲームを勧めてもあまりピンとこない、のも当たり前ということになります。それは、ゲーム自体が良いか悪いか、という話ではありません。
ところで、このようなゲーム嗜好パターンを眺めると、現実の世界とどこか類似していないでしょうか。人々が、それぞれの人生で至福感を感じる時やもの、あるいは重視されるものは、同じでなく、人によって違っているのではないでしょうか。
例えば、とにかくお金を集めることを重視し、預金通帳の数字が増やるのをみて至福感を感じる人がいます。もともと老後の安心や子供に財産を残したい、といった動機があったとはいえ、結果として、お金というポイント集めそれ自体が、目的のようになり、それを達成していく過程にやりがいや楽しみを感じる人。そのような「増やす」ことへの情熱に比べると、それを「使う」こと、「使い方」には、関心や執着が薄い人。そのような人は、ゲームのポイント集めに通底しているところがあるように思われます。
あるいは、とにかく好奇心が強く、なにか新しいものを見たい知りたい、それが興じて、新しいことを学ぶことに、時間が許す限り、人生を費やす人がいます。直接キャリアに結びつかない資格試験を取得することに熱心な人たちは、このタイプかもしれません。学んだことが、一体自分にとってどんな風に活かせたり、メリットになるか、なんていう狭い合理的な考え方で、自分の好奇心を萎びさせたりせずに、息をするかのごとく、新しいことを知ることが、その人を生かすことであり、生かすためのエネルギーにもなっている、そんな人がいます。逆にいえば、この人たちにとって、新しいことを学べないことは、なによりも人生の悲劇です。
あるいは、自分の人生が、人との交流でうるおいを保つだけでなく、人との交流自体が、生きがいそのものになっているような人たち。逆に交流していなければ、生きているという心地を実感しにくく、つまらなかったり、虚しさを感じる人。自分になにか特別の目標があるというよりは、好きな仲間や周囲の人とわきあいあい、うまくやっていくことが、なによりも重要な人。家族や親しい人となるべくいっしょにいる時間を過ごしたいと思う、いわば伝統的なライフスタイル志向の人だけでなく、ネットで常に人とつながっていられることで安心する人たちにも、このタイプが多いのかもしれません。
はたまた、自分がほかの人より優位な立場にいでたつこと、優越感をもつことを夢見、それを目標に切磋琢磨し、達成した時に、強い至福感を感じる人。高価な奢侈品や車や家を購入して、それを周りの人に披露するととりわけ至福になる人はこのタイプかもしれません。
ゲームと同じで、もちろん、人生においても、なにを楽しみにしたり、目標にするかは(人に迷惑をかけない限り)、人によって自由です。どちらのほうがより優れている、あるいは達成感や至福感が強いなどとはいえません。ここで大切なのは、人それぞれ、人生に醍醐味を感じるストライクゾーンが違うという事実、そしてそれをそれぞれが意識して、無理に自分をほかの人の照準にあわせる必要はないということかもしれません。
ただし、この四つの分類に誰もがはっきり分類されるほど、単純な話でもないでしょう。自分のなかでも、時期や状況によって、強く共感できるものが変わったり、そこでもたらされる至福感の濃淡が異なることもあるでしょう。
ゲームにみえる現実と、現実を映し出すゲーム
広く世の中を見渡してみると、わたしたちの生きている社会や時代もまた、ある意味で、かなり「ゲーム」に近いのではないか、という気もしてきます。
世界的な環境問題への取り組みは、まさに、世界中全体で取り組む必要がある、一種の「ゲーム」といえなくもありません。勝者と敗者がでるゲームというより、協力型(メンバー全員がいっしょに目的達成を目指し、達成できるかいなかがゲームの勝敗となる)ゲームです。途中退場を許されず、共通のゴールにたどりつくために、最後までみんなが目標に向かってプレーすることが課せられているゲームです。
一方、見る方向を逆にしてみて、現実をゲームのように捉えるのではなく、現実を写し取って、ゲーム仕立てにすることも可能です。例えば、オランダでは、同じ環境をテーマにし、現実を写し取って協力型のゲームにしたものがあります。We Enegey Gameと呼ばれるゲームで、最も効率的に、大気中の炭素増加に加担しない、持続的なエネルギー供給できるのかを、様々な要素を考慮しながら、考え、解決することをゴールとするゲームです(これまではオランダ語版しかありませんでしたが、今年英語版も発表される予定だそうです)。
そこで考慮する必要があるのは、ソーラーパネル、バイオマスなどのエネルギー供給源やそれらのエコロジカル・フットプリント(環境に与える負荷)、また自治体、住民、企業などの活動主体者の意向、そして、それらへの影響です。
これらの要素の長短を把握して、これらのバランスをとりながら、どのようなコンビネーションにすべきかを考えていくのですが、あまりにも要因も要素も結果も複雑で、ある特定の解決方法が一つでないことが、現実に似ていて、またこのゲームの特徴でもあるといいます。
おわりに
環境問題の現実を映し出したゲーム。発想としては、確かにおもしろいですが、しかし、それがゲームたりえるには、重要なひとつの条件をクリアしなくてはいけません。それは、それが楽しめるものであるという条件です。そうでなければ、そのゲームは実際に利用されず、ゲームではなく、ただのいくつかのパーツがつまったボール紙の箱にすぎません。
楽しめる形で現実の問題を映し出したゲームであれば、ゲームとして楽しむ以上のアルファーの意味も生まれます。実際にはできない様々な失敗をしながら、環境への取り組みを多角的な側面から学ぶことができ、現実問題への理解を深め、現実問題への貢献にもなるでしょう。
一方、ゲームの過程を「楽しむ」ように、ゲームに見立てて、環境問題に直面する現実の過程を、なんらかの形で楽しむことは可能でしょうか。ゲーミフィケーションの発想をうまく取り入れれば不可能ではないかもしれません(ゲーミフィケーションという概念については「ゲーミフィケーションと社会」)
ゲーミフィケーションと呼ばれるゲームデザインを利用したビジネスはまだ歴史が浅く(観光などで用いられるケースは前回のレポートでご紹介しましたが)、ゲームデザインの潜在的な需要がある領域は、まだまだありそうです。しかしそれが、どのくらい広範な領域でどれほど浸透するかは、前回扱った、潜在的なクリエイティビティ、つまり、どれくらいクリエイティブな発想や内容が将来創出されるか、ということにかかってくるでしょう。
ゲームと現実が、刺激し合い、それぞれの世界への既成の見方を塗り替えたり、理解を広げたり、新たな楽しみ方もまたつくりだしていく時代を想像してみます。想像するだけでわくわくしてきますが、そんな新しい動きを、またみつけることになったら、その時はぜひ、再びレポートしてみたいと思います。
参考サイト
Gebrüder Frei: Die Spielmacher(四つのタイプの分析を指摘したゲームデザイナーの会社のホームページ)
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。