人は誰とでも対話できるのか 〜プロジェクト「ドイツは話す」からみえてくる希望と課題
2019-02-21
二年前にドイツで考案・実施され、その後一年でヨーロッパを中心に世界で14カ国が実施を計画されるまでに、国内外で関心が集まっている、対話プロジェクトについて、前回、概観しました(「ドイツ発対話プロジェクト 〜〜フィルターバブルを脱ぎ捨てた先のみえるもの」)。
今回は、中身にについて、より踏み込んで考えてみたいと思います。実際に参加した人たちの反応や見識者たちの意見を参考にしながら、対話プロジェクトという試みの、守備範囲や方法論的な限界や問題について検討し、対話プロジェクトという集団的な体験が、現実社会でどんな役割を果たしうるのかを展望できればと思います。
対面型の対話のボーナス効果
参加した人たちの様子や、個々の意見については、『ディ・ツァイト』のオンラインサイトで、詳しく紹介されていますが、プロジェクトに参加した人たちからの感想でもっとも多かったのは(一回目の対話のあと)、意見の違う人とは、全く話せないだろうと思っていたのに、実際に会ってみたら、共通することが結構あり、自分とそれほど違わなかったというポイジティブな驚きでした(Faigle, 2018)。二回目の対話プロジェクトの後では、90%以上の参加者が、話し合いが、なにかもたらしたか、という問いにイエスと答えています(Schöpfer,2018)。
大変興味深い話ですが、たった一度の1時間の対話でどのようにしてこれほど圧倒的に肯定的なフィードバックがもたらされたのか、その詳細については、これだけでは、よくわかりません。このため、ボン大学では早速、このプロジェクトが実際に人々にどのような効果を与えるのか(ステレオタイプの理解が減ったり、ほかの意見の人への理解が高まるのかなど)についての調査がはじまったといいます (Schöpfer,2018)。しかし、まだその調査報告がでていないので、今回は、一般的な理解の範囲内で、その理由を、まずは推測してみます。
まず、対面型の対話とそうでない対話の場合を、比較してみます。ソーシャルメディアなどバーチャルな空間で意見が交わす時は、相手がどんな人なのか具体的にみえてきませんし、自分が誰か相手にもよくわからないため、お互いに発言に抑制がききにくくなり、暴言や誤解をうむ発言がでやすくなります。
これに対し、人に面と向かってしかも対話することを主旨にして集まる今回のような状況では、どうでしょう。匿名性が高い時の対話のような相手への無責任な態度が抑制されるだけでなく、相手の話を聞こうと耳を傾ける行為が、相手にとっては、自分に対するレスペクト(尊重)や誠実さとして受け止められるのではないかと思われます。
このような対話の状況や条件の違い自体が、対話のもたらす効果に決定的な影響を及ぼしているのではと考えられます(ネット上のコミュニケーションが、一概に対面型の対話に劣ると言っているのではありません。ただし、ネット上のコミュニケーションを円滑に行うためには、対面型の対話とことなる、別の配慮や気遣いが必要だという見解は、今日一般的です。このことについては「こどもたちにとって理想的なデジタル機器やメディアの使い方とは(2) 〜これまでのガイドラインとその盲点をつく最新の研究」)。
つまり話し合った内容とは関係なく、直接対面して互いに話を聞き合うという行為自体が、今回の対話プロジェクトで、ポジティブな印象を与える重要な要因であったと考えられます。
それは、具体的に想定すると、より理解しやすくなるかと思います。目の前の相手が誠実そうな態度をみせると、その後どうなるでしょう。当然、お互いに、相手について好印象を抱きやすくなるでしょう。そして、好感のもてる相手と話し合えたことやその雰囲気は、自分の考えの殻に閉じこまらず、相手の話を聞いてみようという、気持ちにつながりやすくなるでしょう。そうなると、基本的に意見が対立しても、聞くに値する話や心にひっかかる話も耳に入りやすくなる。といった風に、コミュニケーションの好循環が作られやすい環境が整うのではないかと思われます。
平たく言えば、今回の対話プロジェクトは、一対一の対面型の対話にするという設定にした時点で、バーチャルな空間の対話にはない(好感のもてる対話環境という)ボーナスポイントがついているということであり、最初から成功が一定程度約束されていた、と言えるかもしれません(もちろんそうであったからといって、このようなプロジェクトを考案しそれを実施したことの功績は、少しも貶められるわけでは全くありませんが)。
そのほかにも、まだ暖かい9月の日曜の午後、週日の喧騒のない静かなカフェや公園などで(公共スペースを対話の場所に使うことが推奨されていました)、お茶やビールを飲みながら話し合う、といった現実世界であるから味わえるほかのアメニティー(快適さの)要素も、リラックスして話し合える好ましい雰囲気づくりに貢献したことでしょう。
対話プロジェクトはどれだけ広い社会層を動できたのか
とはいえ、このプロジェクトについてのクリティカルな指摘や疑問を投げかける声がないわけではありません。次にこれらの指摘をとりあげ、問題や限界があるのかを検証していきたいと思います。
まず、対話プロジェクトに、もともとほかの意見にオープンで進歩的な考えの人たちが、この対話プロジェクトに参加し議論しているのにすぎないのでは、という指摘があります(Schöpfer, 2018)。そうであるとすれば、いくら繰り返しこのようなプロジェクトをしても、本来の目的である、本当の対立する人たちとの間の対話を促進するものにならないのでは、という疑問です。
確かに、第一回目では、当初、反対の意見の人とマッチングするのが難しいほど、似通った意見の人たちが多かったことを前回、報告しました。
しかし、2回目はほかの複数のメディア企業が参加したことで、一回目よりも多様な意見をもつ人たちが動員されることになったのは確かでしょう。『ディ・ツァイト』のファイグレPhilip Faigleは、二回目の対話プロジェクトでの一つの質問、ドイツでイスラム教徒と非イスラム教徒はうまく共存できるか、という問いに、15%は、できない、と回答しており人がいたことに具体的に言及し、対立する意見の人たちもまた参加していると主張しています(Schöpfer, 2018)。
ちなみに、2018年のプロジェクトで、参加希望者として登録した全2万8000人の内訳をみると、男性が圧倒的に多く68.3%、女性は29.9%、平均年齢は41.6歳でした(これは、ドイツ人の平均年齢とほぼ同じです)。年齢は18から97歳と非常に幅広く、地域的にはドイツ全国を網羅しています。ただし、西側に比べると東ドイツからの申し込みは、やや少なめです。人口でみると東ドイツの州は全体の22%を占めていますが、今回東ドイツから参加した人たちは全体の16%でした。
職業をみると、経営者は1464人、研究者1308人、教師1307人、看護師293人、聖職者49人、タクシー運転手14人、消防士9人、大学生は3409人です。
全般に今日の対話プロジェクトをみる限り、意見の差異は、地域よりも、世代や性別によって差異の方が大きかったと言います。最も多かった組み合わせは、年配の男性と若い女性でした。
対話は誰とでもなにについてもできるのか
対話プロジェクトの構想に異存はないが、対話をするには人も事象も対象を限定すべきだという意見もあります。
二回目の対話プロジェクトが開催されるにあたって、後援者である連邦大統領を迎え、ベルリンでイベント風の式典「Plattform «My country Talks»」がとり行われたのですが、そこで執筆家でデジタル分野に精通するサーシャ・ロボSascha Loboが提示した意見です。
ロボは、これまでソーシャルメディアや現実空間で多くに極右主義者たちと会い、対話を重ねてきました。その中には、ドイツの国防軍が(ヨーロッパを目指し海をわたる 筆者註)難民の船を砲撃し、何千人か志望者がでれば、もう誰も来なくなるだろう、と書いてきた人もいたと言います。ロボはその時点で、その人との対話を断ち切ることはなかったが、その人とは、その後建設的な議論にはならなかったとし、このような「ナチ」(という呼称に相当するとロボが考える極端な右翼思想の人たち)は、ほかの人たちと普通に話し合うということはできない人たちであり、話すに値しない人だといいます(Zeit Online)。
つまり対話は、なんでもだれとでも話すという無条件のものであるべきではなく、絶対に越してはいけない一線(レッドライン)があるべきで、それが、自由民主主義的な対話にあって必要不可欠とします(Zeit Online)。
昨年末に発行されたドイツの極右政党とメディアに関する研究によると、ドイツの極右政党「ドイツのためのオルタナティブ(略名AfD)」は、中立的な情報を提供するものとはみておらず、自分たちの意向にあう報道か、それとも(自分たちにとって)「嘘」の報道か、つまり、メディアを友か敵かという見方でしか捉えていないとされます(Gäbler, 2018)。このように自分に合う話か合わない話かだけで、情報や人の話をより分ける姿勢の人とは、確かに対話が実際に可能なのか、疑問がわきます。
対話を、ほかの人の話を全く聞かず自分の主張だけを繰り返し、ほかの人の意見を罵倒するだけの対話は、確かに無為なものでしかないかもしれません。相手の意見を聞こうという態度がなければ、基本的にそれは対話ではありません。
他方、人間は、どんな相手とどんな風に話し合うか、その状況や相手の関係によっても、態度が微妙に変化します。換言すれば、ほかの人と対話できる余地の大きさが大きい人や場合もあれば、非常に小さい人や小さい場合もあるということでもあるのではないかと思います。そう考えると、ある人との対話が可能か不可能かの線引きは非常に難しい。換言すれば、どんな人にも状況によっては対話できる余地、可能性がある、ということではないかと思われます。
意見の背後にある人をみる
ロボの主張に対し、真っ向から反論を唱える人もいます。ジャーナリストで執筆家のマーテンシュタインHarald Martensteinです。マーテンシュタインは、ロボのあとに行なったスピーチで、自分であらかじめ用意していた原稿をわきに置き、ロボの主張への反論を展開しました。マーテンシュタインは「意見の背後にある人をいつもみなくてはいならない。どんな対話にも耳を傾け、いくつかのものを排除するようなことがあってはならない」と強調します(Zeit Online)。
マーテンシュタインの「意見の背後にある人をみる」ことは、対話から一見ずれた話にみえますが、どんな人にも、常に独自の個性があり、生い立ちなどのその人がもつ独自の背景があり、そこをベースにして今の自身の意見が形成されてきているのだと考えると、その人の個性、人格、背景は、対話の上で配慮に値する事項であるといえるでしょう。
例えば、たとえ自分の意見に凝り固まってまったく対話の余地がないようにみえる人で、その人の意見に共感できなくても、その人の人格的な部分やその人のなにかもっている個性的な部分(例えば趣味や生まれ育った環境)が理解できたり、共感できるところがあればどうでしょう。意見はかみ合わなくても、信頼やレスペクトの基盤を築くことが可能かもしれません。
また、その人自身を見、その人がそのような意見に至った経緯が少し推察できると、その人への対話のアプローチも、相手に届きやすいものに変えることができるかもしれません。
例えば、東ドイツで現在30・40代の男性たちが過去四半世紀に経験してきたことは、ほかのドイツの地域とは大きく異なるものでした(「出生率0.8 〜東西統一後の四半世紀の間に東ドイツが体験してきたこと、そしてそれが示唆するもの」)。この地域出身の人と対話する際、これらのことを知っている場合と知らない場合では、自分のなかの対話のアプローチが変わることもあるかもしれません。
争いを肯定し、争う力を鍛えよ
ジャーナリストのシュルツEva Schulzは、「意見がひとつでなく複数あることは民主主義のエンジン」とし、意見が対立することをもっと肯定すべきだとします。同時に、この対話プロジェクトを、争うことを避けたり、できなくなっているドイツ人たちのための、「争うための筋肉を鍛えるための療養、リハビリ」であるべきと位置づけます(Zeit Online)。
筋肉という比喩は、日本語で好まれる「力」という表現に類似していますが、力よりも具体的で、対話における争うことの機能的な意味が把握しやすい気がします。スポーツをするのには筋肉が必要ですが、筋肉トレーニングをしないと筋肉は衰え、スポーツができなくなります。これと同様に、対話で争うことを恐れて、意見が合わない人を避けてばかりいれば、討論で争う時に必要な「筋肉」も使われず、衰えてしまう。そうなると、いざ、意見が違う人と会った時に、どう対処すればいいのかがわからなくなる。だからこそ、日頃から筋肉を鍛え(争いを訓練し)、自分が違う意見にどう持ちこたえ、どう相手に向かうのかを、身につけておくこと(「筋肉」をつけておくこと)が必要なのだ、という論理です。
ところで、争うための筋肉トレーニングのすばらしいところは、トレーニングが自分だけで完結するものでないことでしょう。相手とのやりとりが常にあるため、それが同時に視座を広げるトレーニングにもなり、自分の思考全体の血行をよくすることにもつながりそうです。
もちろん、争うなかで、傷つけられるなど、ネガティブな影響が生じることもあるでしょう。しかし、日頃トレーニングを重ねてよいコンディションであれば、心が受ける傷も重症なものになりにくい、というのも、スポーツの場合と似通っているかもしれません。
参加者の多様性を確保するには
この対話プロジェクトは、第一回目開催後、グリム・オンライン賞という、2001年から出版やそれに関連する、イノベイティブで秀逸の構想や実践に授与される賞を受賞し、二回目の開催にあたっては、ドイツ連邦大統領自らが、対話プロジェクト「ドイツが話す」の後援を引き受けました。「最初はただのアイデアにすぎなかったが、ひとつのミッションになった」(Tausende, 2018)と賞されるほど、反響や期待がうずまく、ひとつの動きになったようにみえます。
ここだけをみると、輝かしいサクセスストーリーのように聞こえますが、その一方で、重要な問題がいまだ手付かずであるように思われます。それは、先ほども少しでてきましたが、多様な社会背景の人々をいかに動員するかという問題です。本来のプロジェクトの目的であった、偏見や憎悪など「人々の間にできた壁をとり除く」(Steinmeier,2018)ためには、多様な人々を対話の場に連れ出せるかが、肝心な問題であり、それは、今後いくら動員される人数全体が増えたとしても、自然に解消されるとは限らない問題です。
参加するメディア企業や、さまざまな組織に参加を呼びかけることはもちろんある程度、有効に働くでしょうが、そのような呼びかけの網に、どのくらい多様な背景の人々が実際にひっかかっているのでしょう。
例えば、これまでの対話プロジェクトで、極右勢力支持者たちは、どのくらい対話プロジェクトに興味をもったり、参加したのでしょうか。これを示唆する直接的な資料はありませんが、極右勢力は、ドイツに限らず、オーストリア、フランスでも同じように、既存のメディア(公共放送から民間報道まで)全般に、多かれ少なかれ不信感を強くもっていることで知られます。そうであるとすると、対話プロジェクト自体は、政治的に中立的な立場ですが、メディア企業が企画し、それぞれの読者を中心に呼びかけた対話プロジェクトに、実際にどのくらい参加の意志をもつのか疑問が残ります。
また、以下のような、プロジェクトでの対話の内容についての報道をみると、さらに、実際に極右勢力支持者を呼び込むことの難しさを感じました。
対話プロジェクトに参加した人で、対話前には政治全般に失望し、極右政党に投票することも考慮しているという人がでてきますが、社会党支持者との対話のあと、「主張したことはもしかしたらすべて正しかったわけでないかもしれない」とし、「もっと事実関係をよくおさせないといけない」と言っていた(Weydt, 2018)という報道です。
この記事は文面からみれば中立的ですが、極右勢力支持者が、このような報道記事を読めばどうとるでしょう。対話プロジェクトをきっかけに、極右勢力支持の意見に疑問を抱く、という安っぽい(プロパガンダ的な)ストーリーに聞こえるかもしれません。
もしそうだとしたら、対話プロジェクトにこぞって関わりたいと思うでしょうか。極右勢力支持者がドイツで比較的多い東ドイツでは、西ドイツよりも、このプロジェクトの参加者が若干少なかったという事実は、極右勢力支持者が対話プロジェクトに一定の距離感・不信感を感じていることを、うっすらと反映しているようにも感じられます。
結論として、極右勢力支持者の本心はわかりかねますが(そしてそうであってほしくもありませんが)、現状をみると、極右勢力支持者が、この対話プロジェクトに今後も積極的に参加かったとしても、不思議はないように思われます。
しかし、対話プロジェクトが、参加者の自己満足で終わるのでなく、社会の壁を切り崩していくために実際に効力をもちたいのであるのならば、極右勢力支持者等、社会で往往にして問題のレッテルをはられている人や異端扱いされている人たちも動員することが必須でしょう。そのためには、このプロジェクトが彼らから信頼を勝ちとることが不可欠と考えられますが、そのためには、どんな工夫やアピールや姿勢が有効に働くのでしょう。このことは、次回以降の対話プロジェクトにとっての、大きな宿題となりそうです。
おわりに
社会で厳しく対立しているようにみえる意見の相違も、対立項の座標軸を、一対一の人の関係としてみてみると、これまで(マクロの視点では)みえなかったものがみえてきて、対立や衝突そのものの見え方も異なってくる。そのことを、難しい抽象的な理論を一切ぬきにして、行動を通して、人々がみずから実感する機会を提供したこと。これが、この対話プロジェクトの、独自のそして大きな功績だといえるでしょう。
ただし、この対話プロジェクトの成果は、広い社会的文脈で、かつ長期的なスパンのなかでこそ、評価されるべきかもしれません。対話プロジェクトの機会を利用し、対立する意見の人への新たな理解を得たり、知見を広げることができた参加者たちが、実際に社会のなかでどう動き、なにかを変えていけるのか。それこそが、社会において最も肝心な点であるためです。
今後、一対一の同じ目の高さでの話し合いという、コミュニケーションのあり方が、社会の多様な場面でどのように定着するのでしょうか。そして、互いの異なる意見や立場を理解したり折り合いをつけるために、どのように働くのでしょうか。その可能性を観察するこちらも、長いスパンで、見守っていきたいと思います。
参考文献・サイト
Bangel, Christian et al., Streiten Sie schön!, Zeit Online, 18. Juni 2017, 15:02 Uhr
Daum, Matthias, Die Schweiz spricht”: Sie wollen reden. In: Zeit Online, 22. Oktober 2018, 18:21 Uhr
Deutschland spricht Wandel durch Annäherung. In: Süddeutsche Zeitung, 23. September 2018, 21:08 Uhr
Grimme Online Award 2018, Deutschland spricht
Schöpfer, Linus, Und dann duzen sie sich. In: Tages-Anzeiger, 22.10.2018, S.2.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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