自由な生き方、自由な死に方 〜スイスの「終活」としての自由死
2019-05-18
寺田修二とスイスの接点
演出家の寺田修二の著作に『自殺のすすめ』というのがあります。この本で寺田は、世間で一般的に言われている「自殺」は、まわりの人や環境に追い詰められて自分が殺されることであり、自殺というより他殺であり、そのような社会関係や環境の影響を受けずに、自分の意思で、死ぬことこそ、「自殺」なのだ、と主張しています。
ところで、スイスでは数年前から、自殺ほう助の自由化(自殺ほう助の条件の緩和化)について、社会で広範に議論されています。すでに一定の条件下で自殺ほう助が認められているスイスですが、自分の死の在り方を、自分でできるだけ自由に決めたいという切実に思う人が増えており、そのための手段として、自殺ほう助に期待する声が高まっているためです。自殺ほう助の自由化を推進する人たちの思想をみると、寺田が提示する自由意志に基づく「自殺」という考えに、重なる部分があるように思われます。
ただし、アプローチ方法はかなり異なります。寺田が一個人の問題に還元し、自分の意志で完結する自由な死に方を想定していたのに対し、スイスでは、人間の権利の(死の領域まで)拡張することで、それを社会の合法的なシステムとして、それを未来の社会で公認する、死に方の選択肢の一つにしようとするものです。
今回と次回の記事では、今のスイス社会で問われているこのような切実な問いと、それに答えを見い出そうと、交わされている議論の中身を置ってみたいと思います。
これまで扱ってきたコラムとはかなり毛色の違う重たいテーマですが、人の死を直視してなにかを論じることは、どの社会でも、長い間、タブーに近かったですが、超高齢化が、急速に展開している先進国の国々では、高齢の生き方だけでなく、死についての考え方や状況も、これまでと大きく変わりつつあります。日本でも「終活」と言った表現の仕方で、積極的に、自分の人生終末期までの様々なテーマを避けずにむしろ扱う姿勢が強くなってきており、今後は、さらに、より深く自分の死の問題に踏み込んで、考えていく動きが強まっていくかもしれません。
スイスでの終末期の選択肢や制度、またこれについての現在の議論を大観することが、日本での類似するテーマにおいての議論や理解の一助になればさいわいです。
合法の自殺ほう助
最初に、スイス社会における自殺ほう助のあゆみについて、簡単に概観しておきます。
スイスでは、利己的な理由で人に自殺をうながしたり、自殺ほう助を行なった場合に処する法律がありますが(刑法115条)、利己的な目的ではない自殺ほう助は、処罰の対象になっていません(ただし容認する法律が特にあるわけではありません)。
このような状況下、スイスでは1984年に、世界に先駆けて、自殺ほう助する公式な非営利団体が設立されます。そしてそれ以後、自殺ほう助を希望する人は、自殺ほう助団体を通じて、合法的に(正式には処罰の対象とならないことが法的に認められているのにとどまりますが)、自殺ほう助されていくようになりました。
このような団体の存在は、設立当初は社会でも多くの物議をかもし、反対勢力も強くありましたが、35年以上たった現在においては、社会で広く公認される存在となっています。2011年チューリヒ州の住民投票はそのことを端的に示す一例です。84.5%という圧倒的多数が自殺ほう助を支持(正確には、自殺ほう助の禁止案に反対)する側に票を投じました。
近代以降、欧米を中心として人々は、自由に生きる権利を求め?、その範囲を拡大させてきましたが、この自由に生きる権利を、自分の終末期にまで拡張して考え、そこで個人はどのような権利を有するのか、有するべきか。そして、この「自分の死についての」権利の行使を、自殺ほう助という、現在の日本からみると極めて急進的なやり方で、スイスでは多くの人に支持・許容される形で、社会で公的に合法化する制度としてスイスは整備してきたのだと言えます。
もちろん、現在も、これに反対する人がいないわけではありません。例えば、カトリック教会自殺ほう助を真っ向から否定する立場を表明しています。しかし世俗化が顕著にすすんでいるスイスにおいては(例えば、2017年の調査では、スイスのプロテスタント教徒もカトリック教徒も、宗教が重要だと考える人や実際に祈祷などの宗教的な行為をする人が1割か未満にとどまっていました。これは欧米のほかの国と比較しても、かなり低い割合でした(「対立から融和へ 〜宗教改革から500年後に実現されたもの」)、宗教界の社会への影響力は、わずかと考えられます(Mijuk, 2016)。
ちなみに、プロテスタント教会は、自殺ほう助の支持こそしていませんが、最初に作られた自殺ほう助団体の共同設立者の一人はプロテスタント教会の牧師でしたし、個人的に自殺ほう助への理解を示したり、退職後に関わる教会関係者が、これまで少なくありませんでした。2016年以降は、ローザンヌを州都とするフランス語圏のヴォー州の教会を皮切りに(Rapin, 2017)、いくつかの州のプロテスタント教会で、牧師たちに、自殺ほう助を選択した人々に最後まで寄り添うことを薦める方針が打ち出されるようにもなっています(Reformierte Kirchen, 2018)。
自由死を求める若い高齢者層
ただし、現在社会的なコンセンサス(合意)となっている「自殺ほう助」とは、差し迫った健康上の理由がありやむをえない人々を対象にした自殺ほう助に限ったものでした。これに対し、差し迫った健康上の理由がない(終末期にいなくても)人々にも自殺の自由を認めることを求める声が、近年、増してきています。
そのような世論は、通称「ベビーブーマー世代」と呼ばれる若い高齢者たちによって、とりわけ押し上げられています。ベビーブーマー世代とはどんな人たちなのでしょうか。簡単に紹介してみますと、ベビーブーマー世代は、1945〜65年ごろ、ようやくヨーロッパに平和がおとずれてまもない時代に生まれ育ち、右上がりに経済成長する社会で栄養状態もよく健康に育ち、1968年には若者として権威主義的な社会構造に対決し、その後も社会の改革を目指してきた世代です。
この世代は、それまでの高齢者たちと、健康状態や教育水準、家族との関係など、ライフスタイルの様々な側面において顕著な違いがあるとされます。発達心理学者で高齢者研究でも名高いペリック=ヒエロPasqualina Perrig-Chielloは、これまでの高齢者(現在約80歳以上の高齢者)がなにをしてもいいかを考える世代であるのとは対照的に、新しい高齢者たちは、どこまでなにができるかを追求する世代だ、と端的に表現しています(「現代ヨーロッパの祖父母たち 〜スイスを中心にした新しい高齢者像」)。
この世代の人たちは、これまで歩んできた時代のなかで、社会やだれかに意見を押し付けられるのを嫌い、自分で決めることに高い価値を置くことを重視する、人生観や価値観を保持、つらぬいてきました。
そして、その延長上において、彼らは、自分の死に方についても、自分で決められることを重視し、その一環として、高齢者で、自分の死に方を決める自由度を高めるべきだと考えます。そして、そのような自由の裁量から自分で死を選ぶことを、「自殺」とは言わず、「自由死」という言葉で表現します。具体敵には、若い人の自殺ほう助の際に不可欠とみなされている必要な医学的な審査を簡略化し、強い痛みについても厳しい証明を必要としないようにするなど、現行の自殺ほう助の条件を緩和することを求めます。
換言すれば、ベビーブーマー世代が高齢になる今の時代だからこそ、「自由死」が、問題になってきた、という言い方もできるでしょう。
2014年にスイスの三つの語学圏(ドイツ、フランス、イタリア語圏)の1812人の55歳以上の人を対象に電話で行なった調査によると、4%がすでに自殺ほう助団体の会員となっており、さらに今後会員になる意向の人たちは、8.5%でした(Obsan, 2014)。また実際に、2014年に自殺ほう助を受けた742人の94%という圧倒的多数が55歳以上でした。これらの数字は、高齢者の間で、自殺ほう助について、かなり関心が高いことをうかがわせます。
「自由死」を望む主要な理由
ところで、差し迫った健康上の理由がない人たちが、自然の寿命よりも早く終末期をむかえなくてはいけない状況とはどのようなものでしょうか。想定される具体的な状況は、主に以下の3ケースあると思われます。
・苦痛を避けるため
まず、これまでの自殺ほう助の理由でもあった、物理的な苦痛の忌避です。これまで、ほかの世代の同年齢の頃に比べ、良好な健康状態を保ってきたベビーブーマー世代であるだけに、健康状態の悪化を危惧する気持ちがことのほか強いのかもしれません。
しかしこれについては、2010年代以降、緩和ケアを行う施設も増えており、実質的に緩和ケアが、有力な代替案として置き換えられる可能性があるでしょう。スイスのホームでは、25%が、自分たちの核となる課題として、理想として緩和ケアを掲げ、実際にホームの40%が緩和ケアを実現かするための取り組みを現在しています(Seifert, 2017, S.15)。ちなみにここでの、緩和ケアとは、単なる痛みの緩和だけでなく、医学、介護、社会的、宗教的、心理的なケアも含めた包括的なものをさします。
スイスよりも早くから緩和ケアに取り組んできたドイツの医師すべてに配布されている週刊誌『ドイツ医師報』には、三人の緩和ケア専門医師が、自殺願望のある患者の気持ちやその対処について、包括的にまとめているので、以下、抜粋してご紹介してみます。
緩和ケアではあまりないが、患者が、死にたいと言うことがある。しかしこれには、慎重に対処すべきである。一方で、医者が患者よりもよくわかっていると考え、患者の苦悩や絶望をしっかり捉えていない危険があるので注意しないといけない。他方、重い病気をかかえる患者がそのようなことを伝えてきたからといって、必ずしも、それは死を切望しているのではなく、堪え難い状況を終えたいという希望である場合が多い。ほかの人に迷惑をかけたくないという人もいる。そのようなテーマをタブーにしてはならず、医師や介護スタッフやほかの関係者でチームとして、そのような希望を聞き、取り組むべきである。死の願望の表明は、むしろ、信頼のあらわれとみることもできる。そういうことを考えていい、話せる、ということだけで、患者の気持ちはずいぶんらくになり、緩和チームと患者との関係を豊かにするものともなりえる。死の願望は、それだけを単独でみるのでなく、二つの相反する価値を同時に含んでいる状態を示しているとみることができる。そこから、二つの希望、もうすぐ人生を終えたいという希望ともっと生きたいという希望が並存しているという状況が生まれるかもしれない。緩和ケアは、死にゆく人々を最善の形で支援すること、同時に死ぬことを阻止するのではない。緩和ケアは直面する死における助けを提供するが、死への助けではない(Friedemann, 2014)。
・人生の総決算として
目前に迫る苦痛を回避するということよりも、「もう十分生きた」という人生への充足感や、将来予想される自分がのぞまない状況全般を回避したいといった思慮から、「自由死」を望む場合もあります。この場合、人生末期への悲観(希望がもてないこと)と、それを未然に防ぎたいという、二つの強い考えが、とりわけ大きな影響を与えているようです。
雑誌『シュヴァイツァー・イルストリエルテ』が1004人を対象に電話で行ったアンケートで、自分が認知症になったら「自由死」(スイスの文脈でいうと「自殺ほう助」など意図的に死期を早めることを意味します)を選ぶことを想定できるとかという質問には、43%が「はい」と回答しています。また、認知症に対する悲観的な見方が、年齢が上がって来るほど強まっていました。認知症になっても生きる価値があるか、という質問に対して、価値があると回答した人が、55歳以上のスイス人で49%で、若い世代(35歳から54歳が54%、15歳から34歳が69%)に比べ、最低の割合でした(Enggist, 2016)。
このアンケート結果をみると、認知症をのぞましくないものととらえ、それが進行する前に、自分で死を決断するのがよいと(少なくとも想定)する人が、特に高齢者にかなりいることがわかります。このような志向は、「自由死」の同義語として、しばしば使われる「総決算の自殺Bilanzsuizid」という言葉にも表れているように思われます。この言葉には、人生を長い帳簿になぞらえ、総決算をマイナス決済で終わらせたくない、そのために、事前に自分で人生を終わらせる、というニュアンスが感じられます。
・経済的な配慮
チューリヒ大学の社会学者ヘプフリンガーFrançois Höpflingerは、健康、教育、経済状況にも恵まれてきたスイスの若い高齢者世代は、現在、経済的に自立しているのが一般的だが、今後、介護が必要になると、年金や貯蓄が十分ではなくなり、良好な状態が急激に悪化することもありうる。そして、実際にそのように高齢者にも認識されている。しかし、自分たちが病気や介護が必要になることで、これまではなかったような家族への財政的な重荷となることは避けたいと考える人は多く (Wacker, 2016)、そのような人たちにとって、自殺ほう助という考えがちらつくことは考えられる (Kobler, 2015.)、といいます。
個人的な経済的な状況が要因となって、自殺ほう助に気持ちが傾く可能性があるというこの指摘について、自殺ほう助団体の中では意見が別れています。エグジットでは、自分たちの顧客には、経済的な考慮は全くなんの役割も果たしておらず、自分たちの人生の最後を自分で決めたいという強い意思を本人や有しているかいなかが問題だ(Wacker, 2016)とするのに対し、デグニタスのミネリは、ホームで希望もなく長期滞在するのを回避し、それに必要な費用を、孫の教育費用に当てたいという人がいれば、「それは分別があり賞賛に値する」と、むしろ肯定しています(Gute Arbeit, 2012)。
まとめ
自分の死に関する権利(自由に決められる裁量)を拡大し、終末期でない人々も自殺ほう助が受けやすくなることを要望する人々の動向について今回まとめてみました。
一方このような、自殺ほう助の自由化の議論は、社会に新たな波紋を広げています。これまでは、自殺ほう助について、社会で一定のコンセンサスを得ているようにみえていましたが、今は、むしろ、自由化の圧力を前に、戸惑いや意見の割れが目立ってきたように思われます。
次回は、このような最近、目立つ、戸惑いや躊躇する人々の動向にも目を向け、全体として、自由な死の議論が、スイスで具体的にどのような展開を現在しており、今後、どこへ向かおうとしているのかについて、さらに探っていきたいと思います。
※参考文献・サイトは、こちらの記事の後に一括して掲載しています。
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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