個人医療情報のデジタル改革 〜スイスではじまる「電子患者書類」システム

個人医療情報のデジタル改革 〜スイスではじまる「電子患者書類」システム

2019-09-20

超高速の検診

スイスで定期的に検診(婦人科)に行きますが、病院に足を踏み入れたから定番検診メニュー(尿・血液検査、血圧・体重測定、検査結果についての医師からの報告、内診、最後に再び医師との話し合い)を一通り終え、病院を出るまでの所要時間は、特になにも問題がない場合、20分以内です。

このことを日本の人に話すと、たいてい短いと驚かれます。世界中どこの医療機関でもおおむね検査内容は同じだと考えると、スイスと日本で所要時間の差はどこからでてくるのでしょう。結論から先に言うと、医療機関での患者の個人データの扱い方の違いが大きいように思います。

今回は、このような差を生み出していると思われる、スイスの医療データの扱いについて焦点をあててみていきたいと思います。次回は、最新の遠隔医療の最前線の状況を追い、2回の記事をとおして、スイスの医療分野の最新テクノロジー事情を概観してみたいと思います。スイスの具体的な事情を、自分の普段接している医療現場の状況と照らし合わせることで、違いだけでなく、共通する課題についても眺望していただく機会になればと思います。

診療の背景で共有されている患者データ

まず、具体的に現在の一般的なスイスの診療の流れを追いながら、医療機関での患者の個人データの扱われ方を、みていきましょう。

スイスでは、電話やメールなどで予約をとってから診察や検診を受けるのが普通ですが(ただし救急や休日医療などでは、事前に予約をとらずに来院できる場合もあります)、予約の際、院内の患者のデータと照合され、来院歴などが確認されます。

すでに来院したことがあれば院内にすでに情報があるため、予約当日は、保険証の内容の変更などがない限り、書類作成や保険証等の提示は一切必要ありません。指定された時間に行って名前を告げるだけで受け付けは終了し、すぐに診療をはじめられることになります。

初診の場合は、書類記入が必要なこともありますが、それでも、いくつかの質問項目に答える程度の簡単なものです。というのも基本的な個人のデータは、スイス在住者がすべて保持している保険証のICチップに入っているためです(ちなみに、スイスの保険について説明すると長くなるので、ここでは割愛しますが、全ての居住者に基礎医療保険の加入を義務付けているというという点では国民皆保険と似ています。しかし実際の保険業務は、複数ある民間保険会社がそれぞれ窓口となって行なっており、保険会社は、基礎医療保険に加え、独自の異なる保険商品を保険加入者に提供(販売)しています)。


保険会社Visana のカードの見本図
(ほかの会社のカードも記載されている内容や位置はほとんど同じ)
出典: https://www.visana.ch/de/privatkunden/services/versichertenkarte;jsessionid=06B215190C8A4EB5D0BC031BE0637ADD


現在、ICチップに入っている個人のデータとは、連絡先や社会保険番号、保険会社や保険の種類などの基本データ類です。ただし、本人の希望で、緊急時の対応などに便利な個人の健康や医学情報(例えば病歴、アレルギー、飲んでいる薬の種類、予防接種の有無や血液型など)もいれることが可能です。

診療代金の請求書は、患者にではなく、医療機関から直接保険会社にいくため、診察終了後はすぐに退出することができます(患者が支払う費用の明細や請求書は、後日、保険会社から郵送されます)。薬局で処方された薬をもらう場合も、同じように保険証のICチップの情報を介してすすみます。

つまり、スイスでは関連する機関や企業間の患者情報の共有がすすんでいるおかげで、内容的に繰り返しが多い書類作成や、それに関連して発生するもろもろの事務手続きなど、患者にとっても医療機関にとってもわずらわしい作業とそれにかける時間が大幅に少ないのだと思います。

「電子患者書類」 〜患者情報の共有の拡大化

それでもスイスでは、現行のやり方はまだまだ無駄や問題が多いという考えから、来年の2020年の春からは、情報処理をさらに大幅に合理化させる「電子患者書類Das elektronische Patientendossier (略語: EPD)」と呼ばれる壮大な患者情報のデータバンクのシステムが始動する予定です。

新しいシステムは、いくつかの点で、患者情報の管理・保存の仕方がさらに便利になります。現在のスイスでは、医療機関が共通してアクセスできる情報は、上述のように患者が希望すればほかのデータもいれられますが、基本的には患者の基礎情報(住所や保険会社や保険番号)のみで、診療や病歴についての情報は、医療機関がそれぞれ個別に保管しています。ちがう医療機関で受けた治療や処方された薬の最新情報がほかの医療機関に共有されていないため、必要な過去の情報を入手したり、確認しなくてはならない場合、電話などでほかの医療機関にいちいち問い合わせなくてはいけませんでした。

これに対し、電子患者書類では、患者ひとりひとりに対する情報(例えば、レントゲン写真や処方された薬類、病歴、アレルギー、接種した予防注射の種類や日時など)が電子書類として統括され、インターネットでアクセスできるようにします。病院等の医療機関は、常に総合的でかつ最新の患者の情報を容易に入手し、また新たに情報を追加することができるようになります。

このようなシステムが作動すれば、患者や医療機関、また社会全体にとっても大きなメリットがあると期待されています。

まず、データが統括され、関連する医療スタッフすべてがその最新の内容をみることができることによって、医療上の危険が減り、無駄もなくなると期待されます。例えば、高齢の患者に対し、医師、介護士、薬剤師などが情報を共有することで、複数の医療機関から処方された薬の量や種類が適切かを確認し、薬のとりすぎや危険な組み合わせを防いだり、ほかのプログラムと照合しながら総合的な健康改善計画をたてることができます。

意識がもうろうとして救急で病院に運ばれた人でも、電子患者書類があれば、患者のアレルギーや病歴がわかるため、それらを考慮し診療することができます(ただし、この際は後日、緊急のため電子患者書類を閲覧したことを患者に伝えることが義務づけられています)。患者自身も、いつでも自分の情報を閲覧することができ、これまで以上に、自分の健康状態や医療措置への理解が深まり、主体的に医療に関わる余地が大きくなるかもしれません。

複数の医療機関に患者の情報を問い合わせる手間や、独自の患者データのアップデートや保持の必要がなくなることは、医療部門全体の人出不足を緩和し、コスト削減にもつながるため、社会全体がその恩恵にあずかることにもなります。

関連するアクター(医療関係者と患者)ができるだけ多く参加するシステムを目指して

ただし、この情報共有システムは、病院や介護施設がこの電子患者書類への参加を義務づけられているのに対し、患者と個々の医師(開業医)については、参加が任意とされています。もちろん、できるだけ多くの患者や医師たちが参加することがのぞましいのは確かなのですが、強制はしていません。それは、患者や医師の危惧や諸事情に配慮しているためです。

例えば、患者のなかには、このようなインターネットでアクセスできる形で情報が置かれることで、自分の健康・医療情報が第三者に流出したり乱用されたりするのはないか、と憂慮する人が、少なくとも当初は少なくないと想像されます。

そのように憂慮する人の気持ちを無視して、はじめから強制して参加させるのもひとつの可能性でしょうが、スイス流では、強制はせず、別のやり方をとることにしました。それは、一方で患者の情報を安全に保持できるようつとめ、他方で、このシステムについての啓蒙キャンペーン(電子患者書類の安全性やメリットについて国民にさまざまな形で丁寧に説明する)をすすめるというものです。ある程度時間をかけて多くの人に納得して利用してもらうことが、長期的にみるともっとも混乱が少なくシステムを移行させることになるとみているようです。

システムにおいては、不正な情報流出などのサイバー犯罪対策はもちろん、悪用や乱用を未然に防ぐ目的で、利用方法や利用者も明確に制限します。例えば、この情報は、医療機関と患者個人だけにアクセスが可能とし、保険会社や雇用者の閲覧は一切認めません。また、患者は、電子患者書類を利用するとしても、すべての情報をすべての医療機関に公開する必要はなく、医療機関のだれがどのような情報をアクセスすることまでを認めるかを、患者自身で決めることができます。同時に、情報がアクセスされた場合はすべて記録され、誰がいつみたかを、いつでも確認することができます。

開業医などの医師にも、システムの移管が簡単でない独自の事情があります。患者の情報を容易に入手したりアップデートできることに基本的に医師は賛成であると思われますが、これまで手書きのカルテで患者情報を管理してきたところでは、システム変更が困難なためです。このため、これまで患者のデータを手書きのカルテで保存していた場合で以後電子患者書類に参加する場合は、過去のカルテをすべて電子患者書類上に反映させる義務はなく、新しいデータのみを掲載するだけでいいなど柔軟な対応をとっており、またシステム参画のための補助金をだすなど、今後、医師がシステムに参画しやすくする環境をととのえることが検討されています。

おわりに

電子患者書類システムは、スイスでは来年以降の導入予定ですが、すでにカナダやオランダなどでは導入され、日々実績が積み重ねられています。これらの先例を参考にしながら、来年以降、スイスの医療も、さらに患者にも医療スタッフにも使いやすいものになることが期待されます。

次回は、医療のもうひとつの新しいトレンドとして、遠隔医療についてレポートします。
※参考文献は次回の記事の最後で一括して提示します。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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