デジタル時代に人気の「聴く」メディア 〜ヨーロッパのジャーナリズムの今(2)

デジタル時代に人気の「聴く」メディア 〜ヨーロッパのジャーナリズムの今(2)

2020-07-25

3回にわたって、ヨーロッパのコロナ危機以降のジャーナリズムの状況にみるシリーズの今回は第二回目です(前回は、ジャーナリズム全般のコロナ危機下とその後の状況についてみました「コロナ危機が報道機関にもたらしたもの」)。この記事と次回では、ジャーナリズムをみる視点をマクロからミクロにうつし、多様なコンテンツで急成長しているポッドキャストの、ジャーナリズムにおける可能性について考えてみたいと思います。

具体的には、次回にポッドキャストが、これまでのジャーナリズムのあり方の、どのような部分を補充、補完するものとして期待されるかを探っていく準備として、今回は、伝統的なジャーナリズムが衰退した理由や、これまでのジャーナリズムのデジタル化の問題をふりかえっておきたいと思います。

伝統的なジャーナリズムの衰退の原因

伝統的なアナログのジャーナリズムは、なぜ衰退しているのでしょう。まず、衰退してきたのは事実ですが、これは、ジャーナリズムを人が必要としなくなった、嫌いになった、重視されなくなったことを意味するのでしょうか。

わたしの考えでは、そうとは言えないと思います。大半の人にとっては、コロナ危機の前も後もも変わらず、ジャーナリズムが重要ではなくなった、不要だと思っている人は少数だと思われます。

もちろん、既存の報道機関の情報に強い猜疑心をもつ人も常に一定数社会におり、コロナ危機中も、まままならない状況への不満や不安な心理を土壌に、陰謀論がソーシャルメディアを席巻し、既存の報道機関に対し、強い非難や攻撃をする人がいました。

他方、前回取り上げたように、コロナ危機の際には、ニュース消費量が急増するという現象があり、そこには、既存の報道機関への厚い信頼が如実にあらわれていたといえます。

それにも関わらず、ではなぜ、既存のジャーナリズムは、衰退の一途をたどっているのでしょう。究極の理由は、ジャーナリズムよりも別のことに人々が時間を好んで費やすようになったことからではないかと考えます。

一番それをわかりやすく示しているのは若者たちの行動様式でしょう。若者たちは、一方で、公共メディア(公共放送や主要な新聞・週刊誌等高い質のジャーナリズム)に不信感や不要だと一様に感じているわけではないようです。2018年スイスで行われた、公共放送の受信料廃止の是非が問われる国民投票では、30歳未満の人の80%以上という圧倒的多数が、それに反対していました(30歳以上の年齢層と比べても、受信料廃止に反対する人の割合は非常に高くなっていました「若者の目につくところに公共放送あり 〜スイスの公共放送の最新戦略」)。

しかしその一方で、同じ若者たちが、もっともジャーナリズムを消費していません。公共メディア(公共放送や主要な新聞・週刊誌等高い質のジャーナリズム)の利用者は、30歳以上は40〜50%、18〜24歳では20%にとどまり、逆にニュースを全然見ない(聞かない)人や週に一度くらいしか見ない人が若者全体の2割を占め、その数は年々増加しています。

また、若者は、ニュースを消費するとすれば、そのソースとして、伝統的なニュースソース(テレビや新聞など)にこだわらず、多様なものを使うのが特徴です。利用されるニュースのソースとして最も多いのは、インターネットのニュースサイトやニュース検索サイトなどのアプリで、5割以上の人に当たります。その次は、印刷されたフリーペーパー(5割弱)、次がラジオやテレビで、それぞれ3割強の人が利用しています。有料の日刊紙や日曜紙などをニュースソースにする人は、これらよりずっと少なく、1割ほどしかいません(「公共メディアの役割 〜フェイクニュースに強い情報インフラ」、「若者たちの世界観、若者たちからみえてくる現代という時代 〜国際比較調査『若者バロメーター2018』を手がかりに」)。

これらのデータをまとめると、若者は、以下のように考えて行動しているように思われます。ニュースや報道機関そのものに不信感を抱いたり、不要だと思っているわけではないが、通常は、ジャーナリズムの消費よりも、ほかの行動や消費を優先したい。

新しい「メディア」

それでは、若者たちが、ジャーナリズムの消費を減らして、普段、優先していることとはなんでしょう。もちろんここでも個人差があり、一概にくくっていえるものではありませんが、最も大きいのは、新しい「メディア」の消費でしょう。ここでいう新しい「メディア」とは、ソーシャルメディアを通じた意見やメッセージの享受や発信、ユーチューブやネットフリックスなどの映像コンテンツの消費など、デジタル通信技術を介した人々の情報受信・発信・交換全般をさすこととします。

伝統的なジャーナリズムの消費は減っていることと、このような広義の新しい「メディア」全般の消費の増加は、完璧な因果関係でこそないにせよ、かなり強い相関関係をもっているように思われます。ここ四半世紀の間に、メディアを利用するための機種(ハード)やアプリケーション(ソフト)が発達し、様々なコンテンツを、どこでもいつでも、しかもインターアクティブに消費できるようになりました。その結果、それらに時間を費やすことが比較的多くなり、その分、相対的に(減ってきた行動はいろいろあると思いますが、その一つとして)旧態然のジャーナリズムの利用する機会や時間の減少にもつながっているのではないかと思われます。

迷走するジャーナリズムのデジタル化

もちろん、このような新しい「メディア」の台頭によるメディア全般の環境の大きな変化のなかで、ジャーナリズムが、なにも変わってこなかったわけではありません。紙媒体へのこだわりが当初は強かったものの、少しずつ、新しい「メディア」を通じてニュース消費に誘導しようとする、ジャーナリズムのデジタル化を、四半世紀をかけて、すすめてきました。

この結果、例えば、ほかのスイスの新聞社に比べ、デジタルコンテンツに早くから力をいれてきた『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥンクNeue Zürcher Zeitung』では、現在、紙媒体の購読だけをしている人は全購読者の4分の1にまで減っています。NZZ購読者にとって、デジタル媒体が、不可欠で重要なメディアとなっているといえます。

ただし、このようなジャーナリズムのデジタル化においても、依然として、大きな致命的な問題が残されています。全般に、コンテンツの課金システムが未発達なことです。当初、無料でデジタル記事を公開するところが多かったため、今日まで、記事のためにお金を払うというという習慣が人々になかなか定着せず、結局、現在でも、多くの主要メディアが無料で自分たちの記事を公開しています。このような状況全般が、本来無料では成り立たないはずのジャーナリズム全般を、圧迫しています (Simon, 2020)。

つまり、一方で、新しい「メディア」の強烈な量と質におされ、他方で、ジャーナリズムの課金・収益システムの未発達という問題があり、この二つの異なる次元の問題が、同時並行しながら、ジャーナリズムをじわじわと窮地に追い込んできているというのが、ジャーナリズムをめぐる現状であるように思われます。

ポッドキャストという新たなデジタルメディア

このように、ジャーナリズムの五里霧中の葛藤が続いていますが、近年、ヨーロッパの報道機関に共通して新しいひとつの動きがみられます。ポッドキャスト(Podcast)の配信です。最近の2年間で、ドイツ語圏の主要な新聞社は、どこもポッドキャストの配信をはじめており、同じ新聞名で、複数の番組を毎日配信している場合も珍しくありません。ポッドキャストは、じりじり縮小していくジャーナリズムの流れに、風穴をあけるものとなるのでしょうか。この問いについては、次回、積極的に考えていくことにして、まず、ポッドキャスト全般の現状について、以下、みておきます。

ポッドキャストは、日本語版ウィキペディアでは、「インターネット上で音声や動画のデータファイルを公開する方法の1つ」で「インターネットラジオ・インターネットテレビの一種」と定義されています。実際、映像つきのコンテンツも配信可能です。しかし、現状では、「聴く」ことにかなり集中したデジタルメディアであるため、ここでも、音声メディアとしてのポッドキャストについてのみ対象にしていきます。

ポッドキャストは、2005年から一般向けの顧客に配信が開始され、ドイツ語圏でも同年に、最初のポッドキャスト番組が作成されました。しかし、その後すぐには普及はせず、アメリカでコンテンツが充実し、人気が急速に高まってきた、最近10年間の間に、同時並行的に、ドイツ語圏でもブームとなってきました。

ポッドキャストは、基本的に、誰でも家でマイクと録音機能、インターネットがあれば、簡単に番組をつくることができ、Spotify や iTunes などのポッドキャストのポータルサイトへのアップロードも、誰でも無料で簡単にすることができます。聴きたい人もまた、ポッドキャストのポータルサイトから簡単に音源(番組)をダウンロードすることができます。

内容は、ストーリテリングや、レクリエーション的なコンテンツが、主流で、非常に多様なテーマについて、一人語りや二人の語り合いというものが、少なくとも最近までは、多かったようです。

ラジオでつちかわれた「聴く」習慣とポッドキャストの展開

ところで、ヨーロッパ(ドイツ語圏)では、これまでもラジオというメディアをとおして、「聴く」習慣が、かなり定着していました。インターネットが普及する以前の1980年代、90年代において、テレビがない家庭は結構多くありましたが、逆に、ラジオがないという家はほとんどありませんでした。

少し前のデータですが、2014年のシュトゥットガルト新聞によると、ドイツ人の5人に4人がラジオを聞いており、聴取時間は1日平均4時間でした(「聴覚メディアの最前線 〜ドイツ語圏のラジオ聴取習慣とポッドキャストの可能性」)。

ラジオのほうが、テレビよりも消費時間が長いだけでなく、テレビや紙面のコンテンツよりも、ラジオのほうが(なぜか)その内容を信用できるものだと考える人が、今も多くなっています(「公共放送の近い将来 〜消滅?縮小?新しい形?」)。

このようなラジオを聴くという習慣が、ドイツ語圏には土壌としてすでにあったため、ドイツ語圏は、ダウンロードさえすれば(しておけば)いつでもすきなときに簡単に聴けるという、ポッドキャストを「聴く」という新しい習慣が、比較的簡単に定着したのかもしれません。

現在、ドイツ人の21%は、定期的にポッドキャストを聴いており、スイスのドイツ語圏では23%の人が、月に少なくとも1回はポッドキャストを聴いています。利用者は、若い人が圧倒的に多く、スイスの30代以下では、五人に一人が週1回聴いています(Dettwiler, 2020)。

「聞く」に制限するという、逆の発想で利用者を増やすポッドキャスト

ところで、文章や写真だけでなく動画さえも簡単にみられる時代に、なぜ、聴くことに集中したメディアが、いま人気を得ているのでしょう。

その答えは、スイスの日曜新聞の代表格である『ゾンターグスツァイトゥンク』が今年読者2230人(任意)が回答したアンケート調査結果によく表れているように思いますので、このアンケート結果を紹介してみます。

ポッドキャストをどこで利用するかという問いに対し、家で聴くとした人が最も多く(1131人)、公共交通(807人)、料理中(641人)、掃除中(618人)、就寝前にベットで(532人)、車中(518人)、ほか(374人)、仕事や学校中(157人)、読書中(30人)と続いていました(Marti, S.57.)。

これによると、明らかになにかをしながら利用しているという人(「家で利用する」と回答した人以外)は3677人で、全体の該当数(4808人)の76%を占めています(全体の人数が回答者の数の約2。2倍となるため、一人につき平均2.2件、該当すると回答していることになります)。複数回答が可能なこの調査結果だけでは、なにかをしながら聴いている人の割合を正確に割り出すことはできませんが、この調査で、家でも外でも、ポッドキャストは、「ながら」で利用されることが非常に多いことがわかります。

逆に、この「ながら」ができるということ、つまり、ほかのことをしながらでもメディア消費ができるといことが、ポッドキャストが今人気をもっている理由だ、と説明することもできるかもしれません。見る時間がなくても、利用できるという特性ゆえ、利用できる機会がぐっと、見るコンテンツより増えるという理屈です。

健常者に「ながら」ができて使い勝手がだけでなく、もともと視覚より聴覚メディアを好む傾向の人(例えば、高齢者のように視力が弱い人)にとっても、欠かせない重要なデジタルメディアとなりえます(「生活の質を高めるヒアラブル機器 〜日常、スポーツ、健康分野での新たな可能性」)。

最終回につづく

次回(「報道機関がさぐるポッドキャストの可能性」)では、このようなポッドキャストの、ジャーナリズムにとっての可能性ということに焦点をしぼって考えていきたいと思います。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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