「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(1) 〜スイスの高齢者の夢と現実

「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(1) 〜スイスの高齢者の夢と現実

2021-01-05

2019年にスイスで公刊された『まだなにかするつもりがある高齢者たちへ。未来に参加すること Für ein Alter, das noch was vorhat. Mitwirken an der Zukunft 』という、高齢者の行動を観察し新たな生き方を提案した本が、公刊直後から、スイス社会で反響をよんでいます。

それは単に、哲学者で物理学者、ジャーナリストでもある著者ハスラーLudwig Haslerが、「スイスで最も講演依頼が多い」と言われるほど、社会で大きな発言力をもつ人物であるからだけではないでしょう。本書に貫かれた、自分と同世代(著者は77歳)である高齢者についての、歯に衣を着せない苦言と提案が、社会のタブー領域に踏み込んだものであったこと。同時に、だからといって、反感を覚える人たちがこの本や著者を批判や否認して、収束するほど、スイスの現実の状況が単純ではないからでしょう。

2021年最初のコラムとして、今回と次回(「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(2) 〜スイスの哲学者が提示する高齢者が参加する未来」)を使い、本書の内容を紹介してみたいと思います。スイスだけでなく世界中において、高齢者と若者の共存や多世代の社会の絆が、これまで以上に問われている、ウィズコロナ、アフターコロナの時代を、ハスラーといっしょに、晴れ渡るお正月の青空をみわたすように、ながめる機会にしていただければと思います。

※本稿は、ハスラーの著作の内容以外に、著者の同じ内容を扱った昨年秋のヴィンタートゥーアの講演(9月24日会場Coalmine)や、関連するインタビュー記事の内容なども、参考にし、まとめたもので、(厳格に本の内容だけをまとめた)本の要約ではありません。

※ 参考文献は、次回のコラムの最後に一括して掲載します。

現在のスイスの高齢者たち

まず、ハスラーは、自分を含めたスイスの現在の高齢者が全般的にどんな境遇に置かれた人なのかを、簡潔に描写します。それによると、「私たち(高齢者たち)は自由で、独立して、ほとんどの場合、お金にもこまっていない」「特別な世代」です。ちょうど退職したところだと、おおよそ25年間、働かなくてもいい、時間を手に入れたことになり、それは、これまで人類が手にしたこともないような、時間と経済的豊かさと健康を、スイスの現在の高齢者たちが享受しているということになります。このような今の高齢者が享受している状況は、同じ時代のほかの人と比べても「こんなめぐまれている世代はほかにはいない」とします。

さて、そのような比するものがいないほど、膨大な自由を手にいれた、恵まれた高齢者たちは、どんな風にすごしているのでしょう。

ハスラーは、ユーモアある表現で、四つのヴァリエーションに分けて、提示します。

1)常に動きまわる。それができなくなるまで
2)終わりがなくなるよう、画策を続ける
3)高齢やたちのなかで、自分が役にたつようにする
4)若い人たちの世界に力をかす(社会や若い人々の未来に参加する)

そして、お気に入りのチョイスは、3)と4)の自分も役に立ち、参加することだと、結論を先に示したあと、なぜ、1)や2)がよくなく、3)と4)がいいのかを、本書で詳しくのべていきます。

ちなみに、冒頭で、あらかじめのことわりをいれています。もちろん、本書でいいとするようなことが、健康などの制約で、選択肢にしてはじめることができない高齢者もいる(し、そのことがわかっていないわけではない)。しかし、この本は、すべての高齢者について論じたものではないとします。

逆に、あくまで、身体的・経済的に1)から4)まですべての選択肢が可能であるような、めぐまれた高齢者を対象にした本であり、その人たちに、改めて、恵まれた自分の状況と、自分の可能性、できることを、立ち止まって考えてもらうために書かれた本だといえます。

至福にならないどころか、アルコール依存やうつになる高齢者

1)は、普通な言い方をすれば、旅行のこと、2)は、アンチエイジングの一連の行動(スポーツやコスメティック部門など)を指します。

現在は、コロナ禍で旅行する人が大幅に減っていますが、それ以前、あるいはコロナ禍が過ぎ去ったあとの社会を想像してみると、船の長旅や、世界旅行など、あちこち旅行してまわる人がいます。また、老化を少しでもくいとめ健康で若々しくいられるようスポーツや美容に専念する人もいます。

1)と2)についての具体的なハスラーの分析については、次回のコラムで、詳しく触れることにして、まずは、ハスラーがとりわけ、深刻に受け止めていることをみていきます。それは、1)をしても2)をしても、満たされていない人が多いという事実、高齢者をめぐる現状です。

お金も健康もあって、義務がなく、好きなことができる。こんなパラダイスのような状況にあって、さぞ、人々は幸せにしていることだろう。そう、普通なら想像します。特に、若い世代にはそう思われ、羨望されます。しかし、現実にはどうでしょう。高齢者はそれほど幸せそうにみえないとハスラーはいいます。

例えば、アルコール中毒や、うつ病になる人が、年金をもらうようになると急増します。スイスのアルコール依存症の三人に一人は年金をもらっている人たちです(S.46)。

ここで、具体的な統計データを参照して、ハスラーの本論を、補足しておきます。スイスでは、毎日アルコールを消費する人が増えていますが、74歳以上は、ほかの世代に比べ、最も毎日アルコールを消費する人の割合が高くなっています(65歳から74歳の世代では22.2%で、74歳以上では26.2%)。この世代が、若いころから特にアルコール消費が多かったというわけではなく、退職を機に、アルコールの消費が多くなるのが特徴です。65歳から74歳までに男女の7.3%は、アルコールを危険な程度まで消費しています(スイスで、危険の高いアルコールの消費量とは、恒常的で分量が多いアルコールの消費のことで、具体的には、男性が平均1日純度100%のアルコールに換算して40グラム、女性は20グラムを消費することを意味します。これは、男性で、グラス4杯のワイン、女性は2杯のワインを消費するのに相当します。2015年の統計、BAG, Alkohol)。

(再びハスラーの本書の内容にもどります。)自由もお金も健康もあるのに、心を病んだり、アルコール依存症になることは、一般論として、あるいは若い世代にとって、理解しがたいものです。しかし、ずっと楽しみにしていた、定年という黄金の時期がきたかと思うと、うつ病になったり、アルコール依存になる人が増える、というのがスイスの現実です。

心と体がなぜむしばまれるのはなぜか

待ちに待った定年退職をむかえてまもなく、アルコール依存やうつ病になるとは、なんとも皮肉で残念です。なぜこんなことになるのでしょう。

ハスラーは以下のように考えます。昔の人は、職人でも農家でも引退というものがなく、歳をとっても、なにかできることがあり、自分が「余計(余分)」だなんて考えることはなかった。しかし、会社勤めは、ある日突然、仕事がなくなってしまう(Nydegger, 25 Jahre)。社会の表舞台を去り、自分がはじめて社会で「余計」なものだと感じ始める。これまで、社会に必要とされていると思っていた人が、そのような状況に急変することに耐えられない。

確かに高齢者は、消費することで、経済貢献している。しかし「我々高齢者は購買力と消費をのぞいて、ほかになにを社会で行なっているのだろうか」(S.92)。一人一人答えは違うと思いますが、答えが否、社会でなにもしていない、そう感じる人は、それこそが、問題なのだといいます。

ハスラーは、以下のような、ほかの人の言葉を引用しながら、自説を補強します。

ショーペンハウアー「自分がなにかの役にたっていないかぎり、幸せはない」(S.9 )

アルコール依存の人の救済やリハビリ事業に長い伝統と実績をもつ救済組織「ブラウクロイツ(ドイツ語で「青十字」の意味)」の相談員の言「ある年齢から、人々は、自分の消費を正当化する。もう社会でなんの機能も果たさなくていいからと思うため。その人たちに示さないといけない。まだいろいろなことができるのだと」(S.24)

イギリスとスイスの社会学者ハリJohann Hari(自身も若年のころからうつ病を患い、なにをしても改善されなかったため、みずから世界中をわたりあるき調査しながら、うつ病の原因と生活状況を調べてきた人物)「うつ病にもっともなりやすいのは、自分のなかに、一人だけ取り残されているような気分、自分が有意な義な仕事からも同僚からも離れて「世界ともはやつながっていない」という気持ちがあるとき」(S.46)

そして、ハスラーはいいます。「25年、ただ受け身の構成員でいるなんて、本人にとっても、社会にとっても、頭がおかしいと想定だ」(S.10)

自由死を求める人たち

ハスラーは、それまでの恵まれていた境遇がかえって、高齢者が自分の境遇に不満をもたず、至福になるのを阻害することがある、という関係性についても言及しています。

例えば、これまでの高齢者に比べ、今の若い高齢者は非常に健康に恵まれてこれまでの人生をおくってきました(筆者補註 高齢者の間で健康維持に高い意識をもち運動を規則的に行う人も多くなっています。2012年のスイスの調査では、65才から74才の人で、週に少なくとも150分運動するかあるいは週に2回集中的な体の運動する人が、男性では8割強、女性は7割おり、75才以上でも男性の6割、女性の5割を占めています「現代ヨーロッパの祖父母たち 〜スイスを中心にした新しい高齢者像」)。

しかし、これまでの複数の調査では、病気が年齢のあとになってでてくる人は、はやくから病気で苦しむ人より不満をもちやすい傾向がるといいます。

また、長い間若若しく生きてきた人、自分で自由に人生を決めてこられた人ほど、年をとることに抵抗があり、高齢による自分のことが管理不能になることを耐え難く思うとします(S.23, 24 )。そして、苦悩に対抗する精神力が備わっていないで、高齢者になってしまうと、もうそこ(高齢者が自分の新たな境遇に不満を持つようになって)から、「自殺の議論までは、わずかに小さな一歩分しか離れていない。」(S.24)

「運命にゆだねるのでなく、最後まで自分の人生を自分できめたい。苦しみをわざわざ待ちたくはない」という固い信念に基づき、「高齢になって自分自身を制御できくなる不安がでてくるとすぐにわれわれはエグジットを考える。」(S.24)「エグジット」とは、スイス人なら誰もが知っているスイス最大規模の自殺ほう助団体です。この団体の支援で、死を自ら選ぶ高齢者の数は、スイスで昨今堅調に増えています。ちなみに、スイスは自殺ほう助が違法ではありません(「自由な生き方、自由な死に方 〜スイスの「終活」としての自由死」)

「25年間も引退生活なんて、とんでもない」

自由きままな生活が、数年だけならまだいいのかもしれないが、現在のスイスの状況(高齢者の健康状態や医療レベルなど)では、このような状況が高齢者に、ざっと25年間つづきます。四半世紀も続く「引退生活」をすること、それは、素晴らしいことなのか、とハスラーは問います。そして、明確に否定します「25年間も引退生活なんて、とんでもないIch bitte Sie.」(Nydegger, 25 Jahre)。

ハスラーは、それを、たとえを使って説明します。花は花としての一生を、虫は虫としての一生を100%、集中して生きます。ほかになにかになるわけでもなれるわけでもなく、濃厚なそれ自体の生命です。しかし、人間は違う。一人で完結せず、他者との関係をもち、交流をつむいでいくことで、はじめて、自分が何者かを知る。あるいは自分がなりたいものを想像し実現しようとし、したい生き方を選ぶ。そうやって、人間ははじめて人間になれる。(花やほかの動物と違う)人間としての生き方になる。

つまり、自分の楽しみや欲求だけを追求することだけ、では、人は満たされない。いわゆる一般的な生活の質は、ここでは副次的な役割しか果たさない。

もうすこし世俗にもどした言い方をすれば、社会で、25年間も、社会の表舞台に変われを告げて、退職者として、社会を動かす能動的な役でなく、受動的な立場だけでいきていくのが、人の人生の意義を満たすことはできない。人はむなしくなる。ということを意味します。

次回へ続く

次回では、哲学者ハスラーが、高齢者の具体的な行動の深層をさぐり、そこから俯瞰・提案しているものについて、ご紹介してみます。次回もお楽しみに!

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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