「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(2) 〜スイスの哲学者が提示する高齢者が参加する未来
2021-01-10
スイスで近年、物議をかもしているハスラーLudwig Hasler の最新の著作『まだなにかするつもりがある高齢者たちへ。未来に参加すること』の内容に、前回(「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(1) 〜スイスの高齢者が直面している夢と現実))につづき、今回もスポットをあてていきます。今回は、特に、高齢者の行動パターンの深層を明らかにし、具体的で建設的な処方箋を提示している部分をみていきます。
前回に引き続き今回も、ハスラーの鋭いつっこみや、一歩踏みこんだ問いかけに耳を傾けることで、うろこが取れた目で新しい地平線がみえてくるような、新鮮な感覚と新しい展望を、お楽しみください。
その旅行、本当に必要ですか
ハスラーは、旅行や、アンチエイジングの一連の行動に没頭する高齢者について注視します。高齢者はよく、退職してからの計画として、旅行をあげます。これまで忙しくてできなかったら、これから旅をたのしみたい。南の島のバカンスや、遠い異国の冒険の旅、ゆっくり世界をまわるクルージング旅行や、未踏の山を踏破する山登り、巡礼の旅。そんな、さまざまな旅をすることが、退職後のあこがれとして信奉されてきたためです。
普通の人は、旅行にいきたいという気持ちは万国共通、普通の感情と片付けて、それ以上に問うことはないですが、ハスラーをしかしそこに、疑問符を置いて考えてみます。「その旅行、本当に自分に必要なのか?」旅行することは、そんなに「賛美(尊敬)することか。それとも、同情に値することか?」 (Nydegger, 25 Jahre)
わたしの言葉でここまでの、ハスラーの意図をまとめてみます。わたしたちのまわりには、旅行に関するイメージや評価があふれています。豪華客船の旅、素晴らしい見晴らしのホテルなど、(ほかの消費財同様に)商業的な情報や、ソーシャルメディアなどで個人によっても再生産される旅行の情報によって、旅行がいいもの、ほかの人にも感嘆・共感される、あるいは人にすごいと思ってもらえるような、すばらしいもの、と社会中で、見立てられています。このため、人々は戸惑うことなく、このイメージに従って旅行(という名目のうごきまわる行為に)時間とお金を消費しているのが現状です。しかし、みんなは、本当にそんなに旅行が好きなのか。そこまで行きたいのか。行って、楽しいと思っているのだろうか、と改めてハスラーは問いかけているようです。
行っても満たされないのなら、なんで行く?
ハスラーは、旅行にいくことや、旅行にいく人を批判しているわけではありません。それ自体「何も悪くない」として、否定も肯定もしていません。それでも、こんな疑問符をおくのは、ハスラーにとって気になることがあるためです。それは、旅行という行為自体ではなく、旅行にかりたてられる人の心情です。それで本当に、満たされているのか、という心境が気になります。
結論から先に言うと、ハスラーの目には、それだけ旅行をしても高齢者たちが、満ちたりているようにみえないようです。旅行をして自分の気分が満たされれば、問題ないのですが、旅行にいくらいっても、満たされず、旅が終わると次の旅を計画し、というふうに、せつかれるように終わりなく旅を続ける人がおり、年に10回近く、あちこちいく人も、昨今めずらしくなくなりました(この本が書かれたのは、コロナ危機以前なので、もちろん現在は少し違いますが)。
あるいは逆に、もし、旅行することで人生が満たされることができるなら、アルコール依存やうつ病になる高齢者が、少なくなってもいいのではないか、とハスラーの目に映っているようです(しかし現実には、前回でみたように、年金世代は、高い割合でアルコール依存やうつ病になっています)。
ハスラーは、いくらいっても満たされない旅行の意味、それでも旅行に駆り立てられる人の心情とは、一体なんなのか、と考えます。
そして、旅行をほんとうにしたくて、あるいは楽しんでいるのか。あるいは、それが本当に自分を豊かさに役立っているのか、と問います。そして、自分を豊かにも満たしもみないのだとしたら、「ただ、絶えず旅行ばかりしている Reisereiのは」、「とにかくここにはいたくない、という現実からの逃避にすぎない」(Nydegger, 25 Jahre)のでは、と考えます。
旅への幻想的な憧憬し駆り立てられても、その欲求が満たされることがなく、キリがないことも、ハスラーにとって気になるようです。それが、すこしずつ満たされる気持ちを増やしていくものなら、目標とプロセスがありますが、いくらしても、満たされないのであれば、それは、中毒、依存症である恐れがあります。
わたしの言葉でまとめると、見方によれば、旅行への憧憬、実際現実逃避のように旅にかられて旅ばかりするのは、自分はきづいていないだけで、ある種の中毒症状に相当するのではないか。中毒は、それが際限なく必要となる症状で、終わりがみえない。同時に、その駆られる症状は次第に強くなり、自分でもおさえられなくなる。一般的な感覚の人には、「病的」にみえる、バランスを逸した状態とでもいえるでしょうか。どこからと線引きするのは一概にはできません。年に1度や2度でなく、月に1度や年に半年近くも旅行にいくのは、おかしいのか。とも一概にいえません。ただ、自分で、じっくり内省的に自分の旅行に駆り立てる心情の中身や理由を考えてみては、と語りかけます。
同時に、旅行にいかずにはいられない心情とは、つまり内なる場所、つまり、自分の今いる場所で、意義あるものをみつけられていない、ということではないか、と逆に、つっこみます。際限なく旅行に駆り立てられることは、その人の直面している現実問題を如実に示していることにほかならないのでは、と憶測します。
アンチエイジングへの根本的な疑問
同様に、アンチエイジングの取り組みについてもハスラーは現実逃避なのではと疑問をなげかけます。人は老いる、という現実を直視できない現実逃避ではないか、と。
ハスラーは、自分が、「年よりずっと若くみえますね」と言われた時、腑に落ちない気持ちがするといます。言う方は、お世辞のつもりでいっているのだろうが、自分が鏡をみるとまさに年相応、それ以上でもそれ以下でもない自分の顔が写っている。自分が高齢でそうみえる。それだけのこと。なぜ、その認識をあえてゆがめる「お世辞」が必要なのか。
こまっている人のところへかけつけて!
旅をしてもアンチエイジングをしても際限がなく満たされず、不安や不満がたまっているのだとしたら、やはり、そのような状況をなんとかしなくてはいけない、とハスラーは考えます。
では、一体、なにをすればいいのでしょう。ハスラーは答えます。「きわめてシンプル。自分のことだけでなくほかのことにも意味(意義)を見出すこと。人生の意義を見失ってしまうのは、いつも、この「自分、自分、自分」という見方だから」。(Nydegger, 25 Jahre)。そして、人は、自分が自分のためだけでなく、ほかの人やほかのものに役に立っているとわかって、はじめて幸せになれる、と繰り返し主張します。
一方、ハスラーからポンとふられて、高齢者は思うかもしれません。しかし、退職者にできることは、社会にまだ十分あるのだろうか。役にたつのだろうか。ハスラーのこれへの答えも明快です。「もちろん。手が足りなくてこまっているところがたくさんある。高齢者が高齢者をたすけること。地域や、ほかの世代で助けを必要としているところも多々ありすぎるほど(Nydegger, 25 Jahre)」。ハスラーは、具体的に、地域の高齢者の助け合い組織を賞賛し、移民的背景の人を含む多様な社会の人々のライフステージにあわせた多様なサポートの在り方に未来の大きな可能性と必要性をみます。
もちろん、自分の孫の面倒をみるなどもいいでしょうが、「25年もみる孫がいるでしょうか?今日、そんなに孫がいる人はいないでしょう(Nydegger, 25 Jahre)」。だから自分の身内に限定せず、助けが必要なところにいって、自分の活力や能力をおしまず発揮しすればいい。
これは、ハスラーが自身に対して言っていることでもあるようです。「わたしも、もし講演依頼がなくなったら、村の学校の門をたたくでしょう。ドイツ語や数学で苦労していて、助けが必要なこどもたちはいませんか、と。そうやって、こどもたちをたすけることができるし、そうやって、未来にも自分が関わっていくことができる。自分がもういなくなっている未来に対しても(Nydegger, 25 Jahre)」
おわりに
ハスラーの意見は、高齢者たちの間の、自分の退職生活がバラ色になるという、あわい自己の幻想や自己弁明を、鋭く問いただし、打ち砕いてしまう強烈なパワーをひめているようで、高齢者世代から、かなり強い抵抗があり、辛辣なコメントを受けているそうです。
しかし逆にみれば、感情的にハスラーに対峙する同世代の高齢者には、うすうす自分でも、自分の生き方に満ち足りておらず、不安定な感情があったため、痛いところをつかれて、逆上している、という側面もあるのかもしれません。人生のなかで、どこどこにいった、なにをしたというアリバイ的なものや、他人からみえる見映え、本音を隠した建前が、自分の自信やほこりの拠り所になっているケースはよくあります。ハスラーの意見で、高齢者は、そういった体裁をとっていたはずのものがすべて取りはらわれ、無垢だしにさらされたように感じ、ハスラーに共感する余裕などなく、まずは自己正当防衛の本能から、憤りをハスラーにぶつけたり、焦燥感をつのらせた人が多くいたのかもしれません。
確かに、下り坂をゆっくり降りていくことを日々意識している高齢者は、ある意味、常に不安を抱えており、守りにはいる気持ちが強くなり、自分のすることや生き方を否定されるような発言にも過敏になっても不思議はありません。いまも人生が素敵に輝いていることを実感したいから、そんな風に思える素敵な人生のアリバイづくりに旅行をしたり、現実から逃避するためにアンチエイジングにいそしみたい。これの何が悪いのだ、と居直ることも可能です。
しかし、哲学者ハスラーにとって、重要なのは、みかけでなく本音、本質的な問題です。そのような人生が、当人にとって本当に残りの人生の有意義な過ごし方なのか、それが、それだけが問題です。だからこそ、世間の目やみかけをきにせず、高齢者一人一人が、自分の心情と現実を直視するよう、すすめます。
このように、この本のメッセージは、とても、まっとうに響く一方、(人によっては)大変過激にきこえるものです。このため、スイス人のなかで理解し消化するまでしばらく時間がかかると思われます。メッセージが社会全体にどう浸透し、実際になにかを誰かを変えていくのか、それとも変えないのか。それらがみえてくるのは、さらにあとになるでしょう。
最後に、もう一言。主に、若い人たちに向けて、一読者のわたしからも付け加えさせてください。
高齢者のなかで、考えていくうちに、「旅行」と称してあくせくうごきまわる行為や、アンチエイジングに没頭するかわりに、社会が必要とするところに真摯に関わっていくことで、自分たちの物理的な形がなくなったあとも、未来の世代や社会に、自分の一部を伝えていこう、というハスラーの提案のほうが、望ましいと思える人が、徐々に増えていくかもしれません。
そして実際に、高齢者が、社会でなにかの助けになりたい、再び積極的に社会に参加してみよう、社会にもどってこようとした時、社会はそれをどう受け止めるでしょう。高齢者のなかには、最初は、すこしおぼつかない足取りで歩み寄ってくる人もいるでしょう。時には、受け入れ側に、忍耐や柔軟さや寛容さを要することもあるでしょう。それでも、高齢者を、暖かくむかえ、いっしょに協力して、社会で山づみになっている課題に向かっていく、その気持ちの用意が、受け入れ側の若い世代に、できているでしょうか。
ハスラーのメッセージは、高齢者の一部に強い反感をかっていますが、逆に若い世代の間では支持者や同調者が多いそうです。ハスラーの本は、主として高齢者に向けたものですが、高齢者だけでなく、若い人たちもまたそのメッセージを受けて、高齢者と若者が協力していける多世代共存の社会構築を肯定し、それを強化・補強していくようより積極的に役割を担っていくことが、期待されます。
(高齢者も、若者も)みなさん、出番です!
参考文献
Alter und Suche, Alkoholkonsum im Alter. Die stille Epidemie?
Batthyani, Sacha, Was ist nur mit den Alten los? Bremsr beim Klima, uneinsichtig bei Corona. Philosoph Ludwig Hasler stellt sich den brennenden Fragen an seine Generation. In: NZZ am Sonntag Magazin. 17/2020, S.8-11.
Bundesamt für Gesundheit (BAG), Alkohol im Alter (2020年12月22日閲覧)
Jung gegen Alt? Philosophischer Stammtisch der Generationen | Sternstunde Philosophie | SRF Kultur, 2020/06/22
Nydegger, Eva, «25 Jahre Enkel hüten?». In: Coopzeitung, 17.5.2020.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
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