ベーシックインカム 〜ヨーロッパ最大のドラッグストア創業者が構想する未来

ベーシックインカム 〜ヨーロッパ最大のドラッグストア創業者が構想する未来

2016-04-01

ドイツでは、 起業する人を後押しする社会的風土を作っていこうという目的で2002年から毎年ドイツ起業家賞という賞の授与がはじまり、毎年授与されています。賞にはいくつかのカテゴリーがありますが、2014年に「ライフワーク」というカテゴリーの賞を受賞したのは、ゲッツ・ヴェルナー Götz Werner という人物でした。
ヴェルナー氏は、1973年にドイツのカールスルーエで開店したドラッグストア「デーエム(dm)」の創業者です。デーエムはその後順調に成長し、現在、国内最大のドラッグストア・チェーンであるだけでなく、チェコ、オーストリアから ルーマニア、ブルガリア、マケドニアまで合わせて中東欧12カ国に支店を広げる、ヨーロッパで最大のドラッグストア・コンツェルンとなっています。2014年10月からの1年間の間で、ドイツ国内だけで144の新店舗がオープンし、ドイツ国内では77億ユーロ、ヨーロッパに展開するコンツェルン全体では、90億ユーロの売り上げにのぼりました。扱っている商品数は12万5千点、そのうち3500商品はオリジナルブランド商品です。
しかしデーエムの真骨頂は、 単なる売り上げや規模の大きさにではなく、 顧客と従業員の満足度に一番よく現れていると言えるでしょう。最近15年間のアンケート調査で、ドラッグストアとしてドイツで一番の人気を維持しているだけでなく、2015年11月には、ドイツの小売業者のなかで、最も顧客に人気があるという結果もでています。海外の企業をいれると、ドイツ以外の小売業者であるアマゾンとIKEA(スウェーデン系の家具会社)に次いで3位でした。そんな高い人気を誇るデーエムに訪れるドイツ国内の顧客数は、毎日、190万人にのぼります。
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また、デーエムには2015年9月現在、ドイツでは3万8千人が1744支店で働き、ヨーロッパ全体では5万5千人が3224支店で働いていますが、今年はじめに発表された、ドイツの500人以上の従業員をもつ22種の業界の会社従業員7万人へのアンケート調査でも、最も従業員に愛されている会社という結果がでています。デーエムで働きたいと思う人も多く、2014年10月からの1年間に、この企業に応募した人数は、22万人以上だったといいます。
デーエムのこのような輝かしい業績や名声は、創業者であるヴェルナー氏によるところが大きいとされます。今回のドイツ起業家賞授賞理由にも、ヴェルナー氏の長い企業運営のなかで育まれた、人を中心に据えた企業倫理観について言及されています。デーエムは企業が巨大なチェーンストアとなり、仕事の細分化が進んでいっても、日々のルーティーンワークと革新性のバランスを大切にし、上司と従業員がお互い同じ目線でコミュンケーションをとることを重視し、命令を受けるのではなく、自分自身の責任と受け止めるという社風を作ってきました。それぞれの支店で働く従業員たちは、それぞれ何を注文し、店頭に並べるか、さらに自分自身の給料まで、自分たちで決めることができます。
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ヴェルナー氏自身は、これまでも環境や社会に様々な形で貢献してきたことが認められ、すでに多数の賞を受賞しています。会社経営の一線から引退した後、2010年に自分がもつ会社関連の資産も7人の子供に譲るかわりに公益財団を設立しそこに全額を寄付したことも話題になりました。さて、このヴェルナー氏、ここ十数年の間、企業家としての成功を享受するだけでなく、未来の社会全体にさらに目を広げて壮大な構想を抱くようになり、72歳の現在においても、そのユートピア構想の伝道者として、日々奔走しています。それは、無条件の基礎所得保障という構想です。ベーシックインカムという英語名で日本でも知られているこの考え方自体は、これまで歴史上、複数の人に提唱されてきたもので、時代的・社会的背景や目標が異なり、近似する制度なども多数ありますが、ここでは、ヴェルナー氏の唱えるベーシックインカムの考え方について、彼の昨年2015年の連続講演会と質疑応答の要旨( 3時間弱のユーチューブにアップされているビデオで視聴して)をまとめて、以下、簡単に紹介してみたいと思います。
今日の社会では、就労ができない例外的な事情の場合、最低の生活を保障する生活保障制度はありますが、通常は、労働によって収入を得ることで生活を成り立たせるというシステムになっています 。つまり収入は労働に対する報酬です。しかしヴェルナー氏は、収入は働いて初めて得られる報酬であるべきではなく、誰にとっても働くため、生きるための前提としてあるべきだと考え、社会の成員全体を対象にした無条件のベーシックインカムを推奨します。仕事の有無に関係なく基本的な収入が確保されることで、人は収入を得るためにいやいや仕事をしたり、いつ首になるかわからないことに怯えながら働かなくてもよくなります。代わりに自分自身が何をするか決められることになるわけですが、そうなっても無責任で自分だけのことを考えるような活動をする人が増えるのではなく、むしろ自己のすることに責任と誇りをもって生き生きとクリエイティブに働く人が増やすことになるとします。そして、人々は自発的に自分で意義があると思える仕事やボランティア活動などの課題に従事するようになり、就労や人生全体の意味を深めたり、充実させることができるようになると考えます。気になるベーシックインカムの財源については、もろもろの社会保証手当や所得税を廃止し、関連する役所仕事も大幅に減らし、その分消費税をあげることで、 確保できるとします。しかし現在の税制はそもそも、歴史的遺物にほかならず、ベーシックインカムを導入する際には抜本的に税制自体も変更しなくてはいけない、というのがヴェルナー氏の持論です。
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このような構想を聞いて、多くの人がする真っ先の反応は、そんなのは理想郷に過ぎず、実際は、自己中心的な怠けものが増えるだけで、生産性が落ちて社会が混乱するだけだというものでしょう。かつての理想と現実が乖離してあえなく崩壊した、東ドイツやほかの共産主義国を想起する人も少なくありません。そんな平行線をたどる性善説的なベーシックインカム論者とその反対論者の間で、ヴェルナー氏がよく引用する話は、ベルリンの壁が崩壊した時の自分自身の体験です。車に乗って何気なくラジオをつけると、ベルリンの壁が崩壊したニュースが流れたと言います。自分が生きている間に絶対に実現しないと思われていた強固な壁が、またたくまに崩壊して、新しい時代が気づいたらもうそこに到来していたという感慨深い経験でした。そして、たいていの人は、なにか大きな新しい変換が実際に起こるその瞬間まで、それをユートピアや非現実的だと思い込み、否定するものだが、このベーシックインカムという制度も、同様に、ある時点から急に現実味を帯びてくるものになるかもしれない、と言います。
確かに歴史をひもとけば、数年前には想像もできないようなことが実際に起きることを目の当たりにする経験はめずらしいことではありません。北欧で数年後に実現される見通しの、現金を一切なくしたキャッシュレス化社会も、その好例でしょう。(これについての詳細は、「コインの表と裏 〜 キャッシュレス化と「現金」ノスタルジー 」をご参照ください。)
それでも最後の瞬間まで、人はとかく変革を恐れ、現状に目を向けないための弁解の理由を懸命に考えがちです。また、新しいアイデアに落ち度を見つけて批判したり、非現実的だと鼻であしらうことも簡単です。その逆に、それが長期的に適切なことなのかを常に吟味して、未来を構想することは、あまりにも様々な要因が関連しており、複雑で困難な作業です。 しかし、近年、人工知能やオートメーション化が加速度的に進化・発達に伴い、社会や就業のあり方が根幹から覆される可能性が声高に主張されるようになってきており、ドイツで発言力のある哲学者として知名度が高いプレヒトの言を借りると、自分たちがどのように働くのか、生きる意義をどういうところに見いだすのか、またそのためにどのような社会であるべきか、どのような進歩が大切なのかなど、これまで未来を語る際にほとんど真剣に取り扱われてこなかったテーマについて緊急に社会で議論されていなかくてはならなくない時点にきている、といいます。
このような状況下、この一見突拍子ないとしか思えないベーシックインカム構想は、業績としても企業文化としても非の打ちどころのないデーエムのような優良企業の創業者が推奨していることもあり、近年、たびたび話題にのぼり、人々の関心を集めてきました。そして未来の社会のあり方を考える際の一つのヴィジョンとして、今日、ヨーロッパの見識者の間では一定の知名度と評価を得ているという印象を受けます。人口比ではいまもベーシックインカム支持者は圧倒的なマイノリティーですが、ヨーロッパ中に支持者が散在するようになり、各地で世論を刺激しています。今年6月にはスイスでは、ベーシックインカム制度を国に導入するか否かが、国民投票にかけられるところまで盛り上がっています。(しかし国会ではほとんど支持が得られておらず、メディア各社も、ベーシックインカムは孤立した小さな「ロビンソン島でしか通用しない」(ターゲスアンツァイガー日刊紙)という見出しにも表れているように、難民やテロ問題など混乱したヨーロッパ大陸の現状に見合っていないという、冷ややかな態度が目立ち、制度導入は難しいというのが、大方の見方です。)さらに、フィンランドでは 、2017年からベーシックインカムを実験的に導入することを計画中です。
ただし、国民投票の結果や、モデル地域の一実験結果で、ベーシックインカムの構想の結論を急ぐべきではないでしょう。ベーシックインカムは、国民総動員で向き合わなければならない、これまでの経済的な営みと社会の意識を根幹から揺るがすような壮大な構想であり、 当然、簡単に実現できたり、すぐに結果がでるものではないためです。いずれにせよ、ベーシックインカムの真骨頂である、経済効率や生産性にだけ振り回されず、人や人生の意義を中心に社会変革を進めようとする根幹の発想は、未来の人類の歴史においても、簡単に諦めてもらわず、 ヨーロッパや世界全体でも生き延びつづけてほしいものだと思わずにはいられません。
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参考サイト・文献
—-ゲッツ・ヴェルナー氏のドイツ起業家賞「ライフワーク」受賞について
Ein Ort für das Leben
—-デーエムについて
Focus und Xing-Studie: dm ist Deutschlands bester Arbeitgeber
dm ist zum dritten Mal in Folge Deutschlands beliebtester Händler
dm ist zum dritten Mal in Folge Deutschlands beliebtester Händler
—-ゲッツ・ヴェルナーGötz Werner
ウィキペディア ドイツ語版
ウィキペディア日本語版
—-ゲッツ・ヴェルナーGötz Werner の2015年の連続講演会と質疑応答(ビデオ)
Mercator-Professur 2015 - Götz W. Werner “Wirtschaft heißt, miteinander füreinander leisten.” Vortrag am 27.4.2015, im Audimax am Campus Duisburg der Universität Duisburg-Essen / Vortrag 1 (27.4.2015)
Mercator-Professur 2015 - Götz W. Werner / Diskussion zum Vortrag 2 (2.12.2015)
https://www.youtube.com/watch?v=3P-DOy4ePA8
https://www.youtube.com/watch?v=3kCsxH-I6Bw
—-ほかのベーシックインカム関連サイトと記事
Bedingungslose Grundeinkommen (Wikipedia, deutch)
Sind 1000 Euro die schöne neue Sozialstaatwelt?, Die Welt, 10.12.2015.
BGE Bedingungsloses Grundeinkommen © Bayerischer Rundfunk
Rudolf Strahm, Grundeinkommen ist nur für die Robinsoninsel
Die Forderung nach 2500 Franken ohne Bedingung muss eine Utopie bleiben, Tagesanzeiger
, 28.3.2016.
„Es hat genug für alle!” Eine gesellschaftpolitische Bewegung strebt eine gigantische Umverteilung der Einkommen an -wer sind diese Leute?, NZZ, 19. 3. 2016.
Parlament gegen «bedingungsloses Grundeinkommen» , SRF News, 17.12.2015.
Arvid Kaiser, Finnland plant bedingungsloses Grundeinkommen 1000 Euro für jeden? Was die Finnen wirklich vorhaben, Manager Magazine, 11.12.2015.
—-哲学者プレヒトへのインタビュー(ビデオ)
Richard David Precht im Interview: “Industrie 4.0”

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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