嗅覚を活用した産業、ビジネス、医療 〜ドイツの最新嗅覚研究からの示唆
2016-07-07
みなさんが飛行機でどこかへ渡航される際、最初に降り立つ空港内で、自分が本当に外国にいるのだと、実感なさるのはどのような時でしょうか。空港内の従業員の姿やアナウンスの外国語の響きでも、もちろん外国であることがよくわかりますが、わたしにとっては、なにより免税店の香水の匂いなどが混ざったような空港室内空間に広がる独特の匂いを嗅いだ時です。初めて海外に行った時の不安と興奮が入り混じった遠い記憶がよみがえり、日本じゃないんだという実感がふつふつと湧いてきます。
実際、嗅覚は五感のなかでも非常に強く多彩な感覚で、数十年たっても未だ鮮明に思い出せるほど記憶と強く結びついているということが、ここ数十年の間の嗅覚に関する目覚しい研究成果のおかげでわかってきました。ヨーロッパの歴史においては長い間、匂いをかぐという行為が動物的であり、「高等な」人の社会・文化的行動規範にそぐわないとし、聴覚や視覚に比べ嗅覚を軽視する傾向が強かったのですが、嗅覚は、日々の生活をつつがなく進めるための、視覚や聴覚にまさるとも劣らない重要な役割をするものであると言えます。嗅覚の研究のおかげで、嗅覚に対する注目も最近高まっており、少なくともドイツ語圏では、ちょっとした嗅覚ルネッサンスといった感じです。
このような嗅覚復権に大きく貢献したのが、近年続々と新しい発見をしているボッフム市のルール大学のハンス・ハットHanns Hatt教授です。教授は研究に従事するだけでなく、ヒトや動物の嗅覚の研究成果を、著作やメディアを通じて一般の人にわかりやすく伝えることにも精力的で、その貢献を讃えられ2010年には、ドイツ研究振興協会(DFG)からコミュニケーター賞という賞も受賞しました。今回は、このハット教授の手ほどきを受けながら(つまりマスメディアで取り上げられた数々の記事をもとにするということですが)、嗅覚研究の現状と社会や産業界に広がる新たな可能性を、ご紹介してみたいと思います。
スイスの香料産業
その前にまず、嗅覚を応用した産業やビジネスの現状についてスイスを中心に概観してみましょう。嗅覚に関わる産業といえば香料産業ですが、香料と聞いて、みなさんが真っ先に連想なさるのは香水かと思います。全世界的にみると香水の売り上げは400億ドルに達し、今後新興国の需要を受けてさらに伸びると予測されています。ただし、香水を販売している各社の名前やブランドは、世界的にも知名度が高いわりに、香水を自ら生産しているところは意外に少数派です。多くの場合、香料メーカーが、香水を販売する会社からの依頼を受け、要望に合わせて実際に調合・生産しています。
香料メーカーが生産しているものは、しかし香水類にとどまりません。洗剤、シャンプー、日焼け止めクリーム、トイレの芳香剤など、あらゆる消耗品に含まれる香料からアロマなどの食品香料まで、香料を手広く生産しています。近年は特に、健康志向のトレンドを追い風にして、ジュースや、アイス、加工食品、パンや菓子類など多種多様の食品において、脂肪やナトリウム(塩分)、砂糖を減らしつつも、味を落とさないようにするための手段として、様々な香料の需要が顕著に高まってきています。
スイスには、このような香料産業の最先端をいく大手老舗香料メーカーが二つあります。香料の世界市場シェア1位のギボダンGivaudanと2位を占めるフィルメニッヒFirmenichです。ジュネーブに本社を置くギボダン一社だけで市場の25%、2社合わせると世界全体の香料市場の4割近くを占めています。ギボダンは約5500種類の香料エッセンスを常にストックしており、これらを混ぜ合わせ、毎日、数トンの香料を製造しています。
ただし香料は、 非常に個人や用途によって趣向が違うため、一律に大量生産できるものではありません。一番使われている香料の種類でも、市場全体ではわずか4−6%を占めるにとどまると言われます。国や文化によっても香りの趣向は大きく異なるため、中国、ブラジル、インドなど近年香料全般の需要が目覚ましく伸張している新興国の国々での需要をいち早く見つけ、あるいは新たに生み出すことができるかが、香料メーカーにとって将来の明暗を分ける生命線となります。
このため、大手香料メーカーはどこも研究開発にしのぎを削っています。その一環として、さらにギボダンでは、香りの専門家の育成を目的としたギボダン芳香学校も運営しています。この学校は、芳香分野の名門中の名門と知られ、市場にでる香料の3分の1は、この学校の卒業生によって作られているとも言われます。
香料マーケティング
香料入り商品や食材の攻勢と並行し、ここ数十年、香料を使った新たなビジネスも生まれてきました。バニラの匂いがする人に好感をもつとか、コーヒーの匂いがする空間はリラックス効果が高いなど、普段意識していないのに体や自分たちの行動や決定事項に影響も与えている香りの成分が、次々と最新の嗅覚研究で明らかになってきており、これらの効果を端的に応用したのがそのビジネスです。
香料マーケティングと一般に言われるもので、商品の売り上げや会社のイメージアップ、また快適な空間の演出を目的として、具体的には接客の場や売り場に特定の香りを放つというものです。20年ほど前からアメリカなどを中心に展開し、国際的な銀行や衣料品店、飛行機や車、ホテルロビーなどを中心に世界的なトレンドとしてある程度定着してきています。
しかし、それが実際にどのくらい売り上げや良いイメージ効果になっているかは、未だにはっきりと把握されていません。前述のように人によって香りの好みは多様であり、また単純に恒常的あるいは大量に投入される香りが、逆に人々に嫌悪感を強くさせる作業があることも考えられ、スイスの大手小売業社では、できたてのパンの芳香など自然にでてくる香りを店頭に放つ以外は、今もほとんど導入されていません。
一方、物を売ったり、好感を高めるなどの健康、快適さを追求する産業・ビジネス分野にとどまらず、リハビリや最新治療の可能性としても、香料への関心や期待が急速に広がってきています。
嗅覚の退化
ところで、匂いは、鍵と鍵穴のように、それぞれの匂いにそれに対応する嗅覚受容体というのがヒトには350あり、その嗅覚受容体(においセンサー)が匂いを感知し、脳にシグナルとして送信することで認識されます。ほとんどの匂いは多数の匂い分子が混ざったものであり、ひとつの匂い分子に対しても複数の嗅覚受容体が反応するため、感知される匂いのパターンは無限に近く組み合わせが可能で、非常に複雑です。このため、これまで知覚や聴覚に比べて嗅覚の研究はずっと遅れてきたのですが、近年やっと研究が進み、体の様々な部分も嗅覚と呼応して機能していることが明らかになってきました。
嗅覚は、脳の記憶や感情に強く関わっています。鼻は、呼吸するたびに香りを、脳に送り、直接記憶や感情の中心となる脳に送るためです。これは逆に言うと、嗅覚が衰えると、嗅覚以外の様々なところにも問題がでてくるということになります。脳に記憶されている思い出を端的に失うことになるだけでなく、味がよくわからなくなるため食欲も減退しますし、言語がスムーズに出なくなったり、鬱の症状になるなど、体の様々な不調に関連してきます。
しかし残念ながら嗅覚は年とともに全般に衰えていきます。65歳以下の2%、65歳以上は二人のうち一人に嗅覚退化がみられ、70歳以上の3分の1が、嗅覚を喪失しているとも言われます。さらに困ったことに、臭覚はメガネや補聴器のような補助器具によって、矯正することができません。
また今日、買い物先でも嗅がなくても賞味期限を視覚的な情報として入手できたり、危険な匂いを察知するセンサーが作動する、といった便利な世の中になっていることで、嗅覚がどうしても必要とされる機会も相対的に減っています。
嗅覚トレーニング
しかしハット教授は、使う機会が少なくなったとはいえ、昔の人に比べ、今の人の鼻が劣っているわけではないといいます。アメリカの研究者C. Bushdidによると、今でも人間は少なく見積もっても1兆種類(!)の嗅覚刺激を区別できるとされます。聴覚が約34万の音を聞き分けられ、目は230万から750万の色が識別できるのもすごいですが、嗅覚がそれらをはるかに上回る非常に高い感度の感覚であることがわかります。
衰えた嗅覚もトレーニングによって、完全には復活しないまでも、かなりの程度、回復できることが最近わかってきました。新たな色々な匂いを毎日嗅ぐことで、受容体と嗅覚細胞が増え、脳において、 新しい構造でそれらの香りが記憶されるようになり、嗅覚の喪失をかなり防げるようになるといいます。
また、これは高齢者だけで普通の人全般にも使えることがわかってきました。健常者と思っている人の間でも、汗、ミント、ビャクダンなどの特徴的な匂いで調べた結果、これらの匂いを部分的に判別できない人が意外に多くいることもわかってきたのですが、これらの人も日々トレーニングすると平均して100日後には、嗅覚が回復するという結果がでてきています。
特に嗅覚に問題のない人でも、色々な匂いを嗅ぐ嗅覚トレーニングは、意識的に匂いをかぎ、感情や記憶を呼び覚ますとき、脳で多くの場所が活性化されることもわかってきました。その時活性化される脳の部位は、計算ドリルや数独(すどく)などのいわゆる脳活性化トレーニングとは比べものにならないほど広くなるといい、嗅覚のトレーニングは、計算などの脳トレーニングよりも脳を刺激し活性化させる、とハット教授は豪語します。
ハット教授は、トレーニングの簡単な方法の一つとして、匂い成分を入れた容器を中身が見えないように少しだけ開けて、その中身をあてるというようなゲーム感覚のトレーニングも薦めていますが、ドイツやスイスでは、多様な匂いのエキスから匂いを推理したり、匂いを神経衰弱のように絵札とマッチさせるといった、ゲームがすでに何種も出ています。手っ取り早くあるいは、ゲーム感覚でトレーニングを行いたい人には、これらの市販の香料ゲームセットも選択肢になるでしょう。
最新の香料を用いた医療
また近年、嗅覚受容体が、鼻だけでなく頭や、皮膚、前立腺、胃腸の細胞や精液にもあることが次々と発見されています。そして、匂いを特定の部分で感知することで、体内の様々な部分が連絡をとりあい、作用し合うしくみがあることがわかってきました。例えば、肝臓ガンの嗅覚受容体を、柑橘系の匂い分子によって活性化させ、それによってガン細胞の増殖を抑制したり、静止させることができることが、まだ臨床段階ではありませんが、理論上は可能なことが、今年新たに発表されました。ハット教授の研究チームの半分は、現在鼻以外の部位の嗅覚受容体の研究に従事しているとのことで、今後さらに鼻以外の部位の嗅覚受容体の働きが解明され、その応用可能性がさらに広がることが期待されます。
健康・医療分野以外でも、これまでの製造ラインでの常識やビジネスの在り方とは発想が大きく異なる応用可能性が見えてきました。例えば、コルクの匂いや体臭を感知する嗅覚受容体など様々なものがすでにみつかっており、もしも今後、これらの特定の匂いを感知する嗅覚受容体の感知スイッチを、鍵穴を塞ぐように技術的にオフにさせる技術が可能になれば、商品の生産の在り方やビジネスを根幹から変えることも考えられます。例えば、コルクの匂いを感知する嗅覚受容体をオフにすることで、コルクの匂いのもとを取り除かなくても、コルクの匂いのない美味しいワインを飲むことができるようになります。また足や体臭も、それ自体を取り除くのではなく、嗅覚上の操作でそれを気にならないようにすることができます。
今後また嗅覚研究からどんな新しい研究成果が出てくるのでしょう。また、社会や臨床の場においてそれらはどんな応用の可能性を開いていくのでしょう。ハット教授が薦めるように「目だけでなく、鼻をひろげて」日常生活や世界を捉え直すことで、見慣れた世界に、新たな地平がどんどん広がっていきそうです。
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<参考文献・サイト>
——香料産業について
Die Perfekte Verführung, Hintergrund und Gesellschaft, NZZ am Sonntag,S.24-7,20.9.2015.
Barbara Reye, Lust auf Duft, Tagesanzeiger, 23.12.2015.
Christoph G. Schmutz, Düfte aus Genf gehen um die Welt, NZZ, 13.9.2012.
Givaudan erfüllt die Erwartungen, Parfumhersteller, NZZ, 30.1.2015.
久保村喜代子、「世界の香料産業とそのトレンド」、久保村食文化研究所(2016年6月26日閲覧)
——香料マーケティング
Duftmarketing Wikipedia (Deutsch)
Tom König, Duft-Marketing: Der Geruch der Verzweiflung, Spiegel Online, 26.12.2013
Nicht nur mit Bildern verführen. Duftmarketing beeinflusst Kunden bei ihren Kaufentscheidungen, NZZ, 26.4.2012.
——ハンス・ハット教授の研究に関する記事
Herr der Düfte, Auf Besuch im Labor des Duftforschers Hanns Hatt, NZZ, 21.6.2009.
Krebszellen haben Riechrezeptoren Duftstoffe als Therapie der Zukunft?, SWR2, 27.1.2015.
Gerüche: “Den Fußschweißrezeptor kennen wir auch schon”, Spiegel Online, 08.01.2014
Anatol Hug, Besser als Sudoku: Mit der Nase das Gehirn trainieren, SRF, 7.4.2016.
Communicator-Preis 2010 an Hanns Hatt
Fabienne Hübener, Auf der Suche nach dem verlorenen Duft, Verlorener Geruchssinn, NZZ, 5.2.2016.
Hanns Hatt, Wir haben verlernt, am anderen zu riechen, Migros Magazin, 19, 9.5.2016, S.39-43.
Die Erforschung des Riechens - Interview mit Hanns Hatt, Planet Wissen, 14.7.2014.
Herr der Düfte, Auf Besuch im Labor des Duftforschers Hanns Hastt, NZZ, 21.6.2009.
——他
人の鼻が1兆の匂いを嗅ぎ分けられることについて
“Humans Can Discriminate More than 1 Trillion Olfactory Stimuli” von C. Bushdid et al. in “Science”, erschienen am 21. März 2014.
(私が読んだのは次の論文解説
Nase kann eine Billion Gerüche unterscheiden, Science ORF.at, 21.3.2014.)
Riechgymnastik trainiert den Geruchssinn, Die Welt, 11.9.2007.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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