ミュージアム・パス 〜スイスで好評の全国博物館フリー・パス制度

ミュージアム・パス 〜スイスで好評の全国博物館フリー・パス制度

2016-10-16

映画館よりも来場数が多いスイスの博物館
スイスでは、博物館に行く人が増えています。2014年スイスでは2080万人が博物館に行っており、この総数は映画館の総入場者数(1480万人)よりも圧倒的に多い数です。(ちなみに以下の記事の「博物館Museum」には、日本語で一般的な「博物館」だけでなく、美術館、植物園、動物園、古城なども含まれています。今回扱った資料の多くで、特定のテーマや目的で展示・公開されている鑑賞・観察を目的とした公共施設が、一括して「博物館」として扱われていたためですので、あらかじめご了承ください。)
特に2010年代に入ってからその増加が顕著で、スイス在住者で、1年で少なくとも一回以上博物館を訪れた人の割合は2010年に人口の46%だったのに対し、わずか4年後の2014年には59%になっています。年間4カ所以上の博物館に行く人も、2004年には13%だったが、2015年18%に増えました。スイス在住の人だけでなく、海外からスイスの博物館に来る人も近年急増しています。特に2015年は、前年比で外国人の博物館入館者数が1.5倍増加しました。過去10年に、200の新しい博物館もオープンしています。
インターネットで多様なコンテンツがいつでも簡単に入手、閲覧できる時代において、なぜスイスでは博物館に行く人が増えているのでしょうか?とりわけ外国人にとっては、物価が世界一高い国とされるスイスで博物館に行くの経済的に負担が大きいはずなのに、なぜ外国人の入場者数が急増しているのでしょう?
博物館が開催するイベント
スイス全体の博物館入館数が近年増えている理由は、大きく二つあると考えられます。それは、全国の博物館が共同して毎年開催しているイベントと、博物館にまつわる新しい制度の普及です。
全国的に博物館が共同して開催するイベントは二つあります。一つは、国際博物館の日と世界的に定められている5月18日に近い日曜日の一日を、国際博物館の日にちなんで、無料で博物館に入館できる日として門戸を開けるイベントです。 イベントに参加する博物館は年々増える傾向にあり、今年はスイスの250博物館が参加しました。
二つ目は、博物館の開館時間を大幅に延長して夜中まで博物館を訪れるようにするイベントです。普段は5時に閉館する町の博物館が、夏の週末の一夜だけ、一斉に深夜の12時や1時まで開館時間を延長し、開館中博物館の間ではシャトルバスも運行して、博物館のはしごもできるようにします。付近のカフェなども夜中まで営業するなど、町ぐるみで盛り上がる恒例行事でもあります。20年前にベルリンではじまった企画でしたが、夜の街の広域が会場となる一大イベントとしてその後、ヨーロッパの都市の間で急速に広がってきました。 5月から9月の間、各地でこのような催しものが開かれています。
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夜のリートベルク美術館Museum Rietberg(チューリッヒ)

全国共通のミュージアム・パスの誕生
このような大型イベントと並行して、年間を通じて博物館への動員数を底上げするのに貢献しているのが「ミュージアム・パス」という制度です。これは、ミュージアム・パスというものを入手すると、その後1年間あるいは恒常的に、この制度に参加している博物館のどこにでも何度でも行くことができるというフリー・パス制度です。1996年に、博物館や文化の振興のためミュージアム・パス財団が設立され、新たな博物館入館のツールとして、スイス全土でスタートしました。
今年でちょうどこの制度が導入されてから20年たちましたが、この間、ミュージアム・パスの発行数に並行して、パスを使った博物館入場者数も劇的に増加してきました。昨年2015年は、このパスを使った博物館入場者総数は80万人以上で、2004年の2倍以上となっています。これまでに174万のミュージアム・パスが発行されており、昨年2015年の発行数は前年比で5.7%増えています。ミュージアム・パスの収益も昨年は800万スイスフランにまで達しています。
ただし、ミュージアム・パスがはじまった1996年当初からこのように順調にいっていたわけではありません。全国の博物館を対象にするミュージアム・パスというアイデアは、スイスだけでなく、ヨーロッパでも前代未聞であったため(ちなみに特定の都市や地域での数日間に限られたミュージアム入館パスのようなものは、観光促進の目的で各地でみられます。)最初は博物館側も参加に消極的で、初年にミュージアム・パスの制度に参加した博物館は150館だけでした。利用者の数もふるわず、初年は、3万程度という販売予想をはるかに下回る3000ほどのパスしか販売されませんでした。
ライフアイゼンバンクの協賛
しかし2000年からライフアイゼンバンクReiffeisenbankという銀行が、ミュージアム・パス財団のパートナーとなると、状況が好転していきます。まず、それまでミュージアム・パスは、1年有効期限のパスを購買するという形でしか入手できなかったのですが(ちなみに2016年現在、年間パス代金は166スイスフランです)、ライフアイゼンバンクがパートナーになったことで、この銀行の特定のクレジットカート保有者は、自動的に自分のクレジットカードを、ミュージアム・パスとして使えるようになりました。なんの手続きもいらずに、ただ通常のクレジットカードを博物館入口で提示するだけで、無料で入館できるようになったのです。
ライフアイゼンバンクは、スイスで100年以上の歴史をもつ銀行であるのと同時に、協同組合です。協同組合という立場から、組合員の文化的な福利厚生の貢献や文化や地域経済の振興にもつながると考え、ミュージアム・パスを支援するようになりました。(ちなみにスイスではライフアイゼンバンクに限らず、協同組合という形態が今でも根強い支持されており、市場でも重要な役割を果たしている協同組合がいくつもあります。詳細は、「協同組合というビジネスモデル」をご参照ください。)
ミュージアム・パスのカード化
顧客に無料でミュージアム・パスを配布するという前代未聞の福利厚生策が講じられたことによって、銀行の顧客の一部である40万人が一挙にパス所持者になりました。その後、さらに銀行のデビットカードもミュージアム・パスとして有効となり、ミュージアム・パスの利用者数が拡大していきます。 カード所有者一人につき16歳未満の5人の子ども(親戚関係にない子どもにも有効です)も、無料でいっしょに入館することができます。このような簡単で便利な制度を利用し、2015年までに、銀行の兼用パスで53万人が博物館に入館したといいます。
ライフアイゼンバンクの銀行経営にとっても、ミュージアム・パスとの提携は、メリットをもたらしました。新規の顧客の獲得です。パートナー関係がはじまって15年たった2015年においても、博物館パスを兼ねる銀行カードの新規発行数は、前年より5.8%増えています。マイナス金利時代が続き、新規の顧客獲得で苦戦する銀行が多いなかで、ライフアイゼンバンクにとってはミュージアム・パスという特典が、顧客をひきつける重要な武器のひとつになっているようです。
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ヴィンタートゥア美術館 Kunstmuseum

広がる協力関係
ライフアイゼンバンクがミュージアム・パス事業に参入し、ミュージアム・パス保持者が増えてきたところで、これまでミュージアム・パスに猜疑的であった博物館の間に変化がみられるようになります。 これまで参加を躊躇していた博物館が態度を一転して、むしろ積極的に参加するようになったのです。この結果、現在はスイス全国で500近い博物館が、ミュージアム・パス事業に参加しており、パスを見せれば無料で入館することができるようになりました。小国スイスにおいて500という博物館の数は非常に大きな数であり、わずかな例外を除き、ほとんどの全国の主要な博物館に、ミュージアム・パスで無料入館できるようになりました。
ミュージアム・パスの威力は、実際に博物館にいくと実感できます。わたしもパスの愛用者の一人ですが、 一言でいえば、博物館の敷居が低くなったとでも言うのでしょうか。子連れ世代にとっては週末の気軽な行楽として楽しめますし、シニア世代にとっては、博物館が、出費を気にしない気晴らしの楽しみにも、街中へ出かけるきっかけともなるでしょう。自分に気に入るか事前にはよくわからない展示内容でも、無料なので躊躇なく、ちょっと立ち寄る気になれます。ミュージアム・パスは家族連れやシニア世代はもちろん、すべての人にとって、気軽に博物館に立ち寄れる機会を作ってくれているように思います。
さらに、ライフアイゼンバンクだけでなく、ミュージアム・パスとパートナーとの提携に関心をもつ企業も増えていきました。一つは、スイスの国鉄です。国鉄がパートナーとなったことで、各駅の切符売り場でミュージアム・パスの購入が可能となり、売り場の数が一挙に増えました。売り場が増え、鉄道の切符と合わせて購入できるという便利さも増したことで、国鉄切符売り場でのミュージアム・パスの売り上げは、その後順調に伸びていきます。現在では、購買されるミュージアム・パスの半分以上の62%が、スイスの国鉄の販売所で売られています。国鉄はさらに、ミュージアム・パスをみせると、鉄道旅行も1割になるという実験的なサービスを行ったところ、これも好評で、現在この実験的なサービスは延長継続されています。
また、スイスの国鉄や観光局によって設立されたスイス・トラベル・システムという会社も、ミュージアム・パスの提携パートナーとなりました。スイス・トラベル・システムは、スイス・トラベル・パスというスイス国内の主な鉄道、湖船、バスを通用期間内乗り放題できるという公共交通パスを販売していますが、2005年から、この鉄道パスをミュージアム・パスとしても有効にすることにしました。つまり、この鉄道パスを購入した外国人旅行客は、パスの有効期間中(期間は3日、4日、8日、15日の4種類の中から選べます)、ミュージアム・パスの対象となる博物館にすべて無料で入館できるようになりました。
物価の高いスイスで、博物館が無料でみられるという特典は、海外からの旅行客にとっても非常に魅力的なようで、トラベル・パスでの博物館入館も好調です。例えば、2006年のミュージアム・パス使用は55万人で、前年比で48%増えましたが、この5割近い増加は、トラベル・パスを利用した外国人の来訪によるところが大きかったと分析されています。また、2015年のスイス・トラベル・パス販売数は、25万枚でしたが、これを利用して前年比で7.4%増の17万の博物館入館がありました。
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外国からの観光客が最も多く訪れるレマン湖畔の古城博物館「シヨン城Château de Chillon」
出典: Schweizer Museumpass, Verband der Museen der Schweiz, Kultur-GA weiterhin auf Erfolgskurs. Schweizer Museumspass: Erfolgsgeschichte seit 20 Jahren, Medienmitteilung 23. 6. 2016, S.4.

もちろん、ミュージアム・パスの導入によって最も恩恵を得ているのは、博物館です。入場者が右上がりに増えて行くのに並行して、ミュージアム・パス財団の収益がどのようなしくみで博物館に還元されているのか詳細は明らかされていませんが、2015年は、720万スイスフランが博物館全体に支払われたといいます。これは前年比で2.2%ほど多い金額でした。
スイスの博物館をめぐる環境や制度から思うこと
豊富や情報や多様な娯楽が家でも楽しめる時代において、ハコモノの博物館の環境は厳しく、 集客力を保持するのは大変なことです。このような逆境下ではじまった、毎年大勢が訪れる夜の延長開館や無料入館日などの博物館のイベントや、ヨーロッパ唯一の博物館の広範なネットワークをつくったミュージアム・パスの歩みには、いくつか参考になることがあるように思います。
それは、単に、イベントやミュージアム・パスに類似する制度を導入するか否かというレベルのことだけではなく、例えば、零細で規模が小さい博物館のようなものであっても、同業者同士が提携・協力することで、サービスに新たな付加価値を生み出す可能性があるということ。さらに周辺の関連産業とリンク・提携することによって、訪問者に使いやすい魅力的なサービスを新たに作り出せたこと。そして、それらが連綿と広がることによって、これまで縁のなかった潜在的なユーザーや、海外からも人を動員させる全く新しいネットワークにまで発展させられたことなどは、分野やレベルを問わずビジネス・コンセプトとして、好例を示しているのではないかと思います。
同様に、前代未聞のミュージアム・パス事業がスタートしたものの状況が思わしくなかった時期に、決定的な役割を果たしたのが、協同組合の銀行であったことも、非常に意味深く思われます。経済的な採算を過剰に重視することも、逆に文化に偏重するあまり運営が困難に陥ることも避け、文化と経済の両面のバランスをとることが肝心な博物館という難しい業界を相手にし、協同組合という独自のスタンスからテコ入れしたことで、事業が軌道にのる転機となりました。長年にわたって地域や人々の間に育まれてきたライフアイゼンバンクへの信頼感や、組合員の福利厚生や地域全体の振興という協同組合の原点にある思想が、個々の博物館や関連産業に、お互いへの不信感や孤立化ではなく、共通の目的を持たせ、連携や協力への気運を高めるきっかけになったと言ったら言い過ぎでしょうか。
なにはともあれ、ミュージアム・パスは、スイスの博物館を訪れる誰にとっても、抜群の優れものです。スイスにご旅行の際には、ミュージアム・パスの特典がつく鉄道チケットのスイス・トラベル・パスをつかって、ぜひスイスの博物館を堪能なさってみてはいかがでしょうか。
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参考文献・サイト
—-スイスのミュージアム・パスについて
Schweizer Museumpass
166スイスフラン(年間)
Reiffeisenbank Museum

Reiffeisenbank-Blog, Geschichte über Menschen, Geld und die Schweiz,
“Ich mag tolle Geschichten und das Eintauchen in eine neue Welt”
, 9.11.2015.
Museumpass, Medienmitteilung4. Februar 2016
Schweizer Museumpass, Verband der Museen der Schweiz, Kultur-GA weiterhin auf Erfolgskurs. Schweizer Museumspass: Erfolgsgeschichte seit 20 Jahren, Medienmitteilung 23. 6.2016.
Der Museumspass feiert Geburtstag, Swiss Info, 13.3.2007.
Der Museumspass wird immer beliebter, Volksblatt.Li, 23.6.2016.
Dominik Heitz, Basler Museen künden Vertrag, Basler Zeitung, 4.9.2010.
—-スイスの博物館について
Venessa Simon, Wollen wir ins Kino oder ins Museum?, Tagesanzeiger, 25.05.2016.
Julia Stephan, Schweizer Museen sind europäische Spitze, Schweizer am Sonntag, 28. Juni 2014.
Elias Kopf, Ins Museum? - Zur Kasse, bitte!, K-Tipp, 9/2005, 4.5.2005.
Verband der Museen der Schweiz, Museumsbesuche in der Schweiz. Statistischer Bericht 2013.
Lange Nacht des Museums, Wikipedia.
Miriam Glass, Museumspass: Deutsche expandieren in die Schweiz - das ärgert die Basler, Schweiz am Sonntag, Basellandschaftliche Zeitung, 18.8.2013.
—-スイス・トラベル・パスについて
http://www.myswitzerland.com/ja/swiss-travel-pass.html

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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