スイスのなかのチベット 〜スイスとチベットの半世紀の交流が育んできたもの

スイスのなかのチベット 〜スイスとチベットの半世紀の交流が育んできたもの

2016-10-31

5色の小さな旗がたなびく家屋をみかけたことはありますか? 「モモ」という蒸し料理を知っていますか?もしも、こんな質問をスイスでしたら、両方ともイエス、と応える人がかなり多いと思います。スイスでは、街中でよくタルチョと呼ばれるチベットの特徴的なカラフルな旗飾りをした家屋をみかけますし、モモに代表されるチベット料理も、アジア系のレストランや、 祭りの屋台でたびたび目にします。
一見、地理的にも文化的にもまったく接点がないようにみえる中央アジアの山岳地帯のチベットと西ヨーロッパのど真ん中のスイスの関係は、この半世紀の間に友好的に育まれてきました。その関係がもたらしたものは、旗飾りや食文化といった見える形にとどまらず、変化する時代とともに、スイスのコモンセンスのなかにも、精神性や世界観のような形で静かに溶け込んできたようにみえます。今回はチベットとスイスの間の半世紀に及ぶ関係をふりかえりながら、それによって特にスイス側に生じた変化やその今日的な意味について考えてみたいと思います。
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ヨーロッパで最初に受け入れられたチベット難民

ダライ・ラマ14世が1959年にチベットからインドに亡命すると、まもなくそれに追随するように10万人がチベットを去りました。そのうちもっとも多くの人が向かったのはインドで、約8万人の人が移り住みました。次に多かったのはネパールで、2万人のチベット人が入国します。ただし、当時ネパールには難民としての地位が保障されておらず、ネパールにたどりついてもいつチベットへ送還されるかもわからない状態にあり、物資面でもそこでの難民生活は困難極まる状況でした。そのような状況をみかねたスイス人の地理学者トニー・ハーゲンToni Hagen や赤十字社の働きかけによって、孤児などを中心に、1961年、スイスはヨーロッパの国として最初にチベット難民を受け入れるようになりました。
ただし、スイスはそれまで、アジアからの難民を受け入れた前例がなく、全く異なる文化と地域からの難民を大規模に労働力として受け入れることには、難民滞在許可を出す国側は当初、躊躇があったといいます。しかし、当時スイスは空前の好景気で、様々な工業分野で人出不足が深刻であったことや、 チベットが 大国で異質(共産主義)の隣国の脅威にさらされる「山の民」であるという認識が、戦時中のドイツを前に味わったスイスの歴史に重なり、スイス人の感情に強く訴えるものとなり、受け入れに好意的な世論が形成されていきました。そして1963年には、1000人規模のチベット人難民を受け入れることが決定されました。
スイスにチベット人が入ってくると、それを早速労働力として積極的に受け入れる企業がでてきました。代表的な例が、ヴィンタートゥア近郊の小都市リコン Rikonにある家族経営の金属器機メーカー「クーン・リコン Kuhn Rikon」です。クーン・リコンは、世界でも名高い高性能の圧力釜などを生産する会社ですが、当時国内で十分な労働力が確保するのが難しかったこともあり、チベット人難民の雇用に当初から積極的でした。早速リコンの工場近くに住居も提供され、仕事と住居を得た24人のチベット人たちは、新天地スイスでの生活をスタートさせますが、一部には、アルコール問題など、生活が荒廃していく人たちもでてくるようになりました。このことを深刻に捉えた経営者兄弟の兄であるヘンリ・クーン夫妻Henri und Mathilde Kuhnは、亡命地インドのダライ・ラマ14世を訪ね、そのもとを相談します。するとダライ・ラマ14世は、チベット人の精神的な支えとなるようなチベット仏教の寺院の建設を助言します。
スイスのチベット仏教修道院
助言を受けて、クーン兄弟Henri und Jacques Kuhnは、リコンにチベット仏教の修道院を建設することを決心します。まず財団を設立し、4000平米の土地と建設費のための10万スイスラン相当を寄贈し、21万スイスフランがさらに不足すると、こちらも兄弟が自費で補いました。ダライ・ラマ14世も5人の修道僧と修道院院長の派遣を約束するなど、ヨーロッパ初の修道院建設に全面的に協力します。そしてついに1968年11月、ダライ・ラマ14世を迎えて落成式が執り行われ、今日までアジア以外で唯一無二のチベット仏教の修道院が誕生します。以後、今日まで 1万点の貴重なチベット仏教に関する文書を所蔵するこの修道院は、ダライ・ラマ14世の亡命地であるインド北部のダラムサラを除くと、世界でもっとも重要な チベット仏教の拠点となっています。ただしスイスでは当時、新しい修道院を建設することが法的に禁止されていたため、 4階だてのモダンな外装で、登記上も 「チベット研究所」という名称が使われ、その後法的な規制がなくなったあとも変名せずに、現在にいたっています。(このため以下の文章でも修道院ではなく以下、チベット研究所という名称を用いることにします。)
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文化や宗教を尊重することで成功した社会統合(インテグレーション)
チベット研究所の建設に象徴されるように、チベット人は、スイスに来た早い段階から、リコンを中心にして自分たちの文化や宗教、帰属意識などを尊重される境遇にかなり恵まれて、それをもとにした相互扶助的な共同体組織が形成されていきました。いまでも共同体組織は活発な活動をしており、様々な伝統行事の開催に並行し、スイスの行事にも参加し、新たに来るチベット出身者の面倒も積極的にみています。現在スイスには、5000人ほどのチベット人たちが住んでおり、2世代目、3世代目とスイスで生まれ育った世代が増えてきていますが、スイスに住むチベット人はみな、多かれ少なかれ、このような当初からの文化や宗教の伝承の恩恵にあずかっているといえます。
このような精神的な拠り所の存在やネットワークの力は、当時、新天地スイスに渡った難民たちにとって、インテグレーションの上で大きな役割を果たしました。 同時期のベトナム戦争勃発後、インドシナ半島からボートピープルとしてスイスにきた人々も8千人いましたが 、これらの人々と比べても、苦労や問題が比較的少なく、結果として、スイスの人からも、チベット人は「歓迎すべき難民」(Corinne Buchser, 8.4.2010)として受けいられるようになっていきました。
交流・対話の拠点として
一方、チベット研究所は、当初から仏教の殿堂としてチベット人にとって包括的な精神的、文化的な中心になることだけを目指したわけではありません。東西の文化や学問、人の交流・対話の場ともなることが、これを建設するクーン兄弟の設立した財団の目的でも、ダライ・ラマ14世の強い希望でもありました。施設は一般に立ち入りが認められているだけでなく、誰でも参加できる毎朝の瞑想や、チベット仏教や語学講座が設けられており、併設されている貴重な文書やチベットに関する一般図書を所蔵する図書館についての利用説明会も定期的に行われるなど、西と東を結ぶかけ橋としての地道な活動を続けてきました。
しかしなによりも東西の対話や交流に大きく貢献してきたのは、ダライ・ラマ14世自身でしょう。ダライ・ラマ14世は世界各地をまわり、自ら積極的に異なる文化や地域の間の対話や交流を深める活動を続けてきました。
交流・対話によってチベットからスイスにもたらされたもの
ダライ・ラマ14世は、あるインタビューでスイスにくるのを、「もう一つの故郷に帰ってくるような気持ちthe feeling, coming to the another home 」と言っています(Tagesschau, 12.4.2013)。チベット人が窮地に陥っていた時に、ヨーロッパでも真っ先に助けの手を差し伸べただけでなく、移り住んできたチベット人々のために修道院を建て、チベット人が文化や宗教を大切にして生きることを尊重してくれたスイスという国とスイスの人々に、格別の思いがあるのでしょう。
確かに、スイスとチベットの関係は、スイス人からチベット人への善意や援助という一方向に偏った形でスタートしました。しかし、 その後の関係をよくみると、そのような一方向的な流れだけにとどまらず、スイスにもさまざまな形でチベットからの文化が影響を与えてきたようにみえます。
まず、ダライ・ラマ14世やチベット研究所を通して、チベットの仏教思想から精神的な次元で学べることがあるという見方や、耳を実際に傾ける姿勢が、一般市民の間にも広くみられるようになったことです。遠く離れた東方のチベット仏教指導者が伝えるメッセージは、メディアや講演会を通じ、スイスでここ数十年の間に広く受け入られるようになってきただけでなく、ほかの宗教指導者と比べても、群をぬく圧倒的な知名度と好感度を享受するようになりました。ダライ・ラマ14世が来訪する会場には多くの人が押し寄せ、講演する大会場は有名歌手のコンサートなみに満席となり、ダライ・ラマ14世関連の書籍は、本屋ではいつも平積みされています。
今年の10月中旬の3日間、ダライ・ラマ14世が再びスイスを来訪しましたが、政治の要人が中国との関係悪化を恐れダライ・ラマ14世との公式面会を控えるのとは対照的に、今回も大きく報道され、国民の関心の高さが伺われました。スイスでも最も読まれている無料日刊紙「20 Minute 」のチューリッヒ市会議員はダライ・ラマ14世を歓迎すべきかというアンケートでは800人以上の回答者の約9割が、歓迎すべきだと回答し、ダライ・ラマ14世来訪を圧倒的多数が、好意的に受け止めていることがわかります。
スイスのキリスト教会の状況
このようなダライ・ラマ14世への注目は、スイスのキリスト教会全般の状況と相関関係にあると解釈することも可能でしょう。今日、スイスでは伝統的な宗教であるキリスト教会を離れる人が、急増しています。毎年平均、4万人が教会を脱退しており、特に多いのは大都市です。この数年の間に、バーゼル、ローザンヌ、ジュネーブ、チューリッヒなどの大きな都市ではどこも、キリスト教徒が、都市人口の半分を切るようになりました。
特に、プロテスタント教会からの退会者は多く、1970年ごろはスイス人の二人に一人がプロテスタント信者だったのに対し、1990年には40%、2000年には34%となり、現在プロテスタント信者、スイス在住者の4人一人、全体の25.5%にまで落ち込んでいます。カトリック界は、新しくスイスに移り住んでくる人たちが比較的カトリック教徒のことが多いため、プロテスタント教徒ほどの教徒の急減はありませんが、全人口のなかでのカトリック教徒の占める割合は、2000年の42.3%から、2012年は、38.2 %まで減っています。一方、急増しているのは、特定の宗教に所属しない無宗教の人たちです。現在は、スイスのなかで5人の一人が宗教的に無所属です。
なぜキリスト教離れが進むのかについては、様々な角度から分析や言及が可能かと思いますが、ここでは、長い間ヨーロッパで大きな役割を果たしていたキリスト教が今日、社会全般に存在力、求心力が低下していることだけをおさえておきます。 そして、結果として、ダライ・ラマ14世のメッセージを受け入れる社会の潜在的な受け皿は、これまで以上に大きくなっており、ダライ・ラマ14世の言葉の重みも相対的に重くなってきたと言えると思います。
分断ではなく連帯を強調するメッセージ
具体的にダライ・ラマ14世が具体的につむぐ言葉のメッセージについてみると、内容もすぐれて、今のスイス(やほかの世界各地)の人々に訴えかけるものに聞こえます 。例えば、先月チューリッヒで開催された様々な宗教指導者が集った祈祷会でも、ダライ・ラマ14世が、宗教は人や意見の対立を深め、立場の違う人を分断するのではなく、お互いへの思いやりや寛容さをもち平和に共生するという、共通の目標のために人をつなぎ、連帯させるためのものだと発言しています。
国際社会でも国内の社会でも、社会には出身地域や政治的な方向性、宗教、貧富の差など、いくつかの社会的溝があります。そしてそれらは、なにかをきっかけに深刻な差別や対立へとつながる危険をはらんでおり、世界を眺めると、実際にそれが起因して内戦状態に陥っている地域が残念ながらいくつもあります。今後、負の連鎖から逃れるどころかさらに溝は深まり、暴力的な対立や差別が世界的に広がっていくのではないか 、という漠然とした不安を感じている人が、今日少なくないのではないかと思います。
そのような人たちにとって、その分断や対立を深化させるのではなく、むしろ社会をひとつにまとめていこうという、ダライ・ラマ14世のわかりやすい示唆と前向きのメッセージは 、希望や共感をもたせるものとして、非常に心に響くのではないかと思います。
キリスト教会との関係
耳を傾けているのは、一般市民だけではありません。キリスト教会においても、チベット仏教に歩み寄り、ともに共有価値観を強調する姿勢が近年目立ちます。今回のスイス来訪のきっかけもそうですが、ヨーロッパのキリスト教会自体はここ数十年、積極的にチベット仏教の最高指導者を、平和祈祷会やキリスト教会の年間行事などの教会が主催する集まりに招待しています。特定の宗教や主義に固執せず、宗派を超越した寛容と思いやりを重視するダライ・ラマ14世も、このようなキリスト教会側の柔軟な姿勢を評価しているようで、毎年のようにヨーロッパ各地でキリスト教会や関連団体が企画する会議や集会に参加しています。
それらを鑑みると、短期的に可視化できたり、計測できるような形ではありませんが、お互いの関係を通じて、スイスにいるチベット人だけでなく、スイスの人たちもまた視界が広がり、より柔軟な世界観をもつのにつながってきたと言うことができると思います 。
チベット研究所創立50周年を祝う2018年
リコンのチベット研究所は2018年秋には創立50年になります。ダライ・ラマ14世が、すでに2015年の時点で、 50周年の折に来訪することを自ら決めてチベット研究所に伝えてきたそうです。まだ少し先の話ですが、50周年の祝いは、ダライ・ラマ14世やリコン・クーンの財団が目指し促進してきた、スイスとチベットとの間の文化交流や対話が、 半世紀の間に多くの豊かな実りを結実したという実感を、チベット人だけでなく、スイス人も感じる、喜ばしい節目となるのではないでしょうか。
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参考サイト
——今年10月のダライ・ラマ14世のスイス訪問について
Zwei Stunen anstehen für den Dali Lama, NZZ am Sonntag, S.15, 16.10.2016.
Brigitte Hürlimann, Begeisterung in Zürich. Das Phänomen Dalai Lama, NZZ, 17.10.2016.
Brigitte Hürlimann, Dalai Lama in Zürich, Für den Frieden sind nicht nur die Götter da, NZZ online, 15.10.2016.
Der Stadtrat hat nun doch Zeit für den Dalai Lama, 20 Minute, 11.10.2016.
——スイスにおけるチベット難民の歴史について
Alexander Künzle, Rikon zwischen Riten und Kochtopf, Swissinfo, 26.7.2015.
Exil-Tibeter in der Schweiz „Ihr seid in Europa, ihr seid unsere Hoffnung!”, FAZ, 15.5.2008.
Veröffentlicht: 15.05.2008, 11:10 Uhr
Corinne Buchser, Die Tibeter - erwünschte Flüchtlinge in der Schweiz, Swissinfo, 8.4.2010.
Dorothee Vögeli, Eine Integrationsgeschichte aus den sechziger Jahren. Frau Sprüngli und die Ansiedlung tibetischer Flüchtlinge in Rikon, NZZ online, 14.9.2015.
Benjamin Hämmerle, «Die Lage in Tibet hat sich massiv verschlechtert», Tagesanzeiger, 11.4.2013.
——ダライ・ラマ14世へのインタビュー(英語)
Dalai Lama im Interview mit der Tagesschau, 12.4.2013.
——スイスのダライ・ラマ14世についての報道
Dalai Lama besucht die Schweiz, srf.ch 12.4.2013.
Der Dalai Lama füllt das Hallenstadion wie ein Rockstar - nur leider nützt ihm das nichts, watson.ch, 23.7.2016.
Uwe Justus Wenzel, Der Dalai Lama und der Papst. Weltweisheitslehrer, NZZ online, 6.7.2015.
Nadine A. Brügger, Das Lächeln des Dalai Lama, Basler Zeitung, 6.2.2015.
——スイスのキリスト教会について
Stefan Ehrbar und Fabienne Riklin, Austritte. Schweizer wollen nicht mehr einer Kirche angehören: Kirchen verlieren Mehrheit in den Städten, Schweiz am Sonntag, Aargauer Zeitung, 20.3.2016.
Jedes Jahr laufen der Kirche 40’000 Menschen davon, Tagesanzeiger,29.12.2013.
——チベット研究所について
チベット研究所サイト(ドイツ語、英語)
Petra Kistler, Ein Stück Tibet im Tösstal, Veröffentlicht in der gedruckten Ausgabe der Badischen Zeitung, 3.2.2009.
Richard R. Ernst, Dialog zwischen Ost und West, 2008.
——-マヌエル・バウアーManuel Bauer(4年間ダライ・ラマ14世に同行して写真集を発表したスイス写真家)へのインタビュー
1.1.1.1. Manuel Bauer, wie bist du persönlicher, Fotograf des Dalai Lama geworden?, GLOBETROTTER-MAGAZIN, winter 2009
——他
Johannes Beltz, Wie der Buddhismus in die Schweiz gekommen ist, «Wie der Buddhismus in die Schweiz gekommen ist», Matthias Pfeiffer und Kuno Schmidt (eds.), Blickpunkt 3, Religion und Kultur, Sekundarstufe 1, Schülerbuch, Zürich: Lehrmittelverlag, pp. 150-152.

Tibeter Sonam Dhakpa, «Dann schiessen sie, ohne zu fragen», Freiburger Nachrichten
, 12.04.2013.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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