外国語学習と母語の関係 〜ドイツ語圏を例に

外国語学習と母語の関係 〜ドイツ語圏を例に

2016-11-14

英語を世界の共通語としたグローバル化が進む今日、日本をはじめ、英語を母語としない国ではどこも、世界の共通語として現在圧倒的な位置を占める英語が上手になりたい、そのために国としても英語教育に力をいれるべきという主張が強くなっています。他方、英語教育を熱心にすることで母語の能力が下がることや、最終的に英語が自国で優勢となって、母語が衰退する運命にもなりかねないのではないかという危惧の声もあります。実際に、熾烈な言語生存競争にさらされて、今後100年以内に現在世界で話されている6500語の半分が消滅すると言語学者たちは予測しています。
母語の将来のシナリオを考えると、以下のような4通りが考えられるでしょう。一つ目は母語がどこでも不自由なく使えるが外国語がほとんどできない社会、二つ目は、世界共通語が圧倒的に優勢となり母語だけでは社会の生活に不自由する社会、三つ目は母語と共通語が両方ともに不自由なく使われる社会、そして最後は、母語と共通語、どちらも理解・伝達するには不十分な語彙や学力しかない人が多数を占める社会です。そして、この4つのパターンのどこに向かっていくのかは、それぞれの国や地域の政治・経済状況、文化やコミュニケーションの変化、また学校での外国語や母語教育の在り方などによって大きく左右されることでしょう。
今回は、外国語学習事情と母語との関係について、ドイツ語圏を具体的な例にして、少し考えてみたいと思います。
ドイツ語話者の分布
ドイツ語を母語(第一言語)とする人は約1億人おり、母語ではないがドイツ語を話す人とあわせると、約1億3千万人だそうです。つまり、話者の人口規模はちょうど日本の人口と同じくらいということになります。話者の国籍は、歴史的に国境が動いたり、人々が世界中を移動した結果、国の数としては40カ国にのぼります。とはいえ、話者はヨーロッパ在住が圧倒的に多く、特にドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク国内とその周辺に集中しています。
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ドイツ語が話されている地域の分布図(黄色がドイツ語が公用語として認められている国で、ほかの色はドイツ語が共通公用語と認められている地域や少数民族としてドイツ語話者が居住している地域)
出典:ドイツ語(ウィキペディア、ドイツ語版)

ドイツ人にとっての英語
ドイツ語は、英語やオランダ語と同じインド・ヨーロッパ語族の一語派のゲルマン語派に属します。このため、英語とドイツ語の文法や表現はかなり似ており、ほかの母語の人よりも英語を学ぶのは楽なはずなのですが、ドイツ語話者の数はかなりいるため、映画、テレビ、書籍などで英語からドイツ語に翻訳や吹き替えされたコンテンツがこれまでは、かなり普及していました。このため、日常生活においてドイツ語圏にいる限りは 英語がほとんど必要なく、世代や職種によっては、英語能力は、今もかなり低くとどまっています。子どもたちにとっても、英語は日常に無関係の言葉であり、ほかの科目同様学校で習得するものでした。
しかしドイツ語圏ではここ数年の間に、大きな変化があらわれてきているようです。今年10月末のドイツの主要週間新聞『ディ・ツァイトDie Zeit』の記事 によると、ハンブルクの研究者が、最近のギムナジウム(大学進学を目指す人のための進学校)最終学年の生徒の成績と7年前の最終学年の生徒の成績を比較すると、一科目だけ、成績が大きく異なっており、それが英語だったといいます。最近の生徒の英語能力は7年前に比べると格段によく、同様の傾向は、ブリティッシュ・カウンシルが実施している毎年行っている英語能力テストからも裏付けられます。成績がよくなっているだけでなく、英語が好きだという子供も増えており、英語は、数ある科目のなかで唯一、移民の子供がドイツ語を母語とする子供に劣らない成績をのこす科目でもあったといいます。
このような傾向はどう解釈できるでしょうか。記事では、なによりもインターネットなど新しいメディアを通して頻繁に英語に接することが英語力向上に決定的に影響を与えたとしています。ユーチューブでの英語のコンテンツを見、世界中から参加しているオンラインゲームでコミュニケーションのために英語を駆使するといったように、若年層の余暇の過ごし方に、英語が欠かせないものとなっていることが大きいとします。
同じゲルマン語派のスウェーデン語やオランダ語の話者の話と合わせると、この説はかなり説得力があるように思われます。スウェーデン語やオランダ語は、ドイツ語話者に比べ、話者の絶対数が少ないため、基本的にテレビ番組や映画などのメディアのコンテンツが母語に吹き替えられずにオリジナルの英語のまま放映されているようですが、そうして英語に触れる機会がドイツ語話者よりも多いスウェーデンとオランダ人の平均英語能力は、ドイツ語話者のそれよりも、これまで高いものでした。
現状ではドイツ人は、まだスウェーデンやオランダ人ほど英語力は高くなっていませんが、世代による英語能力の差が近年広がってきており、将来のドイツにおいては、英語ができないことが、現在の文字の読み書きができないのと同様な、社会的に不利な状況を意味する時代になるかもしれないと『ディ・ツァイト 』の記事は最後に予想しています 。
子どもが興味をひくメディアやコンテンツを最大限活用することが効果的という見方は、教育現場でも実感されてきており、近い将来、教育カリキュラムも大幅に改善されることで、さらに、英語力向上に拍車がかかることも予想されます。
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イタリアのドイツ語圏である南チロル地方

スイスのドイツ語圏における外国語学習
一方、同じドイツ語圏でも、スイスのドイツ語圏(スイス居住者の65%が第一言語としてドイツ語を話します。)での事情は、ドイツと事情が少し異なります。スイスでは4ヶ国語の公用語があり、その地域で話すのとは別の公用語を義務教育中の学習が義務付けられおり、ドイツ語圏ではフランス語を学校で勉強しています。他方、スイスでは2004年以降、英語が小学校の必須科目になり、今ではドイツ語圏ではどこでも、フランス語よりも英語を先に学ぶカリキュラムが定着しています。例えばチューリッヒ州では小学校2年から英語、5年生からフランス語の学習がはじまります。
小学校から二つの言語を新たに学ぶことができるのは、非常に恵まれた環境だといえますが、実際にはかなりハードです。とくに現在のスイスでは親が外国出身の人がかなり多く、そのような家庭では、家庭で話す言葉以外に、ドイツ語、フランス語、英語と3カ国語を子供達が学校で学んでいるということになります。このため(予想はされていたことですが)、小学生にとって負担が大きすぎて大変だという意見が教育現場や親からよくあがります。
しかし、具体的に学ぶ言語の数や時間数を減らしたり、後の学年(例えば中学になってから)に移すなど、いざ変更するとなると、またそのことが新たな衝突をうみます。フランス語と英語のどちらをどれだけ減らすのか、なにを優先するのかなど、スイス内でも立場によって意見が大きく割れているためです。
議論に収拾がつかないため、たびたび、この分野の「専門家」として言語学者の意見に注目が集まりますが、これに対して、フリブール大学多言語学科教授のベルテレ氏Raphael Bertheleは、学問が解答できる範囲をではないと警鐘をならします(La Leçon, 26.10.2016)。言語を集中して長く練習すれば、そうでない場合より効果が高いことはこれまでの研究の結果でも認められますが、いつからするのが最適かとか、どのくらいの授業量が効果的かなどの問いには、非常に個人差がありほかの様々な要因が関わるため、これまでの学問的な成果では一概には言えないとし、社会を広く巻き込む言語に関わる議論と学問の間に、一線を引く立場を強調します。
今も、二つの外国語教育をどう両立すべきかについて、政治家や教育専門家を中心とした議論は続行中ですが、ちなみに両方の言語学習を課されている当の生徒たちは、どのように思っているのでしょう。メディアのインタビューや、これまでまわりで聞いた意見から得た印象をまとめてみると、まず英語は、 ドイツの場合と同様、スイスでも余暇で英語のコンテンツに触れる機会がインターネットなどを通じて多いため、「使える」便利な言語という認識が高いようです。そのため勉強のモチベーションもあがり、最終的に語学習得も楽になり、ドイツの若者と同様、プラスのスパイラルにあるようにみえます。一方、フランス語の方は、若者が夢中になるようなデジタル・コンテンツがほとんど充実しておらず、国の公用語といってもドイツ語圏で生活する限りでは、学校の学習時以外に接点がないため、なかなか上達せず、言葉を学ぶことに必然性より負担を感じる傾向が強く、勉強のモチベーションもあがらないという感じのようです。
しかし、若年層全般にとって、フランス語より英語のほうに人気や関心が高く、英語が重要な国際的なコミュニケーションの共通語としてスタンダードになっている時代だからこそ、フランス語習得は、国内のフランス語圏とのコミュニケーションという目的にとどまらず、大きな意味があるという意見もあります。
ちなみにフランス語は、2015年現在7700万から1億1千万人の人が第一言語としており、母語でなくても話せる人をトータルすると2億7千万人になる言語です。話者の数はアフリカを中心に2025年には5億、2050年までには6億5千万人から7億人に増加するとも予想されており、今後も、地域的には限定的されるかもしれませんが世界の共通語の一つとしての地位を今後も維持していくと考えられます。
ほかの隣国ではどこででも英語ができて当たり前の時代に、英語だけでは国際競争のスタート地点にたったにすぎません。そこにさらにフランス語能力という、プラスアルファーをもつことが、スイス国民にとって、大きな特典となるという意見です。
世界のなかのドイツ語
これまで、ドイツ語圏がどう外国語に向かうのかを見てきましたが、ここで見る角度を180度ずらして、世界においてドイツ語がどのように扱われているのかについてみてみたいと思います。

EU中のドイツ語学習

ドイツ語は、現在もEU圏内で最も母語とする人が多い言語です。またドイツ語を母語とするドイツ、オーストリア、スイスなどの国々は、現在経済的にもEUの他の国よりも良好であり、ヨーロッパ経済全体を牽引する役割を果たしています。将来イギリスがEUを脱退すると、経済だけでなく、相対的にドイツ語圏の文化の発信や政治的な影響力がさらに大きくなることが予想されます。
豊かなドイツ語経済圏に惹きつけられるように、近年、ドイツ語学習者が増えています。特に多いのはヨーロッパで、現在940万人のドイツ語学習者がおり、230万人のポーランドを先頭に、ロシアとイギリスが150万人、フランスの百万人と続いています。ドイツの首都ベルリンでは、今年、去年に比べドイツ語検定試験を受ける人が30%増加したといいます。
スペインやギリシアなど地理的にも歴史的にもドイツ語圏と緊密な関係にはなかった南欧の国々でもドイツ語学習者が、最近顕著に増えています。経済不振が続く自国からドイツへわたりチャンスを掴もうとする若者が多いことが主要な理由と考えられます。近年はギリシアが世界で最もドイツ語検定試験を受けた人が多かったという報告もあります。卑近な例ですが、先日オーストリアの田舎のレストランにいた1週間前にオーストリアに着たばかりというスペイン人のウェイターが、ドイツ語がかなり上手で驚きました。ウェイターのような複雑なコミュニケーションが必要ない職種に就く人でも、自国ですでにドイツ語を熱心に学習していたということに、スペインでのドイツ語学習のレベルや熱意の高さがうかがいしれるような気がしました。

世界的なドイツ語学習ブーム

世界全体をみても、ドイツ語を学ぶ外国人は増えているようです。外国語としてドイツ語を学ぶ人は、2010年から5年の間に6割増加し、現在約1500万人と推計されています。特に新興国で学習者が増えており、2015年現在で中国では11万7千人(5年間で2倍に増加)、インドでは15万4千人、ブラジルでは13万4千人です。ほかにもアジア、ラテンアメリカ、アフリカ、中東などでドイツ語学習者が増えているといいます。
学習者で最も多いのが学校の生徒で8割以上を占めています。2008年からは子どもたちの学校でのドイツ語学習を支援するPASCH という特別のプログラムがドイツの国のイニシアティブで導入され、これまで世界120カ国で60万人の生徒がこのプログラムでドイツ語を勉強しています。

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おわりに
いくつの、あるいはどの外国語を習得すべきかについては、場所によって違っても、誰もが母語だけでなく外国語をマスターしようとする風潮は、現在世界的に強くなっており、このような傾向は当面続いていくようにみえます。
とはいえ、事情はどうであれ、外国語の習得は誰にとっても根気のいる大変なことです。かくいうわたし自身もドイツ語を長く勉強してきて、今も落胆することがしょっちゅうありますが、そんな時に思い出すことがあるので、少々突飛な話しですが、最後にご紹介させていただきます。ドイツの著名な精神科医マンフレッド・シュピッツアー氏 Manfred Spitzerによると、2ヶ国語を話す人は、一ヶ国語しか話さない人より平均5〜6年、認知症になるのが遅いといいます。外国語を駆使して考えるというやっかいな作業が、少なくとも脳内を活性化するのに非常に役立つということのようです。(マンフレッド・シュピッツアー氏については、「デジタル・ツールと広がる読書体験」をご参照ください。)。
外国語の勉強を続けていらっしゃる方や、これから勉強しようという方には、外国語を学ぶ苦労が目に見える形ですぐに報われなくても、少なくともご自身の脳内ではその努力が形になってプラスの影響を与えるものなのだとぜひ安心なさって(あるいはそれをとにかく信じることにして)、勉強を続けていただけたらと思います。
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参考サイト
——言語消滅の危機について
Arnfrid Schenk, Da fehlen einem die Worte, Sprachensterben, Zeit Online, 12.9.2013.
——ドイツの英語学習について
Marin Spiewak, Do you speak English? Hell yeah!, Die Zeit online, 27.10.2016.
——スイスの外国語(母語でない公用語を含む)学習について
La Leçon - Frühfranzösisch auf der Probe, Kontext, SRF, 26.10.2016.
Sprachen, swissinfo, 23.8.2016
Christine Scherrer, So läuft der Unterricht von Fremdsprachen in der Schweiz, SRF, 13.5.2015.
Christophe Büchi, Französischunterricht, Vive le français!, NZZ online, 3.7.2016.
Thurgau überdenkt Verschiebung des Französisch-Unterrichts,swissinfo, 1.9.2016.
——世界のドイツ語学習状況について
Boom der Deutschkurse Immer mehr Sprachschulen - aber nicht alle sind seriös, Spielgel Online, 29,6.2016.
Jenni Roth, Deutsch ist geil!, NZZ online, 11.8.2014.
Deutsch liegt weltweit im Trend, Make it in Germany, 13.05.2015.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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