ヨーロッパの大都市のリアル 〜テロへの不安と未来への信頼
2017-05-01
私事になりますが、先月パリのシャンゼリゼ通りでイスラム過激派の警察への襲撃があった時、ちょうどパリにおりました。事件現場は観光客で賑わう目抜き通りであり、おのぼり観光中だったわたしも、事件の前日にそこを訪れたばかりでした。これまでも、ヨーロッパ各地のテロのニュースを耳にはしていましたが、スイス在住の身としてはどこか他人事のように考えていたので、今回、自分の滞在している都市でちょうど起きたことで、改めて色々考えさせられました。
とりわけ気になったのが、実際にテロがあったヨーロッパ諸国の人たちは、日常の生活のなかでこのような状況をどう捉え、心理的に乗り越えていけるのかということでした。しかし、私自身はフランス語が解らないため、フランス語を通してそれをリサーチすることはできません。そこで、昨年12月末、クリスマス市にトラックで突入するテロがあった際のドイツのメディアの内容をふりかえってみると、ドイツでは当時(今も変わりませんが)どう難民を受け入れるかという問題について国家を二分して議論されている状況であり、テロの事件も、その延長上で語られ、難民政策などに絡めた政治的な発言が圧倒的であったという印象でした。
そんななか、未来研究者のマティアス・ホルクス氏Matthias Horx氏のコメントは、私の疑問に直接答えてくれるような指摘をしており、一考に値する示唆を含んでいると思われますので、今回、ご紹介してみます。記事の後半では、ホルクス氏の意見を受けながら、住民ではなく、観光として訪れる立場から、テロの問題についてどう関わることになるのかについて、今回のパリでの個人的な体験や所感をもとに考えたことをまとめてみます。
現代のヨーロッパにおいて頻繁に意識にのぼるテロの問題や潜在的な危険性について、政治的な議論とは全く別の次元、住民また観光客の立場にひきつけて考える今回の拙稿が、オリンピックも間近にひかえ、大勢の海外からの旅行者を迎えいれる立場になることが頻繁になってきた日本在住の方々や、仕事や旅行で自分自身が海外に渡航される方々にも、なにかの参考になることができればさいわいです。
不安ではなく冷静さと楽観的な落ち着きを
フランクフルトとウィーンに拠点をもつ未来研究所を率いるマティアス・ホルクス氏の意見は 、多角的な調査に基いたものでありながら、わかりやすいため、なにか不穏な動きや社会を騒がすような事象がでてくるたび、その発言が注目されます(ホルクス氏の仕事については、下の参考サイトや、「『リアル=デジタルreal-digital』な未来 〜ドイツの先鋭未来研究者が語るデジタル化の限界と可能性」及び、「ジャーナリズムの未来 〜センセーショナリズムと建設的なジャーナリズムの狭間で」をご覧ください)。昨年末のベルリンのテロ事件の後にも、複数のメディアでホルクス氏へのインタビューが報道されました。この内容について以下、まとめて紹介してみます(ただし、ホルクス氏のコメントを直訳して羅列するだけでは、読みにくいと思われたので、わたしの解釈な言葉を補いながら紹介させていただくことをご了承ください)。
まず、ベルリンの事件についてどうとらえればいいのか、という単刀直入の質問に対しては、「成人するということは、不安もまた自分の人生に統合するということ」であり、今回の事件に限らず、人生がつねに危険を伴うものであるということを自覚するということは、成人としての必須の資質だ 、というところから話をはじめます。そして、その上で危険性を冷静に分析、捉えることの重要性を強調します。そうすれば「確率的には、いまだに階段から落ちて命を落とす可能性のほうが、テロの犠牲になるより100倍も高い」(Horx, 29.12.2016)(つまりテロに巻き込まれる危険はいまだ非常に少ない)といった明白な事実関連が容易にわかるはずだからです。
しかし、逆に、一旦不安になると、負のスパイラルに足を踏み入れることになるといいます。人は(理由はどうであれ)一度不安になると、注意力がそれだけにそそがれることによって、冷静な判断を欠くようになり、不安にとらわれてしまうからです。そして、そんな不安をもっていれば、それこそテロの思う壺だといいます。ヨーロッパの住民の生活が不安で覆われることが、テロが勝利することになるからです(Horx, 29.12.2016)。
不安と憎しみの関係については、独特の興味深い見解を示します。「不安が過剰になれば、憎悪の感情に感染する。憎悪の感情は、複雑な形の不安以外の何物でもない。不安をもつ人は、自分がその不安から逃れたいがために、なにかを憎悪するにすぎないのだ」(Horx, 29.12.2016)とし、不安から始まる思考の末路が、憎悪だけを残し、なんら生産的な問題の解決にもならないことを示唆します。
それでは、不安を抱くかわりになにを目指せばいいというのでしょう。ホルクス氏は、難しい今のような時代にこそ、冷静さ(落ち着き)が大切だと断言します。(Horx, 29.12.2016) そして、テロに対しては、過剰に反応せず冷静さを保ち、賢明に無視することが必要だとします(Horx, 30.12.2016)。そのために、不安を増幅するだけの(低質な)メディアの消費を避け、社会に蔓延しているヒステリックな気分から距離を置くことの重要性も説きます (Horx, 29.12.2016)。
ホルクス氏は、不安な心理に油を注ぐようなメディアの報道の代わりに、 「いかに多くの恐ろしいことが起こらないか」に目を向けます。例えば、毎日地球の上を4万便の飛行機が無事に発着していることは、ニュースにこそなりませんが、まさに奇跡だと言います (Horx, Zukunftsreport, S.11) 。冷戦時代には冷戦が終焉を迎えることを誰も想像できなかったのに、実際には突如実現したことなどを例にして、どんなことも意外なところから解決の糸口がみつかり事態が改善する可能性があることを改めて指摘します。それゆえ、悲観や「不安のかわりに、未来に対して楽観的でいること(信頼をもつこと)Zuversicht」が大切であり、楽観的でいることが、社会において、「ある種の義務のようにすら自分としては、思っている」(Horx, 29.12.2016)とも言います。
ホルクス氏のこのような意見は、彼一人の突飛なものではなく、現在のヨーロッパにおいてある程度底流をなしているのかもしれません。少なくとも、ホルクス氏の意見は、ベルリンの事件のあと約4ヶ月後に起きたストックホルムのテロ事件についての、スイスの主要日刊紙NZZ紙面上で語られていたことに通底しています(Hermann, 10.4.2017)。ストックホルム住民が、感情的に逆上せずに、自分たちの民主主義を信じる動じない毅然とした態度でいることをほめたたえ、このような住民の毅然とした態度が、 テロ行為を支持する人々に対しかえって打撃となる、と考えるスウェーデンのテロ専門家の意見を引用・紹介していました。難民や自国のイスラム系移民への敵対意識を煽るような政治的な言動がとかく目立ちがちな今日のヨーロッパにおいても、そのような態度を支持する姿勢が、一定の手堅い広がりをもっている(あるいはこれからもっていく)のだとしたら、ヨーロッパのテロをめぐる心理は、ニュースで流れてくる時事的表層的な動きから第三者が単純に想像するものとは違ったものにみえてきます。
観光客の目に映るパリ
さて次に、テロが起きた前後のパリの治安と安全性について、個人的な体験をもとにまとめてみます。まず、テロの前も後もパリ全般の様子で、緊迫した印象は個人的には特に受けませんでした。テロの翌日夕方に、事件場所にほど近い凱旋門の見学に行きましたが、この時も、相変わらず人と車がごった返し、二日前と変わらぬ印象でした。ただし、大統領選挙直前であったためもあり、従来以上にテロへの警戒は通常以上に強かったと考えられます。事件が起きる前から美術館や公共施設では例外なく、入り口で所持品の検査があり、空港なみの人と荷物の細かい保安検査を行っているところも多くありました。デパートやショッピングセンターなど観光客や住人が集まる民間施設においても所持品のチェックが行うのが一般的でした。街の歩道などの公道は、定期的に清掃されて、ゴミ箱も人通りの多い目に付きやすい場所に、すべて透明の袋で中身が常に見える状態で置かれていました。これらの監視体制に加え、警察や軍人(と思われる制服をまとった人たち)がパトロールする姿を、街では1日数回みかけました。
もちろんトラックで突っ込む事件や、突然ナイフで危害を加える等の犯行は、これらの措置で防げるものではありませんが、これらの措置によって、都市の住民や観光客の安心感が高まることは確かでしょう。副次的な効果として、すりなどの軽犯罪への抑制効果もありそうです。
観光客にとって、治安の問題と同様に重要なのは、何かあった時に、どのような情報ツールやソースがアクセス可能かということではないかと思います。日本でも、言葉を解さない外国人が、地震などの非常時には、突如社会的弱者の立場に陥ることが指摘されていますが、テロに限らず、言葉がわからない国で、なにかの困難やわけのわからないことが起こった時、情報を的確に入手できるかいなかは、決定的に重要です。
今回テロ事件発生直後、わたしは幸い、宿にしていたパリ市内のウィークリーアパートにすでにもどっておりました。外出中であったならば、事情の把握が遅れたり、電話回線が一時的に混乱してつながりにくかいなどの問題にあたったかもしれませんが、今回はアパートの無線LANが支障なく使えたため、インターネットで自分の解する言語(今回はドイツ語)で速報を聞いたあと、すぐに家族や友人に安否を知らせることも問題なくできました。しかし、今後、万が一の場合に備えて、海外では地域のインフラ事情(電話やインターネットはもちろん、それを利用できる電気自体の確保も含め)や土地の言葉を自分が理解できるかによって、情報の入手と自分の情報の伝え方の双方の手段を考え、できるだけ複数のルートをそれぞれ想定できるようにすることが、自身の課題として浮かびました。
テロ事件の翌日の様子
テロ事件の翌日は朝から、パリから電車で30分ほど離れたヴェルサイユを訪れたのですが、宮殿前の広場には、驚くほど多数、数万人はいたでしょうか、の人々が入場券を求めて延々と列になっていました。スポーツのスタジアム以外でこんなに大勢の人を一箇所でみるのは初めて、と思うほどの人の数が、きれいに列を作って整然と並んでいました。いかに多くの観光客がパリ周辺に滞在しており、テロ事件の翌日でも観光をアクティブに続行しているという事実を(自分も同じですがそれはさておき)、文字通り目の当たりにして、再び感慨深く思われました。
その人たちにとって、テロの翌日であっても、フランスは、輝く文化やゆるぎない歴史を目の当たりにできる場所であって、テロの二文字が前面に立ちはだかり、あとのことは不安や恐れの霞みがかかって何もみえなくなっている、というような存在ではありませんでした。誰にとってもテロが気になる時勢だからこそ、テロ以外のことに目を向けて、フランスを闊歩する観光客の存在は、パリ(やフランス)とほかの世界をつなぐ大事な存在のように思われました。
もちろんその場にいかなくても、様々な形で当地に想いを馳せ、理解や共感することはある程度できるでしょうが、世界各地から膨大な数の観光客が直接フランスを訪れ、実際に自分たちの目で見聞・交流し、感じとり、それぞれの国にもどっていくことの意味は、計り知れないように思います。少し理想論的な言い方になりますが、これら直接訪れる人たちとの関わりを通じて、テロ問題で揺れる当地の住民を孤立させないだけでなく、正常で冷静な心境を共有しあい、また共感や理解を深めることは、次にまた世界のどこかでなにかの非常事態があった時にも、お互い理解・協力しあえる土台になるのではないかと思いました。
おわりに、住民として、観光客として
これから先もどこで何が起こるかわかりませんが、冷静に判断する住民と、テロ以外の側面からその国や都市の文化や住民を見よう、理解しようとする海外からの関心が絶えずあれば、テロにたちすくむことなく、世界は前に進んでいけるのではないか、少なくとも、そうあってほしいと強く願います。
参考サイト
——メディアでのマティアス・ホルクス氏の発言
Matthias Horx Trend- und Zukunftsforscher(ホルクス氏の発言が掲載されている主要なメディア報道一覧 )
——世界中の人々の生活に関わるデータを公開しているサイト(未来研究所が、長期的視座から人々の生活の変化を観察する資料としてよく引き合いにだすサイト)
Our World in Data
——スウェーデンのテロ事件について
Rudolf Hermann, Schwedens Tage danach, Terrorattacke in Stockholm, NZZ, 10.4.2017
Expert: Swedish reaction is a setback for terrorists, Radio Sweden, 8.4.2017.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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