20世紀に封印され21世紀に期待を寄せられる化学物質

20世紀に封印され21世紀に期待を寄せられる化学物質

2018-02-13

スイスにトレンド研究で有名なGDI(Gottlieb Duttweiler Institute)というシンクタンクがあるのですが、そこが今年3月に予定している第14回ヨーロッパ・トレンド・デーという会合のプログラムを見て、度肝をぬかれました。「自分をスーパーにせよ。成長する自己最適化市場Super You: Die wachsenden Märkte der Selbstoptimierung」という今年のトレンド・デーのテーマの一環として、『LSDマイクロ用量がわれわれの効率を高める』というタイトルの講演が入っていたためです(Austin, GDI)。
幻覚剤として世界的に使用が全面的に禁止されているLSDが、由緒正しいトレンド研究の会合で扱われるとは一体どういうことなのでしょう。早速気になって調べていくと、単なるドラッグとしての合法性やその効用といった話におさまらず、LSDをめぐる現在の状況は、人工知能の発達や就業のあり方、高齢化など、現代社会の深層に横たわる広く旬なテーマに深く関わっているものであることがみえてきました。
今回と次回の2回の記事で、LSDをめぐるこのような現在の状況について概観してみたいと思います。今回は、2007年末からLSDの臨床研究が再開された世界的にも数少ない国の一つであるスイスでの、これまでの研究成果や専門家の見解を整理しながらLSDの現時点の評価をまとめてみます。次回は、LSDに対し忌避から一転して期待を寄せるようになった社会の変化に注目し、そこに見え隠れする現代社会の傾向や不安や、その問題点について少し掘り下げて考えてみたいと思います。
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スイスはLSD発祥の地
LSDは、スイスの化学者アルバート・ホフマン Albert Hofmann によって1938年に開発され、43年に同じくホフマンによって幻覚作用が発見された薬物です。もともと強いうつ病患者などの症状を緩和する治療薬として開発されたものでしたが、幻覚作用を目的とした消費が次第に世界的に広がってゆき、過剰な消費が問題視されるようになっていきます。この結果、1966年に最初にアメリカで、それに続き世界全体で、全面的に使用や販売が禁止となり、治療目的の利用も1973年以降行われなくなりました。
しかし21世紀に入り、ふたたび医師や心理療法師たちの間でLSDは注目されるようにっていきます。なかでもスイスは、世界に先駆けて2007年12月から期限付きの試験的な利用を一部の心理療法師や研究機関に許可するようになり、現在までLSDの治療や臨床実験を行う世界的にも数少ない拠点となっています。
これまでの研究から、LSDは、うつ病患者の症状を軽くしたり、ガン患者の不安を緩和させるなど医学的な効用がわかってきています。
「シリコンバレー」をキャッチワードに広がる社会での期待感
一方、近年のドイツ語圏のメディアでは、LSDについて医療目的とは全く違う観点からたびたび取りあげられるようになってきました。シリコンバレーでエキスパートたちがLSDを使用しているというのが主な内容です。例えば『週末のスイス Schweiz am Wochenende』では、シリコンバレーの複数の会社の情報専門家やエンジニアがLSDを直接上司から購入している事実について報道しています(Züst, 2017)。
シリコンバレーのLSDといえば、スティーブ・ジョブズがLSDの幻覚を重要な体験と位置付けていたことが有名ですが、これらの報道によると、現在シリコンバレーでLSDがもてはやされる理由は、幻覚作用に強く惹かれているからではなく、とりわけ仕事上の集中力強化や能力の向上といった効果のためだといいます。
シリコンバレーでは自己最適化や能力向上への関心が非常に高く、スーパーフードやヨガなど、仕事の効率や集中力を高めることを謳ったり期待される商品やトレーニング手法があふれており、そのような状況下、(シリコンバレーでLSDを定期的に利用している人は、非合法であることもあり現在はまだ少数派にすぎませんが、)能力向上させるツールの選択肢としてLSDが徐々に視野に入ってきているようです (Züst, 2017)。
その際の摂取量は、幻覚作用を起こすと言われる用量の10分の1から12分の1にあたる量(10mg以下)で、通常「マイクロ用量」と呼ばれる量が一般的に想定されています。マイクロ用量は、非常に少量であるため、幻覚作用はないとされます。
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ドイツとスイスのドラッグの消費状況
アメリカ同様に、LSDの販売や消費が、例外的な医学目的を除き現在も禁止されているスイスやドイツでのLSDの消費状況は、現在どのようになっているのでしょうか。
2014年のドイツのドラッグ観察所の調査では、18歳から25歳の若者のうち大麻を消費したことがある人の割合は15.3%であるのに対し、LSDを利用したことがあると回答したのは0.9%でした。
スイス全国で保険リハビリや予防施設を運営する民間企業Suvaの2013年の15歳から74歳のスイス在住の1万171人を対象にした調査では、4%が通常医療の処方箋がなくては入手できない薬品やドラッグを、認知能力向上や気分を高揚させるために使ったことが少なくとも1回あると回答しています。そのなかで圧倒的に消費が多かったのは、リタリンでした。
これらの調査結果が実情をそのくらい捉えているかは、また別の問題ですが、少なくともこれらのデータに基づくと、ドイツでも、スイスにおける個人的なLSDでの消費はまだ非常にわずかであるといえます。
LSDの使われ方はどうでしょう。能力向上のために10倍から12倍に希釈したマイクロ用量を定期的に摂取している人たちを匿名で取材した記事がスイスでもドイツでもたびたび主要な紙面に掲載されており、シリコンバレーと同じように、LSDに能力向上を期待するケースが、ヨーロッパでもあらわれてきたのは確かなようです。
専門家たちのLSDに対する理解と評価
さて、LSDが医学的な効用だけでなく社会から一定程度期待をもたれるようになったことがわかりましたが、マイクロ用量の摂取は体にどのような影響を与え、実際にどのくらい効果があるのでしょうか。ガン患者や重いうつ病患者などに2008年からLSDを利用しはじめた、世界でもLSDに詳しい数少ない医師で心理学者であるペーター・ガッサーやほか数人の専門医師のインタビュー記事の回答意見や最新結果をもとに、以下まとめてみます。
まず、人体への全般的な影響については、中毒症状など、直接人体へ及ぼす影響はなく、ニコチンやコカインと異なり依存症にもならないとされます。幻覚症状がでている間に事故死したケースはあっても、LSDが直接の死因につながったことはありません。ただし、100mg程度で幻覚体験など感情に変化を及ぼすため、心理や感情に深い影響(よいものだけでなく悪いものも)を与える可能性があるといいます。
マイクロ用量の効果について
マイクロ用量という微量の用量が、体や心理状態にどのような影響与えるのかについては研究が皆無に等しく、長期及び短期的影響についてはっきりしたことはわかりません。このため、推測の域をでないとしつつも、以下のことを、専門家たちは推測しています。
まず、ガッサーは、「インターネットで肯定的な内容を読み、LSDに期待をして実際に使用すると、おそらくよい経験ができる」 (Schrader, 2017)とし、マイクロ用量の消費について起こりうる効用を、とりわけプラセボ効果とします(プラセボの効果については今日医学的にも広く認められています。詳細は「プラセボ 〜 医学界と社会保険政策で注目される理由」をご参照ください)。
リーチティMatthias Liechti も、10〜30mgまでの用量ではほとんど効果がないとし(Züst, 2017)、「仕事の効率があがったりクリエイティブになるとは想像できない」(20 Minuten, 2016)とするものの、クリエイティブになることを期待する人に消費されると、プラセボ効果として、若干そのような効果が心理的に及ぼされるかもしれない、と判断しています。
一方、チューリッヒ大学の精神科医のフォレンヴァイダーは、仕事の効率化やリラックス効果は認めませんが、一方「クリエイティブになりたいのでなければ、LSDはなんの助けにもならない」とし、クリエイティビティーへには何らかの影響があることを認める立場です(Zweifel, «Gratwanderung», 2017)。
フォレンヴァイダーのこのような判断の根拠のひとつとなるものに、自ら関わった研究結果があります。LSDの摂取によって、被験者は音楽に通常より強い感情を抱いたり、非常に個人的に受け止めるようになり、またLSDを感知する感覚器を麻痺させる薬を摂取すると、また普通の感覚に戻りました。つまり音楽の認識や意味づけにLSDがなんらかの影響を与えると理解されます (Universität Zürich, 2017)。
ベルガーMarkus Bergerは、自身が被験者として試した経験した際、LSDで「気分が高揚し、約4時間体の調子がよく集中できた」(Blick, 2017)と語り、その効果を全面的に認めています。
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健康な人の消費に対して
目下、健康な人が単に能力向上や集中力を高めるなどの理由でLSDをマイクロ用量で消費することについては、どの専門家も慎重です。その最大の理由は、前述のように、健康な人がマイクロ用量で摂取した場合にどんな変化があるかについて臨床研究がないことにあります。想定される心理的な影響やほかにも、長期にわたる服用の影響など未知の危険が多くあり、慎重な態度をよびかけます。
また、ガッサーやリーチティは、多く利用しつづけると体が慣れて、特別な効果がなくなる可能性が高いとし、たとえ若干効果がみられたとしても、定期的にLSDを摂取すること自体意味がない、という見解も示します(Britsko, 2015)。

次回の記事につづく

ここまでみたきたように、スイスの医学専門家たちは現在もLDSに対し、不安やうつ症状緩和の効用以外では、概ね慎重な態度が目立ちます。その一方、マイクロ用量のLSDの消費に期待する動きは、アメリカのごく一部の動きにとどまらず、世界的に着実に広がってきているようにみえます。LSDなどのドラッグをマイクロ用量消費する人が未来の労働世界をリードするとし、ドラッグの消費を推奨するアメリカ人のオースティンPaul Austinが、今年3月にスイスのトレンド研究の大会で講演することは、そのような世界的なひとつのうねりを象徴しているということなのでしょう。

次回はそのような期待が高まる社会にスポットをあてて、社会がLSDに魅了される理由や将来の動向について考えを巡らせてみたいと思います。

※参考サイトは、こちらのページにまとめて掲載しています。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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