世界最大の交換留学プログラム「エラスムス」 〜「エラスムス」世代が闊歩するヨーロッパの未来
2019-07-12
テーマ「ヨーロッパの若者」
今回と次回では、ヨーロッパの現在の若者について注目してみたいと思います。若者たちは、どのような状況に置かれ、自分たちをどのように社会に位置付け、未来を展望しているのでしょうか。
今回具体的にみていきたいのは、「エラスムス」プログラムについてです。エラスムスと聞いて、世界史を学んだ方は、ロッテルダムのエラスムスDesiderius Erasmus (1466-1536)、という遠い暗記の記憶をよびおこされた方もいるかもしれません。
しかし、現在のヨーロッパにおいては、「エラスムス」という言葉は、そのルネサンス最大のヒューマニスト(人文主義者)エラスムスよりも、彼にちなんでつけられた同名のヨーロッパ大学間交換留学制度ERASMUS (European Region Action Scheme for the Mobility of University Studentsの頭文字をとって名称) として、頻繁に使われています。
この交換留学制度は1987年にEU(当時はEC)加盟国間の学術機関の人的交流を促進し、ナショナルな枠にとどまらずヨーロッパ全体に還元・貢献する人材の養成や人的関係を築いていくことを目標にスタートしたもので、現在、世界最大規模を誇る交換留学制度となっています。
今回は、このエラスムス・プログラムに込められている期待や、そこに見え隠れしている、ヨーロッパの今の若者をめぐる状況や展望について一望してみたいとおもいます。
エラスムス交換留学制度自体は日本とあまり関係がないように思えますが、世界が色々な形で緊密につながっており物品のやりとりだけでなく、デジタルの通信網を駆使すれば言語や視聴を伴うやりとりがいとも簡単にできる時代において、違う国に住んで、当地の学生たちと学んだり、地域の住民たちと交流することに、どのような意味があるのか。またそれによって近隣国の関係はそれを通してどう変わりうるか、などといった一般的・普遍的な問いや、日本にひきつけた具体的な課題を考える際に、今回の記事がなんらかの参考になればと思います。
エラスムス・プログラムの概要と実績
まず、エラスムス・プログラムの概要についてみてみます。
エラスムスは1987年からスタートした、今日世界最大の規模をほこる交換留学制度です。対象は、第三国を対象にしたプログラムErasmus Mundusもありますが、主な対象は、EU圏内や近隣のヨーロッパ諸国(ノルウェーやスイスなど)の大学生です。
3ヶ月から12ヶ月の間ほかのヨーロッパの国に留学できるプログラムで、その間、留学先の大学の学費が免除されるだけでなく、滞在費用をまかなうための奨学金にも応募できます(実際にどのくらいの奨学金を得られるかは、プログラムや参加者の経済的背景などによって異なります)。ほかにもエラスムスプログラムの学生のための、安価な滞在先をみつけるための特別のネットワークやほかの情報を入手できます。
ほかにも交換留学制度は多数存在しますが、その規模(受け入れ機関数でも留学生の人数においても)が非常に大きいことと、留学手続きや取得した授業単位の認定などがきわめて容易であることで突出しているのがこのエラスムス留学制度です。
現在37カ国の5000以上の大学などの研究機関が受け入れ先となっており、2012年の統計では、ヨーロッパ全体の大学院生の5%がエラスムスの交換プログラムを経験しています。これまでエラスムスに参加した学生数は、トータルで6百万人にものぼります。
ただし、留学生送出国と留学先には、これまでかなりの偏りがありました。2015年まではエラスムスを利用するのはとりわけ2カ国、フランスとドイツであり(2017年までにドイツからは65万人が参加)、留学先として行くのは南ヨーロッパ、西ヨーロッパ、そしてスカンジナビアでした。つまり、東ヨーロッパへ留学する人が相対的に少なかったといえます(このことに関連するテーマは、9月の記事で扱う予定です)。また、プログラムを受講すると奨学金が基本的にでますが、少額であるため、最終的に、経済的に恵まれた環境の学生(やそのような人が多い国)が留学する傾向が強かったといえます。
エラスムスの意義
エラスムスを使って留学を経験した人たちは、どんな印象や思いを抱いているのでしょうか。
追跡調査の結果はおおむね良好です。2014年のEU圏内で行われた調査では、エラスムス体験者は、外国滞在で就労に有利に働くだけでなく、国際的に移動しやくなるという結果がでています。また、おもしろいところでは、外国に行かない同級生よりも3倍外国人のパートナーをもつことが多いといいます。そのうち3割はエラスムスで知り合っており、エラスムスで知り合ったパートナーどうしから生まれたこどもの数は100万人以上になると推定されるほどです(Nuspliger, 2017)。
2016年の調査Eurobarometer でも、質問されたヨーロッパ人の約90%が、エラスムスに肯定的な印象が示されており(Nuspliger, 2017)、エラスムスはヨーロッパ社会全体に受け入れられていることがわかります。
ドイツ人でバーミンガムで政治学の教鞭をとるヴォルフStefan Wolffは、2005年に、このように増えているエラスムスの学生たちに注目し、彼らを「エラスムス世代」と呼び、「15、20か25年すれば、ヨーロッパは今日とは全く異なる社会化(社会的な背景やネットワークや実践をする)した人々がリーダーにつくだろう」と予想しています(Bennholdapril, 2005)。
エラスムスとヨーロッパ社会
ヴォルフの指摘から10余年たちましたが、現在のヨーロッパの状況はどうでしょうか。
ヨーロッパ全体をみまわすと、これまでのEUの歴史でかつてないほど、ヨーロッパ中にEUへの懐疑が広がっているようにみえます。先月5月に行われた欧州議会議員選挙では、ヨーロッパ猜疑派が大きく得票数を増やし、イタリアやポーランド、フランスなどでは第1党となりました。また、67%のヨーロッパ人は、過去の生活の方が現在よりよいと考えており(Mijulk, 2019)、ヨーロッパが連帯しより強く結びついていくことに前向きとはいえません。ヨーロッパ各国は、それぞれの国の枠に閉じ籠る道にすすみつつあるのでしょうか。
このような状況下、30余年続けれてきた世界最大規模の交換留学制度とそれを経験した若者たちは、ヨーロッパになにをもたらした、もたらしているのでしょう。エラスムスの留学制度は、未来のそれぞれの国で、ヨーロッパに肯定的なリーダーをつくる。そのようなエラスムス世代の時代が来る、いうのは楽観的すぎたのでしょうか。EU懐疑やナショナリズムの勢いの前に、なんのすべもなく、実質的にヨーロッパ社会にはほとんど影響は与えていないのでしょうか。
よくみると、現在、ヨーロッパへの懐疑傾向が全般に強まっているとはいっても、その度合いは、世代によって大きく異なっていることがわかります。2016年のユーロバロメーターの数字をみると、24歳以下の77%がEU市民だと(自覚し)回答しています(55歳以上は59%)(Nuspliger, 2017)。今年はじめに行ったEU圏在住の8220人の16歳から26歳の若者を対象にした調査でも、ヨーロッパ賛成派が圧倒的な多数派でした(74%)(TUI)。ブレクシットが決まったあと、若者のEU支持の姿勢は、ヨーロッパ全体で、むしろ強くなったと言われます。
EU圏に組み込まれていることでうまくいかないことや問題があったとしても、一国の枠にしばられずに可能性を自由に試すことができるというEUが提供する環境や枠組みが、現代の若者にとって、ほかのことよりもより重視されているといえるかもしれません。そしてその自由への扉を示す象徴的な存在として、エラスムスの交換プログラムは、輝きを失わず、若者たちをひきつけているということのようです。
進化するエラスムス・プログラム
見方を変えれば、懐疑派が増えているEUにとって、EUを生かすか壊すかの鍵を握っているのが、若者ということになるかもしれません。実際、これから育っていく若者たちが、EUを肯定できるようになるためには、自国だけでなく、EUの近隣諸国との交流や相互理解が不可欠であり、それを実感する重要な機会として、エラスムスは位置付けられています。
とはいえ、エラスムスはすでに人気が非常に高いため、需要に供給がおいつかない状態です。このため、現在続行中のプログラム「エラスムス・プラス」(2014年から2020年までの期間を対象にしたものErasmus+ 2014–2020)期間が終わったあと、さらに、2021年からも継続することが決まっていますが、2021年からの新しいエラスムスのプログラムはこれまでのプログラムをさらに拡充する内容にする予定です。
具体的には、単に、留学する大学生数を増やすのでなく、対象枠を広げることを目指します。例えば、大学生だけでなく広い社会層の若い人が外国へいく機会を増やせるようにします。具体的には小中学、高校、職業訓練生も対象となります。
また、現在奨学金が少額であるため、親に経済的に余裕がない人たちにエラスムスが十分対応していないという批判がありましたが、そこをカバーできるよう、親や本人の収入を考慮して奨学金の額を決める予定です。これによって、(現在の対象人数が400万人であるのに対し)今後、対象者を1200万人に増やす予定です。
プログラム拡充のため当然、予算は大幅にふくらみます。性格な額は確定していませんが、現在のエラスムスプログラムの予算(147億ユーロ)の2倍から3倍の、300億か400億ユーロがつぎこまれる予定です。
おわりに
ロッテルダムのエラスムスの生きた時代、宗教改革がはじまり、キリスト教会やそれを擁護するヨーロッパ内の国々が長く対立し、熾烈な戦いや荒廃を経験する時代へと突入していきました。そのなかで、エラスムスは、キリスト教会やヨーロッパの平和を尊び、みずからヨーロッパ中をまわり、多様な人々と親交を深めました。交換留学制度が、ロッテルダムのエラスムスにちなんだ真意は、そこにあります。
通常の生活でほとんどナショナルな枠組みしか意識しないで生活している人々が、ナショナルな枠をとびだし、学問や職業経験、交流などの目的で外国に滞在することで、自国の尺度だけで考えるのでなく、開かれたヨーロッパ圏の真価を自分の目で確かめる。そしてほかの人たちと互いに理解、尊重、協調する視点や共感する気持ちを願わくは、育くくんでもらう。そんな長期的な視点からの効果を期待し、貴重な機会を提供するため30年以上続けられてきました。
今後さらに増え続けていくこの留学支援プログラムなどを体験した若者たちは、将来、なにを判断し、なにを選んでゆくようになるのでしょうか。そして、どんなヨーロッパ社会が今後できていくのでしょうか。今後も短期的にみえる現象だけに終始せず、広い視点と長いスパンで観察していきたいと思います。
参考文献
Bennholdapril, Katrin, Quietly sprouting: A European identity. In: New York Times, 26.4.2005.
Die Zukunft von Erasmus+, Science, ORF, 23.8.2019.
Erasmus-Programm, Wikipedia (Deutsch) (2019年6月12日閲覧)
Erasmus: Mehr Budget, breiterer Zugang, ORF, Seicnece, 9.5.2019.
Mijuk, Gordana (Interview), «Die Europäer fürchten sich vor der Zukunft». In: NZZ am Sonntag, 9.6.2019, S.6-7.
Erasmus Programme, Wikipedia (English) (2019年6月12日閲覧)
Nuspliger, Niklaus, Eine Generation von «Super-Europäern»?. In: NZZ, 27.1.2017, 12:00 Uhr.
What is the Erasmus Programme?(2019年6月10日閲覧)
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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