都市と地方の間で広がるモビリティ格差 〜ヨーロッパのモビリティ理念と現実

都市と地方の間で広がるモビリティ格差 〜ヨーロッパのモビリティ理念と現実

2019-11-06

前回、共通運賃制度や統一した運行計画(ダイヤの策定)などをもつことで利用者に使い勝手がよく、利用者が恒常的に増え続けているドイツ語圏の公共交通について、ウィーンを例にみてみました(「公共交通の共通運賃・運行システム 〜市民の二人に一人が市内公共交通の年間定期券をもつウィーンの交通事情」)。

今回は、ヨーロッパ全体の潮流や、都市と地方の地域的な差異を視座にいれながら、人々にとってモビリティとはなにか、またなにがそこで重要になってくるか、といったモビリティの本質的な問題について、今日的な文脈に沿って考えてみたいと思います。

モビリティがないと世界はどんなふうに映るか

ところで、人がモビリティを日々確保できること(いつでも自由に移動できること)は、決して当たり前のことではありません。卑近な例ですが、数年前、キューバ郊外を車で走行した時、そのことを強く感じました(キューバの今 〜型破りなこれまでの歩みとはじまったデジタル時代)。

当時、ガソリンがキューバで全般に不足していたこともあり、一旦都市部を離れると、車やバイクの交通量はぐっと減り、バスなどの公共交通機関の運行も限られていました。かわりに馬車など旧来の輸送手段も若干使われていましたが、最もよくみかけたのは、自転車や自転車タクシー、リヤカーなどの人力に頼るモビリティです。しかし人力に頼る移動手段で、太陽光を遮ってくれる木陰などない、砂糖プランテーションや熱帯風景の間を延々と伸びる道を炎天下走行するのは、どう考えても体力的に厳しく、現地の人が日々直面しているであろうモビリティの問題(物理的な不足や気候的な問題からモビリティがいちじるしく制限されていること)を目の当たりにしたように感じました。

移動は、一見すると、生きていく上で、食べ物、住む場所、医療、情報、仕事などに比べると、それほど深刻で重要なことのようには思えません。しかし、実際の生活では、モビリティがなければ、仕事や学校にはいけませんし、生活必需品の購入や、時には命に関わる(医療などの)公的なサービスを受けることもままなりません。

ヨーロッパでのモビリティの捉え方

ヨーロッパでは基本的に、このようなモビリティを、人々の生活の質の重要な一部とし、「公共交通を国や自治体が供給責任を負う公共サービスとして位置づける」(国土交通省、2014年、22頁)傾向が、日本よりも強くみられます。

例えば、ドイツでは、1930年代終わりから「水道・ガス・電気のほか、郵便・電信・電話・保健衛生上の保護の供給、老齢・廃疾・疾病・失業への備え等に並び、あらゆる種類の交通機関の供給」など生活に不可欠なサービスの給付を「生存配慮」の任務と捉え、「広義の国家(Staat)」の責任と課」す考え方が生まれ(土方、2018、38頁)、「その度合いや方法に関する解釈は」(43頁)、「時代ごとの変化を免れていないものの、概念の創成当時から今日に至るまで」、「「生存配慮」は地域鉄道への行政による関与の根拠としては概ね機能してき」(43−44頁)ました。

スイスでは、鉄道を人々の輸送を目的とする公共交通と観光や貨物など営利目的の交通に分けて考え、前者の維持・運行で不足する費用は公的な補助金で補うことが法律で決められています(後者は、独立採算生を基本理念にしており、補助金がでないのに対し)。公共交通として認められている路線は、補助金を得ることができるかわりに、十分に公共交通として機能すべく毎日十分な頻度をもって運行ダイヤを維持させることが、国や州に求められます(ちなみに後者は、1日の本数だけでなく、冬季の走行を停止するなど、運行を不定期に行っても問題とされません)。

そして、ヨーロッパの少なくともドイツ語圏では、全般に人々のモビリティの基本として高水準の公共交通を確保するために、州や市が補助や投資をすることに、すでに社会的な合意ができているようで、それを改めて疑問視したり、反対をするという声を聞くことはほとんど聞かれません。

このことについては、しかし、意識的に住民が補助金政策を支持しているというより、一住民にすると、いくら公共交通に投資されおり、自分が直接どのくらいこれに対して税金から支払っているのか、というのはみえにくく、それよりむしろ自分の財布から払う公共交通がいくらで、どのくらい便利か、ということのほうに関心が高くなるためだからではないか、という指摘もたびたびみられます(例えば、渡邊、2018)。いずれにせよ結果として、間接的に公共交通政策を支持する結果となり、モビリティの確保を重視する政策が、ドイツ語圏では、ぶれずに長期にわたって今日まで存続してきたことは確かです。

ただし、モビリティはどこにおいても同じである必要はありません。地域や人、そこでの生活に不可欠な移動規模の大きさによって、最適のモビリティの手段は異なり、いちがいにどれがすぐれているということもいえないでしょう。ヨーロッパにおいても自転車交通網を相対的に重視する地域もあれば(「カーゴバイクが行き交う日常風景 〜ヨーロッパの「自転車都市」を支えるインフラとイノベーション」)、むしろ圧倒的に公共交通網に力をいれるところある、といった具合で、決して画一的なものではありません。近年は各地で、シェアリングという新しい可能性が従来の交通網の不足を補うものとして注目されたり、導入される例もでてきました(「ウーバーの運転手は業務委託された自営業者か、被雇用者か 〜スイスで「長く待たれた」判決とその後」)。

ともあれ共通するのは、それぞれの地域に人々に適切なモビリティがあるかないか、あるいは、あるにはあっても、使いがってがいいか悪いかが、生活に決定的な影響を与えるということです。

モビリティとは、単に道路をつくる、電車を通すというようなハードな話ではありません。道路や鉄道路線を実際に走行し人を輸送するモビリティが、便利な程度で存在するか、という実利の話となります。便利な程度、とは、例えば電車が1時間に最低1本は運行しているとか、深刻な交通渋滞など移動自体が妨害されていないことを意味します。もともとは便利な交通手段であったものでも、多くの人がそれを追求するために、かえって渋滞が悪化し、適切なモビリティを維持できなくなることもあります(「交通の未来は自動走行のライドシェアそれとも公共交通? 〜これまでの研究結果をくつがえす新たな未来予想図」)。

地域全体への恩恵

モビリティが確保されることは、それだけで、個人レベルの生活の質をあげますが、地域の発展のチャンスや経済の競争力も増やすことになり、ローカルな地域の魅力も高める効果にもなります。つまり地域全体の文化や経済発展の土台であるといえます。

例えば、前回とりあげたウィーンは、公共交通の利用率が非常に高い都市ですが、それでも運賃収入だけでウィーン公共交通の総支出額を回収できているわけではありません。一方、公共交通が充実することで、人のモビリティが確保され、経済活動や文化と複雑にからみあいながら、経済的に好転する作用を生み出していることも確かです。そうなると当然、観光客もひきつけます。経済や観光がさらに文化的な豊かさや生活の多様性をつくり、それがまた高い価値を生み出します。

このため、公共交通の直接的な採算性だけでとらえ、でてくる数値は、地域の利益を捉える数値としては、かなり限定的なものであるといえます。

環境を考えたうえでの「採算性」

他方、今日的な文脈にそってみると、環境という(現在の経済に十分に反映・評価されているとはいえない)分野での「採算性」は、むしろ今後、一層、注目されるものとなるといえるかもしれません。

前回、ウィーンでは、車の利用を減らし公共交通へと人々をうながすインセンティブがとられ、それが功を奏して、公共交通利用者の増加がつづいている状況をみました。大方の住人はこのようなウィーンの交通政策を支持していますが、市内の駐車料金が倍額になったことは、車を運転したい人にとっては当然、不評です。

しかし、ウィーン市議会ではこのような車利用者の不満を大きな問題とはしません。さらに今後さらに車の通行を抑制するための案として、通行料金を別途請求するという案も、都市の交通分野担当の市議会議員で緑の党の政治家ヘバイン Brigit Hebeinが中心となって、検討されています。

一貫してウィーン市がこのような市内の自動車交通を抑制する公共交通政策を推し進めているのは、一方で、住民の多数派にこのような方針が受け入れられているからだともいえますが、その根拠となっているのは、環境のいわば「採算性」です。環境負荷を都市全体として減らすという大目標を前に、なにがより効率的か、また中期・長期的な観点からみて、なにが採算性が高いかということを基軸にして、交通政策が進められています。

フランスの黄色いヴェスト運動の背景にあるモビリティ問題

一方、基本理念としてモビリティを重視するといわれるヨーロッパにおいても、一様にウィーンと同じような交通政策が支持されているとは限りません。

昨年、フランスではじまった黄色いベスト運動がさかんな地域は、その反対の立場を示している顕著な地域といえるでしょう。黄色いベスト運動は、政府が、ディーゼル車の燃料である軽油に対して、ガソリン車に比べ2倍近く上げるという燃料税の案を発表したことがきっかけではじまった、各地でのデモや暴動などの動きです(ただし、発端は燃料税でしたが、その後の黄色いベスト運動の展開には、フランス社会の様々な問題がからみ、反映されていると言われます。これについての国際経済と労働市場の専門家の見解は「向かっている方向は? 〜グローバル経済と国内政治が織りなすスパイラル」)。

ヨーロッパでは、1990年代以降、環境政策を推進するための重要なインセンティブとして、積極的に環境税制改革がすすめられてきました。ドイツでも1998年に緑の党と社会民主党の連立政権が誕生した後、エネルギー税や炭素税などが次々と導入されてきました。

こうした課徴金制度に対しては、環境を考慮した課徴金の大部分は、徴収した分を国民に直接還元する形がとられることが多く、このような制度の推進派は、課徴金の対象となるものを回避し、公共交通を利用するようにすることによって、家計の負担が減り、環境にもよいことになる。このため、特定の住民に集中して打撃を与えるものではない、と主張(説)します。

しかし今回のフランスの件をみると、この主張が妥当と言えるのは、公共交通などのモビリティが十分確保されている時であるといえるでしょう。フランスはドイツに比べ人口密度が低く、都市部を除くと鉄道網などの公共交通網が発達しておらず、その分、地方在住の人は、マイカーで移動することが多い国であり、この燃料税は、国全体の痛み分けというより、都市在住者よりも地方在住者により大きな犠牲を払わせるものと理解され、今回、地方で抗議運動が広がりました。

恩恵をより一層受ける人(公共交通がそのまま使えるだけでなく、環境税の還流も受けられるため)と、(長期的には異なる可能性があるにせよ)少なくとも短期的には課徴金が大きな負担を強いられる人という風に、社会が二つの方に両極化してくことだけでもすでに問題です。しかし、その分断が、一度社会のみなの目の前で鮮明に可視化されてしまうと、さらにやっかいです。国のなかが二手に分かれて感情的に対立し、議論が合理的な合意をめざす理性的な展開にすすみにくくなるためです(テーマは全く違いますが、ブレグジットの件で国の世論が大きく二分されてしまったイギリスの融和の道は非常に険しくみえるのと若干似ています)。

ただし、だからといって、ディーゼル燃料など人々の生活に直結する環境税は、たびたび、弱者いじめ、不公平だ、などと一面的に批判することも、少し違うように思います。さらに社会を広範囲からとらえてみると、ディーゼル車も保持できないような貧困層にとっては逆に燃料税が国民全体に還流されることで、恩恵を受けられるとう解釈もできるためです。

つまり、環境のための課徴金制度に「不公平」のレッテルをはり、インセンティブとして問題だ、と糾弾するのは簡単ですが、それほど単純なことでもなく、より重要なことは、それを導入するにあたって、都市部だけでなく、それぞれの地方においても、適切なモビリティ構想を合わせもっているのか、という点なのではないかと思います。

都市と地方の間で広がるモビリティ格差

前回、ドイツ語圏の都市部など公共交通がこれまで定着・成功した例をみましたが、視座を地方を含むヨーロッパ全体にひろげてみると、フランスでみえたような都市部と地方の間のギャップや政策の矛盾、不公平さは、むしろヨーロッパ全体を覆う問題として各地に存在しており、今後も状況によっては、その問題がより鮮明に、深刻になってくるのかもしれないという気がします。

ドイツ語圏の都市部ではどこも、公共交通や環境負荷の少ない交通政策に熱心な緑の党や左寄りの政党を選び、これらの政党が中心となり交通政策をさらに推進する傾向が強くなっています。この結果、ますます公共交通が便利となり、自転車道の拡充なども推進され、多くの住民たちはその恩恵を受ける、という好循環のスパイラルができつつあります。

一方、地方では、同じ時代の同じ国のなかであっても、都市の交通の発達とは異なる道を歩んできましたし、今も歩んでいます。もともと地方では、都市部よりもマイカーの利用が多く、公共交通の恩恵にあずかることがずっと少なく、それを促進することへの関心も必要性、都市部より低いままでした。

そのような状況下では、マイカーを抑制しようとする政策はもちろん支持されず、基本的に阻止、あるいは先延ばしにされ、マイカー利用が公共交通にシフトする機会を再び逃す、という工程が続いており、転機がおとずれる兆しはありません。

都市で公共交通が推進される一方、地方では推進されない。このように交通政策が乖離して進んでいった結果、受けられる公共交通の恩恵の大きさの差も都心と地方で大きく開いてきています。そして、受けられる恩恵の大きさが異なれば、住民たちの交通政策における公共交通への期待や理解、認識も異なっていきます。期待や認識が異なれば、当然、その地方の政府や議会が、次の時代の交通政策をどう舵取りするかも違ってきます。

このような状況が10年、20年と続いていったあかつきには、どうなるでしょう。都市部と地方において、今よりもさらに決定的な交通事情の差がでてくるのかもしれません。

おわりにかえて

前回と今回で、いろいろな立場や角度からモビリティについて考えてきましたが、最後に、ヨーロッパから目を離し、日本に目をむけてみましょう。

前回と今回の記事作成のために参考にした交通政策の調査報告や論文をみると専門家の間では、最終的に、ヨーロッパを参考にしながら、日本が目指すべき方向というものを共通して見出しているようにみえます。それがどのような見解なのか。宇都宮浄人関西大学教授の言葉をそのまま引用して、ご紹介してみます。

「今、求められるべきは、まちづくりと一体となった「統合的交通政策」である。そして、そのためには、ストラテジー(戦略)、タクティクス(戦術)、オペレーション(運行)の明確化が必要である。日本の場合は、鉄道会社がまちづくりまで全部担ってきたという歴史的な経緯がある。しかし、縮小、縮退の時代においては、民間ですべてができるわけではない。まずは大きな戦略として、どのような交通とまちにするのかを定めることが重要である。収益性ではない」(オーストリア、2018、3−4頁)。

「いかにして住み続けたくなる、訪れたくなる、Quality of Living の高いまちをつくりあげていくのかが重要。全体最適に向けて、もっと長い目で政策の優先順位を明確化していく必要がある」(同上、4頁)

現在、すでに日本が目指すゴールが、専門家の間で一致してみえているのであるなら、国や県、自治体、また地域の複数の交通事業体が連携しながら、早速、それの実現に向けて現実に取り組み始める段階にあるといえるでしょうか。1965年ハンブルクで、背水の陣で、自治体や交通事業者が一体になってのぞみ、実現した公共交通改革のように。

参考文献

Strom – eine Schlüsselenergie auf dem Prüfstand, Kontext, SRF, 23. Oktober 2019, 9:02 Uhr

Wiener Linien, 2018. Facta and Figures (リーフレット)

Wiener Linien (ウィーン市交通局のホームページ)

遠藤俊太郎「使命を終える鉄道―ドイツにおける鉄道旅客輸送廃止の動き―」『運輸と経済』第78巻第8号’18.8、104―107頁

「オーストリアの交通まちづくりから、地域再生の本質と方法論を学ぶ」、ルネッセ・セミナー第三回概要、エネルギー・文化研究所、1−4頁、3、4頁、2018年8月29日

加藤浩徳、Andrew Nash「スイス・チューリッヒにおける公共交通優先型都市交通政策」『運輸政策研究』Vol.9 No.1 2006、22−34頁。

国土交通省国土交通政策研究所「地方都市における地域公共交通の維持・活性化に関する調査研究」『国土交通政策研究』第120号、2014年11月

後藤孝夫「ドイツ・オーストリアにおける統合交通政策の現状」『運輸政策研究』海外通信004早期公開版 Vol.21 2、1−5頁

土方まりこ「ドイツの地域鉄道政策における「生存配慮」概念の意義『交通学研究』第61号(研究論文)2018年37−44頁

土方まりこ「ドイツの地域交通 運輸連合 役割の変換 研究員の視点」2016年(『交通新聞』からの転載)2019年10月22日閲覧

土方まりこ「ドイツの地域交通における運輸連合の展開とその意義」『運輸と経済』 第70巻 第8号2010.8、85―95頁

渡邉亮「運輸連合の概要と日本への示唆─ドイツ・ベルリンを例に─」『運輸と経済』第72巻 第9号 ’12 .9、72−81頁

渡邊徹「なぜ公共交通の確保維持に多額の補助金を支出することが社会に受け入れられているのか ―ドイツ語圏主要3カ国の主要都市を事例としてー」『運輸と経済』第78巻第2018.8、97−103頁。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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