グローバルな潮流と多様性の間で花開くものとは 〜普遍性の追求と「日本的なもの」
2020-01-06
マルチカルチュラルな世界における、日本的なものについて
前回(「マルチカルチュラルな社会 〜薄氷の上のおもしろさと危うさ」)に引き続き今回も、マルチカルチュラルな社会がどんな社会なのかについてさぐっていきたいのですが、今回は、マルチカルチュラルな社会とある意味で対極に位置する、ローカルな文化とその役割ということから、考えてみたいと思います。具体的には、「日本的な」もののマルチカルチュラルな世界での意味や価値といったことについて、エキスパートの意見を参考に、少し考えをめぐらしていきたいと思います。
アニメやアート、小説、食文化。どんなものでも日本発祥のものが海外で人気と聞くと、日本人として単純にうれしい気分になります。一方、それのどんなところが、ほかの国の人にとって魅力なのか。その辺りのところが、実はよくわからないと感じることもしばしばです。
以前、日本のドラマに熱中し、中学卒業後、日本にその後留学までしたスイスの中学生生徒がいました。ドラマの中の日本人のしゃべりかたがおもしろい、という理由でドラマ鑑賞を楽しんでいたのですが、なにがどうおもしろいということなのか、最後までどうもよくわかりませんでした。
毎年のように日本に旅行するドイツ人女性に、なぜ日本によく行くのかと訊いた時も、勝手にこちらの漠然とした予想とあまりに異なり、唖然としました。その人は、日本がとてもヨーロッパと違う文化をもつ国なので、日本へ行くと、異なっているものに対する感受性が研ぎすまされ、ヨーロッパにもどってくると、ヨーロッパのなかにある一見とても似ているようにみえるが少しずつ違う地域や文化の多様性について気づきやすくなる。それが、日本にいくとても大切な意味だ、と答えました。
また、合気道や俳句(ドイツ語に訳したもの)を愛好し、家では好んでお箸を使いごはんを食べていたが、それが共通して日本というルーツにつながっていたということに、長らく気づかなかった、と言う人もいました。その人にとって、日本由来のものであるということは単なる結果であって、重要ではなかったようですが、客観的にみて、この人が日本の文化になにか惹かれてたのだと考えると、一体どんなところだったのでしょう。本人でも意識せず説明もできないのに、他人が解釈するのは、かなりハードルが高いことのように思えます。
上にとりあげた人たちが、もしかしたら特殊な部類に属するだけなのかもしれないので、もう少しメジャーな例を考えてみましょう。スイスの本屋や図書館にいくと、多様な日本のマンガやアニメがならんでおり、人気のほどがうかがいしれます。しかし、それらを購入したり借りていく人たちは、具体的に、どんなところに惹きつけられているのでしょう。もちろん人によって違いがあっても、なにか共通する点があるから、一定のマンガがアニメが人気があるのだとすれば、それはなんでしょう。ストーリーでしょうか。背景となる日本っぽい雰囲気でしょうか。それともでてくる主人公たちのしぐさやファッションややりとりの仕方でしょうか。そしてそれは、日本人が感じている感覚と非常に近いものなのでしょうか。それとも実は違うところに魅力を感じているのでしょうか。
こんな風に、いろいろな海外の人にとって日本のどんなところがほかの国の人が惹かれるのかは、気になるところである一方、わたしにとっては、いまだに謎に満ちていてよくわからない領域。そんな風な印象をこれまで抱いていました。
そんななか昨年、日本らしさが、どんな風にほかの国の人に受け止められており、それがどう自社商品の人気と関係しているのか、というテーマについて、無印良品のアートディレクターの原研哉さん(以下、敬称略)の話を聞く機会がありました。チューリヒで行なわれたミニ講演会でのことです。
これは、日本と諸外国との関係が複雑きわまる方程式のように思えて途方にくれているわたしのような者には、ひとつの模範解答を示してもらえたような、示唆に富む内容でした。わたしだけでなく、ほかの方にとっても参考になる点が多いでしょうし、そこでわたしが抱いた所感もまたほかの人と共通するものかもしれないと思いますで、講演の内容とわたしの所感について、以下、抜粋して、紹介させていただきます。ちなみに、本文は、講演は原が最初日本語、後半は英語で講演を行ったものを、私の言葉でまとめたものですので、正確な原の言葉や表現を知りたい方は、今回の公演のベースとなっている、著書『日本のデザイン』(岩波新書、2011年)をご参照ください。
※講演会は、2019年10月2日チューリヒのSato slow living というチューリヒの日本雑貨や布団の専門店の中庭で、デザイナーで出版者Lars Müllerとの対話という形式で開催されたものです。
※講演では、無印良品については、海外での愛称である「MUJI」と呼称で呼ばれていたのと、講演の主たる内容が、海外での日本文化や無印良品商品の受容という観点からであったことから、この記事では、「無印良品」のことを、海外でなじみ深い「MUJI」という名称で、以下、表記していくことにします。
世界を席巻するシンプリズム
(以下、講演の論点を抜粋して箇条書きで示していきます)
・近代以前、地球上では、場所や時代によって、様々な需要があり、それと供給をうまく橋渡しする形で、世界でいろいろなものがデザインされ、形を成してきた。
・ヨーロッパでは、産業化の時代以降、量産・消費社会となり、それまで特権階級しかもちえなかった、モノや装飾が庶民にまでわたるような時代になっていった。
・そのような新しい潮流のなかで、装飾や無駄を削ぎ落としたシンプルなデザイン、シンプリズムが、ひとつの新しいデザインの方向性として生まれてきた。
・そして、そのようなシンプリズムへの傾倒・指向は、ヨーロッパにとどまらず、(モノが豊かにいきわたるようになった)世界中で今日、共通してみられるようになった。アメリカからサウジアラビアまで、世界中地域的な違いはなく、どこでも観察できる。
・もちろん、すべての人においてではなく、同じような志向をもっているのはそれぞれの地域の一部分の人たちにすぎないが、そのような世界共通の志向が、世界中まんべんなくみられるようになったことが現代のグローバス社会の特徴である。
日本のエンプティネスの伝統
・一方、日本には、このような世界的なシンプリズムの発達とは異なる、もっと長い歴史がある。
・日本では、10年に及ぶ応仁の乱で京都が大きく破壊された状況下、それまでの贅を尽くした華やかで装飾を重んじる海外を踏襲した美観が一旦リセットされた。そして、なにもないことを美学とし、それを追求する全く新しい芸術や工芸が生まれてくる。(茶道、建築、生け花等々)。この構想を一言でまとめるとすれば、それは「エンプティネス」である。あるものから削ぎ落としていくシンプリズムと違い、最初からなにもない。なにもないから、感性をとぎすませ、想像力を働かせ、ない部分を補う。あるいは、様々な需要や用途にあわせて、それを使いこなす。
・そんなユニークな文化が日本でその後も継承されていった。
グローバルなデザイン志向とMUJI
・そして近代以降、別に発達してきた、日本のエンプティネスの文化と、西欧初のシンプリズムの文化が、お互いに出会うようになると、それぞれが求めるものは、似たような様相となっていた。
・デザインがユニバーサルであるのは必然ではないし、不可欠でもないだろうが、近代以後シンプリズムを信奉するようになった西欧的な文化的な潮流は、日本ルーツのエンプティネスからでてきた文化の価値を認め、評価するようになった。
・MUJIは求めているのは、そのような日本のエンプティネスを発祥とするモノやデザインの延長にあるものである。使う人に使い方を強要せずに、ゆだねる。最小で共通の機能だけをもつ、シンプルな形や機能をもつ(そのことによって、利用者は、逆に個性的に使えるようになる)。
・多様な使い方ができるので、利用者を選ばない。大勢の人が使える。流行とは距離を置いているので、流行に関係なく、長い間使える。そういう哲学でつくられたMUJIの商品は、世界で同じような需要をもっている人に受け入れられている。
スイスの第一号店が開店した週末のMUJI店内の様子
文化的な伝統と普遍的な志向のバランス
原の講演を一言でまとめると、個性的、地域や時代に特徴的なものを体現するものではなく、それらから一定の距離をおいて、共通する機能やデザインを追求したMUJIは、「日本的なエンプティネス」の文化というルーツをもち、それを継承している。そしてそれがシンプリズムを志向する世界中でも現在、高く評価されている、ということであったと思います。
これを聞いて、MUJIが世界で人気がある理由や、またMUJIを愛好する外国の人たちの気持ちが、これまでより想像しやすくなった気がしました。もちろん、MUJIの人気をもう少し違った風に解釈することも可能かもしれませんし、今回のものがMUJI当事者からの説明であるということに留意する必要もあるでしょう。しかし、それらの分を差し引いても、MUJIに長くたずさわってきただけでなく、デザイナーとして世界的に活躍する原が、MUJIを時代や世界の潮流のなかで位置付ける今回の解釈は注目に値するでしょう。
一方、日本というルーツと関連させ、MUJIの人気の背景を読み解く原の説明は、一般論に照らし合わせると、矛盾する点があるようにも、わたしには思われました。
一般的に、特定の文化的特徴を全面に出す文化や商品は、一時期、一部の人の間では、めずらしがられて(いわゆるエキゾチック効果)、一時的に流行することはありますが、いずれは、あきられる運命にさらされがちです。逆にいうと、長い期間、広く愛用されるためには、強烈な個性よりも、むしろ普遍的なメッセージや使いやすいさなど、世界的な共通項を重視することが大切であり、その意味で、シンプリズム志向が世界を席巻する今日においては、出身地の文化的な「自我」を押し出さないMUJIの商品が、世界で受けれられやすいというのは、頭でも想像がしやすく、理解できます。
しかし、原は、デザインにおいて、今日、グローバルな時代にこそ、(普遍性を求めるだけでなく同時に)ローカル性がとても重要なのだと言います。そして、ローカルなルーツからでてきた多様な文化が、グローバルなコンテクストでそれぞれ貢献するというのが、のぞましい目指すところであるとします。原はまた、日本の文化は、最初の端的な「ワオWow」効果を生むが、重要なのはそのあとの、二つ目のワオのほうだ、という言い方もしていました。(例えば、日本食がおいしい、塗り物が見た目がきれいなど)表層的な印象から反射的にでる「ワオ」も(それはそれでいいが)それだけで終わりにならず、それをきっかけに日本に興味をもってくれる人たちが、より深層にある日本のエッセンスを発見・理解し、第二の「ワオ」を経験することになれば、それはもっと深く長く続く(日本との)出会いになるのではないかと言います。
原はこのような言い方を通して、文化の深層にあるローカルな文化の真髄を理解することの意義や重要性を、改めて強調しているように思われますが、ローカルなルーツを重視するデザインと、普遍性を追求するコンセプトやデザインと矛盾することではないのでしょうか。講演を頭で整理しながら、このような新たな疑問に突き当たりました。
スイスのMUJI第一号店がオープンしたショッピングモールに現れた巨大なこいのぼり
現代という時代の日本の文化の位置、価値、意義、意味とは
講演を聞いて、日本文化の海外での受容の仕方にヒントをもらった一方、普遍とローカル性の間の矛盾する関連性という、新たなひっかかる問題が浮上したため、講演の下地となった原の著作『日本のデザイン』を改めて読んでみました。約10年前に連載された記事がもとになった本ですが、今回読み直してみて、今日においても未来の進むべき方向性をよく見通して照らし出しているように思われ感心しました。このように今でも十分読むに値すると思うのはわたしだけではなかったようで、昨年9月に英語訳が出版されたばかりです(Designing Japan. A Future Built on Aesthetics, Lars Müller Publisher, Zürich)。
本の中で、疑問への直接的な解答ではないですが、わたしの表面的で部分的な疑問よりもずっと広く、(マルチカルチュラルな世界を相手に渡り歩いてきたエキスパートらしく)大局的に世界や時代を俯瞰しながら普遍とローカル文化を論じている箇所を、新たにいくつかみつけました。
「西洋文化の蓄積は確かに途方もなく分厚いし、産業や文化を世界に敷衍していく仕組みは見事なものだ。しかしそれで世界は十分であるとは言えない。東洋の端の方に芽生えた密やかな文化であっても、世界に寄与できる点が僅かでもあるなら、必要な場所にそれを機能させていけばいい。世界は常に新たな発想を必要としている。西洋文明の発想で進んできて行き詰まっている世界でもある。奢りや自惚れは慎まなくてはならないが、停滞する世界のお尻をぴしりと叩いて、従来とは異なる価値観に、目を見開いてもらうことも必要なのである。評価されるのではなく機能するとはそういうことだ」(181−2頁)。
「経済がグローバス化すればするほど、つまり金融や投資の仕組み、ものづくりや流通の仕組みが世界規模で連動すればするほど、他方では文化の個別性や独創性への希求が持ち上がってくる。世界の文化は混ぜ合わされて無機質なグレーになり果てるのを嫌うのだ。これは「世界遺産」が注目されていく価値観と根が同じである。幸福や誇りはマネーとは違う位相にある。自国文化のオリジナリティと、それを未来に向けて磨き上げていく営みが、結果として幸福感や充足感と重なってくるのである」(230頁)。
「世界は文化の多様性に満ちており、それらの絶妙なる配合に敏感なアンテナを振り向ける人々が増えている」(128頁)。
「長い間、アジア唯一の経済大国として独自の道を歩んできた日本ではあるが、アジア諸国の経済の台頭と活性によって、自身の相対的価値をあらためて見つめ直す複眼の視点が今、求められている」(132頁)。
おわりに
社会がマルチカルチュラル化するグローバルな潮流のなかで今、自分がどのようなところに立っており、また、自分がそのような潮流とどう関わっていくのか、いきたいのか。そこで、自分が継承してきた文化はどのような意味をなすのか。これは、現代を生きていくどこの人にとって、今後、重要なテーマになっていくのではないかと思います。
原が示したことは、マルチカルチュラルな社会での日本というローカルな文化的ルーツをもつものの価値についてのひとつの考え方にすぎませんし、なにか正解があるという話ではありませんが、原からひとつのすっきりしたわかりやすいセオリーを聞くことで、自分自身の考えが刺激され、開拓されていく気がします。引き続き、これらのテーマについて、自分にとっての大切な課題として、考えていきたいと思います。
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
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