環境対策とコミュニケーション 〜身近な人々との対話に環境問題が織り混ざる時代の批判・ユーモア・価値観
2020-01-20
今回と次回の記事では、ヨーロッパ社会で、もっとも広く関心がもたれ、めまぐるしく日々進展している、環境問題・対策関連のテーマからふたつのトピックを扱ってみたいと思います。
「よくスキー場になんかいけるわね。人工雪がどのくらい環境に悪いと思っているの。スキー場に行くことで、あなたは、環境の悪化に加担しているのよ」スノーボード三昧の休暇を終えて帰ってきたところ、隣人に開口一番こう言われた、と先日、知人が言いました。
環境問題がますます深刻化していくことに危機感や使命感をもつ人が増えるということは、環境問題が人々の関係性に新しいタクトや指針も与える可能性がある。ここまでは簡単に想定できますが、それは、今回のような厳しい言葉を、身近な関係の人たちから浴びせられたり、あるいは自分が誰かに浴びせる、ということも意味するのでしょうか。誰かに「ふさわしくない行動」と思われるものを目にしたら、このように行動することこそが、むしろ、これからの新しい「環境意識が高い」人々の模範的な行動とみなされるようになるのでしょうか。
今回は、この話を下敷きにしつつ、環境問題(対策)とこれからのコミュニケーション全般に関して、少し考えてみたいと思います。後半は、コミュニケーションの問題から視座を広げ、コミュニケーションの背後にあるヨーロッパの多様性を尊重する価値観と、環境対策がどんな関係になっているのかについても、考察してみます。
今回選んだテーマは、環境問題やその対策と直接影響することではありませんが、今後、身近な人々の間でも増えていくかもしれない環境問題にまつわるコミュニケーションを、できるだけ誤解やトラブルを減らし、より効果的に、そして気持ちよくすすめていくために、一度、整理して考えてみる甲斐はあるように思いました。ここでわたしが考えたことやそれを通してみなさんが感じたことが、今後、わたしやみなさん自身がどう関わり、あるいはまわりの人の言動にどう接していくかが問われる際の、参考材料になればと思います。
批判の前提となるもの
今回の知人の話をきいて、ダイレクトな物言いにも驚きましたが、批判の対象が知人であったというのも、意外で驚きました。
というのも、その知人は、確かにスノーボード愛好家で雪山によくでかけますが、地域生活では多くのことを実行し、わたしからみると、模範的な市民といってもいいくらいの人であったためです。貧困家族の生活を楽にし、同時にごみを減らすために、有志たちと、食料や衣類や玩具を地域住民から集め、それを定期的に配布したり、小学校のこどもたちが、用具をなるべく捨てずに使い切れるように修復・裁縫をするボランティア活動をしています。食品類のラップや包装ごみを減らすため、蜜蝋をしみこませた布地を自らつくって、母親たちに配っていたこともあります。
隣人は、知人と親しい関係ではないようなので、知人のそんな地域での活動を知らずに、目についた「環境破壊に貢献する素行」で彼女を批判したと思われます。
ここで、ひとつ素朴に疑問に思います。環境問題は全体を一望するのは不可能と思えるほど多岐にわたり、複雑に絡まった問題群です。環境だけでなく教育や格差など社会のほかの多くの問題ともリンクしているはずです。それでも、誰かを、環境問題に関連して批判や評価する時、その目にみえる一部だけがわかっていれば十分なのか、と。
ちなみに、企業はこの点で、人とかなり違う状況にあります。企業ももちろん、批判の対象になりえますが、それを前提に、たとえば、環境負荷が大きい企業活動をしていれば、その埋め合わせるとして、ほかのところで、どんな環境にいいことをしているか、といったことを、少なくとも公にアピールできますし、実際に積極的に公表しているところが多くあります。例えば航空会社が、途上国で植林活動をしていることをアピールするといった具合です。
一方、個人の場合は、近所づきあいくらいでは(それほど親しくない関係では)、お互い、それぞれがしていることのほんの一部しか把握していませんし、できません。これは普通の人間関係ではなんの支障もない(逆に、お互いに監視しあわない自由な関係として利点も多い)ですが、そのような希薄な関係しかない人を、「目についた」一部分で、批判するのは妥当なのでしょうか。
これは反語ではありません。個人的には知人にとても同情しますが、それとは別に一般論として、自分自身に中立的に問いかけています。もし自分がそのような場に直面した場合(自分が言うほうでも、言われるほうであっても)、「環境的に」よくないと判断されることをみつけたら、お互いに批判・指摘しあって、互いの環境意識の向上につとめたり、行動改善をうながす、というのがのぞましいのでしょうか。それとも、ほかのところで何をしているのかわからないのに加え、自分も決して完璧ではないし、自分もできれば言われたくないし、互いにめんどくさくなりたくないからというなどを理由に、(政治行動などとは別に)個人的な関係上では、そのことには触れないでもいいのでしょうか。
ただし、もし隣人が、知人が街の環境や社会的な活動に長年関わってきたことを知ったとしても、隣人の態度が変わらないことも十分考えられます。人や場所や背景によって、環境問題で優先すべき、重要と考えることはかなり異なるでしょうから、隣人にとって、スキー場へ赴く知人のことがどうしても気になり、これからも批判や非難を繰り返するのかもしれません。
批判の内容、仕方、その効果
知人からこの話を聞いたわたしは、スキー場や人工雪について具体的にインプットできるような知識がなかったため、「隣の人は、あなたに意見を変えてもらおうと思って批判したのだと思うけど、その方法は、一方的すぎて心に響きにくく、賢明ではなかったね」という感想をとりあえず述べました。
「批判」という行為において、本質的な内容(メッセージ)ももちろん重要ですが、どんな風にそれを行うか、また、実際に、それがどのような効果をもつか(どのくらい伝わったか)、ということも、同じように重要なファクターだと考えます。このため、批判という行為は、内容だけでなく、やり方やその効果にも配慮することが、有効なコミュニケーションとなるために欠かせません。では、批判的な要素を保ちながら、人々がばらばらに断ち切れるのではなく、むしろ協力関係を持続的に保っていくためには、どんなコミュニケーションがいいのでしょう。
例えば、親戚のおじさんが、時々、高校生の甥っ子の家に訪ねてくるとします。おじさんが、くるたびに、甥っ子がスマホをいじる姿をみると、「スマホ依存症になるぞ」と怒鳴る状況を想像してみてください。甥はどう反応するでしょう。もしおじさんと甥っ子が、ほかにもいろいろな関係やチャンネルをもち、信頼関係がすでにあるなら別ですが、そういうものが一切なく、ただおじさんが、依存症だ、と一方的にコメントを繰り返すだけだったら、多分、「うるさいな」で終わってしまい、おじさんの甥っ子を思い伝えたかったメッセージ「スマホをしすぎるとよくないよ」は、甥っ子にほとんど届かないのではないかと思います。
大人の場合も同じで、ただ一方的に相手を批判するだけでは、伝わる成功率がかなり低いと思われます。誰だって、唐突に個人的に批判をされたら、困惑するでしょうし、批判の内容を吟味する以前に、その言われ方でフラストレーションがたまることも多いでしょう。あ、そうだね、いう通り。そしたら、もうそうしないようにする、と素直に納得する展開には、まずならないようでしょう。
ただし、成功率が比較的低いとしても、批判することで、相手の行動の変化をうながすプレッシャーとして働くことは、ままあるかもしれません。そのような批判を受けるのがわずらわしく、それを今後回避するため、なんらかの措置をとろうという思考が、批判されたほうにでてくるようなことは、(それが賢明な方法かは別として)ありえます。
ちなみに、今回の知人の場合、隣人に批判されたあと、パートナーと、人工雪がどのくらい環境負荷が大きいかを、そのあと、少し話したと言っていました。隣の人の批判になんらかのインパクトがあったといえるのでしょうか。
コミュニケーションするゴミ箱(スイスのソーラーパネルとセンサー付きゴミ箱。
ゴミ箱がいっぱいになった時は、自分でシグナルを出しゴミ回収車を呼ぶ)
苦情が殺到した少女たちのコーラス
もちろん、環境問題は、一対一のコミュニケーションでなく、多くの人に一斉に伝えるマス・コミュニケーションにおいても、重要なテーマです。昨年末、マス・コミュニケーションにおいて、環境に関するユーモア(今回は、皮肉に近いもの)はどうあるべきか(あるいは、どこまでが許容範囲になるか)をめぐり、物議をかもした事例がありました。
昨年末公共放送のひとつでケルンを本拠地とする地方局(WDR)が、童謡の替え歌として、小学生の女子のコーラスに歌わせたのですが、その歌詞が問題となりました。歌詞の内容は要約すると以下のようなものです。
わたしのおばあちゃんは、バイクにのって鶏小屋へいき、医者にはSUVに乗っていく。安いからといって毎日ディスカウントショップで買ってきた(子牛や豚肉の)カツレツを食べ、飛行機にはもうのらないといって(やはり環境汚染で問題視されている 筆者註)大型客船のクルージングの旅行を1年に10回する。
そして、節の終わりには、「おばあちゃんは環境破壊野郎」というフレーズが、リフレインされます。ドイツ語の文字通り翻訳は「環境雌豚Umweltsau」で、「雌豚」というのは、人を貶める時に使う通常こどもたちが使うとあわてて大人が、そんな言い方をしちゃいけません、というたぐいの言葉ですが、この言葉を、コーラス隊はくったくない笑顔で繰り返し歌います。
最後は、トゥンベリの有名なスピーチの一部、「わたしたちは決してあなたたち(大人)にこの問題からのがれさせたりはさせません」という声が流れます。
これが放映されると、批判の声が放送局に殺到しました。高齢者をいっしょくたにして貶めている、度が過ぎる、といった内容に直接関するものもあれば、なんでこんな歌を子供達が歌わなくてはならないんだ、公共放送のお金をこんなことに使うのは無駄だ、という意見などいろいろありましたが、痛烈でおもしろいじゃないかと擁護する声よりも、圧倒的に多かったのが抗議の声でした。このため公共放送側が謝罪することになり、コーラスのビデオもテレビのオンラインサイトからまもなく消去されました。
ところで、この歌の歌詞を聞いて、ドイツ人であれば誰もが、連想するものがありました。それは昨年、ドイツ中でさかんだった若者たちの環境デモ(環境改善へのラディカルな政策を求めるデモ)です。そこでは、スウェーデンの環境アクティビストのグレタ・トゥンベリに鼓舞され、今の年配の世代が環境負荷を積み上げてきた、そして今も積み上げていることで、若い世代の未来を奪いとっている、と主張されましたが(ドイツの若者は今世界をどのように見、どんな行動をしているのか 〜ユーチューブのビデオとその波紋から考える )、この歌では、まさにその環境破壊をつづけ、若者の未来を奪っているという「悪い大人」を具現化しているといえます。
このため、この歌の主旨は、年の暮れのドイツ人にとって、特にめずらしいものではなかったともいえます。にも関わらず、苦情殺到という反応が引き起こされたのは何を意味するでしょう。なににつけても、文句をつけて騒ぎ立てるのが好きな人たちが一定数の苦情屋がいて、話が大きくなったこともあるでしょうが、その分を割り引いたとしても、この歌が、娯楽カルチャーとして許容される範囲を超えている、と不快感を感じた人が一定多数いたからだと思います。
トゥンベリによって掲げられた社会を善と悪に分け大人の世代を(若者と分けて)敵対的にとらえるという単純に濃縮した環境観は、一方で、多くの人に環境意識を高めさせることに貢献しました。他方、現代のドイツを含めたヨーロッパのリベラルな社会の多くの人にとっては、誰かや、その人のなにかを、公的な場で、貶めたり、ばかにするような言動は(これまでのヨーロッパの歴史上の様々な経験に照らし合わせてみると、たとえ一見、とても正義にみたえり、害のないジョークにみえても、社会をある一定の極端な方向にあおる危険があるため)賢明ではない、というコンセンサスが社会にあり、そのコンセンサスを破ってまで環境問題の解決に向けて社会を(ある一定の方向に)動かしていくべき、あるいはそれを題材に娯楽にする、という考えは、少なくとも現在においては、定着していないのだということを、このコーラスのドタバタ騒動は、暗に示しているように思います。
スーパー前の分別ゴミ集積所
ヨーロッパのリベラルな多様性を認める価値規範と環境問題
ところで、このようなヨーロッパのコミュニケーションの上の合意(コンセンサス)は、もちろん、それだけが浮雲のように存在しているのではなく、一定の倫理体系の上に成り立っています。その倫理体系のひとつの重要な部分として、異なる生き方や価値観を認め、できるだけ多様性を尊重するというスタンスがるように思いますが、この倫理体系自体が、環境問題の推進とやっかいな関係にあるようにみえます。
西ヨーロッパでは、特に1968年以降、それまで当然視されていた、さまざまな規範や習慣や社会の役割分担が見直され、それらにしばられていた人々の考え方を解放するのと同時に、異なる人や考え方にも寛容にさせてきました。同性のカップルや、異教徒や、信仰心をもたないこと、女性のキャリア志向や、専業主夫という生き方が(まだ完璧とはいえなにせよ、以前と比べると比べものにならないほど)普通のこととして認められるようになったのは、ほかの人に害を加えない限りその人の生き方や嗜好の多様性を認めるという、リベラルな考え方が社会に浸透してきたおかげです。
このようにヨーロッパが推進してきた多様な生き方や価値を尊重する倫理体系やポリシーは、これまで、社会での多様な問題解決の重要な指針、エンジンとして働いてきました。しかし、環境問題については、どうでしょう。
今年はじめ、シドニー周辺で史上最悪の大規模な山火事が発生したにも関わらず、10万発の盛大な花火が、例年どおり開催されました。環境の非常な危機が身近にあり、取りやめを嘆願する署名が30万人近く集まっていたにもかかわらず、「観光業界にこれ以上大きな打撃を与えないために」花火を断行するのを是とする(経済的に強く裾野の広い)産業界の解釈がより尊重されたといえます。
オーストラリアまで例を探しにいかなくても、ヨーロッパのドイツ語圏でも同様の例は数多くあります。冒頭の隣人が問題にした、スキー場の問題もそうです。アルプスでは温暖化による積雪量の減少が、近年、深刻です。例えば、オーストリアではすでにスキー場の雪の平均7割は人工雪で、イタリアの南チロルの一部では90%から100%(!)が人工雪のところもあるといいます。このため、今後、標高1500メートル以下の場所を中心に、将来は現在あるアルプスのウィンタースポーツのリゾートの半分が立ち行かなくなるというのが専門家の予想です(ツーリズムの未来 〜オーストリアのアルプス・ツーリズムの場合)。
しかし、スキー場の多くは、持続可能性を追求するソフトツーリズムへ思い切ってシフトするより、基本的にこれまでとなにも変わらないやり方で、スキー場を運営しています(ごく一部の地域では、電力を大幅に再生可能エネルギーに替える、公共交通を充実させ自家用車の交通量を減らすといった、動きもみられますが)。むしろ、客数の増加で危機を乗り越えようと、既存のスキー場のさらなる快適化を目指し、ゲレンデを大規模化したり、高速のゴンドラの導入など、新たな投資に力をいれるスキー場も少なくありません。
このようなスキー場をめぐる状況は、スイスやオーストリア社会で問題として意識されるようになって久しいですが、いまだにスキー場と社会両者が妥協できる落とし所が見いだせていません。例えば、規模やエネルギー消費量を大幅に規制する。場所の条件で、スキー場を維持できるかを許可制にする(標高が低い、積雪量が少ない場所は閉鎖にする)。ウィンータースポーツ競技の若手育成助成金をなくし、環境負荷が少ないスポーツにまわす、といった案は、少なくとも今は、どの国でも「想定外」のオプションです。
ウィンタースポーツを愛好する人々(ケルンのスポーツ大学の研究では、ヨーロッパ・アルプスのスキー人口約5000万人いるとされます)も、それが「環境に悪い」と思う人は多くても、目をつぶって容認する場合が多く、その一方で、このような状況を憂い憤っている人がいる。そのような並行状態が続いたままです。
もしスキー場の価値を評価し、それに基づいてスキー場が必要かを「客観的に」判断するという話になったとしても、実際に、どのように「評価」するのが妥当かということでも、また一悶着ありそうです。スキー場の意義や問題点について環境だけでなく、地理的条件、地域の伝統、健康、社交など、どんな側面をみるかによって、評価点がかなり異なってくるでしょうから、多様性の価値を尊重する社会では、「評価」の仕方だけでも争点になりえます。
このように、多様な価値を尊重する社会は、自由になにかを活動させるのはとても上手ですが、意見をまとめ、ひとつの方向に動員するのが、苦手であり、それが故、環境対策に対しても、ジレンマに陥っているようにみえます。
とはいえ、多様な価値や生き方を尊重するというベクトルと、環境対策の強化に必要なベクトルが、同じ方向を向いていないとわかったところで、なんの解決にもなりません。そのふたつのベクトルになんとか折り合いをつけて進ませていくことが、課題であり、現代を生きている我々に課せられたふんばりどころといえるでしょう。
人力と車を組み合わせた車両
(チューリヒ応用科学大学の卒業祭「フラックヴォッヘ」のパレード車)
おわりに
知人の話をきっかけに、環境問題に関するコミュニケーションを、整理しようと試みてきましたが、はてなマークをつけながら気になる点を書き出しただけで、いまだに思考の整理がついたわけではありません。建設現場のような状態です。
しかしこのような思考の建設現場が、わたしには、まず必要であったのかもしれません。先日、スイスの討論番組で司会をつとめるリュティBarbara Lüthiが言っていたことを聞いて、この先に進む道がかすかにみえたような気がしたので、紹介してみます。
討論番組は文字通り、意見の異なる人が議論する番組で、すべての人に満足いくような番組になることは不可能といえるもので、司会する彼女にも、当初、厳しい批判が飛び交ったことに対し、「わたしは批判をうまく扱うことができるし、批判されれば、しっかり受け止めている。批判が建設的なものであれば、そこからなにかを得ることもできるし、変えることもできる」と考えており、この自分が仕事にあっていると確信していると言っています。また、よい仕事をするために、自分が知らないことを認める「ジャーナリスト的な謙虚さ」が不可欠だとします。「自分がすべてをわかっているわけではないのだと感じ始めると、いい問い(質問)が頭に浮かんでくる」(Eugster, 2020, S.27.)からだそうです。
リュティの発言を今回のテーマに結びつけて考えると、こんな解釈になるでしょうか。これからの時代、環境問題やその対策が、社会や生活のあらゆる側面で意識され、改革や修正が求められていくようになり、隣人や知人との他愛ない会話のすきまにも、環境問題や対策に関係する厳しい指摘や個人的な批判も、織り混ざってくるようになるのかもしれない。しかし、批判を受けることや変化自体に恐怖したり躊躇するのでなく、そこに進展につながる建設的な要素があれば、そこからなにかを得て、変わっていけばいい。考えていくうちに答えが見えなくなっても、そのことがまた、(前進するための)新たないい問いに、つながるのかもしれない。
次回は、現在ヨーロッパにおいて、最先端の環境政策と国民を再統合する政治のあり方として、注目・期待がよせられている、オーストリアの新政権についてみていきます(「保守政党と環境政党がさぐる新たなヨーロッパ・モデル 〜オーストリアの新政権に注目するヨーロッパの現状と心理」)。
参考文献
Arnu, Titus/ Prantl, Dominik, Es grunt. In: Süddeutsche Zeitung, 11.1.2020.
Batthyany, Sacha, Greta stört! In: NZZ am Sonntag, 29.9.2019.
Eugster, Andreas, «Routine strengt mich an» In: Coopzeitung, Nr.2, 7.1. 2020, S.26-27.
Eklat um Song
WDR-Kinderchor singt „Oma ist ne alte Umweltsau“, merkur.de, Aktualisiert: 07.01.20 11:25
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。