フランスの学校が直面する「表現・言論の自由」 〜フランスの理念、風刺画、学校教育、イスラム教徒(2)

フランスの学校が直面する「表現・言論の自由」 〜フランスの理念、風刺画、学校教育、イスラム教徒(2)

2020-11-15

前回(「フランスの学校が直面する「表現・言論の自由」 〜フランスの理念、風刺画、学校教育、イスラム教徒(1)」)最後の部分で、早急に検討や対策を要する二つの問題領域のひとつとして、授業の進め方(授業でそのテーマの扱い方)についてみました。今回は、二つ目の問題領域として、それを教える教師たちをめぐる状況と対策について考えるところから、議論を続けていきます。

「表現・言論の自由」の授業をする教師を守るための「表現・言論の自由」の規制

教室の授業が命がけのものであることを目の当たりにし、教師たちの動揺は、これまで以上に大きくなりました。授業が脅威となり、教師たちが、萎縮してしまい、本来したいような授業ができなくなることを避けるためにはどうすればいいのでしょう。

今回の事件は、「発言の自由」を学ぶための授業を行っていたその教師についての批判的な内容の情報やビデオが、怒った生徒の親などによって作成され、ソーシャルメディアで一週間前から拡散されたことが、事件を最悪の事態に急転させるトリガーとなりました。イスラム過激派の間に教師の名が知られるようになり、秋休みを前に帰路の途にあった教師は、子どもの頃に難民としてフランスに移住してきた18歳の少年の犯罪の犠牲となりました。

ドイツでは、ソーシャルメディア上の人々の身を危険にさらしうる発言や偽情報を厳しく取り締まる法律「ソーシャルネットワークにおける法執行の改善に関する法律」が2017年10月から施行されています。これにより、大手ソーシャルメディアプラットフォーム事業者は、問題があると報告される内容についてただちに審査し、ドイツの刑法で明らかに違法のものは、24時間以内それ以外の違法情報についても、7日以内の削除、あるいはドイツのIPアドレスをもつ人が閲覧できないようにアクセスをブロックすることが義務付けられました。義務を事業者が十分に行っていないと認められた場合、最高5000万ユーロまでの過料が科せられます(「フェイクニュース対策としての法律 〜評価が分れるドイツのネットワーク執行法を参考に」)。

一方、フランスでは、このような法律がありません。フランスでは歴史的に表現・言論の自由を尊重すべきという信条が強く、数年前に、ソーシャルメディアの内容が問題となったときも、最終的に最高裁は、表現の自由を侵害してまで、規制することはない、という判断を下しています。しかし、今回の、ショッキングな事件を契機に、なんらかの規制をすべきかがいよいよ本格的に検討されることになりました。最終的に、フランスがどのような判断をするのかはわかりませんが、近い将来、ドイツのように、フランスでもソーシャルメディアでの「表現の自由」に、なんらかの規制ができるかもしれません。

(教師たちの)「表現の自由」を伝導するというミッション遂行のために、(教師たちという表現者を庇護するため)「表現の自由」を規制するというのは、一見、パラドクスのように響きますが、「表現の自由」の「自由」というものの範疇が変わってきているということかもしれません(人々の安全・保護を優位に考え、危険にさらされるような状況では、「自由」は「自由」たり得ないという風に)。

「風刺画の自由」とは

ところで、風刺画という独特の、表現形態も、ソーシャルメディアの全盛の現代において、新たな状況に直面しており、表現・言論の自由という全般の問題とはまた別に、個別に注視すべき問題領域であるように思われます。風刺画に詳しいルツェルン大学教員ガッサー Christian Gasserが、今回の事件を受けて、フランス風刺画を取り囲む現在の状況をわかりやすく説明していたので、これを要約して紹介してみます (Nach Lehrer-Mord)。

「フランスの風刺画は、200年の歴史をもち、イギリスやドイツのそれに比べても、辛辣で、挑発的で、常に限界を超えるような表現を追求し、人々を唖然とさせ、笑わせてきた。このため、反感やトラブルもつきない。すでに19世紀から、風刺画の対象とされ政治家や経済界の重鎮などVIPが、風刺画を訴える訴訟が多くあり、風刺画を規制する法律が多くつくられてきた。

このように常に、時代のエリートや権力者と対峙する緊張感をもった表現形態だが、フランスでは、風刺画自体を抑圧することは、これまでなかった。むしろ、右派も左派も関係なく歴代の大統領は一貫して、風刺画の自由を尊重してきた。

風刺画は、本来、日刊紙や週刊誌などに掲載されており、それを購入する人たちにのみ、理解・消費されていた。つまり、地域や時代の文脈を知る人たちに、それに基づいて認識され、消費されていた。

しかし、ソーシャルメディアのような拡散を容易にするメディアが強い影響力をもつ今日、そのような新聞や地域的なメディアの文脈からは、完全に切り離された形で、風刺画を消費されることが物理的に可能になった。こうなると、まったく本来風刺画が意図していたこととは別の解釈が成り立つことがあり、誤解も生じやすくなる(ガッサーは、このような「文脈」から切り離された風刺画の消費が、近年のフランスの風刺画をめぐる事件や問題が起こったことの大きな理由と考える)」。

確かに、ソーシャルメディア全体の流れとしても、(10年前にインスタグラムが登場して、またたくまに人気を博したことに象徴されるように)ビジュアル偏重の傾向が強くみられます。風刺画のような題材は、それらにメディアに最適なコンテンツとして拡散され、全く違う解釈の危機にさらされる危険が、日常的になったといえます。これに呼応し、風刺画家は、限られた発行数の出版物上に文脈をもって発表されていた時とは全く異なる、壮大な重圧・脅威に常に耐え、怯えなくてはならなくなったともいえます。

風刺画という文脈のある特殊で辛辣なコンテンツを、今後、デジタル媒体になかで、ほかのものと扱っていいのか、そうでないなら、どう取り扱うべきか。今日、「表現・言論の自由」という大枠のテーマとは別個に、デジタル時代の風刺画という表現形態の利用・消費の仕方について、改めて考察・検討すべきなのかもしれません。

教育現場にたびたびみられる対立

ちなみに、今回の事件は、「表現・言論の自由」についての授業内容がきっかけでしたが、イスラム教徒と学校の間で衝突し、物議をかもすことは、これまでもありました。例えば、イスラム教徒の家庭の子供が、生物学や保健体育、水泳の授業を受けるのを、親が妨害したり苦情を言う、というのは、フランスだけでなく、ほかのヨーロッパの国でもよくあります(ちなみに水泳がイスラム教徒に忌避されるのは、水泳が悪いのでなく、通常の水着が、イスラム教の一部にとって肌の露出が多すぎると考えられているためです。このため、夏になると、学校だけでなく公立プールや海水浴場での水着をめぐる議論が、たびたび繰り広げられます。「ヨーロッパの水着最新事情とそれをめぐる議論」)。

フランスに特化されない問題や、「表現の自由」以外の周辺にある問題の例として、スイスの事例をふたつあげてみます。

スイスでも数年前(2016年)、中学生の男子が女性の教員に対して(宗教的な理由として)握手をしなかったことで大きな問題になりました。握手の挨拶が社会に浸透しているスイスでは、学校の授業の後にも、子供たちが教師に対して行うお別れの挨拶として、握手をするのが一般的です(ただし現在は、例外的にコロナの影響で握手の慣行は一切禁止されています)。それを、宗教を理由に拒絶することが可能かという点が、全国的に注目され、議論の的となりました。

手が触れ合うかいなかというある中学の教室の片隅で起きた出来事が、全国のニュースとなり、国民を巻き込む議論になったことに驚きますが、それほど、握手という行為がスイス人の礼儀として重視されていると逆読みすることも可能でしょう。いずれにせよ、最終的に法務大臣が、それはスイスの学校に通う生徒のする態度として容認されないという明確な態度を示し、州も、授業終了後の教師との握手によるあいさつは就学生徒の義務であり、それを拒絶すれば最高5000スイスフランの罰金を科すという判断を下す、というところまでいって、ようやく議論は下火となりました。(「たかがあいさつ、されどあいさつ 〜スイスのあいさつ習慣からみえる社会、人間関係、そして時代」)。

もちろん、学校の方針に納得しなかったり、苦情を言うのは、イスラム教徒だけではありません。例えば、クリスマス前に公立の学校でクリスマスの歌を歌う習慣については、最近、苦情や批判などトラブルが多く、近年は、学校も、クリスマスで歌を歌うべきか、歌うとすればどの曲に問題がないか、といった風に、選曲に、ナーバスになっています。このようなケースで学校への苦情を言う人が、どんな人物なのかについて学校は公表したがらないため、はっきりはわかっていませんが、イスラム教徒などの異教の宗教信仰者だけでなく、政教分離を重視する人や無神論者も含まれているというのが一般的な推測です(「クリスマスソングとモミの木のないクリスマス? 〜クリスマスをめぐるヨーロッパ人の最近の複雑な心理」)。

ちなみに学校のやり方に、苦情を言うこと自体は、問題ではありません。親が子供の受ける教育について、教師に説明してもらうよう要求するのは、今日親の当然の権利とみなされています(そのやり方や限度は、当然、考慮されるべきでしょうが)。

さらに次回へ続きます

前回と今回を使い、フランスの事件を、事件の背景を周辺の分野やほかのテーマと関連させながら考えてみました。次回は、冒頭で触れた、アマルティ・センの視点を手掛かりにしながら、さらに違う視点から、さらに掘り下げてみたいと思います。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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