アマルティ・センの「正義」と3人のこどもたちが切り開く未来
2020-11-25
これまでの2回の記事で、フランスの10月の教師殺害事件の背景や関連するテーマを、普遍的・共通する問題領域を意識しながら、考えてきました。連載最終回の本稿では、1998年のノーベル経済学賞者で、先日、ドイツ出版協会平和賞を受賞したアマルティ・センの視点を手掛かりにしながら、考察してみたいと思います。
これまでの記事:
第一回 「フランスの学校が直面する「表現・言論の自由」 〜フランスの理念、風刺画、学校教育、イスラム教徒(1)」
第二回 「フランスの学校が直面する「表現・言論の自由」 〜フランスの理念、風刺画、学校教育、イスラム教徒(2)」
社会にあふれる議論
動揺する事件がおきると、人々は、なぜ、こんな事件が起きてしまったのか、理由を探したいという衝動にかられます。納得できそうな理由をみつけ自分を「理解」させることで、「不可解」な部分を減らし、自分の不安や動揺を緩和させたいと思うのは、人間のなかに深く根ざす心理的欲求なのでしょう。
「理解」に自分を導くチャンネルやメディアは、今日、非常に多様にあり、今回のように国中で話題になっているテーマならなおさら、情報は、偽情報も含め氾濫しています。それらのうちのどこからどんな情報をとりいれ、自分を「理解」に導くかは、人によって本当に様々なことでしょう。自分が信頼する政治家の主張に影響を受ける人。家族や友人と議論することで、自分なりに納得する理由をみつける人。ソーシャルメディアで反響が大きい意見を目にして、なるほどと納得する人もいるでしょう。
チャンネルやメディアの話はとりあえず置いておいて、「理解」に導く説明としてどんなものが考えられるでしょうか。例として、以下のような「理由」を、考えてみます(これらはこれまでのイスラム系移民についての言説や様々な研究やメディアで使われていた議論を踏襲しながら、わたし自身がまとめたもので、現在フランスで声高に言われているものをリサーチして列挙したものではありません)。
「犯罪を起こす可能性が高い過激思想を持つ人に対して、国家が十分に管理・監視してこなかったのが問題(今回の事件にいたった重要な理由)」
「犯人の行為は、正気の沙汰ではない。犯人は、精神的に病んでいた、つまり攻撃性のある危険な病人が、社会で自由行動を許されていたことが問題」
「移民や難民申請者が全般にフランスに多すぎるのが問題。このため、移民の社会へのインテグレーションが十分にできておらず、今回のようにテロに走る人もでてくる」
「問題の究極は、移民、特にイスラム教徒の移民的背景をもつ人たち全般への、社会的差別。自分たちが二等市民にみられているという感情が社会への憎悪や閉塞感となって、その一部が暴走する」
「国や宗教や特定の機関や人が悪いのでなく、様々な経済や社会問題が起因して、全般に生活が困窮している人が多いことが問題。未来への展望もなければ、偏狭な意見に陥りやすくなる」
「イスラム教の理念とフランスの国の理念は相容れないことが根幹にある問題。両方を完全に尊重することは不可能なため、社会の対立はなくならず、それを無理に統合しようとする教育現場での啓蒙活動で、悲劇はなくならない」
「アフリカのイスラム過激派組織やトルコの大統領が、国内のイスラム教徒に過激な思想的影響を与えているのが問題。このような過激なイスラム教徒の思想や政治的な思惑をもつ国外の勢力と、国内過激派の密接な関係や干渉を、断つことが重要。換言すれば、国外のイスラム過激派に対しては兵をおくり、活動を鎮圧しない限り、フランス国内は平和にならない」
ざっと想定される意見をあげてみましたが、いかがでしょう。最もらしくきこえて惹かれる意見があったかもしれませんし、右翼や左翼政党で繰り返されている典型的な意見に思われるもの。あるいは、これまで全く聞いたことがない異質な解釈に思えるもの。はたまた、確かにどうとも思えるが、だから何? 正論かもしれないが、実践的な状況改善には寄与できなそうにない、と思えるものもあったかもしれません。
秋のヨーロッパのスーパーのぶどう売り場(選択肢が多いからといって、最適のものを選択するのが容易とは限らない)
測り方で変わる正義の中身
このように、ある問題について、非常に異なるいくつもの説があり、人や立場によって意見が大きく食い違い、社会的合意がほとんど成立していない場合、どう対処すべきでしょう。問題点も着眼点も、解釈もあまりに隔たっていれば、それのどれが最も正しいと、だれがなにを根拠にお墨付きを与えることができるのでしょう。
これが裁判という場であれば、話はずっと簡単です。公判中、弁護人と検事がそれぞれ違う視点から事件を解釈し、争いますが、判決が下ればそれで一旦、決着する(させる)というルールがあるためです(それでも不満な人のために、控訴という可能性もあらかじめルールに組み込まれています)。しかし、社会一般では、どのような解釈をするかについて、そのような明確なルールもプロセスもゴールもありません。そのような状況で、社会で意見・解釈が分かれ対立しているのだとすれば、どのように、これから歩むべき道筋をつけていくのでしょう。
ここで、やっと、初回の冒頭で言及した、アマルティヤ・センの話にうつります。センは、『正義のアイデア』(Sen, Amrtya, The Idea of Justice, Harvard University Press 2009)という著作のなかで、以下のような例え話を記しています(以下は、Richard, Für Wohlfahrt やほかのセンの著作についての要約からまとめたもので、筆者自身が、センの上掲書を読んでまとめたものではありません)。
「3人のこどもたちが、ひとつの笛をめぐって争っています。
まず、アン。アンは、3人のなかで唯一笛を演奏することができます。これを理由に、アンは、自分が笛をもらうのが正当(正しい)とします。
一方、ボブは、貧しく、ほかの二人は、ほかにも玩具をもっていますが、ボブはなにも玩具をもっていません。だから、ボブは自分がもらうべきだといいます。
3人目のカーラ(ドイツ語訳では「クララ」)も、自分がもらうのにふさわしいと主張します。なぜなら、笛は、カーラがつくったからです。作った人がそれをもらうのが正しい見解だとします。
センは、この例えが、異なる、正義(公正さ)の考え方を示しているといいます。
1。アンは功利主義者の正義感覚
アンは唯一笛が吹けるため、ほかの子供がもつより、笛が有効活用されうる。つまり、最大の功利がある。功利の大きさが、功利主義者にとっての正義の指針。
2。ボブは、公平主義者の正義感覚
最も貧しいこどもであるボブは、公平主義者にとって、一番支援をすべき存在となる。公平主義者にとって、社会格差や、機会の平等や、リソースへのアクセスが、正義の重要な指針となる。
3。カーラは自由主義者の正義感覚
その人自身が、なにをしたか、成し遂げたこと(仕事や生産性)を重んじ、それに見合うものを得ることをとりわけ重視な権利とするのが自由主義であるため、今回の場合は、自由主義者は、それを作ったカーラがそれをもらうのに最もふさわしいと考える。」
センは、このように異なる「正当性(正義)」は、それぞれよくみると、どれかが間違っているのでなく、それを計る物差しが違うだけで、どれも(理論的には)正しく、一理あるとします。そうした上で、「具体的には、互いに議論し、あれこれ勘案することによってしか、相反する正義の想定(見方)の問題は解決しない。」(Richard, Für Wohlfahrt)と言います。
センの視点からみた社会の進むべき方向
複数の意見があると、すべてが一理あるとはなかなか考えず、正解はどれなのか、とつい性急に「答え」を求めたくなる衝動が走りがちです。そのような衝動は、(初回の記事のホルクスの指摘を参考にすると)自分が「わからない」状態が不安であるからであり、すこしでも「わかった」「理解している」状態に近づきたいからなのかもしれません。
しかし、センは、むしろ、逆に違ってはいるけど、どれも、一理あるということの方に強い関心を向け、それを一度、人々に認識させるようにさしむけます。センは、意見が全く異なるものでも、どれかが正しく、どれかが間違っているわけではない。逆に、誰かがまちがっているから、争うのではなく、それぞれが一理あって「正しい」場合でも、争うケースがあることを示唆していました。
それぞれが「間違っている」のではなく、正しさをはかる物差しが違うことで、でてくる結論が違うという認識は、単に「正しい」と「まちがい」で意見を分けるのと、かなり理解の質が異なってくるように思われます。
まず、これは、どれかがまちがっていてどれかが正しいと思って出発する思考とは、(当然ですが)思考のゴール地点が異なります。センにとって、「正しい」答えがあるのでなく、たがいに意見を交換し、すりあわせながらつくっていくのが答えだ、ということであり、ゴールは、ひとつの正しい解答をみつけることではありません。
また、それぞれ一理あると認めれば、(自分たちの意見だけが正しく一切の妥協を認めない)過激派の意見は許容できませんし、武力をつかって異なる意見の人をねじふせようというやり方にも共感できないでしょう。つまり、「正義」についてのたったひとつの解釈しか認めないスタンスは、たとえ一時的に武力で優勢になったとしても、社会に定着する正義にはなりえません。
自分の正義だけが絶対唯一正しいというのではない、という事実を認めることは、自分の正義が万全でないことを認めることでもあるでしょう。自分の信じる正義では、ほかの正義が達成しうる利点の一部が達成し得ないという、その不利益も認めることでもあります。
このようなセンの(複数の正義をすり合わせて現実に正義を実現していくという)正義の考え方は、一見、賢明で、非常に正論にもきこえます。しかし反面、一抹の不安も感じます。そのような並行線をたどる正義の考え方をもとに、どうやって、社会の問題や対立を解決、改善していけるのでしょう。実効性はどのくらいあるのでしょうか。
3人のこどもの例えの続きが示唆するもの
ここで、再びセンの先ほどの例えを使い、その続きの話を想像してみます。自分たちの問題を、3人が、どう解決するのか、という、それからの可能性の話です。
貧しいボブに、カーラの笛をあげたら、ボブは喜ぶ一方、カーラの努力をしてなにかを達成しようという意欲はそがれてしまう危険があるでしょう。それでも最終的に、貧しいボブに笛をあげることになったらどうでしょう。それが決まった時点で、状況が新たに動き出します。カーラに笛の出来のよさを認め、ボブがカーラに感謝したら。カーラが次にまた笛をつくる時に、その材料探しをボブやアンも手伝ったなら。そしたらカーラは、今の笛にだけこだわらず、新しいもっといいものを作ろう、という意欲が湧いてくるかもしれません。
アンが笛をもらって、二人に聴かせたらどうでしょう。カーラは自分がつくった笛をほこりに思い、アンにあげてよかったと思うかもしれません。ボブは、笛も作らず、演奏もできませんが、アンの演奏を聴いて喜ぶかもしれません。ボブが歌が上手なら、アンの笛に合わせて、笛だけより素晴らしい演奏が可能になるかもしれません。
カーラが笛を受け取ったらどうでしょう。吹いているうちに、その笛が吹きにくい部分に気づき、改良していいものを作るきっかけになるかもしれません。そしてしばらくして、カーラの最初の作品よりもずっといい音色の笛を、アンとボブにプレゼントしたとしたら、二人は、最初の笛をもらっていた場合よりも、よろこぶかもしれません。
このように、例え話の続きを考えていくと、どうでしょう。たとえ、二人が笛をもらえないというのが事実でも、一人の笛をもらった人や、残りの二人を配慮して行動すれば、笛がもらえない二人にとっても、恩恵がもたらされることが可能なこと。だれが笛をもらうのが「正しい」かではなく、だれかが笛をもらったあとに、どう3人が対応するかが、むしろ、その後の展開で重要であること。それらのことが、具体的にみえてくる気がします。
そして最も、注目したいのは、どのケースかでそれぞれ展開が違いますが、言い争っている時点よりは、いい方向に向かう可能性が存在することです。例え話がもしも現実の3人の話だったら、実際には、そこで話はここで断ち切れず、未来にずっと話はつづいていきます。ボブか、アン、カーラがもらったその時点からはじまる新しい展開において、まだ変化や状況をよくする余地が残されていて、そこに精力を注ぐことで、争っていた時点よりも、いい展開が可能であること。このことを自覚・留意することは、非常に重要に思われます。
おわりに
フランスは、今、この事件を契機に、また新たに自分たちのこれからの進む方向性をみさだめようとしています。この事件には、表現の自由の問題、イスラム過激派の問題、イスラム教徒全般の問題、その他多くの問題が関わっており、同じことを2度と繰り返さないという1点を目標にするだけでも、社会の多岐にわたる分野が関連する壮大な改革プロジェクトとなりそうです。その一方、なにをまずすべきか、なにが最も建設的で重要な対策なのか、という議論でも、それぞれの立場により、強い感情的なもつれもあり、意見は大きく分かれているのが、現状のようにみえます。
例えば、イスラム教(の教え)が、フランスの共和国の価値と両立しえないと信じている人は、イスラム教徒全体では29%でしたが、若い人では、45%と半数近くで、フランス人全体では61%とさらに不信感が高くなっていましたが(Remix News, French muslims)、このようなイスラム教徒と非イスラム教徒の間で大きな不信感がお互いにあるなかで、イスラム教徒が国教育の趣旨を理解し同意するには、どのような方法が効果的、建設的なのでしょうか。
一方、センの「正義のアイデア」の例えにひきつけてみてみると、最初から、正しい「正義」にかなった一本道があるわけではない、ある必要はない、ということが重要な知見でした。無理に、「正しい」道をもとめ、それの正当性を主張するための根拠を固めるような議論をつみあげていくのでなく、いまの多様な意見が混乱する状況を、あえて出発点にして、それぞれの主張をきき、論理をつなぎあわせながら、状況に合わせ修正し、それぞれの時点で、社会の協力を引き出しながら、楽観も悲観もせず進めていく、というのが、現実の社会での実践的な「正義」であり、議論だけで先に進まないのでなく、先に進むことができる道だといいます。
フランスの人たちが、今回の事件で、再び難しさを痛感した、イスラム教徒と非イスラム教徒の共存の道のあゆみにおいて、これまでの多くの苦い経験を生かしながら、よりよい方向に修正を加えながら進んでいくことを、また、そのような道をいま歩んでいるフランスの様子が、ほかの世界各地のイスラム系住民との対立を抱える国にとっても、希望や勇気を与えるものになっていくことを祈りながら、今後の状況に注目していきたいと思います。
「単に我々が(潜在的な)テロリストや危険とどう向かい合うかという問題だけでなく、我々が社会として、表現・言論の自由をどう扱い、次の世代にそれを渡していくかが問われている」(Schweikert, Helden)
参考文献
Longin, chrstine, Verlorene Banlieues. In: NZZ am Sonntag, 11.10.2020.
Warum der Lehrermord Frankreich aufrüttelt. 96. NZZ Akzent (Podcast), 22.10.2020.
Belz, Nina, Frankreich erlebt ein schockierendes Déjà-vu. In: NZZ, 20.10.2020.
Merten, Vikctor, Das Land muss den redikalen Islamisten die Stirn bieten. In: NZZ am Sonntag, 18.10.2020, S.17.
Richard, Christiane, Für Wohlfahr und gegen Ungleichheit. Herausragender Ökonom. Er forscht mit den harten Methoden der Wissenschaft, aber mit weichem Herzen: Amartja Sen, Wirschaftswissenschaftler von Weltrang, erhält den Friedenspreis des Duetschen Buchhandels. In :Tages-Anzeiger, 19.Okt. 2020, S.27.
Sen, Amrtya, The Idea of Justice, Harvard University Press 2009.
Schweikert, Ruth, Helden sind nicht weg, sie sehen nur anders aus. Gastkolumne. In: NZZ am Sonntag, 25.10.2020, S.16.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
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