シェアリングによって変わる地域社会と生活スタイル(2) 〜スイスのシェアリング施設のボランティア体験から
2020-12-20
前回(「シェアリングによって変わる地域社会と生活スタイル(1) 〜スイスのシェアリング施設のボランティア体験から」)からの続きとして、さらに、シェアリング施設の存在によって、自宅での生活の自体も変化していく可能性について、一利用者としての私自身の体験をもとに、考察してみます。
生活面その1 〜片付け方が変わる
片付けコンサルタントの近藤麻理恵さんの「こんまりメソッド」が世界で大流行したことからもわかるとおり、昨今の世の中、モノが多く、それを片付けるのに非常に苦労・苦悩している人が、非常に多いと思われます。かくいうわたしも、まだ「使える」状態の自分の所持品を、ひきつづき持ち続けるべきか、それとも処分すべきかの決断を先延ばしにする傾向が強く、所持品が増え続けるという問題をかかえていました。
ところで、スイスでは、コロナ禍以前は、かなり多くの不要な中古品を寄付として受け入れ、救済プロジェクトなどの資金にあてる非営利のリサイクルショップが各地にあり、それらの施設に持ち込むことが比較的、簡単にできました(「「ゴミを減らす」をビジネスにするヨーロッパの最新事情(2) 〜ゴミをださないしくみに誘導されて人々が動き出す」)。
しかしコロナ禍、自宅内の片付けに時間を費やす人が増え、どこのリサイクルショップも、持ち込まれる家庭の不要品が急増し、スペースが足りず、受け入れをかなり制限するところがでてきました。古着もこれまでは、定期的に回収されていましが、やはり集まりすぎて、回収自体がストップした地域もあります。ちなみに、廃棄・リサイクル施設も同様に、一時期、持ち込まれる量が増えすぎ、閉鎖になりました(「非常事態下の自宅での過ごし方とそこにあらわれた人々の行動や価値観の変化 〜ヨーロッパのコロナ危機と社会の変化(5)」)。
このように、不要品をあずかってくれるところが減ると、不要品の処理が、著しく困難になります。もちろん、ゴミとして破棄するという選択肢もありますが、自分が不要だからとって、すべてゴミに処分するのは、環境面からいって、モノの理想的な処理方法とはいえません。
そんな状況下、「交換の家」のボランティアをはじめるようになり、使用感があるもの、古びたものなども含め「不要」になった雑多なものを、勇気をだして「交換の家」に持ち込んでみたところ、数日後には、見事に毎回、それらがなくなっていました。時々、数週間して、また戻ってきていたモノもありましたが、しばらくするとまたなくなっていて、複数の人の手に試されたり、持ち去られたりしていることがわかりました。
自分にとっては「不要」でも、誰かが持ち去ってくれる見込みができると、どんな感情がうまれるでしょう。わたしの場合、自己満足の嬉しさがつのるだけでなく、自分の家の片付け自体にも、変化が現れました。この変化をもう少し正確に叙述すると、二つの異なる分野の変化であったと思われます。
まず、「交換の家」という存在ができたことで、私にとって、ゴミ箱に捨てるのと、とっておくという、二つの選択肢以外に、新たな、三つ目の選択肢ができたという変化です。このため、「不要」なものがでてきても、「不要」でも「交換の家」用の袋に入れいれればよくなりました。それを次回施設に持込めばおしまいで、ゴミ箱の前でのらくらためらう時間がほぼなくなりました。
二つ目は、第三の選択肢をとって、施設にもっていくと、新しく誰かにもっていってもらえる可能性がかなり高いということがわかったことで、心理的な変化が現れました。自分自身の所持品をなるべく手放さないようにしなければ、という考えから、自分が使わずおいておくより誰かに使われるほうがいいという、これまでの考えを反転する考え方が強くなり、片付けの決断につきものだった、モノを手放すことに対する、後ろめたさや葛藤の代わりに、いいことをしているかのようなポジティブな気分が目立つようになりました。
この二つの変化(物理的に第三の選択肢ができたことと、そこにもっていくと思うと自分のなかのモノを手放す時の心理的な苦痛が減ったこと)のおかげで、自分にとって片付けにかける時間も、家のモノの量も相対的に減ることになりました。
生活面その2 〜「持ち込む」と「持ち帰る」のサイクルがつながって連鎖して起きたこと、気づいたこと
さらに、気軽に持ち込んだり、持ち出したりといった交換できるシェアリング施設を、数ヶ月利用してみると、また新たなことに気がつきました。
惹かれるモノに出会うと、それが新品でも中古でも関係なく、「欲しい」という衝動がはしりやすくなります。「欲しい」は市場経済では通常「購入」であり、「所有」となります。このシェアリング施設では、金銭の取引がないので、単に「持ち去る」ことになりますが、それでも、「購入」した時のように、「所有(自分のもの)」になります。
一方、購入した際も、シェアリング施設から持ち帰った時も、しばらくした後に、やっぱりいらない、もういらない、と思う(思い直す)ようになることもあります。その理由は、それほど気にいらなくなった、やっぱり不要な等々、様々でしょうが、その時どうするでしょうか。
シェアリング施設から持ち帰ったモノは、その後の処理がきわめて簡単でした。シェアリング施設にもどせばいいだけです。もともと誰かが手放したものであり、自分の責任で買ったものではないこと。またそこにもっていけばほかの誰かにもらってもらえるとおおむね見込まれること。さらに、ほんのわずかなお金すら、自分では払っていないことも、自責の念にかられない、という心理に微妙に効果をもっているのかもしれません。とにかく、良心の咎めや、葛藤はありませんでした。
これは、自分で購入した時とはかなり違うように思われます。新品を破棄したり捨てるのは現にもったいないことですし、自分がお金を出したため、買わなければよかった、という自分への悔いや苛立ちもでてくるように思います。
さらに気づいたのは、シェアリング施設から、持ち帰ったモノに対し、もういらない、使ってみて気が済んだ、とあっさり手放そうとする気持が、意外なほど頻繁にでてくることでした。好きか嫌いか、要るか要らないかが、日によって、ほとんど、その日の天気や気分くらい気まぐれでブレがあって、一定に定まらず、いつ手放してもいいと思えるようになるモノもでてきたということになります。
これはなぜなのか、考えてみました。解釈は色々あると思います。自分で買ったのでないから愛着がわきにくいとか、それとも、自分で購入したのでないので、もういい、手放したいという率直な気持ちが、より簡単に出やすくなった等の理由がすぐに思いつきます。シェアリング施設のような、モノをいつでも持ち込むことができるとう「特権」をもったことで、自分がわがままになったのかもしれません。
いずれにせよ、「欲しい」という自分の思いに、実は、フリが大きく、数週間で全く逆の意見になっているようなこともありました。同時に、そうであっても、シェアリング施設に、また返せばいいだけで、葛藤やわずらわしい気持ちにならないのも新鮮でした。
人の都合でつくられたモノのライフサイクルでなく、モノが最大限に活用されることを優先したモノのライフサイクル
だからなにを言いたいのか、と思われている方もいるかもしれないので、今一度、話を整理しつつ、結論へ急ぎます。
どうしても必要なものでないのかもしれませんが、人はなんらかの刺激をうけ、衝動的に欲しいと思うことがあります。それは、(それをとにかく刺激して購買させようとするのが商業経済であり、それ自体を「悪」の象徴のようにとらえ、そこにすべての責任を転嫁する環境アクティビストもいるかもしれませんが)基本的に、悪いとかいいとか簡単に解釈できるものではなく、人はそういう心理をもっているのだと思います。
ここでは、教条的になったり、モノを売るためのマーケティングの話に向かうのでなく、違う点に注目してみます。ちょっと使ってみて自分の気がすむ、それほどそれを保持することには執着がなかった。そんなモノとの関わり方をしている場合が、わたしだけでなく、今日の(「モノが氾濫している」と言われる)先進国の多くの人たちの間で、意外にかなりあるのだとすれば、どうでしょう。
そういう人たちが、それを半恒久的に「保持」しなくてはいけないのは、物理的にも心理的にも(場所が多くとられて)、経済的にも(だから大きい家や倉庫が必要になると)負担が大きく、苦痛でしょう。だからといって、それらをどんどん捨てれば、資源としてのモノの利用の仕方としては、非効率的きわまりないものです。
では、そうならないようにするには、どうすればいいのでしょう。簡単に言えば、そういう人たちのそういうモノとの、付き合い方を上手にさせるシステムをつくるのがいいといえるでしょう。人の都合でつくられたモノのライフサイクルでなく、モノが最大限に活用されることを優先したモノのライフサイクルに、人がうまく便乗するような形です。所持者の意思や都合でモノが「ゴミ」になるという発想ではなく、発想を180度変化し、モノの適材適所を最大限効率よく確保する、みつけやすくすることを気にするシステムにすれば、破棄されるものの全体量がかなり減っていくのではないでしょうか。
こう考えると、現存のシェアリング施設は、そのような、一時的に持ちたい・利用したいと多くの人がのぞむモノの利用価値を最大限に引き出し、寿命も最長に引き延ばす、ひとつのしかけとして、有効に働いている一つであると思います。
もちろん、シェアリング施設は、万能で唯一なものであるというわけではないでしょう。時代や地域の文脈によっては、シェアリング施設が成り立たないことも十分考えられます。
例えば、スイスには(先述したように)、安価で中古のモノが買えるリサイクルショップの長い伝統があります。スイスでは一般に「ブロッケンハウスBrockenhaus」という名称でよばれるもので、1895年に最初につくられ、以降100年以上、モノのリユースのチャンスを提供する場として、スイス全国で、重宝されてきました。
このような施設は、もともと、1890年代、貧困層の救済の目的で、ドイツで最初に設置されたものでしたが(スイスはそのアイデアを取り入れられ設置されました)、ドイツでは、その後の時代に存続しませんでした。その理由は、ドイツは二つの大戦がその後あり、人々の貧困化がさらに増し、人々はほんのわずかな所持品をもつだけとなり、リサイクルショップへ持ち込めるような余剰がなくなったためとされます(Brockenhäuser, 2020)。つまり、全く余剰がない社会では、リユースやシェアリング施設は成立しない、不要ということになります。
逆に考えると、安価な品物が氾濫しすぎて、モノが飽和している社会でも、シェアリング施設が成立しにくいことが考えられます。そういう社会では、モノのシェアリングの需要が、少ないかもしれないからです。ただし、なにかシェアリング以外にほかの付加価値をつけたり、違うシステムやアクションと組み合わせると、また、違う展開になるかもしれません。これまでみてきたように、シェアリング施設にまつわるモノだけをとりあげても、そこを介してつながっている人や地域の状況は複雑で、相互に依存したり影響を与え、どんどん変化する可能性があります。
また、ほかにもシェアリングのいろいろな形や規模、しくみが考えられるでしょうし、今度、より優れたものができて、シェアリング施設自体が不要になることもあるかもしれません。
例えば、こどもたちの古着類の交換は、すでにどこの地域でも、かなりうまく機能しているモノのシェアリングの好例といえるかもしれません。子供の古着は、知り合いのほかの人にあげやすく、もらいやすいですし、中古の買取もさかんです。こどもたちは成長するので、服のサイズがどんどん代わり、同じものを着続けることはできないという(大人とは異なる)前提条件が、こどもを囲む環境(親や兄弟、近所の人たち、中古服ショップなど)の間で共有・定着しているため、あげる側ももらう側も、ゆずる側も購入する側も、摩擦や抵抗感が少なく、効率よくシェアリングしやすいのだと思います。
おわりに
人は、人生のフェーズによって、必要なもの、欲しいものは大きく異なります。生まれた時から死ぬまで、同じものだけをずっと持ち続けられている人はまずいません。
ということは逆に、「不要なもの」となるモノもまた、人により、またその人の、時点時点で、非常に異なるはずです。そうであるにも関わらず、あの時点である一人の決定で、あるモノが、「ゴミ」と烙印をおされゴミ箱に直行させられるのは、どう考えても、なんとも非合理的で、モノの方からみれば、不条理きわまりないしくみに思えてきます。
一方、そのようなことが理屈としてわかっていても、モノを取り囲む環境が、「購入」や「贈与」による「所持」と、それのゴミとしての「破棄」か選択肢がなければ、モノにとって不条理、非合理な状況は存続しつづけます。つまり、ゴミになってしまうものが増えつづけます。
みなさんの身の回りでは、モノたちは、どんなライフサイクルを過ごしているでしょうか。そこに、シェアリングは、どのようにどのくらい介在する余地があるでしょうか。
参考文献
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
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