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異国での老後 〜スイスの老人ホームにおける 「地中海クラブ」の試み

2017-02-23 [EntryURL]

様々な事情で住み慣れた国を離れ、外国に住んでいる人が、今日、世界中に大勢います。若いうちはその人たちも、海外で働いたり、住むことにそれほど違和感がないかもしれません。しかし高齢になってくるとどうでしょう。海外生活が長い人でも、先のことはわからない、とあまり話題にされることがない、 異国での老後というテーマについて、今回は、 スイスの老人ホームの現状を例としてみていきながら、少し具体的に考えてみたいと思います。
スイスの老人ホーム
スイスの老人ホームは、公立の施設でもアメニティー(快適さ)はかなり高いように思われます。居住者は自活能力に合わせてサービスが選べ、自炊もペット連れの入居も可能です。 どの施設も市内にあり、一般に開放されているレストランや庭も付設され、小さい子を連れた家族など、地域住民もよく訪れます。クリーニング・サービスや美容院も充実しており、居住している方の服装や髪型からもいつも清楚な印象を受けます。しかし、このように居住者の快適さを充実させてきた老人ホームに、これまでなかった全く新しい課題が近年、でてきました。外国出身の高齢者への対応です。
数年前までスイスの老人ホームは、外国出身者の割合が年々高くなるスイス社会全般の状況とは一線を画し、スイス人という文化的同一性の高い人々で占められていました。外国からスイスに移り住んでくる人がほとんど若者であったことと、外国出身の人の圧倒的多数が、親を老人ホームに預けずに自分たちで世話をすることをよしとする文化的な背景をもつ国からきていたためです。しかし、時代も状況も変わり、外国出身の家庭の子どもが親の世話をみることができなくなるケースが多くなってきて、外国人のホーム入居が増えてきました(以下、ドイツ語圏を中心に話をすすめていきます)。
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イタリアからの労働者の高齢化
スイスの外国人高齢者で現在、圧倒的に多いにはイタリア人です。2008年のスイスに住む65〜79歳の外国人の統計をみると、イタリア人が4万6千人で、次に多い2万人弱のドイツ人高齢者の2倍以上の数です。 イタリア人が多いのは、スイスの20世紀後半の歴史に深く関係しています。スイスでは、1950・60年代に、重工業や土木建築産業部門で不足する労働力を確保するため、外国からの労働者を受け入れてきましたが、その労働力の大半がイタリアからの若者でした。
当時やってきた若者は、生涯スイスに住むというより、しばらく稼いでお金をためて故郷に帰るつもりだった人が多く、ドイツ語圏にいてもドイツ語の習得にあまり熱心でない人がかなりいたようです。スイスでは公用語の一つがイタリア語であり 、ほかの言語の出身国に比べて言葉の不便も比較的少なくてすんだことや、同郷人だけで保育園から余暇活動まで過ごす機会や時間が多かったことも、ドイツ語習得があまり浸透しなかった理由とされます。
月日は過ぎ、現在は、かつてのイタリアからの労働者の約3分の1は母国にもどり、ほかの3分の1はスイスとイタリアの二つの国を行き来しており、スイスに残っているのは3分の1ほどだといいます。その中で一部が、スイスの老人ホームに入居しはじめたということになりますが、ドイツ語がわからない人たちもその中に含まれています。
ドイツ語がわからないイタリア人が入居すると当然、コミュニケーションに支障がでます。イタリア語を話せるスタッフを増員できれば、てっとり早い かもしれませんが、ただでさえスタッフ不足の介護業界で、必要な言葉を話すスタッフを採用し適所に配置するのは容易ではありません。このため、入居者を対象にドイツ語講座を設けて、住人のドイツ語力の向上を計るホームもでてきました。しかし長くドイツ語圏に住みながらドイツ語を(色々な事情で)習得できなかった人たちが、高齢になって体の健康もすぐれない状態で、どれだけドイツ語の授業で語学力を伸ばせるかは、はなはだ疑問が残ります。少なくとも、 これまでわたし自身が関わったドイツ語初心者講座では、60代の方でもドイツ語を初めて習得するのは、きわめて困難な作業でした。
外国人入居者の側からみたスイスの老人ホーム
一方、言葉ができて、生活に一見不自由がなくても、ホームで暮らす当人にとっては、スイス人には想像しづらい問題もあるでしょう。例えば、食事はスイス人の高齢者の口に合うように献立が作られていますが、異なる食文化に慣れ親しんだ高齢者にとって、食べたいものが食べられないこと、そしてそれが一時的ではなく人生最後まで恒常的に続くことは、どのように感じられるでしょうか。
もっと深淵なレベルで、高齢になると若い時以上に故郷への憧憬が強くなり、文化や習慣的な差異が辛くなるかもしれません。高齢者の心の奥深い部分を推測するのは難しいですが、ドキュメンタリー映画『ノスタルジア Nostalgia』 は、外国出身の高齢者自身の目線に合わせてこの問題を捉えており、参考になると思うので、この映画について少しご紹介します。
イタリアのシチリア出身の一人の80代の男性ファルゾーネさんは、2013年の暮れから、ヴィンタートゥア郊外の特別介護老人ホームPflegezentrum Eulachtalに入居しました。彼は、ホーム初の外国出身者でしたが、同室でやはり80代のスイス人男性マイリさんと意気投合し、イタリア語とスイス・ドイツ語でお互いに通じない会話もはずみ、新居の生活にも次第に慣れていきました。
その一方で、ファルゾーネさんは、強い望郷の念にかられるようになります。妹や甥が住むシチリアにもう一度帰りたいという彼の切ない願いを実現してあげたい、そう思い立った介護スタッフの強い熱意と協力で、故郷を訪ねる1週間の旅が2014年9月に実現されました。旅行には二人の介護スタッフとともに、離れ難いほど仲良しになったマイリさんもいっしょに行くことになりました。酪農農家一筋で働いてきたマイリさんは、一度もスイス国外に出たことがありませんでしたが、生まれて初めての飛行機に乗って、まだ一度も見たことがない海を目指します。
家族との再会を果たしたり、待望の海で大はしゃぎしたりして、満面の笑顔でたくさんの思い出をつくり、二人の旅はチューリッヒの空港で、両家族に暖かく迎えられて終わります。その後「魂をシチリアに置いてきたように」(家族の言)急に容態が悪化したファルゾーネさんは、旅行から1ヶ月もたたないうちに他界します。最後の旅立ちは、旅行前のように死への恐怖でパニックになることもなく、とても静かに迎えられたといいます。
この映画は、最後まで二つの国への強い絆と愛着をもって生きた一人の人生へのオマージュであるのと同時に、これから増えていく外国出身の高齢者たちの状況や思いに重なることもまた多分にあるように思えます。
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老人ホームの「地中海クラブ」
2000年代から、老人ホームでは、言葉や文化的差異による不便や孤独化を少しでも改善するための新たな取り組みが、少しずつはじまりました。
もっとも一般的なのは、ホームの一部をイタリア人(一部の施設ではポルトガル人もいれて)専門のクラスター(居住グループ)にするというものです。 地中海セクションと一般に呼ばれる、そのようなホームの一角では、スタッフとも隣人ともイタリア語で会話でき、食事も地中海のメニューが多く取り入れられ、イタリア人の食文化に欠かせないワインまで出てきます。スイス人の住人は、食後自分の部屋に戻る人が多いそうですが、このセクションでは食後は廊下がピアッツア(イタリアの広場)となって、ワインを飲んで踊ったり、また一緒に歌って新しくできたコミュニティで過ごす人が多く、さながら、老人ホームの 「地中海クラブ」といった感じのようです。ここに移ってきた人たちは、以前より睡眠薬など薬の量が減るなど、健康状態がよくなる人も多いといいます。
老人ホームの文化尊重ケアの課題と可能性
しかし、このような国別に特化してケアすることに対し、社会では反発や疑念の声もあがっています。ホームに出身国の文化を並行輸入することは、スイスの社会全体が目指すべきインテグレーションの構想に反しているという意見、また、現在のスイスに住む人の4人に一人が外国人で、2020年には19万1千人の外国人が60歳以上になると予測されており、これからイタリア人だけでなく、さらに多国籍化していくホーム住人がすべて同じような出身国に合わせた居住環境を要望するようになると、収拾がつかなくなるという危惧もあります。
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例えば、 イスラム教徒は、食事で豚肉が食べられないだけでなく、介護のスタッフの性別が重視され、ラマダンの時期は、食事はもちろん、薬や点滴の投与の時間が制約される可能性があります。また旧ユーゴスラビア出身の高齢者は、スイスに80歳以上が千人ほどおり、イタリア人に続きホームの入居が増えている外国出身者グループですが、長い内戦で国が対立した経緯や、今もたびたび国同士が文化や宗教的に対立していることで、お互いに言葉は通じ文化は似ていても、 イタリア人のように一つのクラスターを設ければいいという簡単な話ではないようです。
今後、社会全体の高齢化でただでさえ高齢者が大挙して老人ホームに入居する時代が到来するのに、「地中海クラブ」のような各文化圏を配慮した環境を、老人ホームが早期に整備できる余力は果たしてあるでしょうか。 現実的にはかなりの難題になりそうです。
一方、ホームで対処できない多様な外国出身の居住者の需要を、 周囲の地域の人々や様々な活動によってカバーできる可能はあります。目下、軌道にのっているのは、ホームの外国人と同じ言葉を話したり文化を理解するボランティアの活動です。 以前に「ヨーロッパにおける難民のインテグレーション 〜ドイツ語圏を例に」でも紹介しましたが、私の住む10万人 都市の老人ホームでも、250人のボランティア・スタッフは、5大陸にまたがり、すでに15言語に対応しています。
また、ファルゾーネさんはホームで、地中海出身者のセクションがないどころか、たった一人のイタリア人でしたが、同室のマイリさんと大の仲良しになって、結果として初めての海外旅行に連れ出すほど、一人のスイスの高齢者の世界を広げてあげられたことも示唆に富みます。人生の最後のステージをどこで過ごそうとも、心を開いて新たな出会いや交流をすることで、人生に花がそえられたり、充実した体験ができるのかもしれない、そんな希望もまた大切な気がします。
老人ホームという小さな一つの社会は、これから、多彩な背景や立場の人が様々な形で関わっていくことで、 多国籍型老人ホームとして、少しずつ進化をとげていくのでしょうか。 胎動する老人ホームの健闘を祈りたいと思います。
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<参考サイトと文献>
——スイスのイタリア人高齢者および老人ホームの地中海セクションについて
Nadja Ehrbar, Damit sich Migranten in der Fremde wie zu Hause fühlen. In: Der Landbote, 3.12.2014.
David Scarano, Eingewandert, um zu bleiben, Tagblatt, 16.3.2014.
Senada Haralcic, In Zürich alt werden wie am Mittelmeer, Limmattaler Zeitung, 14.8.2014.
Antonio Cortesi, Das stille Leiden betagter Italiener, Tagesanzeiger, 21.6.2010.
Grande Famiglia im Altersheim, Schweiz Aktuell, SRF, 04.08.2010.
Schweizerisches Rotes Kreuz, Alters- und Pflegeeinrichtungen mit mediterraner Abteilung, Das vierte Lebensalter - Hochaltrigkeit (2017年2月18日閲覧)
Spaghetti ins Altersheim. Migranten leisten Integrationsarbeit auch im Rentenalter, NZZ, 27.9.2005.
Ursula Steiner-König, Italienische Luft im Altersheim, Migration und Lebensweg, Medicus Mundi Schweiz. (2017年2月18日閲覧)
——ドイツの老人ホームの例
Seniorenheim für Migranten, DW, 7.5.2014.
Silke Ballweg, Multikultur im Altenheim, Quantra.de (2017年2月17日閲覧)
Pflege mit “Pfiff”: Pflegeheim berücksichtigt Bedürfnisse von Migranten, 3sat, 13.10.2016.
Multikulti im Seniorenheim, Gesund durch Informationen zur Gesundheit, 27.9.2012.
——映画『ノスタルジア』について(以下のサイトはすべて2017年2月16日閲覧)
Pflegeheim Eulach, NOSTALGIA: noch einmal zurück in die Heimat
Über das Projekt
„Ich hätte nie gedacht, dass das Meer so gross ist.”, Landbote.
Blog. Buongiorno Sicilia
——その他(スイスの老人ホーム関連)
Joel Bedetti, Altesheime vor Zustrom aus dem Balkan. Nationalismus, physische und Psychische Gebrechen werden zur Herausforderung in der Pflege, NZZ am Sonntag, 4.1.2015.
Wohnen im Alter in Winterthur: Überblick über die Angebote an Wohn- und Betreuungsformen

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ドイツ語圏で人気の男性服専門のオンラインショップ 〜顧客の心をつかむキュレイテッド・ショッピング

2017-02-17 [EntryURL]

今回は、キュレイテッド・ショッピングという、オンラインショプの新しいビジネスモデルでも、特に男性をターゲットにして急成長している業界について紹介したいとおもいます。(キュレイテッド・ショッピング全般の意味やビジネスモデルとしての可能性については、前回の記事「キュレイテッド・ショッピング 〜ドイツ語圏で始まった新しいオンラインビジネスの形」をご覧ください)
性別によって異なる買い物に対する考え
25歳から55歳のインターネット利用者男性1035人、女性570人を対象にした(前回も取り上げた)GfKの調査では、性別により買い物に対する考えや行動かなり違うこともわかりました。男性で買い物好きな人は13%にとどまり、買い物を休暇の楽しみと思っているのはわずか11%でした。一方、女性にも買い物嫌いの人はいますが、男性ほど多くはありません。女性の27%は買い物好き(買い物に時間もお金もかけるの嫌ではない)で、24%は、買い物を休暇の楽しみと感じています。男性のほうに圧倒的にショッピング嫌いが多いようです。また買い物に行く場合、女性は一人で行きたいのは37%で、誰かについてきてもらいたい人(31%)よりも多いのに対し、男性は一人で行きたいのは22%にすぎず、誰かに付き添ってもらいたいと思っている人(39%)はその約2倍もいました。
この調査を依頼した企業アウトフィッタリでは、男性にとって買い物で重要なのは結果(購入)であって、その過程が女性ほど重視されず、また類似する多くの選択肢から選ばなくならない、服の購入などは苦手なため、パートナーなどの同伴を希望する人がいのではないか、と分析しています。
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男性服専門のキュレイテッド・ショッピング企業
こんな男性をターゲットにして、2011年からドイツでは男性服専門のキュレイテッド・ショッピング企業が相次いで生まれました。今回は、業界のパイオニアで、かつ現在も業界をリードしている 「モドモトModomoto」と「アウトフィッタリOutfittery」という二つの会社を中心に、これまでの事業展開を概観してみたいと思います。
事業のはじまり
モドモトとアウトフィッタリは、ほぼ同時(モドモトが2011年12月から、アウトフィッタリはその2ヶ月後)に、ドイツで最初にキュレイテッド・ショッピングという事業を男性専門のファッション分野でスタートとさせました。それぞれ別に、しかも同時期に、同様の着想を得たといいます。「モドモト」のほうは、共同創設者二人の一人であるポヴァラ氏Corinna Powallaは、買い物嫌いの男性たちが、どうしたらその問題解決できるかと考えたのがきっかけで、「アウトフィッタリ」の二人の女性創設者たちは、ニューヨークで、自分で服を買う時間がないため、個人でショッパーを雇って自分に合うアウトフィットを調達している男性の友人をみて、お金のない人にも同じようなサービスができないかと考えて、このようなビジネスモデルが浮かんだと言います。
購入の流れ
購入の流れは、どこもほぼ同じで以下のようなものです。まず、客は、会社のサイトの手順に沿って、様々な個人の情報( 体のそれぞれの部分のサイズ、本人の写真、色、材質、ファッション・スタイル全般の自分の好み、予算など)を会社に送ります。会社によっては、スタイリストを写真やプロフィールから、自分で指名することができる場合もあります。まもなく、担当するスタイリストから顧客に電話があり、さらに詳細を話します。その後、スタイリストは、それぞれの会社が独自に開発したコンピューター・プログラムを利用しながら、顧客に合う服類を選びます。服類は、上から下までのトータルコーディネイトが一般的です。顧客がシャツだけなら一人で決められても、このシャツにどのズボンや上着が合うか、靴はどれにしたらいいのか、迷ってしまっては購入の手間ひまの削減にならないためです。顧客一人につき、コーディネイトした服類2〜3セットを用意します。
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数日後に顧客に小包が届きます。小包は、ビニール袋に雑然と入ってダンボールで送られてきくる通常の通販商品と異なり、あたかもタンスの引き出しがそのまま届いたかのように、シックな外装の箱に服や靴が整然と収められた形で届きます。箱をあけて最初に目に入るのは、担当スタイリストからの手書きでメッセージが書かれたカードです。スタイリストの写真入りのカードの時もあります。クラフトビールも中に入れて、服を試すときのわくわく感をさらに高めるような演出につとめる会社もあります。
送られてくる服類は、もちろんすべて購入してもいいのですが、2週間以内に、一部、あるいは全部を無料で返品をすることもできます。アウトフィッタリ共同設立者で経営者者のベッシュ氏 Julia Böschは、 店頭で試着したものを全部買う人はまずいないことを例にあげ、「返品は、自分たちのビジネスモデルの一部」であると強調します。返品がより簡単にできるように、 アウトフィッタリでは2016年2月から、集荷の場所と時間を選ぶと(自宅でなくても、カフェやスポーツクラブでも)無料で宅配会社が集荷にきてくれるサービスや、持ち込みできるコンビニも増やしました。ちなみに、スタイリストとのやりとりや選定は、どの会社でもすべて無料で、収益は商品を店頭価格で販売することで得ています。
顧客層
気になる顧客層はどのような人たちなのでしょうか。アウトフィッタリによると30歳から50歳の男性が圧倒的に多く、一回の注文で、平均 250ユーロ分の買い物をするといいます。これは普通の服飾関係のオンラインショップの一回の注文の3倍に当たる額だそうです。キュレイテッド・ショッピングを利用したことのある人の8割がまた利用したいと回答しているように、男性は一度そのサービスが気に入ると、あまりほかにそれずに信頼できる関係に頼る傾向が強く、そのことが、新しいサービスにもかかわらず、短期間で顧客数を飛躍的に増大させるのにつながったようです。
急成長する市場
スタートした当初はせいぜい顧客数1万人程度の市場になるかと言われていたキュレイテッド・ショッピング・ビジネスでしたが、これまでの5年間で「モドモト」も「アウトフィッタリ」も順調に成長してきました。4人でスタートしたモドモトは、2014年の時点で15万人の顧客、150人の従業員、2015年6月には200人の従業員を抱えるほど規模が拡大し、アウトフィッタリも、2015年末には200人の従業員を抱え、オーストリアやスイスなどの近隣諸国8カ国で展開するまで成長しました。そして現在は、顧客数40万人 、従業員数は約300人(そのうち約半分はスタイリスト)を抱える、オンライン・ファッション業界の重要なプレーヤーに2社ともなっています。追随する企業も増えてきました。 ファッション業界の大手オンラインショップZalando も最近 キュレイテッド・ショッピング市場に参入し(こちらは男女両方を対象にしたもの)、強力な競合相手になりつつあります。
顧客心理と将来の展望
さて、ここまで見てきたのが、キュレイテッド・ショッピング・ビジネスの表層部分であったとすれば、ここから先は、その下にある深層部分、この新しいトレンドにみえる顧客心理や将来の展望について、少し考察を加えてみたいと思います。
■ 男性をターゲットとした市場での女性の活躍
現在の男性服のキュレイテッド・ショッピング市場では、女性の活躍が目立ちます。会社設立者には女性が多く、スタイリストも女性がほとんどです。圧倒的に男性が多いスタートアップ企業のなかではきわめて異例です。
女性の存在が大きいのは、男性が服を選ぶ際に誰かに同行してもらいたいと思う人が多い傾向と、なんらかの相関関係があるように思われます。服の選択肢の洪水を前に途方にくれる男性にとって、洗練された感じの女性スタイリスト(サイトで公開されている写真に写っているスタイリストたちは、スタイリッシュでしかし落ち着いた感じの女性たちです)は、服選びで店頭についてきてくれる妻やガールフレンド役の、一種の代行役といえるかもしれません。そして、この人が選ぶなら信頼できるというような、不可視のプラス価値がついた形で送られてくる服は、顧客の気にも入りやすく 、それによって、さらに会社への顧客の満足度や信頼度がさらに高まるという好循環につながっているのかもしれません。
しかし、顧客男性が無批判に最初からスタイリストを信頼しているわけではもちろんないでしょうし、女性スタイリストも狭い流行だけを追う一律的なテイストに徹しているという意味でもありません。アウトフィッタリの従業員の出身国が25カ国であるということにも象徴されるように、企業側もスタイリストのタイプを広く揃えており、それぞれの地域の季節や地域的な趣向にも広範に細やかに対応しているからこそ、スタイリストとの間に信頼関係が成り立ち、その結果として、その会社を繰り返し利用する人が増加しているのでしょう。
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南ドイツやオーストリアでは、伝統的な服装をベースにしたファッションが、今も一定の人気を保っています。

■ アート、デザイン、スタイルの分野での強さ
現在のドイツでキュレイテッド・ショッピングが存在する分野は、ファッションとインテリア関連分野だけですが、この二つのジャンルには共通する特徴があります。それは、なにが「いいもの」なのかを決める誰にもわかるはっきりしたルールはなく、流行や、個人の裁量が「いいもの」を大きく左右する分野であるという特徴です。例えば、電気工具なら、その製品としての性能や値段で、ほかと比較することは簡単です。しかし、もしも「カジュアルでちょっとおしゃれな外出着」ならば、それぞれのデザインや材質で優劣をつけるのは難しく、時代や地域によっても評価は異なり、一貫したルールはありません。はっきりしたルールがもともとないのだから自分で勝手に選べばいいともいえますが、自分で判断するのに自信がない人や、そもそも服にそれほど興味がない(が、ほかの人からみて「いい見た目」の服を着たいしそのためにはある程度お金をかけてもいいと思っている)人には、かえってそれが難しく、それゆえ、スタイリストやアーティストといったその分野の才能に長けた人や専門家の発言や助言への依存が高くなりやすい分野、という特徴を有していると思われます。
このようにもともと、アーティスティックな専門家の発言や影響力が比較的強いジャンルは、人を介するキュレイテッド・ショッピングという土壌になじみやすく、今後も、優れてカリスマ的なスタイリストとしての才覚をもつ人工知能が出現するような時代がくるまでは(それが来るのかはまた別の問題ですが)、キュレイテッド・ショッピングという形は、かなり安定して存続できるのではないかと思われます。
■ 人との関わりか買い物の便利さか
前項に関連し、一見、矛盾・混乱するようにうつるかもしれませんが、もう一つ気になることがあります。現在のキュレイテッド・ショッピングは、人を介するというのが大きな売りですが、全般に今後もそうあり続けるのか、ということです。
現在は、個々の顧客の好みや経済事情などに最大限合わせた解答を出すためのアルゴリズムや人工知能が、猛スピードで発達している時代です。効率よく最良の選択肢を顧客のために選ぶだけなら、厳密にみれば、人を介するキュレイテッド・ショッピングである必要はないのかもしれません。今のキュレイテッド・ショッピング会社もコンピューター・プログラムを部分的に利用しているとのことですが、それが実際には、最後の選択まで及んでいて、人は電話の応対と手書きの手紙を書くだけであっても、顧客にはわかりませんし、結局誰が(人かコンピューターか)選んでいても、それで顧客が満足するのでよければ、それでいいという議論も可能かもしれません。
現在のキュレイテッド・ショッピングの動向をみているだけでは、キュレイテッド・ショッピングの売りの要となっている二つの側面、パーソナルな人と人との関係と、効率よく最短で購買できるという側面の、どちらのほうがより重要視されているのか、まだ見極められません。顧客もどちらをより優先すべきか、今の段階で深く意識しているわけでもないでしょう。しかし、アルゴリズムや人工知能が今度も急速に発達していくことを考慮すれば、企業の側は、それぞれキュレイテッド・ショッピングで長期的になにを強みとしていくべきか(例えば、あくまでパーソナルな絆や、あるいはスピーディーなデリバリーまでのプロセスなど)を常に意識し、今のサービスに執着せず柔軟に対応する必要があるでしょう。今の形に安住しないキュレイテッド・ショッピングこそが、キュレイテッド・ショッピングの未来の形といえるかもしれません。
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<参考文献>
——Gfkの調査結果について
GfK (Gesellschaft für Konsumforschung), Studie Einkaufsverhalten: Frauen und Männer trennen Welten, wenn’s ums Shoppengeht, 30.11.2015. (2017年2月7日閲覧)
GfK-Studie Curated Shopping:Jeder dritte Online-User möchte künftig Personal Shopping nutzen, 5.10.2015.(2017年2月7日閲覧)
Bei Männern klappt Shopping nur mit Frauen, Online-Befragung, 20 Minuten,18. Oktober 2015.
——男性服のキュレイテッド・ショッピング業界について
Modemoto ホームページ
Outfittery ホームページ
Christoph G. Schmutz, Der Verkäufer als Alleskönner, NZZ, 31.1.2017.
Michael Rasch, Mission Männer verstehen, NZZ, 23.1.2017
Männermode aus dem Internet, Servicezeit, WDR, 8.5.2016.
Tom Müller, Endlich Schluss mit Kaufstress im Kleiderladen, Tagesanzeiger, 22.6.2015.
Kauf-Empfehlung: Online-Shops setzen auf Menschen statt Maschinen, Deutsche Wirtschafts Nachrichten, 18.5.2015.
Jochim Stoltenberg, So kleidet Julia Bösch die Männer bei Outfittery ein, ein Spaziergang mit Julia Bösch, Berliner Morgenpost, 14.08.2016.
OUTFITTERY, OUTFITTERY etabliert kostenlosen Abhol-Service europaweit mit UPS 01.02.2016
Miriam Schröder, Online-Stilberatung Outfittery, Ein Shoppingbudget von 22 Millionen Dollar
Laura Wasserman, Modomoto, Betreutes Shoppen für Männer, Handelsblatt, 06.11.2014.
Betreutes Einkaufen, Welt, 4.11.2012.
Ruth Wenger, Online-Shopping Betreutes Einkaufen für den modefaulen Mann, Welt, 12.04.2014.
Stephan Dörner, Outfittery Betreutes Shoppen für Männer, Gründerszene, 26.12.2015.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


キュレイテッド・ショッピング 〜ドイツ語圏で始まった新しいオンラインビジネスの形

2017-02-11 [EntryURL]

常に選択・決断している現代人
数年前、スイスのレンツブルクで「決断: 可能性のスーパーマーケットにある人生 」という、 大成功を収めた特別展がありました。倉庫のような広い会場の入り口でエコバックを受け取り、現代人が生まれてから死ぬまでに行う様々な選択・決断のテーマ(様々な形の違うチョコレートの選択から、職業・パートナー、ライフスタイルの選択まで)が展示されたコーナーを、スーパーマーケットで買い物でもするかのように見てまわるなかで、人生が選択肢の複雑系であることを体感するという展示でした。
展示場所は、チューリッヒやベルンなどの主要な都市からかなり離れており、展示されているものは日常で目にするありきたりのものばかりであったにも関わらず、 有名な画家の特別展さながらに人が押し寄せ、19ヶ月間の展示期間中10万9千人が入場し、 週末の混み具合といったら、本物の週末のスーパーマーケットのようでした。これほど反響が大きかった理由を考えると、提起されたテーマと展示の仕方が、人々の強い関心を集めたからだったとし考えようがありません 。 選択と決断の繰り返しが常態化する今日の状況について、展示という場を借りて客観的に見てみたい、ちょっと立ちどまって考えたい、と思った人たちが、スイス中から集まってきたということなのでしょう。特別展はスイスでの展示終了後、引き続きイツで 開催されおり、現在は、ハンブルクを会場に初夏まで開催されています。
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会場入場時にもらったエコバック

買い物は楽しみかストレスか
人生全体でなくても、世の中で購買できるものだけに限ってみても、選択の幅は実に多彩です。それ自体は素晴らしいことですが、少し違う見方をすれば、選択肢が多すぎて選ぶのが大変になったともいえます。それでも、店頭に並んでいるものは限りがあってかろうじて見渡せますが、オンラインショップとなれば、購買できるコンテンツは際限なく、すべてを見きることは一生かかってもできないほどです。
 
このような現状を人々はどのようにとらえているのでしょう。2015年10月にドイツで興味深い調査結果が発表されました。ドイツ最大の市場調査研究所である GfK(Gesellschaft für Konsumforschung)が行った、25歳から55歳のインターネット利用者(男性1035人、女性570人)を対象に調査した、服の購入についての調査です。これによると、買い物が楽しく、休暇のレジャーのように感じているのは、男性では11%、女性は24%にすぎず、逆に、男性の31%は買い物が嫌いで、買い物自体にストレスを感じています。また、22%の男性は、多様な選択肢から服を選ぶことを、時間がかかり面倒くさいことと思っており、男性の3人に一人(33%)、女性の4人に一人(25%)は、時間をかけず、効率よく購入することを望んでいました 。
選択肢が多くなったことで、ショッピングを楽しむ人が一様に増えたわけではなく、むしろ、選択肢が増えたことで選択に時間と手間がかかるようになり、負担に感じている人がかなりいる状況がうかがえます。
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キュレイテッド・ショッピング
ところでこの調査は 「アウトフィッタリーOUTFITTERY」 という会社が依頼したものでした。この会社は「キュレイテッド・ショッピングcurated shopping( ドイツ語では betreutes Einkaufen)」という北米で始まった新しいオンラインビジネスをドイツで初めて手がけた会社の一つです。キュレイテッド・ショッピングは、専門の担当者が顧客と直接電話などで話し合い、顧客それぞれに合う商品を選び、顧客に勧めるという、新しいオンラインの販売・購入方法です。ファッション関連の店舗などで、専門員(アドバイザー)たちが個々の顧客のために商品を選び販売する「パーソナル・ショッピング」がすでに存在しますが、言わばそれのオンライン版です。ドイツでは2011年以降にこのようなサービスを開始する企業が生まれてきました( 購買の流れやビジネスの特徴については次回の記事で詳しく触れます。)。
先ほどの調査の続きをみると、全体の6%の人がすでにキュレイテッド・ショッピングをしたことがあり(男性だけでは10%)、利用客の80%はまた使いたいと回答しています。また、これまで使ったことがない人の35%も利用してみたいと答えていました。調査の結果に基づくと、買い物に対しては負担を感じる人が多い分、キュレイテッド・ショッピングの利用者が今後増える可能性が大きいようにみえます。
まだ市場を占める割合は小さいものの、新しいトレンドとして、ここ数年、ドイツ語圏のメディアでもキュレイテッド・ショッピングについてよくとりあげられています 。今年はじめに市場調査オンライン雑誌に掲載されたマインツ専門大学の経済学者ホラント教授らの記事でも、キュレイテッド・ショッピングをオンラインビジネスの イノベーティブなビジネス・モデルと位置づけ、今後は、短期的なトレンドに終わらず、長期的なビジネス・モデルとして、ジャンルも顧客層も多様化して広がる可能性を指摘しています(Holland, et al., 2017)。これまでのキュレイテッド・ショッピングは、主にファッション業界で比較的若者層に限られたものでしたが、eコマース市場はドイツ語圏でも急速に拡大していることや(スイスでは2016年から16年にかけての1年でeコマース取引が前年比で7.5%増加し、72億スイスフランになっています)、インターネット利用者の多彩な社会的背景も考慮すると、確かにこれから、より広いジャンルで、一般的になることが十分考えられます。
将来の有望な顧客層は?
新しいジャンル、新しい顧客層にも広がるのなら、とりわけどのようなジャンルで、どのような顧客層が有望なのでしょう。この非常に気になる点については、しかし残念ながら、ホラント教授のレポートにも、これまでのメディアでの報道でも、具体的な言及はなく、すでにキュレイテッド・ショッピングがスタートしている服飾ファッションと家具業界が具体例としてあげるのにとどまっています。
このため、ここからは私の個人的な意見になりますが、今後、ドイツ語圏において、キュレイテッド・ショッピングの有望な顧客層は、これまで主な顧客であった30歳から50歳くらいまでのミドルエイジ層ではなく、むしろそれより上のよく「シルバー世代」と呼ばれる50歳から70歳くらいのオンライン・ユーザーかもしれないと考えています 。
以前、「現代ヨーロッパの祖父母たち 〜スイスを中心にした新しい高齢者像」でもご紹介したように、ヨーロッパの現代の新しい高齢者たち(つまりシルバー世代)は、これまでの高齢者の一般的なイメージとはかなり異なります。数十年前の同年齢の高齢者よりもはるかに健康面で恵まれ、新しいテクノロジーへの好奇心も強く、ほかの世代と比較しても経済力のある人が多い世代です。2005年から2010年の間にかけてドイツでは、50歳から69歳までのインターネット利用者数は倍増しており、現在、若年層の利用者数よりも人数的にも優勢となっていますし、スイスでは、55歳から69歳のインターネット利用者は、が平均、毎年6000スイスフラン(約67万5千円)以上オンラインで購入しているとの報告もあります(Media Use Index, 2014)。
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図書館でアナログレコードをデジタル化するやり方について聞き入るシルバー世代

2014年にドイツ最大の会計事務所PwCドイツが行ったドイツのシルバー世代のインターネット利用者についての調査も示唆に富みます。千人以上のアンケート調査対象の人の5人に4人、最低でも月に1回オンラインでものを購入しており、全体の利用頻度は、若者とほとんど変わりません。オンラインで購入するものは、多岐にわたっており、食品や電動工具、家具、健康・美容関連品などは、店頭で買うことを優先するとする人が半数いますが、全般にどのジャンルでもオンライン・ショッピングされています。特に多いのは本、音楽、映画(73%)、オーディオなどの電気機器(58%)、子供の玩具(44%)で、服や靴などファッションに関わるものも、半分の人がオンラインで購入しています。 オンライン・ショッピングを利用する理由は、わざわざ店頭まで足を運ばなくて済む便利さをあげる人が最も多く65%で、購入に当たり、便利さほど商品の値段を重視しません。一方、店頭とオンラインショップを比べ、店頭に出向くほうがオンラインよりも良い助言を受けられると思っている人は22%と少数にとどまっています。
この調査を発展的に解釈してみると、シルバー世代のインターネット利用者たちは、必ずしも、今の店頭で受けられる助言にそれほど高い価値をおいていないため、オンラインショップで、店頭で受ける以上の助言や個人的な相談などのきめ細かなサービスが受けられれば、多少割高となっても、キュレイテッド・ショッピングが好まれる可能性が高いと思われます。
おわりに
買い物はオンライン、オフライン(店頭)に関係なく、 現代社会に生きる誰にとっても必要で、日々繰り返し行われる作業です。それが簡単で効率よく、ストレスがたまらないような形に進化していくのなら、販売会社にとって収益が増えるという話にとどまらず、社会全体にとっても大きなプラスになることでしょう。
次回の記事では、キュレイテッド・ショッピングの具体的な事業形態や好調の背景について、男性をターゲットに絞ったオンラインショップを例にとりあげながら、掘り下げてみたいと思います。
///
<参考文献>
——特別展『決断ENTSCHEIDEN. EINE AUSSTELLUNG ÜBER DAS LEBEN IM SUPERMARKT DER MÖGLICHKEITE』について
——ドイツ人の購買の嗜好と行動およびキュレイテッド・ショッピングについてのGfKの調査結果について
GfK (Gesellschaft für Konsumforschung), Studie Einkaufsverhalten: Frauen und Männer trennen Welten, wenn’s ums Shoppengeht, 30.11.2015. (2017年2月7日閲覧)
GfK-Studie Curated Shopping:Jeder dritte Online-User möchte künftig Personal Shopping nutzen, 5.10.2015.(2017年2月7日閲覧)
——キュレイテッド・ショッピングについて
Prof. Dr. Heinrich Holland und Lea Alice Bolz Betreutes Einkaufen im Internet - Curated Shopping, E-Commerce, One to One, new marketing, 2.1.2017.
Shopping-Berater aus dem Netz - Chance für den Handel?, Curated Shopping, Computer Woche, 31.08.2015
Christoph G. Schmutz, Der Verkäufer als Alleskönner, NZZ, 31.1.2017.
Anne Waak, Betreutes Einkaufen, Lifestyle, Welt, 4.11.2012.
Kauf-Empfehlung: Online-Shops setzen auf Menschen statt Maschinen, Einkaufen, Deutsche Wirtschafts Nachrichten 18.05.2015
——シルバー世代のオンライン・ユーザーについて
Silver Surfer sind beim Online-Shopping auf Augenhöhe(PwC-Multi-Channel-Studie 2013 „Total Retail - Wie der Multi-Channel-Konsum das Geschäftsmodell des Handels von morgen verändert, 10, 2013.のプレスリリース)
Ältere lieben Online-Shopping, E-Commerce, Haufe de, 01.07.2014.
Media Use Index 2014, Spendings: Sliver Surfers besonders kaufkräftig, Y and R gropu Switzerland (2016年2月7日閲覧)
So wichtig ist die Generation „Silver Surfer” wirklich, Absatz Wirtschaft, 9.1.2015.
Christian Deker, Internetnutzung Die «Silver-Surfer» rüsten auf, Mitteldeutsche Zeitung, 9.4.2008.
Ronald Wiltscheck, Ältere wollen mehr online einkaufen, Analyse von Klarna, Channel Partner, 7.10.2013.
——他
Schweizer kauften online für 7,2 Milliarden ein, Tagesanzeiger, 04.03.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


急成長中のスイスの補習授業ビジネス 〜塾業界とネットを介した学習支援

2017-02-03 [EntryURL]

スイスでは小学5年生から中学3年生までの生徒の6人に一人が、学習塾や家庭教師など、学校以外での補習授業を受けています。この割合は、ヨーロッパのほかの諸国からみると少なめですが、年々増加傾向にあります。一方、顔を見合わせる授業を売りにするこれら塾業界と並行して、ネット上でも学習支援のコンテンツが近年急速に普及してきました。今回は、これらスイスの塾業界(学校外の有料の補習授業を総称してこの記事では「塾業界」と表記することとします)やネット上の補習授業の最新事情についてお伝えしたいと思います。
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塾業界への批判
年々塾業界の門をたたく生徒が増えているとはいえ、スイスではいまだ塾業界に対し批判的な姿勢が目立ちます。 補習自体の在り方と、社会全体への影響の両方に向けられた批判の主旨は以下のようなものです。
■ 教育ドーピング
2013年、バーゼル大学教育学のグルンダー教授Hans-Ulrich Grunderによって、ドイツ語圏の小学校5年から中学3年までの1万人の生徒を対象にした大規模な補習授業に対する調査結果が公表されました。そこでは、塾業界で補習を受けても生徒の成績はわずかしかよくなっておらず、ほとんどその効果はないに等しいという結論が導きだされていました。
この調査報告に前後して、調査を行ったグルンダー教授やほかの教育専門家の間では、むしろ補習を受けることによる弊害が多いという指摘が目立つようになりました。確かに病気などの理由で、一時的に学校の授業に遅れがみられた場合などに、集中的に補習を受けることには意味がある。しかし長期の間定期的に補習を受けるとなると、補習授業に依存する体質ができあがり、自分に合った学習方法を自分で発展させたり、自律的な学習をすることがむしろ困難になる、といいます。このため、補習を受けている間は一時的に多少成績が上がってなんとか進学校に入学しても、そこでの授業についていくために補習がさらに必要になり、その延長で大学に入学をしても、大学の授業についていく実力がなく、そこまでいってから脱落・挫折するようでは、なにより本人にとって大きなリスクや損失になると言います。そして、補習授業で学業成績を多少あげることに労力を使うのではなく、むしろ自分の実力にあった分野やキャリア(中学卒業後に職業訓練過程に進むなど)で専門的な技能を高めることに終始するほうが、本人にとって確かなキャリアとなり、良い選択だ、という見解につながります(スイスの若者の6割以上が進む職業訓練過程についての詳細は、「スイスの職業訓練制度 〜職業教育への世界的な関心と期待」をご覧ください)。
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職業訓練過程を目指す若者を対象にした職業紹介メッセ

補習授業についてメディアでとりあげられる際、塾業界全般について「教育ドーピング」や「脳ドーピング」といった表現が(国営放送やまっとうな日刊紙でも)よくみかけられます。このようなかなり荒っぽい言い方がされても、社会で問題沙汰にもならないという事実が物語っているように、塾業界が提供するものが、その場しのぎで、長期的な解決になるものではないという理解が、(塾業界の人気の上昇とはうらはらに)今も、社会の多くの人に共有されているようです。
■ 社会格差を広げる
2013年の調査で、中学2年と3年生だけをみると34%、つまり3人に一人がなんらかの補習を受けており、これは、その3年前に比べて10%も増えています。補習だけではうまくいかずに、最後の手段として私立の学校に通う生徒も増えています。現在スイスでは、9万人の生徒が私立の学校に通っているといいます。(ただし調査の結果では私立学校にいくからといって一概に成績アップにつながっているわけではないといいます。)
スイスの学習塾は、 一時間平均48スイスフラン(日本円で約5500円)とかなり高価です。家庭教師の相場はそれよりは安いとのことですが、いずれにせよ、長期で補習を受けさせるのは保護者にとって大きな経済的な負担です。まして、授業費に最低でも一人1500スイスフラン(約17万円 )はかかる(中学校の場合)私立の学校に通わせるのは至難の技です。中学生が費やす私立学校と塾業界への費用を合わせると、毎年1億から3億スイスフランの市場になります。
これはつまり、補習を受けられるか、受けられないかは、保護者の経済的な余裕の有無に大きく左右されることを意味します。経済的に裕福な家庭の子どもだけが、プライベートに補習を受けて高学歴化していけば、社会に格差が広がる危険があります。このような望ましくない社会の方向へ拍車をかるとみなされる塾業界の存在自体が、批判の対象となっています。
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学校が面倒をみる補講
塾産業が攻勢の近年の状況に対して、州や自治体は、ただ手をこまねいているわけではありません。すべての生徒が公平なチャンスを得られるように、例えば、チューリッヒ州の公立小中学校では10年ほど前から無料の二種類の補習授業が行われるようになりました。一つは放課後に週2回、学校で出された宿題をみてもらうための補習授業です。もう一つは進学校への進学を目指す生徒のための準備授業です。チューリッヒ市では、2010年より ドイツ語を母語としない子どもたちが全体の半分以上となっており、ドイツ語の宿題などで子どもを十分サポートできず、かといって有料の補習授業に通わせる余裕もない外国人家庭にとっては、このような補習授業は大きな助けになると考えられます。
セルフ・ラーニングのコーチング
一方、従来の塾産業路線とは異なる、自分で勉強できるようになるための技術を学ぶというセルフ・ラーニングのコーチングにも最近、関心が集まっています。一言で言えば、一人一人に合った自律的で効率的な学習の仕方を習得するための塾です。中学の教師をしながらセルフ・ラーニングの塾も運営している知人によると、受講者は小学生から大人まで幅広いと言います。成績をあげることでなく、自己の能力の向上を目標とするこのような補習授業形態は、 値段は補習授業よりさらに高めですが、塾産業への風当たりが強いスイスでも、今後、受け入れられていくようになるのかもしれません。
ネット上の補習授業
補習授業の世界には、さらに全く違う方向からの新風も吹いています。インターネットを経由した補習授業です。10代の若者が日々何時間も消費しているコンテンツの 一つと言えば、ユーチューブなどのネット上のビデオ・コンテンツです。それらのほとんどは娯楽的内容ですが、近年ドイツ語圏では学習の助けとなる高質のコンテンツも多く生まれてきました。(具体的なビデオの内容については、下の参考文献に記載された公式サイトからご覧ください)
なかでもドイツ、スイス、オーストリアなどのドイツ語圏で人気を博し、中学・高校生の間で高い知名度を誇っているのは、「シンプル・クラブThe Simple Club 」というコンテンツです。小学5年生から大学生までの数学、物理、化学、生物学、歴史、地理、経済、情報処理の科目の1300以上のショート・ビデオからなっており、学年、科目、知りたいテーマなどから検索・選択して視聴できます。これらのビデオはすべて無料です。ビデオ視聴だけでなくインターアクティブな補習サービスを受けたい場合は、月9,99€の有料のコンテンツが別にあります 。
2013年に数学授業からはじめったコンテンツの配信は、またたくまに人気を集め、2015年4月までにクリック数が6百万となり、毎月50万人の生徒や大学生が視聴しているといいます。なかでも人気なのは数学で、34万人が登録しています。内容は世界的にも高く評価され、2015年には国際エミー賞デジタル部門(子どもと青年)の候補にもなりました。
物理でもとりわけ難解な量子物理学の内容を、手書きのイラスト入りでユーモラスに、またわかりやすくしかもコンパクトに教える「100秒物理(100 Sekunden Physik )」も、ドイツ語圏の無料学習ビデオとして最も人気の高いビデオの一つです 。2012年からユーチューブでビデオ配信がはじまり、これまでのトータル・クリック回数は約1300万回(2017年1月30日現在)にのぼります。シンプル・クラブほど頻繁に新しいビデオは出されていませんが、根強いファンが多く、30万3千人がチャンネル登録しています。2014年には、ビデオの一つ「透明人間になる方法」が、Fast Forward Science のCommunity Award (2013年からドイツでできた、ウェッブビデオを使って科学を一般に伝えるのために貢献した人に送られる賞)という賞を受賞しています。
作成者は高校生
これら二つの人気のデジタル・コンテンツには注目すべき共通点があります。それは「シンプル・クラブ」 が二人の高校2年生の男子、「100秒物理」が一人の16歳の男子と、ドイツのティーン・エイジャーによってつくられたものだったということです。今日、国際的な名門の大学からTED Talk まであらゆるジャンルの人が、こぞってユーチューブ上でビデオを公開していますが、若い世代が重視すること(ビデオの長さや表現方法やユーモアなど)を知り尽くしている同世代の強みが、最大限生かされて成功につながったのでしょう。
シンプル・クラブの二人は、当初、人助けにもなるし、大学進学に必要な資金稼ぎにもなればと思って始めたそうで、こんな大きな反響があるとは全く思っていなかったそうです。素人の若年層が作ったものがこれほどの人気を得、またその内容が国際的あるいは学術的にも賞の受賞やノミネートという形で評価されたことは、プロ顔負けの、素人集団の計り知れない潜在的な力を見せつけてられているように感じられます。
同時に、手放しで喜べない懸案もあります。子どもでも自作コンテンツを広く世に広めることができたことは確かに一方では、デジタルメディアの風通しのよさというか、草の根民主主義的な性格の証左と評価できます。他方、ツイッターやフェイスブック上で意見操作する大量のソーシャル・ボッツが昨年世界的に注目されましたが、誰もが参加できるというネット上の自由さは、ソーシャル・ボッツに限らずさまざまな恣意的操作が挿入され 、それが蔓延する危険性もあることも意味します。(ソーシャル・ボッツの危険性については、「デジタルメディアとキュレーション 〜情報の大海原を進む際のコンパス」をご参照ください。)特に、数学や物理ではあまり問題なさそうですが、子どもたちが視聴する歴史や政治のテーマなどについては、コンテンツがどのような内容であるかに、教師や親などの周囲の大人も関心をもって、たびたび一緒に視聴したり、話し合うことが大切でしょう。
おわりに
学習のトータルの性能や効率をみると、顔をみながら授業を進める学校や塾という形が、依然として有望なのでしょうか。それとも、デジタル世代の若者たちを受け皿として、 デジタルな形の学習支援のコンテンツの比重は、今後高くなっていくのでしょうか。デジタル・コンテンツの効用については 、教育学者や脳科学者の間で意見が割れていますが(詳細は、「デジタル・ツールと広がる読書体験」をご覧ください)少なくとも、ネットを介する学習支援は、子ども部屋の誰より頼もしい助っ人として、今後も進化・多様化していくことは確かでしょう。そしてそのことは、特に塾には経済的に行けないけれどインターネットにはつながる環境をもつ子どもたちにとっては、自宅での学習の仕方の選択肢の幅が広がることを意味し、歓迎すべきことに違いありません。
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<参考文献>
—-スイスの塾業界について
Schweizerischer Nationalfonds zur Förderung der wissenschaftlichen Forschung(SNF), Nachhilfe nützt wenig,12.09.2013.
Andrea Jaggi, Nachhilfeunterricht nützt wenig, SRF, 12.9.2013.
Sibylle Stillhart, «Vielleicht überschätzen Eltern den Effekt», Nachhilfeunterricht, Interview mit Stefan Wolter, NZZ, 22.3.2015.
Sibylle Stillhart, Gehirndoping für die Schulkarriere, Hohe Ambitionen, NZZ, 22.3.2015.
Jeder dritte 8. und 9.-Klässler nimmt bezahlte Nachhilfe-Stunden, SRF, 8.11.2014.
Der Nachhilfeboom: Gut ist nicht gut genug!, Kontext, SRF, 6.6.2016.
—-「シンプルクラブ」と「100秒物理」について
「シンプルクラブ The Simple Club」
Alex, Wie ist TheSimpleClub entstanden?, The Simple Club, 27.02.2016.
2015 International Digital Emmy® Awards Nominees Announced(2017年1月31日閲覧)
「100秒物理 100 Sekunden Physik」
100 Sekunden Physik Youtube statistics
Learning by watching: Herausragende Wissenschaftsvideos gekürt, Wissenschaft im Dialog, 17. November 2014.
Louise Westermann, 100SekundenPhysik gewinnt Fast Forward Science Award, broadmark, 20.11.2014.
Fast forward science
—-ネット上のコンテンツを使った学習についての他の参考サイト
Anna Zimmermann, Lernen mit Youtube, Wirtschaft, Tagesanzeiger, 07.04.2014
Christoph Steiner, YoutuberInnen erklären Mathematik, digithek blog, Publiziert am 14. April 2016. (2017年1月25日閲覧)
Ruben Wolff, Schüler setzen beim Lernen auch auf Youtube, Geislinger Zeitung, 14.11.2016
Dominik Landwehr, Wo es die Jugend hinzieht, TV-Konkurrent Youtube, Feuilleton, NZZ, 6.8.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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明るい未来を開くカギは「暗さ」? 〜ヨーロッパの屋外照明をめぐる新しい展開

2017-01-28 [EntryURL]

世界に広がる明るい夜
夜の街でネオンや街灯が光り輝いているのをみると、あたかもその都市の活気や豊かさを示すバロメーターのように感じることがあります。また都会に長く滞在すると、夜も煌々と明るいのが当然であるかのように思えてきます。これは、ある特定の地域や国の話ではなく、世界中な潮流のようです。照明の数は年々増え、世界全体で毎年6%ずつ明るくなっており、人工照明に使われるエネルギーは、世界で消費されるエネルギーの8%を占めるといわれます。
しかしヨーロッパでは近年、この世界的なキラキラピカピカ路線から一線を画した動きが強まってきました。それと真逆で、夜に暗さを取り戻そうとする動きです。といっても、街灯がほとんどなかった200年前や、空襲を免れるため光源を隠した空襲の時代のように、街灯や光源を一切排除することではありません。最新の技術とイノベーションを駆使して、屋外照明を最適化し、不要な明るさを最大限減らそうというものです。今回はこのような新しいヨーロッパの動きを、スイスとオランダの事例をとりあげながらまとめてみます。
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光害の実情
ヨーロッパではなぜ今、暗さを取りもどそうとしているのでしょう。直接の理由は、光害の深刻さです。光害とは、人工的な照明を用いることによって生じる被害全般をさします。 豊かなヨーロッパの街は、地球上でも光害被害が最もひどい地域のひとつとされます。
光害は生物本来の行動に直接的な打撃を与えます。配偶行動の交信に発光する蛍はその最たる例で、40年ほど前まではスイスのいたところでみられたといいますが、宅地化に伴う光害で、配偶行動が難しくなり、いまではほとんどみられません。光害の影響は、都市内や周辺の地上の動物や生物類だけに限ったものではなく、散在する屋外照明のため、空中から水中まで、いたるところでみられます。夜間に飛ぶかう鳥たちは本来みえるはずの目印をみつけられなくなりますし、照明で明るくなった水面では夜間は水面近くにきて藻類やバクテリアを食べるはずのプランクトン類が上がってこなくなり、水中全体の生態系を狂わせます。しかし、個々の研究が人工照明の生態系への影響について警鐘を鳴らしても 、数年前までは実際にはほとんどなんの対策も講じられずに、見過ごされてきました。
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事態に少しずつ変化があらわれてきたのはここ数年で、しかも全く違う観点であらわれた動きが後押し、連動する形での始動でした。EUは2020年までに最終エネルギー総消費の20%を再生可能エネルギーで賄うという目標をたてたことに伴ない、多様な分野でエネルギー消費が見直され、屋外の人工照明についても従来の在り方が問われることになったのです。ここでやっと、光害被害の削減と節電化という二つの異なるベクトルが融合し、これまでほとんど野放しになっていた街灯の在り方や明るさが、見直されるようになりました。
EU内でもばらつきがありますが、例えばフランスでは、すでにオフィスもショーウィンドウの明るさを定める規定がすでに作られています。スイスでも法的規定はありませんが、2004年ごろから独自に光害・節電対策が各地でとられてきました。
節電光源の使用
具体的な屋外照明対策として 、まず節電光源の積極的な利用があげられます。2015年以降、EU及びスイスでは、街灯として水銀灯やナトリウム灯などの発光効率が悪いとされる照明の撤去することが2012年に決定されたあと 、急ピッチで、節電型の光源への代替がすすめられてきました。
新しく代替されているもののほとんどは 、節電効果の高い光源として定評がある LED照明です。現在、チューリッヒ市内には4万2千の街灯がありますがそのうち11%がすでにLED照明に代替されています(首都ベルンにおいては21%)。チューリッヒ市では、すべてLED照明 にすると80%電力を減らせる概算しています。LED照明は自治体にとって経済面でも大きなメリットがあります。電力代だけでも自治体にとって大幅なコスト削減にもつながりますが、寿命の点からも従来の照明に比べてLED照明は長いという点を加味すれば、費用対効果はさらにあがります。
インテリジェント照明
また、インテリジェント照明と呼ばれる、新しい照明の仕方にも注目が集まっています。これは、夜間の人どおりが少ない時間の照明を暗くし、ごく微量の電力で作動するセンサーが、人や車などの動くものを察知すると、照明を明るくするというものです。 従来は、夜中の12時から5時までなどの交通が少なくなる時間に照明を一様に暗くする、あるは照明の一部を消す、というやり方がよくみられましたが、インテリジェント照明で、必要な時と場所だけの照明にすることで、効率良くしかも照明の量を大幅に抑えることができ、光害も減らせると期待されています。 現在スイスでは、各地で試験的に車道と歩道の一部でこのようなインテリジェント照明を配置し、状況を観察している段階ですが、これまでのところ、住民の反応はおおむね上々で、今度このような照明が全面的に増えていくことが予想されます。
しかしLED照明やインテリジェント照明も、まだ手放しで喜べる段階ではなく、いくつかの課題あります。とりわけ問題なのが、LED光に変換するだけでは、節電効果があっても、光害削減の効果は少ないことです。またLED照明は青色の割合が多く、ナトリウム蒸発照明より3倍から8倍も明るく、人の目や夜行性生物への打撃がむしろ大きいと指摘されています。このため、上空や余計な場所に光がもれないようにスポットを決めて照らすなど、それぞれの屋外環境に合わせた照明の最適化のための工夫が不可欠で、また将来的に、青色を減らすなど照明をより屋外の生物や人に適応させた次世代LED 照明のような技術の開発がさらに進むことが期待されます。
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自家発電を組み合わせた照明
屋外の照明を自家発電と組み合わせてさらに節電効果を高めることも、未来物語ではなく、実現可能になってきました。特にオランダでは、昨年に、2030年までにインフラをすべてエネルギー中立化する(ほかからエネルギーをもらわずにそれ自体で必要なエネルギーを産出してまかなうこと)という計画がすでに打ち出されており、街灯も太陽光パネルを併設するなどして自家発電させることが、現実に焦眉の課題となっています。ソーラーパネルを埋め込んだ道路や、ソーラーパネルを付設した街灯などはすでに実現されており、これらの国内のノウハウをさらに発展させ、インフラ分野で 、エネルギー中立のインフラのエキスパートとしてヨーロッパや世界でも一気に躍進することを国は期待しているようです 。
電気を一切使わない照明
さらにオランダでは、 電気自体を必要としない究極の節電照明もでてきました。照明アーティストのDaan Roosegaardeによる照明プロジェクトです。斬新な発想から生まれたこれらの照明プロジェクトについて、以下、簡単に紹介してみます。( 写真やビデオは、参考文献に記載されてある彼の公式サイト(英語)からご覧ください)
蓄光技術を利用した照明
最初に作られたのは、道路建設コンツェルンHeijman とともに開発した10時間分の光を蓄光できる技術を利用し、2014 年10月に完成した、オランダのOssの高速道路N329です。具体的には、自然の景色を突っ切るように続く高速道路の両脇に、蓄光能力をもつ緑色の塗料で塗られた3本の線のことで、日中に蓄光した線が夜間に発光し、道路とその外の間の境をくっきり浮かび上がらせます。塗料が塗られているだけで、電気は一切使っておらず、道路のはじが発色するだけなので、照明のような周りの環境や生物への影響を最小限におさえることができます。 夜な夜な現れる緑のライン幻想的で美しく、 完成した当初は、 渋滞ができるほどの大きな反響があったというのがうなずける、画期的な道路照明です。
蓄光の技術を、道路に直接塗るのではなく、蓄光石という形にして道路に埋め込むことで、道を照らすという芸術性の高い照明も生まれました。これは、オランダの335Kmのゴッホ・サイクル・ロードという自転車道の一部にあたる600mの道で、ゴッホが生前住んでいた Eindhovenにあります。日が暮れると道は緑や青の蓄光石が光り、ゴッホの代表的な作品「星月夜」をイメージした模様が浮かびあがって、道を幻想的に照らします。雲の多い日など、日照が少なかった日には、道路脇のLEDランプが蓄光石を照らして、光を補充するようになっています。2014 年11月の道路オープン以降、著名な観光名所としても名を馳せるようになりました。
反射光を利用した照明
さらに、オランダ北部にある世界最大の堤防、北海と淡水湖(アイセル湖)の間を仕切る締め切り大堤防Afsluitdejkの上を走る32Kmの高速道路にも、新しい照明が予定されています。もともと堤防の上は電気が通っていないため高速道路に照明は一切ありませんでしたが、この道路を電気を一切使わず照明するという、オランダ交通大臣からじきじきに依頼された壮大でチャレンジングなプロジェクトです。
道路は海に隣接するため、照明は悪天候や塩害などに強い耐久性があるものでなくてはなりません。そこでRoosegaardeが目をつけたのは、ヘッドライトの光の反射光です。複数の大学や企業と共同して開発された、光を反射する特殊な物質が含まれた塗料を道路に塗り、ヘッドライトの光がちょうど当たって反射するようにすることで、道が照らし出すようにするという計画です。反射角度を鋭角にすることで、ドライバーには必要な道が照らし出されるだけで、100m幅の堤防の逆方向を走行するドライバーの運転を妨げず、光害も最低限に抑えることができるといいます。
Roosegaardeは、 これらの新しい発想の道路の照明が十分に機能することが証明されれば、 道路の在り方やその照明についてのこれまでの世界的な常識が覆されるだろうと言います。これまで未来の交通というと、通常、走行する車の方にばかり目が向けられてきましたが、 土地の景観や光害などの問題にも関わり、広く交通や生活全体にインパクトを与える道路は、ほとんど変化がなく、関心も向けられてきませんでした。しかし、今後は、照明をふくめ、いろいろな変革の可能性がありうるとします。彼の予想通り、今後、道路や照明の在り方は、彼のような斬新な試みを皮切りにして、それぞれの場所や需要に沿って、飛躍的に多様化しながら進展してゆくのかもしれません。
なにはともあれ、まずは堤防の上を走る高速道路の完成が楽しみです。
未来における屋外照明の常識
世界が年々明るくなっていくことで深刻な光害やエネルギー問題をひき起こしていることを考えると、これまで夜の安全や豊かさのシンボルとして疑うことなく着実に敷設されてきた屋外照明は、ヨーロッパに限らず、近い将来、世界中で、転機を迎えるのかもしれません。そうだとすれば、技術や新しい政策だけでなく、わたしたちの照明に対する常識や生活習慣も変わらざるをえなくなるでしょう。都市の「暗さ」こそが洗練された技術やスマートな文化を象徴する、そんなことが一般常識になる時代は、意外に早くやってくるのかもしれません。
///
参考文献
—-光害について
Marie-José Kolly, Alexandra Kohler, Weltweite Lichtverschmutzung, Der Blick aus dem Weltall, NZZ, 9.12.2016.
Björn Platz, Lichtverschmutzung und die Auswirkungen auf die Natur, W wie Wissen, Das erste, 19.1.2017.
Dark-Sky Switzerland
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F. Hölker, et al.: The dark side of light: a transdisciplinary research agenda for light pollution policy, Ecology and Society, 2010, Vol. 15 No.4, Art13.
—-屋外照明について
In Baden wird es bald richtig dunkel in der Nacht, az Aargauer Zeitung, 4.2.2015.
Jörg Haller, Die öffentliche Beleuchtung wird intelligenter, Technologie Strasenbeleuchtung, Public29Bulletin 1 / 2015(2017年1月25日閲覧)
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Andrea Kucera, Der Siegeszug der intelligenten Lampe, Öffentliche Beleuchtung, NZZ, 4.2.2016.
David Dünnenberger, «Intelligente» Beleuchtung weist den Weg und spart Energie, Medienmitteilung der Werkbetriebe Frauenfeld vom 23. November 2016(2017年1月23日閲覧)
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Raquel García y Cantalejo, Schlaue Strassenbeleuchtung, SRF, 29.11.2013.
—-Daan Roosegaardeの活動、作品、講演について
Studio Daan Roosegaarde
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Pilot with Glowing Lines live, heijmans (2017年1月25日閲覧)
So einen Veloweg gibt es nur in Holland, 20 Minuten, 13. November 2014.
Christina Rietz, Firmament im Asphalt, 29. Oktober 2015, 4:47 Uhr Editiert am 1. November 2015, DIE ZEIT Nr. 42/2015, 15. Oktober 2015.
—-オランダのインフラ、エネルギー中立化計画について
Minister Schultz: Dutch infrastructure will become energy neutral by 2030, June 14, 2016

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「スイス・メイド」や「メイド・イン・ジャーマニー」の復活 〜ヨーロッパの街角に現れるハイテク工場

2017-01-20 [EntryURL]

元旦の新聞と言えば、新年がどんな年になるのかを予想する特集が組まれるのが日本でも恒例ですが、今年最初のスイスの主要日刊新聞『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥンク(NZZ)』紙面でも、未来の展望が特集記事として掲載されていました 。そこで取り上げられたトレンドの一つで、一面の見出しにもなっていたものに、スイスに再び産業の生産拠点が戻るという予想がありました。同様の国内への製造業回帰の予想はドイツのメディアでも、昨年からたびたびでてきています。一体なにが根拠となって、このような予想になるのでしょう。今回は、近年のスイスとドイツのメディアの記事を参考にしながら、この予想の背景と具体的な動向についてまとめてみたいと思います。誤解がないように念のため最初にお伝えしておきますが、ここで取り上げるのは、技術革新による生産効率や採算性、また近年の先進国での消費スタイルや、企業の人材確保の思惑など、様々な要素を配慮して導かれた見解であって、自国の産業や雇用を守ろうとするがために政府が市場や産業界に介入するといったたぐいの話ではありません。
ハイテクの新型工場
1990年代始めにスイス国内に80万人ほどいた製造業の就業者は、四半世紀をすぎた今日では、その頃の4分の3にまで減少しています。1980年代以降アジアを中心に海外移転をする製造業社が増えたためです。しかし予想では、減少傾向はピークを迎え、今後は、むしろ海外から生産拠点を再びスイスにもどす製造業者が増えてくるといいます。
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昔の紡績工場風景

ただし、製造業が戻ってくるといってもここで想定されているのは、かつての工場とはかなり異なる形態のものです。新しい工場には、ロボットや3DプリンターなどIoT技術を駆使したハイテク機械や装置がならび、生産工程はほぼ完全自動化され、いわゆるブルーカラーの従業員はいません。このような未来型工場のモデルとしてよく引き合いにだされるのが、隣国ドイツのスポーツ用品メーカーの大手アディダスが作った「スピードファクトリーSpeedfactory」と呼ばれる工場です。
途上国の労働集約型の工場からドイツのハイテク工場「スピードファクトリー」へ
これまでアディダスは、もっぱら中国などのアジアの途上国で靴を生産してきました。 手作業の工程が多い労働集約型の産業であるため 、人件費が安い国々で生産されるのが、理にかなっているようにみえました。しかし、人件費が抑えられる一方、いくつかの問題もありました。まず、生産から販売までのタイムラグです。商品は海上輸送のため、アジアで靴が仕上がってから、ヨーロッパの店に着くまで、 6−8週間もかかっていました。また、これは途上国に限った問題ではありませんが、靴は天然皮革や合成ゴムなど様々な原料からなる100以上のパーツでできているため、まず別々の場所でそれぞれのパーツを生産し、それらを工場まで運びこむという工程が製造前にあり、それぞれ手間や輸送コストがかかり、経費や時間的なロスになっていました。
しかし、数年前まで不可能と思われていた、やわらかい生地や皮の縫製や加工作業を全自動でする技術が数年前に開発され、さらに3Dプリンター技術が向上したことなどから、多様なパーツが一つの工場で生産できるようになり、突如、デザインを決めてからたった5時間で一つの工場で靴を製造することが可能になりました。しかも完全自動化した工場でロボットが作業を行うおかげで、週7日、24時間生産できます。
ドイツを本社とするアディダスは、このような靴づくりの環境や条件の急変にいちはやく反応し、新型工場「スピードファクトリー」を建設しました。4600㎡の工場は2017年の今年から製造を開始し、年間50万足を製造する予定です。アディダスにとっては、自国ドイツでの靴の生産は実に30年ぶりにとなるといいます。同様の工場は、すでに北米アトランタにおいても建設中で、二つの工場を合わせて、年間100万足が生産される予定です。さらに、ほかの西側諸国での同様の工場の建設も計画中だそうです 。
デザイン、製造、顧客との関係における新たな可能性
このようにしてできあがる新たなメイド・イン・ジャーマニーの靴は今のところ、一足180ユーロほどする、かなり高価なものが想定されていますが、このような生産体制をとることで、生産の時間短縮だけでなく、デザインや製造方法、また顧客への対応や関係において、これまでの靴の生産では考えられなかったような様々な新たな可能性がでできました。
まず、デザインから生産までの大幅な時間短縮によって、刻々と変わる人気や流行を敏感にとらえてデザインや生産量を調整できます。またすべてデジタル化した工程は、様々な新しい商品やビジネス・モデルをつくりだせる可能性があります。パーツの材質や色などのデザインを、顧客自身が自ら行い、自分のオリジナルでオンリーワンの靴を注目・生産することも可能でしょうし、それらの個々の顧客の趣向をデータ化することで、企業にとっても将来の商品の改良や開発のための貴重な分析資料として活用できます。
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また、大量消費よりもこだわりや愛着をもって長く保持することをよしとする、レス・イズ・モアのライフスタイルは、今日先進国でかなり支持者をもつようになってきていますが、このような消費行動や生活スタイルをモットーとする人々にとって、量産型でない生産のあり方自体が、好意的に受け入れられる可能性があります。輸送距離が短くなることで環境負荷も減り、地域経済振興にもつながることも、社会で全面的に高く評価されるでしょう。
これらをトータルして、新型工場のモデルは、近い将来、製造業の主流とはならないにせよ、先進国の人々の間に、これまでの生産販売ルートのオータナティブとして定着してい という予想が導きだされます。
街角に現れる工場
ところで新しい工場は、大量生産を前提としたものでないため、従来の工場よりコンパクトになります。スイス最大の家電メーカーV-Zugも2018年からハイテク工場を始動させる予定ですが、新しい工場面積はこれまでの工場面積の33%にとどまります。工場が小規模になることは、市街地の一角にも工場ができやすくなることを意味します。
名高いドイツのフラウンホーファー経済研究所のデジタル・エンジニアリング専門家のレンテス氏Joachim Lentesは、都市に生産拠点ができることは、企業、都市、従業員、また都市住民それぞれに利点があり、相乗的な効果が期待できるといいます。
まず、企業にとっては、生産拠点がドイツの都市部にあることで、市場や顧客との距離がぐっと近くなります。顧客がみずから工場に試作品を試しに行ったり、完成品を取りに行ったりすることもでき、製造業者が顧客と直接的な接点をもつこともできます。雇用面からみると、工場はオートメーション化が徹底されることでブルーカラーの従業員はほとんど雇用されませんが、エンジニアや総括責任者などの従業員の雇用はすすみます。アディダスの最新工場でも、 160人の従業員が働く工場となる見通しです。そこで働く従業員にとっては、街中に職場があることで、職住が近くなり、よりフレキシブルに働くことも可能となります。
都市の行政や都市住民全般にも大きな恩恵があります。企業や従業員たちがもちこむ様々な要素や新たな需要で町は活性化され、会社や従業員が支払う税金で都市の財政も潤います。
優秀な人材の確保
これらの点に加えて、企業にとっては、優秀な人材を確保しやすくなるという点も都市に拠点を持つことの大きな利点の一つとなります。
近年、外国に働きに行きたがらないスイス人やヨーロッパ人が増えてきているとたびたび報道されます。詳細な理由は不明ですが、パートナーや子供などの家族への配慮が大きいためと考えられます。パートナーの仕事や、子供の教育環境、また家族が安全で健康に生活できるかといった居住環境をトータルで考え、海外でキャリアを積むチャンスよりも、あえて自国(あるいは類似した環境をもつ先進国)に留まって仕事と私生活を堅実に両立・充実させたいと考える人が増えているようです。特に優秀な技術者や研究者、高いポジションにある人ほど、海外を避ける傾向が強いといいます。
このような現象を逆に解釈すると、海外に拠点を移さなければ、豊富な人材をより容易に確保できることになります。特に、国内でも特に産業だけでなく教育や生活空間としての機能もあわせもつ都市では、仕事と私生活の両立をさせやすい環境が整っているため、より人材の確保が容易になります。
スイスのチューリッヒにあるグーグル社は、会社の立地場所の選択に人材確保を意識している企業の好例です。2004年に設立されたチューリッヒのグーグル社には現在2000人が就業しており、すでに北米以外で最大の会社規模ですが、今後さらにチューリッヒに二つ目のオフィスをつくり、世界から優秀な学生が集まってくるチューリッヒ工科大学からの卒業生を中心に毎年200人規模で新しい人材を入れ、2021年までに5千人にスタッフを増やす計画であるといいます。
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チューリッヒの町並み

研究機関との共同研究や開発も、都市では実現しやすくなります。スイスはこれまで6年間連続で世界のイノベーション度を評価する世界ランキング「グローバル・イノベーション・インデックス(GII)」で1位の座を占めていますが、企業と研究機関の連携は、そのイノベーションの主要なエンジンです。高度な技術を追求する企業にとっては、今後一層、各研究機関との連携の重要性が増すことでしょう (詳しくは、「スイスのイノベーション環境 〜グローバル・イノベーション・インデックス (GII)一位の国の実像」をご参照ください)。
途上国の課題
さて、ここまで新しく生産拠点がつくられる側の話だけをみてきましたが 、 現在多くの製造工場が置かれている途上国からみれば、このような変化は、少なからぬ打撃となったり、いつ雇用が切られるかという将来の不安の種となる可能性があります。この点については、今回扱うテーマの範囲を超えているため、これ以上議論することは避けますが、これらの国や地域の指導的な立場にある人たちは、今後の先進国の製造業の動向を見守りながら、事態が実際に大きく変化する前から、自国でどのような対応策や検討の余地があるのかを具体的に考えることが大切なのではないかと思います 。
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参考文献
—-途上国から先進国への生産拠点回帰について
Charlotte Jacquemart, Die Industrie kehrt in die Schweiz zurück, NZZ am Sonntag, 1.1.2017.
Charlotte Jacquemart, Die Weltveränderer, NZZ am Sonntag,1.1.2017.
„Swiss made” blühlt wieder, NZZ am Sonntag, 28.8.2016.
—-アディダスの「スピードファクトリー」について
adidas errichtet erste SPEEDFACTORY in Deutschland, adidas group, 09.12 2015.
Joachim Lentes, Mit Industrie 4.0 zur urbanen Produktion. Impulsvortrag zum1. Think Tank - Urbane Produktion, 17.02.2015.
Andreas Menn, Peter Steinkirchner, Unikate vom Fliessband, Wirschaft, 2.9.2016.
—-都市の生産拠点について
Joachim Lentes氏の「アーバン・プロダクション」のサイト
Joachim Lentes, Mit Industrie 4.0 zur urbanen Produktion. Impulsvortrag zum1. Think Tank - Urbane Produktion, 17.02.2015.
—-企業の人材確保問題について
Mobile Schweizer Chefs - verzweifelt gesucht, Multis auf Personalsuche, NZZ, 6.12.2016, 07:10 Uhr
Dominik Feldges, Mobilität von Schweizer Arbeitskräften. Ein Volk von Sesselklebern?, NZZ, 6.12.2016.
Dominik Feldges Keine Lust auf Auslandeinsätze, Rekrutierung von Spezialisten in der Schweiz, NZZ, 6.12.2016.
Kampf um die klügsten Köpfe, NZZ am Sonntag, 16.10.2016.
Nino Maspoli, «Zürich war die beste Idee, die wir je hatten», Zweiter Google-Standort, NZZ, 17.1.2017.
—-その他
Ein Industrieareal öffnet sich, NZZ, 22.1.2014.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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スーパー・レコグナイザーと顔認識システム 〜テクノロジーとの競合と人の能力の活かし方

2017-01-15 [EntryURL]

2015年のケルンの大晦日から新年にかけて、数百人の女性に対する大規模な暴行と窃盗事件が起こりましたが、その事件で、大きく注目された人たちがいました。通常、スーパー・レコグナイザー super recognizerと呼ばれる特別な能力をもった特別捜査官です。
スーパー・レコグナイザーとは、 人の顔に関して通常考えられないような、飛び抜けた記憶や判別能力をもった人たちをさします。例えば、5年前にたった一度レストランで見かけた人の顔を憶えていたり、メガネや髪型などによって外観が大きく変わっても同一人物であることが判別できたり、また帽子やマスクで顔を覆っている人の目だけを見るだけで、その人が誰なのかをすぐに認識することができたりします。今回は、このような特殊能力をもつ捜査官の活躍について紹介しながら、 このような優れた人の能力や技能全般が、今後、テクノロジーと競合しながら、どのように評価、また活用されることが可能か、またその際の課題はなにかなどについて、考察を少し加えてみたいと思います。
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ロンドン警察のスーパー・レコグナイザー
ケルンの事件では、 駅前など数カ所に設置された防犯カメラの映像や携帯電話で撮られたビデオなどをもとに事件の分析が試みられましたが、遠方からの撮影や断片的な映像に映し出された深夜の暗がりにうごめく大勢の人々の中から容疑者を確定するのは、困難極まる作業でした。しかしそこに、頼もしい助っ人があらわれます。スーパー・レコグナイザーと呼ばれる人たちです。
ところで、このスーパー・レコグナイザーは、ドイツ人ではなく、ロンドン警察から2週間派遣されたイギリス人警察官でした。ケルン警察がわざわざロンドンから招いた理由は単純で、ドイツにそのような専門家がいないためです。ドイツだけでなく、世界全体をみても、カメラの映像や画像をもとにした容疑者確定に従事するスーパー・レコグナイザーの捜査課を置いている警察は、ロンドン警察をのぞき、ほかには存在しません。派遣された二人のスーパー・レコグナイザーは2週間のケルンでの滞在中、現地での捜査に協力するのと同時に、スーパー・レコグナイザーの素質があると思われる3人のドイツの警官に、映像や画像資料の分析などの指導も行いました 。
イギリスにおいても、スーパー・レコグナイザーの存在が評価されるようになったのは、ごく最近です。特に注目されるようになったのは、2011年に起こった「イギリス暴動」と言われる大規模な暴動の後でした。暴動に関わった5千人のうち、おおよそ4千人が監視カメラやソーシャルメディアなどの映像や画像をもとに容疑者が割り出されました が、そのうちの3分の1がロンドン警察に所属するスーパー・レコグナイザーによるものでした。たった一人で180人の確定した人もいました。
目覚ましい功績が評価され 、2015年にはロンドン警察内に、ビデオや画像の分析を専門とするスーパー・レコグナイザーだけの特別捜査課が設置されます。そしてその後、そこに所属するたった6人で、ロンドン警察全体(警察官数3万2千人)の容疑者確定の4分の1を担うほどの成果をあげています。ちなみに、ロンドン警察にはこの特別捜査課以外にも150人のスーパー・レコグナイザーがおり、それぞれの配属先で、容疑者の割り出し業務に携わっています。
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秘められたスーパー・レコグナイザーの能力
近年、注目を集めるようになったスーパー・レコグナイザーですが、学術的にはいまだほとんど未踏の領域です。アメリカの認知心理学研究者 Richard Russel らによる最初の論文が、 2009年に発表されてから2016年3月までに、スーパー・レコグナイザーについて出された学術論文はいまだ5本しかでていません(Hucklenbroich, FAZ, 2016)。このため、人々の顔に関してスーパー・レコグナイザーがどのように脳内で顔の情報を処理しているのか、また、どこが、普通の人たちの処理と大きく異なるのか、まだほとんどわかっていません。
最初に論文を発表したRichard Russel自身も、もともと、スーパー・レコグナイザーの専門家ではなく、スーパー・レコグナイザーと全く逆の、知っている人々の顔でも認識や区別するのが難しい症状である「相貌失認(失顔症)」 の専門家です。脳のなんらかなお機能障害で人々の顔が区別できない人がいるのなら、その逆に、飛び抜けて人の顔認識ができる人もいるのではないかと思いついて、一般広告で該当すると思われる人を募ったところ、実際に、非常に優れた顔認識の能力をもつ人が見つかり、この結果を論文として発表したのでした。この論文によって、はじめてそのような能力をもつ人の存在がスーパー・レコグナイザーとして学術的に知られるようになりました。
研究もほとんどなければ、そのような特殊能力への社会的な認知ももちろん全くない状況下で、スーパー・レコグナイザー自身、その能力が特別に秀でていることに気づいていない場合がほとんどだといいます。自分にとって普通にできることは、誰も特別な能力だと思わない傾向が強く、第一、日常生活において、必要な能力でもありません。職場の同僚や顧客、家族、友人など、会話を交わす人についての記憶さえあれば、通りすがりの人やバスに前に座っている人について、記憶することは通常必要ありません。逆に、数年前にちらっとあったことがあることをよく覚えていれば、普通の人には奇異に感じられたり、下手をすればストーカーのように怪しまれる危険すらあります。このようなわけで、社会でそのような能力が目立つことは少なく、社会にどのくらいスーパー・レコグナイザーが潜在しているかも、よくわかっていません。社会全体の人口の1〜2%の人がそのような能力を保持しているのではないかと言われることが多いですが、専門家の間では、根拠が乏しいこの推計に疑問の声もあがっています。
さいわい、ロンドンのグリニッジ大学には、2000年代後半からスーパー・レコグナイザーについて研究しているイギリスの心理学者 Josh Davisがおり、警察と研究者の協力的な関係が築き上げられてきたことで、ロンドン警察は、世界でも唯一のスーパー・レコグナイザーの積極的な起用や専門課の設置に至ったということのようです。
このように、まだまだわからないことがだらけのスーパー・レコグナイザーの能力ですが、スーパー・レコグナイザーの捜査課の設置に尽力し、現在も課を率いている警察官Mick Nevilleは、スーパー・レコグナイザーが、 様々な容疑者捜査の場面で、今後大いに活躍できる可能性があると確信しているといいます。特に、飛行場やほかの国境の出入国管理、テロ容疑者の捜索などは、今後最も活躍が期待される分野であり、映像分析は、 指紋やDNA鑑定などにまさるとも劣らない、容疑者割り出しの有力な捜査方法になりうるとします。
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顔認識ソフトウェア対スーパー・レコグナイザー
スーパー・レコグナイザーの能力がすごいことは疑いなくても、人工知能や顔認識システムがメディアで騒がれる現代において、これらの能力はどれだけ意味があるのでしょうか。
顔認識ソフトの技術は近年、めざましく進んでいます。昨年はロシアのFindeFace というウェッブのソフトウェアは、通りの誰か知らない人の写真を撮ってアップロードすると、VK.com というSNSに登録されている3億人のユーザーのプロフィール写真と比べ誰かを割り出すサービスをはじめました。そして同年に、このソフトが7割正しい該当者をみつけ出したとして話題になりました。Facebookでも顔認証機能が取り入れられています。
しかし顔認識システムは、少なくとも今の段階では、覆わずに正面から写した顔でないと認識の正解率はかなり低く、正面からきれいに捉えたきれいな画像などほとんど期待できない映像資料からの容疑者割り出し作業では、ほとんど使いものになりません。スーパー・レコグナイザーが、ピントがあっていない白黒映像や、顔の一部だけがしかも正面からではなく撮られた写真などからでも容疑者を割り出すのとは、能力的に雲泥の差があります。実際にロンドンの暴動の映像資料をもとに警察が割り出した容疑者数は4千人であったのに対し、顔の認定ソフトウェアが確定できたのは一人だけでしたし、近年のソフトでも、警察が容疑者と確定できた写真千枚から、ソフトではたった一人しか確定できなかったといいます。(Gioia, 2016)
スーパー・レコグナイザー対テクノロジー
しかし、スーパー・レコグナイザーを囲む現状は、近年評価や注目はされるようになったとはいえ、安泰とはいえないようです。いまだ、ロンドン以外に同様の課を公式に設置した例はなく、ケルンの事件の後もドイツ警察もスーパー・レコグナイザーによる特別捜査を本格的に導入する予定はないと公式発表されています。ロンドンにおいてすら、捜査課課長のNeville 氏によると、十分に評価されて、市民権を得ているとはいえず、 特別捜査課の存在は いつ取り潰されるかもしれないという依然とした不安定な状況にあるとし、「悲しいことに、我々は(顔認識ソフトウェアの)機械にはお金を払うのに、人にお金を払わない奇異な時代に生きている」と不満をもらしています。(Keefe, The New Yorker, 2016)
少し話はずれますが、以前、 ヒトのタンパク質の細胞画像の分類作業を、オンラインゲームのなかのミニ・ゲームに取り入れて、ゲームのプレーヤーにしてもらうことで、非常に短期的に効率よく学術的な業績をあげたディスカバリー・プロジェクトという、ゲーミフィケーションの事例についてとりあげたことがあります(「ゲームをしながら社会に貢献? 〜進化するゲームの最新事情」)。これを企画した研究者は、素人に分類に託す意義について、不規則な形と数で存在し、画像によって重なったり欠損しているようにみえるものも多い細胞の画像を分類する作業は、 多少の訓練を受ければ、専門家でなくても難しいものではない。しかし同じことをコンピューターにやらせるためには、非常に複雑で膨大なプログラムが必要であり、コンピューターにやらせるのは採算を考えると、現実的ではないと説明していました。
顔認識・確定作業は、このゲーミフィケーションのプロジェクトと類似した状況にあるように思われます。顔認識は人間(この場合、すべての人ではなく、スーパー・レコグナイザーに限られますが)が得意な分野である一方、同じことをコンピューターにやらせるには膨大なデータと非常に複雑なプログラムが必要です。このため、人とコンピューターで、現在、どちらが採算に合うかは明白です。数年後にはテクノロジーが人の認識・確定能力を超えることも考えられますが、それぞれの現時点で、優れたもの、採算があうものを評価・尊重し、その技術を最大限活かすことは、意味があることのように思われます。つまり、現在実際にスーパーレコグナイザーが優れた能力を発揮していることは、将来如何に関係なく、全うに評価こそされるべきで、過小な評価やそれを取り入れることへの消極的な姿勢は妥当ではないでしょう。
特に、スーパー・レコグナイザーたちの能力は、近年発見されたばかりでありで学問的には研究が浅いものの、社会での広い汎用の可能性があることを考えると、顔認識ソフトの開発のほうにだけ偏って社会の関心が向かうのは非常にもったいないように思われます。むしろ、今いるスーパー・レコグナイザーの能力をより活用する方向に積極的に研究が進み、治安、防犯のためにもっと利用範囲が広がることを期待したいです。
人間の能力を補完あるいはより活かすためのテクノロジー
ただし、現状においてスーパー・レコグナイザーが、顔の認識ソフトウェアより圧倒的に優位であるということだけで、将来のことはわかりません。将来、認識ソフトの需要が高ければ、顔認識ソフトは技術的にさらに向上するでしょうから、スーパー・レコグナイザーとテクノロジーとの競争は、これからも続いていくことになるでしょう。スーパー・レコグナイザーに限らず、現代は、医学から音楽まで、現代は、コンピューター技術や人工知能などのテクノロジーとの競争にさらされない領域はほとんどないといってもいいほど、従来の職業のあり方根幹から問われる時代です。
一方、人間の能力は使わなければ萎えていくという特徴があります。ナビゲーションが便利に発達すれば自分で道を見つける能力は退化しますし、字を自ら紙に書かなくなれば、記憶していたはずの漢字も忘れて書けなくなります。スーパー・レコグナイザーの能力も潜在的なものを評価し活かす場がなければ、社会において失われた能力となります。最終的に、映画『ウォーリーWall-E』
のように(テクノロジーがすべての面倒なことを代行してくれる宇宙船のなかで、歩くこともままならなるほど身体的に退化してしまった人間がでてきます)、テクノロジーに委ねることが多くなることで、人が使う能力範囲が狭まっていき、能力が劣化の一途をたどるのが、私たちの好ましい未来なのでしょうか。
理想をいえば、人とコンピューターがお互いに学び合い、競い合い、補完し合うような関係でより仕事の質や効率をあげていくことができたらベストでしょう。それと同時に、人の能力をおしのけるテクノロジーの開発ではなく、人の能力を育て、維持・発揮させることやそのような環境をつくること自体を、将来のテクノロジーの大切な役割、課題として真剣に目指すべきなのかもしれません。
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参考サイト
<英語>
グリニッジ大学の心理学者Josh Davisが開発した、自分がスーパー・レコグナイザーなのかを調べられるオンラインのテスト
Russell, R., Duchaine, B., & Nakayama, K. (2009) Super-recognizers: People with extraordinary face recognition ability. Psychonomic Bulletin & Review, 16(2): 252-257.
Sarfraz Manzoor, You look familiar: on patrol with the Met’s super-recognisers, The Guardian, Saturday 5 November 2016.
Patrick Radden Keefe, The Detectives Who Never Forget a Face, The New Yorker, August 22, 2016.
Katrin bennhold, London Police ‘Super Recognizer’ Walks Beat With a Facebook of the Mind, The New York Times, Oct. 9, 2015.
<ドイツ語>
Denis Mohr, Wie Super-Recognizer die Köln-Täter jagen, Erkennungs-Künstler,19.04.2016, t-online.de
Ich erkenne dich, “Super Recognizer” ermitteln wegen Silvester, 3sat, 20.07.2016
http://www.3sat.de/mediathek/?mode=play&obj=60504
Nadine Zeller, Ich kenne dich, Süddeutsche Zeitung, 11.7.2016.
Nadine Zeller, Boom der biometrischen Erkennung Lauter bekannte Gesichter, HAZ -Hannoversche Allgemeine Zeitung, 29.7.2016.
Nadine Zeller, Super Recognizer, Scotland-Yard-Spezialisten in Köln im Einsatz, General-Anzeiger, Wissenschaft, 30.10.2016.
Morten Freidel, Die Ermittler, die sich jedes Gesicht merken, Frankfurter Allgemeine, 1.1.2017.
Christina Hucklenbroich, Super-Recognizer Sie nannten ihn „Orakel”, Feuilleton, Frankfuter Allgemeine, 3.3.2016.
Gioia Forster, Super-Recogniser Manche Menschen erinnern sich an alle Gesichter, Die Welt, 27.10.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ヨーロッパの信号と未来の交差点 〜ご当地信号から信号いらずの「出会いゾーン」まで

2017-01-06 [EntryURL]

信号機が照らし出す、止まれや進めといった意味をもつ3色あるいは2色の色は、 世界にある様々なシンボルや標識のなかでも、人々に最もよく意味が知られるものの一つと言えるでしょう。一方、信号の色や形、またその認識は、世界各地で若干違っています。信号機が信号としての機能以外に、歴史的な意味や象徴的な意味がこめられている場合もあります。また、従来の信号ではなかなか解決されなかった交通渋滞や混乱を、信号を用いない方法で解決しようという構想や実例もあります。
今回は、いつも目にしていて、一見、不動の地位にあるようにみえる信号の、地域的多様性や最新の交通構想における新たな役割について、ドイツ、オーストリア、スイスを例にして、ご紹介したいと思います。
信号の色の識別に関わる母語や文化
日本では信号といえば、赤、黄、青だと思われていますが、こう答える人は、少なくとも、ドイツ、オーストリア、スイスの三国のヨーロッパの国々ではまず見当たりません。まず、青ではなく緑と捉えます。スイスに移り住んでまもない頃、ほら信号が青になったよ、と言って、スイス人に驚かれることが何度かありました。赤の信号については、「赤」で誰も異議を唱えませんが、黄色になるとまた意見が割れます。黄色という人とオレンジという人がいるためです。
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信号の色自体は、日本と大して変わらなくみえるのですが、なぜヨーロッパでは青ではなく緑、また黄色ではなくオレンジなのでしょう。単に、日本人が青や黄だと思い込んでいるように、信号は緑やオレンジだと習慣的に理解しているためと説明することもできますが、それ以外の理由として、青の光に関しては、ほかのところで使われ、違う役割を連想させるものであることが大きいようです。ヨーロッパのドイツ語圏3国では救急車、消防車、警察といったサイレンを鳴らして走る車の上についている光が、蛍光灯の光をさらに青くしたような冷たい感じの青色で、緊急車全般を総称して「青い光」と呼ぶこともあります。緊急車が青色の光りなのかの理由についてスイスの主要日刊紙NZZの昨年の記事では、黄色や赤い光が暖かい印象を与えるのと対照的に、青い光は冷たく感じ、緊張感を高めるためと説明しています。
ちなみに日本が信号を緑でなく青と捉えるのが定着し(結局、日本の正式名も「青信号」となっ)たことの大きな理由として、古代の日本では、現在の緑色を指す概念がなく、広く「青」ととらえる色の語感が影響している、とよく説明されますが、緑と青を区別しない言語は、 日本の古語に限ったものではなく、世界的にみると意外に多いようです。
また最近の研究では、色を識別する語彙そのものが母語にないと、名称として色を区別しないだけでなく、実際の色の識別にも支障がでてくることがわかってきました。これについては、南西アフリカのヒンバ族を対象にして実験が有名です。日本の古語同様に、青と緑を区別しない言語体系をもつ南西アフリカのヒンバ族の人たちは、緑色のカードのなかに一枚混ざっている青色のカードを見つけることがなかなかできませんでした。緑と青を単に言語的に区別しないだけでなく、(私たちには容易な)違う色としての区別が難しかったためと考えられます。一方、同じヒンバ族の言語では、青緑系の色を、色調(明暗)によって、細かく区別します。別の実験で、色調がわずかに違うだけの12枚の緑色カードを並べ、そのうちの一枚と同一の色調のカードが、12枚のカードのどれと全く同じ色かを選んでもらうという問題を出すと、ヒンバ族はすぐに正しく選ぶことができました。
信号機は世界中に同じように立っていますが、それを見上げる人たちは、地域やなにを母語とするかによって、そのなかに照らし出される色をそれぞれ違った色として感じとって、判断しているということのようです。
信号にこめられたメッセージ
話は少しずれますが、ヨーロッパでは毎年初夏に国対抗の歌唱大会「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」が1956年より開催されています。テレビ放送を通して毎年2億人以上が視聴するという、ヨーロッパでは、さながら音楽版オリンピックといった感じの歌の祭典です。優勝した歌手の国が次回のコンテストの開催地となるというルールがあり、2014年はオーストリアの歌手Conchita Wurstが優勝したことをうけて、翌年2015年はウィーンで開催されました。その際コンクール開催の記念として、ウィーンの街なかで一部新しく設置されたものがありました。歩行者用の信号機です。
この信号のなかに現れた人物は、これまでの歩行者用信号ではみたこともないユニークなものです。赤信号も青信号も、一人ではなく二人組で、しかも男女、男同士、女同士と3種類のパターンがあります。緑の信号で表示されるそれぞれの二人は、手をつないで仲良く渡るポーズで、二人の間にはハートのマークまでついています。コンテストのあとも 、ウィーンの 120ヶ所に設置されているこのような信号は、ウィーンの都市の新しいシンボルとして定着し、 歩行者用信号機前が街の人気スポットの一つとなって観光客が写真をとるほどの盛況ぶりです 。
ウィーン市によると、この信号は、単に斬新なデザインを意図したのではなく、いくつかの重要なメッセージが込められているといいます。まず、世界に開かれた、また広く人権を擁護する都市ウィーンのイメージをアピールするものだそうです。コンテストで優勝した歌手自身もゲイであり、そのような人権的な主張が信号にこめられるというのが、いかにも現代的、ヨーロッパ的です。
また、安全な交通のために、信号をもっとよくみてもらうことも大きなねらいだったとされします。2014年、22人の子どもがウィーンの信号の横断歩道で事故にあっており、そのうちの3分の1が、信号を見ないなどの不注意によるものでした。このため、もっと信号をみてもらえるよう、新しい信号で色が照らし出される部分ずっと大きくなっています。これにより、従来のものに比べ、二人のペアだと照らされている色の面積は40パーセント増加しました。結果、この新しい信号では従来型のものより、2割弱、赤信号で渡る人が減ったといいます。
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左はウィーン、右はベルリンの歩行者用信号をモチーフにした絵ハガキ

ご当地信号
ドイツにも、いくつかユニークな信号機があります。最も有名なのは、ベルリンの旧東ドイツ地区のもので、 体のわりに頭が大きくコミカルな風情の男性像の歩行者用信号です。ドイツ東西統一直後は、旧西ドイツ側のものと同一にするため撤去されはじめましたが、抗議が殺到し、今では東ドイツ時代の歴史をしのぶ一つの象徴的な存在として、親しまれています。またそのモデルが男性 だったので、それの女性版とも呼べる女性のモデルの信号機を取り入れた都市も各地にでてきています。昨年は、街にゆかりのあるキャラクター(1960年代以降国営放送で使われているアニメのキャラクターMainzelmännchenで、街にはこの国営放送の本社があります)を信号に使った信号機も、登場しました(マインツ市)。
これらの信号は、全国的にもまだめずらしいため話題性も高く、地域の観光資源の一つとしてもてはやされ、関連グッズは、観光みやげとして不可欠のアイテムになっています。交通安全にも貢献し、観光資源ともなるこのような、ご当地キャラならぬご当地信号が今後、ますます増えていくのかもしれません。
また、常設されているものではありませんが、ポルトガルのリサボンでも数年前に、世にも変わった歩行者用信号が試験的にあらわれ注目を浴びました。信号近くのブース内で踊る人の姿を、ライブで赤信号の時にシルエットにして 映し出すというものです。 赤信号の間中、小さな信号のなかで踊る小人の姿を見るのは楽しく、赤信号を眺める人が増えた結果、信号無視が8割減るという画期的な効果があったといいます。
このような歩行者信号の最近の展開をみると、青信号よりも長い時間見つめられ続ける赤信号には、まだまだ工夫のしがいがあるということかもしれません。
交通を制御する信号から、信号を制御する交通へ
このように信号機を巡って新たな地域性が育まれてきているようにみえる一方、長らく交通を司っていた従来の信号の機能よりも効果的な交通制御方法がないかと考える人たちもいます。
2012年にGolden Idea Award という賞(1987年から毎年、実現可能なイノベーティブなアイデアで、環境問題や社会全体に貢献するようなものにおくられているスイスの賞)を受賞したチューリッヒ工科大学のヘブリンクDirk Hebling教授は、その分野のフロンティア的な存在です。人や交通の流れを物理的モデルで再現する研究で知られる教授によると、従来、信号が交通の流れを制御していましたが、今日はむしろ逆の方向に向かっている、と言います。つまり、交通の流れ自体が信号を制御するという方向です。教授が考案し、従来の信号や交通のパラダイムを一転させる画期的な発想として受賞につながった「自己制御する信号self controlling traffig lights」は、文字通り自分で制御、統括する信号というものです。信号とほかの道路上にある車両、また信号同士が交信するという方法で、 「緑の波”Grünen Welle”(スムーズな交通)」を導き、渋滞や事故の際にも時間とエネルギーを減らすことで環境にも貢献できるという構想です。ザクセン州のドレスデンで試験期間を経て、うまく機能することが確認されました。
教授によると、信号が交通の流れを制御するのではなく、交通するものが制御することによって、交差点容量(交差点のなかを通行する車両の量)や利用度を格段高めることができるのだそうです。現在は構想をさらに進め、交通手段がIoT 技術の発達によってお互いに協調することで、信号を全く使わないようにすることが可能かを、マサチューセッツ工科大学と共同研究中であるとワトソンの2015年のインタビューで、明かしています。(Watson, 20.05.15)
信号を一切使わない交通要所「出会いゾーン」
一方、最先端の科学に頼らずに、 信号なしに多様な車両と歩行者を交通させる方法が、ヨーロッパの一部で、実はすでに存在しています。
スイスの首都ベルン郊外のブルクドルフ Burgdorf市という小都市で、1996年から取り入れられはじめた「出会いゾーン Begenungszone」と呼ばれるゾーンの設置です。これは、駅前や市の中心部、学校付近、居住あるいは商工業地帯など、様々な車両同様多くの歩行者が利用する交通地帯において、車道、歩行者道と区分けしたり、その交通整理に信号などを設置するかわりに、横断歩道も信号もすべて取っ払い、すべての移動者が同時並行して横断・交通できる地帯とするものです 。すべてが進入を許され、信号や横断歩道がないかわりに、ここでは安全性を担保するため二つのルールが徹底されます。一つは、歩行者の優先(車両は一時停止して歩行者が行き交うのを待ちます)、もう一つは車両の時速20キロ制限です。 これにより出会いゾーンでは、車両と歩行者が共同で道路を利用しますが、交通は混乱せず、むしろ渋滞がなくスムーズに流れるようになります。
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ドイツにも住宅街などの交通量が少ない地域に、歩行者を優先させる道路があり、類似するゾーンが設けられていますが、このようなゾーンはもっぱら交通量が少ない地域にのみ設定されており、人とほかの交通手段ともに多い、駅前などには設定されていません。これに対し、スイスの「出会いゾーン」は駅前のように人と様々な車両がごったがえす交通量が多いゾーンに設置されています。
20年前に、前代未聞のこのようなゾーンをはじめて作られた時は、スイス連邦交通庁はかなりこの案に猜疑的だったそうです。このため、ブルクドルフでの4年間の試験期間中に重大な事故が発生していたら、「出会いゾーン」の誕生はありえなかっただろうと、当時のこのゾーンの設置責任者は回想しています。さいわい深刻な事故は起こらず、2002年からはスイスの交通法でも正式に認められ、現在は、スイスで全国的に設置されています。最も多いベルン市内には、すでに90カ所以上あるといいます。また、スイスだけでなく、フランスやオーストリア、ベルギーなど、ヨーロッパで採用する国も年々増えてきています。
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前述のヘブリンク教授は、Golden Idea Award受賞スピーチで、交通の「多様性への答えは、柔軟性」だとしていますが、最も簡単な手法で、様々な移動者が互いに譲り合いながら交通する「出会いゾーン」という構想は、まさに多様性を柔軟性でカバーした交通の形を示しているといえるでしょう。
おわりに
将来、交通の流れは、どう変化していくのでしょうか。赤い信号を眺める時間が減っていくのでしょうか。あるいは、信号自体が不要となるほど、交通がスムーズに流れることになるのでしょうか。それとも、延々と人々を退屈させまいように工夫をこらした赤信号を延々と眺めるのでしょうか。
なにはともあれ、新しい1年を、晴れやかな青信号の気分で、まずはスタートしたいところです。
///
参考文献
——非常車両の「青い光」について
Alexandra Kohler, Marie-José Kolly, Licht mit Schattenseiten, NZZ, 9.12.2016.
——言語と色やほかの認識能力について
Holden Härtl, Bestimmt unsere Muttersprache, wie wir Farben wahrnehmen? Eine Betrachtung des Verhältnisses zwischen Sprache und Denken. (2016 年12月16日閲覧)
今井むつみ『ことばと思考』岩波新書、2010年。
Wie Computer unser Denken übernehmen, Wissen, Leschs Kosmos, ZDF
, 04.10.2016(29 min)
Holden Härtl & Svenja Bepperling, Beeinflusst die Sprache unsere Wahrnehmung von Ereignissen? Einblicke in das Verhältnis zwischen sprachlicher und nicht-sprachlicher Kognition (2016 年12月16日閲覧)
——ご当地信号について
Wiener Ampelpärchen, wien.at (2016年12月16日閲覧)
Ampelmännchen, Wikipedia, Deutsch(2016年12月16日閲覧)
Carsten Linnhoff, Die Ampelfrau soll eine Quote bekommen, Nordrhein-Westpfalen, Dortmund, 18.11.2014 |
Mainz bekommt erste Mainzelmännchen-Ampel, ZDF Heimatstadt, Spiegel Online, 23.11.2016.
リサボンの踊る信号The Dancing Traffic Light Manikin by smart(ビデオ)
Ampelmännchen tanzen für mehr Verkehrssicherheit, Welt, 22.09.2014
——渋滞の少ない交通システムについて
Golden Idea Award 2012 für selbststeuerndes Verkehrssystem, 28.09.2012.
Dirk Helbing receives Golden Idea Award in Zurich, 15.10.2012.
Golden Idea Award 2012 für selbststeuerndes Verkehrssystem
28.09.2012 13:11
Phillip Löpfe, «Das Auto der Zukunft wird eine Mischung aus Büro und Wohnzimmer sein», Watson, (Interview mit Dirk Helbing), 20.05.15,
Golden Idea Award 2012 für selbststeuerndes Verkehrssystem, 28.09.2012.
Dirk Helbing receives Golden Idea Award in Zurich, 15.10.2012.
——出会いゾーンについて
Thomas Schweizer, Begegnungszonen in der Schweiz - ein Erfolgsmodell, Fussverkehr Schweiz(2016年12月15日閲覧)
Begegnungszone (vormals Flanierzone) (2016年12月15日閲覧)
Philippe Müller, Erste «langsame» Stadt der Schweiz, Berner Zeitung, 1.12.2016.
Begegnungszone, Wikipedia (Deutsch)
Neun neue Begegnungszonen in der Stadt Bern, Der Bund, 31.3.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


笑うのに必要なものは理由でなくトレーニング 〜高齢者の間に笑う機会を増やすための「笑いヨガ」の試み

2016-12-19 [EntryURL]

笑うことが健康にいいという理解は、世界各地にあるようです。ドイツ語でも「笑うことは最高の薬」、「笑うことは健康にいい」などとよくいわれます。一方、笑うことがいいとわかっていても、 どうしたらよく笑えるか、などと考える人はまず、いません。おかしければ笑うし、おかしくなければ笑えない。ただそれだけのことであり、よく笑えるかどうかは、おかしいかどうかにかかっているだけ、とだれもが当然のように思っており、逆におかしくないのに笑うのは不自然だし、そもそもおかしくないのに笑おうなどと、だれも考えつきもしなかったのではないかと思います。
少なくとも20年ほど前までは。というのも、1990年代半ばに、簡単でだれもが実践しやすい笑い方を模索した人がいました。一旦、方法が確立されると、またたくまに人がいつでもそして繰り返し笑える唯一の確実な方法として、世界的に知られるようになり、とくに病気の治療や予防の現場で広範に受け入れられるようになってきました。
しかし、笑う方法を考えるほど、なぜ笑うことに、その人はそんなにこだわったのでしょう。そもそも笑うことは本当に健康なのでしょうか。今回は、近年の笑いについての科学や医学分野での見解をおさえつつ、考案されて世界中で実践されているこの方法、「笑いヨガ」について紹介します。そして、ほかの笑いの療法と合わせて、これら笑う手法が、未来の社会をどんな風に変える可能性について考えてみたいと思います 。
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笑いについての学問と医学的な見地
まず、笑いについて、これまで科学や医学の分野で検証され、一般的な見解とされていることについて、概観してみます。
笑いが人の心身にどのような影響を及ぼすかについては、1960年代から英語でGelotology (ドイツ語Gelotologie)とよばれ、ひとつの研究分野になりましたが、とくに研究がさかんになったのは、約40年ほど前からで、医師や社会学者、神経学者、心理学者などを中心にした学際的な研究分野としてこれまでに発展してきました。
笑う時には体が動くため、静止していないと使えないMRI(核磁気共鳴画像法) などの精密な機械で脳内を調べることができず、笑った時に脳がどうなっているかはいまだはっきりはわかっていませんが、笑いにより、ストレスや痛みが緩和されたり、炎症が抑えられたなどの笑いを肯定する症例報告は、すでに多くでてきています。笑うことによって、脳内で多幸感をもたらすといわれるエンドルフィンEndorphinが分泌され、ユーモアや人と接することへの喜びも増すといいます。
笑うことは体全体を使う運動でもあります。30分ずっと大笑いすることは20キロのジョギングに匹敵するとGelotologie の創設者のWilliam Fryは言っています。笑うことで、血行がよくなり、 新陳代謝は促進され、免疫機能も強まり、消化すら助けることにもなります。そして1日に15分から20分間笑うのが理想的とされます。うれしいことに、笑いすぎることで体に支障がでたという話もこれまでなく、療法としても利用されていますが、同時に病気になるまえの予防方法としても今日重視されるようになってきました。
つまり、健康な赤ちゃんはよく笑うとたびたび言われますが、この場合、赤ちゃんが健康だから笑っている場合だけでなく、笑っていることで健康になっているという解釈もできることになります。
他方、笑うことを 健康にいいと評価をしている多くの社会でも、自然な心のうちに好きな場所や状況で簡単に笑うことは許されません。怒りや悲しみなど自然に起こってくる感情をある程度、自分で抑制しながら、行動することが分別ある態度とされ、笑いもまたそこに入るためです。子どもは1日に平均、400回笑うのに対し、大人は15回しか笑わないとされますが、それは、単に大人にとって子どもよりずっとおもしろいと思わないからという話ではなく、社会のマナーとして適切な場所と状況をみて笑うことに意識が強くなり、笑いが、潜在的に 抑制されているとも考えられます。
いずれにせよ、笑わない傾向は、全体的に近年強くなっているようで、ドイツでは40年前はは1日18分笑っていたのが、今日は6分程度といわれます。
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笑いヨガの成り立ち
さて、このような笑いに対する禁欲的な現代社会に挑戦するかのように、「笑い」を積極的に実践する動きが世界的に広がっています。「笑いヨガ(英語でlaughter Yoga, ドイツ語ではLachyoga)」と呼ばれるものです。
笑いヨガは、インド、ムンバイ(ボンベイ)の医師カタリア氏Dr. Madan Katariaが1995年につくったものです。(以下、「笑いヨガ及びユーモア・トレーニングのヨーロッパ職業連合」のサイトを参考にまとめて紹介します。)カタリア氏は、1995年雑誌への記事を執筆するための調査をするうちに、笑うことが健康にいいとする結果が多いことに関心をもちます。そして実際にそれを確かめたいと思い、ある朝、早朝公園に行って5人でお互いにジョークなどを言い合って笑いあいました。笑ったあとの1日は非常に爽快に過ごせたため、「笑いクラブ」と称して、毎日公園で笑い合う活動を始動させます。活動自体は、わずか数日で50人以上が参加するほどの盛況となりますが、他方、笑いのたよりにしていたジョークのほうはしばらくすると、ねた切れになり、人種や性差別的なものや性的なジョークなど、望ましくない傾向のジョークが増えてきます。
これを機に、カタリア氏は、ジョークなしにも人々が笑えるような可能性を新たにみつけなければいけなと考えるようになります。一方、研究や調査を重ねるうちに、人工的に引き起こされた笑い(くすぐるなど、笑うようになんらかの刺激をして笑わせる場合)と本当におかしくて笑うのでは、脳のなかでは全く違いがなく、どちらの場合も幸福感をもたらすエンドロフィンが脳から分泌されることがわかります。このため、これまでの理由をつけて笑うことにこだわっていた発想を180度変えて、「理由なく笑う」ことを目指すようになります。そして、妻でヨガ教師のMadhuriさんといっしょに、ヨガの呼吸法とストレッチと笑いの顔の表情や動きをする練習などをとりいれた、全く新たな笑い方を考案しました。
一般に「笑いヨガ」と呼ばれるこの方法は、できてからこれまでの20年間で、インドや国境をこえて世界に受容されるようになり、現在までに、 日本を含め100カ国以上の国で総計 6000以上の「笑いクラブ」と呼ばれる結社がつくられ、日々、その方法を用いて笑いが訓練、実践されるようになったといわれます。
トレーニングをして好きな時に笑う
具体的な笑いヨガの方法については、いろいろな形でインターネットでも紹介されており、それらを見ると、誰でもいつでも簡単にできることを目指したわかりやすいものであることがわかります。一言で言えば、深呼吸で体に十分な空気を取り入れ(肺の容量が広がれば、笑う身体的な力も増すのと、上半身をリラックスさせ効果があるため)、大きな声を出しながら手をたたき、体を動かし、気持ちを高揚させ、大きな笑いを自分で作り出すようにするということのようです。
しかし、動作は簡単にわかっても、一人で始めるのはかなり抵抗があります。また、笑いは人にうつるものでもあるので、ほかの人といっしょに練習するほうが成功率もあがり楽しいようです。このため公園や室内に定期的に集まって、 訓練や実践を続けている人が多いようです。笑いヨガの教師によると、はじめは無理して作り笑いしているのが、だんだん自然に自笑えるようになり、笑うだけでなく楽しい気分にもなっていくというプロセスになるといいます。
笑いヨガでの最も大きな特徴で、従来のユーモアや笑いの療法と大きく異なることは、笑いを、スポーツのようにトレーニングで鍛えられるものだと定義している点でしょう。コメディーやジョークなどなにかがおかしいと認知した反応で笑うのではなく、ジムへ行って自分の体を鍛えるように、体を使って自分を笑えるようにトレーニング(訓練)する。これによって理由がなくても自分で笑いたいときに笑えるようにする。そして最終的に(笑いによって)自分の気分を、自分の望むようなものになるようにする、という大変ユニークな考え方です。
高齢者と笑い
創始者によると、笑いヨガが最も力をいれているのが、活動全般が縮小し、体力も減って、笑う機会が減少していく高齢者への適用だといいます。 インドの笑いヨガをやっている人の多数が中高年から高齢者で、笑いクラブがはじまったのも、退職者が多く集まる朝の公園からでした。
高齢化が進むヨーロッパでも、 お金もほとんどかからず、高齢者の健康効果が望める、笑いヨガに最近注目が高まっています。スイス最大の高齢者のための多様なサービスを行っている半民半官の組織で100年の歴史を誇るPro Senectuteが主催する地域的な催しをみても、安価で受講できる笑いヨガの講座を最近よく目にするようになりました。高齢者の健康維持・推進、特にうつ病予防・改善の効果が期待されているようです。
ドイツでも、高齢者の「失われた笑いを活性化し」、再び 「喜びを感じられる」ようにし、「うつ病や孤独感に対する強力な対抗手段」とするべく「おばあちゃんがまた笑った」というプロジェクトが昨年9月に立ち上げられました。2016年11月までの約1年の間で、この笑いヨガを推進するこのプロジェクトに630人以上が参加したといいます。その実績がみとめられ、2016 年のドイツのソーシャルワークの奨学制度のプロジェクトに選ばれました。
終わりに
今回は笑いヨガだけを取り上げましたが、もちろん 、笑いを用いた治療はこれだけではありません。コメディーやジョークを聞くなどクラシックな方法で笑う治療法、あるいは専門的なセラピストによるクラウン(道化)やパペット人形を使った訪問など色々あり、様々な現場で色々な方が関わって、笑う機会の少ない病気や高齢者の方々への地道な治療や個々の努力がつづけられています。
笑いヨガのなによりも大きな功績は、理由もなく笑うことを是認することや、具体的に新しい手法を編み出すことで、笑うことへの従来の発想を崩したことではないかと思います。これによって、笑いに対する社会の考え方全体が柔軟になり、また笑いヨガに刺激されて、今後、さらに場所や年齢、精神状態やモチベーションに合わせて、自分を楽に笑わせることができる新たな発想や手段が次々あらわれることになるかもしれません。そうなれば、もしかしたら数十年後の未来には、今の時代のわたしたちが考えられないほど、大人も子どももよく笑い、また笑うことで、健康で充足感をもつ人が多い時代になっているかもしれません。笑いヨガの興隆に、そんな期待がふくらんできます。
なにはともあれまずは、たくさんの笑いに包まれる素晴らしい新年を、みなさまがお迎えになられますように。心からお祈り申し上げます。
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参考文献
——笑いヨガについて
笑いヨガ及びユーマトレーニングのヨーロッパ職業連合Europäischer Berufsverband für Lachyoga und Humortrainingの公式サイト
Sandra Büch, Lachyoga? Kein Witz - das gibt’s!, Puls, SRF, 2.2.2016.
Die 4 Schritte im Lachyoga, Sabine Vogel(2016年12月8日閲覧)
Maria Wiesner, Ein Abend beim Lachyoga Lachen auf Befehl, Frankfurter Allgemeine, 14.6.2014.
Nina Leßenich, Lach-Yoga: Vom künstlichen zum echten Lachen, Aachener Zeitung, 15. April 2015.
Michelle Ostwald, Lachclub Mitte Heiter hüpfen beim Lachyoga, Berliner Zeitung, 06.02.15.
Lachyoga, Wikipedia (Deutsch)
——笑いについての学際的な研究
Burkhard Strassmann, Unglaublich komisch, Lachforschung, 20. April 2011 DIE ZEIT Nr. 17/2011
Gelotologie “Lachen ist Joggen im Sitzen”, Interview mit Michael Titze, Spiegel Online, 17.1.2014.
——高齢者への笑いヨガセラピーの取り組み
Lachyoga mit Senioren (英語とドイツ語、2016年12月10日閲覧)
Lachyoga mit Seniorinnen und Senioren (Download-Video-Datei)(2016年12月10日閲覧)
Cornelia Leisch - Lachtraining and Humor-Coaching, Oma lacht wieder, Stiepndiat 2016, Start Social, Hilfe für Helpfer.(2016年12月9日閲覧)
—-笑いヨガ以外の笑いを用いるセラピーについて
Lachtherapie, Yoga Vidya (2016年12月8日閲覧)
Christine Schulthess / Daniel Hilfiker, Kann ich Humor lernen? , Puls, SRF, 22.2.2013

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


戦争を伝えるメディア 〜フランスとドイツにあらわれた娯楽メディアの新しい手法

2016-12-14 [EntryURL]

今年のドイツの意外なベストセラー

今年ドイツでは、意外な本がベストセラー1位となり、人々を驚かせました。90年前に初版が出版されたアドルフ・ヒトラーの著作『わが闘争』です。ただし、今回ベストセラーになったのは、原書の再版ではなく、学問的で批判的な解説をつけた新しい版です。戦後この本の著作権を所有していたバイエルン州は新しい版の出版を一切禁じていました。しかし著作権が2015年末をもって切れたのを機に、ミュンヘンにある現代史研究所が、原書に関連する歴史的・社会的な背景や、事実関連の正誤を明確にした補足説明を加え、今年はじめから出版する運びとなりました。

当初、研究所もこれほど反響があると全く想定していなかったそうで、最初の発行部数もわずか4千部にすぎませんでしたが、販売開始するとまもなく注目が殺到し、版を次々重ね、4月までに8万部が売れて、一時期はドイツの主要な書籍ベストセラーリストであるシュピーゲルベストセラーで一位にまでなるほどでした。

問題の著作が世の中に公式ルートで出回ることに対して、懸念を示す意見や批判の声は根強くあります。しかし、現代史研究所の所長で、今回のプロジェクトを率いたヴィルシンク氏Andreas Wirschingは、予想外の反響に驚きつつも、多くの人が興味をもち読もうとしていることは、喜ばしいこととします。そして、3500箇所の脚注がある2千ページ近い分厚い2巻の高額(59ユーロ)な学術書を購入するのはもっぱら、当時の歴史や政治に学術的な観点から興味をもつ人々であると推測しています。今日、ネオナチが批判的な注釈などが入っていない原書を手に入れたいと思えば、インターネットでいくらでも手にいれられるためです。

一方、社会へのポジティブな影響のほうを期待し、評価する動きもあります。ライプニッツ協会と財団連合は、新しい版を、事実を歪めて盲目的に崇拝する社会の一部の雰囲気を払拭、牽制しようとする真摯な学問的な取り組みと評価し、社会に貢献する学問に授与する学術賞を研究所に今秋、授与しました。

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本のレイアウト例。青い部分が原文で、ほかの紙面は、脚注やほかの補足説明で占められています。


娯楽メディアと戦争モチーフ

ヒトラーの著作の扱い方に対し、戦後70年たったドイツで、いまだに意見が割れ、戸惑いや反響が大きいことが端的に表しているように、戦争のない時代や場所で、そのことをどう伝えるか、教えるか、どのように学ぶことがのぞましいのかは、非常にデリケートなテーマであり、一筋縄ではいかない問題です。

一方、戦争についての報道・伝達を主意にしていない娯楽メディア(一般に楽しむためのメディア)が、間接的に戦争について考えるきっかけをつくることもあります。今回は、フランスとドイツで第一次世界大戦と第二次世界大戦を、新たな視点や、一風変わった趣向で捉えたことで、近年、話題になっている娯楽メディアについて、それらが引き起こす効果やその反響について特に注目しながら、紹介してみたいと思います。

ボードゲームを通じて知覚する戦争

最初に紹介するのは、フランスで作られた第一次世界大戦を前線の戦いをモチーフとしたボードゲーム「Les Poilus(第一次世界大戦時のフランス人の前線で戦う兵士を指す言葉)」です。ゲームを、実際にあった壮絶な戦争を伝えるメディアとして捉えること、またはそのようなモチーフをゲームにすることに、少なからぬ違和感を抱かれることは多いことでしょう。フランスにおいても、 「大戦争la Grande Guerre 」と呼ばれ、第二次世界大戦よりもはるかに多くの犠牲者を出した第一次世界大戦の前線をテーマにしたゲームへの抵抗感は強かったようです。

そのため 、ゲーム説明書の冒頭で、ゲームの意義について異例の言及がされています。まず「ゲームは、本や映画と同様に文化の表現形態のひとつであり」、「ゲームで扱うことができないテーマはない」と書かれ、「そうはいっても、ほかのテーマよりも扱いが難しいテーマはあり、前線の兵士の体験もそのひとつであろう」と続きます。そしてゲームの作成にあたり、常に前線の兵士たちの苦しみを常に意識と敬意をもち、それらが損じられることがないゲームにするよう努力したこと、またゲームにでてくる6人の兵士のなかには実際に実在に前線に向かった人も含まれており、その人たちは、ゲーム作成チームの人の祖父であることにも言及されています。そして単なる娯楽ゲームであるのではなく、厳しい戦況を生き抜いた人たちを100年たった今日も忘却の淵に沈ませまいとする思いをゲームに込めていることが前面にだされています。

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しかしなによりこのゲームの戦争を伝えるメディアとして、重要な特徴的なのは、ゲームの中身です。現実の戦争をモチーフにしたゲームはこれまでいくつも存在しますが、個々の兵士の状況が見えないマクロな視点で 捉えた戦略・戦術が中心テーマで、戦争の勝敗がゲームの勝敗であるものが一般的でした。しかし、今回のゲームでは、国どうしの戦争の勝敗を象徴するようなものは全く見当たりません。前線の兵士の目に映る戦場の風景と過酷な条件だけがゲームの構成要素で、友情につながれた仲間全員が無事生還できるかというただ一点だけがゲームの勝敗を決める、全員協力型のゲームです。

前線の兵士は、物理的にも心理的にも多くの困難に遭遇します。困難は、爆撃や毒ガスのような敵からの攻撃から、 寒さや雨のぬかるみ、またパニックや恐怖心などの精神的な打撃まで様々あり、それらはモラルの低下につながります。これに対し、お互いへの声の掛け合いで励まし合ったり、負傷がひどい仲間のだれをいつどのように助けるべきかを決断し、戦争終結までなんとかモラルを完全に喪失せずに持ちこたえられたらゲームに勝つことになります。しかし、ゲームの進行にあわせて状況は好転するよりはますます 厳しくなっていくのはまぬがれず、 勝つのが非常に難しいゲームになっています。

このゲームは、昨年エッセンで開かれた世界最大のボードゲームのメッセで、まだドイツ語版がなかったにもかかわらず、大きく注目されました。今年後半から、フランス語、英語版に続き、ドイツ語版もやっと流通するようになったのですが、取り扱っている販売店によると、売れ行きはかなり好調だといいます。

高い評判と注目は、なにより協力型ゲームとしての高い完成度によるところが大きいといえますが、兵士の直面するリアルな状況や厳しい条件がゲームのなかで再現されているおかげで、第一次世界大戦の前線での戦いについて新たな形で思いをよせるきっかけにもなると考えられます。少なくともこのゲームについてのこれまでの批評では、個々の前線の兵士が直面した困難さがゲームのなかでうまく再現されていて、強い印象を受けるゲームだというコメントが、目立っています。ゲームの人気とともに、フランスにとどまらず国境を超えて、過酷な状況を耐えていた兵士たちに考えをめぐらす機会が、徐々に生まれるでしょう。100年前に戦った相手国で、現在はボードゲーム大国であるドイツの国民が、フランス人の兵士となってプレーするというのも、娯楽メディアならではの光景で印象的です。

小説と映画の新しい手法

もうひとつ、戦争を伝える新たなメディアとして、近年評判となっている小説での新たな試みをあげてみます。ヴェルメス氏Timur Vermesの『帰ってきたヒトラー(邦題)』という小説です(原題は『あいつがまたそこにいる Er ist wieder da』)。小説で戦争をとりあげること自体はもちろん珍しいことではありませんし、本書はドイツの歴史を考える上で避けては通れない人物ヒトラーが現代のドイツ、ベルリンに蘇り、珍道中を繰り返しながら人気コメディアンとして成功していくという、あらすじを聞いても、とりたてて特別には思えません。しかし本書には、作用の効果や副作用が書かれた処方箋つきの薬のように、この本を読みはじめると読者は(少なくともドイツ人の場合)、読書をただ楽しむというわけにはいかず、おだやかならぬ感情や後味をあじわうように意図さているのが特徴です。

具体的には、作者は前書きで、読者は次第に「ヒトラーを笑っているつもりだったのに、いつのまにかヒトラーと共に笑っている」ことに気づくようになると警告しているとおり、読者は喜劇仕立ての筋書きを楽しんで読み進めるうちに、笑っている自分自身に次第に違和感や困惑が生まれ、笑いながらも不安な気分にかられるようになるというものです。そして、作者は、そんな交錯のなかで、「つらい気分に頻繁になればなるほど、いい兆候」(Bücker, Die Welt, 28.08.2014)だともいいます。

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昨年公開された小説をもとにしたDavid Wnendt監督の同タイトルの映画では、ショック療法をさらに一歩進めるような挑発的な演出になっています。ヒトラーの格好をした役者がドイツ各地をまわり、人々の反応をみるというフェイク・ドキュメント(どこまでがフィクションでどこからが本当の話かわからないようになったドキュメント風の作り方)が組み込まれていて、そのヒトラー(役)にあからさまに親しみを示す人々が大勢でてくるのを、映画館の観客たちは、目の当たりにすることになります。それに唖然とする一方、もしも自分がヒトラーと同じ時代に居合わせていたらどう対処する、できるのだろうと自問し、自分の心の内部や思考回路を自分自身で総点検させられることになります。

こんな芝居は全く非現実的で一面的であり、それにつきあうなんてナンセンスだ、と切り捨てることは簡単ですが、そういうしかけをあえてつくることで、これまで他人事、過去のこととして戦争の勉強をしていたのと全く異なる、どきっとするほど切実な感覚と近い距離感で戦争や独裁者について考えるきっかけになるとすれば、全く荒唐無稽で無意味だともいえないでしょう。

少なくとも、ドイツ人の多くの人にとって、戦後70年を経た今日でも、このようなトリックを内包する小説や映画の存在を無視したり、気にしないでいるのは難しかったようです。2012年10月のフランクフルトのブックフェアでこの本が発表されたあとすぐ、 20週間のベストセラーリストで一位を記録し、2015年8月までに2百万部が売れています。さらに映画は、240万人の観客がドイツの劇場で鑑賞しており、いくつかのヨーロッパやドイツの映画賞の受賞や候補にも選ばれています。

おわりに メディアがつむぐ過去、現在、未来

ヨーロッパの現在の現実社会に話をもどしましょう。現代が100年や、70年前の戦争の時代から大きく隔たっている時代だと思うと、改めてほっと安心できる気もします。が、本当にそうでしょうか。

ボードゲーム「Les Poilus」で 兵士たちを個性的に描き生き生きと蘇らせたイラストレーターのティヌスTignous(本名Bernard Verlhac)は、ゲームのイラスト原稿を仕上げたわずか10日後の2015年1月に、パリで風刺週刊誌『シャルリー・エブド』の編集会議中襲撃され、同僚ら11人とともに犠牲となりました。

また、ヒトラーは架空の世界でよみがえっただけでなく、現実の世界でもいまだ生きているかのような大きな存在力を依然保持しています。独裁者の思想に傾倒する極右グループの活動は、ヒトラーの死後の70年の間で衰えるどころか、ドイツ特有な現象といえなくなるほど、世界中のあちこちで活発になっているようにさえ見受けられます。

他方、今年は、フェイク・ニュースの伝播やソーシャル・ボッツの攻勢が目立ち(詳細は「デジタルメディアとキュレーション 〜情報の大海原を進む際のコンパス」をご参照ください)、メディアは、 歴史や現代の社会についての理解やそこでの関心を変えたり、部分的に強めるという、直接的で大きな影響力をもつ可能性が鮮明になりました。

今後も新たなメディアや、凝ったメディアの手法が次々登場するのでしょうが、現代の生活でメディアなしが考えられない以上、人を偏狭な見方に差し向けるメディアに押されず、様々な考えや世界観を提示する多様なメディアが並存、存続するような社会で、ありつづけてあってほしいと思います。

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参考サイト

——批判的注釈付きのヒトラー著『わが闘争』について
現代史研究所のこのプロジェクトについての説明

„Mein Kampf” in der öffentlichen Diskussion, Institut für Zeitgeschichte

Jürgen Kaube, Das Wort hat Adolf Hitler, Feuilleton, Frankfuter Allgemeine, 09.01.2016.

Mark Siemons, Neuauflage von „Mein Kampf” Ist Hitler nun endlich erledigt?, Feuilleton, Frankfurter Allgemeine, 17.01.2016.

Dagny Lüdemann, “Mein Kampf” ist wieder Bestseller, Zeit Online, 28.2.2016.

“Zerhackter Text”, Interview mit Andreas Wirsching, Der Spiegel, 16.4.2016.

Mein Kampf: Nummer 1 auf der „Spiegel”-Bestsellerliste, Cover Media, 18.4.2016.

“Mein Kampf”-Team ausgezeichnet, Institut für Zeitgeschichte, 24.11.2016.

——ボードゲーム「Les Poilus(英語のタイトルThe Grizzled)」について
ゲーム「Les Poilus」の公式サイト

Tom Felber, Psychologische Kriegsführung, NZZ, 16.9.2016.

Andrew Smith, The Grizzled Review, Board Game Quest, Aug 2, 2016.

Jaob Englebrecht-Gollander, Review: The Grizzled, 26.Nov.2015.

Essen 2015 - Les Poilus - The Grizzled, Spielteufels Blog. unknown.de, 16.10.2015.

Monsieur Guido, Freundschaft ist stärker als der Krieg, Tric Trac, 23.3.2015.

Les Poilus. The Game - mit Thema!, Spielkult.de (2016年12月8日閲覧)

Les Poilus/The Grizzled. eine Spielerezension von Jörn Frenzel, Reich der Spiele, 05.01.2016

——ヴェルメル著『帰ってきたヒトラー』(小説と映画)について
Timur Vermes im Interview: Er ist wieder da - Adolf Hitler ist nicht komisch, Literaturcafe.de, Beitrag von 28.11.2012, Rubrik: Buchkritiken und Tipps, Frankfuter Buchmesse 2012.

Er ist wieder da, Wikipedia (deutsch)

Hermann Weiß, “Er ist wieder da” Das Buch, das abgeht wie Hitlers Hund, Welt, 27.1.2013.

Wolfgang Höbel, Unvorstellbare Witzfigur, Spiegel Online, 11.3.2013.

«Er ist wieder da» - Hitler, eine Witzfigur?, SRF Kultur, 4.4.2013.

Kerstin Bücker, Warum wir über Hitler auch lachen sollten, (Interview mit Timur Vermes), Die Welt, 28.6.2014.

Timur Vermes, Timur Vermes’ Hitler-Satire wird verfilmt, Focus Online, 14.03.2013, 12:35

Christian Buß, Hitler-Groteske “Er ist wieder da” Vorsicht, Witz mit Bart, Spiegel Online, 7.10.2015.

Sophie Albers Ben Chamo, Ich sehe Deutschland jetzt anders”, “Er ist wieder da”-Regisseur David Wnendt, Stern, 9.10.2015.

Michael Hanfeld, Der Adolf in uns allen, „Er ist wieder da” im Kino, Feuilleton, Frankfuter Allgemeine, 3.11.2015.

Jörg Albrecht, Der Führer ist zurück, Deutschlandfunk, 7.10.2015.

Daniel Kothenschulte, “Er ist wieder da” Lachen über Hitler? Nur wenn’s lustig ist, Frankfurter Rundschau, 7.10.2015.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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