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自由な生き方、自由な死に方 〜スイスの「終活」としての自由死

2019-05-18 [EntryURL]

寺田修二とスイスの接点

演出家の寺田修二の著作に『自殺のすすめ』というのがあります。この本で寺田は、世間で一般的に言われている「自殺」は、まわりの人や環境に追い詰められて自分が殺されることであり、自殺というより他殺であり、そのような社会関係や環境の影響を受けずに、自分の意思で、死ぬことこそ、「自殺」なのだ、と主張しています。

ところで、スイスでは数年前から、自殺ほう助の自由化(自殺ほう助の条件の緩和化)について、社会で広範に議論されています。すでに一定の条件下で自殺ほう助が認められているスイスですが、自分の死の在り方を、自分でできるだけ自由に決めたいという切実に思う人が増えており、そのための手段として、自殺ほう助に期待する声が高まっているためです。自殺ほう助の自由化を推進する人たちの思想をみると、寺田が提示する自由意志に基づく「自殺」という考えに、重なる部分があるように思われます。

ただし、アプローチ方法はかなり異なります。寺田が一個人の問題に還元し、自分の意志で完結する自由な死に方を想定していたのに対し、スイスでは、人間の権利の(死の領域まで)拡張することで、それを社会の合法的なシステムとして、それを未来の社会で公認する、死に方の選択肢の一つにしようとするものです。

今回と次回の記事では、今のスイス社会で問われているこのような切実な問いと、それに答えを見い出そうと、交わされている議論の中身を置ってみたいと思います。

これまで扱ってきたコラムとはかなり毛色の違う重たいテーマですが、人の死を直視してなにかを論じることは、どの社会でも、長い間、タブーに近かったですが、超高齢化が、急速に展開している先進国の国々では、高齢の生き方だけでなく、死についての考え方や状況も、これまでと大きく変わりつつあります。日本でも「終活」と言った表現の仕方で、積極的に、自分の人生終末期までの様々なテーマを避けずにむしろ扱う姿勢が強くなってきており、今後は、さらに、より深く自分の死の問題に踏み込んで、考えていく動きが強まっていくかもしれません。

スイスでの終末期の選択肢や制度、またこれについての現在の議論を大観することが、日本での類似するテーマにおいての議論や理解の一助になればさいわいです。

合法の自殺ほう助

最初に、スイス社会における自殺ほう助のあゆみについて、簡単に概観しておきます。

スイスでは、利己的な理由で人に自殺をうながしたり、自殺ほう助を行なった場合に処する法律がありますが(刑法115条)、利己的な目的ではない自殺ほう助は、処罰の対象になっていません(ただし容認する法律が特にあるわけではありません)。

このような状況下、スイスでは1984年に、世界に先駆けて、自殺ほう助する公式な非営利団体が設立されます。そしてそれ以後、自殺ほう助を希望する人は、自殺ほう助団体を通じて、合法的に(正式には処罰の対象とならないことが法的に認められているのにとどまりますが)、自殺ほう助されていくようになりました。

このような団体の存在は、設立当初は社会でも多くの物議をかもし、反対勢力も強くありましたが、35年以上たった現在においては、社会で広く公認される存在となっています。2011年チューリヒ州の住民投票はそのことを端的に示す一例です。84.5%という圧倒的多数が自殺ほう助を支持(正確には、自殺ほう助の禁止案に反対)する側に票を投じました。

近代以降、欧米を中心として人々は、自由に生きる権利を求め?、その範囲を拡大させてきましたが、この自由に生きる権利を、自分の終末期にまで拡張して考え、そこで個人はどのような権利を有するのか、有するべきか。そして、この「自分の死についての」権利の行使を、自殺ほう助という、現在の日本からみると極めて急進的なやり方で、スイスでは多くの人に支持・許容される形で、社会で公的に合法化する制度としてスイスは整備してきたのだと言えます。

もちろん、現在も、これに反対する人がいないわけではありません。例えば、カトリック教会自殺ほう助を真っ向から否定する立場を表明しています。しかし世俗化が顕著にすすんでいるスイスにおいては(例えば、2017年の調査では、スイスのプロテスタント教徒もカトリック教徒も、宗教が重要だと考える人や実際に祈祷などの宗教的な行為をする人が1割か未満にとどまっていました。これは欧米のほかの国と比較しても、かなり低い割合でした(「対立から融和へ 〜宗教改革から500年後に実現されたもの」)、宗教界の社会への影響力は、わずかと考えられます(Mijuk, 2016)。

ちなみに、プロテスタント教会は、自殺ほう助の支持こそしていませんが、最初に作られた自殺ほう助団体の共同設立者の一人はプロテスタント教会の牧師でしたし、個人的に自殺ほう助への理解を示したり、退職後に関わる教会関係者が、これまで少なくありませんでした。2016年以降は、ローザンヌを州都とするフランス語圏のヴォー州の教会を皮切りに(Rapin, 2017)、いくつかの州のプロテスタント教会で、牧師たちに、自殺ほう助を選択した人々に最後まで寄り添うことを薦める方針が打ち出されるようにもなっています(Reformierte Kirchen, 2018)。

自由死を求める若い高齢者層

ただし、現在社会的なコンセンサス(合意)となっている「自殺ほう助」とは、差し迫った健康上の理由がありやむをえない人々を対象にした自殺ほう助に限ったものでした。これに対し、差し迫った健康上の理由がない(終末期にいなくても)人々にも自殺の自由を認めることを求める声が、近年、増してきています。

そのような世論は、通称「ベビーブーマー世代」と呼ばれる若い高齢者たちによって、とりわけ押し上げられています。ベビーブーマー世代とはどんな人たちなのでしょうか。簡単に紹介してみますと、ベビーブーマー世代は、1945〜65年ごろ、ようやくヨーロッパに平和がおとずれてまもない時代に生まれ育ち、右上がりに経済成長する社会で栄養状態もよく健康に育ち、1968年には若者として権威主義的な社会構造に対決し、その後も社会の改革を目指してきた世代です。

この世代は、それまでの高齢者たちと、健康状態や教育水準、家族との関係など、ライフスタイルの様々な側面において顕著な違いがあるとされます。発達心理学者で高齢者研究でも名高いペリック=ヒエロPasqualina Perrig-Chielloは、これまでの高齢者(現在約80歳以上の高齢者)がなにをしてもいいかを考える世代であるのとは対照的に、新しい高齢者たちは、どこまでなにができるかを追求する世代だ、と端的に表現しています(「現代ヨーロッパの祖父母たち 〜スイスを中心にした新しい高齢者像」)。

この世代の人たちは、これまで歩んできた時代のなかで、社会やだれかに意見を押し付けられるのを嫌い、自分で決めることに高い価値を置くことを重視する、人生観や価値観を保持、つらぬいてきました。

そして、その延長上において、彼らは、自分の死に方についても、自分で決められることを重視し、その一環として、高齢者で、自分の死に方を決める自由度を高めるべきだと考えます。そして、そのような自由の裁量から自分で死を選ぶことを、「自殺」とは言わず、「自由死」という言葉で表現します。具体敵には、若い人の自殺ほう助の際に不可欠とみなされている必要な医学的な審査を簡略化し、強い痛みについても厳しい証明を必要としないようにするなど、現行の自殺ほう助の条件を緩和することを求めます。

換言すれば、ベビーブーマー世代が高齢になる今の時代だからこそ、「自由死」が、問題になってきた、という言い方もできるでしょう。

2014年にスイスの三つの語学圏(ドイツ、フランス、イタリア語圏)の1812人の55歳以上の人を対象に電話で行なった調査によると、4%がすでに自殺ほう助団体の会員となっており、さらに今後会員になる意向の人たちは、8.5%でした(Obsan, 2014)。また実際に、2014年に自殺ほう助を受けた742人の94%という圧倒的多数が55歳以上でした。これらの数字は、高齢者の間で、自殺ほう助について、かなり関心が高いことをうかがわせます。

「自由死」を望む主要な理由

ところで、差し迫った健康上の理由がない人たちが、自然の寿命よりも早く終末期をむかえなくてはいけない状況とはどのようなものでしょうか。想定される具体的な状況は、主に以下の3ケースあると思われます。

苦痛を避けるため
まず、これまでの自殺ほう助の理由でもあった、物理的な苦痛の忌避です。これまで、ほかの世代の同年齢の頃に比べ、良好な健康状態を保ってきたベビーブーマー世代であるだけに、健康状態の悪化を危惧する気持ちがことのほか強いのかもしれません。

しかしこれについては、2010年代以降、緩和ケアを行う施設も増えており、実質的に緩和ケアが、有力な代替案として置き換えられる可能性があるでしょう。スイスのホームでは、25%が、自分たちの核となる課題として、理想として緩和ケアを掲げ、実際にホームの40%が緩和ケアを実現かするための取り組みを現在しています(Seifert, 2017, S.15)。ちなみにここでの、緩和ケアとは、単なる痛みの緩和だけでなく、医学、介護、社会的、宗教的、心理的なケアも含めた包括的なものをさします。

スイスよりも早くから緩和ケアに取り組んできたドイツの医師すべてに配布されている週刊誌『ドイツ医師報』には、三人の緩和ケア専門医師が、自殺願望のある患者の気持ちやその対処について、包括的にまとめているので、以下、抜粋してご紹介してみます。

緩和ケアではあまりないが、患者が、死にたいと言うことがある。しかしこれには、慎重に対処すべきである。一方で、医者が患者よりもよくわかっていると考え、患者の苦悩や絶望をしっかり捉えていない危険があるので注意しないといけない。他方、重い病気をかかえる患者がそのようなことを伝えてきたからといって、必ずしも、それは死を切望しているのではなく、堪え難い状況を終えたいという希望である場合が多い。ほかの人に迷惑をかけたくないという人もいる。そのようなテーマをタブーにしてはならず、医師や介護スタッフやほかの関係者でチームとして、そのような希望を聞き、取り組むべきである。死の願望の表明は、むしろ、信頼のあらわれとみることもできる。そういうことを考えていい、話せる、ということだけで、患者の気持ちはずいぶんらくになり、緩和チームと患者との関係を豊かにするものともなりえる。死の願望は、それだけを単独でみるのでなく、二つの相反する価値を同時に含んでいる状態を示しているとみることができる。そこから、二つの希望、もうすぐ人生を終えたいという希望ともっと生きたいという希望が並存しているという状況が生まれるかもしれない。緩和ケアは、死にゆく人々を最善の形で支援すること、同時に死ぬことを阻止するのではない。緩和ケアは直面する死における助けを提供するが、死への助けではない(Friedemann, 2014)。

人生の総決算として
目前に迫る苦痛を回避するということよりも、「もう十分生きた」という人生への充足感や、将来予想される自分がのぞまない状況全般を回避したいといった思慮から、「自由死」を望む場合もあります。この場合、人生末期への悲観(希望がもてないこと)と、それを未然に防ぎたいという、二つの強い考えが、とりわけ大きな影響を与えているようです。

雑誌『シュヴァイツァー・イルストリエルテ』が1004人を対象に電話で行ったアンケートで、自分が認知症になったら「自由死」(スイスの文脈でいうと「自殺ほう助」など意図的に死期を早めることを意味します)を選ぶことを想定できるとかという質問には、43%が「はい」と回答しています。また、認知症に対する悲観的な見方が、年齢が上がって来るほど強まっていました。認知症になっても生きる価値があるか、という質問に対して、価値があると回答した人が、55歳以上のスイス人で49%で、若い世代(35歳から54歳が54%、15歳から34歳が69%)に比べ、最低の割合でした(Enggist, 2016)。

このアンケート結果をみると、認知症をのぞましくないものととらえ、それが進行する前に、自分で死を決断するのがよいと(少なくとも想定)する人が、特に高齢者にかなりいることがわかります。このような志向は、「自由死」の同義語として、しばしば使われる「総決算の自殺Bilanzsuizid」という言葉にも表れているように思われます。この言葉には、人生を長い帳簿になぞらえ、総決算をマイナス決済で終わらせたくない、そのために、事前に自分で人生を終わらせる、というニュアンスが感じられます。

経済的な配慮
チューリヒ大学の社会学者ヘプフリンガーFrançois Höpflingerは、健康、教育、経済状況にも恵まれてきたスイスの若い高齢者世代は、現在、経済的に自立しているのが一般的だが、今後、介護が必要になると、年金や貯蓄が十分ではなくなり、良好な状態が急激に悪化することもありうる。そして、実際にそのように高齢者にも認識されている。しかし、自分たちが病気や介護が必要になることで、これまではなかったような家族への財政的な重荷となることは避けたいと考える人は多く (Wacker, 2016)、そのような人たちにとって、自殺ほう助という考えがちらつくことは考えられる (Kobler, 2015.)、といいます。

個人的な経済的な状況が要因となって、自殺ほう助に気持ちが傾く可能性があるというこの指摘について、自殺ほう助団体の中では意見が別れています。エグジットでは、自分たちの顧客には、経済的な考慮は全くなんの役割も果たしておらず、自分たちの人生の最後を自分で決めたいという強い意思を本人や有しているかいなかが問題だ(Wacker, 2016)とするのに対し、デグニタスのミネリは、ホームで希望もなく長期滞在するのを回避し、それに必要な費用を、孫の教育費用に当てたいという人がいれば、「それは分別があり賞賛に値する」と、むしろ肯定しています(Gute Arbeit, 2012)。

まとめ

自分の死に関する権利(自由に決められる裁量)を拡大し、終末期でない人々も自殺ほう助が受けやすくなることを要望する人々の動向について今回まとめてみました。

一方このような、自殺ほう助の自由化の議論は、社会に新たな波紋を広げています。これまでは、自殺ほう助について、社会で一定のコンセンサスを得ているようにみえていましたが、今は、むしろ、自由化の圧力を前に、戸惑いや意見の割れが目立ってきたように思われます。

次回は、このような最近、目立つ、戸惑いや躊躇する人々の動向にも目を向け、全体として、自由な死の議論が、スイスで具体的にどのような展開を現在しており、今後、どこへ向かおうとしているのかについて、さらに探っていきたいと思います。
※参考文献・サイトは、次回の記事の後に一括して掲載します。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


若者の目につくところに公共放送あり 〜スイスの公共放送の最新戦略

2019-05-05 [EntryURL]

マスメディアはもはや不要?

世界的にソーシャルメディアをはじめとするネット上の多様なコンテンツにおされて、伝統的なマスメディアの利用が減っていますが(Qualität der Medien, 2016)、この傾向は、スイス公共放送のテレビやラジオの視聴にも如実に現れています。2016年のスイスのドイツ語圏では、日々、240万人が視聴していますが(民間放送は140万)、これは2000年と比べると60万人少なくなっています (Brupbacher et al., 2017)。視聴する人の年齢が顕著に高齢化していることも最近の特徴です。スイスの公共放送の第一報道局(スイスのテレビ、ラジオのメイン放送局、時事問題を主に扱う)の視聴者の平均年齢は60.8歳です(ちなみにスイス全体の平均年齢は42歳)(Tobler, 2018)。

一方、昨年の公共放送のネット視聴状況をみると、ネットでの視聴は年々増加しており、全く違う現象があらわれていることになります(スイスの公共放送のコンテンツはラジオもテレビもほとんどネット配信されています)。この二つの現象、減る(テレビとラジオの)視聴と増える(ネットの)視聴は、どう関係しているのでしょう。

今回はスイスの公共放送をめぐる最新の動きについてみていき、そこでの戦略や特徴について概観してみたいと思います。

アクセスできるツールを増やす戦法

スイス公共放送は、2007年はじめから、ユーチューブのチャンネルを開設しており、4月中旬現在、トータルで4213万回視聴されています。

スイス公共放送の発表によると(Beck, 2019)、2018年のユーチューブでの公共放送ビデオのクリック回数は850万回で、1日に換算すると23万3000回になります。視聴された時間をみると、年間で3億5400万分、1日になおすと16160時間公共放送の内容がユーチューブで視聴されました。この視聴時間は前年比で22%の増加となります(Beck, 2019)。

ユーチューブ利用の大幅な伸長について、「公共放送のテレビ番組の未来にとって、ユーチューブは非常に重要になるであろう」とスイス公共放送局長マーヒャントGilles Marchand はコメントしています(Beck, 2019)。

出典:スイス公共放送のユーチューブのサイト


ユーチューブでは視聴者数も視聴時間が増えていることと、同じコンテンツをテレビでやっても視聴者数は減っていることは、矛盾しているのでしょうか。

そうではないでしょう。従来のテレビやラジオでなく、ユーチューブで視聴する人が増えているということであり、もちろん、公共放送をどんな形でもみないという人もいるでしょうが、視聴手段が移行、変化していることのあらわれと思われます。

同じようにコンテンツをユーチューブで配信するようになったドイツの民間放送局RTSでは、前年比で利用者が75%も増え、「ユーチューブはますます我々の二つ目のテレビとなる」(Beck, 2019)と言っています。

この比喩をつかえば、スイスの公共放送においても、第二、第三のテレビ(あるいはラジオ)を整備する、つまり、従来のテレビ、ラジオ以外の形で、人々に使い勝手がいいものをツールにして内容を伝えることが、今後の視聴回数や人を増やす鍵となっている、といえるでしょう。

このことは、わたしがここで指摘するまでもなく、公共放送がすでに理解し実行していることです。すでに、ユーチューブ以外にも、スイスの公共放送は、テレビとラジオ以外の手段でコンテンツを配信することに力をいれており、テレビとラジオでしかみられない番組は、もはやないといえるほどです。

まず、ホームページから番組(過去のものも含め)を視聴できます。スイスの公共放送の公式ホームページの訪問者数は、すでにフリーペーパーと大衆紙の次に多いといった状況であり(Beck, 2019)、ほかのネット関連業者がうらやむほどの多数の訪問者数を獲得していることになります。ほかにもポッドキャストの配信にも力をいれています(「聴覚メディアの最前線 〜ドイツ語圏のラジオ聴取習慣とポッドキャストの可能性」)。毎日夜に30分ラジオで放送されている、ニュース報道「時代のエコー(こだま)」(日本で言えば夜7時のNHKのニュースに相当するような存在)は、2014年、年間250万件のダウンロードがありました。さらにこれに加え、ご紹介したように、ユーチューブでも、主要な番組(すべてではない)が視聴できるようになっています。

スイスの視聴者側からいうと、視聴したい番組の視聴の仕方を、状況に応じて選べる、それが、すでに公共放送の常識になっているということになるでしょう。

ちなみに、ユーチューブと公共放送の関係は、最初からこれほど親密なものではあったわけではありません。むしろ少し前まで、公共放送にとってユーチューブは、視聴者を取り合う商売敵として距離を置く態度がむしろ強かったといえます。しかし、それが最近変わりました。もちろん今も、公共放送がほかのデジタルコンテンツと一面で競合しているという事実に変わりはありませんが、同時に、ユーチューブという報道の「インフラ」を最大限に利用する、つまり、可能な部分では互いに提携し、互いにウィンウィンの関係になるほうがいいという、公共放送において発想の転換があったといえます。

若者層をとりこむ

このようにスイスの公共放送は、すでにネット配信自体は長く行ってきたわけですが、今回、ユーチューブでの視聴がとりわけ増えいるという事実は、ある観点からとりわけ注目に値します。それは、視聴者の世代です。詳細はわかりませんが、ユーチューブは、とりわけ若者が多く消費するコンテンツとされているため、単純に考えて、ユーチューブの視聴が増えたことは、これまで公共放送が従来の形で一番とりこみにくかった若者層が、とりわけ公共放送にアクセスしたということなのでしょうか。

この点公共放送側からの説明がなく、はっきりわかりませんが(公共放送もどこまで把握いているのか不明です)、この話題の伏線として、興味深い事実があります。昨年はじめ、スイスで、公共放送の受信料廃止の是非が問われた国民投票がありましたが(圧倒的多数で廃止が否決され、引き続き受信料を財政源として公共放送が維持されることが決定されました。詳しくは以下をご参照ください「メディアの質は、その国の議論の質を左右する 〜スイスではじまった「メディアクオリティ評価」」)、その時、もっとも受信料廃止に反対する人の割合が多かったのは、(誰も想像すらしていませんでしたが)意外にも若者でした(30歳未満で反対した人は80%以上)。

この選挙結果を素直にとらえるならば、若者は、公共放送をはじめマスメディアから現在は足が遠のいている状況が一方であるものの(「若者たちの世界観、若者たちからみえてくる現代という時代 〜国際比較調査『若者バロメーター2018』を手がかりに」、fög, 2018)、それでいて、若者たちの間で、公共放送は、決して過小評価されているわけではないということでしょう。

若者が一方でニュース離れしているのに、他方で公共放送をどの世代よりも高く評価している。ということは、もしかして、若者がアクセスしやすくなるようなしくみさえあれば、若者にもっとみてもらえるという希望的観測ができるのでしょうか。

若者をひきつけるために、コンテンツをどう変えていくかもひとつの大きな問題とされますが、それと同時に、しかし全く別の問題として、若者の目に届くのはどこか、ということがあり、この二つの全く別の問題をどう最適化できるのかが、一層問われることになりそうです。

ちなみに、若者層をとりこめない、という問題はスイスだけでなく、ドイツの公共放送も同じようにあり、試行錯誤が続いていますが、ふたつの国の現在の方針は大きく異なっています。スイスではそのような独自のものをもたず、ユーチューブやソーシャルメディアなど、すでに若者層に人気があり利用されているものに連結する形で、若者に接近する方針に固まっていますが、ドイツでは、ユーチューブに依存せず、独自の若者向けのポータルサイトを開設することで、若者をとりもうという方針をとっています(Tobler, 2018)。

ユーチューブ側のメリット

さてここまで、公共放送側の発想の転換やメリットについてみてみましたが、ユーチューブ(あるいはその親会社であるグーグル)にとって、このようなスイスの公共放送の動きはどのようにうつっているのでしょうか。

全般に、アクセス数や視聴時間が増え(それられによって様々なデータもまた入手でき)ることは、ユーチューブにとって好ましいことですが、とりわけ、現在、公共放送がユーチューブでコンテンツを配信することは、歓迎されているのではないかと思います。

というのも、EUでは今年4月著作権法の改正案が採択され、将来、プラットフォーマーに著作権侵害のコンテンツを削除することが義務付けらることになり、今後、全般にユーチューブなどでの著作権管理をより厳しくしなくてはいけなくなりましたが、公共放送自らがコンテンツを配信している場合は、高品質で視聴者数が多く集まりやすいコンテンツでありながら、著作権上の問題がありません。ユーチューブにとっては、価値が高いコンテンツをのせてくれるありがたい顧客であるといえるでしょう。

プラットフォーマーやソーシャルメディアと協働するメディアの潮流

公共放送とプラットフォーマーの協働的な関係は、スイスの公共放送に限らず、近年のメディア全体をみても、確かな潮流になってきているようです。メディアの報道の中心がネット上の配信に重心が移っていくようになった今日、競合関係も激しいですが、共有、協調できる部分や可能性がこれまで以上に大きくなっているためです。

提携することで、高品質の報道コンテンツの社会への影響力を広げようとする動きもでてきています。「建設的ジャーナリズム」です。これについては以前何度か紹介しましたが、2010年ごろから「今日のニュースメディアで増えているタブロイド化や、センセーショナリズム、また否定的バイアス」を問題視し、人々に「起きている悪いことや否定的な面を強調せずに、公平に、正確に、また社会的な文脈に関連づけて世界の姿をみせることを目指す」(Constructive Institute)ジャーナリズムの新たな手法としてでてきました(「ジャーナリズムの未来 〜センセーショナリズムと建設的なジャーナリズムの狭間で」、「公共メディアの役割 〜フェイクニュースに強い情報インフラ」)。

今年1月、建設的ジャーナリズムの二回目の国際会議が開催されましたが、そこでの様子をみると、56カ国から555名が参加したこの会議のスポンサーはグーグルで、会議のスピーカーとして、ジャーナリストやメディア専門家だけでなく、国連やユネスコなどの国際機関や、フェイスブック・ニュース主任やグーグルニュース部門専門家が名を連らねていました。また、建設的研究所のパートナーに名を連ねている組織や企業名には、公共放送局やジャーナリストの組織だけでなく、様々な立場でジャーナリズムに関わる団体の名がみられます。

これをみると、よりよい報道のあり方を目指し、世界のメディア関係者(ジャーナリストやプラットフォーマー、ほかの様々な形でメディアに関わる人や組織)が、協力的な関係を築く方向に確かに動きだしているようにみえます。

プラットフォームやソーシャルメディアとマスメディアの連携は、今後、これまで以上に緊密になっていくのかもしれません。消費者にとっても、それが、より高品質のものを簡単に入手しやすくすることであるのだとすれば、歓迎すべき傾向でしょう。

今後も、ネット上にいっせいにならんで競合しあいながら切磋琢磨して進化しつづけるメディアの展開から目が離せそうにありません。

参考文献

Beck, Christian, 85 Millionen Videostarts auf 22 Channels, SRF auf Youtube. In: persoenlich.com, 17.3.2019.

Brupbacher, Marc/ Lutz, Mathias, Das müssen Sie wissen, bevor Sie über No Billag reden. In: Tages-Anzeiger, 11.12.2017, 06:28 Uhr

fög(Forschungsinstitut Öffentlichkeit und Gesellschaft) (Hg.), Jahrbuch 2018 Qualität der Medien Schweiz – Suisse – Svizzera Herausgegeben vom

O’Sullivan, Domhnall, 宇田薫(訳)、公共メディアと若者-ソーシャル世代から支持されるには?、スイスインフォ、2019年3月7日

Tobler, Andreas, SRF kämpft um seine Zukunft. In: Tages-Anzeiger, 16.10.2018, 20:06 Uhr

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


濃厚な音楽鑑賞のすすめ 〜ヨガとコンサートが結びつく時

2019-05-01 [EntryURL]

音楽鑑賞は、今も昔も変わらず、多くの人にとって大きなよろこびですが、音楽をこれまで以上に堪能したければ(つまり音楽体験をより豊かに、充実させたい)、なにをすればいいと思いますか。

スピーカーやヘッドフォンの音質や効果にこだわったり、コンサートホールの音響効果や残音に関心をもったりといった、耳に入る音そのものの伝わり方や環境の最適化を、たいていの人は考えるのではないかと思います。

これに対し、音楽をより堪能するのになにより肝心なのは、自分自身の体の問題であるとする人がいます。ドイツ人シュテフLisa Stepfです。彼女は、音楽を聴く前に一定の準備を体にさせることで、聴くという体験が、全く違う次元のものとなり、濃厚に堪能することができるとします。

発想の転換ともいえる、この人の提唱する「新しい聴く経験 new listining experience」と実際のコンサートの様子について、今回、取り上げ、その体験としての特徴について考えてみます。同時に、これと対照的なクラシック音楽の鑑賞の仕方について改めて注目し、世界的なロング・トレンドでありつづけているゆえんも探ってみたいと思います。

※シュテフは、さまざまな音楽のジャンルで試してきましたが、今回は、クラシック音楽のコンサートのケースについてお伝えします。

ヨガコンサート

まず、シュテフが考案したヨガの手法を用いた「新しい聴く経験」(Video)について具体的にご紹介しましょう。これは単に音楽を聴きながらヨガをするというようなものではなく、音楽を聴く準備としてヨガを用いるもので、通常ヨガコンサートと言われます(Stepf, It changes)。

ヨガの教師でもあるシュテフのてほどきを受けながら、75分ほど、聴衆のために事前に用意されたマットの上で、それぞれヨガを行います。ヨガ経験があればいいにこしたことはありませんが、初心者も特別の指導をするので問題ないといいます。実際、毎回数人の初心者が参加するといいます。

その後数分間休憩を入れてその後、マットの上で横になったまま5分から10分間最後のリラクゼーションのヨガを行います。

ヨガが終わるか終わらないうちに、静かに演奏がはじまります。(演奏を聴きながらヨガをするのではなく、ヨガをして体を音楽を聴くために最高のコンディションにしてから音楽を鑑賞するということになります)

演奏は、マットに背中をつけた形で、演奏者に足を向けながら聴きます。演奏は約45分です。

ちなみに服装は、ヨガの動きに支障がないように、特に決まっていませんが、ジーンズなど動きにくい服は避け、動きやすい心地よい服装がいいとされます。

「新しい聴く経験 new listening experience」

シュテフが、ヨガコンサートをはじめたきっかけは、音楽家(チェロ奏者)で、ヨガの教師であるシュテフ自身の疑問と実体験にありました。

通常、コンサートホールでクラシック音楽を鑑賞する際、平然と並んだ椅子に、ほかの観客と肩を並べながら行儀よく腰をかけ、演奏の間(数十分あるいは数時間)音をたてることはおろか、身動きもほとんどさせずに聴きます。さらに服装には、明確ではないもののドレスコードがあり、スポーツウェアやジャージなど、体が動かしやすい服装は基本的に不可です。

シュテフは、このようなコンサートにまつわる作法にのっとった聴き方について、常々、肩苦しく快適でないと感じており、一方、ヨガをはじめるようになると、ヨガのあとは、体は非常にリラックスしている一方、意識や感性ははっきりとぎすまされ、音楽に非常に集中できることを実感するようになります。そして、その状態こそが、自分にとって音楽を聴くための完璧な状態だと思うようになりました(Interview)。

ただし、自分ではそうであっても、それがほかの人にも該当するとは限りません。ほかの人にも試してみたいと考えていたところ、2009年ベルリンで、シュテフは、実際に、それをほかの人に試してもらう機会をえます。その結果は、いつもの音楽の聞こえ方が全く違ったとするコメントなど、非常に大きいもので、自分だけでなく、ほかの人にも当てはまると確信します(Interview)。

そしてこれ以後、ドイツ語圏の各地で同じような新しい音楽の聴き方を試すコンサートを行うようになりました。

クラシック音楽とヨガは、伝統的なものと、世界のメガトレンドであり、それぞれは、決してめずらしいものではありません(ドイツ全体でヨガ人口は、現在500万人にのぼり、ベルリンだけでもヨガの専門教室は200箇所以上あります「ウェルネス ヨーロッパの健康志向の現状と将来」)。

ただ、その二つを、どちらの専門家である人によって、まじめにコンビネーションしたことで、音楽だけでも、ヨガだけでもない、新しいジャンルが開かれたといえます。

ディープな音楽体験

それは、見方をかえれば、より深い「体験」であるともいえるかもしれません。

現在、消費やクオリティオブライフを語る時、「体験」がひとつのキーワードになっています(「すべては「体験」を目指す 〜ショッピング、博物館、ツーリズムにみえる「体験」志向」、「「体験」をもとめる社会心理と市場経済 〜「体験」をキーワードに再構成される産業と文化施設」)。

「体験」が意味するものを、厳密に定義することは難しいですが、従来のあり方よりも、よりリアルに感じる経験全般をさしているといえるでしょう。つまり、全行程を完全リアルに経験するというのではなく、そのようなリアルな経験のダイジェスト版、いいところだけを「体験」という形で経験するという主旨であるといえます。

ヨガコンサートを、そのような「体験」のひとつと考えるとどのようにとらえられるでしょう。ヨガもクラシックコンサートもそれぞれリアルな「体験」の部類にすでに属していますが、その二つが組みあわされるヨガコンサートは、また違う次元の「体験」にいたっていると考えられます。それは、ヨガをすることで、より感性が研ぎ澄まれ音楽に集中できるとするシュテフの解釈を踏襲すると、より濃厚な音楽鑑賞「体験」、「ディープな体験」といえるのではないかと思います。

これまでも、よりディープな体験を求める動きはありました。例えば、ヴァーチャルリアリティを駆使してインターアクティブに体験する技術は、次々更新され、精度を高めています。

しかし、これらは、より「リアルに」することを目標点に技術的な向上という方向性にすすめられてきたのに対し、今回のヨガをとりいれたディープな体験とは、自分の体の性能を研ぎ澄ませるという全く違いアプローチからであることが、非常にユニークであるといえます。

ここに現れている、「リアル」さを高めるのでない角度から、体験を充実させる、違った体験をする、という発想は、体験というトレンドの、新しい展開のヒントを示しているのかもしれません。体験トレンドは、しばらくしてブームがさるのではなく、今後もこのような、多様な形からアプローチされ、進化していくのかもしれません。

クラシックコンサートをはじめて鑑賞したモザンビーク人

ヨガコンサートをはじめた経緯でシュテフが、通常のコンサートホールは居心地がいいと思えなかったと言うのを聞いて、思い出したことがあります。

モザンビークからの留学生がはじめてドイツ語学校の企画としてドイツでクラシックコンサートを聞いた時、素晴らしい演奏に体や手を動かして音楽を鑑賞しようとしたところ、付き添いのドイツ人教師にやめるように言われたという話です。その人は、なぜ音楽をききながら、体を思いのままゆすることが禁じられているのか、まったくわからなかったと言っていたことです。

小さい時から、ライブのクラシック音楽を頻繁に聴くことはなくても、聴く時にどんな風に聴くかをなんとなく習得している国の人たちには、クラシックコンサートで手拍子したり立ち上がって踊るとう発想がまず(幼少時期などは例外として)浮かばないと思いますが、確かに、言われてみれば、モザンビークの留学生にとって理解できなかったこともよくわかる気がします。

耳だけをかたむけて、数時間物音ひとつたてず、椅子に腰掛けて聴くというのは、確かに、誰にとっても(ある程度は訓練で慣れるにせよ)普通の行動様式とは違うきわめて異なる、自由が非常に制限された、また画一的な行動様式です。

クラシックコンサートの極意

そう考えると、改めて疑問に思うことがあります。なぜ、堅苦しい作法を強いるクラシック音楽の鑑賞の仕方は、100年以上ほとんど変わっておらず、しかも世界的に同じ方法を踏襲しているのでしょう。しかもそのように一見堅苦しく思われるコンサートでも、人気が落ちている気配はなく、少なくともドイツ語圏では最近また若者でコンサートに行く人が増えているといいます(Berg, 2017, Hinrichs, 2018, Mertens, 2017)。

ここで、一応、クラシックコンサートでの音楽鑑賞の仕方について、(ヨーロッパでの慣行に基づき)確認しておきます。

クラシックコンサートは、伝統的には、音楽だけでなく、服装や立ち居振る舞いとセットになった催し、体験です。フォーマル、あるいはそれに近い服を着て、十分時間に余裕をもって入場し、上着は通常クロークにあずけ(上着をコンサートホールに持ち込むことも可能)、コンサートの休憩時間には、ホールでアルコールなどを飲んだり歓談したりします。そしてコンサートがはじまると、上述のように画一的でかしこまったルールで鑑賞します。チケット代は、ほかの映画や博物館などの文化施設の訪問に比べても、かなり高額です。

これほど制限やルールが多い体験であるのに、通常その流儀に、疑問や不満をもつことはありません。いやなら足を運ばないだけで、あえて行く人はそれを従順に守ることにほとんど疑問や不満をもたず、世界中でその方法が踏襲されていて変化する兆しはありません。それはどうしてでしょう。

ヨーロッパ的音楽鑑賞というパッケージ体験

それは、そのような一連の体験すべてに、高い需要があるという、それにつきるのではないでしょうか。

身も蓋もないような説明ですが、行儀よく静かに座って鑑賞する音楽だけでなく、広々とした古風な豪華さを感じるスペースで、現代のヨーロッパでめっきり少なくなった「伝統ヨーロッパ的な」フォーマルな社交や習慣を享受する場所や時間への需要でしょう。

人々は、そこで、ちまちまと小分けされない、数時間に及ぶ時空が一体となった体験をパッケージとして味わうことで、「クラシック音楽をコンサートホールで聴いた」という強い実感をもつことができます。平たく言えば、コンサートホール独特の雰囲気に包まれて自分も礼儀作法にのっとって聴くことではじめて、クラシック音楽を「真に」聴いたという満足感を得られるのではないでしょうか。

なぜ「ヨーロッパ的な」形が世界的に今でも好まれるのかについては、クラシック音楽がもともとヨーロッパから発祥したから、というその一言でつきるのではないでしょうか。

体験には、本物志向がつきものです。よりリアルになにかを感じることこそ、体験の極意であり、クラシック音楽がヨーロッパ的なもの、という前提の認識に変化が生まれない限り、クラシック音楽を聴くのに、ヨーロッパ的な要素は優先され、好まれつづけるのではないかと思われます。

もしそうであるとすれば、通常のクラシックコンサートは、ヨガコンサートとは、目的もオーディエンスも違うものであり、目的に見合ったコンサートや音楽鑑賞の方法を、人々が選びとっていけば、今後も、問題なく共存できる関係にあるともいえるかもしれません。

おわりに

ヨーロッパ文化を象徴するクラッシック音楽のコンサートと、そこから遠く離れた全く違うインド文化圏の世界観を体現するヨガ、この二つの全く異なるものが、掛け合わされて、新しい音楽の鑑賞の仕方が生まれる。これが可能になるには、ほかの文化を許容する柔軟な発想や受け皿が不可欠です。

そのような柔軟な発想と受け皿の上で、異なる文化が交わり、そこから新たに醸成されてくる。これまでも世界中に限りなくあったその営みが今も各地で繰り広げられ、新しい文化をつくりあげていく。まだまだ、これからも、どのような魅力がある新しい文化がたくさん生まれてくるのか、楽しみです。

なにはともあれ、ヨガコンサート、わたしもいつかぜひ体験してみたいです。みなさんはどう思われたでしょうか。

参考文献

Barske, Sven, Mit den Fußsohlen hören. Kammerkonzert mit Yogastunde, Deutschlandfunk, 9.9.2013.

Berg, Jenny, Trendwende - Die Jungen haben wieder Bock auf klassische Konzerte, SRF, 6.3.2017.

Hinrichs, Dörte, Klassische Musik neu erleben, Interdisziplinäre Konzertforschung, Deutschlandfunk, 06.09.2018

Interviewmit Lisa Stepf, Kuratorin »Offbeat« (2019年4月17日閲覧)

Mertens, Gerald, Die Klassik hat kein Nachfrageproblem. Die Zukunft der klassischen Musik. In: Tagesspiegel, 30. März 2017

Lisa Stepf: «It changes your listening experience», youtube, 2014年8月18日

Yoga Konzert. In: Kulturkompakt, Hommage an die Helvetismen im Centre Dürrenmatt, SRF, Freitag, 12. April 2019, 11:29 Uhr

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「どこから来ましたか」という質問はだめ? 〜ヨーロッパから学ぶ異文化間コミュニケーション

2019-04-18 [EntryURL]

今年3月にドイツで『訊くのをやめろ。わたしはここの者だ』というタイトルの本がでました(Ataman, Ferda, Hör auf zu fragen. Ich bin von hier, S. FISCHER Verlag, 2019.)。著者アタマンFerda Atamanがドイツで著名な雑誌で活躍するジャーナリストであるためか、この本に関しては出版以前から、ドイツだけでなく、スイスでもメディアで取り上げられていました。

トルコ系ドイツ人である著者が、(この本のタイトルにある)「訊くのをやめ」てほしいものとは、その人がどこ(の国)から来たのかを訊くことで、なぜなら、わたしはここの者、つまりドイツの出身なのだから、というのが、このタイトルの意味になります。

自分と違う(と思われる)出身国の人に会って、「どこから来たのですか?」と質問をしたくなる状況はわたしにとってしばしばあります。その人がどこから来たのか本当に知りたいと思う時だけでなく、自分が相手に関心をもっていることを示すシグナルにしたり、その場をなごますスモールトークがほしい時です。

しかし、この本では、この質問に不快感をもつ人や状況があることがむしろ強調されています。一体、この質問のなにが問題だというのでしょう。その背景にはなにがあるのでしょう。それほど、異文化間のコミュニケーションは、普通に考えるコミュニケーションとは異なるややこしいものなのでしょうか。

確かに、異文化間のコミュニケーションでは、同じ文化圏や習慣をもつ人との間のやりとりでは起こりにくい誤解や不快感を引き起こしてしまうことがあります。しかし、それのトラブルやハプニングは、いくつかのことに点に留意し、配慮すれば、トラブルを完全に防ぐことができなくても、ずいぶん減ると思います。

今回は、この本が提起する問題を契機に、そのような異文化間のコミュニケーションで起こりやすいトラブルや、多文化の人とのやりとりで必要な感覚や配慮を、これまでの筆者のドイツとスイスでの経験や知見をもとに整理して、指摘してみたいと思います。

多様な分野で、就労のため外国からこれまで以上に人々が入ってくることが見込まれている(少なくとも期待されている)日本において、今後、職場や地域生活で接点が格段増えてくると思いますが、ここで示すことが、コミュニケーションがぎくしゃくしそうな時に垂らす数滴の円滑油になってくれたらさいわいです。

※今回の記事は「移民」をテーマにした連載記事の四回目にあたります。これまでの記事で扱ったテーマは以下です。
移民の模範生と言われる人々 〜ドイツに移住したベトナム人の半世紀
ドイツの介護現場のホープ 〜ベトナム人を対象としたドイツの介護人材採用モデル
帰らないで、外国人スタッフたち 〜医療人材不足というグローバルでローカルな問題

三つの質問

この本のタイトルを聞いた直後、個人的に思い出したことがありました。以前、ドイツ在住のエチオピアからの移住者が、ドイツでされる嫌いな質問がある。それは、どこから来たのか、ここでなにをしているのか、いつまでここにいるのか、の三つだと言っていたことです。エチオピア人の気になる質問は、この本のタイトルにある質問よりさらに二つ多いですが、基本的に同じようなことを問題視しているといえるでしょう。

これらの質問が適切か否かについて、すぐに考えてみるのではなく、まず、これらの質問をめぐる状況を、ふたつの「なぜ」で整理してみます。なぜそのようなことをドイツ人が訊いたのか。また、なぜ、著者やエチオピア人はそれらを訊かれることをいやがるのか、です。

なぜドイツ人がそのような質問をたびたびするのか。これについては、当人たちに実際に訊いてみないとわからず、ここで、どの理由がもっとも妥当なものなのかを回答するのは不可能です。純粋な好奇心から訊いた人もいれば、外国人への排斥的な気持ちをもって訊いた人もいたかもしれません。また、便利なスモールトークのつもりで他愛なく口から出た質問であったかもしれません。

一方、質問をするドイツ人の動機に関係なく(たとえ訊いた人にとっては、他愛ない動機だったり好意的な意味合いであったとしても)、それを質問される側が、いやがるとすれば、それはどうしてでしょう。

質問が中立的なニュアンスかそうでないか

本の著者とエチオピアからの移住者は、このような質問をドイツでよくうけており、その質問に答えることにうんざりしており、このような質問にとても敏感になっていました。

では、どこからきたのか、なにをしているのか、など具体的な質問の内容が問題だったのでしょうか。もしそうであれば、ある意味で、コトは簡単で、そのような質問を避ければいい、ということかもしれません。しかし、実際は、それほど簡単ではなく、問題はそこにはないのではないかと思います。

少し話がずれますが、世の中には、同じ質問が繰り返しされることは、誰にでもままあります。典型的なのは、名前でしょう。例えば、役所やサービス部門で、自分の名前を訊かれることは非常によくあります。しかし、そのようなシチュエーションで、名前を訊かれるのを嫌がったり、なんで訊くのか、とキレる人はまずいないでしょう。換言すると、その質問が、サービスや事務処理に不可欠なもので、質問事項も、きわめてニュートラルなものであれば、繰り返し訊かれても苦にはならないということなのだと思います。

つまり、ここでは質問内容自体が、問題ではなく、質問が繰り返されるのをいやがる理由はほかにある。だとすれば、それは何なのでしょう。

「よそもの」として扱われたくない

結論から先に言うと、質問の仕方が、訊かれている方に中立的な質問に聞こえず、不快感をもよおすものであった、ということではないかと思います。

ここで、本のタイトルに目を再びむけてみます。どこから来たかと訊いてくれるな、わたしは、ここの者だ、です。よそものでなく仲間だと思われたいのに、いつまでもよそもの扱いをされている、そのような不満が、背景にあるわけで、そのように不満がつのっていることが問題です。

実際に、著者に対するいくつあのインタビューをみても、同種のことが語られています。戦後、外国人労働者としてドイツにやってきた移民世代が2世、3世となっている今日でも、ドイツは、「もともとドイツにいたドイツ人」と移民的背景をもつ「新しいドイツ人」という2種類に分類するような意識が強くある。しかし、これからは移民たちをとりこんだ、新しいドイツ人像を構築すべきだというのが、主たる主張です。

よそものとして扱われたくない気持ちは、自分や自分以外の外国出身者が、ドイツ社会でどう振る舞うべきか、ということにも敏感になるようです。

以前、スイスのあるセミナーで、わたしが自分自身を「外国人」と表現した際、ほかの外国からの移住者に、なんで自分のことを外国人と称するのかと強く非難されたことがありました。わたしがその人に会ったのはあとにも先にもそのセミナーの一度きりでしたが、そのようなささいな縁しかない人の言動でも気になった。その心理はどのようなものでしょう。一般的な理解から推論すると以下のようなことではないかと思われます。

その人はドイツ語が流暢でしたので、多分長くスイスかほかのドイツ語圏で生活してきたのでしょう。そして、自分やほかの外国からの移住者が、当地でよそ者のように扱われることがあり不満に思い、日頃から問題意識をもっていた。そこへ、自分のことを「(移民的背景の)住民」と言わずに「外国人」(つまりよそ者である)と堂々と自称する人が目の前に現れた。そのような態度が、移住者をよそもの扱いするヨーロッパ人の態度に鈍感なだけでなく、それを助長する、あるいは迎合する態度のように思われ、だまっていられなかった。

このような、その人にとって長いわけや複雑な事情が、非難に背景としてあったのだと思います。

「よそもの」についてまわる意味合い

一方、この出来事をめぐるこのような簡単な説明では、矛盾もまた明らかになります。なぜ、同じヨーロッパに住む外国出身者のなかで、一方で、「よそもの」扱いされるのをいやがり、ほかの「外国人」と自称する人を非難までする敏感な人がおり、他方で、自分を平気で「外国人」と表現する(わたしのような)「よそもの」意識に鈍感な者もいるのでしょう。

これを説明するのに、重要なキーとなるのは、「よそもの」という概念に対する感覚の違いだと思われます。わたしが「外国人」だと自称することを厭わなかったのは、ヨーロッパで今でも(文化や習慣的な違いを強く感じ)異邦人だという感覚が強くぬぐえないということもありますが、それよりなにより、自分が日本人であることにヨーロッパ社会でデメリットをあまり感じていない、ということが大きな理由だと思います。

もちろん、就職やアパート探しの時に、自分がヨーロッパ的な名前でないことで不利になるなど、ほかの外国出身者と同様に、「よそもの」であることで生活に不便をきたすことをあげればきりはありません(公式にはそのような場面で差別することは禁止されているにせよ慣行的には簡単に克服されるのが難しい課題です)。一方、日本が民主主義的で経済的に豊かな国であり、文化面でもヨーロッパ人に一目置かれている国(「異質さと親近感 〜スイス人の目に映る今の「日本」の姿とは」)であるため、ドイツやスイスに日本人として暮らす際、最初から悪いレッテルが無条件ではられたり、あからさまな人種差別的な扱いを受けることは、あまりありません。

しかし、肌の色や故郷の国や保持している宗教や文化によっては、貧しい(から盗みもしそうだ)、異教徒(だから危険そうだ)、国民性が違う(だから性格が乱暴そうにみえる)などの理由で、ネガティブなイメージがついてまわり、現実に生活のさまざまな側面で、デメリットをこうむっている外国出身者が多くいます。この人たちが、「よそもの」として被っていることと、西側のEUの国や(日本のような)経済力がある先進国の出身の人たちが「よそもの」として味わっていることは、非常に大きな差があります。

差別を日常的に体験する人たちにとっては、「よそもの」は悪いイメージ以外のなにものでもないため、そのようなイメージを取り除き、スイスの一住民として、差別なくうけとめてもらいたいという願いが、強くなるのではないかと思います。

このような一定の外国出身者だけがヨーロッパで被っている差別的な態度については、ヨーロッパ社会で(ヨーロッパ人やヨーロッパで有利な立場を享受している出身国の移住者にも)、何世代にもわたる長い間、たびたび問題とされることはあっても、根本的に状況はあまり変わってこなかったのでしょう。今年3月に真正面からとりあげるこの本が現れると、ドイツだけでなくスイスでもメディアでも注目された、という事実が、そのことをうかがわせます。

よそものの文化に対する関心

とはいえ、と、ここから話がまた一見矛盾するような、しかし、やはり異文化間コミュニケーションにおいて、やはり見落としではならないと思える点を指摘したいと思います。

それは、「よそもの」と扱われることが移民的背景の人にとって、全般には不愉快だったとしても、同時に、自分が大きな愛着をもっている祖国の文化や習慣について、異国のヨーロッパでも、機会があれば、紹介したり、披露できる機会があればうれしい。喜んで説明、紹介したい、と思っている人もまた、かなりいるようだ、ということです。

それを強く実感した事例をふたつあげてみます。一つは、わたしがボランティアとして移民や難民向けのドイツ語の初心者講座をスイスで4年半受け持っていた時の体験です。毎回、受講者が積極的に発言したくなるテーマを選ぼうと苦心しましたが、受講者がもっとも積極的に話をしてくれたのは、それぞれの故郷の習慣や文化が関係するテーマを選んだ時でした。故郷の経験や様子を話す時は、誰もが例外なく、その話の主役であり、よくぞ聞いてくれたとばかり、こぞってはりきって話をしてくれる、という光景を何度も目にしました(ドイツ語圏の難民や移民のインテグレーション(社会的な統合)政策や状況に関しては「ヨーロッパにおける難民のインテグレーション 〜ドイツ語圏を例に」)。

また、地元の公立小学校で、任意で親たちが自分の祖国の自慢の料理を持ち寄り、みんなで食べるという会を企画した時も同じような光景を目にしました。その学校は、全校生徒の4割以上が移民的背景をもつ学校であり、親たちは50カ国近い多様な国々の出身者でした。その親たちが、その日はほこらしげに、大きな袋をもってあらわれ、郷土料理をはりきって披露していたのがとても印象的でした(就労とインテグレーション(社会への統合) 〜 スウェーデンとスイスの比較

これらの光景を思うと、ヨーロッパ社会においても統合されずに自分が背景にしょっている文化や習慣にほこりをもっており、それらに純粋に興味や関心をもつ人たちがいれば、それらを説明したり紹介することに、強い関心や意欲をもっている外国人移住者の数はかなり多いのではないかと推測します。わたしが担当したドイツ語初級講座では30カ国以上の国の出身者に会いましたが、そのような気持ちや欲求は、出身国が南か北か、大国か小国か、先進国か否かなどに全く関係なく、みられました。

ここで、もう一歩踏み込んで言うと、「よそもの」というレッテルをはらず、中立的、好意的な態度で、外国から出身者に、その人のしょっている文化や風習や抱いている思いを訊くことは、決して失敗コミュニケーションではなく、むしろコミュニケーションが良好に発展するかぎになると思います。

日本での異文化コミュニケーションの在り方とは

ところで、ドイツやスイスに居住する様々な年代のヨーロッパ人や移住者と長く関わってきて、最近、改めて強く思うことがあります。

日本人の基本的なコミュニケーションの手法は、協調性や社会規範と強く結びついて、よくいえば、おくゆかしく、悪く言えば(といっても一概に悪いとも限りませんが)はっきり意見を主張しない傾向を今でも強くもっているということ。そして、そのような日本人のコミュニケーションの手法が、ほかの国の人たちとずいぶん、違うのではないかということです。

このような指摘は、20年以上ヨーロッパに住む日本人の間でもよく耳にします。ただし、ヨーロッパに来る移住者のなかでは日本をふくめアジア出身者は少数であるため、その分、少し差し引いて理解すべきかもしれません。日本で出会う外国出身者といえば、周辺のアジアの人たちが多く、わたしが中心的に出会ってきたヨーロッパや南米、東欧、アフリカを中心とした国の出身の人たちとは、また違う傾向をもっていることでしょう。

いずれにせよ、日本に今後、アジアやほかの国からも外国人がくるようになると、これまで日本人の間では普通に通用したコミュニケーションの在り方では通用しないことがたびたびでてくることは必至かと思われます。その際、実際に多様な外国人移住者たちとどんな風にコミュニケーションをとることになるのでしょう。あるいはどんなことが、良好な異文化間コミュニケーションにおいて問題や鍵となるのでしょう。

もちろんなかには、日本に長く住んでいて日本人のやり方をよく理解している人たちで、日本人に通じやすいコミュニケーション話法をわきまえて話す人もいるでしょう。一方、コミュニケーションの仕方は、そのバックボーンとなる社会規範やふるまいと同様に、基本的に、違う国にいったからといってころころ変わらない人や場合も多いのではないかと思います。社会で相対的に外国出身者が増えていけばいくほど、実際に、日本的な流儀にこだわらず、多種多様なコミュニケーションの仕方をする人の数も増えるでしょう。

そのような人たちとのコミュニケーションは具体的にどんな風になるのでしょう。それは、端的に想像するとすれば、『訊くのをやめろ。わたしはここの者だ』に類似するタイトルの本が、日本に住む外国からの移住者によって書かれ、日本で出版されるような状況でしょう。このタイトルは、当事国の人々すべてを相手にけんかを売っているような挑発的なタイトルですが、このようなタイトルの本が移民的背景をもつ人たちによって日本で出版され、自分たちの立場をはっきり主張する。そんな時代が間近に迫っているということなのかもしれません。その時日本人はどんな風にこれらの人と実際にどんな風にコミュニケーションしていくのでしょうか。

一つ確かなことは、コミュニケーションの作法が違う人たちともいっしょに同じ社会で働き、生活していく以上、困惑や反感などの衝動的な感情とは別のレベルで、そういう流儀の違う人たちともなんとか折り合いをつけて、やっていくしかないということでしょう。そのような覚悟をきめ、求められたら、実際にそれらの新しい住人に向き合いはっきり自分たちの意見をいう誠意ある態度が、これから必要なのではないかと思います。

おわりに

今回は、異文化間コミュニケーションでもとりわけデリケードで難しい側面をみたので、これからの日本での外国出身者とのコミュニケーションの在り方を思い、茫漠とした不安な気分になってしまった方が、もしかしたらおられるかもしれません。その暗雲を晴らすべく、最後に、もう少し長い目で見晴らしのいいところに立って、異文化間コミュニケーションの奥義について触れてみたいと思います。

話はずれますが、以前、戦争を繰り返し何百年も続いたヨーロッパのプロテスタントとカトリックの対立が、今のヨーロッパでは、うそのようになくなり、雪解けの時代に至ったという話をご紹介しました(対立から融和へ 〜宗教改革から500年後に実現されたもの)。その理由は、お互いが寛容や平和の境地に歩み寄り、届いたからというよりは(そう言えたらかっこよかったのですが)、社会全体が世俗化し、キリスト教や宗教というものの社会での影響力や役割が大幅に減ったためだと考えられます。

ここにみられるように、短期的、表面的な時事だけに目をやると、なんら進展がみえなくても、気づかないうちに自分のよりどころとなっている社会の深層の地盤自体が移動し、気づくと、ある時代のある場所では非常に重視されていた問題が消滅している、あるいは少なくとも多くの人の立ち位置からは大きな問題としてみえなくなっている、ということが、歴史上、ままあります。

少し突飛かもしれませんが、異文化間コミュニケーション上、今存在する多くの問題や課題も、これと同じような傾向をもつ問題なのかもしれないという気がします。つまり、異文化を意識するような段階を通り越して、それが意識されなくなる段階にまで進む時、異文化のなかに「存在した」問題自体も消える、あるいは相対的に重要なことに映らなくなる。そのような問題解決のありかたが、あるように思います。

というのも、少なくとも、その兆候にみえるようなものが、現在のスイスで観察されるためです。昨年の若者バロメーターの調査によると(「若者たちの世界観、若者たちからみえてくる現代という時代 〜国際比較調査『若者バロメーター2018』を手がかりに」)、外国人を、問題が少ない、問題が全くない、あるいは外国人がいるのがむしろメリットだ、と回答した若者のトータルの割合は、難民危機となった2015年をのぞき、ゆるやかに増えており、2018年は65%に達していました。若い世代の外国人とスイス人の関係に限ってみた場合、調和的(ハーモニー)であると答えた人の割合も、2010年には、11%であったのに対し、2018年は、3倍の33%になっています。

現在移民的背景をもつ人が全体の4割近くを占めているスイスでは、差別や区別のない教室を目指す明確な方針の下で、様々な国や文化的背景のこどもたちが、クラスメートとして幼稚園から義務教育課程(州によって若干違いますが約10年)を共にすごします。このような教育課程を経た若者にとっては、移民をひとくくりにして、アプリオリに問題とするという思考や、移民と非移民という区分の仕方自体が、かなり感覚的に合わなくなってきているようです。

ここからわかることは、外国出身者との良好な形で共存し、その共存に慣れてくればなれるほど、「問題」として認識される事項が減ったり、その「問題」の濃度が相対的に薄まるということではないか思います。

ただし、一度消え去った問題が、あとで恣意的にイデオロギーで呼び覚まされ、対立を生み出すという構図もまた、歴史のなかでたびたびありますので、異文化コミュニケーションにおいてもそれが起こらない保証はありません。このため、油断や楽観は決してできませんが、日本のみなさんにもこれから、外国から人が来たからといって疑心暗鬼にならず、このような明るい展望もまたあることをスイスからお伝えして、今回のレポートを閉じたいと思います。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


帰らないで、外国人スタッフたち 〜医療人材不足というグローバルでローカルな問題

2019-04-16 [EntryURL]

前回、国内で不足する介護人材を海外から確保しようと奔走するドイツの様子についてみてみました(「ドイツの介護現場のホープ 〜ベトナム人を対象としたドイツの介護人材採用モデル」)。

ドイツの隣国スイスでも、医療業界全体で多くの外国からの人材が働いています。スイスでとりわけ多いのは、ドイツからの人材です。今回は、隣の大国ドイツの人材に強く依存するスイスの医療分野の状況をみながら、今後取り組むべき課題について考えてみたいと思います。

スイス人をヒヤリとさせたドイツ保健大臣の一言

今年初め、スイス人の肝がヒヤリとさせられることがありました。ドイツの保健大臣(日本の厚生大臣に相当)シュパーンJens Spahnの発言がその原因です。

シュパーンは、スイスのある新聞社のインタビューで、ドイツで専門的な訓練を受けた医療関係者たちがスイスに流れてしまう事情について、一定の理解を示す一方、「しかしはっきりしているのは、ドイツでも専門家が不足していることだ。われわれのところでは、ポーランドの医師が働くため、ポーランドでもまた医者が不足する。これは正しいとはいえない。このため、我々はEU内の特定の職業分野の専門家の引き抜きかたについてなんらかの新しいルールをつくらなくてはいけないかについて、検討する必要がある」と発言しました(Dorer, 2019)。

スイスの病院や老人介護施設は、ドイツ人の医師や介護スタッフがいなくなったら閉鎖されてしまうことになりますが、と取材陣に言われても、シュパーンは、それでも「彼ら(ドイツ人)にドイツにもどってきたほしい」とも回答しています。

この内容が紙面に載った翌日、スイスの公共放送をはじめ主要な新聞で、この発言が一斉に引用され、報道されていました。ほかのライバルメディアの記事を引用してまで扱う必要があると判断するほど、スイス人にとって気になる発言であったようです。

ドイツスタッフが支えるスイス医療界

スイス医療業界で、実際にどのくらいの人数のドイツ人が働いているのでしょうか。医師を例にとると、2017年スイスには全部で36900人の医者(前年比725人増)が働いており、そのうち外国人は34%ですが、外国人医師の過半数(54.5%)がドイツ人です。医師全体の5人に一人がドイツ人医師という割合です。ドイツ人の次に多いイタリア人が8.6%、フランス人は6.5%、オーストリア人は6.1%であり、ドイツ人の割合はほかの国に比べ群を抜いています (Hostettlera / Kraftb, 2018)。

ドイツ側の2017年の調査では、ドイツ人医師のうち1965人が外国で働いており、そのなかで一番多いのがスイスで、641人。次がオーストリア268人、アメリカでも84人となっています (Abwanderung, 2019) 。

医師以外の医療関係者もおおむね同じような状況で、スイスの医療スタッフ全体の5人に一人、3割弱がドイツ人です(Brönnimann, 2017)。

ドイツ人は、なぜ隣国スイスに働きにくるのでしょうか。ドイツ語圏は言葉が共通であり、EUとスイス間で互いの医師や看護師資格が認定されているということももちろん大きいでしょうが、決定的な理由は、ドイツより良好な就労条件や環境にあるようです。ドイツに比べ、スイスで医師として働く場合、給料がよいだけでなく、就労環境や就労時間が全般によいとされます (Als Arzt, 2018)。

しかし、就労条件だけでなく(あるいは就労条件に伴ってより強く実感される)社会的な地位もひとつの魅力であるようです。例えばスイスではドイツよりも、医療関係者に対し、レスペクトや社会的な評価が全般に高いと言われます。長くスイスでつとめるドイツ人の看護師が、ドイツでは看護師の仕事は社会的に低い地位であるのに対し、スイスでは、消防隊員に匹敵するほど社会的に名誉のある仕事とみなされており、スイスでアパートをさがすのも難しくないと言っているのを聞いたこともあります。

依存体質が抱え込むリスク

一方、スイスの医療界がドイツからの人材に依存していることは、諸刃の刃です。ドイツ人は、言葉の壁もなく、比較的簡単にスイスへ移ってくることができますが、それは同時に、スイスからドイツに移ることも容易であるためです。政策や制度的な変化など、なにかをきっかけに、これまで就業していた人たちが急に立ち去るリスクが常にあります。

例えば、これは医療分野に限らず就労者全般を対象にしたものですが、ポルトガルでは、海外で就労するポルトガル人に対し2019年および2020にポルトガルに戻れば、1年から2年という期間を限定し、所得税を半額にする措置をとっています。ポルトガルは2013年から2019年にかけて失業率が16%から7%に減り経済成長率も前年2%を記録しており、海外に流出していた高度な技術や資格をもつポルトガル人で国内によびもどすことが課題となっています(Alabor, 2019)。

この結果、どのくらいポルトガルに海外から人材がもどるのかわかりませんが、このような外の国々の措置に、海外からの人材に依存する国としては、敏感にならざるをえないのは確かです。シュパーン保健大臣の言葉は、そのことを、スイス人たちに改めて思い知らせたといえるかもしれません。

外国人依存を減らすため、スイスでも2025年までに医学部修士課程を修了する医師を、これまでの800人から1300人に増やす計画がされています(Studer, 2019)。しかし高齢化による年々増える医者の需要に見合う医師数を国内では十分確保できるとは思われません。ドイツをはじめ外国からの医療スタッフが多く投入されているにもかかわらず、スイス全体で、医療スタッフは現在すでに85000人近く不足しています(Basel Economic Forum 2016)。

医療関係者の不足はとりわけ、貧しい国々で深刻ですが、スイスで働くドイツ人の例のように、先進国でも医療スタッフの不足は共通してみられる問題だといえます。

海外に大量に医師を送り出しているドイツでも、現在全国で5万人の外国人医師が医療に従事しています(しかしなお、現在ドイツ全体で医師が5000人不足しています)(Ärztemangel, 2019)。

さらに、ヨーロッパでは、生活の質の向上を優先し、高収入層を中心として、フルタイムでなく、パートタイムで働きたい人が増える傾向がみられ(「スイス人の就労最前線 〜パートタイム勤務の人気と社会への影響」)、特に、きつい仕事の部類に入る医療スタッフでは、パートタイム勤務の人の割合が全体に増えています。すでに100%働いていない医者は3分の2に達しており、介護福祉士や看護師でも100%勤務するのは少数派になって久しい状況です。このため医療業務の実働人数を増やすためには、国内外からの医師や医療スタッフの数をさらに増やす必要がでてきます。

このように、医療業界の人手不足は様々な要因がからみ、国内問題として解決が簡単ではなく、結果として、海外から医師や医療スタッフへの依存を減らすことも難しくしています。

流出する医療人材

世界的な医療関係の不足を背景に、よりよい市場や就労条件を目指してグローバルに人々が移動しています。

英語にも専門技術にもたけているエリート層にとっては、特にそれが容易であり、有利な条件を示されて引き抜かれるケースも増えています。実際に、ドイツ人医師の半数以上、6割近く(59.3%)が、国内ではなく海外で働いています(Abwanderung, 2019)。つまり、世界中の医療関係者たちは、多かれ少なかれグローバルな医療ツーリズム市場に組み込まれており、その競争下にもあるともいえます(「ヨーロッパに押し寄せる「医療ツーリズム」と「医療ウェルネス」の波 〜ホテル化する医療施設と医療施設化するホテル」)。

その結果、外国からの人材にたよる国も、そのたよる割合も顕著に増えています。OECDの2015年の統計では、国の全医師のなかで外国人医師が占める割合は、平均16.9%で、ニュージーランド、アイルランド、ノルウェーでは、外国人医師の割合が4割前後、イスラエルにいたっては57.9%にのぼっています(Studer, 2019)。

国際採用に関する倫理規範

しかし、国から海外への医療スタッフの流出が際限なく続けば、繰り返しになりますが、送出国にとって長期的な影響を伴う深刻な打撃となります。このため、世界的な際限ない現在の医療人材の流動性に一定の歯止めをかようとする、国際的な協調の動きもでてきました。2010年、世界健康保健機構の総会が定められた「保健医療人材の国際採用に関するWHO 世界実施規範(日本語訳)」がそれです。

世界健康保健機構加盟国によって合意された主な内容は以下のようなものです(Berger, 2016) 。
1。人材が不足している国からは受け入れない
2。国内の従業者と同じ扱いをする
3。受け入れ国と供給国の両者の国際的な協力を強める
4。国内従業員の需要を補うための措置をとる
5。海外の医療スタッフについては、データを収集し、研究プログラムや定期的な評価などを行う

これらの内容が、200カ国近い加盟国に合意され行動規範として推奨されています。あくまで規範であり法的な強制力を伴うものではなく、また移民の権利を制限するものでもないため、実際に二国間の人材移動の際にこれらの内容がどれほど配慮されるかは、当人次第という弱さはあります。とはいえ、各国に自覚や自主規制を訴え、逸脱する行為の監視や抑制をする国際的な枠組みとして、倫理規範に加盟国が合意した意味は大きく、今後新たに送出国と受け入れ国の間で協定(人材派遣に関する協力関係)がつくれられる際にも、指針として重んじられるようになると考えられます。

ちなみに、前回扱ったベトナムからの介護研修生養成プロジェクトも、この指針に沿ってすすめられたものでした。

おわりに

ドイツの保健大臣の発言が大々的に報道されましたが、その発言自体を批判する報道はひとつもありませんでした。ドイツでも医療スタッフが不足し非常に深刻な状況であることは、スイス人もよくわかっており、大臣の気持ち自体はよく理解できるためです。一方、ドイツ人医療スタッフに帰ってもらっては困る、ぜひともスイスに残ってほしいというのも、隠しようもないスイス人の本音です。

お互いに八方塞がりのようにみえる状況ですが、だからといって先細る医療人材という綱をお互いに両端で引っ張りあっているだけでは、なんの解決にもならないだけでなく、お互いの得にもなりません。

一方、世界健康保健機構の国際採用に関する倫理規範に照らし合わせてみると、ドイツとスイスが双方に目指すべき方向は、すでにみえているともいえます。一方で、国内で、不足状況を緩和する努力を地道に続けつつ、他方で、送出国と受け入れ国双方がなるべく合意できる(恩恵を手にできる)協力関係(人材の派遣と受容の関係)をさぐっていくことです。

どこのパートナー関係にある国々にもあてはまる、凡庸な解答にすぎませんが、今後、ドイツの保健大臣の発言でスイス国民が一喜一憂しないかどうかは、まさにそこにかかっているといえるでしょう。

参考文献・サイト

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Alabor, Amilla, Zurück in die Heimat, Schweiz Migration. In: NZZ am Sonntag, 24.3.2019.

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Berger, Gabriele / Herrnschmidt, Jenny, Ethisch korrektes Rekrutieren von Gesundheitspersonal. Eine Fallbeschreibung In: MMS Bulletin, Schweizerische Online-Zeitschrift für Internationale Zusammenarbeit und Gesundheit, Juni 2016.

Brönnimann, Gabriel, Deutsche Ärzte meiden die Schweiz – nur Basel hat ein Herz für sie. In: Tageswoche, 17.01.2017, 04:09 Uhr

Dorer, Christian, Der deutsche Gesundheitsminister Jens Spahn über Cyberattacken. In: Blick, 01:05 Uhr13.01.2019?Sonntagszeitung? «Ich hätte gern die deutschen Ärzte zurück»

Hehli, Simon, Deutsche Ärzte fürchten Schweizer Ressentiments. In: NZZ, 17.1.2017, 05:30 Uhr

OECD Stat, Health Workforce Immigration. Foreign-trained doctors by country of origin(2019年4月1日閲覧)

Hostettlera, Stefanie / Kraftb, Esther, FMH-Ärztestatistik 2017 – ¬aktuelle Zahlen. In: Schweiz Ärzteztg. 2018;99(1314):408-413, Veröffentlichung: 28.03.2018

Merkel, Karen, Warum die Schweiz deutsche Ärzte braucht. In: Bilanz, 15.01.2019

Studer, Ruedi, Fast jeder fünfte Arzt ist Deutscher. Abwerbungs-Problematik. In: Blick, 10:09 Uhr15.01.2019

Wanner, Christine, Deutschland will Ärzte zurück - Im Gesundheitswesen der Schweiz braucht es neue Berufsbilder, 03:52 min, aus Echo der Zeit vom 13.01.2019.

WHO, WHO Global Code of Practice on the International Recruitment of Health PersonnelSixty-third World Health Assembly - WHA63.16May 2010

(「保健医療人材の国際採用に関するWHO 世界実施規範(日本語訳)」、第63 回世界保健総会─WHA63.162010 年5 月)

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ドイツの介護現場のホープ 〜ベトナム人を対象としたドイツの介護人材採用モデル

2019-04-11 [EntryURL]

前回(「移民の模範生と言われる人々 〜ドイツに移住したベトナム人の半世紀」)、1970年代からドイツや西側諸国に移住したベトナム出身の人々の状況についてみてきましたが、それから半世紀たった今日、ベトナム人が、再びドイツで注目を浴びています。それは、ドイツで深刻に不足している老人介護施設の労働力としての期待からです。

昨年は、今後さらに深刻化するスタッフ不足緩和に思い切った新しい政策転換が必要であるとし、ベトナムに介護スタッフ養成専門学校をつくり、毎年1万人養成してドイツに派遣することを提案したディスカッション・ペーパーが経営学専門家によって発表され、話題となりました(Watzka, 2018)。

今日、保健医療関係の人材不足が世界的な現象となっているため、海外からの人材にたよるのが、一時のしのぎや例外的な措置ではなく、多くの国で恒常的な状況となっています。世界保健機構(WHO)によると、OECD諸国間の、保健医療従事者の移住は過去10年間で60%増えており(Health workforce)、2015年のOECDの統計では、OECD諸国において、外国出身の医師が全体で占める割合は、すでに16.9%にものぼっています(Studer, 2019)。

今回と次回の二回にわたって、外国の人々が直接関わり、また背後で国どうしの協力関係が大きく影響するなど、国際的な協調のなかはじめて維持・存続が可能となっている医療現場の世界的な現状について、ドイツとスイスの事例から、概観してみたいと思います。具体的には、今回は、ドイツの、ベトナムからの介護人材の受け入れに際してパイオニア的な役割を果たしたプロジェクトの詳細をみていき、次回では、海外からの人材を確保したあとにでてくる問題や、長期的な課題について、スイスを例に考えてみたいと思います。

ドイツ国内の介護人材不足の現状

ドイツでは、全国的に介護に関わる人材が慢性的に不足しています。その最大の理由は、介護福祉士の給料が低いことにあるとされます。労働市場および職業研究の研究機関(IAB)によると、介護福祉士の給料は病院の看護師よりも、平均19%低くなっています(Wallenfels, 2018)。

給料が低いにもかかわらず、就労状況は、人手不足も手伝い、過酷であるため、病院勤めの看護師や全く違う産業分野に転職するなど(現行の制度では、介護福祉士と看護師の資格は異なりますが、一定の研修を修了することで転職が可能です)、離職する人が後を断ちません。これが、さらなる就労状況の悪化をまねき、さらに離職者を出すという悪循環になっています。

深刻な状況を打開するため、2017年には、これまでよりも看護と介護の職業間の変更をしやすいように看護・介護職業法が改正され(2020年から施行予定)、2019月1月からは、介護福祉士の人出不足による就労状況を改善するため、全国で新たに1万3000人の介護福祉士を増やす内容を盛り込んだ法律が施行されました(今回のレポートにおいて「介護福祉士」とは、老人介護の介護福祉士のみを指すこととします)。

とはいえ、これで状況が大きく改善されるとはあまり期待されていません。上述のようにもともと理由があって職業に人気がないのだとすれば、その主原因が解消されないのに人気が高まるとは考えられにくく、たとえ一時的に人が多少増えても、長期的にみると実働人数が大幅に増加するとは思われない、という悲観的な見方が強いためです。

例えば、介護施設で看護師の補助的な仕事に従事している介護アシスタント、失業者、移民や難民、現在家庭労働に従事している女性などが、潜在的な介護福祉士の候補と期待する声もあるにはありますが、他方で、好景気のドイツで、これらの人材が介護分野に移動するモチベーションは乏しいとされます。

一方、今後、超高齢化時代に突入し、介護を必要とする人がさらにうなぎのぼりに増えていくことが必至です。現在介護福祉士でも21万3000人が(100%働くスタッフ数で換算)全国で不足していますが、2030年には、ドイツ介護が必要な人は410万人になるとされ、不足する介護福祉士の人数は21万3000人から47万9000人くらいに増加すると推計されます(Watzka, 2018)。

海外から介護スタッフをよびよせる

このように人出不足が緩和する兆しがみえない状況をにあって、ドイツでは、外国からの介護福祉士を受け入れてきました。すでに介護福祉士の11%が外国出身者です。

外国からの介護スタッフの多くは、ポランドやルーマニアやクロアチアなどのEUの国ですが、それでも不十分なため、政府は、非EU 諸国からの人材確保のプロジェクトもはじめました。2013年に開始されたトリプルウィン・プロジェクトという受け入れプロジェクトでは、セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、フィリピンから500人の介護スタッフを受け入れました(ちなみにトリプルウィンとは、介護福祉士当人、ドイツ、また福祉士を送り出す国の三者にとって、益となることを意味しています)。

2018年5月現在、ドイツ国内に1300人がEU以外の国から介護スタッフとして働いています。

白羽の矢が立てられたベトナム人

このように様々な国から介護現場への人材を迎えようと奔走しているドイツで、近年とりわけ大きな期待をされるようになってのが、ベトナムからの人材です。

具体的などのような形の人材の受け入れ方がすすんでいるのかについて、ベトナムからの介護人材受け入れいのマイルストーンになった、2012年からはじまったプロジェクトを参考にしながらみてみましょう。

しかしその前に、気になっている方もおられるかもしれない点についてみておきたいと思います。ドイツはなぜ遠いベトナムからの人材にとりわけ期待しているのか。どのような点をベトナムにおいてドイツ人が重視し、また評価しているか、という点についてです。

このことについて非常に参考になるのが、冒頭で紹介したディスカッション・ペーパーです。この論文のなかで、著者のヴァツカKlaus Watzkaは、介護人材の送出国としての条件をあげ、その条件に照らし合わせてベトナムの適性を検討するという作業を行っています(Watzka, 2018, S.24-28)。ここでは、現在のドイツでの、送出国に対する考慮や、ベトナムに対するドイツの一般的な理解などが明確に示されているように思われますので、具体的にヴァツカの指摘を以下、ご紹介してみます。

―ヴァツカの提示する介護人材供給国としてののぞましい条件
・国の人口が2000万人以上(十分な労働市場がある)

・失業率が8%以上(余剰労働力が国内に十分にあり、海外に労働力が流出しても問題ないこと)

・非識字率が25%以下の国(海外に労働力がでても国内で教育程度が高い労働力を保てるようにするため)

・公用語ができればひとつの国(労働市場や養成課程で能率的かつ効率よくコミュニケーションできるように)

・国民の平均年齢が30歳以下(若い人々のほうが、移動がしやすく流動性や学習への意欲も高く、社会経済的な上昇への意欲も高いと考えられるため)

・高齢者を高く評価し、対人によく配慮(サービス)するメンタリティがある文化の国(それらが介護に適した社会的な資質であるため)

・国内総生産で観光や国際的な商売がかなりの割合を占める(ほかの文化にオープンで経験もあることが望ましいため)

・政治的な安定と人権的に問題のない国(ドイツの世論から支持を受け入れるため)

・犯罪や政治的な腐敗がひどくないこと

・ドイツと外交的に友好であること

・すでに経済以外にも親密な関係や発展協力関係がドイツとあること

―ヴァツカの提示するベトナムに関するデータや見解
・ベトナムの人口は9550万人で、15歳以下が23.1%。65歳以上が7.2%と(前者が13.1%で後者が21.5%のドイツと比べると、)非常に若者が多い国。

・失業率は、世界銀行の統計(2017年)で、2.06 %だが、農業分野での就労の比重がとりわけ高く40。9%を占める。

・小学校就学率は98%。非識字率は5.5%。

・文化的に勤勉で、教育に高い価値を置くのが特徴。このため、ドイツ語の習得もはやいと推測される。

・高齢者を敬い高い価値を置く文化。サービス業に対する姿勢も高いレベル。

・犯罪は、所有に関するもので、ほとんど観光部門に限定されており、暴力的な犯罪は少ない。

・政治的腐敗の世界ランキングでは180カ国中107位。このため、大きな投資をする場合は注意が必要。

・ベトナムとドイツの友好関係は非常に良好。歴史的にみると、東ドイツ時代からの長い交流があり、1989年の東ドイツ崩壊までに10万人のベトナム人が学生として渡航し、6万人が東ドイツに長期定住していた。2009年現在、10万から12万5000人がドイツに住み、40000人はドイツ人になっているが、全般によくインテグレーションされている(この詳細は前回のレポートで扱いました)。

・現在も密接な外交関係がある。途上国援助協力や、教育などで密接な関係を築いているだけでなく、ベトナムにとってドイツはEUのなかで最も貿易額が大きいことからもうかがわれるように、両国間の経済関係も強い。

ヴァツカは、これらの一連の検討の結果、ベトナムが、海外からの介護人材のリクルート先として最適であるという結論を出しています。

介護福祉士養成プロジェクト

「ベトナム人労働力の介護福祉士養成」プロジェクトは国(経済およびエネルギー連邦省)の要請を受けて2012年にはじまりました。名前にあるように人材を「養成」するプロジェクトであり、4年近い年月をかけてドイツの介護にたずさわる人材を養成するもので、即戦力となる人材を獲得したり、短期的にドイツで就労してもらう人を探すためのものではありません。長期的な視点で、人材を確保することを最終的な目標とし、その土台を築くプロジェクトです。

プロジェクトについて、時系列的な流れにそってみてみましょう。(BMWi, 2014)。

まず、2012秋から、ベトナムの看護資格をもつ人々を対象にインターネットなどで募集がかけられました。ベトナムの看護師が資格対象とされたのは、ベトナムではいまでも家族が高齢者を基本的に世話しており、介護施設というものがほとんどないため、介護福祉士という専門的な職業や資格もまたないためです。このため、病気の患者を扱う看護師資格所有者がドイツでの介護福祉士養成の対象となります。

最終的に100人が選ばれ、2013年3月から8月までの半年間ベトナムのハノイで、ドイツ語の語学やほかの研修を受け、渡航の準備をします。その後2013年9月にドイツに入り、引き続きドイツでの研修を受けました。この間、旅行や見学会などレクリエーション行事も開催され、ドイツの生活に慣れるだけでなく、研修のメンバーたちの間の親交を深めることが配慮されました。

そしていよいよ2014年から2016年の3年間、研修生として、各地の介護施設に数人ずつ配置され、実地での研修を受けました。上述のように、ベトナムでは介護施設がないため、介護に必要な専門的な知識や技術を、ドイツの介護施設で直接学んでいくというプログラムです。ドイツ語学習も継続して行われ、最終的に必要な学力レベル(レベルB2)に到達するよう促されます。

研修期間最後には、ドイツの介護福祉士に必要な資格試験を受けます。あらかじめ合格すれば、ドイツでそのまま正規の介護福祉士として就業することが可能であり、その際は、ドイツ人と同額の給料も保証されていました。

ドイツの問題と対策

ところで、海外に介護人材を求める動きが世界的に同時に起きているなかで、ドイツは、決して有利な立場になく、むしろ不利な点が多いと考えています(BMWi, 2014)。

まず、英語圏の国に比べ、ドイツ語という言語の問題だけで、敷居が高くなってしまうこと。また、アメリカなどの移民大国と比べ、同じ祖国の移民たちのネットワークも整っていないこと。さらに、排外主義的なデモや暴動が各地で起こり、それが世界的に報道されることも気がかりです。実際に、海外からの介護スタッフが、ドイツの一部の住民の人種差別的な態度を経験することも、これまでたびたびありました(Menschner, 2018)。

このような不利な状況があっても、不安を抱かせずに多くの人材にドイツに来てもらうため、プロジェクトでも、海外からの人材を歓迎する雰囲気を社会全体にもりたて、同時に魅力的な職場を実際につくっていくことが重要だとし(BMWi, 2014, S.18)、研修生や研修生の周囲の環境や職場にも様々な配慮されていました。

配慮や対策として、とりわけ効果的であり重要だったと思われることは、以下の二つです。

公平・対等な関係性

まず、一つ目は、雇用関係や、国どうしの関係においての公平で対等な関係を保つことです。これは、2010年WHO(世界保健機関)の総会で定められた「保健医療人材の国際採用に関するWHO 世界実施規範」という倫理的な指針に基いたもので(これについては次回の記事「帰らないで、外国人スタッフたち 〜医療人材不足というグローバルでローカルな問題」で詳述します)、就労者としてドイツで正規に働く際は同じ給料をもらうなど、同じ就労条件で働くことだけでなく、国としてドイツでなく、人材供給国にとってもメリットをもたらすものである関係を徹底させることを意味します。

具体的に言うと、人材を供給する国にとっても、発展するために必要な人材や、技術や知識の伝授し後継者を育成するための人材が必要であることに配慮し、ドイツに連れてくる人材の質や量がこれらに支障をきたさないよう考慮します。人材は、優秀な人材の余剰がある国からだけにとどめ、その国にも、長期的にみると、ドイツで学んだ技術やノウハウを供給国に伝え、介護レベルの向上をはかる手伝いができるようにします。

このようなドイツの姿勢は、パートナー国であるベトナム側からも支持されており、プロジェクトへの経済的な支援を含め、ドイツへの派遣を後押しする協力的な体制を維持しています(BMWi, 2014, S.17 , Klaus Watzka 2018)。

ちなみに、ヴァツカは、ベトナムだけでなくドイツにとっても公平である条件として、養成課程をはじめるにあたって、例えば、養成課程修了後、5年間はドイツで働くというようなことを契約で義務付けることも提案しています。

ドイツでの生活や就労を早く快適にしてもらうための配慮

もうひとつは、介護研修生一人一人の目の高さにあったケアです。

ベトナムとドイツでは、生活環境だけでなく、生活の上での習慣やメンタリティーも非常に異なっており、20歳前後のベトナムからの若者たちにとって、仕事以前に生活のなかで戸惑うことも多々あることが予想されます。

このようなベトナム人が生活や言葉、習慣的な困難を克服し、ドイツ人との間の誤解を取り除き、自信をもって就業できるように設けられたのが、メンター制度です。

研修生一人一人につけられたメンター(相談役)は全員、ドイツで生活するベトナムの移民的背景をもつ人たちです。研修生のドイツでの戸惑いや困難さをよく理解し、言葉の面でも母語が通じて問題なかったため、研修生とドイツを結ぶ重要なパイプ役を果たしたようです(BMWi, 2014, S.21-23)。

メンターへの相談でも解決できない問題や、専門的な問題がある場合は、さらに地域のコーディネーターが関わりました。地方のコーディネーターとメンターが連携することで、研修生のサポート体制は非常うまく機能していたようです(Peters, 2016, S.6)。

試験プロジェクトの結果

ほかにも、3年間の研修中、共通の休暇プログラムや文化プログラムが開催され、介護スタッフたちは、ドイツの生活になじむだけでなく、自分たちが、ドイツで大切に扱われていることを、様々な場面で、実感したのではないかと思います。

しかし、このプログラムが成功したかを見極める一番重要なファクトは、以下のようなものでしょう。100人中期間中に途中で研修から離脱した人は一人もおらず、最終的に93%という大多数が試験にも合格し、続けてドイツで正式の介護福祉士として働いています (Peters, 2016)。これ以上期待できないと言えるほど、このプロジェクトはよい結果に結びついたといえます。

このプロジェクトの応募には当初から大勢の人が関心を示し、また結果もめざましいものであったため、その後も同じようなプロジェクトが継続されています。毎年100人が選考され、若干変更された(ドイツ語研修はハノイで1年間となり、介護施設で必要とされるレベルB2と専門用語を集中的に学びます)同様のプログラムで、ドイツに続々と渡航しているといいます(Ausbildung)。

また、国の依頼でこのプロジェクトを実施したドイツ国際協力公社(GIZ)は、介護分野だけでなく、病気の人の看護分野でもベトナム人の養成プロジェクトを2016から2019年の3年間の計画で開始し、また今回のプロジェクトをモデルに、ロストック大学と共同で介護人材のベトナムからの導入プロジェクトをはじめる計画です(Rohstock, 2018)。

おわりに 〜今後の暗い展望と明るい展望

ドイツのベトナム人の介護スタッフの現在の受け入れの様子をみてきましたが、将来に目を向けると、暗い展望と明るい展望の両者が並存しているように思われます。

暗い展望
ひとつのプロジェクトが非常によい結果をだせたからといって、すべての研修生や、受け入れ先が今後も、うまくドイツに定着するとは限りませんが、この試験的なプロジェクトが「ドイツの人手不足にどう対処していけばいいのかという問いへの道をしめしてくれた気がする」(Pilotvrohaben)と、プロジェクト関係者が述べているように、このプロジェクトは、ドイツ側に確かな手応えを感じさせるものになったことは確かなようです。実際、このプロジェクトのあとにベトナム人に焦点をあてて人材を受け入れようとする動きが、各地ではじまっています。

しかし、長期的にみると、ベトナムからの介護福祉士に過剰に期待することは危険に思えます。ベトナムでは1970年ごろは出生率が7人を越していましたが、その後急激に下がり、2000年には2人になっています。その後は二度と2人を超えていません。今後、ベトナムでもほかの東アジアの国々のような少子高齢化が急速に進むのだとすれば、ベトナムからの介護福祉士が海外に出て行く時代は、それほど長く続かないように思われます。

明るい展望
ベトナムを最適国とする理由の一つとして、ドイツには見当たらないがベトナムには高齢者を敬う文化がある、という言及が、プロジェクトやほかの記事でもたびたびみられました。

ドイツ語圏の介護スタッフは、住人を一個人として尊重することが重視され、介護者として住人になれなれしくならない一定の距離が好まれる傾向があるのに対し、ベトナム人の高齢者を扱う在り方は、また一味違うものになる(あるいは少なくともドイツ人の間にはそう見える)のでしょう。

ベトナム介護スタッフたちがもちこんだ介護の仕方や文化が、ドイツの介護施設に新しい風をもたらし、ドイツとベトナムの介護文化のそれぞれのよい持ち味を合わせたハイブリットの介護文化がドイツの土壌にできあがれば(たとえベトナム人スタッフが将来ドイツで減ってしまったとしても)、介護施設の住民たちは、単なる人員不足緩和策以上の、恩恵を受けることになるでしょう。そうなることを期待せずにはいられません。

参考文献・サイト

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Peters, Verna et al. : Begleitung des Pilotprojekts Fachkräftegewinnung für die Pflegewirtschaft – Endbericht an das Bundesministerium für Wirtschaft und Energie, Berlin 2016

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Rostock: Pflegekräfte aus Vietnam, Stand: 27.08.2018 11:07 Uhr - Lesezeit: ca.2 Min.

Wallenfels, Matthias, Pflegeschule in Vietnam zur Fachkräftesicherung in Deutschland? Ungewöhnlicher Plan. In: Ärzte Zeitung online, 15.08.2018

Watzka, Klaus, Fachkräftemangel in der Pflege: Kritische Situationsbewertung und Skizzierung einer Handlungsalternative – In: Jenaer Beiträge zur Wirtschaftsforschung, Jahrgang 2018 / Heft 2, S.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


移民の模範生と言われる人々 〜ドイツに移住したベトナム人の半世紀

2019-04-03 [EntryURL]

移民をテーマにした4回のシリーズ

日本では、昨年、国内で深刻に不足する労働力を補完するため、出入国管理法を改正し新たな在留資格「特定技能1号・2号」を設けました。これによって今後5年間に海外から約34万人の人材が入ってくることが期待されています。

外国からの移住者が増えると、当然、職場だけでなく、地域社会の様々な場面で、移住者との多くの接点が生まれてきます。ショッピングやレストランなどの消費部門だけでなく、教育現場や医療現場、レジャー活動やボランティア活動領域にも、関係が築かれていき、新しい息吹が吹き込まれるのと同時に、課題や問題も生じてくることでしょう。

今回から4回にわたって、そのような「移民」をテーマとして扱ってみたいと思います。「労働力」という面に偏りがちな移民への視線を少しずらし、生き方や、受け入れ国との関係性、「労働力」としてのリスクなど普段見えにくい側面から、移民について考えていこうと思います。4回のレポートが、今後移民の就労をめぐり新しい局面に入っていく日本の状況を把握したり、将来を予想する時の、ヒントになればと思います。

具体的には、ドイツ語圏の移民に関するいくつかの旬な話題にスポットをあてていきます。まず今回は、西側諸国で共通して移民の模範生と評されることが多いベトナム出身の移民のドイツ社会での歩みについてみていきます。ベトナム人の歩みが、典型的な移民像とかけ離れたものであるため、社会で慣例的、固定的な移民の見方に執着せず、よりリアルな移民の現実やその多様性がとらえやすくなるのではないかと思います。

次回は、そのベトナムからの移民に、改めて強い期待がされているドイツの介護現場の状況と具体的な人材確保のための最新の動きについてレポートします。3回目は、海外からの人材を投入することで国内の人材不足状況が緩和されているような状況であっても、海外からの医療スタッフに依存することでかかえるリスクがあり、将来に向けての新たな課題もでてくることを、スイスの医療分野でのドイツ人の問題をみながら明らかにしていきたいと思います。そして最後の回では、ドイツの最近の事例をとりあげ、移住してきた人々との間のコミュニケーションの際に起こりうるシナリオや問題についてふまえた上で、そこでのコミュニケーションの可能性や、将来の展開の余地について考察してみたいと思います。

ドイツで異彩を放つベトナムからの移民

移民たちが、移住先の新天地で期待することはなんでしょう。平和で安定した生活、そしてできれば社会的な成功をもおさめることでしょう。このような期待感は、世界どこでもどの移民においてもほとんど変わらないと思われますが、それを実際に達成できるかには大きなばらつきがあります。正確に言えば、実現できる人は移民全体の割合では、わずかです。

しかし、世界のどこの移住先においても、ほかの国からの移民に比べ、社会への統合、とりわけ子供たち(二世代目に)の社会的な上昇に多大な資力と情熱を投じ、結果として、「成功したインテグレーションの模範例」(de Swaaf, 2016)と言われるほど、社会的な上昇を果たしている移民集団がいます。

それは、ベトナムからの移住者たちです。1970年代半ば以降、西側諸国各地にベトナムから多くの難民が移住していきましたが、同じ傾向がみられます。

ボートピープルとして入ってきた第一世代

ドイツに、ベトナムからの移民が来たのは1975年以降です。ベトナム戦争の難民としてやってきました。当時、アメリカの要請、68カ国の西側諸国が26万人の難民を受け入れることとなり、ドイツにも5万人近くが移住したといわれます。

このいわゆる「ボートピープル」と呼ばれるベトナムからの難民の受け入れについては、ドイツでは記録も研究もほとんどなく、不明な点が多いのですが、当時、ドイツ社会全体に歓迎する雰囲気が強く、そのことがベトナム人にも心理的に肯定的に働き、ドイツ社会に問題なく着実に根を下ろしていったと、歴史家オルトマーJochen Oltmerは言います(de Swaaf, 2016)。

ちなみに、東ドイツ側にも、1950年代から社会主義国間の連帯や協力関係という名目で、留学や労働目的でベトナム人が移住していきます。

ドイツの教育制度をばねに跳躍する第二世代

ドイツに移住してきたベトナム人たちの軌跡を、多数派の行動様式からまとめると以下のようなものであったようです。

ドイツに来た第一世代の大半は、故郷のベトナムで高い教育課程を受けていなかったにも関わらず、ドイツに来るとすぐ、自分のこどもたちの教育に熱心に取り組みはじめます。これだけ聞くと特別なことに聞こえないかもしれませんが、ほかの移民たちと比べると、それほど当たり前なことではありません。学歴が低い外国からの移民たちは、子どもの教育に熱心とは限らず、まして、貧困家庭では、こどもの学習が最優先されることは決して多くないためです。しかしベトナム人の家庭では、親の学歴が低いにも関わらず、子どもたちを、最初から、職業教育課程ではなくギムナジウムと呼ばれる(大学進学を前提とする)ドイツのエリート教育機関にいれることを目標にすることが多かったようです。

ただし、ドイツ語力の不足や、自分自身が長時間労働をしていたため、親が、直接こどもの面倒をみていたわけではありません。具体的になにをしていたかというと、小さいころから子どもたちに、小さい頃から保育園にあずけるなどしてドイツ人ほど流暢になるようドイツ語の習得をさせる学習環境を整え、必要ならば、低所得であっても、こどものたまに家庭教師を雇うなど、こどもの学習におしまず投資をしました。もちろん同時に、こどもたちに優秀な成績をとるよう、強く要望もします。

そのような親たちの要望を子どもたちは重く受け止め、おおむね、まじめに学業に取り組みます。最初に定住した難民収容施設などの、狭くプライバシーが少なく喧騒が絶えない住居に住んでいる子供たちも、全く同じように、努力する人が多かったようです。

この結果、二世代目以降の学歴は一気にあがっていきます。最終的に、高収入で社会的な地位も高い、医師や技師、研究者になる人も多くでてきました(de Swaaf, 2016)。現在、ギムナジウム(大学進学を前提とした教育課程で、いわゆるエリート校)にいくドイツ在住ベトナム人の割合は64%です。これはドイツ人よりも2割も高い水準です(Beglinger, 2017)。

このようにベトナム人自身が努力したことが、社会的な上昇のもっとも大きな要素でしょうが、ドイツという国が、義務教育から大学まで、基本的に学費が(公立であれば)かからず、優秀でさえあれば、高い学歴に達することができる恵まれた教育環境であったことも、第二世代が高学歴になるのに決定的に大きかったと思われます。

旧東ドイツ側に在住するベトナム人は、1980年代、冷戦締結前後に急激に失業者が増え、貧困に陥ったり、犯罪組織との関係が取りざたされた時期もありましたが、ドイツ統一後の1990年代以降の若者世代の多くは、西側ドイツの第二世代同様に、学業で優秀な成績をおさめ、社会的上昇するというサクセスストーリーを実現していくようになりました(Spiewak, 2009)。

他の国での類似する状況

1970年代半ば以降、西側諸国で主に暮らす海外在住のベトナム人の数は現在約4百万人いると言われます。アメリカ、オーストラリア、フランスなど、移り住んでいった国は多様ですが、共通して、2世代(20年)以内に、どの移民よりも社会的な統合(インテグレーション)がうまくいっていると指摘されます。

例えば、2015年にアメリカでキューバとベトナムからの難民を比較する研究がありましたが、これによると移住したころは、同じくらい英語ができず、教育程度も同じくらい低かったものの、現在は、貧困ラインより下にあるキューバ人が65%であるのに対し、ベトナムは35%のみであり、失業率はベトナム人よりキューバ人のほうがずっと高いという結果がでています。Beglinger, 2017.

アメリカでは今日ベトナム移民的の人が全部で180万人いますが、すでにベトナム系の住人の平均収入は53 000ドルで、アメリカ人の平均収入よりも高い(49 000 ドル)よりも高くなっています(Beglinger, 2017)。

インテグレーション理論が通用しないベトナム人

このようなベトナム人の目覚ましい社会へのインテグレーションは、西側諸国であまりに一般的になっており、特別のことではないようにみえますが、改めて考えると、すごいことに違いありません。

なぜ、ほかの移民では不可能なことが、ベトナム人の間では、しかもたった二世代分の時間で可能となったのでしょうか。そのことについて触れる前に、基本的な社会の見解で、一般的な移民政策の指針ともなっている理解との兼ね合いについて指摘しておきたいと思います。

ヨーロッパでは、先ほども少し触れましたが、教育水準と社会の貧困とを関連して理解されることが一般的です。まず、貧しい家庭であれば、教育に関心が低い。あるいはたとえ親が教育に関心もっていたとしても、貧しい家庭ではこどもの教育レベルをあげるのが難しい。つまりそのような教育機会の「不平等」があるため、それを緩和するために、様々な改革案が思案されたり、実際に導入されてきました(スイスの例は、「急成長中のスイスの補習授業ビジネス 〜塾業界とネットを介した学習支援」)

また、親の学歴とこどもの教育への熱心さが関連あるという見解もよくみかけます。大学卒の親は、自分たちのこどもたちに高い学歴をつけさせようと非常に熱心であり、逆に学歴が低い親は、大学などの高学歴にそれほどの関心や熱意をもたない、というものです。

しかし、この二つの一般的にも学問的にも高い支持を得ている見解は、ベトナム人の事例をみると、ことごとく反証されてしまいます(Spiewak, 2009, Beglinger, 2017)。学歴が低く、貧困層としてドイツでの生活をスタートさせたにも関わらず、二世代の間に、ドイツ人よりも人口比で2割も高いギムナジウム進学率にいたったということは、ベトナム人のこどもたちの進学率をあげるために、貧困を克服することも、学歴の低い親に子供への教育への関心を高めるよう働きかける必要もなかったことになります。

しかし、だからといって、このベトナム人の反証例を、ほかの移民たちの場合にもあてはめようとするとそれもまた、無理があります。貧しい人が多く学歴も低い場合が多い移民たちは、通常、こどもの進学率が低いためです。トルコやイタリア系の移民のギムナジウム進学率は、ベトナム人の5分の1以下です(Beglinger, 2017)。

儒教圏という解釈

つまり、このインテグレーションの理論に照らし合わせると、ベトナム人が、移民のなかでは、例外であり、ベトナム人のドイツ社会での成功を説明するのに、インテグレーションの王道の理論とは別の説明が必要ということになります。

それでは、どのような説が適切なのでしょうか。移民をグループに細分化してそこに説明や解釈をつけようとすることは、ステレオタイプ化を助長し、区分した一方に対し人種差別的な偏見をもつという危険に近づくことにもなります(Beglinger, 2017)。このため、このような説明には慎重さが必要ですが、受け入れ先の社会の在りようや、受け入れ体制に違いがあっても、インテグレーションがうまくいっているため、ベトナム人自身になにか、ほかの移民と異なる特徴があることは確かです。

一つの解釈として、現在、学際的にも広く受け入れられているのは、ベトナムに長く根付いている儒教思想やそれに基いた社会に根付いた実践パターンが大きな役割を果たしているというものです(de Swaaf, 2016, Beglinger, 2017)。

儒教の影響が強いアジアの国々では、ベトナムに限らず、教育が伝統的に重視されます。このため、親が、子どもの教育を親の最大の課題のように考えている場合も多いとされます。ザンクト・ガレン大学の経済教育学者 ドゥブスRolf Dubsによると、教育の在り方も儒教圏では独特だといいます。秩序や、教師などの教え方にのっとった統制された(自由でない)学び方が重んじられます(Beglinger, 2017)(この説にとってみれば、ドイツのほかの東アジアを中心とする国々の移民たちも、勤勉で、ベトナム系移民と同じような社会的上昇の傾向が強いことになりますが、ベトナム以外のアジアの国からの移民がベトナムほど大量にいないことと、比較できる調査も見当たらなかったため、ここではこれ以上、ほかの東アジアの移民については追及しません)。

この結果、よくいえば、どんな子供にもその子の学力が伸びると信じてあきらめず、平等にチャンスをあげようとする、姿勢といえますが、悪く言えば、子供に、成績優秀でなくてはならないというプレッシャーを常に与えることになります。

ちなみにこれは、中学卒業と同時に7割が職業訓練課程に進むスイスとは非常に対照的です。スイスでは、子どもの学業的な能力を子供の能力の一部分としか見ず、中学までの学校の成績でめざましいものがない生徒には、学業の道(ギムナジウム)に進むことをすすめず、むしろ、自分に合った職業教育を受けながら実践的な能力や技術を熟達させることを奨励します(「進学の機会の平等とは? 〜スイスでの知能検査導入議論と経済格差緩和への取り組み」)。

一方、社会へのインテグレーションに関して、ベトナム人のなかに、最近、興味深い新しい傾向が認められるようになりました。ドイツのベトナムからの移民について詳しいボイヒリングOlaf Beuchlingによると、数年前から、ベトナム系移民の子どもでも、インテグレーションが進んでいる子どもたちほど(つまりほかのドイツの子どもたちのなかに溶け込んでいる子どもたちほど)、学校の成績が下がるという新しい傾向が観察されるといいます(Beglinger, 2017)。

世代が進んでいくと、移民の故郷の文化や生活、親への期待にどう応えるべきかなどの倫理的な感覚なども、少しずつ変わってくる、という一般的な現象については、ベトナム人とても例外ではないようです。成績の下がり方は顕著なものではないそうですが、子供たちがドイツ社会になじめばなじむほど、逆に学業的には成績が下がりやすいという、この新しい現象は、ドイツ社会での子供たちの社会的な成功をなにより至上課題としている親世代にとっては、少し皮肉なことかもしれません。

おわりに

ベトナム人がドイツやほかの西側諸国に移住した地でそれぞれたどってきた軌跡はかなり特別ですが、同時に、そうであるのに、ほかの国からの移民たちに比べ、「ほとんど耳にすることがないし、見出しにのることもない」(Beglinger, 2017)ほど、社会に目立った存在になっていません。それほど、それぞれの地域で着実にインテグレーションされ(当地でも受け入れられている)てきた、ということなのでしょう。そして、そのこと(社会で注目されることがないほど、イテグレーションが普通にうまくいっていること)が実は、一番注目に値すべきことであるかもしれません。

さて、ここからなにか、学べることはあるのでしょうか。これから移民を受け入れる社会や、将来海外に移住する可能性のある人にとって、有用な教訓として引き出せることはあるのでしょうか。『ノイエチュルヒャーテャイツング』のベトナム人移民の特集記事の最後の文は、この点淡白です。なにかベトナムの事例から教訓が導き出せるのかと期待する読者を、「ベトナム人のインテグレーションの奇跡は説明できるが、簡単に模倣できるものではない」(Beglinger, 2017)、と突き放したまま、筆を置いています。

みなさんには、ベトナム人のドイツ社会での軌跡(奇跡?)が、どのように映るでしょうか。

参考文献

Beglinger, Martin, Warum sich Vietnamesen im Westen so gut zurechtfinden und als Integrationswunder gelten. In: NZZ, 18.8.2017

Burri, Anja, Ferien, Familie oder ein neues Smartphone – warum macht uns das nicht glücklich? In: NZZ am Sonntag, 23.3.2019

de Swaaf, Kurt, Die „Boat People“ und ihre Kinder. In: deutschland.de, 07.12.2016

Lueg, Andrea, SWR2 Wissen Musterschüler aus Vietnam – Aufsteiger im deutschen Bildungssystem, Stand: 11.10.2018, 12.17 Uhr

Spiewak, Marin, Integration: Das vietnamesische Wunder, 22. Januar 2009, 7:00 Uhr Editiert am 7. Februar 2012, 23:26 Uhr Quelle: DIE ZEIT, 22.01.2009 Nr. 05

Zucker, Alain, In der Gymi-Frage zeigt man sich als Vater nicht immer von der besten Seite. In: NZZ am Sonntag, 24.3.2019, S.20.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


持続可能性を追求した究極の建築 〜スイスではじまった野心的プロジェクト「Urban Mining and Recycling(Umar)」

2019-03-25 [EntryURL]

前回、スイスの建築家ブーザーの取り組みを中心に、建設現場での中古建設材料の利用状況やその可能性についてみていきました(「中古材料でつくる新築物件 〜ブリコラージュとしての建築」)。今回は、中古建築材料だけでなく、従来ゴミとして扱われているようなものにまで建築材料の対象をひろげ、それらで作った実験的な住居をみていき、その特徴(イノベーション)をまとめます。最後に、再利用全般を後押しするためのルールづくりの構想についても触れ、建築材料の再利用の今後を展望してみたいと思います。

Urban Mining and Recycling(Umar) 〜再利用の最新技術を結集させた実験的な住居

スイスの研究機関においても、持続可能な建築を目指す一環として、建築材料の再利用に関する研究が精力的に進められていますが、そのなかでも、現在、ひときわ目をひき、多くの人の関心を集めているのが、Urban Mining and Recycling (略名Umar) です。

これは、今日利用可能な建築材料の再利用の技術やアイデアを集大成して住居をつくるというプロジェクトで、2018年にスイスのデュベンスドルフDübendorf の研究開発用の建物の一部(中間部分)に、実際に建設されました(建設されたのはスイスですが、プロジェクトはドイツとスイス共同ですすめられました)。

それ以来、住居には学生二人が住みこんでおり、定期的に見学ツアーも開催されています。住み込んで問題が一切起きていないことで、リサイクル材料からモダンな建物を建設することが可能であることを証明し、また、その事実を、見学ツアーなどを通し人々に広く知ってもらう。このように実績を積みかさえ、それを公示することで、実用化に向けて大きく前進していくことが、プロジェクトのねらいです

このプロジェクトの立役者の一人でドイツとシンガポールで持続可能な都市や建築の研究をするヘイゼルFelix Heiselは、このプロジェクトの「イノベーションは、パーツの接合(の仕方)と材料の適切な利用にある」(Urban Mining & Recycling )と言います。ヘイゼルは、従来の建設方法ではみられない、画期的な建築材料の利用の仕方や視点が、この住居の特徴であると言っているのですが、具体的にそれが、どういうことなのか、以下、2点からまとめてみます(参考文献に掲載したこのプロジェクトのサイトから、その住居の写真やビデオがご覧になれます)。

接合の仕方がキー

ここでいう「接合」とは、建築材料を接合させることです。この住居では、接着剤のような粘着性のあるもので結合させるのではなく、詰め込んだり(圧縮)、折りこんだり、ねじなどで重ねあわせて固定する、といった方法で接合しており、これが非常に画期的なことということになります。

それがイノベーションと呼べるほど決定的に重要だというのは、逆に従来のやり方と比較するとわかりやすくなります。従来、建設では、固定させる手法として簡単なため、粘着性のあるもので結合する方法がよくとられます。しかし、粘着したもので接合してしまうと、その部分や一部が不要になったり、ほかのものと交換しなくてはいけなくなった時に、それが容易にはできません。

一方、粘着性のあるもので接着せずに、上記のような違う形で、簡単に破棄したり交換できるような接合しておくとどうでしょう。粘着のものより簡単にはずせ、工事の工程が早いだけでなく、代替する部分も最小限ですみます。不要になったパーツを、破損させることなく簡単に取り出すことも容易となり、それを別の機会に利用できる可能性も高まり、最終的にゴミも減ります。つまり時間と費用、資源の3点で節約ができます。

例として、サイトには、住居内の給排水管や空調の換気管が載っています。詳細の技術的な処置については記載されていませんが、その配置や固定の仕方が工夫されていて、全体や部分の交換がしやすくなっているということのようです。

再利用を促進するための技術やノウハウ

ブーザーの取り組みは、建設現場での中古建築材料の使用率をあげることに中心が置かれていましたが、このプロジェクトでは、建築材料のライフサイクル全体で、再利用を円滑に進めるための技術開発や手法の確立に、より重点が置かれています(ここでいう「ライフサイクル」とは、建築などの材料の生産から破棄されるまでの流れを指します。環境アセスメント(環境影響評価)の評価で、材料の環境負荷を総合的に把握するためによく使われる概念です)。

このため、屋根だった銅を溶かしたものをファサードにするなど、中古材料の再利用もみられますが、それ以外に、材料が次のライフステージ(再利用、再再利用など)に移行しやすくするための技術や処置がいたるところでみられます。これを、もっと具体的にいうと、建築材料として使われなくなった場合に、新しい付加価値や機能に変換しやすくなるように配慮したり、あるいは完全に破棄する場合にも環境への負荷がないものにする配慮です。

例をあげてみましょう。この住宅にある、食卓や椅子などに使われている木材にも化学的なコーティング(皮膜)をつけるなどの処置が一切ほどこされていません。家具として不要になった場合に、木材そのものの状態であれば、別の用途で利用がしやすくなりますし、壊れるなど利用ができなくなってしまった場合でも、簡単に土にもどせる(肥料にする)ためです。


前回紹介した展示「Baubüro in situ ag, Bauteilrecycling. Re: Kopfbau Halle 118, ZHAW, 19. Feb. bis 9. März, 2019」の一部


建築でごみをださない、土にもどせる、という観点から、有機的な生物の技術や特性を活用することにも積極的です。アメリカで発見された真菌類がからみあうこと強固で安定した建築資材をつくる技術や、室内の湿度調節に最適な真菌類を付着させた壁などが、住居で利用されています。

建築材料の枯渇を防ぎ再利用を促進するルールづくり

これまで建築現場での実際の取り組みや、最先端の研究で蓄積されてきている技術やノウハウについてみてきましたが、ここで改めて、現実をみわたしてみます。専門家の概算では、いまでもスイス全体で年間、建設現場で廃棄されているもののなかで、75000トンが、再利用可能なものであるとされますが、実際に再利用されているのは、そのうち1割にすぎません(Re-using houses, 2019)。

中古建築材料の市場は上述のように、すでに20年以上前からスイスに存在していますが、まだ建築の圧倒的多数は新しい材料を使ったものです。中古建築材料の再利用率をもっと高めるにはどうしたらいいのでしょうか。これまで、公的支援を一切受けず民間主導でやってきましたが、それでは限界があるとし、国や世界的な規模で、建設材料の再利用を促進するしくみやルールを共通して作り、後押ししていくべきだという意見があります。以下、具体的な二つの構想を紹介してみます。


前回紹介した展示「Baubüro in situ ag, Bauteilrecycling. Re: Kopfbau Halle 118, ZHAW, 19. Feb. bis 9. März, 2019」の一部


建築材料にもリサイクル料金を課す
建設において中古材料の再利用が滞るもっとも大きな理由は、再利用するより廃棄する方が、手間が少なく、安くつくためと考えられます。このため、建築材料購入の際にリサイクル料金を徴収するという案が、スイスの国会で提案されたことがありました (Wiederverwendung im Bundeshaus)。

2017年6月この「リサイクルのかわりに再利用」案を提案した、緑リベラル党議員ベルトシーKathrin Bertschyは、建築材料のリサイクルの国内市場が活性化させるため、新しい法律を作るのではなく、現在すでにスイスにある家電などを対象にした存在するリサイクル法の対象枠を、フローリングや窓、床Bodenplattenや洗面台にも拡大するというやり方を提案しました。そうすれば貴重な資源を有効に活用するということにつながるだけでなく、国内や地域経済の振興にもなる、と国会議員の説得につとめました。

彼女の概算では、スイスに入ってくる中国産の洗面台が、中古の洗面台の約半額で買えるが、100フランの洗面台に対し40ラッペン(約50円)のリサイクル料金を徴収することができれば、リサイクルが経済的に成り立つといいます。

しかし、大統領から、現状で建築材料のリサイクルは技術的に難しい点が多く、あと数年待つ必要があるだろうという意見が出され、結局、賛成71、反対111票で、この案は否決されました(ただし今回は否決されましたが、大統領も基本的な方針は正しいと認めていますので、将来また同じような提案が出され、いずれ、制度化される可能性はあると思われます)。

製造者の責任を明確に規定する
Urban Mining and Recyclingの共同設計者ヘイゼルFelix Heiselは、建築材料の再利用が進まない大きな理由として、責任の所在が(法的に)はっきりしていない欠落箇所があることをあげます。

建築材料には、製造者と使用者(ここで言われる「使用者」とは建造物を作る人なのか、その建造物のオーナーなのかはっきりしませんが)がいますが、建築材料に対する責任を誰がどういう形でとらなくてはいけないかは、現状では、はっきりしていません。このことが最大の問題だと指摘します。

そして、ヘイゼルは、今後、建築材料の製造者にしっかりとした責任をもたせるしくみ(措置)を世界的につくっていくことが理想だとします。逆に「それができれば、ずいぶん多くがなしとげられたことになる」と楽観的な見方を示しています(Umwelt Schweiz)。

おわりに 〜ゴミと蓄えの区別がなくなる時

「未来の都市は、ゴミと蓄え(供給品)を区別しない」(Mitchell, 2013)というアメリカのアーバンデザイナー、ミッチェルJoachim Mitchellの一文を、Urban Mining and Recyclingプロジェクト・チームはよく引用します。

世界的な建設資源の枯渇や乱開発、そして今後もつづくと思われる世界的な人口増加状況に対応した住居の供給など、世界的に建設をめぐり直面している状況は非常に厳しいですが、大量の「ごみ」が「蓄え」の宝庫になるほど再利用が進む時代、そんな理想的な時代が、本当に来るのでしょうか。

現状とミッチェルの一文とはあまりにかけ離れていて、今の段階では悲観も楽観もできませんが、今回の調査を通じて、これからの建築が目指すべきゴールとそれへの道筋は、これまでよりはっきりみえてきた気がします。

参考文献・サイト

Aus Abbruchhäusern entstehen neue Gebäude, Abfallwahnsinn – wie weiter?, Einstein, SRF, Donnerstag, 14. Februar 2019, 22:25 Uhr

Barbara Buser, S AM Schweiyerisches Architekturmuseum, 2017/08/09

Baubüro in situ ag, Bauteilrecycling. Re: Kopfbau Halle 118, ZHAW, 19. Feb. bis 9. März, 2019

Bauen mit Abfall und Recyclingmaterial, Science-World (2019年3月18日閲覧)

Bauteilclick.chのホームページ

Bauteilnetz Schweiz (建築部品ネットスイス)ホームページ(2019年3月18日閲覧)

Der Verband, der die Wiederverwendung von Bauteilen fördert, GESCHÄFTSBERICHT 2012 (2019年3月18日閲覧)

Die Wiederverwendung im Bundeshaus, Bauteilclick.ch (2019年3月18日閲覧)

K 118 Winterthur laufend, Gruppe: Wiederverwendung, bazbüro in situ (ヴィンタートゥア市で現在建設中の建設について)

Mitchell, Joachim, Turning waste into building blocks of the future city, BBC Online News, 28 May 2013

Retour de l’amiante. On en produit encore 1,4 milliards de kilos par an, 20.12.2018, 19h30 (建築部品の保存倉庫の様子のビデオ)

Re-using houses The recyclable building site of the futureJan 31, 2019 - 15:00

Umwelt Schweiz 2018: Bauen mit recycelten Materialien (2019年3月18日閲覧)

Urban Mining & Recycling, empa.ch (住居のビデオや写真がみられます。2019年3月18日閲覧)

Zukunftstrend: Trendig Wohnen im Müll? (2019年3月18日)

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


中古の建設材料でつくる新築物件 〜ブリコラージュとしての建築

2019-03-22 [EntryURL]

車、洋服、家具、本、雑貨。今日、多様なジャンルの中古品が、市場にでまわっています。とはいえ、中古物件がまだ市場としてほとんど成立していない分野もあります。中古建築材料の市場がそのひとつです(ここでは、室内インテリア備品を含め、建築物内に使われている建築資源や部品全般を、建築材料と表記していきます)。

建築材料は、先進国でもほとんど再利用がすすんでおらず、すでに資源や材料の枯渇が世界的に深刻な問題となっています。とりわけ、枯渇する資源として近年とりあげられることが多いのは砂です。コンクリートを製造するのに不可欠な砂を求め、いたるところで海岸や海底から砂を採掘する乱開発が歯止めなく進んでおり、このままでは海面上昇を待たずに、貧しい島々が続々と(文字通り、すくいとられて)消失するのでははないかと言われるほどです。

今後、世界的に人口増加が予測される中、現在のように、有限でかつ多大なエネルギーを使って材料を消耗するスタイルの建設を世界中で続けていけば、環境面の被害がより深刻になるだけでなく、増えていく人口に見合う住居を供給することもできなくなります。

さて、ではどうすればいいのでしょう。わかりやすい答えは、すでにでています。建築材料を再利用することです。すべての再利用が無理でも、再利用の割合を高めていけば、問題は概ね解決の方向に向かうはずです。

今回と次回の2回にわたり、建築材料の再利用をめぐる最新の取り組みについて、スイスからレポートします。建築業界と研究分野でみられる動き、また再利用を促進するためのルールづくりの構想をみていきながら、近い将来、建築の常識やスタンダードがどのように変わり可能性があるのか、あるいはどんな風に変わるべきなのかを、考えてみたいと思います。

中古の建築材料を使いやすくするしくみ

今回は、建築業界での具体的な材料の再利用状況にスポットをあてます。スイスでは、1990年ごろから、建築材料の再利用の取り組みがはじまりました。この取り組みのはじめから現在にいたるまで、中心となっている一人の建築家の歩みにそって、以下、その動きを概観してみます。

その建築家は、ブーザーBarbara Buser というスイス、バーゼル出身の現在60代半ばになる女性建築家です。彼女は、10年間アフリカでの仕事をおえて、1991年に、スイスに戻ってきた時、大きな違和感を覚えたといいます。アフリカで建設する際ほとんど破棄されるものがなかったのに、10年後にもどってきたスイスの建設現場では、以前と変わりなく、大量にゴミがでていたためです。

早速、彼女は、中古建築材料を利用しやすくする、しくみづくりに着手します。中古建築材料の販売を促進する協会を設立し、売買をバーゼルで開始し、その後、売買促進をスイス全国規模に拡大するため、公益団体、建築パーツネット・スイスBauteilnetz Schweizも設立しました。

それから20年以上たった今日、建築パーツネット・スイスは、中古建築材料の全国的オンラインショップBauteilclick.chを運営し、スイス国内に10箇所の拠点で、建築材料を管理、売買しています。それらを通じて売買される中古建築材料は、年間約3万5000点にのぼり、CO2排出量に換算すると4000トンが再利用により削減されている計算になるといいます。

ちなみに、この団体は、高価な建築部品の寿命の延命や、建築費用の節約、エネルギー消費の削減といった環境負荷を減らすことを目的としているだけでなく、当初から地域の雇用創出にも力をいれています。現在、失業者を中心に350人が、この公益団体で保管や管理、販売などの仕事に従事しています。


中古建築材料の例(展示「Baubüro in situ ag, Bauteilrecycling. Re: Kopfbau Halle 118, ZHAW, 19. Feb. bis 9. März, 2019」の一部)


中古材料でつくる新築物件

建築家であるブーザーは、自らも中古の建築材料を積極的に使い建設してきましたが、とりわけ現在建設中のものは、建設に必要な材料の大部分(8割)に中古にするという非常に冒険的な試みであるため、脚光を浴びています。

この前代未聞の新築の「中古」物件は、スイスの中都市ヴィンタートゥア市に計画されています。すでに建っている工場建物の上に、住宅や職場、共同スペースなどの12戸が増築という形で予定されています。

外壁には、近隣のレンガづくりの工場跡となじむように、赤く塗られたアルミニウムの板が貼られる予定ですが、そのアルミニウムや窓のすべては、かつてのヴィンタートゥアの印刷工場にあったものです。


チューリヒ応用大学建築学科内で今年開催された、この建設プロジェクトに関する展示
「Baubüro in situ ag, Bauteilrecycling. Re: Kopfbau Halle 118, ZHAW, 19. Feb. bis 9. März, 2019」の一部


内壁は、シンプルで自然、同時に高価ではない、藁や中古レンガなどを利用します。これらは環境負荷が少ないだけでなく、室内環境にも最適な温度や湿度を保つのに適切と考えられています。

室内インテリアにも中古材料が利用される予定です。展示場には、上下水道や空調などにつかわれると思われる管類や、洗面台など様々な材料が、設置される予定日を記した工程表とともに展示されていました。


展示「Baubüro in situ ag, Bauteilrecycling.
Re: Kopfbau Halle 118, ZHAW, 19. Feb. bis 9. März, 2019」の一部


利用する建設材料は、単に中古であるだけでなく、ほかにも、運搬が100km以内ですむもの、美的かつ高品質で、エネルギー効率や建築文化的にも適切であること、という厳しい条件を満たすものだそうです。起工の段階ではすべての必要な材料が集まっておらず、建築家みずから取り壊される予定の現場を訪ねて交渉を重ねるなど、手間ひまをかけながら、材料の収集作業は、建設と同時進行ですすめられたようです。

ブーザーの考える未来の建築のありかた

ブーザーの目指す建築について、建設材料の再利用に関するテーマからまとめてみると以下のようになると思われます。

ブリコラージュとしての建築
ブーザーの建築事務所インシトゥ Baubüro in situが作成した、この建築に関する展示資料には、この建設の構想が、フランス人人類学者がレヴィ=ストロース Claude Lévi-Straussが唱えた「ブリコラージュ」に沿うものであるとされています。ブリコレージュとは、「選択の余地が限られている時、近くで手にできるものをもちいて、なんとかやっていく」やり方(進め方)のことです(Baubüro in situ, 2019)。

ブリコラージュ的な建設とは、どんな材料を使いたいかを最初に考えるのではなく、限られた(中古の)材料の選択肢にあるものを、うまくやりくりして建物に作りあげることです。ブーザーたち
ブーザーは、そのような建築の仕方にこそ、建築の持続可能性や未来があると考えています。

古色蒼然
ブーザーは、中古だからといって価値が劣るということはないと強調します。中古であっても建設材料としての寿命が新品とほとんど変わらない場合は多いし、古いものには古いものの良さがあることを意味する「古色蒼然Patina」という言葉の語源が古代ギリシアにあるように、古いものに高い価値を見出すことも、とくに新しいことではないといいます。

なにが良い、あるいは美しいと判断するかは究極的に主観的な問題であるという見方もできますが、建築関係者や社会全体の間に、古いものを良しとする価値がどのくらい定着・普及するかが、中古材料の利用率を大きく左右することも事実です。

このため、少なくとも中古の建築素材だからといって抱かれがちな、古かろう悪かろう、というネガティブな先入観をもたず、そのものの価値を、ほかの特徴(形状や材質など)で判断したり、使い方や配置の仕方で材料や部品の価値をさらに高めるなど、建築を評価や利用の新しい作法が必要なのだ、とブーザーはいっているようです。

完成させず、未来や社会の人々にゆだねる
ブーザーは、スイスの人は最初から完璧なものを求める傾向が強いが、自分自身は10年間アフリカで働いたことをきっかけに、そのようなスイス人の傾向に疑問をもつようになったと言います。そして彼女が目指すようになったのは、完全に完成した形を最初から求めず、実際にその建築を利用していく人々に(その最終的な形や機能を)委ねる建築です。利用機能や価値が、静態的なものでなく常にダイナミックに変わっていく建築ともいえます(Barbara Buser, 2017)。

そのような建築においては、もはや、新築と中古の境ははっきりしませんし、そのような区分自体が重要なことでもなくなるのでしょう。このような視点から作られる建築だからこそ、中古のパーツもまた「中古」であることにとらわれず、それのより自由な活用法が見出されやすいのかもしれません。

次回は

次回は、材料の再利用の最新技術をもりこんで実験的につくられた住居に注目し、建築における再利用の問題に、さらに踏み込んでみたいと思います。
※参考文献やサイトは次回のサイトの下部に一括して掲載します。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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容姿、財産、若さそれとも知性? 〜パートナー選びは、社会の男女同権の程度を示すバロメーター

2019-03-07 [EntryURL]

みなさんがパートナー選びで、重視するのははどんなことでしょう。容姿、経済力、性格、それとも趣味でしょうか。

近年、ドイツ語圏では、パートナー選びを社会の男女同権の進展と関連づけて説明する見解が、たびたびメディアでとりあげられ、注目されています。男女同権は社会的な権利や枠組みです。それが、どんなパートナーを選ぶかというきわめて個人的な問題、異性のどこに魅力を感じ選考するかという生理的な問題に、本当に関係していのでしょうか。

今回は、この新説が注目されるきっかけとなった2015年に発表された論文(Zentner /Eagly, 2015)をもとに、パートナー選びの新しい傾向をご紹介してみたいと思います。

男女同権の進展度は国によって大きなばらつきがあり、男女同権がパートナー選びに与える影響は、現在、いたるところで鮮明になっているというわけではありません。他方、速度は別にしても、世界的に女性の社会進出や男女同権は今後、着実に進展すると考えられます。このため、男女同権によって進むパートナー選びの変化が、世界的に社会が今後どう変化していくのか、新説に基づき、時代を少し先取りして、一望できたらと思います。

レポートの後半では、このようなパートナー選びの変化が、逆に社会に対してはどんな影響を与えるのか。憂慮される三つのパターンをみていきながら、考察してみたいと思います。

生物心理学的な解釈

人が生涯のパートナーを選ぶ時、どんな点が優先されるのか。そして、それはなぜか。これらを説明するのに、心理学者たちは、最近までの数十年間、進化心理学的な見解を重視してきました。

進化心理学は、進化生物学的な解釈やメカニズムに基づき人間の行動や心理を明らかにしようとする学問領域です。パートナー選びの傾向を人間が過酷な環境で生き延びていくための手段や知恵の延長に位置づけ、パートナー選好を時代や地域に関係ない人類普遍的な傾向としてとらえ説明します。

それによると、パートナー選びの傾向は次のようにまとめられます。男性は、女性に若さやそれが象徴される肌の美しさなどの健康的な特徴を求めます。なぜかというと、こどもをたくさん産むことができる健康な女性をパートナーとしたいから。一方、女性が、パートナーの男性に求めるのは資金や経済力。なぜなら、子どもを一人前に育てるために有利な条件や安定した環境を確保したいと望むから。双方がそれらを最優先することで、多くの子孫を残す、という共通の目標に最大限近づくことができる。

しかし近年、人々のパートナー選びやパートナー関係では、こどもをもたないパートナー関係や離婚率の増加など、現状は、生殖に関するロジックから説明しようとする進化心理学的な見解では、十分カバーできないケースが増えてきました。

それは、現代において、人々が、より自由に主観的な判断や感情でパートナーを選ぶようになったということであり、社会環境や文化などの外的な要素の影響が減ったことを意味するのでしょうか。

男女同権という社会システム

そういうわけではない、とオーストリアの心理学者ツェントナーMarcel Zentnerとアメリカの心理学者イーグリーAlice Eaglyは共著の論文で言います(主著者であるツェントナーはそれまでもパートナーの選び方について自身の研究も積み重ねてきましたが、この論文自体は100件以上の関連するこれまでの多様な分野の論文を検証し、そこにあらわれた共通したものを、新しいパートナー志向の傾向としてまとめたものです)。

二人は、そうではなく、進化心理学的見解で重視されていたこととは異なる、別の要素が、パートナー選びに影響を与えているため、と考えます。それは、男女同権という制度やそれが具体的に構築する社会システムです。

ここ50年間、地域的な差は大きく、個人や世代によっても差異がありますが、全体として、西側諸国を中心に、社会でのパートナー関係や女性の置かれた状況は、大きく変化してきました。換言すると、男女同権の方向に大きく進展しました。

男女同権が進むことで、主観的な問題で、社会の制度などとは無縁に思える個々人のパートナー選びの志向にまで変化がでてきた、というのが、論文の主旨です。

男女同権社会でのパートナー選びの特徴

具体的に男女同権が進むことで、パートナー選びにどんな変化がみられるのでしょう。論文で提示されている、男女同権が進んだ社会でのパートナーの選びの傾向(特徴)をあげているのは、以下のようなものです。

男性は、女性の家事におけるクオリティ(クオリティの直訳は「質」ですが「能力」も含めた「質」を指していると思われます)の重視が減り、教育や知性を重視する傾向が強くなります。男女同権先進国のフィンランドでは、女性よりも男性のほうが、パートナーの学歴(修了課程)を重視する人の割合が高く、女性に美しさや丸みをおびた体つきより、知性を優先する男性のほうが多いという結果になりました。

一方、女性の方は、外見を、いままでよりむしろ重視する人増えてきました(経済力以外のファクターが女性でむしろ重視されるようになったと解釈できるかもしれません)。

また、女性が男性に求めるものと、男性が女性にもとめるものの差がなくなり、似通ってくる、というのも、男女同権が進んでいる国での特徴です。男女同権先進国のフィンランドで、この傾向は顕著でした。全般に、男女ともに同じような学歴や生活背景の人を選ぶことも増えてきました。

これらの、男女同権の進んだ国に観察されるようになった傾向は、ひとつの社会だけみていると、変化がみえにくく、認識されにくいですが、男女同権が進んでいない国と比較すると、とらえやすくなります。例えば、男女同権が進んでいない国では、女性は男性に経済力や資金力があるかを重要な項目とし、男性は女性の若さを重視するという(従来の進化心理学的な解釈で説明できる)傾向が今でも強くみられます。トルコでは、パートナーの収入が重要と思う女性の割合が、フィンランドに比べ2倍いました。

以下の表は、男女同権と新しいパートナー志向の強い相関性をまとめたものです。X軸が男女同権の進行度(Gender Gap Index, 2010右側にいくほど進んでいる)、Y軸が男女のパートナー選びの際の差異の大きさ(上にいくほど差異が大きい)を示しています。男女同権がもっとも進んでいるフィンランドで差異が最少である一方、男女同権が進んでないトルコでは、差異が大きくなっています。


お金のあるところに愛がある

フィンランドのように男女同権が進んでいる国は、もともと女性や男性の好みが違ったのではないか。つまり、フィンランドの特徴は、男女同権が直接関係しているとは言えないのでは、と思われる方もいるかもしれません。

しかし、そのような疑いは、パートナー選びの傾向と男女同権の関係を国際比較した研究によって根拠がないものとわかります。2012年のツェントナーの研究では、10カ国3177人と、31カ国8952人を対象に、二回パートナー選びで重要なことについて聞くインターネットアンケート調査を行いました。その結果はどちらもほぼ同じで、男女同権強い国では、伝統的なパートナーに求める型がなくなる傾向となり、男女同権が弱い社会ほど、経済力のある男性、若い女性、という均一的な好み(一定の型)がみられました(Gleichstellung, 2012)。

つまり、ここでは、フィンランドなどの地域の特殊性より相対的な傾向が強くみられます。それぞれの国や地域によって若干の違いはあるにせよ、現在の先進国においては、100年前から少しずつ女性の社会での進出のしくみを整備してきたヨーロッパやアメリカ全体の歴史の潮流から大きく外れずに歩んできており、それによる影響が、どの国にも例外なく、相対的に、パートナー選びに現れている、という現象です。

蛇足になりますが、20年ほど前に、たしかフィンランドに伝わる、ということわざを聞いたことがあります(ただし、もしもわたしの記憶違いで、フィンランドではなくほかの国のことわざであったとしたら、ご容赦ください。訂正すべき点をご存知の方がいらしたら、ご指摘していただけるとありがたいです)。それは、「お金のあるところに愛はある」というものでした。社会風刺のようにもとれますが、フィンランドとて、ほかの国となんら違わず、長い(進化心理学的な説明がおおむね適用可能だった)歴史の上では、経済力のある男性が女性にもてやすい、つまりパートナー選びで選ばれやすいという現象が、フィンランドで一般的に認めていた。このことを、このことわざは雄弁に物語っているように思われます。

このように男女同権とパートナー選びにはっきりした相関関係が認められるのなら、逆に言うと、社会でどんなパートナーが好まれるかをみることで、その社会の男女同権の程度がわかる、つまり、パートナーの好みが、男女同権の程度を示す一種のバロメーターにもなっている、と言うこともできるでしょう。

男女同権の社会が抱え込んだ深刻でリアルな問題

男女同権社会化がすすみ、パートナー選びに影響がでるという新説がわかったところで、ここからは、論文を離れて、このような新しいパートナー選びの傾向が本当であったら、社会にどのような影響を与えるのかを考えていきたいと思います。

論文では男女同権社会では、同じような学歴や類似した社会環境の人を選ぶことが増えていくということが指摘されていました。同質的な社会背景や学歴をもつ二人が、パートナーとなること、これはパートナーとなった二人にとっては、いたって自然ななりゆきで、なんの問題ももちろんないでしょうが、他方、この現象が社会全体に広がっていくと、社会に少なからぬネガティブな影響がでてくると危惧されます。その三つのパターンを以下あげてみます。

1。ダブル・キャリアとノン・キャリア
歴史家マイセンは、家族やパートナー関係の二人がどちらも高いポジションを占める「ダブル・キャリア」組と、そうでない組ができるといいます。

当然ですが、管理職や教授職など高いポジションの数は、どのような組織や企業でも限られた数しかありません。このため、二つのポジションを両方ともを、高い学歴どうしの一つの家族(あるいはパートナー関係の人たち)がとってしまうと、逆に、二人がどちらも高いポジションにつけない家族がでてくることになります。

このような現象は、社会格差に拍車をかけるという点で、「社会全体からみると、問題だ」とマイセン(Maisen, 2018)は警鐘を鳴らします。

近年、パートナー選びがオンライン上でされることが多いことも、このような傾向を強めるかもしれません。

現実の出会いからパートナー選びをはじめる場合は、偶然の要素がカップリングに影響を与える可能性がありますが、オンラインのパートナー選びのアルゴリズムでは、収入や学歴、出身など、事前に希望した条件があれば、それに合わない人に会うことはまずありません。事前にこれらの条件でふるいにかけてマッチした候補者だけにしか出会えないこのシステムでは、同質のクオリティの人同士がカップルになる可能性がきわめて高くなります。ちなみに、アメリカではすでに結婚する人の3人に一人がこの方法でパートナーをみつけています(Fuster, 2019)。

2。社会が階層化し、それが固定化
富める人どうしがパートナーとなることで、その人たちはさらに富みを増やしますが、その一方、貧困層はさらに貧困になります。結果として、社会格差が広がり、それが常態化し、固定化していきます。

社会動態が著しく停滞するという意味では、さながら、社会が階層化していた前近代の時代にまいもどったかのような状況になることが危惧されます(現代社会が階層化し前近代のような様相になっていくという指摘は、ほかの方面からも指摘されています。「人出が不足するアウトソーシング産業とグローバル・ケア・チェーン」。)

3。パートナーをもたない人、結婚しない人が増える
今日、教育だけに限ってみると、男女同権のレベルをすぎ、女性の学歴が男性の学歴と逆転し、高くなる傾向がつづいています。

例えば、スウェーデンでは昨年大学入学登録した人の割合は女性が57%(男性は43%)でしたし、スイスで大学入学資格を取得した人の割合は女性が56%でした。アメリカとフランスではすでに女性のほうが大学卒業者が10%多くなっており、スロベニアやエストランドでは20%にまでなります。世界全般にそこのような女性のほうの学歴が高くなる傾向があることが、世界銀行の最新のレポートでも報告されています(Rost, 2019)、

このような教育上の傾向が続くあるいは維持され、同時に、同等あるいはそれ以上の学歴の異性を求める志向もまた続くのであれば、結果はどうなるでしょう。男女ともにパートナーをみつけにくくなります。

つまり、社会全体としてみると、パートナーをもたない、もてない人たちが増えることになり、家族やこどもをもたない人も増えることになります。男女の学歴の差が、パートナーをみつけるのに大きな支障になる衝撃的な事例は、すでにあります。東ドイツの出生率が0.8まで落ち込んだ原因をさかのぼると、男女で学歴に大差があったことが、大きかったというものです(詳細は「出生率0.8 〜東西統一後の四半世紀の間に東ドイツが体験してきたこと、そしてそれが示唆するもの」)。

それへの解決方法は?

今回取り上げたパートナー選好の新説が本当に正しいのかという問題とは別に、この三つのシナリオは、すでに先進国で起こってきているものであり、今後、深刻な打撃を社会に与える大きなテーマとなってくるかもしれません。

なにかできる対策はないのでしょうか。歴史家マイセンは、「このジレンマの社会福祉的観点に即した解決策は、女性が再び台所にもどることでもないし、以前のモデルのように医者が女性看護師と結婚することではないだろう」と明記した上で、「しかし、もしかして女性医師が男性看護師というのは?」と問いかけます。

女性医師と男性看護師という組み合わせは、高いキャリアや学歴の女性と、そうではない男性のパートナー関係を象徴しています。つまり、男女同権でなかったころの傾向(この例に沿っていえば、男性医師と看護師のカップル)でも、現在増えてきている男女同権の影響がみられるパートナー傾向(男性医師と女性医師のパターンや、男女両方とも看護師のパターン)でもない、新しい時代の新たなパートナー選びのパターンができないか、というオープンな問いかけです。

100年前や50年前、あるいは20年前のドラマや映画をみていて、いかに男女のふるまいやパートナーの役割分担が、この間で変化してきたのかを実感し、愕然とすることがありますが、そう考えると、今後も、パートナーの選び方も、今みえてきた方向にだけ進まず、また新しく変化していくのも可能な気がしてきます。しかしそれはどのような形で可能になるのでしょうか。

確かなことは、近未来において、社会が目にみえない階級のようなものができあがって、あたかも封建時代にまいもどったかのような特権階級と貧民層に分化する社会になる傾向や、格差の広がりや出生率の低下による(労働)人口の減少などは、社会全体としては、決して好ましくないということです。

男女同権という新しい自由を手にいれた人々が、今後、パートナーとなる人を、学歴や収入で狭い選択肢から選ぶ(あるいは選択肢が狭くなりすぎて選べなくなる人が続出する)のではなく、もっと広い視座から選びたくなる社会、そのようなパートナー選びをする人の背中を押し、共感し、応援するようなオープンな社会で、これからの社会であってほしいと願います。

参考文献

Fuster, Thomas, Gegensätze ziehen sich eben doch nicht an – das vertieft die sozialen Gräben. In: NZZ, 25.2.2019, 08:12 Uhr

Gleichstellung verändert Partnerwahl, Science, ORF.at, Kategorie: Gesellschaft Erstellt am 07.09.2012.

IQ vor Schönheit. Worauf achten Männer bei der Wahl ihrer Partnerin? Eine neue Studie stellt ein Klischee auf den Kopf. In: Berner Zeitung, 2016-02-10 14:56

Maissen, Thomas, Strategien gegen den sozialen Abstieg, Gastkolumne. In: NZZ am Sonntag, 2.12.2018, S.18.

Mehr Frauen mit besserer Bildung. In: Neue Zürcher Zeitung, 14.10.2016, S.15.

Partnerpräferenzen und Partnerwahl, Universität Innsbruck (2019年3月3日)

Psychologie: Männer wollen kluge Frauen, Medieninformation, Universität Innsbruck, 10.2.2016

Rest, Katja, Gebildeten Frauen gehen die Partner aus, Gastkolumne. In: NZZ am Sonntag, 17.2.2019.

SWR2 Wissen. Das Geheimnis der Partnerwahl -Konvention und EvolutionVon Iska SchreglmannSendung: Donnerstag, 14. Februar 2019, 8:30 Uhr, Redaktion: Charlotte GrieserRegie: Christiane Klenz Produktion:BR 2018

Zentner, Marcel, & Eagly, Alice H. (2015). A sociocultural framework for understanding partner preferences of women and men: Integration of concepts and evidence. European Review of Social Psychology, 26(1), 328-373.

Zentner, Marcel, This is what dating could look like 100 years in the future, MODERN MATING. In: Quarz, December 26, 2017

Zentner, M., & Mitura, K. (2012). Stepping out of the caveman’s shadow nations’ gender gap predicts degree of sex differentiation in mate preferences. Psychological Science, 23, 1176-1185.

わたしが参照したのは、この論文そのものでなくそれについてまとめた以下の記事です。
Gleichstellung verändert Partnerwahl. Science ORF at, Kategorie: Gesellschaft Erstellt am 07.09.2012.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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