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容姿、財産、若さそれとも知性? 〜パートナー選びは、社会の男女同権の程度を示すバロメーター

2019-03-07 [EntryURL]

みなさんがパートナー選びで、重視するのははどんなことでしょう。容姿、経済力、性格、それとも趣味でしょうか。

近年、ドイツ語圏では、パートナー選びを社会の男女同権の進展と関連づけて説明する見解が、たびたびメディアでとりあげられ、注目されています。男女同権は社会的な権利や枠組みです。それが、どんなパートナーを選ぶかというきわめて個人的な問題、異性のどこに魅力を感じ選考するかという生理的な問題に、本当に関係していのでしょうか。

今回は、この新説が注目されるきっかけとなった2015年に発表された論文(Zentner /Eagly, 2015)をもとに、パートナー選びの新しい傾向をご紹介してみたいと思います。

男女同権の進展度は国によって大きなばらつきがあり、男女同権がパートナー選びに与える影響は、現在、いたるところで鮮明になっているというわけではありません。他方、速度は別にしても、世界的に女性の社会進出や男女同権は今後、着実に進展すると考えられます。このため、男女同権によって進むパートナー選びの変化が、世界的に社会が今後どう変化していくのか、新説に基づき、時代を少し先取りして、一望できたらと思います。

レポートの後半では、このようなパートナー選びの変化が、逆に社会に対してはどんな影響を与えるのか。憂慮される三つのパターンをみていきながら、考察してみたいと思います。

生物心理学的な解釈

人が生涯のパートナーを選ぶ時、どんな点が優先されるのか。そして、それはなぜか。これらを説明するのに、心理学者たちは、最近までの数十年間、進化心理学的な見解を重視してきました。

進化心理学は、進化生物学的な解釈やメカニズムに基づき人間の行動や心理を明らかにしようとする学問領域です。パートナー選びの傾向を人間が過酷な環境で生き延びていくための手段や知恵の延長に位置づけ、パートナー選好を時代や地域に関係ない人類普遍的な傾向としてとらえ説明します。

それによると、パートナー選びの傾向は次のようにまとめられます。男性は、女性に若さやそれが象徴される肌の美しさなどの健康的な特徴を求めます。なぜかというと、こどもをたくさん産むことができる健康な女性をパートナーとしたいから。一方、女性が、パートナーの男性に求めるのは資金や経済力。なぜなら、子どもを一人前に育てるために有利な条件や安定した環境を確保したいと望むから。双方がそれらを最優先することで、多くの子孫を残す、という共通の目標に最大限近づくことができる。

しかし近年、人々のパートナー選びやパートナー関係では、こどもをもたないパートナー関係や離婚率の増加など、現状は、生殖に関するロジックから説明しようとする進化心理学的な見解では、十分カバーできないケースが増えてきました。

それは、現代において、人々が、より自由に主観的な判断や感情でパートナーを選ぶようになったということであり、社会環境や文化などの外的な要素の影響が減ったことを意味するのでしょうか。

男女同権という社会システム

そういうわけではない、とオーストリアの心理学者ツェントナーMarcel Zentnerとアメリカの心理学者イーグリーAlice Eaglyは共著の論文で言います(主著者であるツェントナーはそれまでもパートナーの選び方について自身の研究も積み重ねてきましたが、この論文自体は100件以上の関連するこれまでの多様な分野の論文を検証し、そこにあらわれた共通したものを、新しいパートナー志向の傾向としてまとめたものです)。

二人は、そうではなく、進化心理学的見解で重視されていたこととは異なる、別の要素が、パートナー選びに影響を与えているため、と考えます。それは、男女同権という制度やそれが具体的に構築する社会システムです。

ここ50年間、地域的な差は大きく、個人や世代によっても差異がありますが、全体として、西側諸国を中心に、社会でのパートナー関係や女性の置かれた状況は、大きく変化してきました。換言すると、男女同権の方向に大きく進展しました。

男女同権が進むことで、主観的な問題で、社会の制度などとは無縁に思える個々人のパートナー選びの志向にまで変化がでてきた、というのが、論文の主旨です。

男女同権社会でのパートナー選びの特徴

具体的に男女同権が進むことで、パートナー選びにどんな変化がみられるのでしょう。論文で提示されている、男女同権が進んだ社会でのパートナーの選びの傾向(特徴)をあげているのは、以下のようなものです。

男性は、女性の家事におけるクオリティ(クオリティの直訳は「質」ですが「能力」も含めた「質」を指していると思われます)の重視が減り、教育や知性を重視する傾向が強くなります。男女同権先進国のフィンランドでは、女性よりも男性のほうが、パートナーの学歴(修了課程)を重視する人の割合が高く、女性に美しさや丸みをおびた体つきより、知性を優先する男性のほうが多いという結果になりました。

一方、女性の方は、外見を、いままでよりむしろ重視する人増えてきました(経済力以外のファクターが女性でむしろ重視されるようになったと解釈できるかもしれません)。

また、女性が男性に求めるものと、男性が女性にもとめるものの差がなくなり、似通ってくる、というのも、男女同権が進んでいる国での特徴です。男女同権先進国のフィンランドで、この傾向は顕著でした。全般に、男女ともに同じような学歴や生活背景の人を選ぶことも増えてきました。

これらの、男女同権の進んだ国に観察されるようになった傾向は、ひとつの社会だけみていると、変化がみえにくく、認識されにくいですが、男女同権が進んでいない国と比較すると、とらえやすくなります。例えば、男女同権が進んでいない国では、女性は男性に経済力や資金力があるかを重要な項目とし、男性は女性の若さを重視するという(従来の進化心理学的な解釈で説明できる)傾向が今でも強くみられます。トルコでは、パートナーの収入が重要と思う女性の割合が、フィンランドに比べ2倍いました。

以下の表は、男女同権と新しいパートナー志向の強い相関性をまとめたものです。X軸が男女同権の進行度(Gender Gap Index, 2010右側にいくほど進んでいる)、Y軸が男女のパートナー選びの際の差異の大きさ(上にいくほど差異が大きい)を示しています。男女同権がもっとも進んでいるフィンランドで差異が最少である一方、男女同権が進んでないトルコでは、差異が大きくなっています。


お金のあるところに愛がある

フィンランドのように男女同権が進んでいる国は、もともと女性や男性の好みが違ったのではないか。つまり、フィンランドの特徴は、男女同権が直接関係しているとは言えないのでは、と思われる方もいるかもしれません。

しかし、そのような疑いは、パートナー選びの傾向と男女同権の関係を国際比較した研究によって根拠がないものとわかります。2012年のツェントナーの研究では、10カ国3177人と、31カ国8952人を対象に、二回パートナー選びで重要なことについて聞くインターネットアンケート調査を行いました。その結果はどちらもほぼ同じで、男女同権強い国では、伝統的なパートナーに求める型がなくなる傾向となり、男女同権が弱い社会ほど、経済力のある男性、若い女性、という均一的な好み(一定の型)がみられました(Gleichstellung, 2012)。

つまり、ここでは、フィンランドなどの地域の特殊性より相対的な傾向が強くみられます。それぞれの国や地域によって若干の違いはあるにせよ、現在の先進国においては、100年前から少しずつ女性の社会での進出のしくみを整備してきたヨーロッパやアメリカ全体の歴史の潮流から大きく外れずに歩んできており、それによる影響が、どの国にも例外なく、相対的に、パートナー選びに現れている、という現象です。

蛇足になりますが、20年ほど前に、たしかフィンランドに伝わる、ということわざを聞いたことがあります(ただし、もしもわたしの記憶違いで、フィンランドではなくほかの国のことわざであったとしたら、ご容赦ください。訂正すべき点をご存知の方がいらしたら、ご指摘していただけるとありがたいです)。それは、「お金のあるところに愛はある」というものでした。社会風刺のようにもとれますが、フィンランドとて、ほかの国となんら違わず、長い(進化心理学的な説明がおおむね適用可能だった)歴史の上では、経済力のある男性が女性にもてやすい、つまりパートナー選びで選ばれやすいという現象が、フィンランドで一般的に認めていた。このことを、このことわざは雄弁に物語っているように思われます。

このように男女同権とパートナー選びにはっきりした相関関係が認められるのなら、逆に言うと、社会でどんなパートナーが好まれるかをみることで、その社会の男女同権の程度がわかる、つまり、パートナーの好みが、男女同権の程度を示す一種のバロメーターにもなっている、と言うこともできるでしょう。

男女同権の社会が抱え込んだ深刻でリアルな問題

男女同権社会化がすすみ、パートナー選びに影響がでるという新説がわかったところで、ここからは、論文を離れて、このような新しいパートナー選びの傾向が本当であったら、社会にどのような影響を与えるのかを考えていきたいと思います。

論文では男女同権社会では、同じような学歴や類似した社会環境の人を選ぶことが増えていくということが指摘されていました。同質的な社会背景や学歴をもつ二人が、パートナーとなること、これはパートナーとなった二人にとっては、いたって自然ななりゆきで、なんの問題ももちろんないでしょうが、他方、この現象が社会全体に広がっていくと、社会に少なからぬネガティブな影響がでてくると危惧されます。その三つのパターンを以下あげてみます。

1。ダブル・キャリアとノン・キャリア
歴史家マイセンは、家族やパートナー関係の二人がどちらも高いポジションを占める「ダブル・キャリア」組と、そうでない組ができるといいます。

当然ですが、管理職や教授職など高いポジションの数は、どのような組織や企業でも限られた数しかありません。このため、二つのポジションを両方ともを、高い学歴どうしの一つの家族(あるいはパートナー関係の人たち)がとってしまうと、逆に、二人がどちらも高いポジションにつけない家族がでてくることになります。

このような現象は、社会格差に拍車をかけるという点で、「社会全体からみると、問題だ」とマイセン(Maisen, 2018)は警鐘を鳴らします。

近年、パートナー選びがオンライン上でされることが多いことも、このような傾向を強めるかもしれません。

現実の出会いからパートナー選びをはじめる場合は、偶然の要素がカップリングに影響を与える可能性がありますが、オンラインのパートナー選びのアルゴリズムでは、収入や学歴、出身など、事前に希望した条件があれば、それに合わない人に会うことはまずありません。事前にこれらの条件でふるいにかけてマッチした候補者だけにしか出会えないこのシステムでは、同質のクオリティの人同士がカップルになる可能性がきわめて高くなります。ちなみに、アメリカではすでに結婚する人の3人に一人がこの方法でパートナーをみつけています(Fuster, 2019)。

2。社会が階層化し、それが固定化
富める人どうしがパートナーとなることで、その人たちはさらに富みを増やしますが、その一方、貧困層はさらに貧困になります。結果として、社会格差が広がり、それが常態化し、固定化していきます。

社会動態が著しく停滞するという意味では、さながら、社会が階層化していた前近代の時代にまいもどったかのような状況になることが危惧されます(現代社会が階層化し前近代のような様相になっていくという指摘は、ほかの方面からも指摘されています。「人出が不足するアウトソーシング産業とグローバル・ケア・チェーン」。)

3。パートナーをもたない人、結婚しない人が増える
今日、教育だけに限ってみると、男女同権のレベルをすぎ、女性の学歴が男性の学歴と逆転し、高くなる傾向がつづいています。

例えば、スウェーデンでは昨年大学入学登録した人の割合は女性が57%(男性は43%)でしたし、スイスで大学入学資格を取得した人の割合は女性が56%でした。アメリカとフランスではすでに女性のほうが大学卒業者が10%多くなっており、スロベニアやエストランドでは20%にまでなります。世界全般にそこのような女性のほうの学歴が高くなる傾向があることが、世界銀行の最新のレポートでも報告されています(Rost, 2019)、

このような教育上の傾向が続くあるいは維持され、同時に、同等あるいはそれ以上の学歴の異性を求める志向もまた続くのであれば、結果はどうなるでしょう。男女ともにパートナーをみつけにくくなります。

つまり、社会全体としてみると、パートナーをもたない、もてない人たちが増えることになり、家族やこどもをもたない人も増えることになります。男女の学歴の差が、パートナーをみつけるのに大きな支障になる衝撃的な事例は、すでにあります。東ドイツの出生率が0.8まで落ち込んだ原因をさかのぼると、男女で学歴に大差があったことが、大きかったというものです(詳細は「出生率0.8 〜東西統一後の四半世紀の間に東ドイツが体験してきたこと、そしてそれが示唆するもの」)。

それへの解決方法は?

今回取り上げたパートナー選好の新説が本当に正しいのかという問題とは別に、この三つのシナリオは、すでに先進国で起こってきているものであり、今後、深刻な打撃を社会に与える大きなテーマとなってくるかもしれません。

なにかできる対策はないのでしょうか。歴史家マイセンは、「このジレンマの社会福祉的観点に即した解決策は、女性が再び台所にもどることでもないし、以前のモデルのように医者が女性看護師と結婚することではないだろう」と明記した上で、「しかし、もしかして女性医師が男性看護師というのは?」と問いかけます。

女性医師と男性看護師という組み合わせは、高いキャリアや学歴の女性と、そうではない男性のパートナー関係を象徴しています。つまり、男女同権でなかったころの傾向(この例に沿っていえば、男性医師と看護師のカップル)でも、現在増えてきている男女同権の影響がみられるパートナー傾向(男性医師と女性医師のパターンや、男女両方とも看護師のパターン)でもない、新しい時代の新たなパートナー選びのパターンができないか、というオープンな問いかけです。

100年前や50年前、あるいは20年前のドラマや映画をみていて、いかに男女のふるまいやパートナーの役割分担が、この間で変化してきたのかを実感し、愕然とすることがありますが、そう考えると、今後も、パートナーの選び方も、今みえてきた方向にだけ進まず、また新しく変化していくのも可能な気がしてきます。しかしそれはどのような形で可能になるのでしょうか。

確かなことは、近未来において、社会が目にみえない階級のようなものができあがって、あたかも封建時代にまいもどったかのような特権階級と貧民層に分化する社会になる傾向や、格差の広がりや出生率の低下による(労働)人口の減少などは、社会全体としては、決して好ましくないということです。

男女同権という新しい自由を手にいれた人々が、今後、パートナーとなる人を、学歴や収入で狭い選択肢から選ぶ(あるいは選択肢が狭くなりすぎて選べなくなる人が続出する)のではなく、もっと広い視座から選びたくなる社会、そのようなパートナー選びをする人の背中を押し、共感し、応援するようなオープンな社会で、これからの社会であってほしいと願います。

参考文献

Fuster, Thomas, Gegensätze ziehen sich eben doch nicht an – das vertieft die sozialen Gräben. In: NZZ, 25.2.2019, 08:12 Uhr

Gleichstellung verändert Partnerwahl, Science, ORF.at, Kategorie: Gesellschaft Erstellt am 07.09.2012.

IQ vor Schönheit. Worauf achten Männer bei der Wahl ihrer Partnerin? Eine neue Studie stellt ein Klischee auf den Kopf. In: Berner Zeitung, 2016-02-10 14:56

Maissen, Thomas, Strategien gegen den sozialen Abstieg, Gastkolumne. In: NZZ am Sonntag, 2.12.2018, S.18.

Mehr Frauen mit besserer Bildung. In: Neue Zürcher Zeitung, 14.10.2016, S.15.

Partnerpräferenzen und Partnerwahl, Universität Innsbruck (2019年3月3日)

Psychologie: Männer wollen kluge Frauen, Medieninformation, Universität Innsbruck, 10.2.2016

Rest, Katja, Gebildeten Frauen gehen die Partner aus, Gastkolumne. In: NZZ am Sonntag, 17.2.2019.

SWR2 Wissen. Das Geheimnis der Partnerwahl -Konvention und EvolutionVon Iska SchreglmannSendung: Donnerstag, 14. Februar 2019, 8:30 Uhr, Redaktion: Charlotte GrieserRegie: Christiane Klenz Produktion:BR 2018

Zentner, Marcel, & Eagly, Alice H. (2015). A sociocultural framework for understanding partner preferences of women and men: Integration of concepts and evidence. European Review of Social Psychology, 26(1), 328-373.

Zentner, Marcel, This is what dating could look like 100 years in the future, MODERN MATING. In: Quarz, December 26, 2017

Zentner, M., & Mitura, K. (2012). Stepping out of the caveman’s shadow nations’ gender gap predicts degree of sex differentiation in mate preferences. Psychological Science, 23, 1176-1185.

わたしが参照したのは、この論文そのものでなくそれについてまとまた以下の記事です。
Gleichstellung verändert Partnerwahl. Science ORF at, Kategorie: Gesellschaft Erstellt am 07.09.2012.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


食事は名前をよばれてから 〜家畜の能力や意欲を考慮する動物福祉

2019-03-04 [EntryURL]

肉食という、欧米社会で長く定着してきた食文化は、現在、ドイツやほかのヨーロッパ諸国で、主に二つの観点から、厳しい目にさらされています。一つは環境負荷を憂慮する立場から(菜食に比べ肉食は環境負荷が大きいため)。そしてもう一つは、動物の福祉を配慮する立場からです(動物(の)福祉(ドイツ語でTierwohl)とは、動物が物理的また心理的に良好で充足していることと同時に、そのようになるための指針のことを表します)。

このような状況下、ドイツでは、肉を一切食べない人たちこそまだ少数派ですが(菜食主義者やヴィーガンが人口で占める割合はそれぞれ2%、0.3%、Alles Bio, 2018)、肉の代替食品に対する関心は社会全般に広がっており、専門店だけでなく、スーパーなどの一般の小売店舗でも、菜食食品のラインアップに力がいれられるようになりました(「肉なしソーセージ 〜ヴィーガン向け食品とヨーロッパの菜食ブーム」)。

肉食に代わる、昆虫食やマイクロアルジェ(微細藻類)などの、これまでヨーロッパになかったら新たな食料の開発や普及の道も模索されています(「新しい食文化の幕開け? 〜ドイツ語圏で有望視される新しい食材」)。

動物の福祉の観点は、動物保護及び飼育研究所のシュラダー教授Lars Schraderによると、2010年代から農家で広く定着するようになり、それ以降、動物福祉のために投資することが、経済界でも広く許容されるようになりました(Siebke, 2017)。今日、スーパーだけでなくディスカウントショップの店頭でも、屋外で飼育したり、放牧されたことをアピールする鶏や豚や牛の食品類が置かれています。


屋外で飼育された鶏の卵やそれを材料にしていることが表示されているマヨネーズ


ところで、これまで動物の福祉というと、人間が、動物に対しどこまでなにをするか、そのために経済的・物理的にどのようなことが実現可能か、といった、人間側の責任や貢献、経済性を問う発想を出発点にしてきたと思われますが、それとは全く別の角度から福祉向上をさぐる試みが、いくつかのドイツの畜産研究所ではじまりました。それを一言で言うと、物理的、経済的に制約がある家畜の生活環境や福祉の向上に、人ではなく動物自身も寄与してもらうというものです。アメリカでは、人々が現在享受している最新技術を動物に利用させることで、動物の福祉を向上させよう、というデザイナーの作品も、数年前に登場しました。

これらの試みや構想は、実際にどれだけ普及・応用できるかは未知数ですが、動物にとっての福祉(しあわせ)を、福祉を静態的なものや決まった型にはめず、柔軟にとらえているという点で、秀逸です。

今回は、これらの動物の福祉にまつわる、新しい発想やその事例についてご紹介していきたいと思います。今後、ヨーロッパだけでなく世界中で一層議論がさかんになるのが必至と思われる、肉食の在り方や動物の福祉について、これらの事例や構想が、多様な立場に意識を切り替えながら柔軟に考え、取り組んでいくための、手がかりや参考になればと思います。

抽象的な認知能力とルール変更に柔軟に対応する適応能力をもつ鶏

家畜に自分たちの福祉の向上に寄与してもらうという構想を紹介する前に、最近ドイツの研究所で明らかになってきた、家畜動物がもつ注目すべき能力について、ご紹介します(本文で触れるドイツの鶏、豚、やぎ、牛の具体的な事例については、主にフベルト Martin Hubertの「幸せな鶏」という記事(Hubert, 2019)からの抜粋です。特に本文中に参考文献の表記がない部分は、このフベルトの記事に依拠しているとご了承ください)。

ドイツのツェレCelle にあるシュラダー教授Lars Schrader率いる動物保護および飼育研究所では、鶏が、色と形と大きさが区別でき、ルールを時々変えると、それに反応し、新しいルールに適当する能力があることをつきとめました。

それを証明した一連の実験は以下のようなものです。まず、鶏に黄色いバツ印と赤いバツ印という二つのシンボルを示すとそれを区別し、どちらかにだけ褒美を与えるようにすると、褒美のもらえるほうだけを選ぶのようになり、色を区別できることがわかりました。次に、まるとバツの形を用意し、色は無視して形だけを区別した場合にのみ褒美をもらえるようにすると、それも、しばらくしてできるようになりました。

今度は、形が区別できるのでなく、(赤と黄色のうち)正しい色を選んだ時だけ褒美がもらえるようにすると、それもまたできるようになり、次に形でも色でもなく、突然シンボルの大きさが違うものを提示し、決まった大きさのものを選んだ時だけ、褒美をあげるというルールにすると、これまたすぐに習得しました。

これらの実験からわかったのは、鶏が、色、形、大きさは鶏にとって抽象的な特徴であるにもかかわらず、それらを判別できること。さらに、それらを使ったルールが変わると、それにも柔軟に対応し、前のルールが有効でなく、今のルールだけが有効だということをすぐに理解できることでした。これは人であっても精神疾患のある人にとってできないものであり、鶏が、非常に高い認知つまり精神的な能力を有しているといえます。

欲求をおさえ、未来を予測する能力をもつ鶏と豚

鶏には、目の前の状況を認識し適応する能力だけでなく、未来を予測し、現在の自分の欲求をおさえるという能力もあることがわかってきました。あるイギリスの実験で、すぐに餌を食べると、3秒間しか食べられないが、6秒間待つと、22秒間食べることができるというしくみにすると、鶏は6秒間食べるのを待つことができたといいます。

ドゥマーストルフDummerstorf にある家畜生物学ライプニッツ研究所内にある行動心理学研究所では、プッペBirger Puppe教授らが、豚にも同じような能力があることを証明しました。豚に普通の飼料と豚が好むレーズンを用意し、すぐに食べるのをがまんするとレーズンが食べられるとした実験で、豚はレーズンを食べたいがために1分間がまんすることができたといいます。

これらの実験は、鶏や豚が未来を予期し、そのために、自分の欲望や衝動をおさえる、つまり未来のために計画し実行することができる、ということを示しています。

怠惰な生活より、刺激のある生活を求めるヤギ

ヤギにも高い認知能力が認められます。4つのシンブルをみせ、そのシンボルの形に関係なく、シンボルの中央が(ドーナツのように)空いているものを正しく見つけた時に褒美をあげるというルールをつくると、ヤギたちはそれを正しく行うようになります(Die Fähigkeiten, 2015)。

さらに興味深いことに、同類のシンボル判別ゲームを実施した後、それとは別にゲームなしの水飲み場も作り、ヤギ自身が、ゲームをしないでも水を飲めるようにすると、ヤギの35%は、わざわざゲームのある方にいき、ゲームをしてから水を飲んだといいます。このことから、生きるために不可欠でないにも関わらず、なにかの刺激や作業を好んでやりたいと欲しているヤギが、かなりいると解釈できます。

「動物の福祉」を改めて考える

ところで、動物の福祉について、公式には現在どのようにとらえられているのでしょう。ドイツ連邦農業食料研究機関のサイトをみると、動物の福祉は、三つの本質的な要素、1)一般的に動物の健康、2)動物の自然な行動ができるための可能性、3)快適・良好と感じること、から成るとされ、具体的に(今日、国際的なスタンダードとみなされている「5つの自由」と通常よばれている)飢えや渇き、痛み、傷害、病気、恐怖やストレスがないことを評価の際の指針としています(Tierwohl)。

この定義を、今回の事例に沿って、改めて眺めてみるとどうなるでしょう。高い認知能力をもち、未来のために計画し、衝動を抑えることもできる鶏や豚、あるいは生存に必須でない刺激や作業を自主的にもとめるヤギにとって、物理的な健康だけでなく、いかに「動物の自然な行動」や、「快適、良好」という感じを実現するために、具体的にどんなことが必要なのかを問うことが、今後、より重要になってくるように思われます。

そして、動物の能力に関する研究は緒に就いたばかりですが、今後も実験や研究が進んでいくことで、それらが具体的に動物たちにとってどんなことであり、また、どれほど多様な内容まで含まれるのかが、徐々に明らかになってくると考えられます。

実現可能な動物福祉構想をもとめて

ただし、研究を進め、動物の福祉とはなんであるべきかを明らかになっていったとしても、実際の酪農業界が経済的にも受け入れられる構想でなければ、動物福祉は実際には達成されません。

そのことを誰よりもよく承知しているのはほかならぬ家畜動物を対象とする研究者たちでしょう。このため、最新の研究成果をとりいれながら、家畜飼育者にとって実現可能な動物福祉の形態を模索することもまた、能力の研究とともにひとつの大きな課題ととらえられているようです。

例えば、家畜の動物たちがどのくらいのスペースを飼育小屋で有しているかが(屋外のスペースがあればもちろんそれも良いにこしたことはありませんが)、従来の動物の福祉の重要な指針の一つです。しかし、それを確保することが経済的に困難であると躊躇する酪農家が多いとすれば、既存の飼育小屋で、ほかに動物福祉を向上させるのに、どのようなことが可能かを考えます。

豚がみずから関わり向上させる動物福祉

そして、飼育者側にすべてを委ねるのでなく、動物自身が貢献できないかという点に着目するという、柔軟でユニークな動物福祉の構想が生まれました。

その好例の一つが、ドゥマーストルフの家畜研究所ではじまった豚にそれぞれ名前をつけるというものです。名前と豚につけることが一体動物の福祉とどう関係してくるのでしょう。

正確には、名前を単につけることでなく、それを豚が認識できることが鍵となります。研究所では、まず、餌を食べている間にそれぞれの豚に名前を繰り返し聞かせる等のトレーニングを行うことで豚にそれぞれ個別につけた名前を覚えさせました。当初は、数週間かかるという想定していたそうですが、実際にはわずか5日間で、すべての豚がそれぞれにつけられた名前を習得したといいます。

次に、呼ばれてから食事することを豚に習慣化させます。具体的には、飼育施設内に設置した人工知能が、豚の名前を一定の時間をあけて呼び、呼ばれた豚は、施設内の自動ドアを押しあけ、その奥にある餌場で餌を食べるというものです。餌に呼ばれるのは毎回1匹だけで、呼ばれた豚は単独で餌場にいき、食べ終わると、また次の豚が名前で呼ばれ餌場で餌を食べるというしくみです。横暴な豚が横入りしようとするトラブルなどは、順番を変えるなど対策をほどこし、公平に豚が餌にありつけるようにします。

豚にとって、ほかの豚と争いながら餌を食べなくてはいけないことは、ストレスになるそうですが、このようなシステムをつくり、そこでしかるべきルール(自分の名前を覚え、それが呼ばれるまで、飼育場で待つなど)を豚も守ることで、豚が自身の福祉の向上に貢献するという構想です。

さて実際にどんなことになるのでしょう。ビデオ(サイトは参考文献に提示してあります)をみると、このような食事システムが、豚にうまく受容されていることがわかります。飼育施設で、一人の女性の名前が響くと、あちこちにばらばらに寝そべっている豚の1匹が、すっくと突然立ち上がり、すたすたと餌場のドアをあけて入っていきます。飼育施設にいるほかの豚たちは変わらない様子です。

このような試みは、まだ、酪農家で実施に導入するところまでいっていませんが、餌場が1匹分で広くとらない分、豚たちのほかのスペースにあてることもできるでしょうし、なにより餌を取り争いストレスや怪我などがないことで、豚の健康が向上し、経済的にもコストダウンにもつながると考えられています。このため、初期投資はあっても、長い目でみると採算は悪くなく、酪農家への導入も十分可能だと専門家は考えています。

牛の行為が環境負荷を減らし、自らの福祉も高めるというユートピア構想

牛の飼育においても、牛をある一定の行動に誘導し(協力させて)、動物福祉の向上をはかることができないかが、現在模索されています。先述のシュラダー教授が構想し現在、ポツダムの牛舎で実際に取り組まれている、牛のトイレ構想です。

牛舎の特定の場所で糞尿を済ませることを牛が習得できれば、アンモニアガスや温室効果ガスの発生などの環境汚染や負荷を減らせるだけでなく、牛にとっても、トイレ行為が、褒美をかけた一種のゲームと化し、単調になりがちな牛舎生活に刺激を与えるものとなり、牛の福祉の充実につながると考えられています。

ちなみに、現時点でも、酪農家にとって、動物の福祉のために、すぐに飼育施設で実行できることもあると、シュラダーはいいます。具体的には、家畜が住む場所を小さな住宅のように考え、機能別に区切り、例えば、寝る場所をトイレと分け、家畜が動けるスペースに、なんらかの作業やあそびの材料となるものを配置することを推奨します(Siebke, 2017)。

最新技術を動物福祉の向上に利用することは可能か?

2014年に、動物の福祉を考える上で、大変興味深い作品が発表されました。アメリカのデザイナー、スチュワートAustin Stewartの「セカンド・ライブストック」(ライブストックLivestockは英語で「家畜」のこと)という構想とそれを具体化した作品(ビデオとモデル)です。

今日、バーチャル世界でゲームなどの体験をして楽しむ人々がいます。ならば、その技術を応用し、動物たちにもバーチャルな世界を体験させ、それによって、(人間社会でもある)物理的な動物福祉に合わない条件(狭いスペースなど)を忘れ、動物が楽しめるように(つまり福祉向上につながるように)できないか、という着想を作品にしたものです。

詳細はぜひ、参考文献にのせたビデオ(英語)で確認いただきたいのですが、鶏たちは、頭に仮想現実を体験できる装置(視覚と聴覚をおおうもの)をつけ、球形のベルトコンベアのようなものの上を歩くことで、仮想の世界で、広い屋外の自然な環境で過ごしている感覚を味わうというものです。これによって鶏の福祉が向上されるだけでなく、通常鶏の飼育には適さない都心部のようなところにも、完全屋内施設としてつくることができるため、都市の地産地消を目指した都市農業にもなると、ビデオでは説明されています。

作品にでてくるものは(少なくとも2019年の現在において)すべてフィクションですが、それでも、この作品は、現実世界の動物福祉を考えるのに示唆に富む視点をいくつも提示していると思われます。

例えば、これをみて誰もが最初に抱く印象は、そんなバカな、というものでしょう。その時、ありえない、ととっさに私たちが思うのはなぜでしょう。人間はバーチャルリアリティを堪能できるが、動物はそれができないだろう、という思い(込み)があるからでしょう。しかし、その先入観はどれほど正しいのでしょうか。根拠はどれくらいあるのでしょうか。

上述のように、動物に、かなり人間と同じような能力や感情があるらしいことが、少しずつ明らかになってきており、どのくらい動物の知能や能力や感情が、人間のそれに比べ劣っているかを(あるいはすぐれているかを)、現時点の研究成果だけで判断することはできません。つまり、動物に導入できる最新技術が将来もないと言い切ることもまた困難です。

この構想では、そのような実証研究はすべてすっとばして、動物の究極の福祉を、人間の福祉と同類と想定するところから出発します。人間が楽しめるのなら、むしろ動物も同じようなことが楽しめるのではないか、という思い込み、新しい先入観を、誇張してふりかざされることで、逆に、見ているわたしたちの方が、わたしたちの動物の生態や動物福祉の考え方が、ひとつの固定した考え方にすぎないのかもしれない、と相対化されてきます。このように自分たちの「動物の福祉」という既成概念に訴えるところが、この作品の真骨頂でしょう。

スチュワートがこの着想をえたきっかけとなったエピソードというのも、示唆にとみます。スチュワートは、放し飼いの鶏はストレスが多く、骨折も、小屋でそだてるものより多く危険、という話を専門家から聞いたのだそうです。そして、「(放し飼いと小屋暮らしの)どっちがいいと誰が言えるのか」と思ったのがはじまりだといいます。

そこから「仮想の放し飼い」という放し飼いでも、狭い小屋暮らしでもない、第三の可能性を追求したのが、この作品ですが、そこには挑発的なだけでなく、根元的な動物福祉への問いかけもあるように思われます。なにが一番動物の福祉の向上になるのか。それは、人が決めるものなのか。それとも鶏が決めるべきことなのか。鶏が決めるのだとすれば、それは鶏の多数派の意見だけ考慮すればいいのか。それとも鶏個々に個性があり、それぞれが決めるべきものであるべきなのか。答えがすんなりでる問いではありませんが、問いかけ、考察するに値する問題ではあるのではないかと思います。

おわりに

ところで、動物福祉がドイツ社会全体で10年前にくらべかなり重視されるようになったといっても、逆にそのような風潮に抵抗を感じて異議をとなえる人たちもいます。どんなに動物福祉をつきつめて考えたり、その向上を図るといっても、最終的に屠殺し食べてしまうのなら、偽善ではないかという疑念をもつ人たちです。確かに、そのような批判が指摘することも一理あり、家畜の動物福祉という発想に、違和感や抵抗感をもつこともまた、健全で良心的な反応といえるでしょう。

一方、実際に、家畜飼育が存続する現在の状況で、できるだけ快適な環境で飼育される家畜を少しでも増やすのを目指すことは、決して無意味や無駄なことではないでしょう。

そうして家畜の福祉を問い続け、いろいろな形を模索するうちに、今度は、人間の余暇の楽しみ方をまねて鶏にバーチャルメディアを装備させる発想がでてきたのと全く逆方向で、動物の福祉の技術や構想から、人間の福祉の向上のヒントがでてくる日もくるかもしれません。

参考文献・サイト

Alles Bio oder alles Hype? So essen die Deutschen wirklich, 07 Jun 2018, 10:17h, GIK (Gesellschaft für integrierte Kommunikationsforschung )

Die Fähigkeiten unserer Nutztiere, hrfernsehen,13.5.2015. (豚が名前を呼ばれる畜産研究所の様子のビデオ)

Die schlauen Schweine von Mecklenhorst. In: Spiegel Online, 11.01.2010, 16:40 Uhr (豚が名前を呼ばれる畜産研究所の様子のビデオ)

Food Revolution 5.0, So 02.12.18 – So 28.04.19, Gewerbemuseum Winterthur(現在開催中のスイス、ヴィンタートゥアの産業博物館の特別展。ハンブルク、ベルリンの産業博物館でも過去に開催された食品に関する巡回展で、セカンド・ライブスストックの作品も展示されています)。

Hubert, Martin, Menschlichere NutztierhaltungHuhn im Glück, Deutschlandfunk, 14.1.2019

Kastrenakes, Jacob, Virtual reality for chickens would simulate a blissful free-range life, The Verge, May 15, 2014, 5:47pm EDT

Matthews, Dylan, The case for raising chickens in virtual reality, May 19, 2014, 9:30am EDT

Schweinehaltung fit für das Tierschutz-Label: Integrierte Entwicklung von Haltungs- und Verfahrenstechnik zur Transformation konventioneller Ställe, 15.01.2017

Second Livestock(セカンド・ライブストックの公式ホームページ)

Second Livestock Revision, 1.5.2017.(セカンド・ライブストックのプレゼンテーションビデオ)

Siebke, Dagny, FLI-Leiter in Celle: “Tierwohl steht in jedem Parteiprogramm”. In: Cellesche-Zeitung, 6.10.2017.

Tierwohl - Was heißt das eigentlich?, Bundesanstalt für Landwirschaft und Ernährung, Bundesinoformationszentrum Landwirschaft(2019年2月19日閲覧)

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ティッシュから考える環境問題 〜125年前にドイツで生まれ、世界中で愛される生活必需品の将来

2019-02-25 [EntryURL]

デジタルメディアが発達し、社会のペーパーレス化が進んでいるように思われますが、ドイツでは、ドイツの国内製紙工場の売り上げをみると、1990年に86万トン、2000年では105万トン、2016年では153万トン(Eine Saubere Sache)と、うなぎのぼりに増加しています。なかでも消費が急増している分野として注目されるのが、ティッシュペーパーやトイレットペーパーなど、衛生用品と呼ばれる紙原料の分野です。

なぜ、この分野の紙消費が増加し、消費が増えることでどんな影響があり、そして、どんな対策が提案されているのでしょう。今回は、ティッシュの消費を中心に、ドイツの衛生ペーパー(使い捨ての衛生用品として使用されている、トイレットペーパーや、タオルペーパー、紙ナプキン、ティッシュなど、使い捨ての紙を原料にした衛生用品として使われる紙類のことを、ここでは一括して「衛生ペーパー」と表記します)全般をめぐる状況を概観してみたいと思います。

そして、安価で入手できて、普段、ためらいも少なく大量に消耗しているティッシュから、消費者として環境負荷を減らすため、具体的にどんな選択の余地があるのかを、一望できたらと思います。

ドイツで生まれたティッシュ

今日、風邪や花粉症の季節に必需品となっているティッシュは、19世紀末にドイツの紙工場で生まれました。南ドイツのシュヴァーベン地方、ゲッピンゲンで、紙工場を経営していたクルムGottlob Krumが、鼻をかむ用途に薄い紙にグリセリンを染み込ませた柔らかく柔軟性のある紙を開発し1894年に特許をとったのが、今日のティッシュの原型、最初のものとされます。

クルムは、早速、使用後ただちに破棄する(当時は病原菌の伝播を防ぐために燃やすことを推奨)ことで、当時鼻をかむのに主流であったハンカチなどの布よりも衛生的であり、感染も広がらないことを売り文句に、この新しい紙を使った鼻をかむスタイルを普及させようとします。しかし、一度使ったものを破棄する、という「使い捨て」の発想は、当時の人々には受け入れ難く、結局、商品として日の目を見ることはありませんでした (Haas, 2013)。

ティッシュが一般的になるのは、その後30年以上もたった、1920年代以降です。アメリカで1924年にクリネックスが、ティッシュを販売しはじめたのを皮切りに、ドイツでも1929年はじめからティッシュの製造がはじまり、次第に、使い捨てティッシュで鼻をかむ習慣が、人々の生活のなかに定着していきました。

ちなみに、ドイツで1929年から製造されているティッシュ「テンポ」は、ドイツ語圏では、今日まで最も有名なティッシュのブランドであり、ティッシュの代名詞とも言える存在です。

増え続けるティッシュやトイレットペーパーの使用量

ドイツでは、ティッシュ等の衛生ペーパーの消費が年々、増え続けています。一人当たりの消費量は、現在、19kg、2000年に比べ、今日25%も使用量が増えています。この数値は、ヨーロッパの平均重量を上回る数値です。

なぜ、ドイツでは衛生ペーパーの消費が増えているのでしょう。社会が高齢化し感染などが増加していることや、軽くて便利で安い紙資材の衛生ペーパーを、これまで以上に様々な用途で利用する機会が増えていることなどが、通常、理由としてあげられています。

パルプ材産出国の現状

消費量が増えていることで、様々な形で環境への負荷が生じます。製造・消費国での、生産のためのエネルギーの増加や漂白剤などの有害物質の排出の増加なども憂慮される問題ですが、とりわけ直接的で広範・長期的な問題が危惧されるのは、原材料であるパルプ材生産国での問題です。

パルプ供給の視点からみて現在もっとも有望視されているユーカリの大規模なモノ・カルチャー(一種類に限定した農作物の栽培)・プランテーションが増え続けることで、ジャングルや森林地帯が伐採されているだけでなく、プランテーションに隣接するほかの樹木やまたプランテーション周辺の住民たちの生活を脅かします。ユーカリは、ほかの樹木に比べ成長が速い分、大量の水分を必要とし、結果として、周辺の土壌を極度に乾燥させたり、下水の水位を低下させるためです。

現在、世界的なパルプ供給地である、ブラジル、ウルグアイなど中南米で、このような問題が集中して起きていますが、近年はモザンビークなどアフリカでも、モノ・カルチャーのプランテーションが大規模に建設されるようになってきており、将来、問題が世界的に広がる可能性があります。

消費者としてできること

このようにティッシュ消費をめぐるグローバルな状況は深刻ですが、消費者として、状況緩和のために、なにかできることはあるでしょうか。次にこのことについて、みていきます。

結論から先に言うと、できることはあります。最もてっとり早いもの消費を減らすことでしょう。しかし、それがなかなか難しいのが、衛生ペーパーの問題点です。無駄に使わないよう心がけることはできますが、実際に、鼻炎や風邪の時に、鼻をかむのをがまんすることができるでしょうか。それを断念するのは現実的ではありません。

一方、これまでと同量の消費をしても、環境負荷を減らせる道もあります。ドイツの環境省の公式サイト (Umwelt Bundesamt)で、消費者に推奨されていることを、具体的にみてみましょう。

・布製などで代替することで、紙を原材料とする衛生ペーパーの消費量を減らす
まず、ひとつ目は、紙素材をなるべくほかのものに代替することです(Papiertaschentücher)。具体的な代替物として提案されているのは、布製です。そこでは、ペーパータオルやナプキンだけでなく、ティッシュも布製に代替する案が提案されています。トータルのエネルギー量などを換算しても、ハンカチ使用のほうが、紙のティッシュよりはエコだといいます。

布製のティッシュとは、つまり鼻かみ専用ハンカチのようなもので、現在のような使い捨てティッシュが普及する前に、ヨーロッパやほかの国々でも非常に一般的であったものです。実際に多くはありませんが販売もされています。使用後、60度で洗濯(ドイツの洗濯機は30、40、60、95度といった温度設定できるタイプのものが広く普及しています)すれば、衛生上も全く問題ないといいます。

確かに、布素材は、材質によっては、紙のものよりずっとやわらかく、鼻にもよさそうで、一見、魅力的です。しかし、風邪や花粉の季節には、膨大な量のハンカチが必要になりますし、洗濯回数も頻繁にならざるをえません。

便利な使い捨てティッシュの便利さに慣れきってしまっているから最初それを億劫に思うだけで、慣れてしまえば、これらも大して面倒くさく感じられなくなるのかもしれませんが、紙から布にティッシュを変えるという最初の一歩を踏み出すためには、消費者に強い決断力が必要かもしれません。

・古紙を再利用したものを選ぶ
ドイツの環境省が推奨するもう一つのものは、環境によりいい商品を選ぶというものです。選ぶということは、つまり、いくつか選択肢があるということを意味しますが、具体的にどんな選択肢があるのでしょう。

例えばティッシュの場合では、大きく分けて、2種類のものがでまわっています。伐採した樹木から直接得たセルロース(繊維素、木材から抽出した繊維(パルプ)の主成分)を使って生産されたティッシュと、古紙のリサイクル原料で作られたティッシュです。この二つのなかの一つを選ぶとすれば、古紙からつくられたティッシュのほうが圧倒的に優良な選択肢ということになります。古紙からティッシュなどの衛生ペーパーを作る場合、新たにセルロースを必要としない(このため環境やその森林の周辺の住民の環境にいい)というだけでなく、新しい木から紙をつくるより生産に必要なエネルギーが、6割少なくてすみ、水の使用量も7割少なくて済むからです。

一方、古紙を再利用したものでないティッシュを選ぶ場合でも、その中でよりよいものを選ぶことが可能です。FSC やPEFCという認証マークがついているもの、あるいは全くついていないものです。

この3種類のなかで最も優良なのはFSC マークのついたものです。これは、Forest Stewardship Councilの略で、エコロジカルな森の機能を保つ栽培方法で作られた樹木からできていることを示します。これは危機的な状況にある植物や動物を保護するだけでなく、近隣住民や雇用者の権利も尊重する体制であることを意味します。

これに対し、PEFC(Programme for the Endorsement of Forest Certification)の認証は、森所有者や木材産業関連者に支持されているものですが、個々の検査を実施しないで、この認証が受けられるため、どれほど信頼性が高いのかわからないものです(Eine Saubere Sache)。しかし、そうであっても、なにもマークがついていないよりは、一応良いと考えられます。

マークが一切ついていないものは、乱開発で伐採したものや雇用者を搾取している可能性もあり、それらを購入することで、そのようなシステムを後押ししていることになります。

細かい認証マークの違いを知らないでも、わかりすく見分けがつき、最良のものをすぐに見つけられるように、ドイツ政府では、独自に認証マークもつけています。「ブルー・エンジェル」マークです。これは衛生ペーパーに限らず、様々な種類の商品を対象につけられているもので、衛生ペーパーに関して言うと、ブルー・エンジェルは、100%古紙から生成し、生産にエネルギーや水の使用が少なく、有害物質が少ないことを意味し、環境を考えて一番いい選択肢のものを選ぶなら最適ということになります。

ブルー・エンジェル印

伸び悩むリサイクルペーパーという現実

このように何が選択肢として賢明かが、国民にわかりやく提示されていることは、大事なことですが、実際に消費者がそのような選択肢をとるかは、また別の問題です。現実には、消費者はどんな行動をとっているのでしょう。

古紙を使った衛生ペーパーの割合は、2000年74%であったのに、2016年には46%まで落ち込んでいます(Eine Saubere Sachen, 2018)ティッシュペーパーのリサイクル紙の割合はなかでも低く、2012年11月から2013年10月までの調査で、ティッシュの売上げは全体の1%にしかすぎません(20 Papiertaschentücher, 2015)

なぜ、古紙の再利用がすすまず、むしろ後退すらしているのでしょう。この理由について、生産者や流通業者側は、消費者の需要自体が少ないからだといいます(Debatte, 2018)。生産者や流通業者によると、これまで以上に衛生ペーパーへの、消費者の要求が高くなってきていることをあげます。例えばティッシュはやぶれない丈夫であること、トイレットペーパーはよりやわらないことが求められるようになったとされます。他方、ここ20年の間、技術的にはほとんど進展がなく、その結果、より丈夫にしたり、多く重ねたティッシュやトイレットペーパーが増えているようです。実際に今日店頭にいくと、ティッシュが二重のものはうしろ少なく、3重、4重という表示のものが多くなっています。その一方、低価格で得られる高品質の古紙は限られているのに、消費者は高価な代価を払う準備がなく、今でも値段が安いものが主流だといいます(Papier-Hygieneartikel)。

つまり、安価で高品質の新たなパルプ材を原材料とする生産・流通・購買の産業構造があり、そこから逸脱して環境負荷の少ない衛生ペーパーの販売数を増やすことが、容易でないということのようです。

打開策をもとめて協議会が開催

2018年はじめ、このような衛生ペーパーをめぐる状況を包括的に話し合うため、「衛生ペーパー 〜サステイナビリティへの道」というテーマの協議会が開催されました (Debatte, 2018)。ここでは衛生ペーパー生産者、パルプ資材専門家、流通業者、環境保護運動など、様々な立場の人が一堂に会し、二日間話し合われました。

ここで改めて明らかになったのは、それぞれの分野の代表者たちは、持続可能な衛生ペーパーの消費のために、なにが必要かという問題の理解やそこで目標と考えられているものが大きく異なっているという現実でした。例えば、流通および産業界は、経済的な採算を重視するのに対し、環境保護スタッフは、グローバルな森の破壊を防ぐために大幅な衛生ペーパーの削減をより重要な課題と考えています(Debatte, 2018)。

一方で、誰もが、今日の産業・消費構造の在り方で、増え続ける需要を満たすことはできないし、何か変化させていなかくてはいけないという点では合意しています。ここを出発点にして、今後も、関連業界の人たちを中心に、お互いの意見や立場を理解するため意見交換や議論をこれからも重ねていき、衛生ペーパーの産業・消費構造を環境負荷を減らす方向にずらしていく、建設的な方向性をさぐっていくことが期待されます。

啓蒙キャンペーン

一方、そのような衛生ペーパーに関わる対立する業者や立場の間の協議を続けるのとは別に、すぐに取り組むことができる、あるいは取り組むべき課題も、二つあると思います。

まずひとつは、広く国民に向けた啓蒙キャンペーンです。生産者や流通業者側は、リサイクル紙の衛生ペーパーは、消費者の需要が少ないため、普及しないと主張します。もしも本当に国民の多くが、再生紙の衛生ペーパーを所望しないというのが現状ならば、消費者に、環境に負荷の少ないものを選ぶよう、わかりやすく説得し、納得してもらうことが決定的に重要でしょう。

具体的にどんなキャンペーンが有効なのか、誰がどのような形や規模で、また予算と頻度で、活動すべきか、という問題に関してスイスの生活協同組合の週刊誌は参考になる点が多いように思われます。

スイスは大手二大小売業者が、いずれも生協という、非常にめずらしい国なのですが、その二つの生協は、どちらも、毎週週刊誌を発行しています。毎回100ページにおよぶ雑誌で、スイスでもっとも発行数の多い週刊誌となっています(「スイスとグローバリゼーション 〜生協週刊誌という生活密着型メディアの役割」)

その雑誌では、様々な社会や文化の旬な話題が取り上げられ、自分たちが目指す環境負荷の少ない社会を実現するために役に立つ情報やそれに関連する商品についても、頻繁に掲載しています(穂鷹2010)。

例えば、スイスでは、フェアートレード商品の一人当たりの購入が世界でも最も多い国ですが(「バナナでつながっている世界 〜フェアートレードとバナナ危機」)、これは、もともとスイス人にフェアトレードの意識が高いといった話ではもちろんなく、生協のこのような雑誌などを通した啓蒙キャンペーンが消費者行動に大きく影響を与えた結果だと考えられます。

ドイツにおいても、衛生ペーパーの年々増える消費量や再生紙利用率低下など焦眉の問題を明確に示し、同時に、消費者が貢献できる余地を多分にあることをアピールすれば、消費者の行動もかなり変化が期待できるのではないかと考えます。

待たれる新型「ティッシュ」

啓蒙キャンペーンで消費者に訴えるだけでなく、衛生ペーパー生産・開発分野で、これまでの衛生ペーパーの発想にこだわらない新しい素材や形を追求することも、パルプ材供給が限界に達しているようにみえる今日、焦眉の課題かと思います。

ちょうど125年前に、使い捨てティッシュのアイデアがドイツで生まれました。それまでの布製とは全く違う、紙製の使い捨てという斬新な発想は、開発後すぐに日の目をみたわけではありませんでしたが、その後、20世紀を通じ世界中に着実に普及し、現在ゆるぎない地位を築きました。

そして、今日また、これまでのティッシュの素材や技術にこだわらず、環境負荷が圧倒的に少ない21世紀型の新しいティッシュの形、生産の工程、あるいはその消費のスタイルを生み出すことは、できないでしょうか。例えば、パルプ材に含まれるセルロースを必要としない、なにか別のものを原料にしたティッシュ。周辺の水資源を枯渇させないプランテーションのありかたや、エネルギーや水の消費を大幅に削減できる生産方式。資源をもっと節約した形で消費できる、ティッシュの形状や消費の仕方。ティッシュをめぐる状況や環境をめぐって、なにか新しい形や工夫をすることが、真剣にいま求められているのではないでしょうか。

「どんな危機も、新しい可能性をつくりだす」これは、スイスのカシスIgnazio Cassis外務大臣の言葉(Meine Diplomaten, 2019)ですが、衛生ペーパーをめぐる現在の状況が深刻な危機であるならば、新しい可能性が開かれるのも間近かもしれません。少なくともそう願わずにはいられません。

参考文献・サイト

Debatte zwischen Umweltschützern und Industrie: Wie geht Nachhaltigkeit beim Hygienepapier?, denkhausbremen, 21.2.2018.

Eine Saubere Sache? unser Hygienepapier-Konsum und seine Folgen, 2018(2019年1月27日閲覧)

Fachkongress Hygienepapier – Wege zu mehr Nachhaltigkeit, denkhausbremen, 21.2.2018.(2019年1月28日閲覧)

Haas, Margit, Göppingen Sparsinn verhindert eine Weltkarriere. In: swp.de (Südwest Presse), 20.12.2013

穂鷹知美「スイスの生協の消費者をまきこんだ環境キャンペーン」、環境メールニュース、2010年05月13日

Meine Diplomaten ermahnen mich ständig, was ich sagen darf und was nicht.Interview: Luzi Bernet, Andrea Kučera. In: NZZ am Sonntag, 27.1.2019, S.9.

Papier-Hygieneartikel im Wachstum, Onlineshop für Hygieneartikel & Zubehör für Gewerbetreibende, 19.10.17 12:00

Papiertaschentücher, Hygienepapiere, Umwelt Bundesamt, 07.01.2016

Taschentücher aus Papier, 1895, Bd. 297 /Miszelle 6 (S. 263–264), Polyteschnischer Journal (2019年1月29日閲覧)

Visual Story zu Hygienepapier: „Eine saubere Sache?“, denkhausbremen, 3.7.2019.

20 Papiertaschentücher im Test. Auf gute Besserung! In: Öko Test, 9.1.2015.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


人は誰とでも対話できるのか 〜プロジェクト「ドイツは話す」からみえてくる希望と課題

2019-02-21 [EntryURL]

二年前にドイツで考案・実施され、その後一年でヨーロッパを中心に世界で14カ国が実施を計画されるまでに、国内外で関心が集まっている、対話プロジェクトについて、前回、概観しました(「ドイツ発対話プロジェクト 〜〜フィルターバブルを脱ぎ捨てた先のみえるもの」)。

今回は、中身にについて、より踏み込んで考えてみたいと思います。実際に参加した人たちの反応や見識者たちの意見を参考にしながら、対話プロジェクトという試みの、守備範囲や方法論的な限界や問題について検討し、対話プロジェクトという集団的な体験が、現実社会でどんな役割を果たしうるのかを展望できればと思います。

対面型の対話のボーナス効果

参加した人たちの様子や、個々の意見については、『ディ・ツァイト』のオンラインサイトで、詳しく紹介されていますが、プロジェクトに参加した人たちからの感想でもっとも多かったのは(一回目の対話のあと)、意見の違う人とは、全く話せないだろうと思っていたのに、実際に会ってみたら、共通することが結構あり、自分とそれほど違わなかったというポイジティブな驚きでした(Faigle, 2018)。二回目の対話プロジェクトの後では、90%以上の参加者が、話し合いが、なにかもたらしたか、という問いにイエスと答えています(Schöpfer,2018)。

大変興味深い話ですが、たった一度の1時間の対話でどのようにしてこれほど圧倒的に肯定的なフィードバックがもたらされたのか、その詳細については、これだけでは、よくわかりません。このため、ボン大学では早速、このプロジェクトが実際に人々にどのような効果を与えるのか(ステレオタイプの理解が減ったり、ほかの意見の人への理解が高まるのかなど)についての調査がはじまったといいます (Schöpfer,2018)。しかし、まだその調査報告がでていないので、今回は、一般的な理解の範囲内で、その理由を、まずは推測してみます。

まず、対面型の対話とそうでない対話の場合を、比較してみます。ソーシャルメディアなどバーチャルな空間で意見が交わす時は、相手がどんな人なのか具体的にみえてきませんし、自分が誰か相手にもよくわからないため、お互いに発言に抑制がききにくくなり、暴言や誤解をうむ発言がでやすくなります。

これに対し、人に面と向かってしかも対話することを主旨にして集まる今回のような状況では、どうでしょう。匿名性が高い時の対話のような相手への無責任な態度が抑制されるだけでなく、相手の話を聞こうと耳を傾ける行為が、相手にとっては、自分に対するレスペクト(尊重)や誠実さとして受け止められるのではないかと思われます。

このような対話の状況や条件の違い自体が、対話のもたらす効果に決定的な影響を及ぼしているのではと考えられます(ネット上のコミュニケーションが、一概に対面型の対話に劣ると言っているのではありません。ただし、ネット上のコミュニケーションを円滑に行うためには、対面型の対話とことなる、別の配慮や気遣いが必要だという見解は、今日一般的です。このことについては「こどもたちにとって理想的なデジタル機器やメディアの使い方とは(2) 〜これまでのガイドラインとその盲点をつく最新の研究」)。

つまり話し合った内容とは関係なく、直接対面して互いに話を聞き合うという行為自体が、今回の対話プロジェクトで、ポジティブな印象を与える重要な要因であったと考えられます。

それは、具体的に想定すると、より理解しやすくなるかと思います。目の前の相手が誠実そうな態度をみせると、その後どうなるでしょう。当然、お互いに、相手について好印象を抱きやすくなるでしょう。そして、好感のもてる相手と話し合えたことやその雰囲気は、自分の考えの殻に閉じこまらず、相手の話を聞いてみようという、気持ちにつながりやすくなるでしょう。そうなると、基本的に意見が対立しても、聞くに値する話や心にひっかかる話も耳に入りやすくなる。といった風に、コミュニケーションの好循環が作られやすい環境が整うのではないかと思われます。

平たく言えば、今回の対話プロジェクトは、一対一の対面型の対話にするという設定にした時点で、バーチャルな空間の対話にはない(好感のもてる対話環境という)ボーナスポイントがついているということであり、最初から成功が一定程度約束されていた、と言えるかもしれません(もちろんそうであったからといって、このようなプロジェクトを考案しそれを実施したことの功績は、少しも貶められるわけでは全くありませんが)。

そのほかにも、まだ暖かい9月の日曜の午後、週日の喧騒のない静かなカフェや公園などで(公共スペースを対話の場所に使うことが推奨されていました)、お茶やビールを飲みながら話し合う、といった現実世界であるから味わえるほかのアメニティー(快適さの)要素も、リラックスして話し合える好ましい雰囲気づくりに貢献したことでしょう。

対話プロジェクトはどれだけ広い社会層を動できたのか

とはいえ、このプロジェクトについてのクリティカルな指摘や疑問を投げかける声がないわけではありません。次にこれらの指摘をとりあげ、問題や限界があるのかを検証していきたいと思います。

まず、対話プロジェクトに、もともとほかの意見にオープンで進歩的な考えの人たちが、この対話プロジェクトに参加し議論しているのにすぎないのでは、という指摘があります(Schöpfer, 2018)。そうであるとすれば、いくら繰り返しこのようなプロジェクトをしても、本来の目的である、本当の対立する人たちとの間の対話を促進するものにならないのでは、という疑問です。

確かに、第一回目では、当初、反対の意見の人とマッチングするのが難しいほど、似通った意見の人たちが多かったことを前回、報告しました。

しかし、2回目はほかの複数のメディア企業が参加したことで、一回目よりも多様な意見をもつ人たちが動員されることになったのは確かでしょう。『ディ・ツァイト』のファイグレPhilip Faigleは、二回目の対話プロジェクトでの一つの質問、ドイツでイスラム教徒と非イスラム教徒はうまく共存できるか、という問いに、15%は、できない、と回答しており人がいたことに具体的に言及し、対立する意見の人たちもまた参加していると主張しています(Schöpfer, 2018)。

ちなみに、2018年のプロジェクトで、参加希望者として登録した全2万8000人の内訳をみると、男性が圧倒的に多く68.3%、女性は29.9%、平均年齢は41.6歳でした(これは、ドイツ人の平均年齢とほぼ同じです)。年齢は18から97歳と非常に幅広く、地域的にはドイツ全国を網羅しています。ただし、西側に比べると東ドイツからの申し込みは、やや少なめです。人口でみると東ドイツの州は全体の22%を占めていますが、今回東ドイツから参加した人たちは全体の16%でした。

職業をみると、経営者は1464人、研究者1308人、教師1307人、看護師293人、聖職者49人、タクシー運転手14人、消防士9人、大学生は3409人です。

全般に今日の対話プロジェクトをみる限り、意見の差異は、地域よりも、世代や性別によって差異の方が大きかったと言います。最も多かった組み合わせは、年配の男性と若い女性でした。

対話は誰とでもなにについてもできるのか

対話プロジェクトの構想に異存はないが、対話をするには人も事象も対象を限定すべきだという意見もあります。

二回目の対話プロジェクトが開催されるにあたって、後援者である連邦大統領を迎え、ベルリンでイベント風の式典「Plattform «My country Talks»」がとり行われたのですが、そこで執筆家でデジタル分野に精通するサーシャ・ロボSascha Loboが提示した意見です。

ロボは、これまでソーシャルメディアや現実空間で多くに極右主義者たちと会い、対話を重ねてきました。その中には、ドイツの国防軍が(ヨーロッパを目指し海をわたる 筆者註)難民の船を砲撃し、何千人か志望者がでれば、もう誰も来なくなるだろう、と書いてきた人もいたと言います。ロボはその時点で、その人との対話を断ち切ることはなかったが、その人とは、その後建設的な議論にはならなかったとし、このような「ナチ」(という呼称に相当するとロボが考える極端な右翼思想の人たち)は、ほかの人たちと普通に話し合うということはできない人たちであり、話すに値しない人だといいます(Zeit Online)。

つまり対話は、なんでもだれとでも話すという無条件のものであるべきではなく、絶対に越してはいけない一線(レッドライン)があるべきで、それが、自由民主主義的な対話にあって必要不可欠とします(Zeit Online)。

昨年末に発行されたドイツの極右政党とメディアに関する研究によると、ドイツの極右政党「ドイツのためのオルタナティブ(略名AfD)」は、中立的な情報を提供するものとはみておらず、自分たちの意向にあう報道か、それとも(自分たちにとって)「嘘」の報道か、つまり、メディアを友か敵かという見方でしか捉えていないとされます(Gäbler, 2018)。このように自分に合う話か合わない話かだけで、情報や人の話をより分ける姿勢の人とは、確かに対話が実際に可能なのか、疑問がわきます。

対話を、ほかの人の話を全く聞かず自分の主張だけを繰り返し、ほかの人の意見を罵倒するだけの対話は、確かに無為なものでしかないかもしれません。相手の意見を聞こうという態度がなければ、基本的にそれは対話ではありません。

他方、人間は、どんな相手とどんな風に話し合うか、その状況や相手の関係によっても、態度が微妙に変化します。換言すれば、ほかの人と対話できる余地の大きさが大きい人や場合もあれば、非常に小さい人や小さい場合もあるということでもあるのではないかと思います。そう考えると、ある人との対話が可能か不可能かの線引きは非常に難しい。換言すれば、どんな人にも状況によっては対話できる余地、可能性がある、ということではないかと思われます。

意見の背後にある人をみる

ロボの主張に対し、真っ向から反論を唱える人もいます。ジャーナリストで執筆家のマーテンシュタインHarald Martensteinです。マーテンシュタインは、ロボのあとに行なったスピーチで、自分であらかじめ用意していた原稿をわきに置き、ロボの主張への反論を展開しました。マーテンシュタインは「意見の背後にある人をいつもみなくてはいならない。どんな対話にも耳を傾け、いくつかのものを排除するようなことがあってはならない」と強調します(Zeit Online)。

マーテンシュタインの「意見の背後にある人をみる」ことは、対話から一見ずれた話にみえますが、どんな人にも、常に独自の個性があり、生い立ちなどのその人がもつ独自の背景があり、そこをベースにして今の自身の意見が形成されてきているのだと考えると、その人の個性、人格、背景は、対話の上で配慮に値する事項であるといえるでしょう。

例えば、たとえ自分の意見に凝り固まってまったく対話の余地がないようにみえる人で、その人の意見に共感できなくても、その人の人格的な部分やその人のなにかもっている個性的な部分(例えば趣味や生まれ育った環境)が理解できたり、共感できるところがあればどうでしょう。意見はかみ合わなくても、信頼やレスペクトの基盤を築くことが可能かもしれません。

また、その人自身を見、その人がそのような意見に至った経緯が少し推察できると、その人への対話のアプローチも、相手に届きやすいものに変えることができるかもしれません。

例えば、東ドイツで現在30・40代の男性たちが過去四半世紀に経験してきたことは、ほかのドイツの地域とは大きく異なるものでした(「出生率0.8 〜東西統一後の四半世紀の間に東ドイツが体験してきたこと、そしてそれが示唆するもの」)。この地域出身の人と対話する際、これらのことを知っている場合と知らない場合では、自分のなかの対話のアプローチが変わることもあるかもしれません。

争いを肯定し、争う力を鍛えよ

ジャーナリストのシュルツEva Schulzは、「意見がひとつでなく複数あることは民主主義のエンジン」とし、意見が対立することをもっと肯定すべきだとします。同時に、この対話プロジェクトを、争うことを避けたり、できなくなっているドイツ人たちのための、「争うための筋肉を鍛えるための療養、リハビリ」であるべきと位置づけます(Zeit Online)。

筋肉という比喩は、日本語で好まれる「力」という表現に類似していますが、力よりも具体的で、対話における争うことの機能的な意味が把握しやすい気がします。スポーツをするのには筋肉が必要ですが、筋肉トレーニングをしないと筋肉は衰え、スポーツができなくなります。これと同様に、対話で争うことを恐れて、意見が合わない人を避けてばかりいれば、討論で争う時に必要な「筋肉」も使われず、衰えてしまう。そうなると、いざ、意見が違う人と会った時に、どう対処すればいいのかがわからなくなる。だからこそ、日頃から筋肉を鍛え(争いを訓練し)、自分が違う意見にどう持ちこたえ、どう相手に向かうのかを、身につけておくこと(「筋肉」をつけておくこと)が必要なのだ、という論理です。

ところで、争うための筋肉トレーニングのすばらしいところは、トレーニングが自分だけで完結するものでないことでしょう。相手とのやりとりが常にあるため、それが同時に視座を広げるトレーニングにもなり、自分の思考全体の血行をよくすることにもつながりそうです。

もちろん、争うなかで、傷つけられるなど、ネガティブな影響が生じることもあるでしょう。しかし、日頃トレーニングを重ねてよいコンディションであれば、心が受ける傷も重症なものになりにくい、というのも、スポーツの場合と似通っているかもしれません。

参加者の多様性を確保するには

この対話プロジェクトは、第一回目開催後、グリム・オンライン賞という、2001年から出版やそれに関連する、イノベイティブで秀逸の構想や実践に授与される賞を受賞し、二回目の開催にあたっては、ドイツ連邦大統領自らが、対話プロジェクト「ドイツが話す」の後援を引き受けました。「最初はただのアイデアにすぎなかったが、ひとつのミッションになった」(Tausende, 2018)と賞されるほど、反響や期待がうずまく、ひとつの動きになったようにみえます。

ここだけをみると、輝かしいサクセスストーリーのように聞こえますが、その一方で、重要な問題がいまだ手付かずであるように思われます。それは、先ほども少しでてきましたが、多様な社会背景の人々をいかに動員するかという問題です。本来のプロジェクトの目的であった、偏見や憎悪など「人々の間にできた壁をとり除く」(Steinmeier,2018)ためには、多様な人々を対話の場に連れ出せるかが、肝心な問題であり、それは、今後いくら動員される人数全体が増えたとしても、自然に解消されるとは限らない問題です。

参加するメディア企業や、さまざまな組織に参加を呼びかけることはもちろんある程度、有効に働くでしょうが、そのような呼びかけの網に、どのくらい多様な背景の人々が実際にひっかかっているのでしょう。

例えば、これまでの対話プロジェクトで、極右勢力支持者たちは、どのくらい対話プロジェクトに興味をもったり、参加したのでしょうか。これを示唆する直接的な資料はありませんが、極右勢力は、ドイツに限らず、オーストリア、フランスでも同じように、既存のメディア(公共放送から民間報道まで)全般に、多かれ少なかれ不信感を強くもっていることで知られます。そうであるとすると、対話プロジェクト自体は、政治的に中立的な立場ですが、メディア企業が企画し、それぞれの読者を中心に呼びかけた対話プロジェクトに、実際にどのくらい参加の意志をもつのか疑問が残ります。

また、以下のような、プロジェクトでの対話の内容についての報道をみると、さらに、実際に極右勢力支持者を呼び込むことの難しさを感じました。

対話プロジェクトに参加した人で、対話前には政治全般に失望し、極右政党に投票することも考慮しているという人がでてきますが、社会党支持者との対話のあと、「主張したことはもしかしたらすべて正しかったわけでないかもしれない」とし、「もっと事実関係をよくおさせないといけない」と言っていた(Weydt, 2018)という報道です。

この記事は文面からみれば中立的ですが、極右勢力支持者が、このような報道記事を読めばどうとるでしょう。対話プロジェクトをきっかけに、極右勢力支持の意見に疑問を抱く、という安っぽい(プロパガンダ的な)ストーリーに聞こえるかもしれません。

もしそうだとしたら、対話プロジェクトにこぞって関わりたいと思うでしょうか。極右勢力支持者がドイツで比較的多い東ドイツでは、西ドイツよりも、このプロジェクトの参加者が若干少なかったという事実は、極右勢力支持者が対話プロジェクトに一定の距離感・不信感を感じていることを、うっすらと反映しているようにも感じられます。

結論として、極右勢力支持者の本心はわかりかねますが(そしてそうであってほしくもありませんが)、現状をみると、極右勢力支持者が、この対話プロジェクトに今後も積極的に参加かったとしても、不思議はないように思われます。

しかし、対話プロジェクトが、参加者の自己満足で終わるのでなく、社会の壁を切り崩していくために実際に効力をもちたいのであるのならば、極右勢力支持者等、社会で往往にして問題のレッテルをはられている人や異端扱いされている人たちも動員することが必須でしょう。そのためには、このプロジェクトが彼らから信頼を勝ちとることが不可欠と考えられますが、そのためには、どんな工夫やアピールや姿勢が有効に働くのでしょう。このことは、次回以降の対話プロジェクトにとっての、大きな宿題となりそうです。

おわりに

社会で厳しく対立しているようにみえる意見の相違も、対立項の座標軸を、一対一の人の関係としてみてみると、これまで(マクロの視点では)みえなかったものがみえてきて、対立や衝突そのものの見え方も異なってくる。そのことを、難しい抽象的な理論を一切ぬきにして、行動を通して、人々がみずから実感する機会を提供したこと。これが、この対話プロジェクトの、独自のそして大きな功績だといえるでしょう。

ただし、この対話プロジェクトの成果は、広い社会的文脈で、かつ長期的なスパンのなかでこそ、評価されるべきかもしれません。対話プロジェクトの機会を利用し、対立する意見の人への新たな理解を得たり、知見を広げることができた参加者たちが、実際に社会のなかでどう動き、なにかを変えていけるのか。それこそが、社会において最も肝心な点であるためです。

今後、一対一の同じ目の高さでの話し合いという、コミュニケーションのあり方が、社会の多様な場面でどのように定着するのでしょうか。そして、互いの異なる意見や立場を理解したり折り合いをつけるために、どのように働くのでしょうか。その可能性を観察するこちらも、長いスパンで、見守っていきたいと思います。

参考文献・サイト

Bangel, Christian et al., Streiten Sie schön!, Zeit Online, 18. Juni 2017, 15:02 Uhr

“Deutschland spricht” in der Datenanalyse Kuck mal, wer da spricht! In: Spiegel Online, Sonntag, 23.09.2018 08:17 Uhr

Daum, Matthias, Die Schweiz spricht”: Sie wollen reden. In: Zeit Online, 22. Oktober 2018, 18:21 Uhr

Deutschland spricht Wandel durch Annäherung. In: Süddeutsche Zeitung, 23. September 2018, 21:08 Uhr

Erdmann, Elena et al., “Deutschland spricht”: Das gibt so richtig Streit! In: Zeit Online, 18. September 2018, 13:45 Uhr

Exner, Maria et al., Machen Sie mit bei „My Country Talks“! My Country Talks. In: Zeit Online, 4. Juni 2018 um 11:51 Uhr

Faigle, Philip, “My Country Talks” – oder: Wie eine internationale Debattenplattform für politisch Andersdenkende entsteht, dpa, 21.7.2018.

Gäbler, Bernd, AfD und Medien II, Erfahrungen und Lehren für die Praxis, OBS Arbeitsheft 95, 19.11.2018, Informationsseite

Grimme Online Award 2018, Deutschland spricht

Itten, Anatol et al., Debattenkultur: Fremd, andersdenkend, unangenehm. In: Zeit Online, 12. Juli 2018, 18:14 Uhr

Kiel, Viola, Deutschland spricht”: Festival der Meinungsverschiedenheit. In: Zeit Online, 23. September 2018, 20:07 Uh

Riss, Karin, Strolz trifft Madjdi: “Ich hab gerüttelt an ihm”, Der Standard, Österreich spricht, 13.10.2018.

Mallinckrodt, Marie von, Mit Dialog gegen die Dauerempörung, “Deutschland spricht”, tagesschau.de, Stand: 23.09.2018 22:12 Uhr

My country talks

Philip Faigle über “Deutschland spricht”: Was Teilnehmer dabei lernen, Medium Magazin, 15.9.2018.(2019年1月20日閲覧)

Schöpfer, Linus, Und dann duzen sie sich. In: Tages-Anzeiger, 22.10.2018, S.2.

Steinmeier, Frank-Walter, Eröffnung der Dialogveranstaltung “Deutschland spricht”, Der Bundespresident, Berlin, 23. September 2018

Tausende reden miteinander statt übereinander. Aktion «Deutschland spricht», nhr, t-online.de, 23.09.2018, 19:24 Uhr

Weydt, Elisabeth, Suche nach der anderen Meinung, “Deutschland spricht”, tagesschau.de, Stand: 23.09.2018 22:32 Uhr

Zeit Online, Deutschland spricht – Der Auftakt mit Bundespräsident Frank-Walter Steinmeier im Livestream (2019年1月25日閲覧)

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


トップアスリートふれあい事業「夢の教室」に協賛させていただきました

2019-02-18 [EntryURL]

特定非営利活動法人ジョイナスアレティックスマネジメント主催の、
トップアスリートふれあい事業「夢の教室」 ~ 1 White Smile in 大阪泉州 ~ に協賛させていただきました。

2011年 第6回FIFA女子ワールドカップ優勝メンバーの、
宮間あや氏海堀あゆみ氏を特別ゲストとしてお迎えします。



開催日は、平成31年3月9日(土)

夢の教室:13:00~13:30
歯みがき講座:13:30~14:00
サッカー交流:14:15~15:15

会場は、
講座:大阪府貝塚市立東山小学校体育館
実技:いずみ SPORTS VILLAGE (雨天は別途調整)

いずみ SPORTS VILLAGE

参加者:約200名(大阪泉州地区 親子100組)

参加ご希望の方は、
「ご住所」「お電話番号」「ご参加者名(大人・子供)」をこちらまでメールでお申し込みください。


ドイツ発対話プロジェクト 〜フィルターバブルを脱ぎ捨てた先にみえるもの

2019-02-13 [EntryURL]

もしも、まだ会ったことがない人が、自分の意見や世界観と全く異なる意見や世界観をもっているとすでにわかっていたら、みなさんは、その人に会いたいでしょうか。できることなら、会いたくないと思うでしょうか。会うのを避けたいと思うのは、なぜでしょう。自分の意見と反対の人と会っていても、不快感や腹立たしさ、あるいは虚しさや不安を感じるだけで、なんの利益にもならないと思うからでしょうか。一方、もしも実際に、正反対の意見の人に一対一で会って話をしてみると、そんな会う前の印象は変わるのでしょうか。

昨年、ヨーロッパでは、こんな素朴な疑問を「もしも」の話に終わらせず、実際に試してみるという壮大な実験が行われました。ドイツ語圏(ドイツ、オーストリア、スイス)全体で、42000人が参加申し込みをし、17500人が実際に話し合いの席につきました。

一体なんの目的でこんなことが企画され、人々は、どんな理由で参加しようしたのでしょうか。結論を一言でまとめるとすれば、これは奇抜でおもしろい体験を単にするために開催されたわけではなく、企画側にも参加者側にも共通の理解や一種の使命感があって成立したものだったといえます。

今回と次回の記事をつかって、このことについて詳しくみていき、経緯や背景についてもさぐることで、今のヨーロッパの普通の人々の認識や世界観の一断面に触れてみたいと思います。

まず今回は、具体的なプロジェクトの設立経緯とその展開について概観してみます。そして次回は、対話というもののもつ性格や、この企画の方法や範囲について検証していき、このような集団的な実験(体験)が、実際に社会でどのような意味をもつのかについて展望してみます。

プロジェクトの背景

このプロジェクトはもともと、昨年ではなく2年前の2017年、ドイツでスタートしました。

EU随一の経済大国であるドイツは、近年失業率が約5%にまで低下し、マクロ経済的にみると好景気にわく一方、社会の収入や教育上の格差は広がり、社会内部での流動性は減る傾向にあります。このような状況下、大規模に難民が国内に流入しはじめる2015年ごろから、難民や移民をめぐるテーマなどで世論は大きく分れて対立し、一部の先鋒化した動きが、衝突や暴力沙汰を各地でたびたび引き起こすようにもなりました。

ドイツ連邦大統領のシュタインマイアーFrank Walter Steinmeierは、このようなドイツの現状を「コミュニケーションしているのでなく、大声でわめいている」だけとし、摩擦や妥協できる準備や努力をしなければ、民主主義は機能しないと警鐘を鳴らします(Steinmeier, 2018)。

一方、異なる意見をもつ人たちへの不信感や無力感をつのらせ対立するだけでなく、そのような硬直した対立状況を打開するために有効な手段を模索する動きもでてきました。以前に紹介した、難民や移民に不安や不信感を抱く人たちの気持ちをまずは聞いて、不安解消につとめようとする「悩める人たちのホットライン」(「「悩める人たちのためのホットライン」が映し出すドイツの現状 〜お互いを尊重する対話というアプローチ」)は、その好例です。

メディア界から生まれた対話プロジェクト構想

普段は人々に報道するだけのメディア界からも、報道という枠を超え、意見が異なる人々に対立以外の違う行動を求めるプロジェクトが構想されます。それが、今回扱う、「ドイツは話す」という対話プロジェクトです。政治的意見が異なる人同士が、ドイツ全国で決まった日時に一斉に、現実のどこかの場所で一対一で、対面し、話し合うというもので、ドイツを代表する週刊新聞『ディ・ツァイト』が構想・企画しました。

『ディ・ツァイト』が知る限り世界でも前代未聞という、この壮大な対話プロジェクトの構想は、「もしも社会全体が、ほかの人と話し合うことを忘れてしまった、それが本当だったら、どうやったら、また人々を会話するよう仕向けることができるだろう?」(Bangel, et al., 2017)という素朴な問いから始まりました。

そしてたどりついたのが、「一番いいのは、対話(話し合い)」だというシンプルで明快な答えでした。最新の研究成果でも「自分と意見が異なる人と集中して意見を交換することは、ほかの人の目から事象をみることで、もう一度、全く新しく物事をみることができる、数少ない可能性」であるとされているためです(Bangel, et al., 2017)。

対話を企画したスタッフたちは、人には、ソーシャルメディアを使う否かに関係なく、「自分たちが確信していることに反する事実(ファクト)を、間違いだとかたずけたり、勝手に無視する」傾向がある。つまり「フィルターバブルは、まさに、わたしたちの頭の中にある」といいます(Bangel, et al., 2017)。

フィルターバブルは、自分を失望や危険にさらすことはなく、常に心地よい自己満足をさせてくれるかもしれませんが、社会の対立など、意見の異なり人が折り合いをつけていかなくてはならない問題を解消することは決してできません。

このため、このような自分たちのなかにあるフィルターバブルを脱ぎ捨てて、意見の異なる人たちが、「お互いにについて話す代わりに、お互いと話そうMiteinander statt übereinander reden」と、このプロジェクトを立ち上げ、人々に参加を呼びかけました。

プロジェクト「ドイツは話す」が成立するまで

このプロジェクトが実現されるまでのプロセスや具体的なこのプロジェクトの方法について、一回目のドイツの対話プロジェクトの過程を例にとって、みてみましょう。

まず、『ディ・ツァイト』は、プロジェクト参加希望者に、自分の最低個人情報(携帯電話番号や郵便番号など)の入力と質問の回答をしてもらいました。質問には、国民が、関心をもちそうな政治的、社会的に重要なテーマで、かつ国民の意見が大きく分かれることが想定されるテーマとして、以下のような五つが選ばれました。

・西側諸国はロシアと公平にやっているか?
・ドイツはマルク(統一ユーロの前のドイツの通貨)にもどるべきか?
・難民を受け入れすぎたか?
・同性の結婚は認められるべきか?
・脱原発は正しかったか?

この質問を、回答者は5段階(全くその通りだと思うから、半分半分、全然そう思わないまで)で評価しました。

しかし、すぐに問題があらわれます。参加希望者の意見は非常に似通ったものだったのです。どのメディアも読者の判断に日々、影響を与えており、また読者自身も自分が読みたいものを選択することを通して、最終的に読者が類似した意見をもつであろうことは、ある程度想定されていましたが、このプロジェクトを実現するためには、意見が異なる人が、ある程度参加することが不可欠です。このため『ディ・ツァイト』は、このプロジェクトについて、ほかの組織、消防車や赤十字など多数の組織や団体にも通知し、より広い層からの参加をよびかけます。

最終的に12000人が参加申し込みを行い、そのなかからボット(ロボット)でなく本物の人間でドイツ在住の人だけを選別するため、携帯番号がドイツのものでない人や、それで実際に連絡することができなかった人(1700人)、また、携帯電話のショートメッセージに応答がなかった人(4500人)を除き、5500人が残りました。

この残った人たちを対象に、次に、質問の回答と郵便番号をもとに、意見ができるだけ異なり、住所が比較的近い人(20キロ以内に住む人)を二人ずつの組みにしていきます。できた二人組は、5つの質問のうち4つが同じ回答(ロシアについての質問だけ意見が異なる)をする、比較的似通った見解をもつ人たちの組が多数派で、2、3の質問事項に意見の違いがある人同士の二人組は1100組でした。75人は、残念ながら20キロ内に討論したいというパートナーが全くいないか、あるいはもうみつけることができず、対話プロジェクトに参加することができませんでした。

マッチングの結果は参加希望者それぞれに届けられ、双方が実際に会ってみたいと回答した場合のみ、それぞれのメールアドレスをさらに通知されました。これを使って、個人的にお互いに連絡をとって、具体的に会う場所を決めてもらい、最終的に2017年、600組1200人が対話を実現させました。

プロジェクトの広がり

翌年の2018年9月には、二回目の「ドイツは話す」がさらに以下の3点で拡充され、再び開催されました。

複数のメディア企業が参加

2017年は一社だけでしたが、2018年は、11のメディア企業が共同で対話プロジェクトに参加することになりました。参加するそれぞれのメディア企業が、読者にこのプロジェクトへの参加を呼びかけ、申し込み窓口ともなったことで、より多くの人、また多様な意見の人に呼びかけることができました。

参加者の数が前年より増加

2018年は前年の2倍以上の28000人が参加申し込みをしました。そのうちマッチングで10014組ができ、最終的に8470人が、9月23日日曜の午後3時から、ドイツ中のカフェや公園などで一斉に対話をしました(主催側は、自宅など私的な場所でなく公的な場所で対面するのをすすめています)。

2018年は、参加者にイエスかノーで回答する形式で以下の7つの質問がだされました。

・現在のアメリカの大統領がアメリカにとっていいと思うか(結果は、いいと思うが10.4%)
・10年前と比べドイツは悪くなっているか(結果は、そう思うが19.3%)
・ドイツは、国境をもっと厳しく管理すべきか(結果は、すべきが28.6%)
・都市の中心部では車の通行を禁止すべきか(結果は、すべきが63.4%)
・肉の消費を減らすためにより強い措置を講じるべきか(結果は、講じるべきが67.2%)
・#MeTooムーブメントは、性的ないやがらせになんらかのポジティブな影響を与えたか(結果は、そう思うが72.4%)
・イスラム教徒と非イスラム教徒は、ドイツで共存できるか(結果は、できるが85.1%)
・他国への広がり

『ディ・ツァイト』は、この対話のマッチング作業のため、グーグルの資金提供を受け、(相性が合う人をみつけるデートポータルで使われるアルゴリズムの全く逆のパターンの)アルゴリズムを開発しましたが、ほかの国でも同じようなプロジェクトを、このアルゴリズムを使って容易に開催できるように、プラットフォーム「My Country talks」を開設しました。

このかいもあって、2018年にはすでに、14の国や地域(ヨーロッパが中心ですが、アラスカなどヨーロッパ以外の地域も含まれまれます)が、同じようなプロジェクトを計画あるいは実際に実施しました。


スイスの対話プロジェクトの参加希望者への通知メール


対話プロジェクトに映る今のヨーロッパ

今回、対話プロジェクトがスタートするまでの経緯とその後の発展をみてきましたが、ここには、今のヨーロッパ(主にドイツ語圏)の状況が一部、投影されてみえているように思われます。このことについて、最後にまとめてみます。

まず、初回開催からたった1年で、前代未聞のプロジェクトに共感し参加するメディア企業や人々が、ドイツ語圏を中心にヨーロッパ全体にでてきたということから、国は違っても、人々の間で現在(漠然とかもしれませんが)、共通する認識があることがわかりました。それは、一方で、現在、国内で対話が減り対立がむしろ増えているという認識であり、そのような事態を少しでも緩和できるようになにかすべきだという危機感といえるでしょう。

他方、それを悲観的にただ傍観するのではなく、なにか自分でもできることがあったら自ら動く用意があった人も、社会に少なからずいた、ということもわかりました。彼らは、対話プロジェクトという具体的に気軽に参加できる形が提示され、それに参加するという行動をしたことで、社会で存在が可視化され、互いについても意識できるようになりました。

ところで、対話を開催したヨーロッパ諸国の具体的な質問事項をみると、移民の受け入れや、人の移動を管理するための国境管理、あるいはイスラム教徒との共存など、難民や移民に由来・関連するテーマがほかのものに比べ多く、共通していました。質問事項社会で対立が目立つ問題について対話をしてもらうため、テーマ(参加希望者に質問項目となるもの)は、事前に企画側のジャーナリストが検討、選択します。つまり、国内の世論を2分するような重要なテーマが意図的に選ばれます。このことから、(このテーマが選ばれたからといって、これらの問題がほかの国内問題よりも、実際に国内で深刻な問題となっているかはまた別問題ですが)、少なくとも、難民や移民に関連するテーマが、各国で重視され、政治的な対立の火種になっているという状況も、うかがい知ることができます。

人々が期待をよせ、自ら参加するにおよんだこの対話プロジェクトの中身について、次回はより踏み込んで検証してみたいと思います。
※参考文献・サイトはこちらの記事で一括して掲載します。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「体験」をもとめる社会心理と市場経済 〜「体験」をキーワードに再構成される産業と文化施設

2019-02-06 [EntryURL]

前回、文化施設や小売業界など多岐にわたる分野でみられる「体験」志向について概観してみました(「すべては「体験」を目指す 〜ショッピング、博物館、ツーリズムにみえる「体験」志向」)。今回は「体験」志向に読み取ることができる社会心理や、関係する消費パターンに注目し、分析してみたいと思います。

なぜ、今、体験なのか。背景の社会心理

ところで、今、なぜ「体験」がそれほどもてはやされるのでしょうか。

一言で言えば、「体験」を介さないで済まされることが、今日あまりにも多くなり、そのような時勢が、逆に「体験」への関心や需要を刺激している、と言えるのではないかと思います。例えば、オンラインで視覚を中心にした様々な情報を入手・視聴したり、買い求めることが簡単にできますし、フェイクニュースやディープニュースのような本物まがいの偽物が横行しています。このような時代だからこそ、現場にいくこと、本物を体験することの価値を相対的に高め、「体験」重視の風潮を押し上げているのでしょう。

このような時代の波は、旧態然の博物館のあり方にも影響を与えるようになりました。従来型の視覚的な情報に依存する展示だけでは、物理的な博物館という「現場」に行く意義を、人々にアピールすることが難しくなるためです。結果として、前回みたように、博物館もまた、視覚的展示から「体験」的な展示にしたり、ワークショップのような「体験」を付加するという「体験」重視のあり方を模索しています。

あえて本物をみにいくことの価値が高まったことで、同様に、ツーリズムも、これまでにないほど需要の高まりをみせています(「ツーリズムの未来 〜オーストリアのアルプス・ツーリズムの場合」「観光ビジネスと住民の生活 〜アムステルダムではじまった「バランスのとれた都市」への挑戦」)。

一方、ツーリズムの中身をよくみると、これまでとは違う部分、変化も観察されます。かつてカメラが普及したてのころは、観光客はこぞって、カメラをもって、世界中の景色をカメラに収めることで満足できたのに、今日は、そのような視覚情報を入手するだけの旅行でも物足りなくなる傾向がまっています。

ビデオや画像として記録するという受動的な行為よりも、なにかもう少し能動的なことがしたい。そこでしかできないことをして、自分が確かにそこにいた実感をもちたい。そんな人たちのために本物に触れる「体験」が、旅行の中心的な目的となってきました。これは、これまでの「そこに行ったことを示す」記録のアリバイにかわり、体験というディープなアリバイが重視されるようになった、という言い方ができるかもしれません。

「体験」が新たな消費の正当な理由を生む?

ところで、現代は全般に、所有ではなくシェアの時代であるともよく言われます(「シェアリング・エコノミーを支持する人とその社会的背景 〜ドイツの調査結果からみえるもの」)。このようなライフスタイルが流行る背景には、環境不可の少ない生活を目指そうという意向ももちろんありますが、社会にものが溢れるようになって久しく、顕示的な消費(それを消費・所有していることを人に見てもらうことが、とりわけ重要な目的であるような消費)や消費全般の意欲が社会で全般に薄らいでいることも大きいでしょう(Meier, 2018)。

ただし、顕示的消費や消費全般の意欲が減っていることが、ただちに、潜在的な消費意欲がないことを意味するとは限りません。適切な場所と適切なコンテクスト(流れや状況)ができることで、潜在的な消費意欲が再び高まることは十分考えられます。

その端的な例と思われるものを、前回あげたチョコレート工場に付随する大きなチョコレート販売店で観察しました。広い店頭には、ほとんどチョコレートしか売っていませんが、レジの行列に並ぶ人たちのかごのなかは、どれも、チョコレートでいっぱいだったのです。普段スーパーの店内で、こんなに多くのチョコレートをかごにいれて、いっぺんに購入しようとする人を、まずみかけることはありません。ではなぜ、ここでは、こんなにチョコレートばかり大量に買う人が続出したのでしょう。

それは、チョコレート工場に付設する店頭で売られているチョコレートには、たとえそれらが普通のスーパーでも購入できるものであったとしても、特別の(客観的にははかることができない、純粋に主観的な)付加価値がついたからだと思われます。わざわざ自ら訪問した、ということでついた付加価値や、そこを訪問したことの思い出としての付加価値、と説明できるでしょう。そのような特別な価値をもったチョコレートは、ほかのものとは違い、自分や家族へ買ってかえるに値する「質」があるものとなり、(普通ならちょっと買いすぎなのでは、と思うような躊躇がなくなり)大量に購入することになったのでしょう。

つまり、「体験」は、特別の付加価値を商品にも与えることになり、それに起因して、購買意欲を一気に高まらせる効果をうむことがある、ということになります。無論、「体験」する機会があまりに増えて、ありきたりになれば、状況は変わるでしょうが、現状、少なくともしばらくは、新たな購買意欲が「体験」から派生し、消費を押し上げるパターンは、重要な購買・消費ルートになる可能性があります。

まとめてみると、「体験」志向を市場調査の観点からとらえると、二つの重視すべきポイントがあるといえるでしょう。ひとつは、臨場感などを演出し、それが強い「体験」だと感じられるようにするなど、体験自体の中身を充実させること。今まで体験したことのない「体験」をできることが、買い物から博物館まで、これまでにないほど広範囲の分野でもとめられているためです。同時に、その「体験」の好感がさめやらない時にタイミングよく、体験に関連して付加価値がついた商品が購入できるような適切な場所をつくることです。

店舗、博物館と生産拠点の間で消えていく境界

店頭販売で「本物により近づける」演出や実演が重視され、博物館もまた、本来の視覚的な展示を突き抜けた、よりリアルな展示や「体験」の場を提供するように努め、工場が逆に展示や見学を意識して本物をみせる場としての存在感を強めようとする。

このように、店頭と博物館と生産拠点、それぞれが、同じ「体験」を重視するアプローチに比重を移しつつあるということは、三者の境界が、あいまいになっていくことを意味します。これまで棲み分けることで、共存していたのだとすれば、これからは、お互いが部分的に競争相手となる、という側面が新たに強くなっていくということなのかもしれません。

産業と観光業がつながる時代

一方、店舗、博物館、生産拠点の間に新たな競合関係が現れる一方、これまでと違う形の協調関係を通して、違う分野がお互いに、恩恵にあずかるという構図もでてくるかもしれません。

例えば、「体験」を提供する生産拠点は、観光という新たなルートで人を地域に運びいれ、新しい観光の流れをつくり、地域社会全体の経済が飲食や宿泊によって活性化される可能性もあります。

今年、地場産業との絆が強い協同組合系のライファイゼン銀行が立ち上げた企画は、その好例としてあげられます。もともとライファイゼン銀行は、特定の口座保有者への特典として、これまで全国の400箇所以上の博物館に無料で入館できる「ミュージアム・パス」など、様々なサービスを提供してきました(「ミュージアム・パス 〜スイスで好評の全国博物館フリー・パス制度」)。

これに加えて、今年新たに加わったのが、「ブランド体験 Markenerlebnisse」という顧客への特典サービスです。これは、スイス全国にある、工業、農業、食料、医薬品、メディア、など多岐にわたる産業分野のスイスの企業や生産拠点58箇所を、4月から11月までの8ヶ月間の間、無料あるいは格安の値段で見学できるというものです。さらに、その際、国鉄を使うのであれば電車費用が40%、提携するホテルへの宿泊は50%の割引になるという特典もついており、いわば、「工場見学ツーリズム」とでも名付けたくなる、新しい社会(あるいは工場)見学型のパッケージツアーでした。

おわりに 〜「体験」のその先は

観光、博物館、店舗、生産拠点、どこにおいても、求められるようになった「体験」。もっとリアルなもの、もっと「本物」らしいものをもとめる志向は、この先、どのように続くのでしょうか。

前回と今回にわたって、今のトレンドとしてとりあげてきたことと一見矛盾するように映るかもしれませんが、わたしには、「体験」や「本物」を追求していくトレンドが一定の期間すぎると、「体験」や「本物」がありきたいでめずらしくなくなり、その志向が薄れていく、あるいは、「体験」や「本物」自体の意味するものが変化してくるかもしれない、という気がします。

図書館を例にあげてみましょう。本論では言及しませんでしたが、ヨーロッパでは公立や学校図書館においても、やはり「体験」が現在キーワードになっており、閲覧できる書棚や本の数を減らし、閲覧スペースやグループで使えるスペース、団欒できるカフェスペースなど、ほかのスペースを拡大する傾向がみられます。

しかし、現在、図書館において定義される「体験」が、絶対の必然的な「体験」の帰結ではないでしょう。むしろ、「本」に「出会う」ことなんだ、つまりあふれんばかりの書籍が並ぶ本棚があることが、まさに図書館らしい「体験の場」だ、というふうに、数十年たったとあとに、「体験」の解釈が再び動くことも十分ありえます。そうなれば、再びわたしたちがこれまでイメージしていたような、本が平然と並ぶ図書館が、再び流行するかもしれません。

ただし、そのころには、ますます電子書籍化が進んでおり、最新の雑誌や書籍類は紙媒体のものでないものも少なくないかもしれません。そうなると、古びた書籍や本棚があふれる図書館は、(これまでのわたしたちがイメージしていた)歴史的な陳列型の「博物館」的な場所になっているかもしれません。

あるいは、図書館が現在提供しはじめるようになった「体験」の意味や意義が、このまま追求されることにより、図書館の「体験」の意味は、図書館の本来の役割(紙媒体の書籍を閲覧、貸し出しするという)からどんどん切り離されていくかもしれません。そうなれば、図書館という名目の施設自体の存在意義が実質的になくなり、ほかの公共の多目的スペースと差異のない、one of themの「体験」の場所にすぎくなっていくのかもしれません。

まとめると、「体験」流行の真っ只中の今だからこそ、「体験」という言葉におどらされず、その中身と賞味期限を吟味し、汎用範囲を検証する。そのことが、あらためて重要になってくる、ということかもしれません。

主要参考文献・サイト

Das GDI ist der Zukunft auf der Spur. In: Migros Magazin, 10. November 2018

Markenerlebnisse

Meier, Jürg, Die Freizeit wird zum wichtigsten Luxusgut für die Schweizer. In: NZZ am Sonntag, 17.11.2018

«Shopping ist nicht mehr cool» – GDI-Podcast, 15.11.2018

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


すべては「体験」を目指す 〜ショッピング、博物館、ツーリズムにみえる「体験」志向

2019-01-23 [EntryURL]

「ショッピングはもはやクール(かっこいいもの)ではなくなった」(Shopping, 2018)、こうトレンド研究で名高いスイスの研究所GDIは言い切ります。もしそうなのだとすれば、代わりに、今日、なにが新たに「クール」な流行なのでしょう。

結論から先に言えば、ひとつの答えは、「体験」なのかなと思います。「体験」とは、ここでは、能動的・主体的な経験や、視覚的な認知以外によって導かれる経験。ちょっとしたサプライズ体験など、これまでの圧倒的に主要な経験要素であった視覚的な刺激以外のものが多く含まれた体験全般をさします。

この傾向は、ショッピングにとどまらず、博物館や観光など、生活スタイルに関連する広い範囲で、今日、同時に出現しているものです。今回と次回では、このような、ビジネス・文化に広範に広がっている、この「体験」志向について、スイスを例に概観し、その特徴を整理してみたいと思います。

ショッピングでの「体験」

冒頭で引用した、GDIでは、ショッピングがクールなものでなくなったため、ショッピングセンターはショッピングセンターである限り、人をもはや魅了しない、といいます。言い換えれば、ショッピングセンターが、販売という機能だけでなく、プラスアルファーを付加しなければならない時代ということになりますが、それを捉えるキーワードが「体験」となります。

実際の店舗の状況をみると、確かにそのような兆候がすでにあちこちでみられます。例えば、大型・中型の店舗では(ディスカウントショップを除く)、ぎっしり商品を棚に陳列するのではなく、試食できるスペースを充実させたり、市場の雰囲気に似せた生鮮食品売り場、パン工房がみえて香ばしいパンの香りが常に漂うなど、視覚やハプティックな感性をより刺激することを意識することが重視されるようになってきました(産業界でのハプティック・デザイン(触覚に基づくデザイン)に最新事情については、「ハプティック・デザイン 〜触覚を重視した新たなデザインの志向」)。

新装オープンしたスーパーの広告紙面。
出典: Anzeigen. In: Der Landbote, 14.11.2018, S.16.


上記の広告紙面にも、文字どおり「食べることと飲むことが体験になる」というフレーズがみられます。それを「体験する」ことが、ショッピングの重要なテーマ、目的と、位置付けられているわけです。

個々の店舗だけでなく、ショッピング・センター全体でも、同じような潮流がみられます。大規模ショッピングセンターだけでなく、中規模な施設でも、ショッピングと別の「体験」ができるイベントを、多目的スペースなどで頻繁に行うようになってきました。

ここでは、こども向けのお菓子のデコレーションや工作、季節の飾りづくり、素人を起用したファッションショー、クリスマス時期は無料で包装用紙を利用しパッキンングできるコーナーなど、色々なことが現在試され、それぞれの場所やターゲット層に適した、採算が合うイベントが模索されている段階、という感じをうけます。

地域の活動やビジネスを最大限活用する「体験」イベント

ところで、イベントの主旨は、客をリピーターとして継続的にひきつけることですので、一度体験したらもう関心が萎えてしまう、というイベントではこまります。また、費用も毎回かさむのも、継続して行えないため問題です。その点で、有望視されるものが、地域にもともとある資源や活動を最大限活用する「体験」です。

地域で活動やビジネスを展開している企業や組織が、不特定多数が訪れるショッピング・センターで「体験」活動を提供すると、通常のビジネスで培われるよりも広いネットワークを獲得することができます。同時に、ショッピング・センター側の「体験」イベントへの自己負担や準備を大幅に減らすことができます。つまりウィンウィンの状況をつくりだすことで、継続的なイベント活動を可能にすることができます。

一例として、卑近な例ですが、わたしが勤務する遊具レンタル施設の出張企画があります。数年前に、地元のショッピング・センターに誘致され、現在、2ヶ月に一回ほどのペースで、水曜の午後(地元の小学校や幼稚園は、水曜の午後は授業がありません)に家族づれをターゲットにした、遊具で無料で遊べる午後の時間「プレー・アフタヌーン」を、ショッピングセンター内のパブリックスペースで行なっています。

このイベントは、ショッピング・センターと遊具レンタル施設の両者に(最終的に消費者にも)実際に、ウィンウィンの状況を生み出しています。まず、センターには、毎回開催日には大勢の子連れ客が訪れるようになりました。このため、センター側は、イベントを継続するだけでなく、隔月でなく毎月に増やすことを要望するほどです。遊具レンタル施設のほうにとっても、地元住民が集まる中心的な施設で、出張サービスすることで、遊具レンタル施設の存在をまだ知らない、あるいは利用したことがない、小さい子どもたちのいる家族に、その存在を知ってもらう好機となっているようで、ショッピング・センターでの出張サービスを開始して以降、遊具レンタル施設での小さい子どもづれの新しい会員数が増えています(スイス独特の半民半官の遊具レンタル施設については「スイスの遊具レンタル施設」)。ちなみに、通常このスペースを使用する場合レンタル料が発生しますが、センターからの依頼で行なっているこの出張サービスでは、免除されています。

博物館、工場見学

博物館においても、「体験」を避けては通れない時代になってきました。

以前、博物館といえば、物がこれでもかと並行して展示されている場所、というイメージがありましたが(実際に博物館のルーツは、コレクターが集めたものを陳列し見せることでしたが)、近年は、博物館のジャンルを問わず、どこも、展示を大幅に減らし、訪問者が数の数ない展示品を集中して鑑賞できるように演出するのが、メインストリームになってきました。

あちこちに関心がそれることなく、広い空間に展示された、展示品を鑑賞することは、単に展示を見るというより、そこにあるものに「出会う」という感覚に近くなります。陳列された展示物を単にある順番どおりにみていくという受動的な行為より、空間的に違いに距離を起き、個別な存在感を放っている展示物に「出会」い、感じ、考える。そんな主体的な体験が、博物館で新しく重視されるようになった鑑賞の仕方になってきたように思います。

このような博物館全般の潮流に並行し、数年前から、これまで博物館で中心的だった視覚以外の感覚を重視し、それを使って博物館を新たに「体験する」方向も模索されています(「デジタル時代の博物館 〜博物館の特性を活かした新しい在り方を求めて」)。

展示するだけでなく、関連したワークショップを展示期間に開催し、自ら展示物に刺激を受けて、家具や竹細工、ロボット、動画など、自分の作品を作成できる機会を設けることも、顕著に増えてきました。

数年前に、美術館のデザイン展の一環として夜に開催された折り紙講座に参加したことがありますが、仕事帰りのスイス人などで満席でした。折り紙が、スイス人にとっては、立派な「体験」であったことを示しています(「折り紙のグローバリゼーションと新たなフロンティア」)。

これが、ショッピング・センターの「体験」イベント同様に、博物館本体への人集めにも一役買っていると思われ、今後、もともとの展示機能と体験が、補完し合いながらの、博物館の在り方が模索されていくのではないかと思われます。

さらに、博物館のこのような動きと並行して、展示と見学と体験を一体化させて見学ができる工場なども増えてきました。例えば、1852年創業のスイスのチョコレート製造メーカー、マエストラニMaestraniの工場では、チョコレートの工程ごとのチョコレートの原材料の味や香りを確かめながら工場見学をし、最後に、トッピングや味を自分でアレンジして板チョコレートを作ることができます。

新しい「体験」のツーリズム事情

ツーリズムにおいても、現代においては、単に見て回る観光ではなく、より強く実感できる「体験」を志向する傾向が強まっています。

「体験」の質は、これまで話していたものとちょっと違いますが、これまでなかった「体験」を組み入れることで需要が高まった観光事業の例をあげてみましょう。

これまで土地の歴史を語る上でほとんど扱われてこなかった女性の生き方や生活の視点から、昔の生活や状況を紹介するガイドツアーが、近年好評で、プログラムや動員数を年々増やしています(この人気の秘密や具体的な内容の詳細については、「ローカルな「体験型」ツーリズムの展開 〜ドイツ語圏のユニークな歴史ガイドツアーと自由な発想のベンチ」)が、このようなツアーで、とりわけ近年人気が高いのが、「食べ歩き」という要素をとりいれたものです。街の歴史を訪ね歩くだけでなく、街の歴史を象徴する、老舗飲食店に立ち寄り飲食をしながら、街を知るという主旨のツアーです。

すでにある「観光資源」に、このような「体験」要素をアルファーしたことで、ガイドツアーの需要はさらに高まり、10万人強の都市ヴィンタートゥアでは、都市のガイドツアーが年間通算約600回も開催されています。

おわりに

今回は、文化施設から広い産業分野にまで及んでいる「体験」志向について、スイスを例に概観してみました。次回は、このような「体験」志向の傾向を、その背景を踏まえて整理・分析し、今後どのように展開し、どんなビジネスにつながる可能性があるのかを考えてみたいと思います。

参考文献・サイト

Das GDI ist der Zukunft auf der Spur. In: Migros Magazin, 10. November 2018

«Shopping ist nicht mehr cool» – GDI-Podcast, 15.11.2018.Podcast

Meier, Jürg, Die Freizeit wird zum wichtigsten Luxusgut für die Schweizer. In: NZZ am Sonntag, 17.11.2018

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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向かっている方向は? 〜グローバル経済と国内政治が織りなすスパイラル

2019-01-15 [EntryURL]

今はどんな時代で、自分はその時代のどんな所に位置しているのか。そして、これからどんなことが将来の明暗を分けるポイントになるのか。そんなことがわかればどんなにいいか、と思う人は多くても、実際に、自分が真っ只中にいる時代の潮流を見極めるのは至難の技、というのが現実かと思います。

しかし、先日、このような素朴な疑問を立て続けに解き明かしてもらったように思える体験をしました。国際経済が与える国内労働市場や政治への影響を西ヨーロッパとアメリカを対象に研究しているチューリヒ大学経済研究所のドルンDavid Dorn 教授が、スイスのラジオ経済番組「トレンド」で半時間にわたり説明しているのを聞いた時です。

ドルンは、博士号を取得(2009年)してからまだ10年足らずにもかかわらず、研究業績が世界的に注目され、ジャクソンホール会議(毎年アメリカで開催される世界各国から中央銀行総裁や政治家、有力経済学者らが集う経済政策シンポジウム)にも招かれる先鋭のスイスの経済学者です。

今回は、彼のこれまでの研究と深い見識が濃縮された、現在の世界の見取り図のような番組内容をまとめてみたいと思います(今年最初の特番として(1月5日)ラジオで放送されたオリジナルの内容は、ポッドキャストで視聴できます。詳細は、本文下の参考サイトをご覧ください)。

※番組の内容の説明中に一部、わたしの言い換えや、関連する別の記事の指摘などの補足が入っていますが、ドルン自身の見解とわたしが挿入した補足部分を明確に区別できるように、わたしの補足は、カッコに入れて記しました。

今の潮流をつくりだした最近20年間の状況

ドルンは、これまでの約20年間を一つの時代として区切り、その時代に、行われてきたこと、あるいは行ってこなかったことが、今の時代の経済的、政治的な位置・状況を決定づけているとみます(20年前というと冷戦が終わり、政治的には、アメリカを中心とする新しい国際秩序が生まれ、経済市場はグローバル化が進み、多くの先進国の生産拠点は、人件費が安い新興国や途上国に移転、拡大していくころです)。

この20年間で、西欧やアメリカでは、国内の労働市場が縮小し、失業者が増加しました。しかし、経済学では、国際的な交易(とそれに伴う経済の成長)が公益(公共の福祉)になる、という考え方が根強くあっため、国内労働市場が縮小したことについては、過小評価しかしてきませんでした。逆に(全体の交易による経済発展がダメージを受けた分野を補完していくという形で、社会全体としてなんとかおさまるはずだと)それを許容する傾向が強く、労働市場の縮小に本腰をいれて対処・検討されてきませんでした。

しかし、ドルンとほかの研究者との共同研究で、この20年間の国際的な経済発展が、西欧諸国で、これまで認識されていなかったような、特徴のある打撃をもたらしたことが明らかになりました。

不均等に分配された打撃

まず、それまでも、事実としてはもちろん国際経済が国内の労働市場に打撃を与えているという認識はされていましたが、打撃を受けたのは、専門的なスキルをもたない(学歴が低い)人々であり、その人々の間で、ほぼ均等にそのダメージが分配されている、といった漠然とした認識が一般的でした。

これに対し、ドルンたちの研究で、打撃を受けたのは、全領域ではなく、特定の産業界であったことがわかりました。打撃は、広く浅く分配されたのではなく、狭く深く、という不均等な形であったといえます。ある工場が閉鎖されることで、その工場の被雇用者と彼らが住む居住地域全体が総倒れするといった状況がその端的な例です。

また、同じ専門的なスキルをもつ人の間でも(同じ職業課程を修了していていも)、就業する業界分野が異なることで、一部の人は順調に末長く就業できるのに対し、一部の人たちは、失業し、そのまま正規就業の道が閉ざされていくという、二手に大きく分かれていく状況もでてきました。

富める国の富めない人々

これまで経済理論では長い間、経済のグローバル化で、敗者(雇用が奪われた人たち)がでてきても、勝者(経済のグローバル化によって富を増やした人たち)によってもたらされる富によって全体としてみると補償(相殺)される、と考えられていました。

しかし実際には、社会のなかでほとんど補償されず、貧富の差だけが大きく拡大していました。その顕著な例がアメリカです。ヨーロッパでも、一度失業すると、通常の就業にもどることができず、いつホームレスになるかもしれない不安定な状況に人々がさらされるようになりました。

(このような過去20年間の変化を教訓として刻み)、今後は経済界が、長期的な視点をもち、自分たちの社会での影響や社会の役割について強く意識するべきだと、ドルンは強調します。

経済が政治に与える影響

ドルンはまた、西欧諸国とアメリカ両方にまたがり、経済が過去数十年前から現在まで、政治にどのような影響を与えたか、という現在の研究から、経済と政治のはっきりした相関関係を、西欧とアメリカに共通して見出しました。

前述のように、西欧もアメリカも、90年代から経済がグローバル化し、国内労働市場が縮小する、という同じような状況を味わってきました(ドルンの今回の言及にはありませんが、日本も同じ時代の潮流にあって同じような状況であったといえるでしょう)。

この結果、アメリカは、中道を支持する人が大幅に減り、極右や極左などの、極端な政党に流れたり、トランプ大統領を選ぶ選挙行動にでました。これは、なにより、国民の自分たちの経済的状況の不満のあらわれだ、とドルンは言います。そしてその背景で、収入や富の状況が、政治や政治システムに大きく影響していることを示しているといいます。

一方、西欧でも、ここ20年間、国によって、政府は保守だったり、社会民主勢力だったり異なりますが、どこも共通して、多くの人たちにとって収入が増えず、経済状況が向上されなかったため、強い政治への不満が生じました。

政治不信を追い風にして台頭するもの

つまり、西欧でもアメリカでも共通して、今日、経済の不満の結果として、政治への不信や不満が生じています。

このような政治不信や不満が蔓延する状況は、新しい政党には非常に有利です。実際、フランスのマクロンの新政党は(現在こそ異なりますが当初は)圧倒的な支持を国民から受けていましたし、ドイツでも(第二次世界大戦以後一貫して、一度も国会に代表を送り込むほど勢力を拡大できなかった)極右政党が、ここ数年大きく躍進し、国会の議席を持つ政党になりました。

経済の足をひっぱる政治

さらに、政治不信が強くなると、今度はそれが経済に影響を与えます。長期的に経済状況を改善するために経済改革をしようとしても、国民からの支持が得られにくくなるのです(こうなってくると、経済と政治がお互いに関係してネガティブなスパイラルに陥っていくことになります)。

その例として、フランスの現在の状況をあげます。当初、既存の政党に代わり刷新したイメージで登場したマクロンであったにもかかわらず、現在、実際に包括的な経済改革に取り組もうとしたとたん、国民の強烈な拒絶反応に直面しています(これについての直接的な説明は今回ありませんでしたが、政党は入れ替わっても、政治不信の根強さが、うかがいしれるということでしょうか。)

ドルンは、このような改革への拒絶反応は、「人間的な反応」であり、避けるのが難しいものであると、冷静な見方をしています。改革は、それが「抽象的な構想」である限りは、耳あたりがよく、誰もが賛成できすが、具体的に痛みを伴うことがわかり、特に自分にそのダメージが大きく、短期的な損失になるとわかれば、必死でそれを阻止しようとするのは、「人間的な反応」だというのです。

そのような理解にたった上で、ドルンが重視するのは、政府の説明努力です。ドルンは、スペインにも勤務していた経験から、スペインやフランスなど、現在政治に不信感を募らせる多くの国に、共通することがあるとします。それは、政府からの国民への説明が少ないということです。

台風の目、スイス

そして、最後に、このような西欧やアメリカにうずまく潮流にありながら、ユニークな立ち位置にあるスイスの状況について、言及しています。(スイスの事例は、世界的な潮流からどこの国も逃れることができないようにみえる状況であるにもかかわらず、独自の避難通路をつくり、くぐりぬけてきたかのようにみえます。このため、とりわけ他の国にとっても参考になるところが多いように思われます。)

スイスは、まず、直接民主主義という、西欧やアメリカにはない政治制度をもつため、政府の国民への態度がほかの国と根本的に違うとします。国民によく説明をし、納得してもらわなければ、(たとえ国会で立法化したり、内閣が他国と条約を締結しても、)結局、国民投票に持ち込まれ、破棄されてしまいます(スイスの政治制度については「牛の角をめぐる国民投票 〜スイスの直接民主制とスイスの政治文化をわかりやすく学ぶ」)。このため、国事について政府は、国民への配慮や説明責任に意識が高くならざるをえなくなります。

また、スイスは伝統的に政治でも経済でも、プラグマティックで柔軟なのが特徴であり、経済が現在、好調であることにも追い風を受け、現在、国民の間では政治や政治家に対して、ほかの西欧諸国に比べると、高い信頼があります(スイスでは政治に不満をもつ若者の割合が、近年、年々減る傾向がみられます。「若者たちの世界観、若者たちからみえてくる現代という時代 〜国際比較調査『若者バロメーター2018』を手がかりに」)。

経済がうまくいっている理由として、ドルンは、スイスが、ほかの西欧諸国にくらべて早くから、グローバル経済化に対応していたことをあげます。10年以上前から、すでに国内には、服飾や靴など、安価で大量生産化される産業がなくなっており、逆に、ハイテク医療機器や、薬剤、高価な時計類など、高度に専門的な製品が多く製造されています。これらは、小規模な国内市場を最初からターゲットにしておらず、国外への輸出を前提に発達してきたものであり、全般に、グローバル経済からは恩恵を十分受けられる経済構造になっているといいます(スイスは「イノベーション大国」としても毎年独立評価機構に高く評価されています「スイスのイノベーション環境 〜グローバル・イノベーション・インデックス (GII)一位の国の実像」)。

このため、例えば、中国との交易関係も、中国から輸入するものが多い一方、スイスから中国に輸出するものも非常も多く、アメリカのように貿易が問題になりません。

しかし、このような結果にいきついたとはいえ、特にスイスがほかの国よりも先見の明があったからというより、偶然の要素もまざった産物であったと、ドルンは言います。ただし今日ふりかえってみれば、スイスが国内の産業構造を早めに転換してくるような柔軟な対応や、早くから海外拠点を中国などの途上国に移した会社が成功していたことが、今日の状況につながっているといえます。この点、アメリカは国内市場が大きいこともあり、自分のところでつくり、それを輸出するということに重きを置いてきたため、今、中国との貿易での問題つながっていると考えられます。

気になった点と今後の見通し

さて、みなさんは、このような北半球のヨーロッパとアメリカの経済と政情を圧縮して見渡した今回の解説を、どのように受け止められてたでしょうか。以下、個人的に印象に残った内容や、気になった点について、いくつか指摘してみます。

今回の説明で秀逸なのが、まず、西ヨーロッパとアメリカ両者を研究の対象とした結果、世界的な経済と政治の潮流や、西欧とアメリカ両者に共通してみられる現象が正確に捉えられていることです。共通の潮流や現象がとらえられることで、そこからはずれている、それぞれの国で特徴のあす部分を、共通の部分と分けてみることも容易になります。

また、経済学者であるドルンが、経済学問領域を越境し、経済がそれぞれの国の政治に与えている影響についても共同研究の枠を広げることで、政治や経済と分けて個々の問題としてみえた時とは異なるものがみえてきたことも、圧巻です。

経済と政治がお互いに関係があるとは、漠然と理解していても、それがいかにつながっているのか、つながった問題領域があるのか、というドルンの指摘は、政治家の主張するようなイデオロギーではなく実証的な研究に基づいているため、とても説得力があります。

研究の成果として、具体的に指摘されているテーマも、新しくかつ、非常に考えさせられるものでした。経済的な不満が、政治不信を生み、左右の極端な政党の台頭に道を開きやすいこと。さらにそのような政治不信が、再び経済の問題にもはねかえってきて、つまり、経済状況を打開する改革を推進するのをブロックすることにもなる、という示唆です。

ならば、どこの国であれ、そんな負のスパイラルに最初から陥らないにこしたことはない、つまり、経済で不満が起こらないようにしたい、と思うでしょう。しかしそれが無理で、不満が高まったのなら、政治不信をさらにつながらないよう食い止めたい、最小限におさえられるようにしたい。そのために、ドルンは、どこの国にあっても、とりわけ、政府が国民に説明することの重要だと説きます。

しかし、ここでやや物足りなさを感じます。もちろん、政府の説明は不可欠ですが、それを政治家にまかせておいてそれを期待するだけでは、少し物足りない気がします。

例えば、ここで、国民と政治をつなぐパイプとして、良質で国民に信頼されるメディアの重要性は、強調してもしすぎることはないでしょう(「メディアの質は、その国の議論の質を左右する 〜スイスではじまった「メディアクオリティ評価」」、「公共メディアの役割 〜フェイクニュースに強い情報インフラ」)。政府と国民の間の情報の交換と信頼の絆を強め、維持していくためにメディアを大いに駆使すること、そのために良質のメディアの維持を支援することなどは、インフラや教育同様、国をあげて取り組むべき課題なのではないかと思います。

ちなみにスイスでは、生協の週刊誌というユニークなメディア媒体もまた、国民と政治をつなぐ役割を一部果たしており、実際に、たびたびグローバリゼーションがもたらす経済効果と社会へのポジティブとネガティブな影響についても、公平な情報を提示するよう努めています(「スイスとグローバリゼーション 〜生協週刊誌という生活密着型メディアの役割」)。

また、さきほどのドルンの要旨本文では触れませんでしたが、ドルンは、国際経済の発達によるネガティブな結果や状況についての、人々の認知のありかたについても言及していました。国際貿易は、安く、また多種多様な商品を世界中から手にいれられるといった、恩恵を人々にもたらします。実際、今日、多くの人がオンラインショップなどで今日、様々な製品や商品を、海外から購入しています。であるにもかかわらず、国際経済の成長のそのようなプラスの恩恵の部分よりも、人々にとっては、ネガティブな部分がより強調され、認識されている、といいます。

このことは、「事実関係」ではなく「人間の心理」として改めて認識すべきことであるように思います。人は、自分が受けている恩恵を当然のように思いやすく、逆にないものや、失った(あるいはそうあとで思い込むもの)には長く不満をもちやすい傾向があります。そのように理屈なく、人の考え方や習性には、不均等な濃淡がつき、時には色眼鏡や偏った見方に傾倒しやすいということなど、いくつかの点について、グローバル経済下に身を置く国々では、最低限の自覚や覚悟を持つ必要があるでしょう。

この点で、さきほど紹介した、生協新聞のグローバリゼーションの特集号では、グローバリゼーションの長所と短所を公平、簡潔にまとめて提示しており、国民の理解を助けるメディアとして有効に機能している好例と思われました。

例としてその内容を一部紹介してみます。まず、ハイテク産業の拠点として世界でも先駆的な地位を占め、また高い生活水準をもつスイスは、グローバリゼーションから計り知れないほど大きな恩恵を受けていると明記しています。そして、今後も安定した産業構造や高水準の生活を維持するには、グローバリゼーションが不可欠の前提ととらえます。

ただし、負の影響があることも過小評価しません。国内では、グローバル化によってほかの産業に比べて圧迫を受けている産業や、大きな打撃を受けている社会グループがあり、世界全体では、環境破壊や途上国の人権を損なう開発につながりかねない状況を重く受け止め、これまでのグローバリゼーションのあり方に一定の見直しが必須だとします。例えば、どこまでどのように、あるいはどれくらいのスピードでグローバリゼーションを進むべきかを問い、適宜、修正や変更をすべきとします。つまり、グローバリゼーションを受け入れるにあたって発生する自分たちの政治的、社会的な責任を自覚し、生じる負の影響を最小限に食い止め、人々のこのような焦眉の不安を削減するための対策をほどこすことが重要とします 。

ところで、ドルンの解説を聞いている間、常に気になり、思い浮かぶ国がありました。フランスです。目下、改革を進めようとする政府に国民からの強い反対があがっており、政治の信頼は地に落ち、改革はブロックされています。状況はどう打開されるのでしょうか。あるいは打開されずに、改革は頓挫し、政府は失脚し、経済はさらに停滞する。そして政治はさらに急進化して。。。という負のスパイラルをたどっていくのでしょうか。フランスの今後の動向が非常に気になります。

これから

今回のドルンの指摘を参考に、改めて、冒頭の問いを繰り返してみます。自分はどんな時代のどんな場所にいて、今のどんなことが将来を左右するポイントになるのか。引き続きこの問いを反芻しながら、胎動する時代のヨーロッパについて、スイスを中心に定点観測を続けていきたいと思います。今後もおつきあいいただき、同じ時代のテーマや課題をいっしょに考えていただけましたらさいわいです。

参考サイト

Wohlin steuert die Weltwirtschaft? -Gespräch mit David Dorn, Trend, SRF, Samstag, 5. Januar 2019, 8:13 Uhr

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


人生(と)ゲーム(2) 〜ゲームという現実社会の写し鏡

2019-01-10 [EntryURL]

前回、ゲームデザイナーという職業についてスポットをあてて、人とゲームの関係を考えてみました(「人生(と)ゲーム(1) 〜ゲームデザインに人生をかける人たち」)。今回は、ゲームにみえる人々の嗜好性や、現実社会とゲームとの相関性といったことについて注目し、現実世界におけるゲームの未来の可能性について考えてみたいと思います。

ゲームは、改めていうまでもなく、必要にせまられてやるものではなく、楽しむという目的でやるものです。しかし、一言で「楽しむ」といっても、人によってその楽しみ方は異なります。スイスのゲーム開発会社Gebrüder Freiのゲームデザイナー、フライ Andreas Frei氏によると、大きく分けて、ゲーム好きの人の楽しみかたは、以下のような四つに分類されるといいます(以下の説明は、基本的な分類はフライ氏の指摘に基づいていますが、以下の説明にはわたしの解釈や補足が多分に含まれています)。

1。コレクター・タイプ

ゲーム好きの人の中には、まず、集めて増やすことに、とりわけ強い愛着と喜びを感じるというタイプがいます。このようなタイプの人たちは、ゲーム上の「お金」でも「ポイント」でもなんでも、とにかく集めることが、ゲームの進行上で重要となるようなゲームが好きなため、極端に言えば、必要な量のお金やポイントを集め終えたあとも、さらには、ゲームが終わってしまっても、関係なく、集めるという行為をずっと続けたくなるほどです。

デジタルゲームは(ゲームの環境や条件上)、このような人を対象にしたゲームがかなり多いと言われます。

2。好奇心旺盛タイプ

おもしろいこと、新しいことを体験したい、知りたい、という好奇心を満たすためにゲームに魅せられるタイプの人もいます。このタイプの人たちにとっては、ゲームでの最大の関心ごとは、どのような新しいことが体験できるのかであり、ゲームの斬新性を知り、それを自ら堪能するだけで、ある程度、満足できます。そこでの勝ち負けや、ポイントを多く集めることは、それほど重要ではありません。

一方、何度も繰り返し行って、スキルを磨いたり、ポイントの最高記録をたたき出すことにやりがいを見出すゲームファンとは違い、このタイプの人たちは、繰り返し同じゲームをすることに意義はあまり見い出せません。この人たちをゲームに長期的に惹きつけるためには、常に新しいゲームや、バージョンアップしたゲームが必要になります。

3。社交優位タイプ

世の中のゲーム好きには、ゲームそのものに強い興味がないのにゲーム好き、という「異端の」ゲーム好きもいます。一見矛盾に聞こえますが、自分の目的のためにゲームを手段として使っているという人たちで、その目的は、広義の社交です。ここでいう社交とは、みんなで遊ぶことやそこでの交流、やりとり、という意味です。

いつもはバラバラの家族が、週末に同じテーブルについていっしょにゲームをする。そんなゲームの遊び方に、とりわけ高い価値を置く、あるいはそれを楽しいと思う人は、このようなタイプといえます。

世界的に人気のエスケープゲーム(1箇所の一定時間閉じ込められた数名の仲間が協力してそこから脱出をこころみるゲーム)は、2のタイプ(新しいことを体験するのが好きなタイプ)の人にとっても魅力的ですが、社交優位のタイプの人たちにとっても魅力的なゲームといえるでしょう。みんなでやりとりしながら協力してなにかを成し遂げるということが、ゲームそのものの目的であるためです。

4。勝利執着タイプ

最後に、ゲーム上で、覇気をむき出しにバトルし、勝利することに、なにより楽しさを感じる人がいます。これは囲碁やチェス、オセロなどの定番戦略ゲームが提供する楽しみ方であり、クラシックなゲームの楽しみ方の一つといえるかもしれません。

日常生活ではなかなか起きない明らかや勝敗、そしてそこで(もちろん敗北するのでなく)勝利し、勝利感にひたることが、このタイプの人にとって、ゲームの最大の最大の目標となります。

ゲームにも人生にもあてはまる「蓼食う虫も好き好き」

ゲームの嗜好が人によって違うということは、おもしろいと思うことが根本的に違うということであり、同じゲームをみても、評価がかなり変わるということを意味します。換言すれば、どんなにある人がおもしろいと思うものを、他人にすすめても、ストライクゾーンが違う人であれば、喜んでもらえないことになります。例えば、集めるのがこの上なく好きなタイプに、勝負ゲームを勧めてもあまりピンとこない、のも当たり前ということになります。それは、ゲーム自体が良いか悪いか、という話ではありません。

ところで、このようなゲーム嗜好パターンを眺めると、現実の世界とどこか類似していないでしょうか。人々が、それぞれの人生で至福感を感じる時やもの、あるいは重視されるものは、同じでなく、人によって違っているのではないでしょうか。

例えば、とにかくお金を集めることを重視し、預金通帳の数字が増やるのをみて至福感を感じる人がいます。もともと老後の安心や子供に財産を残したい、といった動機があったとはいえ、結果として、お金というポイント集めそれ自体が、目的のようになり、それを達成していく過程にやりがいや楽しみを感じる人。そのような「増やす」ことへの情熱に比べると、それを「使う」こと、「使い方」には、関心や執着が薄い人。そのような人は、ゲームのポイント集めに通底しているところがあるように思われます。

あるいは、とにかく好奇心が強く、なにか新しいものを見たい知りたい、それが興じて、新しいことを学ぶことに、時間が許す限り、人生を費やす人がいます。直接キャリアに結びつかない資格試験を取得することに熱心な人たちは、このタイプかもしれません。学んだことが、一体自分にとってどんな風に活かせたり、メリットになるか、なんていう狭い合理的な考え方で、自分の好奇心を萎びさせたりせずに、息をするかのごとく、新しいことを知ることが、その人を生かすことであり、生かすためのエネルギーにもなっている、そんな人がいます。逆にいえば、この人たちにとって、新しいことを学べないことは、なによりも人生の悲劇です。

あるいは、自分の人生が、人との交流でうるおいを保つだけでなく、人との交流自体が、生きがいそのものになっているような人たち。逆に交流していなければ、生きているという心地を実感しにくく、つまらなかったり、虚しさを感じる人。自分になにか特別の目標があるというよりは、好きな仲間や周囲の人とわきあいあい、うまくやっていくことが、なによりも重要な人。家族や親しい人となるべくいっしょにいる時間を過ごしたいと思う、いわば伝統的なライフスタイル志向の人だけでなく、ネットで常に人とつながっていられることで安心する人たちにも、このタイプが多いのかもしれません。

はたまた、自分がほかの人より優位な立場にいでたつこと、優越感をもつことを夢見、それを目標に切磋琢磨し、達成した時に、強い至福感を感じる人。高価な奢侈品や車や家を購入して、それを周りの人に披露するととりわけ至福になる人はこのタイプかもしれません。

ゲームと同じで、もちろん、人生においても、なにを楽しみにしたり、目標にするかは(人に迷惑をかけない限り)、人によって自由です。どちらのほうがより優れている、あるいは達成感や至福感が強いなどとはいえません。ここで大切なのは、人それぞれ、人生に醍醐味を感じるストライクゾーンが違うという事実、そしてそれをそれぞれが意識して、無理に自分をほかの人の照準にあわせる必要はないということかもしれません。

ただし、この四つの分類に誰もがはっきり分類されるほど、単純な話でもないでしょう。自分のなかでも、時期や状況によって、強く共感できるものが変わったり、そこでもたらされる至福感の濃淡が異なることもあるでしょう。

ゲームにみえる現実と、現実を映し出すゲーム

広く世の中を見渡してみると、わたしたちの生きている社会や時代もまた、ある意味で、かなり「ゲーム」に近いのではないか、という気もしてきます。

世界的な環境問題への取り組みは、まさに、世界中全体で取り組む必要がある、一種の「ゲーム」といえなくもありません。勝者と敗者がでるゲームというより、協力型(メンバー全員がいっしょに目的達成を目指し、達成できるかいなかがゲームの勝敗となる)ゲームです。途中退場を許されず、共通のゴールにたどりつくために、最後までみんなが目標に向かってプレーすることが課せられているゲームです。

一方、見る方向を逆にしてみて、現実をゲームのように捉えるのではなく、現実を写し取って、ゲーム仕立てにすることも可能です。例えば、オランダでは、同じ環境をテーマにし、現実を写し取って協力型のゲームにしたものがあります。We Enegey Gameと呼ばれるゲームで、最も効率的に、大気中の炭素増加に加担しない、持続的なエネルギー供給できるのかを、様々な要素を考慮しながら、考え、解決することをゴールとするゲームです(これまではオランダ語版しかありませんでしたが、今年英語版も発表される予定だそうです)。

そこで考慮する必要があるのは、ソーラーパネル、バイオマスなどのエネルギー供給源やそれらのエコロジカル・フットプリント(環境に与える負荷)、また自治体、住民、企業などの活動主体者の意向、そして、それらへの影響です。

これらの要素の長短を把握して、これらのバランスをとりながら、どのようなコンビネーションにすべきかを考えていくのですが、あまりにも要因も要素も結果も複雑で、ある特定の解決方法が一つでないことが、現実に似ていて、またこのゲームの特徴でもあるといいます。

おわりに

環境問題の現実を映し出したゲーム。発想としては、確かにおもしろいですが、しかし、それがゲームたりえるには、重要なひとつの条件をクリアしなくてはいけません。それは、それが楽しめるものであるという条件です。そうでなければ、そのゲームは実際に利用されず、ゲームではなく、ただのいくつかのパーツがつまったボール紙の箱にすぎません。

楽しめる形で現実の問題を映し出したゲームであれば、ゲームとして楽しむ以上のアルファーの意味も生まれます。実際にはできない様々な失敗をしながら、環境への取り組みを多角的な側面から学ぶことができ、現実問題への理解を深め、現実問題への貢献にもなるでしょう。

一方、ゲームの過程を「楽しむ」ように、ゲームに見立てて、環境問題に直面する現実の過程を、なんらかの形で楽しむことは可能でしょうか。ゲーミフィケーションの発想をうまく取り入れれば不可能ではないかもしれません(ゲーミフィケーションという概念については「ゲーミフィケーションと社会」)

ゲーミフィケーションと呼ばれるゲームデザインを利用したビジネスはまだ歴史が浅く(観光などで用いられるケースは前回のレポートでご紹介しましたが)、ゲームデザインの潜在的な需要がある領域は、まだまだありそうです。しかしそれが、どのくらい広範な領域でどれほど浸透するかは、前回扱った、潜在的なクリエイティビティ、つまり、どれくらいクリエイティブな発想や内容が将来創出されるか、ということにかかってくるでしょう。

ゲームと現実が、刺激し合い、それぞれの世界への既成の見方を塗り替えたり、理解を広げたり、新たな楽しみ方もまたつくりだしていく時代を想像してみます。想像するだけでわくわくしてきますが、そんな新しい動きを、またみつけることになったら、その時はぜひ、再びレポートしてみたいと思います。

参考サイト

Gebrüder Frei: Die Spielmacher(四つのタイプの分析を指摘したゲームデザイナーの会社のホームページ)

Quariach, Tania, et al., Playing for a Sustainable Future: The Case of We Energy Game as an Educational Practice. Article (PDF Available)  in: Sustainability 10(10):3639 · October 2018.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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