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ルワンダがロックダウン下で選んだ教育機会最適化のための手段 〜ラジオによる遠隔教育

2021-02-20 [EntryURL]

コロナ危機下の学校閉鎖中に行われた遠隔教育についての連続コラム最終回は、ルワンダです。

※これまでのコラムは以下からご覧になれます。

人口の半分が就学年齢のルワンダのコロナ危機

ルワンダは、東アフリカにある人口は約1300万人の共和国です。2019年から2020年の1年間の人口増加率は2.58% と人口が急増しており、人口の半分が18歳以下という非常に若い国です。

このような人口分布のルワンダにとって、子供たちの教育は、将来の国の明暗を分けるといっていいほど、非常に重要な課題です。しかし、コロナ感染の拡大を未然に防ぐため、ルワンダ政府も、3月15日、すべての学校の閉鎖する決定を下しました。当初は4月末までの予定でしたが延期され、最終的には11月はじめまで、学校が閉鎖されることになりました(11月以降は、クラスに出席できる生徒の人数を制限するなどして、再開しました)。

さて、ここで焦眉の問題となったのは、国全体で300万人以上という、学校に行けなくなった生徒をいかに、学校以外で教育するかです。

ルワンダが選んだ「ラジオによる教育」

結論を先に言うと、ルワンダは、ラジオを通じた授業という選択肢を選びました。

まず、一刻もはやく、ラジオに授業を切り替え再開させるため、ユニセフのルワンダ事務所と協議し、外国で制作された授業プログラムを利用することにしました。これにより、ロックダウンがはじまり2週間の間に、クラスの授業をラジオに移行させることに成功します。

これと並行し、教育関連の非営利団体Inspire, Education and Empower とともに、適切な独自の授業プログラムの作成をはじめました。具体的には、小学校1年から4年までの授業プログラムと、就学前のこどもたちへのプログラムをつくることにしました。

ラジオというと一方的に放送するだけというイメージがありますが、なるべく、インターアクティブに学べるよう、プログラムを工夫しました。例えば、ラジオで、新しくならった言葉をスペリングしたり、書くようにうながします。こどもたちに質問があれば、授業中に、新たに設置された無料のホットラインに電話することもできるようにしました。このようにして作成された授業は、ルワンダの公用語 Kinyarwanda と、数学と英語の三科目で、ひとつのラジオ番組は20分です。

総じて、ラジオで毎日8時半から午後2時の間、授業が放送されるようになりました。昨年8月の時点で、ルワンダの生徒の半分以上がこのようなラジオの授業を受けていました。

世界的にみたコロナ禍の遠隔授業の実情

日本では、NHKや放送大学のテレビやラジオ講座がかなり普及しているので、一度は視聴したことがあるという人も多いのではないかと思います。視聴するだけでなく、NHKの教育講座のテキストを購入するなどして、アクティブに授業に参加したことがある人も、少なくないかもしれません。

他方、昨年、遠隔授業といえば、圧倒的に多く耳にしたのが、インターネットを使ったものでした。少なくとも先進国では、遠隔授業というと、もっぱら、デジタル教材をつかった授業やオンライン授業に照準が合わせられていたように思われます。

このため、このルワンダの話を最初に聞いた時は、私としては、ちょっと新鮮な驚きで、同時に、なるほどその手も確かにあったか、という気もしました。

実際、世界全体を視座にいれて眺めると、世界の就学生(学校に通う生徒)の半分に当たる8億2600万人は、(先進国で想定するようないわゆるネット環境を使った)遠隔授業がうけられない状況にあります。7億600万人は、インターネットへのアクセスができず、5600万人は、携帯電話の電波もとどかないところにいるためです。

そして、そのような、インターネットがなかったり、パソコンなどのデジタル機器が普及していない場所では、今でも、100年以上の歴史をもつラジオや(それよりは新しいもののすでに半世紀以上の歴史がある)テレビが教育ツールとして最も有効となります。実際、アフリカでは70%の国が、ラジオとテレビを使った教育にきりかえ、34%は、それらを併用する形で対応しています(UNESCO, Learning through)。

ルワンダの教育メディアとしてのラジオの意義

ルワンダでは、ラジオの授業のほかに、テレビやオンラインのプラットフォームもつくられていますが、オンラインのプラットフォームで学ぶEラーニングは、当初5000人で、7月には5万人にまで利用者が増えましたが(7月のビデオでの報告 Unicef Rwanda, Connecting )、ルワンダの就学人口全体からみた、アクセスし享受できている子どもたちの割合は、2%以下とわずかです。

これに対し、ラジオは圧倒的にアクセスがしやすいツールです。公共ラジオ放送Rwanda Broadcasting Agency はルワンダの住民の99%、つまり、ほとんどの人にアクセスすることが可能なメディアであり(Nagiller, Wenn das Radio)、国の重要なインフラのひとつです。

このため、コロナ禍にもかかわらず、生徒が家庭で授業を受講することを可能にする唯一の手段として、ラジオ教育が選ばれたわけですが、この方針は、国際社会からも初期の段階から支持を得ることに成功しました。2020年3月にはやくも、ルワンダのユニセフ事務所は、遠隔授業の助成金として、7万ドルの支援を受けることとなり、さらに、GPE Transforming education, Rwanda(助成機関は、世界銀行)からも、2020年から21年の2年間で、トータルで1000万USドルの援助を受けられることになりました。

このような潤沢で迅速な支援金のおかげで、オリジナルの教育プログラムの開発も早期に着手されることになり、それが、最終的に、ラジオ授業の受講の割合を押し上げることにもつながったといえるでしょう。

もちろん、ラジオでの授業には、制限がつきものです。視覚的に学ぶことができませんし、同時にさまざまなレベルの授業や違う科目を学ぶこともできません。このため、インターネットやテレビでの遠隔授業に比べ、学べる質や量も多分限られてくるでしょう。また、生徒の半分以上がラジオ講座を受講したのは確かに輝かしい実績ですが、多様、実際にその習熟度はどれくらいであったかはまだわからず、その結果もふまえて評価しなければ、最終的な授業の質の評価とはいえないでしょう。

それらの指摘はすべてもっともで100歩ゆずるとしても、それでも、ルワンダがラジオに力をいれる方針をとったのは、評価されるでしょう。学校閉鎖という危機的な状況にあって、ベストではなくても、ベターな道であったと思われるためです。

それぞれ国や社会によって、遠隔授業の前提となる状況は異なります。電気やインターネットなどの基礎インフラ、利用可能な学習教材の種類(教科書、筆記用具、デジタル機器など)、対象となる子供の人数や年齢層、遠隔授業を支援する準備がある親の有無やそのクオリティなど。ルワンダは、それらの教育インフラを現実的にふまえ、生徒全体への教育機会の最大化に重点をおき、(高質の授業のために、パソコン普及やインターネットの普及を目指すなどに労力を費やすかわりに)、いってみれば現地点の自国の身の丈にあった形で、対応した好例といえるのではないかと思います。

おわりに

3回にわたって、コロナ禍の学校閉鎖にあたって、とられた対策や課題・問題を、違うアングルからみてきました。

ドイツ、スイス、ルワンダ、どの国でも共通して、学校閉鎖は、想定外のことであり、教育プログラムもインフラも全く追いついていない差し迫った状況からのスタートでした。

他方、2回目でとりあげたように、コロナ危機で、緊急に必要なもの、足りない部分が社会で鮮明になり、教育とは無縁にみえた社会の違う方面から、応援する人や動きもでてきたのは、社会にとって朗報でしょう。そこを起点に、これまで教育現場に無縁だった人たちがつながり、地域の教育を支えるしくみが補強されるようになるのなら、素晴らしいと思います。

これまでの約1年の間、どの国も、さんざん、どの学校もコロナ危機にふりまわされてきましたが、せめて、このような、(ポジティブな)コロナ危機の置き土産があるのなら、それはできるだけ多く拾い集めて、これから先につづくウィズコロナ、アフターコロナの時代を、また踏み出していってほしいと思います。

参考文献

GPE Transforming education, Rwanda(2020年1月13日閲覧)

Nagiller, Juliane, Wenn das Radio zum Klassenzimmer wird, Science.orf.at, 20. November 2020, 13.00 Uhr

Houser, Veronica, Radio learning in the time of Coronavirus, Unicef, 13 April 2020

UNESCO, Learning through radio and television in the time of COVID-19, 02/06/2020

Unicef Rwanda, Connecting Rwanda’s students with radio, web, and TV lessons during COVID-19, Facebook, 7th July 2020.

U.S. Embassy in Rwanda, U.S. Government Supports Children to Learn From Home

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


余分にある人から欲しい人へ届け! 〜学校閉鎖中のスイスで注目される「デジタル時代の生活に不可欠なもの」

2021-02-10 [EntryURL]

コロナ禍で学校が閉鎖された教育現場についてみていく連載の2回目として、今回は、スイスの事例を紹介します。

スイスでも、ドイツやほかの多くのヨーロッパ諸国同様、3月半ばから数ヶ月学校閉鎖になります(ただし学校の種類や場所によって若干、時期や期間は異なります)。そこで、ドイツ同様、スイスでも、遠隔授業にむけて解決しなければならない課題が一挙に、でてきました(ドイツについては「学校閉鎖時のドイツの遠隔教育 〜コロナ危機が教育格差をこれ以上広げないために」)。

まず、教える側、教師たちの問題です。教師へのアンケート調査によると、ドイツよりはスイスの方が、若干、遠隔授業の環境が整っていたものの(Schmoll, 2020)、これまで遠隔教育について全く経験がない教師たちのために、それをどう進めるかのコーチングが必要です。従来なら、教師のメディア教育学分野の研修は、教育大学などのメディア教育専門家から受けますが、それだけでは需要に追いつかないため、学校でわかる教員が中心となって教師に研修を行うなどしながら、遠隔授業にのぞむことになりました。

また、家庭での学習に使えるデジタル機器の普及率も問題です。そして、まさにこの点が、今回の話の主人公のシェアTobias Shärの出発点でもありました。

「学校が閉鎖になったが、経済的に困窮している親はどうしているのだろう。ホームスクーリングに必要なデジタル機器を子供達に、果たして与えることができるのだろうか。」(Widmer, 2020)

学校閉鎖というニュースが流れてきて、26歳のスイス人、シェアは、そう疑問に思ったといいます。地方自治が強いスイスでは、都市や地域により、非常に事情が異なり、早期に、学習に必要なデジタル機器がない生徒にすべて貸し出すようなところもありましたし、学校によっては、ロックダウン直後からオンラインの遠隔授業が受けられるところもありました(「突如はじまった、学校の遠隔授業 〜ヨーロッパのコロナ危機と社会の変化(1)」)。しかし、そのような恵まれた環境が整っていない地域も多く、特に移民的背景の子どもたちの割合が高い都市の学校では、一人に一台貸し出すような措置は、理想であっても実行不可能でした。

つまり、遠隔授業の構想とはうらはらに、実際には、ドイツ同様に、スイスでも、生徒の学習に使えるデジタル機器がない(あっても親が使うなどして、子供が使えるものがない)家庭が少なくありませんでした。

「今、困っている人に自分ができることをしよう」

シェア自身は、26歳のIT専門家で、IT学部の大学生でもあり、初等・中等学校教育とは直接なんの関係もありませんし、もちろん自分はデジタル機器も保有しています。他方、シェアは、会社のコンサルタントとして働くなかで、使わなくなったパソコンが多くの家庭にあることもよく知っていました。そのため、デジタル端末がなく必要としている家庭があるなら、家に使わないパソコンがある人に寄付をつのり、それを再配分するのがいいのでは、というアイデアを思いつきます。

そしてすぐに、数日後、ラップトップを必要とする人に、ラップトップを配りました。評判は上々であったため、4月はじめには、「わたしたち(ぼくたち)は勉強をつづける Wir lernen weiter」という名前の協会(団体)を立ち上げ、100台以上を配りました。これが地方紙の目に留まり、4月中旬記事に取り上げられたのをきっかけに(Schambron, 2020)、ほかの全国紙やオンラインの最大ニュースサイトなどでも、次第に活動が取り上げられるようになり、シェアの活動は、スイス中でかなり知られるようになっていきます。

社会の反響が大きくなると、仕事量もシェアひとりでは、こなしきれない量となったため、8人のボランティアスタッフが活動に加わり、現在は九人体制で働いています。ちなみにシェアは、毎週約25時間、この活動のために無償で働いているといいます。

ラップトップのリユースのしくみ

具体的にどのようなしくみなのか、概観してみましょう。

まず、ラップトップを寄付したい人は、「わたしたち(ぼくたち)は勉強をつづける」協会のホームページ上の応募フォーマットで、寄付したラップトップの状態などについて簡単に情報を入力します(以下、この協会を、設立者の名前をとって「シェア協会」と表記します)。まだ十分利用が可能と判断されるものは、協会におくってもらい、集まったラップトップは、順次、点検し、リユースできる状態に準備します(この詳細については、次の項目で触れます)。

ちなみにスイスの主要なマスメディアで活動が取り上げられてきたことや、12月にはスイス最大の救済組織カリタスの賞も受賞していることから、寄付も今のところ多く集まるようで、約750台のラップトップが、現在、ストックとして保管されています。

シェア協会から無料で中古のラップトップを入手したい人は、シェア協会に連絡します。それには、具体的に二つの方法があります。まず、直接、シェア協会へ申請するという方法があります。協会のホームページ上に、簡単な申請フォーマットがあり、それにそって申請するというのが一般的な申請の仕方です。そこでは、なぜラップトップが必要なのか、(子供がいる場合は)こどもの学年など、情報を入力します。これによって、ラップトップが申請者すべてにわたらないときは、優先順位をつけていきます。

もうひとつの方法は、協会が直接、申請の窓口になって審査するのではなく、そのような要望のある住民が住む自治体が、申請を一括して、シェア協会にするというものです。つまり、自治体が、協会と個々人の間の仲介役になって、申請をすすめる方法です。

活動の初期の段階では、最初の方法だけで配っていましたが、最近は、パートナーとなり仲介する自治体が増えているため、パートナーとなっている自治体に住んでいる人がラップトップを希望する場合は、原則として、自治体を通して申し込むことになっています。逆にいうと、自分の居住する自治体がパートナーとなっていない場合のみ、個別に、シェア協会に直接、申請します。

このような方法で、昨年末までに、1100台の(どこかの家庭に眠っていた)ラップトップが、新たな家庭に届けられました。ちなみに、シェアはインタビューで、これまで、希望した人たちに対して、ほとんど断ることなく、配ることができていると答えています。

自治体がパートナーとして協力

自治体がシェア協会と個人の間に入るようになったのは、シェア協会の方に、強い意向と働きかけがあったためです。

シェアは、早い時点から、ボランティア活動を、より多くの人に、知ってもらい、活用してもらうためには、より効率的なしくみをつくることも重要と考えるようになります。そして、貧困家庭や失業者の支援にあたっている自治体や、救済組織などのほかの社会福祉団体との協力関係をもつことが、ベストという結論に至ります。そして早速、10月はじめから、これらの組織や団体に積極的にアクセスし、協力関係を求めていきました。

その際、シェア協会から1台ラップトップを配るかわりに、一台につき(郵送代も含めて)150スイスフラン(日本円で1万7600円程度)の費用を自治体が負担することも提案しました。150スイスフランという額について、シェアは、ラップトップを保管したり、必要な作業(消去やインストール)を行うため、自宅より大きなスペースが必要になったこともあり、シェア協会運営に最低限かかる費用をカバーするために妥当な手数料だとします。

シェアは、スイス全国すべての自治体に問い合わせ、この活動への協力を求めたそうで、その結果、シェアからの提案に賛同し、スイス全体で150の自治体が、現在までに、パートナー関係を結んでいるといいます。

受け渡されるまでの具体的な準備作業

寄付されたラップトップを受け渡すまでに行われる具体的な処理について、以下、簡単に紹介します。

ラップトップの準備は、なかにあるデータを消去し、そのあと無料で利用可能な、事務作業や勉強に必要な主要なものをインストールすることになります。1月はじめには、それまでの設備をさらに拡充することで、75台を同時に処理できるようになっています。

マイクロソフトが、貧困家庭の救済目的でのソフトの無料提供を認めないため、OSには、ウィンドウズの代用として無料で使えるOSがインストールされています。当初は、LibreOfficeでしたが、現在採用されているのは、Zorin OS です。マイクロソフトのオフィスと互換性もあるこのOSを使うと、インターネットがみられるだけでなく、テキストも書け、表やプレゼンテーションも作成できます。ほかにもスカイプやズームなど、業務や勉強に主要なソフトもインストールしています(Widmer, 2020)。

これら基本的なソフトだけが入った状態で、配達され、あとは、受取人が自分自身で対処することになります。そのために、自分で欲しいものをどうやったらダウンロードできるかなど、取り扱い方法について説明した4ページの説明書が、ラップトップといっしょに送付されます。ラップトップの使い方をいちいち説明する時間がボランティアたちにとれないためこのような手段がとられていますが、説明書を使わなくても、わからないことは、今日、ネット上で調べることも簡単にできるため、このような簡単な受け渡しだけで、とくに問題は生じていないといいます (Schambron, 2020)。

簡単に支援できるしくみを実現

シェア協会の活動を概観したところで、社会全体からみた、シェア協会の功績・意義について、2点から、まとめてみます。

まず、シェア協会のロゴでは「あなたにとっては不要な家電(廃品)。ほかの人にとっては新しいスタート。二つを区別して。わたしたちといっしょにやりましょう!」とうたわれていますが、このロゴが示すとおり、ある人には不要なものを、必要とする人につなげる、それをなしとげたのが、この協会の、重要な功績でしょう。このおかげで、はじめて、モノをつうじて簡単に、つながっていなかった人たちに支援することが可能になりました。

以前、とりあげた、コロナ禍で買い物できなくなった人を地域の人が助けやすくする仲介サービス(「買い物難民を救え! 〜コロナ危機で返り咲いた「ソーシャル・ショッピング」プロジェクト」)や、フードウェイストを減らすためのアプリサービスが急展開する状況(「ゴミを減らす」をビジネスにするヨーロッパの最新事情(1) 〜食品業界の新たな常識と、そこから生まれるセカンドハンド食品の流通網 )にも共通しますが、関心や需要が潜在的にあるところに、それをつなげるしくみを構築すること。そのことによって、新たな望ましいモノや情報、人の流れが生まれてきます。

これは同時に、一旦、需要と供給がぴったりあう、このような「つながる」しくみができれば、かなりの低予算で、複雑なプロセスもふまず迅速に、必要な人々に届けることが可能となるということを、難しい理論や説明一切ぬきにして、目の前で実証してくれているともいえます。

デジタル社会のエッセンシャルな要素という認識を高める

「使っていないラップトップを、ずっと家にうもれさせておくなんて、残念だ。なぜなら、それを使うことでほかの人たちが、デジタル世界にアクセスすることを可能にするからだ。貧しいからといって、デジタル世界やそれを通じた教育の場を享受できないなんてことが、あっていいはずがない」(Schambron, 2020)。シェアは、こう、機会あるごとにメディアで訴えてきました。

ラップトップ、たかが一台、されど一台。ラップトップのようなデジタル機器がないと、現代の生活はいちじるしく制限されます。遠隔授業で重要なだけでなく、求職中の人にとってネット上で、適切な情報を取得したり、スキルを習得することも不可欠です。つまり、ほかの人と全く同じように、失業中の人や、家庭にデジタル端末がない貧困家庭の生徒にとっても、それを手にできるかいなかは、現代社会において、将来が大きく変わるほど決定的に重要です。このことは、見方を変えれば、デジタル機器を貧しい家庭に提供することに投資をすることが、社会全体にとっても、(失業者を減らしたり、学業レベルを上げるのに)有効性が高く、効果のいい投資でもあるともいえます。

しかし、スイスでは、これまで自治体の困窮する人や失業者を支援で、デジタル機器は軽視されており、シェア協会ができるまで、無料でデジタル機器を困窮する人たちが簡単に手にできるような支援もありませんでした。しかし、シェア自身は、活動を通し、今はボランティアの活動だが、行なっている内容は、人々の福祉に深く関わるものであり、社会のエッセンシャルな機能を担っているという、意識を強くもつようになっていきます。

スイスにおいて、今後、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利として、デジタル機器の保有やインターネットへのアクセスがすべての人に保障されるべきだ、という社会的な合意が形成されていくのだとすれば、シェアの活動や発言は、まぎれもなく、それに一石を投じたものだったと、いえるでしょう。このことが、シェアの活動の、二つ目の、大きな社会的な意義だと思います。

ちなみに、シェアは、活動をより拡充していくため、全国の自治体とパートナー関係をもつだけでなく、ほかの社会のネットワークや組織とも協力関係をもつことにも積極的です。

例えば、昨年、自由緑の党 Grünliberalという政党に入党し、政党のもつ既存のネットワークを活用し、活動をさらに広げていきたいとします。この党は、従来の緑の党や自由党と一線を画し、環境と経済の両立を理想にかかげる(ドイツやオーストリアにはない)新しい政党で(2004年チューリヒで設立)、人々のチャンスを平等にするための現実的・プラグマティックな視点を重視するこの政党の政策に、シェアは共感したといいます。

また、地域や学校ぐるみの支援という観点にも関心をもち、昨年夏からは、地域の教育委員会 Schulrat Muriにもなりました。さらに、今年秋には、地元の市町村参事会員選挙 Gemeinratswahl Merenschwanにも立候補する予定だそうです。

おわりに

シェア協会の冒頭の短いビデオで、シェアは、このような活動をはじめた理由が簡潔に述べています(順不同)。

「わたしたちは、利己主義が、公然と値打ちのあるもの、追求に値するものだとする社会に生きています。そこでよく忘れてしまうのが、わたしたちがどのくらいのものをすでに持っているかです。」
「人を助けること、それはわたしにとって重要です。なぜなら、わたしのように状況が良くない人が大勢いることを知っているからです。もしわたしが、ほかの人よりいい局面にいるのなら、その人たちを支援するのが義務だと思うのです」
「わたしの専門分野では、比較的簡単にほかの人を助けることができます」

自分がもっているもの、使えるもの(リソースや能力)を使って、ほかの人を助けることができる。それは、特別なことでもないし、難しいことでもない。それを、これまでのたった9ヶ月の間に自らの行動で、シェアは、示してくれているように思います。

次回は、ヨーロッッパからアフリカに移り、学校閉鎖期のルワンダの挑戦について、紹介していきます。

参考文献

Benz, Daniel, Er verteilt gebrauchte Laptops an Bedürftige. In: Beobachter, Veröffentlicht am 17. Dezember 2020

Caritas, «Wir lernen weiter» gewinnt den youngCaritas-Award 2020, 7.12.2020.

Er ist auf den Geschmack gekommen. In: Der Freiämter, Di, 22. Dez. 2020.

Knecht, Raphael, Tobias macht deinen alten Laptop flott für bedürftige Familien. Ein gebrauchter Laptop ist oft nicht einfach nur Schrott – Tobias Schär rüstet alte Geräte auf und gibt sie an armutsbetroffene Menschen weiter, 20Minuten, 16.07.2020

Schambron, Eddy, «Wir lernen weiter» – Junger Merenschwander vermittelt alte Laptops an ärmere Familien. In: Aargauer Zeitung, 21.4.2020 um 09:12 Uhr.

Schmoll, Heike, Corona-Krise – Lernen mit Hindernissen, SWR2 Wissen: Aula, So, 31.5.2020 8:30 Uhr

Widmer, Toni, Über 1000 Laptops sind wieder wie neu: Der Verein «Wir lernen weiter» verschenkt alte Laptops an Bedürftige. In: Aargauer Zeitung, 25.11.2020 um 05:00 Uhr.

「Wir lernen weiter (わたしたち(ぼくたち)は勉強をつづける) 」 ホームページ

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


学校閉鎖時のドイツの遠隔教育 〜コロナ危機が教育格差をこれ以上広げないために

2021-01-20 [EntryURL]

コロナ危機は、世界中の学校教育にとっても、大きな試練となりました。感染拡大への恐れから、通常授業を急遽とりやめにすることになった学校が相次ぎ、昨年、11月末の時点で、世界中で、学校に通う生徒の約3分の1の学校が閉鎖されていました(Nagiller, Wenn das Radio)。

このような前代未聞の緊急事態に、学校は、どのように対応したのでしょう。もちろん、潜在的に遠隔授業を可能とする環境が、学校側も、生徒側も整っていれば、混乱は少なく、遠隔授業に移行することができます。実際、金曜夜にロックダウンが決まったスイスでは、次の週の月曜の1限目から、すべて遠隔授業に移行できた学校もありました(「突如はじまった、学校の遠隔授業 〜ヨーロッパのコロナ危機と社会の変化(1)」)。

しかし、大多数の国と学校では、そのような施設や整備が整っておらず、数週間あるいは数ヶ月にわたって、臨時対応に追われました。また、いざ遠隔授業がはじまったところも、その結果が気になります。通学する学校授業と比べ、どのような差異が生じているのでしょう。

今回から3回にわたり、このようなコロナ危機下の学校教育について、異なる地域、複数の角度から、ラフスケッチしてみたいと思います。初回の今回は、ドイツの教育専門家の意見を参考に、長期学校閉鎖時の教育現場の状況や、そこで明らかになった問題点を概観してみたいと思います。

学校閉鎖といえば、「遠隔授業」という四文字熟語が想起されますが、「遠隔授業」の形態は、それほど自明ではありません。それでも、多くの人の頭に真っ先に思い浮かぶのは、インターネットを利用した遠隔授業だと思いますが、インターネットを利用した遠隔授業をするために必要な、デジタル機器(端末)は、どのくらい生徒(あるいは生徒の家庭)に普及しているのでしょうか。

このことを問題にし、ロックダウン直後から、デジタル端末がない家庭に、寄付で集めたラップトップのパソコンを配るという活動をはじめたスイス人がいました。この、一見ありそうなのに、ほかの誰もまだ行なっていなかった活動内容について、次回は、紹介します(「余分にある人から欲しい人へ届け! 〜学校閉鎖中のスイスで注目される「デジタル時代の生活に不可欠なもの」」)。

ヨーロッパから世界にさらに視線を移すと、デジタル機器もインターネットもほとんどまだない、国や地域が多くあります。そこでは、どんな風に、学校閉鎖中対応していたのでしょうか。最終回は、このような課題に直面したルワンダの事例をとりあげます(「ルワンダがロックダウン下で選んだ教育機会最適化のための手段 〜ラジオによる遠隔教育」)。

コロナ危機の収束のきざしがまだみえてこない状況下にあって、いまでも、どうやったらこどもたちに十分な教育を提供できるかというテーマは、世界中の焦眉の課題で、強い関心ごとでしょう。コラムでとりあげていくことは、一見、地域特有の事情を反映した限定的な事例のようにもみえますが、国境を超えて、ほかの国や地域でも、視座を広げたり、具体的なヒント、あるいは、自分の地域のなにかを変えるきっかけにもなれるかもしれません。そんな希望や期待をいだきながら、3本の連載コラムをスタートしてみます。

デジタル化が遅れていたドイツでの遠隔授業

ドイツでは、昨年の春からこれまで2回のロックダウンがあり、学校も閉鎖されました。その間、教育界はどのように対応したのでしょうか。

ドイツを代表する良質の日刊紙と知られる『フランクフルト・アールゲマイネ・ツァイトゥンク』の政治編集者で教育専門家のシュモル Heike Schmoll が、紙面や、ポッドキャスト番組『SWR Wissen』(5月末の講演と12月末のインタビュー)で報告したものを再構成しながら、具体的にどんな様子だったのかをまとめてみます。ただし、本文中には、ほかの文献からとった内容や、わたしの補足的な説明も若干、含まれます。

ロックダウン期のドイツの遠隔授業を、一言で総括すると、残念ながら、貧弱・不完全という評価になります。教育上のデジタル化に早くからとりくんできた、デンマークやアイスランド、フィンランドなどほかのヨーロッパの諸国と比べると、デジタル化の遅れは相当大きく、ドイツ語圏の隣国スイスやオーストリアと比べても(教師へのアンケート調査の結果などをみると)遅れていたことが、大きな原因です。

状況を概観できるまとまったデータはまだありませんが、11月末の全国の学校の校長が回答した以下のようなアンケートの結果をみると、遠隔授業が、その時点にあっても、かなり困難である様子が想像されます。

2020年11月末に開催されたドイツ校長会議で発表された、ドイツ全国785校のアンケート調査では(2020年,10月、11月に調査)、生徒全員がなんらかの利用できるデジタル機器(端末)をもっていると答えた学校は、6%にとどまりました。教師が全員、必要な端末をもっている場合すら、全学校の15%です。このため、完全オンラインの授業ができないだけでなく、ハイブリッド形式の授業(学校の授業と遠隔授業を合わせた少人数制の授業)も、十分に行えない学校が多いのが現実でした(VBE, 2020)。

州によっては個人情報保護の法的規制が厳しく、教師が生徒と直接オンラインでつながることはおろか、親のメールアドレスも知らないケースもありました。そうなると、オンラインのデジタル学習どころではありません (Schule und Corona, 2020)。

ただし、インターネットをどう教育で活用するかという議論が敎育界でなかったわけではありません。10年以上前からドイツでもあったにはありました。しかし、そのための教師の研修・養成が全く不十分であったことが、致命的であったとします。このため、デジタル機器を利用する機会も、十分に活かせない状況が続いていたとします(Schule und Corona, 2020)。

ちなみに、シュモラへのインタビューでは時間的な制約もあり、一切触れられていませんでしたが、私としては、ドイツの敎育教育のデジタル化が遅れてきた理由として、教育にデジタルなものを導入するのは好ましくないという一定のイデオロギー(理解)がドイツに強かったことも、大きかったのではないかと思っています。

そのような理解を代表するのが、神経科学者のマンフレッド・シュピッツアーであり、シュピッツアーの代表作の一つ『デジタル認知症』でしょう(Manfred Spitzer, Digitale Demenz. Wie wir uns und unsere Kinder um den Verstand bringen, München 2012.)。

著者は、この本で、神経細胞レベルのしくみを説明しながら、見る、聞く、触る、発言する、議論するなどを駆使した従来の学び方に比べ、デジタル・ツールの学習方法は、インプットが視覚に偏重しており、読解・認識、さらには洞察や発展的な考え方を得るために十分なシナプスの発達を妨げている、と危惧しています。もともと著者は、ドイツの公共放送で2004年から8年間計200回近く放映された「心と脳」という番組で、明快で簡潔に(毎回15分)脳のしくみを様々なテーマから解説したため、ドイツでは人気も知名度も高い人物です。さらに本書がセンセーショナルなタイトルで主旨もわかりやすく、また、教育学者や政治家などではなく、神経学という科学的見地からの教育や社会への警鐘であったため、メディアでも大きく取り上げられることになりました。

本が出版されて以降、たしかにデジタル機器の影響は一定程度認められるものの、デジタル機器の使用と学習や理解能力の関係は、個々の人間や環境、またデジタル機器のコンテンツなどによっても非常に異なり、本書が打ち出したような明快な相関関係はみられない、ということで世間を巻き込んだ「デジタル認知症」の議論は、一応収拾がついた感があります。ただし、保守的な考えが強い人たちの間では、デジタル機器全般の弊害を危惧する見方は、依然受け入れられやすいものであるには変わりなく、これまで、教育や社会全般のデジタル化に、一定のブレーキをかけているように思います(「デジタル・ツールと広がる読書体験」)。

危惧される格差拡大のスパイラル

シュモルは、ロックダウン期の教育界は、「前近代の時代にほうりなげられた」 (Schule und Corona, 2020) ような状態だったといいます。

公立学校の義務教育制度が整備されていなかった前近代において(約200年から300年前)、富裕な家庭は家庭教師などを雇い、子どもに英才教育をほどこす一方、生活に余裕がない家庭では、そのような機会をつくるのが難しく、就学の代わりに労働に従事させられるケースが一般的でした。

コロナ危機下の学校閉鎖は、あたかもそのような時代にもどったかのように、教育格差を大きく広げることになったとシュモルはいいます。

問題は、学習に必要なデジタル機器(端末)が自分用にない生徒が多いことだけではありません。経済的に困窮する家庭では、ほかにも、学習に集中できる静かな空間が確保できなかったり、家事労働や年下の兄弟のおもりを手伝うように親に要請されたりすることが多く、また親が、能力的・時間的に家庭の子供の学習を十分にサポートできないと、家庭での学習は困難を極めます。

近隣に上記のような困難な環境にある子供が多く住んでいると、本人自身には学べる環境や意欲があっても、まわりの環境に影響を受け、まじめに学習を続けることが難しくなることもあります。さらに悪いことに、移民的背景の家庭では、数ヶ月ロックダウンが続いているうちに、授業内容の習得以前に、子供のドイツ語能力が下がってしまうケースもあります。

そうこうして数ヶ月、半年後が過ぎてしまうと、格差は縮まるどころか、むしろどんどん広がっていきます。半年の遅れをとりもどすには、次の半年間では足りず、数年に及び、その遅れが、将来に長期間にわたり、決定的影響を及ぼすことにもなりかねません。

シュモルは、遠隔授業期間中、学歴の高い親をもつ生徒に比べ、学歴が低い親をもつ生徒は、55%も習得できたことが少なかったというイギリスの調査結果も引用し(Schule und Corona, 2020)、ドイツの現状に警鐘を鳴らします。

とりわけ打撃が大きかったのは、低学年と最終学年

ただし、ロックダウン中の学習状況は、年齢や学校の種類によって、かなり異なり、小学生と、ギムナジウムやほかの中等教育の卒業をひかえる最終学年がとりわけ、大きな打撃を受けたとシュモルは言います(Schule und Corona, 2020)。

小学生、とくに読み書きだけでなく自分一人での学習がまだ難しい小学校3年生くらいまでは、もともと遠隔授業がなじみにくい、不適切な年齢であり、この年齢での遠隔授業自体に、厳しい限界があるとします。

中等教育の最終学年は、自分で学習することが可能な年代ですが、大学入学資格試験や、職業資格試験などそれぞれの課程で指定されている資格試験を合格しなくてはいけません。換言するとそれらの試験が卒業試験に相当します。学校にいっていれば、同じ境遇にあって勉強しあえる同級生や、すぐに授業中や授業後にわからないところを訊ける教師がいますが、今年度は、必要な試験の範囲の勉強を一人で習得しなければならず、従来の学力以外に、精神力や耐久力も大きく問われることになりそうです。

今年の2月から、これら最終学年の生徒たちの試験がはじまります(試験の開催時期は、2月から初夏まで州によって異なります)。この結果がどうなるかは現時点では、全く予測できませんが、もしも不合格の生徒が、例年よりも大幅に多くなれば、それもまた、来年度以降に、大きな課題となります。従来、試験に不合格の生徒が希望すれば、学校が留年生として引き受けますが、大量の生徒が試験に不合格となった場合、その受け入れが、学校という教育機関にとっても、学校教育費を負担する州にとっても、(教室や教員を大幅に増やさなくてはならなくなるため)大きな問題となると考えられます。ちなみに昨年はロックダウン中の例外的措置として、無試験で卒業を認める措置がとられました。

これらの学年の生徒に比べれば、それ以外の生徒、特に、中等教育に通う生徒においては、遠隔授業の影響はそれほど大きくない、あるいはほとんどないというのが一般的な見解です。モチベーションが高い生徒や、親が支援するなど外的な環境に恵まれている場合は、従来の学校の授業より多く学んでいる場合もありました。

ドイツのこれから進むべき道

このように、ロックダウン期のドイツの遠隔授業は、無い無い尽くしで、迷走しながらすすんできましたが、ドイツの教育界は、今後、どんな道をすすむべきなのでしょうか。

シュモルからのメッセージは、明確です。まずは、できるだけはやく、学校の授業を再開すること。シュモルは、学校での授業が、遠隔授業に比べ、2倍以上学習効果があったというスイスの最新の調査結果もひきあいに出し(Schule und Corona, 2020)、特に小学校では学校再開が緊急に必要だと訴えます(今回参考にした記事や講演が公開になった時点では、まだロックダウン最中で、学校閉鎖がいつとかれるのか、未定でした)。

確かに学校を再開すれば、感染が広がる危険もあります。しかし、シュモルは、ほかの場所と比べ学校での感染が、特に高くなるということはこれまでの調査でもでてきていないため、ほかの場所と同じくらいの感染の危険しかないのなら、自宅にこどもをとどめるより、学校に行かせるほうがずっといいと考えます。

モチベーションのある生徒、自分で勉強できる生徒などには、遠隔授業で逆に学習量が増えた場合もありましたが、逆にモチベーションも環境もそろっていない生徒たちには、学校で授業を受けさせてあげることが、学力を維持、強化するために必須であり、社会の教育格差を広げないためにも、学校を再開すべきというのが、シュモルが発信する最重要のメッセージだと言えます。

おわりに

シュモルのこのような話を、(これを書いている1月中旬)現在もほとんどの州で学校閉鎖が続いているドイツの状況と合わせて考えると、ジレンマを感じます。

本稿の最後は、少し視点をずらして、将来について考えてみましょう。シュモル自身が、再三強調しているように、今のところ学校の授業にまわる遠隔授業はなく、遠隔授業は学校の授業にとってかわることはありえず、あくまで遠隔授業は学校の授業を代行あるいは補完するものである、という位置付けが、遠隔授業設備が進んでいる国も含めて世界全体の教育界で一致する意見です。

つまり、これまでデジタルなものに猜疑的だったドイツの立場は、学校閉鎖のときには裏目にでてしまったかもしれませんが、本来のドイツの教育のあり方が否定されるものでは、もちろんありません。

しばらくの間、ドイツではかなり苦戦を強いられ、遠隔授業の工夫・改善努力が今後も必要なことは確かでしょうが、晴れて学校の授業が再開したあかつきには、これまでのドイツの学校教育の実績とデジタルの教育経験をハイブリッドさせて、よりいい授業内容になっていってくれればと願います。

次回は、ドイツから少し南下したスイスから、ロックダウン直後からはじまった、デジタル機器のない家庭にパソコンを配る活動について紹介します。

参考文献

Nagiller, Juliane, Wenn das Radio zum Klassenzimmer wird, Science.orf.at, 20. November 2020, 13.00 Uhr

News4Teachers, VBE-Umfrage zum Deutschen Schulleiterkongress: Unmut unter Schulleitern wächst, Bildungsmagazin, 27. November 2020.

Schmoll, Heike, Corona-Krise – Lernen mit Hindernissen, SWR2 Wissen: Aula, So, 31.5.2020 8:30 Uhr

Schmoll, Heike, Brennpunkt-Schule auf Distanz : Wer nicht eingeloggt ist, wird angerufen. In: Frankfuter Allgemeine Zeitung, am 27.11.2020-09:52

Schmoll, Heike, Corona-Maßnahmen : Wie geht es mit den Schulen weiter? In: Frankfurter Allgemeine Zeitung, Aktualisiert am 03.01.2021-19:11

VBE (Verband für Bildung und Erziehung), „Die angemessene Ressourcenausstattung der Schulen ist nicht Kür, sondern Pflicht der Politik“. forsa Schulleitungsumfrage zu Berufszufriedenheit und Corona, Pressedienste, Hamburg, 27. November 2020

Schule und Corona - Lehren aus der Pandemie, Heike Schmoll im Gespräch mit Ralf Caspary, SWR2 Wissen: Aula, 29.12.2020, 4:31 Uhr

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


アルゴリズムは人間の思考や行動をどう変えるのか? 〜アルゴリズムと歩む未来の青写真

2021-01-15 [EntryURL]

新年早々の、スイスの『ノイエノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥングZürcher Zeitung 』(略称NZZ)の日曜版では、「2021年にわれわれが関心をもつべきことWas uns 2021beschäftigen sollte.」と題して、新年に重要となると思われれる課題や問題をとりあげる特集記事が掲載されました(NZZ am Sonntag, 3.1.2021)。

記事は、新年を眺望する特集記事として、全般に読み応えがあったのですが、わたしにとってとりわけ気になったのは、そのなかのひとつのトピック、アルゴリズムに関するものでした。洗練度が年々高まり、デジタル分野で日常的にますます普及しているアルゴリズムは、今後、わたしたちの生活にどのような影響を与えるのか、その可能性や問題性を指摘したものです。

今回は、この記事の指摘を出発点に、人類未踏の領域である、アルゴリズムが日常的に普及する世界について、歴史家ハラリと台湾デジタル担当大臣タンという、対照的な見識者の意見を参考にしながら、思索の旅にでてみたいと思います。アルゴリズムに全く門外漢のわたしの旅なので、一体、どこにたどりつくのかわかりませんが、よかったらおつきあいください。

※NZZは、スイスで名高い日刊紙で、2年に一度、学術的な第三者機関がスイスの主要マスメディアの質を審査する調査でも、常に、新聞部門で群を抜いてトップに位置している新聞です(「「メディアの質は、その国の議論の質を左右する 〜スイスではじまった「メディアクオリティ評価」https://jneia.org/181010-2/)。この記事内容は、しかし、専属記者が書いたものでなく、スイス の代表的な未来およびトレンド研究のシンクタンクで、特にバイオテクノロジーなど技術・工学的な分析が強いことでしられるW.I.R.E.の調査結果をまとめたものです。

記事で指摘されているアルゴリズムに関する問題

まず、この記事で簡潔にまとめられているアルゴリズムについての問題を以下、箇条書きであげてみます(一部は文章を直接引用)。

・アルゴリズムは、膨大なデータと、個々人の趣向の違いをすりあわせてわたしたちに、いろいろな提案をしてくれる。レストランや音楽の選択や、パートナー選びまで、日常に深く根付いている。

・アルゴリズムは、わたしたちを、膨大な情報のジャングルをくぐっていくためのガイドをしてくれて、私たちのかわりに判断(決断)を引き受けている。

・これはとても便利な反面、利用すればするほど、依存するようになったり、マニピュレーション(巧みな操作)のリスクが生じる。このようなリスクは、社会全体で考えると、さらに深刻で危険な次元に達する可能性がある。

・自分で判断することがなくなることで、統一的になり、同一化にすらなりうる。「クリエイティビティ(創造性)は、批判的な自由な政治的文化なしには不可能である。」

・「それではどうすればいいか」(という項目を置き、企業と人々に分けて、それぞれの対応を喚起しています。)

これを使う企業は、利用されるデータと、アルゴリズムがどのような目的をもっているかについて、透明性を確保するべき。人々は、プレイリストなしに自分で音楽を選んだり、スマホのナビなしで生活したり、パートナーを自分で選ぶなど「われわれのアルゴリズムに対抗する自由の戦いがはじまらなくてはならない」

「自由な意志」に基づく「自由な選択」はあるか?

上記の内容は刺激に満ちたものですが、他方、最後の結語、「われわれのアルゴリズムに対抗する自由の戦いがはじまらなくてはならない」というところで、引っかかるものを感じました。

ここで言う「自由」とは、自由意志に基づき選択する自由、というようなことだと思いますが、「自由の(ための)戦い」とは、具体的にどんなものなのを指すのでしょう。政治的なムーブメントとして「自由の(ための)戦い」が語られれば、想像できますが、アルゴリズムを前にした「自由の戦い」とはなにを意味するのでしょう。

歴史家ハラリYuval Noah Harariは、『21Lessens. 21世紀の人類のための21の思考 21 Lessens for the 21st Century』(河出書房新社、2019年)で、以下のようにつづりながら、「自由意志」というものが幻想であると断言しています。

「最高の科学理論に従えば、そして、最新のテクノロジーに何ができるかを考えれば、心はつねに操作される危険がある。人を操作する枠組みから解放されたがっている正真正銘の自己などありはしないのだ。」(323頁)
「あなたはこれまでの年月に自分がどれだけの数の映画や小説や詩を観たり読んだりしてきたか、見当がつくだろうか?」(323頁)(中略)「もしあなたが、どこかのデリート・ボタンを押せばハリウッドの形跡を自分の潜在意識や大脳辺縁系からすべて消し去れると考えているのなら、それは自己欺瞞にほかならない。」
「バイオテクノロジーと機械学習が進歩するにつれ、人々の最も深い情動や欲望を操作しやすくなるので、ただ自分の心に従うのは、いっそう危険になる。」(345頁)
(ビックデータと機械学習によってアルゴリズムが)「あなた以上にあなたを知るようになった日には、これらのアルゴリズムはあなたを支配したり操作したりできるだろう。」(346頁)

ハラリは、つまり、さまざまなファクターが折り重なって、自分が「自由な意志」と思っているようなものを形成しているだけだと言います。自分よりも自分の好みがよくわかるアルゴリズムすら可能となるともいいます。だとすると、もともと自分が選ぶようなものを、アルゴリズムが先立って選んでくれているだけで、どうせ同じようなものを選ぶ、という風にも解釈できます。

そうなると、記事のように自分の「自由さ」にこだわり、アルゴリズムに対抗する自由の戦いをはじめることの意義や目的、理由はなんで、具体的に戦いの中身は何になるのでしょう。気持ちとしては、アルゴリズムに占拠されずに「自由に選択する」ことにこだわりたいのは、よくわかるのですが、実質的にどんな戦い方であり、その戦いの結果、なにを得ようとしているのかが、判然としません。

というわけで、「われわれのアルゴリズムに対抗する自由の戦いがはじまらなくてはならない」というこの項目の結論部分には、これ以上深入りをせずに、それ以外の部分について、以下、考えてみたいと思います。

アルゴリズムが人や社会に与える影響

仕切り直して、アルゴリズムに関する指摘で、ほかに重要と思われるキーワードをくくりだして、そこからのアプローチを考えてみます。

・「依存」
・(それが続くと)統一、同一化してしまう
・クリエイティビティ(創造性)が失われる

とはいえ、これらのキーワードの前後の説明は極めて少なく、いわんとすることがこれもまた、はっきりはわかりません(ただし、シンクタンクの記述が不十分だと批判しているわけではありません。未来研究の素晴らしいところは、ぼんやりした未来像に大胆に一石を投じること自体です。しかし、いかんせん未来のことなので、内容を詳細に示すことができないのもしかたないことです。)。

このため、僭越ながら私の理解と言葉を補充して、もう少し詳しい叙述を試みてみます。

アルゴリスムを使いつづけると、それへの「依存」体質となる恐れ。そして(それが続くと)、人々や社会全体の、思考パターンや嗜好などが、統一的になり、同一化する傾向がでてくるのでは。そうなると、多様な自由な発想が乏しくなり、批判的な思考もきたえにくくなる。批判的精神の乏しい政治的文化の土壌の上では、個性的・奇想天外な発想がでにくくなり、社会や個人のクリエイティビティ(創造性)もまた全般に減っていく。

大筋で、そのようなことを想定し、全般に、脅威ととらえていると考え、先にすすんでみたいと思います。さて、このような予測はどのくらい正しいでしょうか。

アルゴリスムに依存するとどうなるか

まず、依存について。「依存」が強すぎると、なにが問題となるのでしょう。真っ先に考えられるのは、人が自分自身で決断できなくなるようになることでしょう。決断するというのも、一種のトレーニングが必要な作業で、それをしばらくしていないと、筋トレしないと筋肉が落ちるように、全般に、自分で決める決断力が落ちる危険がある、という仮説が考えられます。そうすると、なにをするにも(必ずしもアルゴリズムで決めてもらうのが最良の解にならないような場合も含め)、アルゴリズムが手放せなくなるようになる。そうなると、ドラッグの依存症同様に、アルゴリズム漬けの状態から脱することができなくなる。

ところで、脳に負担をかけないと、不安になりやすいという説があります(メンタリストDaiGo『自分を操り』)。この説に沿って、この問題を考えると、らくをしてアルゴリズムにやってもらってばかりいると、どんどん、脳も逆に、不安になったり弱くなるということになるかもしれません。

一方、もう少し楽観的な見方もあります。RadicalChange財団の主催で実現した上述のハラリと、台湾のデジタル担当大臣オードリー・タン(Audrey Tang 唐鳳)の対談で、それが表現されている部分を以下、引用してみます(ユヴァル・ノア・ハラリとオードリー・タンの対談、2020。訳は、AI新聞編集長湯川鶴章によるものを使わせていただきます)。

ハラリ「オンライン政府が強制的に何かをわれわれにさせる、という話ではありません。自分自身よりもアルゴリズムのほうがわれわれのことをよく知っていて、よりよいレコメンデーションができると、われわれ自身が考えるようになるという話です。われわれが、人生の決断をますますアルゴリズムに頼り始めるという話です。」
「アルゴリズムは常に改良され続けます。それにアルゴリズムは完璧である必要はありません。人間がする予測の平均値よりも、優れていればいいだけなのです。アルゴリズムが改良されるにつれ、人々が自分の判断を信じるより、アルゴリズムを信じるようになる可能性があります。」

タン「ではそのことについて議論していきましょう。アルゴリズムのことを「コード 」と呼ぶことにしますね。わたしがコードというと、アルゴリズムのことだと思ってください。コードはもちろん、ユヴァルが説明したようなインパクトを持っています。」
「コードはLawです。Lawといっても、法律ではなく、法則のようなものです。コードは、何が起こりうるか、何が起こらないかを決定する、サイバースペースにおける物理の法則のようなものなのです。」
「適正な手続きにのっとりさえすれば、アルゴリズムのコードを法のコードと同じよう書き換えることができるのかどうか。社会がそうすることにどれくらい前向きか。それ次第だと思います。」
「私にとって、この価値観の問題を解決する1つの方法は、基本的ルールとして複数の物の見方を提供することだと思います。人間のアシスタントと同じことだと思います。複数の人間のアシスタントが、あなたの価値観を理解した上で、それぞれの提案をします。もし一人があなたの利益にならない提案をしたら、残りのアシスタントがその一人と協議することでしょう。もしその一人が何度もあなたの価値観と違う提案をしたら、残りのアシスタントがその一人に警告を発するでしょう。」
「この「1つの意見ではなく、複数の意見を参照する」というのは、わたしの仕事上のモットーでもあります。」

RadicalxChange(司会)「RadicalxChangeのアイデアの一つにデータの尊厳があります。オードリー、あなたは会話の最初の方で、アーキテクチャについて言及していましたね。ここで考慮すべきことの1つは、このような多元性を持つようにアルゴリズムをどのように構築できるか、データの尊厳をどう担保するのかということだと思います。」

この3者(ハラリとタンと司会)の意見が交錯する対談からみえてくる楽観的な見方(ハラリは基本的に同調していないかもしれませんが)について、わたしが理解できた範囲で、まとめてみると以下のようになります。

所詮、アルゴリズムは人間がプログラミングしてつくりだしたものであり、複数が並行して存在可能で、あらわれる価値観が違うことも可能。つまり、人がアルゴリズムによって決断できない、しなくなるのではなく、決断の内容や仕方が変わるということであり、複数のアルゴリズムで、どれが最良かを見極めるという最終的な決断は、変わらず人の手中にある。

しかしそうなると、それぞれのアルゴリズムのくせや限界や問題点、それが十分に透明性を担保しているか、などを自身が理解していないと、最良のアルゴリズムを選べないことになり、アルゴリズムを理解するのに最低限必要な(高い)能力が前提となります。アルゴリズムを理解する能力は、現在は、ひとにぎりの専門家だけにとどまっていますが、それを、どれほど、一般的な人々の間でも引き上げることができるのかが、キーとなりそうです。

思考や行動がフラットになるのか。個々人のクリエイティビティ(創造性)が失われるのか

先ほどあげてみた残りのパスワードで、記事の指摘するほかの論点もあらわしてみます。アルゴリズムを使うと、決断・結論の出し方が似てきて、その結果、行動パターンや思考パターンも類似しだして、最終的に、相対的に社会や人のなかのクリエイティビティが減る。

これは、本当でしょうか。ここで再び、対談にでてきたオードリー・タンの意見を参考にしてみます。タンは、最新の著作『デジタルとAIの未来を語る』で、高齢者がデジタル化で不便を感じる時、想像力が必要だとしています。プログラムやインターフェースに問題があるのであれば、高齢者ではなく、そのサービスを提供する側が、それらの点を工夫すればいいという発想です。

このような立ち位置から考えると、もしも、アルゴリズムを使い込むことで、いくつかの弊害がでたとすれば、その時に、さらに想像力をふくらまし、もっとよいものを作ればいいのでは。そうすれば、アルゴリズムの弊害もまた克服できるのでは。これまでにないような発想で、新たにでてくる問題をそれぞれ、克服していけばいいのでは、ということになると思います。

そう簡単にいくのか。理想にすぎないのではないか。そんな疑いや批判の声がきこえてきそうです。たしかに現実には簡単ではなく、克服できる可能性は高くないかもしれません。関与する技術者の質や量、熱意、分別、公平なバランス感覚によって、非常に左右されるかもしれません。

他方、では、アルゴリズムを、あなたは実際にあきらめられますか、と訊かれて、どのくらいの人が、堂々と、名乗りをあげられるでしょうか。頼れる便利なものがあれば、使いたい。多すぎる情報や選択肢を効率よく処理したい。一度アルゴリズムを味わった人の多くが、内心そう思っているかもしれません。もし、そうであれば、たとえ、今のアルゴリズムが問題をおこすと予想されたとしても、それに変わるものが所望されるだけで、頼れる便利なツールを全面使わないというの現実的ではなさそうです。

これを、政治に例えれば、(まったく今ある体制をこわして新たにうち耐えることを目指す)革命ではなく、(いまあるリソースを最大限活用するという効率を重視しながら、問題と思われる部分に改善のメスを入れる)改革路線といったところでしょうか。

おわりに

ところで、タンは、前揚書で、資本主義社会には、競争原理であるが、競争がすべてではなく、ほかの要素も多くあること。また、競争の原理から離れ、公共の価値を生み出すことに達成感を見い出すことができれば、AIに仕事をうばわれることはなく、人間の仕事は決してなくならないとも言っています。

前回と前々回でとりあげたハスラーの著作も、人は一人では満たされる人生を生きることができず、人と関わり自分が役に立っているという気持ちが、高齢者の精神衛生を保つのに必要だ、という主旨のことをいっていました(「「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(1) 〜スイスの高齢者の夢と現実」、「「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(2) 〜スイスの哲学者が提示する高齢者が参加する未来」)。

タンとハスラーの視座には共通するところがあるように思います。生活スタイルや、アルゴリズムなど、身の回りにある環境がいろいろ変わっても、結局肝心なのは、人がそこでどう自分の生活の仕方を決めていくかということで、そこが自身で、はっきりしていなければ、自分の境地を受け身にとらえ、外的環境にふりまわされていると感じるのかもしれません。

そう思うと、未来研究者ホルクスMatthias Horxの言葉もまた思い出されます。昨年春のロッックダウン中、コロナ危機解決の手がかりとして、これから議論していくべきことはなにか、というインタビューの問いに対し、ホルクスは、これからの時代で重要なのは、「確信(確実な期待)Zuversicht」だといいます。「確信は、我々を行動や変化に近づけるひとつの姿勢(態度)であ」り、「確信のある人は、自分でなにかを起こすことできることを可能と考え、それを自覚する」。確信をもつことで、人は、「未来はどうなるのか」と(受け身的に 筆者註)問うのではなく、むしろ、わたしに何ができるか、どう作用できるか、なにが変わり、わたしはそこでなにができるか、と主体的に考え、「未来のためにわたしはなにができるのか」と自問するようになる。つまり「自分たちのうちにある未来への責任を担う」ようになり、そうすることが結局、「自分たちが」(自分たちの手で 筆者註)「未来をつくっていくことになる」(「新たな「日常」を模索するヨーロッパのコロナ対策(2) 〜追跡アプリ、医療情報のデジタル化、地方行政の采配、緩和政策の争点」)。

アルゴリズムのある生活はバラ色か、それともその奴隷となるということなのか。議論をそこの部分だけでおわりにするのでなく、違う側面にも注目すべきでしょう。それは、不必要に恐怖するのでも、無心にたよるのでもなく、アルゴリズムのある生活、アルゴリズムを使う側の自分の姿勢や主体性を、いかに意識するか自覚するかということです。そういう自覚をもつ人たちが増えれば、なにかおかしいところは、アルゴリズム自体やあるいはアルゴリズムとの関わり方を、変えていき、アルゴリズムのある生活を、さらに進化させていくことができるのではないでしょうか。

そうしているうちに、人によりそい、人に快適・便利さを提供するだけでなく、特には、潜在的な能力をひき伸ばすような、そんなしかけやアルゴリズムなども実現してくれたらいいのになあ。と、こんなところまで結局、発想がとんでしまうわたしのような人間は、しかし、すでに、(手遅れなまでに)アルゴリズムへの依存症が過度に進行しているということなのでしょうか。。。

参考文献

メンタリストDaiGo『自分を操り、不安をなくす 究極のマインドフルネス』PHP研究所、2020年

Mijuk, Gordana/ Blaschke, Sonja, «Ohne Reply-Taste gibt es keinen Raum für Trolle», sagt Taiwans Digitalministerin Audrey Tang. In: NZZ am Sonntag, 26.12.2020, 21.45 Uhr

オードリー・タン(Audrey Tang 唐鳳) 『デジタルとAIの未来を語る』プレジデント社、2020年

Was uns 2021beschäftigen sollte. In: NZZ am Sonntag, 3.1.2021, Hintergrund Schweiz, S.16-17.

ユヴァル・ノア・ハラリYuval Noah Harari『21Lessens. 21世紀の人類のための21の思考 21 Lessens for the 21st Century』河出書房新社、2019年

Yuval Noah Harari, ユヴァル・ノア・ハラリとオードリー・タンの対談(2020年7月2日アップロード)

Yuval Noah Harari ユヴァル・ノア・ハラリ、オードリー・タン対談「民主主義、社会の未来」全和訳、AI新聞、湯川鶴章訳、2020.7.12

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(2) 〜スイスの哲学者が提示する高齢者が参加する未来

2021-01-10 [EntryURL]

スイスで近年、物議をかもしているハスラーLudwig Hasler の最新の著作『まだなにかするつもりがある高齢者たちへ。未来に参加すること』の内容に、前回(「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(1) 〜スイスの高齢者が直面している夢と現実))につづき、今回もスポットをあてていきます。今回は、特に、高齢者の行動パターンの深層を明らかにし、具体的で建設的な処方箋を提示している部分をみていきます。

前回に引き続き今回も、ハスラーの鋭いつっこみや、一歩踏みこんだ問いかけに耳を傾けることで、うろこが取れた目で新しい地平線がみえてくるような、新鮮な感覚と新しい展望を、お楽しみください。

その旅行、本当に必要ですか

ハスラーは、旅行や、アンチエイジングの一連の行動に没頭する高齢者について注視します。高齢者はよく、退職してからの計画として、旅行をあげます。これまで忙しくてできなかったら、これから旅をたのしみたい。南の島のバカンスや、遠い異国の冒険の旅、ゆっくり世界をまわるクルージング旅行や、未踏の山を踏破する山登り、巡礼の旅。そんな、さまざまな旅をすることが、退職後のあこがれとして信奉されてきたためです。

普通の人は、旅行にいきたいという気持ちは万国共通、普通の感情と片付けて、それ以上に問うことはないですが、ハスラーをしかしそこに、疑問符を置いて考えてみます。「その旅行、本当に自分に必要なのか?」旅行することは、そんなに「賛美(尊敬)することか。それとも、同情に値することか?」 (Nydegger, 25 Jahre)

わたしの言葉でここまでの、ハスラーの意図をまとめてみます。わたしたちのまわりには、旅行に関するイメージや評価があふれています。豪華客船の旅、素晴らしい見晴らしのホテルなど、(ほかの消費財同様に)商業的な情報や、ソーシャルメディアなどで個人によっても再生産される旅行の情報によって、旅行がいいもの、ほかの人にも感嘆・共感される、あるいは人にすごいと思ってもらえるような、すばらしいもの、と社会中で、見立てられています。このため、人々は戸惑うことなく、このイメージに従って旅行(という名目のうごきまわる行為に)時間とお金を消費しているのが現状です。しかし、みんなは、本当にそんなに旅行が好きなのか。そこまで行きたいのか。行って、楽しいと思っているのだろうか、と改めてハスラーは問いかけているようです。

行っても満たされないのなら、なんで行く?

ハスラーは、旅行にいくことや、旅行にいく人を批判しているわけではありません。それ自体「何も悪くない」として、否定も肯定もしていません。それでも、こんな疑問符をおくのは、ハスラーにとって気になることがあるためです。それは、旅行という行為自体ではなく、旅行にかりたてられる人の心情です。それで本当に、満たされているのか、という心境が気になります。

結論から先に言うと、ハスラーの目には、それだけ旅行をしても高齢者たちが、満ちたりているようにみえないようです。旅行をして自分の気分が満たされれば、問題ないのですが、旅行にいくらいっても、満たされず、旅が終わると次の旅を計画し、というふうに、せつかれるように終わりなく旅を続ける人がおり、年に10回近く、あちこちいく人も、昨今めずらしくなくなりました(この本が書かれたのは、コロナ危機以前なので、もちろん現在は少し違いますが)。

あるいは逆に、もし、旅行することで人生が満たされることができるなら、アルコール依存やうつ病になる高齢者が、少なくなってもいいのではないか、とハスラーの目に映っているようです(しかし現実には、前回でみたように、年金世代は、高い割合でアルコール依存やうつ病になっています)。

ハスラーは、いくらいっても満たされない旅行の意味、それでも旅行に駆り立てられる人の心情とは、一体なんなのか、と考えます。

そして、旅行をほんとうにしたくて、あるいは楽しんでいるのか。あるいは、それが本当に自分を豊かさに役立っているのか、と問います。そして、自分を豊かにも満たしもみないのだとしたら、「ただ、絶えず旅行ばかりしている Reisereiのは」、「とにかくここにはいたくない、という現実からの逃避にすぎない」(Nydegger, 25 Jahre)のでは、と考えます。

旅への幻想的な憧憬し駆り立てられても、その欲求が満たされることがなく、キリがないことも、ハスラーにとって気になるようです。それが、すこしずつ満たされる気持ちを増やしていくものなら、目標とプロセスがありますが、いくらしても、満たされないのであれば、それは、中毒、依存症である恐れがあります。

わたしの言葉でまとめると、見方によれば、旅行への憧憬、実際現実逃避のように旅にかられて旅ばかりするのは、自分はきづいていないだけで、ある種の中毒症状に相当するのではないか。中毒は、それが際限なく必要となる症状で、終わりがみえない。同時に、その駆られる症状は次第に強くなり、自分でもおさえられなくなる。一般的な感覚の人には、「病的」にみえる、バランスを逸した状態とでもいえるでしょうか。どこからと線引きするのは一概にはできません。年に1度や2度でなく、月に1度や年に半年近くも旅行にいくのは、おかしいのか。とも一概にいえません。ただ、自分で、じっくり内省的に自分の旅行に駆り立てる心情の中身や理由を考えてみては、と語りかけます。

同時に、旅行にいかずにはいられない心情とは、つまり内なる場所、つまり、自分の今いる場所で、意義あるものをみつけられていない、ということではないか、と逆に、つっこみます。際限なく旅行に駆り立てられることは、その人の直面している現実問題を如実に示していることにほかならないのでは、と憶測します。

アンチエイジングへの根本的な疑問

同様に、アンチエイジングの取り組みについてもハスラーは現実逃避なのではと疑問をなげかけます。人は老いる、という現実を直視できない現実逃避ではないか、と。

ハスラーは、自分が、「年よりずっと若くみえますね」と言われた時、腑に落ちない気持ちがするといます。言う方は、お世辞のつもりでいっているのだろうが、自分が鏡をみるとまさに年相応、それ以上でもそれ以下でもない自分の顔が写っている。自分が高齢でそうみえる。それだけのこと。なぜ、その認識をあえてゆがめる「お世辞」が必要なのか。

こまっている人のところへかけつけて!

旅をしてもアンチエイジングをしても際限がなく満たされず、不安や不満がたまっているのだとしたら、やはり、そのような状況をなんとかしなくてはいけない、とハスラーは考えます。

では、一体、なにをすればいいのでしょう。ハスラーは答えます。「きわめてシンプル。自分のことだけでなくほかのことにも意味(意義)を見出すこと。人生の意義を見失ってしまうのは、いつも、この「自分、自分、自分」という見方だから」。(Nydegger, 25 Jahre)。そして、人は、自分が自分のためだけでなく、ほかの人やほかのものに役に立っているとわかって、はじめて幸せになれる、と繰り返し主張します。

一方、ハスラーからポンとふられて、高齢者は思うかもしれません。しかし、退職者にできることは、社会にまだ十分あるのだろうか。役にたつのだろうか。ハスラーのこれへの答えも明快です。「もちろん。手が足りなくてこまっているところがたくさんある。高齢者が高齢者をたすけること。地域や、ほかの世代で助けを必要としているところも多々ありすぎるほど(Nydegger, 25 Jahre)」。ハスラーは、具体的に、地域の高齢者の助け合い組織を賞賛し、移民的背景の人を含む多様な社会の人々のライフステージにあわせた多様なサポートの在り方に未来の大きな可能性と必要性をみます。

もちろん、自分の孫の面倒をみるなどもいいでしょうが、「25年もみる孫がいるでしょうか?今日、そんなに孫がいる人はいないでしょう(Nydegger, 25 Jahre)」。だから自分の身内に限定せず、助けが必要なところにいって、自分の活力や能力をおしまず発揮しすればいい。

これは、ハスラーが自身に対して言っていることでもあるようです。「わたしも、もし講演依頼がなくなったら、村の学校の門をたたくでしょう。ドイツ語や数学で苦労していて、助けが必要なこどもたちはいませんか、と。そうやって、こどもたちをたすけることができるし、そうやって、未来にも自分が関わっていくことができる。自分がもういなくなっている未来に対しても(Nydegger, 25 Jahre)」

おわりに

ハスラーの意見は、高齢者たちの間の、自分の退職生活がバラ色になるという、あわい自己の幻想や自己弁明を、鋭く問いただし、打ち砕いてしまう強烈なパワーをひめているようで、高齢者世代から、かなり強い抵抗があり、辛辣なコメントを受けているそうです。

しかし逆にみれば、感情的にハスラーに対峙する同世代の高齢者には、うすうす自分でも、自分の生き方に満ち足りておらず、不安定な感情があったため、痛いところをつかれて、逆上している、という側面もあるのかもしれません。人生のなかで、どこどこにいった、なにをしたというアリバイ的なものや、他人からみえる見映え、本音を隠した建前が、自分の自信やほこりの拠り所になっているケースはよくあります。ハスラーの意見で、高齢者は、そういった体裁をとっていたはずのものがすべて取りはらわれ、無垢だしにさらされたように感じ、ハスラーに共感する余裕などなく、まずは自己正当防衛の本能から、憤りをハスラーにぶつけたり、焦燥感をつのらせた人が多くいたのかもしれません。

確かに、下り坂をゆっくり降りていくことを日々意識している高齢者は、ある意味、常に不安を抱えており、守りにはいる気持ちが強くなり、自分のすることや生き方を否定されるような発言にも過敏になっても不思議はありません。いまも人生が素敵に輝いていることを実感したいから、そんな風に思える素敵な人生のアリバイづくりに旅行をしたり、現実から逃避するためにアンチエイジングにいそしみたい。これの何が悪いのだ、と居直ることも可能です。

しかし、哲学者ハスラーにとって、重要なのは、みかけでなく本音、本質的な問題です。そのような人生が、当人にとって本当に残りの人生の有意義な過ごし方なのか、それが、それだけが問題です。だからこそ、世間の目やみかけをきにせず、高齢者一人一人が、自分の心情と現実を直視するよう、すすめます。

このように、この本のメッセージは、とても、まっとうに響く一方、(人によっては)大変過激にきこえるものです。このため、スイス人のなかで理解し消化するまでしばらく時間がかかると思われます。メッセージが社会全体にどう浸透し、実際になにかを誰かを変えていくのか、それとも変えないのか。それらがみえてくるのは、さらにあとになるでしょう。

最後に、もう一言。主に、若い人たちに向けて、一読者のわたしからも付け加えさせてください。

高齢者のなかで、考えていくうちに、「旅行」と称してあくせくうごきまわる行為や、アンチエイジングに没頭するかわりに、社会が必要とするところに真摯に関わっていくことで、自分たちの物理的な形がなくなったあとも、未来の世代や社会に、自分の一部を伝えていこう、というハスラーの提案のほうが、望ましいと思える人が、徐々に増えていくかもしれません。

そして実際に、高齢者が、社会でなにかの助けになりたい、再び積極的に社会に参加してみよう、社会にもどってこようとした時、社会はそれをどう受け止めるでしょう。高齢者のなかには、最初は、すこしおぼつかない足取りで歩み寄ってくる人もいるでしょう。時には、受け入れ側に、忍耐や柔軟さや寛容さを要することもあるでしょう。それでも、高齢者を、暖かくむかえ、いっしょに協力して、社会で山づみになっている課題に向かっていく、その気持ちの用意が、受け入れ側の若い世代に、できているでしょうか。

ハスラーのメッセージは、高齢者の一部に強い反感をかっていますが、逆に若い世代の間では支持者や同調者が多いそうです。ハスラーの本は、主として高齢者に向けたものですが、高齢者だけでなく、若い人たちもまたそのメッセージを受けて、高齢者と若者が協力していける多世代共存の社会構築を肯定し、それを強化・補強していくようより積極的に役割を担っていくことが、期待されます。

(高齢者も、若者も)みなさん、出番です!

参考文献

Alter und Suche, Alkoholkonsum im Alter. Die stille Epidemie?

Batthyani, Sacha, Was ist nur mit den Alten los? Bremsr beim Klima, uneinsichtig bei Corona. Philosoph Ludwig Hasler stellt sich den brennenden Fragen an seine Generation. In: NZZ am Sonntag Magazin. 17/2020, S.8-11.

Bundesamt für Gesundheit (BAG), Alkohol im Alter (2020年12月22日閲覧)

Hasler, Ludwig, Für ein Alter, das noch was vorhat. Mitwirken an der Zukunft, Zürich 2019.Ludwig Hasler, Philosoph und Publizist, Beruf und Berufung, Interview, 26. Juli, 2014.

Jung gegen Alt? Philosophischer Stammtisch der Generationen | Sternstunde Philosophie | SRF Kultur, 2020/06/22
Nydegger, Eva, «25 Jahre Enkel hüten?». In: Coopzeitung, 17.5.2020.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(1) 〜スイスの高齢者の夢と現実

2021-01-05 [EntryURL]

2019年にスイスで公刊された『まだなにかするつもりがある高齢者たちへ。未来に参加すること Für ein Alter, das noch was vorhat. Mitwirken an der Zukunft 』という、高齢者の行動を観察し新たな生き方を提案した本が、公刊直後から、スイス社会で反響をよんでいます。

それは単に、哲学者で物理学者、ジャーナリストでもある著者ハスラーLudwig Haslerが、「スイスで最も講演依頼が多い」と言われるほど、社会で大きな発言力をもつ人物であるからだけではないでしょう。本書に貫かれた、自分と同世代(著者は77歳)である高齢者についての、歯に衣を着せない苦言と提案が、社会のタブー領域に踏み込んだものであったこと。同時に、だからといって、反感を覚える人たちがこの本や著者を批判や否認して、収束するほど、スイスの現実の状況が単純ではないからでしょう。

2021年最初のコラムとして、今回と次回(「25年間も引退生活なんて、とんでもない」(2) 〜スイスの哲学者が提示する高齢者が参加する未来」)を使い、本書の内容を紹介してみたいと思います。スイスだけでなく世界中において、高齢者と若者の共存や多世代の社会の絆が、これまで以上に問われている、ウィズコロナ、アフターコロナの時代を、ハスラーといっしょに、晴れ渡るお正月の青空をみわたすように、ながめる機会にしていただければと思います。

※本稿は、ハスラーの著作の内容以外に、著者の同じ内容を扱った昨年秋のヴィンタートゥーアの講演(9月24日会場Coalmine)や、関連するインタビュー記事の内容なども、参考にし、まとめたもので、(厳格に本の内容だけをまとめた)本の要約ではありません。

※ 参考文献は、次回のコラムの最後に一括して掲載します。

現在のスイスの高齢者たち

まず、ハスラーは、自分を含めたスイスの現在の高齢者が全般的にどんな境遇に置かれた人なのかを、簡潔に描写します。それによると、「私たち(高齢者たち)は自由で、独立して、ほとんどの場合、お金にもこまっていない」「特別な世代」です。ちょうど退職したところだと、おおよそ25年間、働かなくてもいい、時間を手に入れたことになり、それは、これまで人類が手にしたこともないような、時間と経済的豊かさと健康を、スイスの現在の高齢者たちが享受しているということになります。このような今の高齢者が享受している状況は、同じ時代のほかの人と比べても「こんなめぐまれている世代はほかにはいない」とします。

さて、そのような比するものがいないほど、膨大な自由を手にいれた、恵まれた高齢者たちは、どんな風にすごしているのでしょう。

ハスラーは、ユーモアある表現で、四つのヴァリエーションに分けて、提示します。

1)常に動きまわる。それができなくなるまで
2)終わりがなくなるよう、画策を続ける
3)高齢やたちのなかで、自分が役にたつようにする
4)若い人たちの世界に力をかす(社会や若い人々の未来に参加する)

そして、お気に入りのチョイスは、3)と4)の自分も役に立ち、参加することだと、結論を先に示したあと、なぜ、1)や2)がよくなく、3)と4)がいいのかを、本書で詳しくのべていきます。

ちなみに、冒頭で、あらかじめのことわりをいれています。もちろん、本書でいいとするようなことが、健康などの制約で、選択肢にしてはじめることができない高齢者もいる(し、そのことがわかっていないわけではない)。しかし、この本は、すべての高齢者について論じたものではないとします。

逆に、あくまで、身体的・経済的に1)から4)まですべての選択肢が可能であるような、めぐまれた高齢者を対象にした本であり、その人たちに、改めて、恵まれた自分の状況と、自分の可能性、できることを、立ち止まって考えてもらうために書かれた本だといえます。

至福にならないどころか、アルコール依存やうつになる高齢者

1)は、普通な言い方をすれば、旅行のこと、2)は、アンチエイジングの一連の行動(スポーツやコスメティック部門など)を指します。

現在は、コロナ禍で旅行する人が大幅に減っていますが、それ以前、あるいはコロナ禍が過ぎ去ったあとの社会を想像してみると、船の長旅や、世界旅行など、あちこち旅行してまわる人がいます。また、老化を少しでもくいとめ健康で若々しくいられるようスポーツや美容に専念する人もいます。

1)と2)についての具体的なハスラーの分析については、次回のコラムで、詳しく触れることにして、まずは、ハスラーがとりわけ、深刻に受け止めていることをみていきます。それは、1)をしても2)をしても、満たされていない人が多いという事実、高齢者をめぐる現状です。

お金も健康もあって、義務がなく、好きなことができる。こんなパラダイスのような状況にあって、さぞ、人々は幸せにしていることだろう。そう、普通なら想像します。特に、若い世代にはそう思われ、羨望されます。しかし、現実にはどうでしょう。高齢者はそれほど幸せそうにみえないとハスラーはいいます。

例えば、アルコール中毒や、うつ病になる人が、年金をもらうようになると急増します。スイスのアルコール依存症の三人に一人は年金をもらっている人たちです(S.46)。

ここで、具体的な統計データを参照して、ハスラーの本論を、補足しておきます。スイスでは、毎日アルコールを消費する人が増えていますが、74歳以上は、ほかの世代に比べ、最も毎日アルコールを消費する人の割合が高くなっています(65歳から74歳の世代では22.2%で、74歳以上では26.2%)。この世代が、若いころから特にアルコール消費が多かったというわけではなく、退職を機に、アルコールの消費が多くなるのが特徴です。65歳から74歳までに男女の7.3%は、アルコールを危険な程度まで消費しています(スイスで、危険の高いアルコールの消費量とは、恒常的で分量が多いアルコールの消費のことで、具体的には、男性が平均1日純度100%のアルコールに換算して40グラム、女性は20グラムを消費することを意味します。これは、男性で、グラス4杯のワイン、女性は2杯のワインを消費するのに相当します。2015年の統計、BAG, Alkohol)。

(再びハスラーの本書の内容にもどります。)自由もお金も健康もあるのに、心を病んだり、アルコール依存症になることは、一般論として、あるいは若い世代にとって、理解しがたいものです。しかし、ずっと楽しみにしていた、定年という黄金の時期がきたかと思うと、うつ病になったり、アルコール依存になる人が増える、というのがスイスの現実です。

心と体がなぜむしばまれるのはなぜか

待ちに待った定年退職をむかえてまもなく、アルコール依存やうつ病になるとは、なんとも皮肉で残念です。なぜこんなことになるのでしょう。

ハスラーは以下のように考えます。昔の人は、職人でも農家でも引退というものがなく、歳をとっても、なにかできることがあり、自分が「余計(余分)」だなんて考えることはなかった。しかし、会社勤めは、ある日突然、仕事がなくなってしまう(Nydegger, 25 Jahre)。社会の表舞台を去り、自分がはじめて社会で「余計」なものだと感じ始める。これまで、社会に必要とされていると思っていた人が、そのような状況に急変することに耐えられない。

確かに高齢者は、消費することで、経済貢献している。しかし「我々高齢者は購買力と消費をのぞいて、ほかになにを社会で行なっているのだろうか」(S.92)。一人一人答えは違うと思いますが、答えが否、社会でなにもしていない、そう感じる人は、それこそが、問題なのだといいます。

ハスラーは、以下のような、ほかの人の言葉を引用しながら、自説を補強します。

ショーペンハウアー「自分がなにかの役にたっていないかぎり、幸せはない」(S.9 )

アルコール依存の人の救済やリハビリ事業に長い伝統と実績をもつ救済組織「ブラウクロイツ(ドイツ語で「青十字」の意味)」の相談員の言「ある年齢から、人々は、自分の消費を正当化する。もう社会でなんの機能も果たさなくていいからと思うため。その人たちに示さないといけない。まだいろいろなことができるのだと」(S.24)

イギリスとスイスの社会学者ハリJohann Hari(自身も若年のころからうつ病を患い、なにをしても改善されなかったため、みずから世界中をわたりあるき調査しながら、うつ病の原因と生活状況を調べてきた人物)「うつ病にもっともなりやすいのは、自分のなかに、一人だけ取り残されているような気分、自分が有意な義な仕事からも同僚からも離れて「世界ともはやつながっていない」という気持ちがあるとき」(S.46)

そして、ハスラーはいいます。「25年、ただ受け身の構成員でいるなんて、本人にとっても、社会にとっても、頭がおかしいと想定だ」(S.10)

自由死を求める人たち

ハスラーは、それまでの恵まれていた境遇がかえって、高齢者が自分の境遇に不満をもたず、至福になるのを阻害することがある、という関係性についても言及しています。

例えば、これまでの高齢者に比べ、今の若い高齢者は非常に健康に恵まれてこれまでの人生をおくってきました(筆者補註 高齢者の間で健康維持に高い意識をもち運動を規則的に行う人も多くなっています。2012年のスイスの調査では、65才から74才の人で、週に少なくとも150分運動するかあるいは週に2回集中的な体の運動する人が、男性では8割強、女性は7割おり、75才以上でも男性の6割、女性の5割を占めています「現代ヨーロッパの祖父母たち 〜スイスを中心にした新しい高齢者像」)。

しかし、これまでの複数の調査では、病気が年齢のあとになってでてくる人は、はやくから病気で苦しむ人より不満をもちやすい傾向がるといいます。

また、長い間若若しく生きてきた人、自分で自由に人生を決めてこられた人ほど、年をとることに抵抗があり、高齢による自分のことが管理不能になることを耐え難く思うとします(S.23, 24 )。そして、苦悩に対抗する精神力が備わっていないで、高齢者になってしまうと、もうそこ(高齢者が自分の新たな境遇に不満を持つようになって)から、「自殺の議論までは、わずかに小さな一歩分しか離れていない。」(S.24)

「運命にゆだねるのでなく、最後まで自分の人生を自分できめたい。苦しみをわざわざ待ちたくはない」という固い信念に基づき、「高齢になって自分自身を制御できくなる不安がでてくるとすぐにわれわれはエグジットを考える。」(S.24)「エグジット」とは、スイス人なら誰もが知っているスイス最大規模の自殺ほう助団体です。この団体の支援で、死を自ら選ぶ高齢者の数は、スイスで昨今堅調に増えています。ちなみに、スイスは自殺ほう助が違法ではありません(「自由な生き方、自由な死に方 〜スイスの「終活」としての自由死」)

「25年間も引退生活なんて、とんでもない」

自由きままな生活が、数年だけならまだいいのかもしれないが、現在のスイスの状況(高齢者の健康状態や医療レベルなど)では、このような状況が高齢者に、ざっと25年間つづきます。四半世紀も続く「引退生活」をすること、それは、素晴らしいことなのか、とハスラーは問います。そして、明確に否定します「25年間も引退生活なんて、とんでもないIch bitte Sie.」(Nydegger, 25 Jahre)。

ハスラーは、それを、たとえを使って説明します。花は花としての一生を、虫は虫としての一生を100%、集中して生きます。ほかになにかになるわけでもなれるわけでもなく、濃厚なそれ自体の生命です。しかし、人間は違う。一人で完結せず、他者との関係をもち、交流をつむいでいくことで、はじめて、自分が何者かを知る。あるいは自分がなりたいものを想像し実現しようとし、したい生き方を選ぶ。そうやって、人間ははじめて人間になれる。(花やほかの動物と違う)人間としての生き方になる。

つまり、自分の楽しみや欲求だけを追求することだけ、では、人は満たされない。いわゆる一般的な生活の質は、ここでは副次的な役割しか果たさない。

もうすこし世俗にもどした言い方をすれば、社会で、25年間も、社会の表舞台に変われを告げて、退職者として、社会を動かす能動的な役でなく、受動的な立場だけでいきていくのが、人の人生の意義を満たすことはできない。人はむなしくなる。ということを意味します。

次回へ続く

次回では、哲学者ハスラーが、高齢者の具体的な行動の深層をさぐり、そこから俯瞰・提案しているものについて、ご紹介してみます。次回もお楽しみに!

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
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シェアリングによって変わる地域社会と生活スタイル(2) 〜スイスのシェアリング施設のボランティア体験から

2020-12-20 [EntryURL]

前回(「シェアリングによって変わる地域社会と生活スタイル(1) 〜スイスのシェアリング施設のボランティア体験から」)からの続きとして、さらに、シェアリング施設の存在によって、自宅での生活の自体も変化していく可能性について、一利用者としての私自身の体験をもとに、考察してみます。

生活面その1 〜片付け方が変わる

片付けコンサルタントの近藤麻理恵さんの「こんまりメソッド」が世界で大流行したことからもわかるとおり、昨今の世の中、モノが多く、それを片付けるのに非常に苦労・苦悩している人が、非常に多いと思われます。かくいうわたしも、まだ「使える」状態の自分の所持品を、ひきつづき持ち続けるべきか、それとも処分すべきかの決断を先延ばしにする傾向が強く、所持品が増え続けるという問題をかかえていました。

ところで、スイスでは、コロナ禍以前は、かなり多くの不要な中古品を寄付として受け入れ、救済プロジェクトなどの資金にあてる非営利のリサイクルショップが各地にあり、それらの施設に持ち込むことが比較的、簡単にできました(「「ゴミを減らす」をビジネスにするヨーロッパの最新事情(2) 〜ゴミをださないしくみに誘導されて人々が動き出す」)。

しかしコロナ禍、自宅内の片付けに時間を費やす人が増え、どこのリサイクルショップも、持ち込まれる家庭の不要品が急増し、スペースが足りず、受け入れをかなり制限するところがでてきました。古着もこれまでは、定期的に回収されていましが、やはり集まりすぎて、回収自体がストップした地域もあります。ちなみに、廃棄・リサイクル施設も同様に、一時期、持ち込まれる量が増えすぎ、閉鎖になりました(「非常事態下の自宅での過ごし方とそこにあらわれた人々の行動や価値観の変化 〜ヨーロッパのコロナ危機と社会の変化(5)」)。

このように、不要品をあずかってくれるところが減ると、不要品の処理が、著しく困難になります。もちろん、ゴミとして破棄するという選択肢もありますが、自分が不要だからとって、すべてゴミに処分するのは、環境面からいって、モノの理想的な処理方法とはいえません。

そんな状況下、「交換の家」のボランティアをはじめるようになり、使用感があるもの、古びたものなども含め「不要」になった雑多なものを、勇気をだして「交換の家」に持ち込んでみたところ、数日後には、見事に毎回、それらがなくなっていました。時々、数週間して、また戻ってきていたモノもありましたが、しばらくするとまたなくなっていて、複数の人の手に試されたり、持ち去られたりしていることがわかりました。

自分にとっては「不要」でも、誰かが持ち去ってくれる見込みができると、どんな感情がうまれるでしょう。わたしの場合、自己満足の嬉しさがつのるだけでなく、自分の家の片付け自体にも、変化が現れました。この変化をもう少し正確に叙述すると、二つの異なる分野の変化であったと思われます。

まず、「交換の家」という存在ができたことで、私にとって、ゴミ箱に捨てるのと、とっておくという、二つの選択肢以外に、新たな、三つ目の選択肢ができたという変化です。このため、「不要」なものがでてきても、「不要」でも「交換の家」用の袋に入れいれればよくなりました。それを次回施設に持込めばおしまいで、ゴミ箱の前でのらくらためらう時間がほぼなくなりました。

二つ目は、第三の選択肢をとって、施設にもっていくと、新しく誰かにもっていってもらえる可能性がかなり高いということがわかったことで、心理的な変化が現れました。自分自身の所持品をなるべく手放さないようにしなければ、という考えから、自分が使わずおいておくより誰かに使われるほうがいいという、これまでの考えを反転する考え方が強くなり、片付けの決断につきものだった、モノを手放すことに対する、後ろめたさや葛藤の代わりに、いいことをしているかのようなポジティブな気分が目立つようになりました。

この二つの変化(物理的に第三の選択肢ができたことと、そこにもっていくと思うと自分のなかのモノを手放す時の心理的な苦痛が減ったこと)のおかげで、自分にとって片付けにかける時間も、家のモノの量も相対的に減ることになりました。

生活面その2 〜「持ち込む」と「持ち帰る」のサイクルがつながって連鎖して起きたこと、気づいたこと

さらに、気軽に持ち込んだり、持ち出したりといった交換できるシェアリング施設を、数ヶ月利用してみると、また新たなことに気がつきました。

惹かれるモノに出会うと、それが新品でも中古でも関係なく、「欲しい」という衝動がはしりやすくなります。「欲しい」は市場経済では通常「購入」であり、「所有」となります。このシェアリング施設では、金銭の取引がないので、単に「持ち去る」ことになりますが、それでも、「購入」した時のように、「所有(自分のもの)」になります。

一方、購入した際も、シェアリング施設から持ち帰った時も、しばらくした後に、やっぱりいらない、もういらない、と思う(思い直す)ようになることもあります。その理由は、それほど気にいらなくなった、やっぱり不要な等々、様々でしょうが、その時どうするでしょうか。

シェアリング施設から持ち帰ったモノは、その後の処理がきわめて簡単でした。シェアリング施設にもどせばいいだけです。もともと誰かが手放したものであり、自分の責任で買ったものではないこと。またそこにもっていけばほかの誰かにもらってもらえるとおおむね見込まれること。さらに、ほんのわずかなお金すら、自分では払っていないことも、自責の念にかられない、という心理に微妙に効果をもっているのかもしれません。とにかく、良心の咎めや、葛藤はありませんでした。

これは、自分で購入した時とはかなり違うように思われます。新品を破棄したり捨てるのは現にもったいないことですし、自分がお金を出したため、買わなければよかった、という自分への悔いや苛立ちもでてくるように思います。

さらに気づいたのは、シェアリング施設から、持ち帰ったモノに対し、もういらない、使ってみて気が済んだ、とあっさり手放そうとする気持が、意外なほど頻繁にでてくることでした。好きか嫌いか、要るか要らないかが、日によって、ほとんど、その日の天気や気分くらい気まぐれでブレがあって、一定に定まらず、いつ手放してもいいと思えるようになるモノもでてきたということになります。

これはなぜなのか、考えてみました。解釈は色々あると思います。自分で買ったのでないから愛着がわきにくいとか、それとも、自分で購入したのでないので、もういい、手放したいという率直な気持ちが、より簡単に出やすくなった等の理由がすぐに思いつきます。シェアリング施設のような、モノをいつでも持ち込むことができるとう「特権」をもったことで、自分がわがままになったのかもしれません。

いずれにせよ、「欲しい」という自分の思いに、実は、フリが大きく、数週間で全く逆の意見になっているようなこともありました。同時に、そうであっても、シェアリング施設に、また返せばいいだけで、葛藤やわずらわしい気持ちにならないのも新鮮でした。

人の都合でつくられたモノのライフサイクルでなく、モノが最大限に活用されることを優先したモノのライフサイクル

だからなにを言いたいのか、と思われている方もいるかもしれないので、今一度、話を整理しつつ、結論へ急ぎます。

どうしても必要なものでないのかもしれませんが、人はなんらかの刺激をうけ、衝動的に欲しいと思うことがあります。それは、(それをとにかく刺激して購買させようとするのが商業経済であり、それ自体を「悪」の象徴のようにとらえ、そこにすべての責任を転嫁する環境アクティビストもいるかもしれませんが)基本的に、悪いとかいいとか簡単に解釈できるものではなく、人はそういう心理をもっているのだと思います。

ここでは、教条的になったり、モノを売るためのマーケティングの話に向かうのでなく、違う点に注目してみます。ちょっと使ってみて自分の気がすむ、それほどそれを保持することには執着がなかった。そんなモノとの関わり方をしている場合が、わたしだけでなく、今日の(「モノが氾濫している」と言われる)先進国の多くの人たちの間で、意外にかなりあるのだとすれば、どうでしょう。

そういう人たちが、それを半恒久的に「保持」しなくてはいけないのは、物理的にも心理的にも(場所が多くとられて)、経済的にも(だから大きい家や倉庫が必要になると)負担が大きく、苦痛でしょう。だからといって、それらをどんどん捨てれば、資源としてのモノの利用の仕方としては、非効率的きわまりないものです。

では、そうならないようにするには、どうすればいいのでしょう。簡単に言えば、そういう人たちのそういうモノとの、付き合い方を上手にさせるシステムをつくるのがいいといえるでしょう。人の都合でつくられたモノのライフサイクルでなく、モノが最大限に活用されることを優先したモノのライフサイクルに、人がうまく便乗するような形です。所持者の意思や都合でモノが「ゴミ」になるという発想ではなく、発想を180度変化し、モノの適材適所を最大限効率よく確保する、みつけやすくすることを気にするシステムにすれば、破棄されるものの全体量がかなり減っていくのではないでしょうか。

こう考えると、現存のシェアリング施設は、そのような、一時的に持ちたい・利用したいと多くの人がのぞむモノの利用価値を最大限に引き出し、寿命も最長に引き延ばす、ひとつのしかけとして、有効に働いている一つであると思います。

もちろん、シェアリング施設は、万能で唯一なものであるというわけではないでしょう。時代や地域の文脈によっては、シェアリング施設が成り立たないことも十分考えられます。

例えば、スイスには(先述したように)、安価で中古のモノが買えるリサイクルショップの長い伝統があります。スイスでは一般に「ブロッケンハウスBrockenhaus」という名称でよばれるもので、1895年に最初につくられ、以降100年以上、モノのリユースのチャンスを提供する場として、スイス全国で、重宝されてきました。

このような施設は、もともと、1890年代、貧困層の救済の目的で、ドイツで最初に設置されたものでしたが(スイスはそのアイデアを取り入れられ設置されました)、ドイツでは、その後の時代に存続しませんでした。その理由は、ドイツは二つの大戦がその後あり、人々の貧困化がさらに増し、人々はほんのわずかな所持品をもつだけとなり、リサイクルショップへ持ち込めるような余剰がなくなったためとされます(Brockenhäuser, 2020)。つまり、全く余剰がない社会では、リユースやシェアリング施設は成立しない、不要ということになります。

逆に考えると、安価な品物が氾濫しすぎて、モノが飽和している社会でも、シェアリング施設が成立しにくいことが考えられます。そういう社会では、モノのシェアリングの需要が、少ないかもしれないからです。ただし、なにかシェアリング以外にほかの付加価値をつけたり、違うシステムやアクションと組み合わせると、また、違う展開になるかもしれません。これまでみてきたように、シェアリング施設にまつわるモノだけをとりあげても、そこを介してつながっている人や地域の状況は複雑で、相互に依存したり影響を与え、どんどん変化する可能性があります。

また、ほかにもシェアリングのいろいろな形や規模、しくみが考えられるでしょうし、今度、より優れたものができて、シェアリング施設自体が不要になることもあるかもしれません。

例えば、こどもたちの古着類の交換は、すでにどこの地域でも、かなりうまく機能しているモノのシェアリングの好例といえるかもしれません。子供の古着は、知り合いのほかの人にあげやすく、もらいやすいですし、中古の買取もさかんです。こどもたちは成長するので、服のサイズがどんどん代わり、同じものを着続けることはできないという(大人とは異なる)前提条件が、こどもを囲む環境(親や兄弟、近所の人たち、中古服ショップなど)の間で共有・定着しているため、あげる側ももらう側も、ゆずる側も購入する側も、摩擦や抵抗感が少なく、効率よくシェアリングしやすいのだと思います。

おわりに

人は、人生のフェーズによって、必要なもの、欲しいものは大きく異なります。生まれた時から死ぬまで、同じものだけをずっと持ち続けられている人はまずいません。

ということは逆に、「不要なもの」となるモノもまた、人により、またその人の、時点時点で、非常に異なるはずです。そうであるにも関わらず、あの時点である一人の決定で、あるモノが、「ゴミ」と烙印をおされゴミ箱に直行させられるのは、どう考えても、なんとも非合理的で、モノの方からみれば、不条理きわまりないしくみに思えてきます。

一方、そのようなことが理屈としてわかっていても、モノを取り囲む環境が、「購入」や「贈与」による「所持」と、それのゴミとしての「破棄」か選択肢がなければ、モノにとって不条理、非合理な状況は存続しつづけます。つまり、ゴミになってしまうものが増えつづけます。

みなさんの身の回りでは、モノたちは、どんなライフサイクルを過ごしているでしょうか。そこに、シェアリングは、どのようにどのくらい介在する余地があるでしょうか。

参考文献

Brockenhäuser in der Schweiz - Gewimmel, Gerüche, Geschichten. «Die schönsten Brockis der Welt» Aus Kultur-Aktualität vom 24.02.2020, SRF.

MYBLUEPLANET

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
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シェアリングによって変わる地域社会と生活スタイル(1) 〜スイスのシェアリング施設のボランティア体験から

2020-12-15 [EntryURL]

長くなったモノのライフサイクルがつむぐ人と社会と環境の未来

前回の記事(「コロナ禍のヨーロッパのシェアリング・エコノミーとこれから」)に引き続き、今回と次回の記事でも、シェアリングというキーワードから、今年をふりかえってみたいと思います。今回と次回では、特に、シェアリングによって、地域社会や生活のあり方がどんな風に変わるか、また、今後、さらにどんな方向に変化しうるか、という部分に注目して少し掘り下げてみたいと思います。

このようなテーマを今回扱おうと思ったのには、理由があります。これまで、ヨーロッパのシェアリングについて、多様な角度から観察・レポートしてきて、それなりに理解しいてたつもりだったのですが、今秋からシェアリング施設管理に自ら関わるようになって、新しく気づくことがいくつもあったためです。特に、生活スタイルやモノの消費行動の深層心理とシェアリングとの具体的なつながり方が、すこしみえてきた(ように思われた)ことが、とても興味深く感じられました。

シェアリングに関する研究はかなり増えましたが、地域社会において、シェアリングが長期的・幅広く、住民の生活に及ぼしていく状況に関心を置く研究は、まだほとんどないように思います(註1)。しかし、シェアリングが人々の暮らしや地域生活に中・長期的に及ぼす変化や、シェアリングによってモノと人の関係がどう発展していくか、といった領域は、シェアリングの次なるステージを見据える上で、重要なテーマであり、視点でしょう。

このため、今回は、自分がボランティアを通して見えてきたシェアリングと社会や生活との「つながり(方)」に注視し、それを環境面、経済面、健康・レジャー面、生活面という四つの側面に分けて、叙述してみたいと思います。今回は、最初の三つの側面、次回は、生活面についてクローズアップして考えていきます。

今回と次回で扱う内容は、シェアリング施設の社会的機能や生活の可能性を包括的に概観するものではありません。あくまで、一つのシェアリング施設をとりまく状況で、私自身がボランティアや一住民の目の高さで、現時点までに気づいたことを、断片的にまとめたにすぎません。しかし、逆に、シェアリングと社会や生活との関係性のドラスティックに変化する断片を端的に示すことで、これからのシェアリングの発展の可能性を考える際の、具体的で新しいインスピーレションになればさいわいです。

※註1
以下の専門誌上でも、近年、特集を組んでシェアリングについて取り上げ、シェアリングの多様な側面にスポットをあてていますが、テーマや専門家は見当たりません。
『個人金融 特集 シェアリングエコノミー』2020年夏号
『生活協同組合研究 特集 「シェアリングエコノミー」を学ぶ』2019年8月号

※本稿では、「シェアリング・エコノミー」という表記は用いず、「シェアリング」という表記のみを使用します。これは、単に、「シェアリング」や「シェアリング・エコノミー」と一般に呼ばれる一連の動きについて、「エコノミー」より主に「シェアリング」に重きを置いて、論考をしていきたいためだからであり、シェアリングとシェアリング・エコノミーを厳格に定義し、使い分けているからではありません。

ギブ・アンド・テイクの「交換の家」

今回、具体的にみていくのは、スイスのヴィンタートゥーアという中都市(11万5千人)に今秋、開館した「交換の家 Tauschhaus」と呼ばれるシェアリング施設とその周辺の状況です。この施設は、環境ボランティア団体MYBLUEPLANETが運営しているもので、実際の施設の管理は、複数の地域在住のボランティアたちによって行われています。わたしもボランティアに加わり、この秋から、施設の維持・管理にたずさわるようになりました。この団体は、一人の飛行機パイロットによって2006年に立ち上げられるという、環境団体としてはユニークな履歴をもちますが、その後、草の根レベルの多様な環境活動をスイス全国で展開することで急成長し、現在は、スイスを代表する環境団体のひとつとなっています(MYBLUEPLANET)。

施設は、名前こそ、「家」ですが、6㎡ほどの照明つきの小さなコンテナで、内部には、複数の棚が置かれ、食器、衣類、本、雑貨、玩具、文具、CD、靴、電気機器などが、分類して置けるようになっています。ここには、生鮮食品以外で、まだ使えるモノであれば、原則としてだれでも、開館時間中になんでも持ち込むことができ、同時に、陳列されているものは、誰でもいくつでも、無料で持ち去ることができます。開館時間は、祝祭日を除き、月曜から土曜までの週6日の9時から6時(冬季は夕方5時まで)です。ちなみに現在はコロナ対策として、一度に一人のみしか入室することができません。

この施設は、持ち去る人が、そのモノの新しい「所有者」になるという意味を重視すると、モノのシェアリング(共有)施設ではありません。他方、モノの側からみると、施設は、そこに持ち込まれさえすれば、何度でも新たな人に持ち去られるという装置(場所)であり、複数の人に利用されることが可能という意味では、モノの共有(シェアリング)を仲介する場所として機能しています。近年、「シェアリング」と呼ばれるしくみよりも、シェアリングされる周期が長い「シェアリング」とでもいえるかもしれません。

これに類似する機能をもつ施設は、手間が最小限ですむシンプルな形で持続的に存続しやすく、需要も高いため、今日、世界各地にみられます。ある意味で、最も広く普及しているシェアリングの形のひとつといえるかもしれません。


同じヴィンタートゥーア市内にある、本に特化して自由に持ち込み・持ち運びができる施設

環境面 地域全体のゴミの減量化

そこに持ち込まれ陳列されているモノは、非常に雑多ですが、使用感が強いもの(例えば、使い込んだ形跡のあるまな板、鉛筆、タッパーウェア)や、不揃いなもの(例えば、1セット分のティーカップ)、雑多なもの(例えば、おまけについてきた玩具)が、比較的多く置かれています。後述するスイスのリサイクルショップに並んでいる商品よりも、その傾向が強いように思われます。

それでも、これまで3ヶ月間たずさわって観察してきたところ、使用感が強いモノもふくめ、陳列されているモノの大半が、早いサイクルで、持ち去れていることがわかりました。週に2回施設訪れるわたしの印象では、陳列されているモノの約半分が、いくたびに、入れ替わっているという感じです。

このことを、環境面からとらえると、ライフサイクルが長くなるモノが増え、地域全体のゴミの量の相対的な減少に貢献しているといえるでしょう。

経済面

経済面にひきつけて考えると、この施設はどんな機能を担っているのでしょうか。

まず、経済的に困窮する人たちにとって、直結した生活支援につながっている可能性があります。経済的に困窮する人々に日常必需品やこどもの玩具、衣類などを配るボランティア活動もいくつかありますが、この施設は、好きな時間と頻度で、自主的に、各自がさらに補完できる場所となっているといえます。

また、施設で、生活の必需品だけでなく、(直接生活に不可欠とは思われない)雑貨や飾り類も多く持ち去られている事実を配慮すると、日常生活に直結した支援以上の、役割を果しているようにも思われます。

以前、経済的に困窮する世帯にモノを定期的に配るボランティア組織のスタッフに、日常必需品だけでなく、ほかのものの需要も非常に大きい、という話を聞いたことがあります。配布会場の(寄付で集められ陳列された)中古品の雑貨や玩具などのモノは、毎回、すべてきれいに持ち去られ、残るものが一切ないといっていました。

生活必需品以外のモノへの関心は、誰にとっても、多かれ少なかれあるのでしょうが、経済的に余裕がなければ、そういったものに金銭を出費することは容易ではありません。つまり、無料配布や交換の家は、普段の流通ルートでは生活必需品以外の消費をあきらめている人が、それを試せる、ささやかなしかし貴重な場所になっているのではないかと思われます。

もちろん、自分がもっていないそこにある中古品を試してみたい、使ってみたい、という要望は、経済的に困窮する人だけのものではないでしょう。この施設には、絶え間なく人の出入りがあり、その人たちの世代も、訪れる時間帯も様々であることから、ちょっとした好奇心をもって、寄り道がてら、気軽に立ち寄り、持ち去る人たちがかなり多くいるのではないかと想像されます。

ただし、そこにあるモノは、上述のように、通常の流通では取引価値がないに等しい(使用感が強かったり、不揃いだったりする)モノもかなり多く含まれています。これらの要素を総合して考えると、このささやかな6m2の施設は、市場原理で成立する流通網で通常対象となるモノやモチベーションの人を相手にするものとは一線を画し、あるいは、そこからはこぼれ落ちている、別のモノや、ほかのモチベーションの人を対象にしている、取引の場として成立しているように思われます。

平たく言えば、お金が介在せず、気軽に交換できるこのような場所さえあれば、お金が介在する取引の対象にはならなかったようなものの一部、また、取引・交換される可能性がでてくる、ということであるように思われます。

健康・レジャー面

コロナ禍で、現在、世界中、ステイホームが推奨されており、とくに、北半球では、日が短くて寒い冬季であることもあり、屋外にでる時間は相対的に減っています。

もちろん、コロナ感染対策は重要ですが、だからといって自宅にこもりがちな生活が長期化すれば、体力がどんどん落ち、精神的にも気分転換がはかりにくく、気持ちがダウンしてしまう人が多くなるのではと危惧されます。ウィズ・コロナの生活を中・長期的な視点で健康的に続けるためには、適度な運動や、屋外への外出を定期的に行うことが理想です。

そう考えると、「コロナ感染の恐れが少ない安全な外出、屋外での適度な運動」が、家にとじこもるという選択肢以外を求める人にとっての、有望な解決策でしょう。では、「コロナ感染の恐れが少ない安全な外出、屋外での適度な運動」のためには、なにが必要でしょう。まず、「密」を避ける移動空間や移動手段が不可欠でしょう(このことについては、以下の記事で包括的に議論しています「ヨーロッパ都市のモビリティの近未来(1) 〜コロナ危機以降のヨーロッパの交通手段の地殻変動」、「ヨーロッパ都市のモビリティの近未来(2) 〜自転車、モビリティ・プライシング、全国年間定期制度」)。

ただし、それだけでは十分ではありません。移動した先にあるもの、どこか、いける「場所」、行きたい場所もまた不可欠です。

例えば、コロナ禍でも、一般的に考えれば、地域の公園や川沿いのプロムナードなどは、「安全にでかけられる場所」の有力候補となります。しかし、皮肉なことに、その数が住民の人数に対して十分でなければ、逆に混んで「密」になる危険があるとして、ヨーロッパのロックダウン下では、唯一屋外で、羽をのばせて憩いの場の候補となれるはずの、これらの場所が、むしろ立ち入り禁止となっているケースが多くみられました。これらのコロナ禍でも「貴重な」でかけられる場所が、混み合わずに最大限利用されるようにするためにも、ほかにも同時に、安全にでかけられるスポットを、地域全体に数カ所、散在して配置されていることが理想です。

このような観点を総合すると、「交換の家」は、コロナ禍の安全で外出・運動を促進する「お出かけスポット」として、かなりの有望株かもしれません。ヴィンタートゥーアの「交換の家」は市の中心部に位置し、入室は一人のみであり、消毒液も入り口に備え付けられており、天気が良好で暖かい日はドアをあけたままにしておくなど、感染対策を徹底しています。モノはボランティアが定期的にチェックすることで清潔・整然に陳列されており、夜間は施錠され、施設が荒らされることなどないよう監視カメラも設置されています。このため、誰もが安心して気軽に立ち寄りやすい場所という条件を、まず、満たしています。

また、大きな敷地が必要なく、騒音の問題もなく、住宅地などでも点在して配置できます。先日、施設を訪れた初老の男性に、なにかいいものがみつかりましたか、と尋ねると、「今日はなにもなかったですが、問題ないです。また明日来ますから」という答えが返ってきました。この男性は、毎日、立ち寄ることが日課になっているようで、日々の運動や気分転換の一部に、交換の家が、すでになっているようでした。

もちろん、安全でちょっとした「おでかけスポット」は、シェアリング施設には限らないでしょう。シェアリングに全く興味のない人ももちろんいますし、ほかの目的をもった多様な「おでかけスポット」が地域に必要です。いずれによせ、地域にちょっとした「おでかけスポット」が増えてくれば、コロナ禍でも、ステイホーム以外の選択肢が広がり、住民の健康および生活の質を向上させるのに、貢献できることは間違いないでしょう。

次回につづく

次回(「シェアリングによって変わる地域社会と生活スタイル(2) 〜スイスのシェアリング施設のボランティア体験から」)は、シェアリング施設の存在によって、自宅での生活の自体も変化していく可能性について、掘り下げて考えてみます。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


コロナ禍のヨーロッパのシェアリング・エコノミーとこれから

2020-12-10 [EntryURL]

今年をふりかえって

2020年も終わりに近づいてきましたが、シェアリング・エコノミーにとって、今年はどんな1年だったでしょうか。

まず、コロナ危機下、民泊と配車仲介サービス業界は全般に、利用者の激減というこれまでなかった事態に見舞われました。昨年まで、めざましい成長速度で世界的に普及し、シェアリング・エコノミーの代表格とされてきた、民泊と配車仲介サービスが、大きく後退しました。

これは、シェアリング・エコノミーの今年の状況全般を象徴しているのでしょうか。結論を先に言うと、そうとも限りません。シェアリング・エコノミーは、市場規模が小さいのに多種多様な形態があり、全般の状況を把握するのは容易ではありませんが、少なくとも、コロナ危機下も大きな打撃を受けずに、社会で堅調に存続しているシェアリング・エコノミーもありました。

今回から3回にわたり、コロナ禍にも存続あるいは成長をしたシェアリング・エコノミーの事例をとりあげながら、ヨーロッパのシェアリング・エコノミーの今年をふりかえり、来年以降のゆくえについても、考えをめぐらしてみたいと思います。

まず今回は、CtoCサービスとしてプロフェッショナルに事業化されたシェアリング・エコノミーだけではなく、環境問題や地域の事情を考慮した新しいシェアリングモデルが、市場や事業規模で推し量れない重要な機能を社会で果たしながら発展してきている様子について、3つの事例をとりあげながら、叙述していきます。

次回(「シェアリングによって変わる地域社会と生活スタイル(1)」)と、最終回(「シェアリングによって変わる地域社会と生活スタイル(2)」)では、わたしがこの秋から管理にボランティアとして関わるようになったシェアリング施設を例に、そこで気づいた点、特に地域社会や生活との関係についてより具体的にみていきます。これらの記事をとおして、シェアリングによってもたらされる地域や生活への変化と今後の発展の可能性について、俯瞰できたらと思います。

※今回の記事は、以下の記事のシェアリングに関連する部分を、下敷きにしています。

単身の高齢者が住み続けられる住宅とは? 〜スイスの多世代住宅と高齢者と若者の住宅シェアの試み

「ゴミを減らす」をビジネスにするヨーロッパの最新事情(1) 〜食品業界の新たな常識と、そこから生まれるセカンドハンド食品の流通網

買い物難民を救え! 〜コロナ危機で返り咲いた「ソーシャル・ショッピング」プロジェクト

※本稿は、ヨーロッパでのシェアリング・エコノミーが岐路にあることを、配車サービス仲介業者や、短期ルームシェアリングをあげて示した、昨年の以下の記事の続編とも位置付けられます。

ヨーロッパのシェアリング・エコノミーの現状と未来の可能性  〜モビリティと地域生活に普及するシェアリング 

多世代ルームシェアリング

まずとりあげたいのは、民泊や、学生のルームシェアリングとは別種の、新しいルームシェアリングの形です。高齢者と若い学生という、これまでなかった組み合わせのルームシェアリングです。

1992年ドイツのダルムシュタットではじまって以降、静かにドイツの各地に浸透していき、2019年時点で、ドイツの33都市でこのような仲介サービスが展開しています。もっともさかんなフライブルク市では、2002年から昨年までに、すでにルームシェアを1000件成立しています。現在は、このような多世代ルームシェアリング仲介サービスは、ドイツ国内だけでなく、イギリスやスペイン、スイスなどヨーロッパ各地にもひろがっています。

このような異色のルームシェアリングが各地で導入された背景には、ヨーロッパが抱える同じような事情がありました。

まず、老後、できるだけ自宅での生活を続けたいと思う人が多く、結果として、高齢者の一人暮らしが増えています。この結果、高齢者の住む住宅の大きさも、年々広くなる傾向にあり、例えばスイスでは、75歳以上の人の一人当たりの平均住宅床面積は、ここ30年間で70㎡から90㎡に拡大しています(「縮小する住宅 〜スイスの最新住宅事情とその背景」)。

しかし、そのなかで自分の住居が広すぎると思っている単身の高齢者の数は少なくなく、単身で自宅に住み続けることを希望しつつも、不安や孤独を感じる高齢者も多くいます(孤独な人の増加という今日ある深刻な世界的な問題については、「会話が生まれる魔法のベンチ 〜イギリスの刑事が考案した「おしゃべりベンチ」」)。

他方、大学に近い場所に移住を希望していても、安価で適切な住居をみつけるのが難しく苦労している大学生もまた、大勢います。

この二者のお互いに必要なものと提供できるものをうまく組み合わせることができないかという発想から、生まれたのがこのルームシェアリングです。

このルームシェアリングは同居者の組み合わせも独特ですが、同居のルールも実にユニークです。学生は高齢者の住宅の1部屋を借りて一緒に住むが家賃は払わなくてもよく、そのかわり、学生は、毎月、借りている部屋1㎡あたりにつき1時間分の時間を、高齢者の要望することに費やさなくてはならない、という決まりです。高齢者には、掃除や買い物などの家事を要望する人ももちろんいるが、いっしょに散歩をしたり話し相手を要望する人がかなり多いといいます。

高齢者の単身居住にまつわる問題が解消され、同時に、住居がなかなかみつからないあるいは経済的に余裕が少ない学生に無料で住める場所を確保ができるという、この高齢者と学生双方にとってのウィン・ウィンのルームシェアリングは、今後も、需要は減らず、社会に根づいていくものと思われます。

余剰食品の仲介サービス

店頭で売れ残った食べ物の余剰を、分け合う・シェアすることで、廃棄する食品を減らそうという、新しい仲介サービスも生まれてきました。

先進国では日々、大量の食品がゴミになっている。スイスでは全食品の3分の1が廃棄処分されているとされ、ヨーロッパ全体で捨てられている食料総額は、年間1000億ユーロにも相当します。このような状況を緩和しようと、店頭でその日に余った食品(余剰食材や売れ残り食品)を、必要な人が買い請けられるよう仲介するサービス「Too good to go」が、2016年にデンマークのコペンハーゲンで誕生しました(以下、頭文字をとってTGTGと表記する)。

サービス開始からまもなく、TGTGはほかのヨーロッパ諸国でも急速に広がり、現在、ヨーロッパ14カ国とアメリカでサービスを展開されています。今年、コロナ危機で外食産業が大きなダメージを受けたにも関わらず、利用者やパートナー数を順調にのばし、パートナーとなっている店舗は約64500店、ユーザーは2900万人で、この仲介で廃棄処分を免れた食事は、5300万食にのぼります(11月下旬現在)。スイスでも大手スーパーはすべての支店で、このサービスを行っています。

このサービスのながれは以下のようなものです。
・余剰を販売したい飲食店や小売業者は、ピックアップ先の住所、提供したい時間帯、余剰のおおよその食品の種類と分量(なにが余るか詳細はもちろんわからないので、「ベリタリアンフード」「パン類」「加工していない食料品」などおおまかな分類しかない)、値段を登録する(価格は、定価の約3分の1が目安)。

・余剰をシェアしたい人は、ダウンロードしたアプリで、好きなオファーをあらかじめ予約し、余剰が提供される指定の時間と場所にそれを取りに行く。

ちなみに事業者にとっては、TGTGに支払う仲介手数料はわずかですが、分配するのに手間ひまがかかるし、安価で提供するため、これ自体は大きな収益にはならいといいます。それでも、TGTGのパートナーになる店舗がヨーロッパ中で急増しているのは、近年、食料廃棄への関心が消費者の間でも高くなっているためでしょう。食品を扱う企業にとって、食品廃棄を減らすための努力は、社会的責任であり、顧客へのプラスのイメージのアピールにもなっていると考えられます。

これまでも、貧困層に提供するといった形で、余剰食品を有効利用する試みはありました。もちろん、それには違う社会的に大きな意義がありますが、TGTGのような、店舗と消費者の間で余剰を分配するマッチングサービスは、店舗が、日々異なった量と種類で発生する余剰を柔軟に処理していくためには、きわめて有効なしくみといえます。

ちなみにTGTGは、事業のパートナーである飲食店がロックダウン下で経済的に大きた打撃を受けていることを配慮し、春のロックダウン期には、期間限定で、テイクアウェイのサービスを無料でTGTG冒頭の画面で提示するサービスも、通常の業務に並行し行なっていました。

買い物難民救済ボランティア仲介サービス

コロナ危機下、買い物難民となった人々とスイスのボランティア(人の善意という無形のスキルの貸出)をマッチングさせる新たなサービスもでてきました。

非常事態下のスイスでは、65歳以上の人や、基礎疾患などがあるいわゆる「感染リスクが高い人たち」は、できるだけ外出しないよう推奨されていましたが、この人たちの日常的な買い物が問題となりました。大手スーパーのオンラインショップはすぐに申し込みが殺到し、数週間、実質上、注文ができない状態が続いており、近隣に助ける人がみつからない人たちは、買い物難民となってしまいました。

全国に発生したこのような買い物難民を支援するしくみとして、ロックダウンからわずか1週間後の3月24日、スイスの最大大手小売業者である生協のひとつ「ミグロMigros」は、買い物ボランティア仲介サービスをはじめました。

「アミーゴスAmigos」とよばれるそのサービスは以下のような流れです。
・まず注文希望者が、ウェッブか電話で、配達希望日時と、アミーゴスの6000余りの食品類から欲しいものを選択する。
・すると、あらかじめアプリ登録していた該当エリアのボランティア全員に依頼が届く。
・ボランティアで依頼を受託した人は、アプリの注文リストと指示に従い、店舗で商品を購入・決済し、そのまま示された道順にそって注文者の家まで商品を届ける。

ミグロの店舗は全国いたるところにあり、電子決済で現金の授受は発生しないため、誤解や不正、あるいは近距離でのコンタクトが生じにくく、注文する側にとっても、ボランティア側にとっても使いやすく、すぐに大きな反響がありました。全国展開をはじめて二週間余りした4月16日までに、買い物のボランティア登録者人は21850人おり、20843件の注文・購入が成立しています。注文は、平均して、注文完了後たった6秒で、買い物ボランティアをみつけており、利用者(注文)のつけた評価値の平均も4.97(5.0が最高)と非常に高くなっています。スイス最大の高齢者関連全国組織(財団)プロ・ゼネクトゥーテPro Senectuteもアミーゴスの利用を推奨し、実際にアミーゴスで注文した人の81%は、66歳以上でした。

このようにコロナ危機下で大きな貢献を果たしたアミーゴスだが、はじめから順調であったわけではありませんでした。実は、昨年、テスト期間と称して、同じ名前のサービスが一部の都市で開始されていたのだが(ロックダウン直後にサービスが開始することができたのは、基本システムがすでに昨年にできあがっていたためであった)、12月でサービス停止に追い込まれていました。

停止に追い込まれたのは、社会から強い批判があったためです。配達料が安すぎ(配送業界全体のダンピングにつながる)という批判もあったが、配達サービスの人の扱いについて、とりわけ手厳しい批判がでました。スイスでは、近年、配車サービスや配達仲介業者の運転手を被雇用者とする見方が法律専門家の間で一致しており、同じ観点からアミーゴスの配送サービスについても「小売業のウーバー」とする厳しい批判がなされたのでした。

これに対しミグロは、配達の報酬は、お隣どうしの助け合いの代償にすぎず、プロセッショナルな配送サービスではない。また、仲介手数料もミグロは一切とっておらず、配達料はすべて配達した人にいく、と説明し、ミグロと配達人の関係は就労関係ではないと、当初、主張していましたが、非難を免れるのはやはり難しいと判断したようで、12月はじめにテスト期間の終了と同時に、プロジェクトが打ち切られる運びとなりました。

しかし打ち切りからわずか3ヶ月後におとずれたコロナ危機で、買い物難民が社会問題となると、上記のように、アミーゴスが再び注目されるようになったというわけです。ただし、再び始動したアミーゴスは、「ビジネス」よりずっと「ソーシャル」に近いコンセプトとなっており、昨年の試験期間と、以下のような点で異なっています。

・買い物代行はボランティア行為で、注文者は謝礼として5スイスフラン払うことはできるが、あくまで任意であり、基本的に代価を支払われない(昨年のアミーゴスは、配達する人に一定の額が支払われていた)

・注文ができるのは、感染のリスクが高い人のみ(昨年のアミーゴスでは誰でも注文することができた)

・コロナ危機という非常時のみのサービス

コロナ禍がつづく現在も、このサービスへの需要は高く、サービスは継続しています。

おわりに

シェアリング・エコノミーの代表的なモデルであり、事業規模としても圧倒的に大きい民泊と配車仲介サービス事業者は、2010年代半ば以降、進出したヨーロッパ各地で、軋轢をうむようになりました。その理由を一言で言えば、仲介サービス事業者や利用者の利便性とは別に、就労者の就労環境や地域生活への影響に重きが置かれる傾向が社会に強まってきたため、といえます。これらの事業者にとっては、当初のビジネスモデのままでは難しく再考を迫られていたといえますが、そんな延長線上で、今年は、さらにコロナ禍となり、さらに苦境にたたされることになりました。

これに対し、今回、とりあげた三つのシェアリングモデルのたどってきた軌跡は対照的です。ヨーロッパの地域的文脈や需要・関心を受けながら、問題解決のオータナティブの手段として誕生して以降、コロナ危機下も大きな影響を受けず、堅調な活動が続きました。

多世代のルームシェアリングとTGTGは、シェアリングの対象範囲を拡大し、狭義の「エコノミー(経済性)」にこだわらず、他分野にまたがり、ソーシャル(社会的)、あるいは環境負荷削減というミッションとつながることで、地域に安定的に定着し、需要を拡大させています。

アミーゴスは、昨年は、社会でつまはじきにされ凍結せざるをえなかったにも関わらず、ビジネスモデルを社会の期待や需要に合わせて変更されたことで、社会で賞賛される画期的なソーシャル・プロジェクトとして社会にカンバックを果たしました。

ところで、シェアリング・エコノミーというコンセプトがヨーロッパで次第に知られるようになったころ、シェアリング・エコノミーについて、これまでなかった便利なサービスとしてだけでなく、地域のコミュニティの活性化や環境・温暖化対策としても貢献するのではないかという期待感が強くあり、好意的に受け止める人が多くみられました。1000人以上のドイツ人を対象にした2012年の調査報告書によると、シェアリング・エコノミーの利用者の圧倒的多数が、持続可能性や環境負荷を配慮すると回答しています。調査を行なったリューネブルク大学教授ハインリヒスらも、シェアリング・エコノミーがもたらす新しい「協力的な消費」は一過性のものではなく、従来の個人の占有を前提とする経済市場を補充するものとして発達し、一つの流れとして定着するのではないかと推測していました(「シェアリング・エコノミーを支持する人とその社会的背景 〜ドイツの調査結果からみえるもの」)。

シェアリング・エコノミーがヨーロッパではじまり約10年がたち、上記のような当初の期待や推測に沿うものが、紆余曲折を経ながら、すこしずつ定着してきたといえるのかもしれません。

これからも多様な時代や社会の局面に合わせ、社会福祉や環境など複数領域を縦断する目標を実現するためのツールとして、シェアリング・エコノミーの可能性が広がっていくことに、期待したいと思います。

次回とその次の最終回では、今年の秋からスタートしたシェアリング施設を、一人称で観察・体験した経験をもとに、シェアリングが与える社会や人々への生活への影響や新たな発展性について、さらに考えていきます。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


3Dのボディースキャニングは服飾品オンラインショップの革命? 〜ヨーロッパのネット通販王手Zalandoが切り札として注目する技術

2020-12-05 [EntryURL]

オンラインで服を買ったら、サイズがあわなかった。こんな経験を、洋服や靴など服飾品を注文した際に、経験した人はかなりいるのではないでしょうか。最近は、返品を容易にできるよういろいろな工夫をしている業者も増えていますが、それでも、サイズが合わない不安や、そうなった時に返品することの面倒さや後ろめたさを思うと、服飾品のオンラインの購買は敷居が高いという人も少なくないのではないでしょうか。

服飾品のオンラインショッピングは、このような「不自由さ」がつきまとうのが宿命で、オンラインショッピングの限界だ、とわたしもこれまで思い込んでいましたが、今年10月半ば、このような自分のなかにあった「常識」が覆され、視界が一転して開かれるようなニュースをききました。

ヨーロッパの服飾オンラインショッピングの最大大手のひとつ、ザランドZalando (ドイツ語では「ツァランド」ですが、今回は英語の発音に基づいて表記します)が、3Dのボディースキャニングの高い技術をほこるスイスのスタートアップの会社フィジョンFision を買収し、今後、この技術を取り入れ、適切なサイズ選びに画期的な、新たなサービスを、18から24月後に、展開する意向だというものです。

世界を見渡すと、立体的なボディスキャニング(3D Bodyscanning)の技術は、昨今、各地で競って開発されてきており、ザランドだけの関心ごとではもちろんありません。日本でも、3Dのボディスキャニングというアプローチとは少し違いますが、ZOZOスーツや、バーチャル試着ソフト「バーチャサイズ」が、話題になったり、すでに一部のオンラインショッピングで実用化されてきました。

このように世界中で凌ぎを削ってすすめられている、最先端の立体的なボディスキャニングの技術の可能性について、今回は、ヨーロッパの服飾オンラインショッピング業界をリードするザランドの最新ニュースをもとに、考えてみたいと思います。

ザランドZalandoについて

まず、日本ではあまりなじみがないかと思いますので、ザランドについて簡単にご紹介します。ザランドは、2008年秋、金融危機が起こる数日前のドイツ、ベルリンで設立されました。

インターネットで靴や装飾品を含む、服飾品をネット販売する会社ですが、当初、顧客の手元に到着してから100日間、費用無料で返品できることを、かかげていたことから、急速に顧客を増やし、急ピッチで、ヨーロッパ各地に進出していきました。13年たった現在においては、扱うブランドは2500以上、顧客数は3400万人、ヨーロッパの17カ国で事業展開するという、おしもおされぬ、ヨーロッパ最大級の服飾関係品のオンラインショップ事業者となっています。


ザランドの事業が展開されている国。2018年チェコとアイルランドでも取引が開始され、現在17カ国にサービスが展開している
出典: https://corporate.zalando.com/de/unternehmen/unsere-geschichte-von-der-wg-zur-se


現在は、100日でなく30日に短期化されましたが、返品は無料で行えます。支払いは後払いで、しかもヨーロッパそれぞれの国の勝手を考慮し、支払いは20通り以上の方法があり、顧客サービスは、13カ国語で行なっています。

従業員は、全部で約14000人いますが(出身国は130カ国以上)、IT専門家が多いことがひとつの特徴です。ザランドで働いたIT専門家は、これまでで2000人以上にのぼり、人材は、世界中から集められているといいます。

今年のコロナ危機は、売れ行きに大きな影響を与えました。3月ヨーロッパ中が相次いでロックダウンになると、ザランドの需要は全般に、いったん後退しました。しかし、ロックダウン状態が数週間続くうちに、次第に、お店に行けない代わりにインターネットで購入しようとする人が増えたことで、状況が好転していき、好調な状態がその後も続いています。ロックダウンを機に、店頭からオンラインに購買スタイルを変更した顧客の少なくない部分が、引き続き、オンラインで購入しているからとみられます。

10月上旬の発表によると、第三四半期(7月−9月)のGMV(Gross Merchandise Value、流通総取扱額)は、前年の同じ時期に比べ28−31%増、売り上げは20−23%増、EBIT(Earnings Before Interest and Taxes、イービット、利払い及び税金引前利益)は、1億から1億3000万ユーロに達しました。

これを受けて、ザランドは、今年のGMVの増加率も、25−27%に上方修正し(7月半ばの発表では、20-25%と予想していたのに対し)、年間売り上げも20−22%増加に変更しました(7月半ばの予想では、15―20%増)。EBITは、3億7500万ユーロから4億2500万ユーロの間になると見込まれています(7月は2億5000ユーロから2億ユーロ)。

現在の状況と課題

上述のように、ザランドでは、当初の100日を30日に短期化はしたものの、無料で返品できる体制をしいています。返品は、届けられた返信用のシートを宛先に貼り付けて、ザランドが提携している指定の受付先(例えば郵便局)にもっていくだけですみ、手続きとしても非常に簡単です。

これが、ザランドが、これほど急速に急成長できた重要な理由のひとつ、強みであるわけですが、これは同時に、ザランドにとっても、また環境にとっても、大きな弊害をもたらしています。ザランドによると、返品される商品は、実に全体の約半分にものぼるといわれ、返品のコストや手間ヒマ、また環境負荷は大きく、ショッピングスタイルとして、非効率さが目立ちます。

このため、返品を受け取る一貫した体制を維持しつつも、同時に、返品率を減らすための取り組みもつづけてきました。改善の余地が大きい、重要な課題が、間違ったサイズの注文を減らすことです。現在、服や靴のサイズの定義は、製造メーカーによってかなり異なり、統一されていません。これでは、どのメーカーのどのサイズがぴったり合うのか、オンラインショッピングの顧客にはよくわかりません。

このため、これまで、ザランドは、過去の販売データや、顧客のフィードバック、メーカーからの情報などを総合して、顧客に適切なサイズをすすめるサービスをスタートさせました。現在扱っている商品のほぼ半分は、このようなサービスの利用が可能となっています。このサービスの効果は着実にではじめているようで、返品率は減る傾向にあるといいます。

しかし、依然、半分の商品が返品されているのが実情であるため、これだけでは無理で、さらなる工夫やサービスが必要であることは明らかです。この、今、ザランドにとって不足し、強く所望されているものを、もっているのがスイスの会社フィジョンでした。

スタートアップ企業、フィジョンFisionについて

フィジョンは、2015年チューリヒ工科大学のエンジニアたちによってチューリヒ設立されました。

フィジョンを立ち上げ、現在CEOをつとめているメツラー Ferdinand Metzlerの、起業のきっかけは香港での体験にありました。学生時代に、半年間交換留学生として香港に滞在した際に、アパレル業界の問題を目の当たりにする機会をえたのだと言います。高い返品率、統一規格がないサイズの表示方法、消費者の経験や知識の不足がそれです。

このため、香港からスイスにもどってきてまもなくして、エンジニアで小さいチームをつくり、これらの問題点を解決すべく開発をはじめました。そして、人工知能、コンピューター・ビジョン、機械学習、と3Dジオメトリ処理(3次元的に配置された座標を、2次元平面上の座標に変換する処理)の技術を駆使することで、3Dのボディースキャニングおよび、(そのデータをもとにした)アバターが服をバーチャルに試着する姿を表す立体画像処理において、画期的な技術を完成させました。

このボディスキャンの技術をもとに会社を立ち上げると、まもなく、世界各地のメディアでも大きく注目されるようになり、ヒューゴ・ボスのようなファッションブランドのアパレルメーカーから、スイス国鉄や郵便事業者まで、様々な企業と提携、協力関係をもつようになります。現在は、約30人が働く会社に成長しています。

この会社には、設立当初から、大きな目標が二つありました。二つオンラインショッピングをより快適にすることと、無駄な輸送や破棄されるものを減らすことです。フィジョンが目指す目標は、ザランドが求めるものと合致していたため、今回、合併されることが合意されました。ザランドとフィジョン両者にとって「ウィン・ウィン」であると、関係者たちはいいます。

3Dのボディースキャニングアプリ「Meepl(メープル)」とバーチャル試着

フィジョンの開発した3Dのボディースキャニング技術は、現在、アプリケーションとして、無料でダウンロードできます。

具体的な方法は、Meeplのホームページを直接ご覧いただく、あるいはアプリをダウンロードして自分で試してみると一番わかりやすいと思いますが、以下、簡単に説明してみます。

まず、男性か女性かを選択し、身長を入力します(計測において、自分で入力が必要なのはこの二項目のみです)。

その後、スマホを、全身が映るような位置に置き、その前に立ちます(体にぴったりして、背景なるべく異なる服をきるのが、正確な計測をするためのこつです)。スマホの前で、全部で2枚の写真をとります。最初の写真は、両足、両手の高さを指定のポジションに置いた、正面を向いてとるもの。もう一つは、横向きの立ち姿勢からとります。いずれも、音声の指示に従ってすすめられます。

測定はこれでおしまいです。約30秒の処理時間をおえると、測定結果がでます。測定されるのは、胸囲、ウェスト、腰まわり、腕の長さ、足全体の長さと、大腿部(ひざからももの付け根までの部分)です。


Meeplのボディースキャニングの測定実施例



(ここから先は、わたし自身は試していませんが、会社の説明によると)この自分の体の測定データをもとにして作られたアバターが、バーチャルな試着室で、服を試着する技術もすでに、実用化されているといいます。現在、バーチャルな試着が可能なのは、フィジョンと提携するオンラインショップの服です。その服のデータをQRコードで読み込み、自分の測定データと合わせることで、自分と同じ体型のアバターがその服を着るとどうみえるかを、第三者的に画面でみることができます。

広がるバーチャル試着市場

これだけきくと、非常に画期的な技術です。オンラインショップであっても、自分が試着する体験に一歩大きく近づくことになり、オンラインショップの歴史に新たな1ページが開かれるような思いがします。

逆にいうと、このような技術が実現可能になる時、それを使うサービスを提供している会社と、していない会社では、顧客満足度に大きな差がでるということかもしれません。

先日発表されたValuates Reportsによると、バーチャル試着の世界的な市場規模は、2019年は300万ドルでしたが、2025年には650万ドルに拡大するといいます(Valuates Reports, Virtual)。これまでも、オンラインショッピングで体のサイズに合うものをみつけることは、業界で大きな課題とされ、今回紹介したようなデジタル技術の開発にとり組まれたきましたが、コロナ危機が、このような流れを、さらに加速させる効果があったとみれます。

おわりに 〜バーチャル試着の開発で最後に必要なのは、住みやすい環境?

ところで、ザランドは、今回合併が決まったフィジョンが拠点を置くスイスのチューリヒに、新たに150人を雇用したいとしています。ザランドは、すでにスイスに三つの拠点がありますが、なぜさらにスイスの雇用強化を目指すのでしょう。本拠地のあるドイツ、ベルリンではないのでしょう。

スイスは確かにザランドにとって、急成長中の(2019年のスイスでの売り上げは、前年比で17%増加)、ドイツに次ぐ大きな市場です。しかし、市場としてスイスに関心が強いだけでなく、チューリヒを拠点として関心をもつのは、ザランドの担当者自身も認めているように、もっと違う理由からのようです。その理由とは、優秀な人材の獲得です。ザランドにとって、優秀なIT専門家をいかに獲得するかが、今後事業の展開のスピードや質を決定的に左右する大きな要因とみているようです。

特に、お目当ては、フィジョンの会社スタッフの母校であるチューリヒ工科大学の人材です。ただし、工学系の優秀な人材を輩出するので有名なこの大学の卒業生に、強い関心をもっているのは、ザランドだけではありません。すでに、グーグルやディズニースタジオも、同じ理由でチューリヒに、アメリカ国外では最大の拠点を置いています(「スイスのイノベーション環境 〜グローバル・イノベーション・インデックス (GII)一位の国の実像」)。グーグル社は、すでに2004年にからチューリッヒに拠点をおいており、2017年の計画では、世界から優秀な学生が集まってくるチューリッヒ工科大学からの卒業生を中心に毎年200人規模で新しい人材を入れ、2021年までに5000人にスタッフを増員する計画でした。

また、近年、キャリアを最優先にするのでなく、パートナーの仕事や子供の教育などの家族への配慮も重視し、ヨーロッパでは、国外の長期滞在をのぞまない人材も増えているとされ、特に優秀な技術者や研究者など、高いポジションにある人ほど、その傾向が強いとされます(「「スイス・メイド」や「メイド・イン・ジャーマニー」の復活 〜ヨーロッパの街角に現れるハイテク工場」)。この現象を逆に解釈すると、国外に拠点を移さずヨーロッパにとどめると、豊富な人材を確保しやすいということになり、その点でもチューリヒは、有利と考えられます。最大の都市チューリヒは、健康的な生活環境に恵まれ(大気汚染や渋滞など環境問題が少ないだけでなく、アメニティが高まる自然環境などが身近にあることや、すごしやすい気候、自然災害が少ないことなども含まれます)、排外主義の勢力や社会や宗教の対立などの問題が比較的少なく、治安も上々です(「スイスの国民投票 〜排外主義的体質の表れであり、それを克服するための道筋にもなるもの(2)」)。このため、誰にも比較的住みやすく、人材が揃い場所といえるでしょう。

今年はコロナ危機で、ハイテク企業ではとくにホームオフィスを奨励しているため、今後の長期的展望において不明な点もあります。また、優秀な人材や物理的に良好な居住関係もまた、人工知能や、バーチャルな環境で代替され、必要となる時が、もしかしたらいつか、来るのかもしれません。しかし、少なくとも、現在のザランドにとっては、優秀な人材を確保できかつ物理的に良好な居住環境のある地域を拠点にすることに迷いはなく、競合の先をゆく技術を手にする近道と考えているようにみえます。

企業が、バーチャル技術を組み入れ、進化していこうとするほど、それを可能にする専門的な人的資源が必要であり、そのために、その人材が長く就労してくれるためには、物理的に良好な居住環境が必要。このように考えていくと、今、求められているものは、最先端の技術だけでなく、むしろそういったものとは無縁で、リアルで有限な物理的な場所とつながったもの、といえるかもしれません。

今後数年で、世界的に大きく進展しそうな、バーチャル試着技術とその市場の動き。ヨーロッパの様子をさらに観察していきたいと思います。

参考文献

Dimitropoulos, Stav, Why are clothing sizes so erratic and can they be fixed?. BBC, 24.8.2020.

Meepl

Meyer, Maren, Zalando setzt auf perfekte Passform - und schafft über 100 Stellen. In: Tages-Anzeiger, 17.10.2020, S.13.

SDA, Zürcher Softwarefirma Fision von Zalando übernommen, 3D-Body-Scan-Spezialisten, Computer World, 16.10.2020, 16:23 Uhr.

Valuates Reports, Virtual Fitting Room Market Size is Projected to Reach USD 6,565.47 Million by 2025, Cision. PR Newswire, 13.10.2020.

Virtusize バーチャサイズ

Was das Beispiel Zalando lehrt. In: NZZ, 10.10.2020, S.31.

Zalando, Zalando investiert mit Übernahme von Schweizer 3D-Body-Scan Spezialist Fision weiter in Kundenerlebnis, News and Stories, 16.10.2020.

Zalando möchte am Standort Zürich 150 Arbeitsplätze schaffen, Das Wirtschaftsportal von Handeloszeitung und Bilanz, 16.10.2020.

Zalando, Zalando SE hebt nach starkem 3. Quartal Prognose für Geschäftsjahr 2020 weiter an, News and Stories, 08.10.2020

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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