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ペイオニア・ジャパン株式会社 代表取締役 ナタリー志織フレミング 氏

2016-07-05 [EntryURL]

natalie.pngのサムネール画像ナタリー志織フレミング

ペイオニア・ジャパン株式会社 代表取締役
FinTech協会 理事

バンクーバー、カナダ生まれ。University of British Columbia 卒業し、東京に移りシティバンクやソシエテジェネラル証券勤務後に、 INSEADでMBAを取得。
その後、 ファッション ECサイトのLocondo.jpの立ち上げに携わり、 楽天銀行で国際業務室長兼新規商品企画を担当。2014年に(株)フィノベーションという海外のFintechベンチャーの日本立上げ支援コンサル事業を起業。

2015年に日本事業の責任者としてペイオニア・ジャパン株式会社代表取締役に就任。



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カルチュラル・セキュリティ 〜グローバル時代のソフトな安全保障

2016-06-30 [EntryURL]

ヨーロッパは先月からフランスで開催されているサッカー欧州選手権で盛り上がっていますが、観戦のためパリを訪れた外国人たちへのラジオインタビューでは、お祭り気分を堪能しながらも、混んでる地下鉄を避けるとか、繁華街になるべく行かないようにするつもりだ、といったテロへの警戒感や緊張感を感じさせるコメントが目立ちました。近年、ヨーロッパやトルコでの痛ましいテロ事件が相次いており、テロへの緊張感がヨーロッパ全体に潜在しているように感じられます。
世界的に広がるパブリック・ディプロマシー
しかし見えない脅威や不安を取り除くために、従来の軍事力はあまり効果がありません。直接的な威嚇や強制は、逆に強い反発を買うことにもなります。そんな中で冷戦以降、希望の光と注目されてきたのが、パブリック・ディプロマシーです。これは、政府レベルの外交とは異なり、一般市民どうしの交流や民間組織の文化交流など幅の広い交流を通じた、外国の国民や世論に働きかける外交活動のことで、世界各地での反米主義の強まりへの対策として、アメリカがはじめてから、急速に世界的に広まった文化戦略です。
今日、パブリック・ディプロマシーに取り組むのは、欧米諸国などの先進国だけではありません。国家のPRとして取り組む新興国も多く、中国はその好例です。世界94カ国に中国文化の紹介や中国語教育を推進するための孔子学院を設置するのと並行して、2014年までに 約100カ国・地域をカバーする国際テレビ放送網を整えてきました。卑近な例ですが、今年の5月初めにキューバを訪れた時にも、このような中国の国際放送の現状を目の当たりにしたような気がしました。以前「キューバの今 〜 型破りなこれまでの歩みとはじまったデジタル時代」でも報告したようにメディアの情報が乏しいキューバで 、外国人用のホテルで見られるテレビも例外ではないなか、中国のテレビ放送チャンネルは、中国語放送、アメリカ、ワシントンDCを拠点にした英語のニュース放送(CNCワールド)、スペイン語放送と3つもあり、そこから24時間休みなく流れてくる情報量の多さには、圧倒的な存在感を感じました。ちなみに、日本の本格的な海外向けテレビ放送 NHK ワールドは、中国や韓国より約10年遅く、2009年から スタートしたばかりで、現在は、18カ国語で発信されています。
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キューバで見た中国の国際放送のニュース番組

国際放送で伝えたいことと伝わること
ただし、国際放送などを通して他言語で情報を発信することが、すぐに他国に自分たちの聞いてほしいことを聞いてもらえることにはなりません。前述のように国際放送に力を入れる国が増えているため、放送局数は膨大となり、なにを見たらいいのか見通しがつきにくくなっています。他方、インターネットで様々なコンテンツが享受できる今日、各国の国際放送の重要性も以前より相対的に低くなっています。
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オーストリア(ドイツ語圏)で見た日本の国際放送NHK World(英語)

また、人類学者でパブリック・ディプロマシーに詳しい渡辺靖氏は『<文化>を捉え直す』のなかで「日本国内で『国際放送の強化』が提唱される場合、政府の立場をより前面に押し出す、あるいは日本のイメージを損ねる内容は控える、といった発想に傾きがちだ」(99頁)と、パブリック・ディプロマシーが陥りがちな偏狭な国益主義に警鐘を鳴らします。確かに、お金にものをいわせ自国をよく演出したり、都合がいい情報だけを流しても、情報は多岐の分野から入手できる今日、たちまちそれが偏った内容であることがわかってしまいます。視聴者の信用を裏切るような報道をそれでも続けていれば、「ジャーナリズムの未来 〜センセーショナリズムと建設的なジャーナリズムの狭間で」でも言われていたように、視聴者が離れていくのがジャーナリズムの定めであり、パブリック・ディプロマシーも例外ではありません。
一方、「自己批判をも厭わない器量」を持って偏狭な国益にとらわれることなく 、「 モラル・ハイ・グラウンド(道義的な高潔さ)を保ちながら公明正大に対応」する報道は、 「魅力や信頼性、正当性を高める対外発信」となると考えられます(101、105頁)。
渡辺氏のこの指摘を読んで、再びキューバ滞在中の国際放送を思い出しました。ドイツの国際放送(ドイツ語)も時々見ることができたのですが、そこで「トーマス・ミューラーとは誰か」という1時間半の長編ドキュメンタリーです。ドイツではファーストネームではトーマス、姓ではミューラーというのが一番多い名前だそうで、同姓同名の何十人ものドイツ人を取材し、「平均的なドイツ人」像を浮かび上がらせようとする主旨の番組でした。その番組終盤のクライマックスで、ドイツのサッカー代表選手のトーマス・ミュラーさんに、典型的なドイツ人とはどんな人か、と質問するところがあったのですが、彼の答えは、かなりそっけなくて、「文句をいう事。ドイツ人は本当によく文句を言うし、そういう自分もよく文句を言うし、文句を言うというのが一番ドイツ人の特性としてぴったりくる」という一見、身も蓋もないように思えるものでした。しかし少し見方を変えると、ここにこそ番組が追求するドイツ人らしさがにじみ出ているようにもとれました。確かにドイツ人に文句を言う人は多いかもしれませんが、そういう次元の話とは別に、カリスマ的な人気をもつ国の著名人が、国威発揚とは正反対の、誰が聞いてもいい気分にならないような国民にまつわる発言を、まわりの期待を堅苦しく意識することもなく、いともあっさりと自由にできて、それがまた世界に放映されるという状況は、自由な発言を互いに許容する国柄であることをなによりもよく示しているといえるでしょう。少なくとも、今日どこの国際放送でもみられる 〜CNN風のスタイリッシュなニュース番組や国の伝統工芸や歴史を紹介する内容〜 とはかなり違う内容で、見応えを感じる番組でした。
カルチュラル・セキュリティ
パブリック・ディプロマシーの安易な国益主義への傾倒を批判する渡辺氏ですが、他方、良質の内容の海外発信や、文化を通じた様々な対外的交流や対話が、これからの時代にますます重要性を増すことは、大いに認めています。さらに、目下、先住民族の伝統保護や文化財の保護・保全といった意味でのみ使われている「カルチュラル・セキュリティ」という概念を持ち出し、この概念とその意義をもっと広げて解釈し、文化が最終的に安全保障の一部ともなりうると構想します。そして、著作では明記されていませんが、それぞれの社会のもつ文化の価値を創出、活用、発信し、海外の市民との対話や交流が促進され、最終的に国内と海外が一緒になってコミュニティを形成することが、ついには自国のセーフティーネットになると捉えられます。
この話を聞いて、今度は、海外で日本文化に親しむ若者たちのことが思い浮かびました 。スイスでも日本の漫画やアニメ、鉄道や武道好きのティーンエイジャーや小学生に出会ったり、そのような子供たちの話を聞く機会がたびたびあります。欧米やアジアに現在広く分布していると思われる、このような日本発の文化やそれを通じて日本という国に興味や好感をもっている若年層との関わりは、日本にとって大きな可能性を秘めているといえるかもしれません。彼らを日本が将来の対話や交流の仲間として、迎えいれたオープンなコミュニティを形成できれば、 日本にとってかけがえのないカルチュラル・セキュリティの基盤になると考えられるからです。
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実際にカルチュラル・セキュリティがどれほどの威力を発揮するのかはわかりませんが、少なくとも、カルチュラル・セキュリティという視点をもつことで、経済的な関心や個々人の目的を追求することに終始せず、時には複合的で長期的な視点から、経済・文化活動のあり方や情報発信の意義について考えるきっかけを与えてくれるように思います。そしてそのような視点にたった言動は少なくとも、日本だけでなく、日本の文化を介して交流や対話する世界の人々全体にとっても、恩恵をもたらすものであるに違いありません。
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主要参考文献・サイト
渡辺靖『<文化>を捉え直す -カルチュラル・セキュリティの発想』、岩波新書、2015年
「トーマス・ミュラーとは誰か?」
Wer ist Thomas Müller?, Das Erste, 23.6.2015.
金子将史「パブリック・ディプロマシーと国家ブランディング」『外交』 vol.3.(平成22年11月)
星山隆「日本外交とパブリック・ディプロマシー―ソフトパワーの活用と対外発信の強化に向けて―」世界平和研究所2009年

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ゲームをしながら社会に貢献? 〜進化するゲームの最新事情

2016-06-23 [EntryURL]

昨年末、ゲーミフィケーションという近年注目されている概念について触れましたが、今年に入ってからも、新たな質と量でゲーミフィケーションが、わたしたちの生活のなかに着実に入ってきていることを実感させられるニュースを相次いで耳にしました(ゲーミフィケーションの概念について知りたい方は「ゲーミフィケーションと社会」をご参照ください。)
ひとつは、 マインクラフトMinecraftの学校の教材用バージョン「Minecraft: Education Edition」を今夏に無料で提供するという、 マイクロソフト社の発表です。ゲームはまだ出ていないので詳細はわかりませんが、今年はじめにマインクラフト教育版を買収したマイクロソフト社の発表では、ゲームでは物理や工学、建築から音楽まで色々なことが学べるだけでなく、インターアクティブな環境を利用して論理的思考やコンピューター・プログラミングの習得にも役にたつ内容であるとされます。このゲームはすでに世界で一億人以上のユーザーを持ち、PCゲームとして歴代最高の売れ行き(2300万本、2016年現在)記録をもつ、人気も知名度も現在のゲーム市場の最高峰に位置しているといっていいゲームです。それを考えると、ゲームという手段が、どれだけ学習を高める効果があり、ほかにもどのような可能性やあるいは問題がありうるのか、という壮大な実験が、この優れたゲームのコンテンツを用いながら、夏以降、世界的に始まるといえるかもしれません。今後の動向が、大変注目・期待されます。
<ディスカバリー・プロジェクト>
もう一つは、「ディスカバリー・プロジェクト」と称する今年3月にスタートしたプロジェクトです 。ディスカバリー・プロジェクトは、2年間に物理学者とIT専門家の二人によって設立されたスイスの小企業MMOS(Massivly Multiplayer Online Scienceの略)が、アイスランドのビデオゲーム開発会社CCP Games (Crowd Control Productions)とレイキヴィク大学の学生、そして国立スウェーデンの医学研究機関を巻き込んで、立ち上げた共同プロジェクトです。具体的にはCCP Gamesのオンラインゲームである「イブ・オンライン(EVE Online)」のなかで新たに3月9日からスタートした、出現した謎の勢力の組織サンプルの分類と分析するというミニゲームを指します。イブ・オンラインというゲームは、2003年から始まり、現在世界に50万人のユーザーをもつという人気の高い宇宙戦争のロールプレイ型オンラインゲームです。
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ディカバリ・プロジェクトのミニゲームの様子(イメージ)

このミニゲームの何が注目に価するのかというと、ゲーム上に謎の勢力の組織サンプルとして現れるものが、実は本物のヒト細胞の高画質の画像だということです。15年前にヒトゲノムの解読が終了したものの、いまだに実際に体のタンパク質がいつ何をするのかについて、ほとんどわかっていません。このため、国立スウェーデンの医学研究機関は人の体でタンパク質がなにをするのかの見取り図 、HPA(ヒューマン・プロテイン・アトラス) を作ろうというプロジェクトを始めました。しかし体のどこの場所にどんなタンパク質があるのかを知るには、2万の遺伝子と多様な 形状が組み合わさった膨大で多種多様なヒトのタンパク質の細胞画像データを分類・分析する必要があります。しかしそれを少数の専門家のチームが処理するのでは時間がかかりすぎます。日進月歩で技術が進んでいるコンピューターも、ヒトタンパク質の画像をカテゴリーごとに分類処理することや、異常があるかの分析は苦手であり、それを処理できるようになるには、非常に複雑で高価なプログラムを開発する必要があります。
一方、専門家でない普通の人でも、しばらく練習をすれば、分類・分析ができるようになります。そこに目をつけて、医学の課題とゲームを結びつけてたのが、今回のプロジェクトです。オンラインゲームの一部に画像の分析・分類という課題をこなすミニゲームを組み入れ、ゲームプレイヤーにしてもらおうと考えたのです。プレイヤーは、正確に分類・分析ができればその報酬として、オンラインゲーム上での特典(通貨、装備やタイトル)がもらえるようにします。これによってプレイヤーにとっては、息抜き感覚でミニゲームをすることで、自分の利益になるだけでなく、医学の研究に協力することで社会にも貢献できるという一石二鳥の仕組みとなります。
このミニゲームは、 最初の試験期間にガイダンスに沿って分類の仕方を習得すれば、誰でも参加できますが、 分類・分析の質を維持するため、プレイヤーには分類能力を測るテストを定期的に行い一定の水準を常に満たさない場合、練習問題しか扱わせてもらえず、また分類能力が向上するまで、本物の画像の処理ができないようになっています。また難しい事例には、他のプレイヤーの結果と比較して、分析内容を改善・検証するしくみも作られました。
<プロジェクトの結果と今後の展望>
さて、結果はどうなったのでしょう。当初、企画側は、1日4万件が分類されることを想定し、10万件もあれば大成功だと考えていたそうですが、結果は、 想定をはるかに上回るものでした。最初の数時間で、40万の細胞要素が分類され、一週間で220万になり、1ヶ月で8百万件弱にまで達しました。これは、プレイヤーが細胞の分類に1820万分(34.7年分)を費やした結果であり、これはスウェーデンの就労条件で換算すると、163年分の労働時間に相当するといいます。
その後も平均1日10万件前後が分類され、1日で最高90万件を記録することもありました。これらの分類・分析結果をもとに、プロジェクト・スタートから1ヶ月で 、109のタンパク質細胞候補を新たにみつけることができました。4月末には、最初に準備していたすべてのデータの処理が終わり、企画側は、よりデータ分析内容の質をあげるために、同じデータの分類作業の二度目を行うことや、プロジェクトをさらに拡大して、ほかのデータ処理、ガン医学や系外惑星などのデータの処理も検討しているとのことです。
これまでも、オンラインゲームで医学や生物学、天文学に貢献するプロジェクトはいくつかありました。もっとも有名なのは、2008年から公開されたワシントン大学が開発したFoldit という、ゲーム化されたルールに基づきタンパク質の構造を決定するというゲームです。このゲームのおかげで、学者が10年間取り組んでもできなかったエイズ治療に役立つ酵素の構造を、3週間で解明するという快挙が成し遂げられました。一方、今回のゲームとこれまでのゲームには大きく異なる点があります。それは、今回のゲームがソロのゲームではなく、既存のゲームのなかに組み入れられたゲームであったことです。これは、今回のプロジェクトの立役者MMOS がこだわった点でもあります。ゲームプレイヤーがもともと多いゲーム内で行うことで、潜在的な参加者が増えます。また、ゲームのなかにあることで、ゲームを一過性のものとして終わらせずに 、プレーヤーを持続的にあるいはほかの新たな作業にも引きつけることができるのではないかと考えたためです。
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シチズン・サイエンス専門サイト「Zooniverse」のプロジェクト例 

MMOSは、今回の成功で、一般の人がするゲームと科学をつなぎ、統合していくという会社の設立ビジョンが、時代にマッチしており、今後も需要があると確信し、今後も適切なテーマをゲームに統合するプロジェクトを作っていくことに強い意欲を示しています。同時に、 適切なコンテンツやゲーム性、ゲームの環境をうまく組み合わせることで、作り込まれてすぐ飽きられるようなゲームではなく、リアルなものの醍醐味を生かしたやりがいのあるものを提供し、持続的に人を惹きつけることが、今後の大きな課題だとします。そして現在は、詳細はまだ明らかにしませんが、ジュネーブ大学の天文学部との共同プロジェクトにも取り組んでいるといいます。
<シチズン・サイエンス>
ディスカバリー・プロジェクトは、ゲーミフィケーションの単なる成功例としてだけではなく、新しいコンセプトの成功例としても注目されます 。そのコンセプトとは 、専門家だけでなく一般の人々が広く関わり、新たな科学に貢献する業績をつくっていくというシチズン・サイエンスという構想です。シチズン・サイエンスは、クラウドサイエンス、クラウドソーシングサイエンス、ネットワークド・サイエンスなど様々な呼ばれ方をしていますが、世界的なネットワーク化・オンライン化によってはじめて実現可能になった新しい科学のあり方で、素人や専門家でない科学者など全体や部分に関わる(参加する)科学研究全般をさします。今回のプロジェクトで、普段は医学や社会の貢献などに関心を持っていたわけではないオンライン・ゲームのプレイヤーが、自分のしているゲームの延長上で、気軽に科学に役にたつことに関わる可能性を開いた意義は大きいと思います。
今後、さらに効果的に一般の人を学問研究に関わらせ、人類全体の科学の貢献につなげることを目指して、今年5月に 「シチズン・サイエンス」というオンライン学会誌も今年創刊されました。これは、オープンアクセスジャーナル(無料でオンラインで閲覧できる雑誌)で、この雑誌を中心あるいはきっかけにして、世界中の環境、教育、医療、公共福祉、都市計画、公共政策、生物学等々さまざまな分野の研究者や現場の人たちが、互いにやり方やアプローチ方法、利点、費用、これによる影響、課題などを活発に議論したり、情報を交換することが期待されています。
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オンライン学会誌「シチズン・サイエンス」のサイト

<ゲームの進化>
楽しむ目的でゲームが誕生し、さらに新たな目的ができて、ゲーミフィケーションという新たな潮流がでてきました。当初は、学習効果や就労のモチベーショんをアップさせるなどゲームをする当人に直接還元される利便性から語られることが多かったゲーミフィケーションですが、今回の事例をみると、さらに進化し、フロンティアが広がってきているという感じを受けます。
それにしても、普通の人が家でゲームをしながら、それが直接、医学や生物学、天文学等の研究に関わったり、人道的な貢献や有意義な役割を果たすことができると、以前、誰が想像したでしょう?未来研究者ホルクス氏は、未来は直線的に進化するのではなく、新たに生じた事象が相関関係を新たに作り出しながらスパイラルに進んでいくものであり、直線的な未来像では想像もできないような新たな効果や現象が 引き起こると言っていましたが、ゲーミフィケーションによる学問や社会への貢献もその証左と言えるでしょう(ホルクス氏が考える未来予測のメカニズムについての詳細は「「リアル=デジタルreal-digital」な未来 〜ドイツの先鋭未来研究者が語るデジタル化の限界と可能性」をご覧ください) 。親が子どもに、あるいは社会が社会の成員に、有意義な「課題」としてゲームを推奨することが普通になるような時代が、もうすぐくるのかもしれません 。
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参考サイト
-Discovery Projectについて
プロジェクト・ディスカバリーのサイト
MMOS の公式サイト
CCP Games (Crowd Control Productions)
The human protein atlas
Hayden Dingman, How EVE Online players are solving real-world science problems: Meet Project Discovery, PC World from IDG, Games, Apr 25 2016.
Marc Bodmer, Gamen für die Forschung, NZZ am Sonntagvon, 7.6.2016.
Project Discovery brings real world scientific research into EVE Online, PC Worlkd, April 25. 2016.
Michael Rundle, EVE Online recruits pilots for real-world genetics research, WIRED, 9 March 2016.
Benedikt Plass-Fleßenkämper;Sandro Odak, Rollenspieler helfen der Forschung, Zeit online, 27.3.2015.

Eve Online: Spieler leisten Beitrag zur Wissenschaft,games.ch
, 10.3.2016.
「プロジェクト・ディスカバリー」,B−OSP EVEONLINE WIKI,2016年4月16日
—-シチズン・サイエンスについて
Citizen science
オンライン学会誌’Citizen Science: Theory and Practice
—-その他
Foldit
Marc Bodmer, Ein Spiel macht Schule ,«Minecraft», NZZ, 29.4.2016.
Zooniverse

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ペイオニアの手数料が改定されました

2016-06-21 [EntryURL]

わたしもコンサルティング会員さんたちやメルマガなどでも、 「手数料を考えたら絶対ワールドファーストです。」と言ってきました。 先日ペイオニアの担当者の方から手数料の改定の連絡いただきました。 ペイオニアとワールドファーストとは手数料では大きな差があったのです。 しかし今回の改定でまったくその差はなくなりました。 アカウント開設、維持手数料、残高・明細照会、アカウント入金手数料、日本国内銀行送金手数料が無料です。 (デビットマスターカードのアカウントではありません) これまで累計取引額が20万ドル以下の場合、1%の受取り手数料が発生していたのですが、これが無料になるのはいいですね。 ワールドファーストとの違いは(まだ正確に確認していないのですが)、国内銀行口座へ送金時の送金手数料が無料ということ。ワールドファーストの場合は、1,000ドル未満の送金には送金手数料が発生します。 また国内銀行から振り込まれるので、被仕向送金手数料が銀行側から課せられないというのは大きなメリットです。 これは大きいです。 手数料は為替手数料のみとなります。1~2%。 これはワールドファーストと同じですね。 ペイオニアでは具体的な数字も出ています。 50万ドル以下は2%で段階的に少なくなり、300万ドルを超えると1%になります(累計取引額です)。 ペイオニアとワールドファースト、なかなか比較が難しくなりましたが、受取口座は絶対複数持っておいたほうがいいのでケースバイケースで両方うまく活用していきましょう。 8月からの、輸出ビジネス®エキスパート養成講座 では決済サービスの上手な活用方法もお伝えしていきます。 確実に利益を残していくには小さな工夫をたくさんしていくことが重要です。 ペイオニアさんは頻繁にウェブセミナーを開催されています。 7月5日は、「越境EC成功鉄則7つのポイント」。誰でも無料で参加できます。 あと来月から3ヶ月間、日本ネット輸出入協会の会員限定メルマガでもコラムを執筆していただけることになりました。 いまワールドファーストさんにもコラムを書いていただいていますが、2つの会社の便利な活用方法などみなさまにも知っていただければ嬉しいです。
2016.06.21

ヨーロッパの水着最新事情とそれをめぐる議論

2016-06-17 [EntryURL]

夏と言えば、プールでも海でも川でも湖畔でも、水辺で過ごすのが最高の季節です。ところで、それらの場所で水中に入る時どんな格好をするかと訊かれたら、みなさんは何と答えますか? おそらくほとんどの方が「水着」と即答なさるのではないかと思います。しかしヨーロッパではそうとも限りません。少し事情が異なるヨーロッパの水着をめぐる状況を、今回はご紹介したいと思います。 160617-1.jpg <水着のオータナティブを求めて> 日本でも都市部では、仕事や観光で来日するイスラム教徒の方も増えてきており、頭をスカーフのような布で覆ったり、足元以外が見えないように手足も隠れる服装をしているイスラム教徒の女性特有のいでたちを目にすることも珍しくなくなってきました。(ちなみにイスラム教徒の女性でもそのような服装をしていない人もいます。)体を見えないように覆うことは、男性の目がある公共の場所ではどこでも必要と考えられているため、当然プールや海岸も例外ではありません。それではこれらの女性たちが、泳ぎたい時はどうすればいいのでしょう? 普段の服を着て泳いだり、公共の場所で泳ぐのをあきらめていた人が多いなか、2003年にヨルダン系のオーストラリア人デザイナーAheda Zanettiは、自ら一つの答えを見つけました。女性イスラム教徒のための水着のデザインです。それは、生地こそ普通の水着と同じ化学繊維を使用しますが、形は大きく異なります。長いズボンと長袖の上衣というスウェットスーツ風の二つの部分から成り、上衣についているフードで頭もすっぽり覆うことができ、足首から下の足と手と顔以外の全体がすべて覆われる形状です。 そして自分だけでなく、信仰心の厚いイスラム女性たちが、泳ぎも含め、社会で活発に活動することを後押ししたいという気持ちから、それをブルキニと名付けて販売するようになりました。 イスラムを信仰する世界の各地では、近年の目覚しい経済成長を背景に中間層が増えてくるのに伴い、ファッションへの関心や需要が高まっています。2020年までに世界中でこれらイスラム教徒のファッション関連商品は、3000億USドルを上回るようになると言われ、西欧を拠点としてきた大手アパレルメーカーはどこも、世界の人口の4分の1を占めるというイスラム市場という新たに発見された巨大市場に自分たちも地場を固めるべく、続々と進出を始めています。スウェーデンのアパレルメーカーのエイチ・アンド・エム( H&M)や イタリアの高級ファッションブランドのドルチェ&ガッバーナ(Dolce & Gabbana)、また日本のユニクロも、イスラム教徒向けの服や頭を覆う布Hinabの販売をはじめています。 イギリスの衣類・雑貨などの総合小売業者マークス&スペンサー (Marks & Spencer)は、3年前からリビアやドバイなどのアラブ地域で、ブルキニの販売もはじめました。ちなみに、イスラム女性用の水着はブルキニが最初であったわけではなくエジプトでは2000年から、トルコでは1993年から、 イスラム女性用の水着が販売されていました。しかしヨーロッパではイスラム女性用の水着を総称して「ブルキニ」と呼ぶことが多いため、今回もイスラム女性用の水着を一括して以下「ブルキニ」と表記することにします。 160617-3.png
ムスリム、ブルキニ、ファッションというキーワードを英語で検索してでてきた画像
ただしブルキニは、オーストラリアやエジプトやトルコの海岸では、かなり定着してきたのに比べると、ヨーロッパでいまだそれほど普及していません。今年3月末からは、マークス&スペンサーが、大手アパレル業者としてはヨーロッパで初めてインターネットサイトでブルキニの販売を開始したばかりです。一方、この販売開始に対して、フランスの家族・児童・女性権利大臣から、ブルキニは女性の身体を社会的に管理・抑制するものであり、そのようなものを売るとは会社が社会的な責任を怠っていると、と批判が出され、話題になりました。政教分離の歴史が長い一方、ヨーロッパのどこの国よりもイスラム教徒が多いフランスでは、公共の場で、なにをどこまで装着することが、認められるべきかについて長年議論が続いており、真っ黒で顔も目を除いて体全体を覆う通常「ブルカ」と呼ばれるイスラム女性服は、5年前からフランスでは禁止されています。 フランスほどセンセーショナルに議論が紛糾してはいないにせよ、ドイツ語圏でもブルキニをめぐる議論やニュースを時々聞くようになりました。この記事を書くために調べている間にも、ドイツのバイエルン州で初めて、あるプール施設でブルキニを禁止することになったというニュースが入ってきました。女性だけの水泳日で男性の目がないにもかかわらず、ブルキニを着用してプールに入ろうとした女性がいたことがきっかけで、ブルキニの着用自体が問題化し、最終的に自治体が判断を下すことになったといいます。ただし、ここで少なくとも表面上問題とされているのは、衛生上の問題や、体全体を覆うため水の中での動きがとりにくく、溺れる危険性が高くなるなど、もっぱら宗教や文化と関係ないプラグマティックな側面であり、正確にはブルキニを禁止したのではなく、「通常の水着のみプール利用を認める」というものでした。 今後、ブルキニをめぐり始まったばかりの議論の短期的、長期的な落ち着き先がどこになるのか、まだみえてきませんが、先ほど紹介したフランスの政治家の発言に関する、ドイツのディ・ツァイト紙Die Zeitのオンライン記事には、ほかの記事へのコメントよりも圧倒的に多い384のコメントが(6月10日現在)寄せられていたことは注目に値すると思います。つまり目下、ヨーロッパ人の関心は決して低くないと思われます。確かに公共のプール施設は、公共図書館などと並び、ヨーロッパ人が最も頻繁に利用する公共施設であり、とりわけ夏季には最も賑わう町のスポットです。このため、そこで目にする新しい状況や新たなルールづくりについて、身近に考える人が多くてもおかしくありません。ブルキニに対する意見の中には様々なものが混在していますが、好意的な意見も少なくありません。例えば、イスラム教徒が西欧社会において、自分たちの宗教や生活のあり方を自覚しながら、積極的に西欧社会で適応する道を探っている一端の表れなのではというものがあります。そして考えようによっては、ブルキニは社会を分断するのではなく、女性たちがヨーロッパの社会や文化にインテグレーション(統合される)きっかけになるのではないか、とも言われます。 今のところ、ドイツでもスイスでも州や自治体レベルでの一様の規定はないため、 女性だけのプールの日(その日はプール従業員にも女性だけを配備するなどして)を設定したり、施設利用者全般に詳細のプールの安全・衛生上のルールを提示し理解を求めるなど、自治体などのプール運営側がそれぞれ対応をしています。施設の利用者と関連者全員が満足する解決策をみつけるのは簡単ではないでしょうが、地道に模索していく間に、ブルキニのアパレル産業や利用者の方でもプール施設の要望にかなうように、質や形態を改良するなどして歩みよることで、徐々にイスラム教女性とほかの利用者の共存の道が開けてくるかもしれません。 <ナチュラルな水浴を求めて> 160617-4.pngここまでの話とは対照的に、同じヨーロッパで体を覆うのではなく、全く覆わないことをモットーとする人たちもいます。そのモットーは、裸体主義(ドイツ語でFreikörperkultur)と呼ばれ、文字通り何も装着しないことです。 カトリックが強い南欧や、プロテスタントでもピューリタン派の性格が強いアングロサクソン系の国は、裸体に対して躊躇や嫌悪心が強いですが、中央および北欧ヨーロッパでは、 裸体によりほかの人が不快になることよりも、裸体になりたい人の権利を重視する傾向が強く、公共の場の裸体に対しても比較的寛容に許容されています。 特にその牙城とされるのがドイツで、なかでも旧東ドイツでは裸体主義が国家的な伝統として根付いていました。旧東ドイツでは、公式にバルト海岸の10パーセントが裸体主義者のためと指定されていましたが、そこ以外もほとんど海岸では裸の人しかいなかったというほど、東ドイツ時代に非常に広範に普及していたそうです。私事になりますが、東西ドイツ統一の混乱からしばらくたった1990年代半ばから数年旧東ドイツの都市ライプツィヒに留学していたのですが、 当時も裸体主義はすこぶる健在で、各地にある露天掘り採掘場跡を水で満たした湖畔や川べりなどで水着を着用している人は、ほとんど見あたりませんでした。 しかし東西ドイツの統一から月日がたつにつれ、西側からの水着着用を好む観光客が増えるようになって、東ドイツでは広範に社会で許容されていた裸体での遊泳エリアが、以前に比べれば、少しずつ縮小されてきているといいます。ただし、裸体主義が衰える傾向にあるとも一概に言えないようです。むしろ、これまでのように目の前に多くの選択肢がない分、情報ソースをうまく 活用し、不便や他者との摩擦を最小限にして、自分たちの休暇をプランする方向性が強まったと言えそうです。2014年には110万人が裸体で過ごせる世界の余暇スポット(ホテル、海岸、ほかのレジャースポットなど)を選び、それを集計した結果が発表されています。ここには裸体主義の長い伝統があるドイツの北海やバルト海に沿った海岸や島はもちろん、スペインの マヨルカ島や、ギリシアやクロアチアのリゾート地もおすすめスポットとしてあげられています。裸体の休暇のための各種のガイドブックも毎年更新されて、普通のガイドブック同様に一般的に販売されています。総じて裸体主義は、時代の一つの潮流であるエコロジーやスローライフ運動などとリンクしながら、単なるヌーディストとしてではなく自然と親しむ「自然愛好者(ナチュラリスト)」であるというスタンスを全面に出すことで、いまなお根強い支持基盤を保っているようにみえます。 ここまで読まれて、ブルキニも裸体主義もどちらもずいぶん極端で異質のもののように映ったかもしれません。確かに一見そう思えるかもしれませんが、ひるがえって、日本の状況を眺めてみるとどうでしょうか。日本人は水浴においては確かに世界的に一般的な「水着」を着ますが、同じ水でもそれが一旦温かくなると、 公的施設(銭湯や温泉場)のどこにいっても、世界でも珍しい押しも押されぬ裸体主義派です。2014年の世界ウェルネス研究所の報告によると、日本の温泉・鉱泉施設は13754カ所は、世界の全温泉・鉱泉施設のなんと3分の2を占めているとあり、それらのほとんどで裸体主義が日々実践されているということになります。そのような独自の水浴・温浴スタイルを信奉(?)しているにも関わらず、それが国民全体に普及している習慣であるため、温泉で水着を着用すべきだとか、裸体主義の公共プールを設置すべきだ、などという議論や社会の摩擦も全く起こらず、 「普通」のこととして支障なく日々実践できています。近代以降の欧米風水着着用の水浴習慣と伝統的な温浴習慣が、今もどちらかに吸収されたり偏ることもなく、並行して存在し愛好され続けている、このような日本の状況こそ、世界的にみれば、ブルキニや裸体主義に勝るとも劣らないユニークな水浴・温浴習慣と言えるかもしれません。 //// 参考サイト —-ブルキニについて Burkini, Wikipedia Rabea Weihser, Burkini: Wo die Freiheit baden geht, Die Zeit online Barbara Pete, Wie viel Religion steckt im Burkini?, Panorama, SRF, 11.4.2016. Musliminnen mussten in der Burka baden oder gar nicht, Aargauer Zeitung, 15.4.2010. Stefan Brändle, Erstmals bietet eine Modekette Burkinis an - und ein ganzes Land regt sich auf , Aargauer Zeitung, 30.3.2016 (Zuletzt aktualisiert). Mode: Frankreich streitet über den Burkini, Die Zeit online, 31.3.2016. Kleiderordnung statt Religionsfreiheit Burkini-Verbot im Hallenbad Neutraubling, BR.de, 9.6.2016. Streit um Burkini-Verbot in bayerischem Hallenbad, Die Welt, 9.6.2016. —-裸体主義について(Freikörperkultur 略してFKK) FKK in Ost und West: Die nackte Wahrheit, Der Spiegel, 2002. Das sind die beliebtesten FKK-Urlaubsorte, Die Welt, 21.8.2014. Nichts als Haut - Wo FKK-Urlauber glücklich warden, Die Welt, 12.5.2015. Wie man FKK-Anhänger zur Weißglut treibt, Die Welt, 25.7.2016. Nacktheit, Wikipedia —-他 Global Wellness Institute, Global Spa and Wellness. Economy Monitor, 2014.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振 興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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想像の翼が広がる幼児向けアナログゲーム 〜スイスの保育士たちが選ぶ遊具

2016-06-09 [EntryURL]

先月、スイスの遊具レンタル施設(ルドテーク)で、プレイグループで働く保育士を対象にしたワークショップを開きました。スイスのプレイグループ(Spielgruppe)とは、 3、4歳児を週に1、2回数時間預かる保育施設のことで、全日制の保育園に通っていない子供達は、幼稚園入園前の準備として、1、2年通うのが一般的となっています。今回、プレイグループで遊べるゲームというテーマの、2時間のワークショップを担当することになり、ゲームを実際に手にとりながら、色々なことを話し合いました。 以前「スイスの遊具レンタル施設」で紹介したように「ルドテーク」という名でスイスにおいて広く知られている半民半官の遊具レンタル施設は、図書館同様、全国各地に設置されていますが、世界的には珍しい施設です。 1970年代から設置されはじめたこの施設が、半世紀たった今も存続している背景には、ボードゲームなどアナログゲームが今も高い人気を保っていることが大きいですが(詳細に興味のある方は、「デジタルゲームの背後で起こっているテーブルゲーム・ルネサンス」をご覧ください)、それらで遊ぶのは家庭内に限ったものではありません。保育士や学校教員など、こどもの教育に関わる人たちの間でもこれらの関心は高く、幼稚園や学校の教室にはたいていボードゲームやカードゲームが各種並んでいます。ゲーム製造者・小売業者、家庭、教育関係者、ルドテークといった複数のアクターが相互にリンクしながら、世界的にもまれで高品質なアナログゲームを数多く輩出する状況を維持しているといえます。教育施設のなかでも特にプレイグループは、住宅や複合ビルの一角を用いた施設であることが多く、子供達は午前中の2、3時間の大半をプレイグループ室内だけで過ごすため、遊ぶ用具としてゲームへの関心が高いようで、今回のワークショップは夜遅かったにも関わらず、市内の現役プレイグループ保育士14人が参加しました。 ワークショップ中に現場の声を色々聞かせてもらったり、話し合いをしたことで、わたし自身、スイスの幼児教育の現場でゲームがどのように理解され、どのような点が高く評価されているのを、改めて総合的に確認できたように思います。日本でも幼児のいる家庭はもちろん、おもちゃの製造者や小売業者、教育機関の方など、幼児教育に関わる方々すべてにとって、参考になる点も多いかと思いますので、今回、紹介してみたいと思います。 <なぜゲームか?> 現代の子どものまわりには多様なおもちゃがあふれています。しかしまた子どもがいいおもちゃに出会う確率を高くしているとは限りません。むしろ多すぎるおもちゃに埋もれて、じっくり一つのおもちゃと遊ぶのがかえって難しくなったかもしれません。そんな中プレイグループでは、意識的に年齢にふさわしいおもちゃや遊びを厳選して、子どもたちの遊ぶ環境を整えています。そのなかで一つのことに集中する、グループで遊ぶ、手先を上手に使うなど様々なことを学ぶためにゲーム性のあるおもちゃ(この年齢のゲームとは、ボードゲームとは限りません)が愛用されるようです。 160609-1.jpg
動物にえさをやるゲーム
<ゲームの素材> この時期の子どものおもちゃとして、ゲームの素材はとりわけ重要と考えます。自然のあたたかみを感じるものやクオリティーの高いもの(きれいな絵や高い材質のゲーム部品など)が、こどもの情操の健全な発達を促進させるとするという考えが、ヨーロッパでは広く普及しているためと思われます。 クオリティーを誇る玩具としてドイツの木製のおもちゃは世界的にも有名ですが、就学前の子どもを対象としたゲームで圧倒的なシェアをほこる老舗ハーバHABAもこの伝統を受け継いで、ゲーム部品はほとんどが木製です。確かにこれら木製を基調とするゲームは幼児用ゲームの「スタンダード」として、今も圧倒的な支持を集めていますが、今回保育士の間ではその真価を認めつつも、そればかりでは単調であるとして、独特の肌触りをもつ竹を使ったものにも注目が集まっていました。やはり素朴で自然な素材である布やひもなどもゲームの部品として好まれる定番素材です。一方、プラスチックやダンボールをゲームの部品としたゲームは、幼少期の子どものゲームではほとんど見当たりません。 160609-2.jpg
竹が素材に使われているゲーム
<形> 素材だけでなく、ゲームの部品の形もこだわりがみられます。口にいれる危険がなくなったこの時期の年齢の子どもは、はじめて小さいものにもてで触ることが許されるようになりますが、基本的にゲームの部品は、複雑な形よりもシンプルなものが好まれます。簡単に壊れないためもあるでしょうが、手先で触れることで、視覚に頼らずに感じたり、理解する楽しさを、なにより重視しているためと考えられます。 160609-3.jpg
かたつむりがテーマのロングセラーになっているゲーム
<色> 素材や形だけでなく、色の選択にも、幼少期のゲームには特徴があります。ゲームの部品は原色を中心にした、鮮やかな単色が用いられます。この時期の子どもたちにとって、形同様色が、物を区別したり、分類する時の重要な手がかりとなる場合が多いためです。 <ゲームのテーマ> 大きな子どもたちのゲームには、ただ数が書かれたカードやサイコロだけを使って遊ぶゲームもありますが、幼少期の子どもを対象としたゲームは、一つ一つテーマ(モチーフ)を持っています。ゲームの説明書には、お話風にそのテーマが描かれていて、言って見れば、ゲームとは立体あるいは平面的に設定されたお話の舞台の中にはいって、それぞれの役を演じるといった進行になります。テーマやお話は、子どもたちのゲームへの関心を惹きつけ、またルールを理解するのを容易にします。例えば、病気の鳥を元気にするために大好きな木の実を集める、というゲームのルールは、お話の延長として考えると、課題が簡単に理解できるだけでなく、やりたくなる気もぐっと湧いてきます。 このため、ゲームのテーマが幼少の子どもたちの年齢や関心に合うものであることは不可欠です。亀やかたつむりなど、身近な生き物や人気のあるが出てくるゲームは、今も昔も幼少の子どもたちに高い人気があります。 160609-4.jpg
ちょうちょのためにお花を咲かせる協力型ゲーム
<手作業の楽しさ> 近年、ヨーロッパでも幼少期から手先を使って色々な動作をすることが重要だと指摘されることが多くなりました。就学で必要な作業を容易にこなせるようにそれ以前から練習という意味だけでなく、神経医学的な見地からも、手作業が脳や身体の成長を促進させると提唱されるようになってきたためです。 しかし、そんなことを大人が考える以前に、子どもは(本能的に自己能力を発達させようとするためと解釈できるかもしれませんが)手先を使うことが大好きです。上にのせる、袋に入れる、差し込む、はめる、的に当てる、さいころなどを投げるなど、様々な手作業をゲームの要素にいれることで、ゲームは断然子どもにとっておもしろくなり、自然に手先を使う多様な練習もできることになります。 これにゲーム独自の子どもが楽しくなるような意味(例えば、虫にえさを食べさせるなど)を付加すると、さらにその課題をすることが楽しくなり、作業を終えた時は強い充足感を得られます。 <ゲームとして遊ぶことの意味> ゲームには、ほかの遊びと大きく異なる特徴があります。ゲームとして成り立たせるために、共通のルールを守らなくてはならないということです(ルール自体は、紙に書かれた製造者のルールにこだわらず、子どもの理解力や人数によって臨機応変に変えてもいいですが、プレイヤー全員が共通して従うルールが必要です)。それは、順番を守ったり、ごまかさないことだったり、「負ける(そしてその悔しさを耐える)」ことから逃げない、ということでもあります。自分勝手にできない分、複数の人数で遊ぶ醍醐味を味わうこともできます。特に協力型のゲームは、みんなでいっしょに目標をもって作業することの楽しさや、それがうまくいった時に喜びを共有することの嬉しさといった、チームプレーの味わいを体験することができるため、保育士たちの間でも近年、高く評価されているようです。 <想像の翼を広げる> ゲームのルールには書かれていませんが、ルドテークやプレイグループでいつも実感している、ゲームの大切な作用があります。それはゲームが、子どもたちの想像力をひろげさせ、子どもたちが新しく遊び方を考えるのを鼓舞することです。一見、ゲームは、大人が考案したもので、部品も決まっていて、印刷したルールに従わなくてはいけないので、 想像性と無縁のマニュアル的な遊びかたのように思われがちです。しかし、考えようによっては、新しい想像力の宝庫です。単純な形の黄色や赤の部品が、ゲームのなかでは、突然船やりんごになりますし、子どもたちはゲームを終えたあと、さらに続きの新しいお話やゲームを思いつき、遊びがどんどん広がることがよくあります。紙に書かれたルールの枠からはずれて、好きなように遊びはじめる子どもたちのわくわくしている様子はすごくいい、とワークショップでも語り合いました。 ところで、ワークショップでは、コーディネーターがせっかく日本出身なので、折り紙工作などを紹介しながら、日本の幼児教育の話にも少し触れてみました。以前「折り紙のグローバリゼーションと新たなフロンティア」でも紹介しましたが、スイスでは近年折り紙への関心が高く、例として用いた折り紙工作は好評で、ワークショップ終了後に本に載っている折り紙の折り方を、写真で撮っていく熱心な保育士の方もいらっしゃいました。日本とスイスの子どもをめぐる環境や事情は違うことも多いですが、幼児教育や早期教育への関心が全般に高いというところは、共通しているように思います。幼児教育におけるスイスと日本の相違を、折に応じて、今後も色々な角度から紹介していければと思います。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振 興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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キューバの今 〜 型破りなこれまでの歩みとはじまったデジタル時代

2016-06-06 [EntryURL]

4月末から2週間キューバに滞在する機会がありました。キューバは昨年アメリカとの国交が正常化し、 今年はオバマ大統領も訪問したことに象徴されるように、目下、政治や経済体制・構造上で大きな改革や転換を遂げている真っ只中で、人々の社会や生活は急激に変化しています。今回は今のキューバの状況を報告してみたいと思います。 160606-1.JPG <経済・医療・教育> まず、今日のキューバの経済、医療、教育分野の状況を簡単に紹介しましょう。 キューバの主要産業は、サトウキビを主とする農業です。しかし石油や化学肥料を不可欠とする近代的農業は、90年代のソビエトと東欧ブロックの崩壊によって支援も交易も大幅に減ったことで大きな打撃を受け、その後もハリケーンや経済危機が重なり2000年代も停滞が続きました。やっと2010年代以降回復してきましたが、生産性や効率的な農業とはほど遠い状態が続いています。2015年においてもトラクターは15人の農業従事者に1台しかなく、馬や牛がいまだに農耕労力として使われている、という事実からも停滞状況が容易に想像されます。 人口1100万人のカリブの島国キューバの就業者の9割は国に雇用されている公務員で、給料は職種にほとんど差異はなく、月に20から40USドル(2015年現在)です。しかし生活必需品をまかなうには給料の約2倍の費用が実際にはかかるため、外国に家族がいる人は、そこから仕送りを受けている人は多く(革命以降キューバから外国へわたったキューバ人は100万人を超えます)、総額25億USドルになる海外からキューバへの送金は、サービス業、観光業に次ぐ国の第三の主要収入源となっています。 一方、 バイオテクノロジーを駆使した製薬産業が近年、大きく伸長しています。キューバはB型肝炎や肺がんのための医薬品を初めて開発した国の一つであり、世界的にも多くの特許を取得しています。医療関連商品は、2007年において3億5千アメリカドルに達し、砂糖につぐ第二の輸出品となっています。 医療制度は「家族医」という地域医療体制をとっており、国内診療はすべて無料です。医者の数は、2010年現在国民1000人当たり6.7人と世界トップレベルです(ちなみにOECD加盟国の平均が3.2人で、ラテンアメリカ諸国の平均は1.8人です。)医療の質は世界的にも定評があり、 2013年新生児死亡率は1000人に3人で北米(4人)よりも少なく、2012年のWHOのレポートによると、結核感染率も世界的に最低の国です。充実した医療のおかげで平均寿命も79歳と アメリカ南北大陸すべてあわせたなかで最長寿国であり、世界的にみても先進国並みの長寿国です。 教育は9年間の義務教育から大学などの高等教育まですべて無料で、就学率と識字率は共に100%です。キューバの国民全体の教育水準は、ユネスコの2010年度の調査では、対象120カ国の中でニュージーランドとデンマークにはさまれて16位に位置し、ラテンアメリカで最高峰にあるだけでなく、世界的にも最高レベルの水準にあります。 これらを総じてみると、主要産業である農業の現状からは「貧しい国」「途上国」のように思えますが、医療と教育面では世界でもトップの位置にあり、医療分野のハイテク産業が発達しているという事実には、国の生活水準が高いという印象を受けます。換言すれば、わたしたちは通常経済性を計る尺度として使っているGDPのような経済指標や、「途上国」、「先進国」といったカテゴリーではうまく言い表せないこと自体が、キューバの大きな特徴だといえるほどです。 <デジタル時代> このように通常わたしたちが用いている一般的な尺度や規格から幾重にも外れるキューバですが、今日のデジタル時代の潮流においては、どのような状況下にあるのでしょう。 もともと社会主義を掲げるお国柄であり、長いあいだメディアは政府に厳しく統制されてきました。それに加え1993年の経済危機以降は、資源を節約するため出版物や映画の配給も制限されてきました。 一方、近年では、新しいデジタルメディアである携帯電話とインターネットの利用が少しずつですが可能になってきています。2008年以降携帯電話の所有手続きが簡素化され、個々人宅でのインターネット接続は未だ認められていませんが、2015年からはWLAN のホットスポットが主要都市で整備されるなど、公共空間のインターネットへのアクセスも急速に整備されつつあります。しかしインターネット接続料金は2015年にそれまでの半額になったとはいえ、2016年現在も1時間で2USドルほどかかり、現地の人たちにとっては非常に高価な代物です。このため、インターネットを使っている人の割合は、いまだ全国民の5%にすぎず、国民全体の利用者の割合はラテンアメリカでも最下位です。 160606-2.jpg 160606-4.jpg メディア分野同様に発達が非常に遅れているものに、モビリティー(移動性・移動手段)分野があります。公共交通は不十分のようでたまにみかける旧式のバスが走っていますが、車内はいつも超満員で、トラックを改造した輸送手段や幌馬車風の馬車、自転車タクシーが未だ健在です。高速道路ではヒッチハイクを求める人を大勢みかけました。新車や中古車の新規個人購入は2010年代から解禁となりましたが、いまだ多くの人には自家用車は高嶺の花です。国内を旅行中、大都市を除くと街中に看板がほとんどありませんでしたが、これは、商店を訪れる人がみな地元の人のためどれが何の店かわかっており、わざわざ看板を作る必要がないためではないかと思われます。 160606-3.jpg 日本やスイスの今日の状況では、物理的な移動が楽にできるだけでなく、インターネットによって壮大なバーチャルな世界と常時つながることができ、さらには移動中も常にオンラインでいることも当たり前となりつつあります。これに対し、非常に限られた情報とモビリティー条件下の大半のキューバ人 にとっては、バーチャルの世界は存在しておらず、身近に移動できる領域内の、24時間リアル(現実)の 物理的環境がすべてです。そのような場所での暮らしが、一体どのようなもので、そのような状況下では生活や世界観がどれだけ変わりうるのか、それを想像するのも難しいほど、同時代に生きているにも関わらず、キューバとわたしたちの状況には大きな隔たりがあります。 キューバとわたしたちの世界、一概にどちらが優れていると言えるものではありませんし、まして制度が異なる国々を国民が勝手に選べるわけでもありません。しかし一つ確かなことは、今後、キューバでも経済改革とともに、デジタルメディアへのアクセスや交通手段は大幅に自由化・多様化され、今日わたしたちが享受している環境に遅かれ早かれ近づいていくことです。医療や教育を充実させてきたものの、半世紀にわたって世界との自由な交流から閉ざされ、デジタルメディア革命からも取り残されてきたキューバの人たちは、今後どのようにデジタル時代を迎えていくのでしょう。これからのキューバの歩みは、これまでの半世紀の型破りな独自の道同様、前人未踏の実験性に富んだものとなることでしょう。それを考えると、これからもキューバから目が離せなくなりそうです。 //// 主要参考サイト Wenn Kuba sich öffnet, Kontext, SRF, 21.3.2016. Kubas Geldträume. Vom Kommunismus zur Marktwirtschaft?, Makro, 21.11.2014, 3sat Kuba, Wikipedia (2016年5月30日閲覧) Medizin für alle. Das kubanische Gesundheitssystem, Makro, 21.11.2014, 3sat Kuba: Ärzte pro 1000 Einwohner, Fact Fish (2016年6月3日閲覧) Anna Jikhareva, Ausgerechnet Kuba, Tagesanzeiger, 24.10.2014. Michael Stürzenhofecker, Reich werden nur einige, die Zeit, 13.4.2016. MEDIZIN Bioboom in der Karibik, Der Spiegel, 05.07.1999. Education for all Development Index (EDI), UNESCO, 2012

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振 興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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ジャーナリズムの未来 〜センセーショナリズムと建設的なジャーナリズムの狭間で

2016-05-26 [EntryURL]

新聞社や放送局などの伝統的なメディア産業はどこも購読者数や視聴者の減少を食い止めることができず、存続の危機にある、とよく聞きます。一方、危機的状況であることは認めつつも、それは、通常言われるような多様に氾濫するデジタル情報や無料のニュースとの競争激化などの外的な要因によるのではなく、むしろジャーナリズム自体の内在する問題のためだ、と言う人がいます。前回の記事「『リアル=デジタルreal-digital』な未来 〜ドイツの先鋭未来研究者が語るデジタル化の限界と可能性」で紹介したドイツ語圏で未来研究第一人者として知られるマティアス・ホルクス氏Matthias Horxです。ホルクス氏は、自身がかつてジャーナリストとして働いていたこともあり、ジャーナリズムの問題を、内部と外部の両面から冷静に指摘し、ジャーナリズム の変革の可能性をかかげます。具体的にジャーナリズムのなにを糾弾し、どのような改革の必要性を論じているのでしょうか。そしてそれは、今日のどんな潮流と結びついているのでしょうか。今日のジャーナリズムをめぐる状況や抱えている問題は、世界的に共通する部分が多く、日本の方にも一見に価すると思われるため、今回ご紹介したいと思います 。ジャーナリズム全般に関心がある方や、前回のコラム記事でホルクス氏の一刀両断の物言いに思わずうなった方はもちろん、日々大量のメディアに浸っている一方、普段メディアの効用や問題性についてほとんど意識していないすべての方に、立ち止まって考えるよいきっかけを作ってくれるのではないかと思います。 メディアのネガティブなものに対する依存体質 ホルクス氏が、メディアにおいて最も大きな問題と捉えているのは、一見メディアの死活問題に関係ないように見えますが、メディア全体を支配しているネガティブな物事に対する比重過多の体質だと言います。雑誌やニュースは、明日にでも世界は滅びるかのような語調で語られ、討論番組は「国家は市民をまだ守ることができるのか」とか「高齢者総貧困化」など黙示録的な題目をかかげ、あげくの果てには、視聴率をあげるために叫んだり怒鳴り合うだけでなんの結論も出てこない、と非難します。実際に世界的に報道されているニュースの6割がネガティブなニュースという統計もあります。センセーショナリズムとネガティブな報道はいまにはじまったものでなく、「批判的精神」という名の下に、これまで受けついできたジャーナリズムの遺産であり、今日まで「悪いニュースはいいニュース」が暗黙の黄金律になっているが、このままで本当にいいのか、とホルクス氏は問いかけます。 氏の答えははっきり、否です。なぜなら、地球上の大多数の人間が平和裡に暮らし、その生活水準も治安も健康状態も、過去数十年間で全体として 明らかによくなってきているのに、ニュースではいつも世界中で大惨事が起きているように報道されるのは、全体像を把握する上でバランスを非常に欠いていると考えるからです。 また、ネガティブな報道ばかりに浸っていれば、当然不安があおられ、社会全体が恒常的なパニックや過敏なヒステリック状態になります。 不安を感じ、そこから逃れるための性急な解決案を望む人たちが増えれば、政界ではポピュリズムの政党の勢力拡大を許すことになります。現在、ヨーロッパやアメリカにおいて台頭するポピュリズム政党をあげようとすれば、ドイツやイタリア、東欧諸国など枚挙に暇がありませんが、これらの勢力拡大が進んだ背景にジャーナリズムの影響は大きいと考えます。 確かに多くの人は昔も今もセンセーショナルな話題やゴシップが大好きであり、時代は紙面からデジタルに変わりつつあっても、常に大勢の読者に要望されていることは、無料ニュースのよく見られているもののトップランキングをみても明らかです。上位を占めているのは、いつもゴシップ記事や三面記事的な事件や災害の内容が圧倒的です。 160526-1.jpg そして実際、今日のデジタル・メディアは、高いクリック数を叩き出るためにこれらのテーマに飛びつき、金儲けに走っている傾向が強くみられます。また、センセーショナルなタイトルなどで、人の興味をひきながら、実際の内容はそれと異なったり、内容が薄くて失望させる「釣りタイトル」のようなマーケティングのトリックを節操なく使ったりもしています。 しかしクリック率を上げるために、安直にそれらのテーマやトリックを使い続けていたら、どうなるのでしょうか。メディアにとって命とりになるとします 。まず、メディアがよってたかってすべて同じような報道をすることになれば(実際に現在のウェッブ上のニュースはこの傾向が強いですが)、論理的な帰結として、特に気に入る記事もなくなることになり、全体として記事につく「お気に入り」クリックの数は減少の一途をたどる傾向を食い止められないでしょう。さらに、一時的に財政を潤わせても、長期的にジャーナリズムにとってろくなことは一つもありません。節操ないトリックを使い、扇動的な内容ばかりを流すメディアに読者に嫌気がさした時、メディアは、なににも代えがたいメディアそのものへの信頼を失うこととなり、そのようなメディアは自滅します。 デジタル媒体の使い方 ホルクス氏は現状のジャーナリズムの体質と体制を抜本的に代えない限り、ジャーナリズムに将来はないとする一方、今日、ジャーナリズムには未曾有の大きなチャンスが横たわっている転機だともいい、具体的な改革点を提示します。 まずメディアやジャーナリスト自身がそれぞれ、なんの目的で、どのようにデジタル媒体を使用するのか、はっきり自覚し、それに沿う形で使うことを勧めます。これまでの大きな問題は、どのメディアもデジタル媒体を使って可能なことをすべてしようとしていることだったと言います。日刊紙がデートのポータルサイトを作ったり、ニュース専門誌のウェッブサイトで男性靴下の販売などに関わり、そこで得られる個人情報をもとに新たなビジネスに結びつけることに執心しています。その一方、はなから将来はメディアの報道では十分収益あがらないと諦めて、また中核であるはずのメディアの中身はもはや重要ではなくなったと幻想をもっているようにすらみえます。しかしそれはとんでもない大間違いだ、と反論します。そして、オンラインでもいいものがつくれるし、いいオンラインとプリントアウトしたものを組み合わせることもできるが、 オンラインでいくらきれいに飾り立てても、低質のコンテンツ報道では失敗するだけだとします。 ちなみに以前、顧客とメディア業界をデジタル・サービスで結ぶつける新たなサービスとしてデジタル・キオスクが ヨーロッパ に急速に広がっていることを以前「ジャーナリズムを救えるか?ヨーロッパ発オンライン・デジタル・キオスクの試み」で紹介しましたが、これは、ホルクス氏が言うようなオンライン技術を組み合わせで成功した例の一つにあげられるでしょう。このデジタル・キオスクの登録者数は2年足らずでオランダとドイツで65万人以上に達し、今年3月からは北米にも進出しています。 ジャーナリズムにおける黄金時代という逆説 またホルクス氏は逆説的に、大手ソシアルメディアやグーグルなどがこぞってニュース産業に参入しており、無料のニュースが氾濫しているという現状だからこそ、良質のジャーナリズムの需要もまた高まっているとも言います。よいジャーナリズムとは、見えるままの事実を報道するのではなく、意味のあるものとないものを判別し、事象の背景を探り、分析し、解釈したもので、言わば社会を照らす灯台の役割を担うものであり、そのような役割は、あまたのフリーのニュースソースがあってもそれらに代替されるものではないと考えます。そして、そのような役割を担ってこそはじめて、ジャーナリズムは、デジタル時代にも経済的にも存続できることになるとします。 その一例として、氏が80年代まで勤務していたハンブルクのリベラル週間新聞「ディ・ツァイトDie Zeit 」をあげます。この新聞は長い特集記事が特徴で、当時いずれ誰も読まなくなると言われていましたが、現在は、経済的にもメディアの影響力としても黄金時代を享受しているそうです。 160526-2.png
「ディ・ ツァイトDie Zeit 」 (デジタル・キオスク上の紙面)
ここまで聞いて昨年末のスイスのラジオで聞いたノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング(略してNZZ)のソシアルメディア編集員の話を思い出しました。スイスを代表する日刊経済新聞であるNZZでも、 長文の特集記事に力をいれており、概ね好評だという話です。NZZデジタル版(一部有料)のクリック数が多いものやシェアされている記事をみると、分析的な記事や背景について調査した長文のものが多く、 昨年末の時点で、フェイスブックで最も多くシェアされたNZZ の記事も、ルーマニアの市民社会における民主化への変化についての特集記事だったといいます。実際にこの記事のコメント欄をみてみると、このような記事を読むためにNZZを購読している、ルーマニアのイメージが変わるポジティブな記事だ、といった執筆者やNZZへの賛辞が書き込まれていて、実際に記事に満足している読者の姿がかいまみえる気がします。 ホルクス氏の主張と合わせると、どこの国においても、社会の出来事を表層的に追うのではなく、分析的な視点で解釈、説明するようなニュースのコンテンツを求める潜在的な読者数は、今後もメディアの多数派にはならないにせよ(つまり、タブロイド系の話題や猫のビデオが上位にランクングされるニュース・コンテンツが、これからの時代も高い人気を保つことは変わらないにしても)、決して少なくはないと言えそうです。 建設的なジャーナリズム ジャーナリズムを改革するほかのひとつの策として、ホルクス氏は 「建設的ジャーナリズム」 という考え方にも注目します。この考え方はもともと、デンマークの公共放送局報道局局長ウーリック・ハーゲルップ氏Ulrik Haagerup が実際の番組構成にあたって推進してきたものです。彼の2012年に出された著作『建設的ニュース Constructive news』が昨年ドイツ語に翻訳されたこともあって、ドイツ語圏でも徐々に知られるようになりました。 160526-3.png
ウーリック・ハーゲルップ著『建設的ニュース Constructive news』(ドイツ語翻訳版)
ハーゲルップ氏は、公共放送において単なる出来事や、社会のヒステリー化を助長するトークショーとは違う、別の報道の形があるべきではないかと考えました。そしてたどりついたのが、現状を報道するだけではなく、一歩前へ進み、解決の可能性を意識し、実際に模索しながら「建設的に」報道するというものです。しかし、単に形式的あるいは表層的に取り繕ったり、ポジティブなことを無批判に報道するということではありません。例えば公共放送の討論番組においては、単に参加者がそれぞれ意見を主張するのではなく、課題や問題を前に共同して解決方法をみつけるように義務づけました。ハーゲルップ氏によると、デンマークではこのような報道姿勢の変化の結果、ニュース番組が15年ぶりに最高の視聴率を記録するなど、視聴者からの肯定的なフィードバックを享受し、経済的にも成功したと言います(ヨーロッパの公共放送は広告を放送し、広告収入を得ています)。ちなみに、このようなハーゲルップの提案は、概ねジャーナリストからも好意的に受け取られているといるとのことです。唯一反対されたのが、五〇代以上の自分のやり方を変えることに強い抵抗を感じる世代だったと言います。 ホルクス氏によるとドイツでも「建設的ジャーナリズム」への関心は高まってきており、「建設的ジャーナリズム」をかかげたウェッブサイトが、クラウドファンディングですでに成功をおさめているといいます。また、最新の短期的なニュースを追うのではなく、長期的に影響する話題やテーマを扱うスロー・ジャーナリズムという従来の報道と異なるメディアも形成されてきており、経済紙でも良質のスロー・ジャーナリズムを売りにした雑誌がでてきていることにも言及します。 このように今後もこれまでと変わらず、よいジャーナリストが良質の記事をかくことはできるはずだと確信しているホルクス氏ですが、そのためにはまずメディア関係者は、メディアを取り巻く環境や可能性にふりまわされず、改めて自問自答しなくてはいけないといいます。コンテンツにほとんど差異もなく、収益も低い競争市場で互いに足を引っ張り合う中に留まりたいのか。それともほかのメディアと違うものを作りたいのかと。そして、独自のコンテンツを世に送り出したいのなら、ジャーナリズムとしてなにに主眼を置くべきなのか。デジタル時代の未曾有のニュース・メディア競争の勝負にのぞんでいく自覚と覚悟が、メディア関係者やジャーナリスト一人一人に改めて問われていると言い換えられるかもしれません。 ジャーナリズムと人工知能 ところで、今回注目したホルクス氏の発言では一切言及がありませんでしたが、人工知能が記事を書くことが最新の話題としてここ半年ほどメディアで多く報道され、近い将来ジャーナリストの仕事がなくなるのではという危惧も聞かれますが、これについては、ホルクス氏はどのようなコメントをするでしょうか。前回の記事で紹介したホルクス氏が理想とするデジタル・ツールとアナログ形態をバランスよく組み合わせた「レアル=デジタル」志向に沿って考えれば、氏にあえて聞くまでもないのかもしれません。 人工知能が書く記事の量は相対的に増えるようになっても、一方でデジタル・ツールをうまく使い、ジャーナリズムに必要なデータ収集や調査を効率良く行うことで、ジャーナリストにとってより洗練した記事を世に次々と輩出できるような環境も整うはずだ。そうやって人に書かれた記事を、人工知能の書く記事が、質的に超越することにはならない。しかし実際に人がそれを書けるか否かは、結局ジャーナリスト本人の意思次第であり、ジャーナリズムを生かすのも殺すものも、 人工知能などの外部要因ではなく、報道側の姿勢と力量にかかっている、 そんな主張が聞こえてきそうです。 実際に、アメリカの ジャーナリズム養成カリキュラムにおいて、プログラミングなど情報処理能力を重視するようになるなど、デジタル時代にふさわしい新しい力量をジャーナリストに強化すべく、アメリカの大学ではすでに動きだしています。 未来のジャーナリズムが、ジャーナリストが独占する仕事という形態では存続せず、「ジャーナリスト、データ分析官、プラグラマーがいっしょになってジャーナリズムを作り上げていく」(Roche, 2016) という時代が、すぐそこまできているということかもしれません。 /// 参考サイト、文献 —-マティアス・ホルクスのジャーナリズムの問題と改革への提案について Matthias Horx über Netzkommunikation”Die Erregungskultur, die wir erzeugt haben, ist toxisch” (Moderation: Andre Zantow), Deutschlandradio Kultur, 2.4.2016. 1000 Freunde bei Facebook sind die neue Einsamkeit, Zukunftsforscher Matthias Horx prophezeit Medien, die Sinn stiften, eine grosse Zukunft- und sieht Anzeichen für eine neue Offline-Kultur als Gegengewicht zur allgemeinen „Verschitstormung”, Handelsblatt, Wochenende 6./7./8.5. 2016, Nr.87. —-NZZソシアルメディア編集員のコメントと、シェア数が最も多かった記事 «2015 - fünf Versuche» (2/5): Das Phänomen der Abstinenz, Kontext, SRF, 29.12.2015. (本文で紹介した内容は、特に番組の38分ごろ) Jens Schmitt, Lichtblick im Osten, NZZ, 26.11.2015. —-ハーゲルップの建設的ジャーナリズムについて «Das Unerwartete macht uns schlauer», Mit Ulrik Haagerup sprach Jean-Martin Büttner, Tagesanzeiger, 5.9.2015. Mathhias, Sander, Der Journalist, dein Freund und Helfer, NZZ, 7.7.2015. Konstruktiver Journalismus, 100 Sekunden Wissen, SRF, 19.4.2016. —-スロー・ジャーナリズムの例 brand eins Perspective daily —-人工知能とジャーナリズムについて Sophie Roche, Wenn Algorithmen Texte schreiben - Roboter im Journalismus, Arte, 27.4.2016. Sophie Roche, Das Internet gefärdet den Journalismus nicht, Arte, 27.4.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振 興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「リアル=デジタルreal-digital」な未来 〜ドイツの先鋭未来研究者が語るデジタル化の限界と可能性

2016-05-20 [EntryURL]

未来予測に異議を唱える未来研究者

最近、日本でもヨーロッパのメディアでも、未来の生活や就労状況の変化をテーマにした特集や議論が非常に多い気がします。急速な人工知能の発達で単純な仕事だけでなく、専門性の高い仕事やクリエイティブな職場も奪われるとか、世界的に中間層が急速に減って貧富の差が拡大していくなど、センセーショナルな内容で、思わず耳を傾け、話に引き込まれる方も少なくないのではないかと思います。そして、これらの話題を繰り返し聞いているうちに、自覚症状があるかは別として、そのような未来のイメージが本当に起こることのように、徐々に頭のなかに浸透していっているケースも多いように思います。 しかしそのようなメディアの報道から一線をおき、それどころか頻繁に異議を唱え、一定の見方に定着しそうな世論をかき回す異色の人物がドイツにいます。ドイツ語圏では最も著名な未来研究者と評されるマティアス・ホルクス氏 Matthias Horxです。1998年に設立された彼の率いる未来研究所は、ヨーロッパのトレンドと未来において最も影響をもつシンクタンクと言われるほど名高く、ドイツ語圏メディアの常連マルチ・コメンテーターといったところです。 ホルクス氏は、まず未来に関する内容うんぬん以前に、大方のセンセーショナルな報道が根拠とする思考回路を批判します。例えば、目新しい派手な技術的な発達を、直線的な進化論にのせてトレンドを予測するようなものは、「原始的で」非常にレベルの低い未来予測だと一蹴します。彼にとっては、次々に出てくるメガトレンド(社会に大きな影響を与える新しい技術やトレンド)は、直線的に普及したり、社会に影響を与えることはありえません。メガトレンドは必ずそれへ反発する(反動的な)トレンドを生み出しますし、それらが常にからみあい変化を互いに起こし合う複雑系であるためです。そして、これらのことを総合的にとらえなければ、未来は理解できないどころか、まったくまちがった予想になる危険が多々あるといいます。 ここで特に、見過ごされがちで問題なのは、メガトレンドによって社会のシステム自体が変容することです。社会システム自体が変容することによって、従来の供給と需要の形やあり方も根幹から変化します。社会はこのような様々なトレンドとそれからの連鎖反応、またシステム自体の変化を続けながら、スパイラル構造で進化をとげてゆきます。このため、既存のシステム構造枠で捉えることができない未来像の抽出には、非常に多角的な視点が必要になります。ホルクス氏の未来研究所では、キーとなるメガトレンドとして、グローバリゼーション、治安、都市化、ジェンダーなどの主要なテーマと、それぞれのテーマ領域のキーワードをまとめ、地下鉄路線図になぞらえて、路線と駅の形でわかりやすく示し、説明しています。 160520-1.png

未来研究所のメガトレンド・マップ (出典: http://www.zukunftsinstitut.de/index.php?id=1532)
無論ホルクス氏は、 メディアの諸説に批判を加えるだけではなく、独自の視点にたった秀逸な未来への展望も抱いています。ただし、ホルクス氏が掲げている未来についてのそれらの指摘は、センセーショナルで目新しいというものではなく、むしろ地味なものです 。しかし社会の断片だけではなく、広い社会との相関関係を視座にいれて捉えたものであり、(普通のメディアで報道される他人事のように感じる未来像とは違って) 現代に生きる私たちにもしっくりくる感じがし、それが逆に新鮮に感じられるほどです。この少し毛色の違う未来像について、 デジタル・テクノロジーと仕事を中心に、ほかの未来予測への痛切な批判をまじえて、今回 紹介してみたいと思います。ただしわかりにくい概念や唐突な言葉使いには、ホルクス氏の表現だけでなく、わたしなりの理解に基づいた言葉で補足・代替させていただきましので、ご了承ください。ホルクス氏の仕事にご興味を持たれた方は、最後の参考サイトなどをご参照になって、直接ご覧になることをおすすめします。

デジタル・テクノロジーの前途

未来についての話で、とりわけよく話題性が高く、メディアでももてはやされるのが、新しいテクノロジーを搭載した新機能でしょう。足りないものを自ら注文し、必要な食品を常に備蓄する自宅の冷蔵庫や、臨場感が日進月歩で増しているバーチャルリアリティーなどがその好例でしょう。しかし、ホルクス氏は、そういうものについて、それが本当に欲しいですか、とまずは読者やインタビュアーに問いかけます。そして、言わゆる「スマート冷蔵庫」が技術的に可能だということはすでに20年前からメディアで繰り返し取り上げられいるが、ホルクス氏の知る限り「スマート冷蔵庫」を取り上げたジャーナリストをはじめ、それを実際に持っているという人をまわりに聞いたことがないことを例にあげながら、欲しいと思う人が少なく技術は、そもそも普及する素地がないのだからと、議論を早々に見切ります。 同時に、外的環境の変化という別の客観的な状況を示唆します 。20年前に比べて (ヨーロッパでは)近年、できあいの食事や料理宅配サービスの種類も顕著に増加し、ファストフードやストリートフードのような気軽な外食の機会も増えてきました。このような状況下、その日食べたいものを冷蔵庫が決めるのではなく、自分で決めたいと思う人が多くなるとすれば、冷蔵庫に常備しておくことの意義は相対的に薄れます。むしろ、冷蔵庫の備蓄が充実していることが、フレキシブルであることに重きを置くライフスタイルにおいて、支障にすらなるかもしれません。(ちなみに、ホルクス氏は新しいものに好奇心をもち、それと同時にいつも流動的で柔軟な行動をとるこのようなライフスタイルを 「Flxicurity(フレキシビリティと好奇心の英語を組み合わせた造語)」と表現し、未来を語るキー概念の一つとしてよく使用します。) 160520-2.jpg ウェアラブルコンピューターについても、どれだけ需要が持続してあるのか疑問を呈します。ホルクス氏は1年間、ジョギングの際にウェアラブル端末を使って健康管理をしていましたが、自分でだいたい見当がつくようになったので装着をやめたとのことで、革新的なテクノロジーで最初は好奇心を強くそそられるものであっても、常に離せなくなるという類のものになるとは限らないことを強調します。バーチャルリアリティーに関するテクノロジーも同様です。一部の人々の間では非常に注目・愛好されている技術ですが、今後も裾野の広い需要につながるかについては、やはり猜疑的です。これらの話で共通しているのは、画期的なテクノロジーが発達しても、それが普及するかは全く別の話であり、一見便利そうで心惹かれても、持続的あるいは大規模な需要に結びつくとは限らない、というしごく真っ当な指摘です。 ちなみにスマート冷蔵庫など、インターネットに繋がったいわゆるIoT (Internet of Things) 機器が、非常に大きなセキュリティー上の問題があるという指摘が、今月のNZZ新聞の紙面で大きく取り上げられていました。ヒューレット・パッカード社のセキュリティー専門家が、主要なIoT機器10種を調べたところ、平均して一つの機器で25のセキュリティー上の欠陥がみつかったとのことです。報告では、10機器のうち9機器が不必要な個人情報を集め、製品の70%はデータを個人情報保護するための暗号化の措置がとられていなかったも明らかになりました。数や質によっては、これらの技術的な問題も普及への大きな障害にもなると考えられます。

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デジタル化の限界

ホルクス氏は、今日社会全体に急速に進んでいるデジタル化に関して、その普及の限界があることも示します。これまでのビジネスモデルを多く観察した結果、急激なデジタル化のプロセスが問題を起こすことが多く、むしろデジタルをうまく利用したアナログ形態のほうが成功していたという事例をもとに、世間ですべてはデジタルかするとよく言われるが、そうとはならないと言い切ります。そうならないのは、なにより我々はデジタルなものが完璧にぴったりするほど、「我々はデジタルではない」ためであり、結果としてデジタル・ツールとアナログ形態の中間的な利用方法・形態が、今後も有望であり続けるともします。そして、そのような形態を、「リアル=デジタルreal-digital」という独自の概念で呼びます。 端的な例として、15から20年ほど前、ホルクス氏は講演するたびに、目の前にしてしゃべる講演という形態はすぐに消滅するだろう、と言われたことをあげます。講演する方はデジタル技術のおかげで、4つの壁に囲まれたところで話し、それをオンラインで受信するようになると、当時多くの人が想定していました。教育界でも同様に、急速にデジタル化すると考える人が主流だったといいます。しかしその後 、人類学的な研究から本当の人間間には繊細な条件があり、デジタルでは代替できないことがわかってきており、デジタル化の可能枠と限界が、個々人の思い込みからでなく、客観的に判断できるようになってきたといいます。 そして、社会のデジタル化よりも、むしろ今日深刻な問題となりうるものとして、デジタル化によって急変している人間関係をあげます。例えば、女性は依然リアルな人な関係を重視し、バーチャルリアリティーへの関心はあまり広がっていないのに対し 、男性の一部ではバーチャルリアリティーにのめり込みすぎて、現実社会との壁ができて社会的関係が途絶えていく傾向の人が増えています。また、フェイスブック上では1000人の友達がいるのに現実の社会関係が希薄、という矛盾も起こりつつあります。そして、これらの例は、デジタル化を通して、これまでなかったような新しい孤立状況に陥る危険性を示しているとします。

未来の就労状況

人工知能の発達や費用ゼロ社会の実現化によって仕事が失われる、という最近の言説についてはどうでしょうか。このような危機感に訴える言説はいつも説得力をもって聞こえたし、今もそうだと、社会心理として一定の理解を示すものの、原油の値段が現在これまでにないほど安価になることを少し前まで誰も想像していなかったのと同様に、なんの根拠もない未来予想だと、一刀両断に切り捨てます。 なぜなら前述のように、どの新しい技術も新しい状況を生み出すだけでなく、社会全体のシステムに複雑な反応の連鎖を作り出し、システム自体も変化させるため、直線的には予想ができず、逆に全く予想しなかったような新しい需要を生み出すことにもなるはずだと考えるためです。例えば、自動化が進んだ工場は、さらに専門性の高い高度なサービスを行う専門家の需要を生み、自動化で解雇された人たちは、過去には思いもつかなったような新しい仕事につくのかもしれません。職場に自動化がすすめば、すぐに(運動不足にならないように)フィットネスクラブのような運動に関する市場を生み出しますし、いつでも情報が入手できることによって、専門性の高い仕事は減るのではなく、芸術や娯楽、コミュニケーションなど新たな方向で、知識がもっと多様に発揮される仕事が生まれるなど、今後もそれぞれの分野でも、複雑な怒涛の滝のように新たな現象や生まれ、それに伴いサービスが生まれてくると考えます。

まとめ

ホルクス氏の中心的な指摘をまとめてみましょう。
●社会は多様なトレンドとカウンタートレンドが連鎖しながら変化していくため、単純にある新しいテクノロジーやトレンドから未来像を語ることは難しい。
●テクノロジー神話がメディアで繰り返し報道されていても、「愚かなテクノロジー (ホルクス氏の原文ではBullshit-Technologie)」は、市場を制覇するようにはならない。
●わたしたち人間はリアルに生きているのであり、現実(リアル)の生活に適応するサービスとしてデジタル媒体は完全な代替はできなく、補充するものという位置付けでなくては、最終的に成功するモデルにはならない 。同様に、人の仕事が、デジタル媒体に完全に代替されることもない。 ホルクス氏の発言は、いつも歯切れがよく明快で、物議をかもすこともあるようですが、広い視座から見渡すことで、近年の「未来」という名のもと、わたしたちの身のまわりに様々な形で近年立ち込める見通しの悪い暗雲を、造作無く吹き消し、未来の時代をかいまみせてもらったような気分になります。もちろん、これらのホルクス氏の諸説を最終的に信じるに足りるかは、個々人で判断するしかありませんが、仮に信じることができたとしたら、未来に確実に起こることがひとつあると思います。それは、未来メディアの報道に一喜一憂しながら、未来を憂慮する時間が大幅に減り、代わりに自分の目指すものや、目下抱えている課題に時間と労力を集中できるようになる、という自分自身のなかの変化です。

/// 参考サイト —-マティアス・ホルクス氏の未来研究所と関連記事 未来研究所 Matthias Horx über Netzkommunikation”Die Erregungskultur, die wir erzeugt haben, ist toxisch” (Moderation: Andre Zantow), Deutschlandradio Kultur, 2.4.2016. Matthias Horx über die Zukunft der Arbeit: “Work-Life-Balance ist eine Illusion”, Spirlraum, Xing, 5.2.2015. TÜV AUSTRIA-Vortrag von Matthias Horx: Sicherheit, Qualität und Technik in der Zukunft, 6.3.2015. 1000 Freunde bei Facebook sind die neue Einsamkeit, Zukunftsforscher Matthias Horx prophezeit Medien, die Sinn stiften, eine grosse Zukunft- und sieht Anzeichen für eine neue Offline-Kultur als Gegengewicht zur allgemeinen „Verschitstormung”, Handelsblatt, Wochenende 6./7./8.5. 2016, Nr.87. —-ほかの参考コンテンツ・サイト Stefan Betschon, Mitfühlende Kühlschränke, hellsichtige Glühbirnen, Forschung und Technik, NZZ, 13.5.2016. Trend, SRF, 30. 4.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振 興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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映画「フクシマ、モナムール Fukushima, mon Amour」 〜ドイツと日本をつなぐ眼差し

2016-05-15 [EntryURL]

ロゼリー・トーマスと桃井かおり主演のドイツ映画「フクシマ、モナムール Fukushima, mon Amour」の上演がドイツで3月10日からはじまりました。この映画は、今年2月に開催された世界3大映画祭の一つとされるベルリン国際映画祭にも出品され、国際アートシアター連盟賞(CICAE)など三つの賞に輝いたこともあり、ドイツの主要メディアでとりあげていないものを見つけるのが難しいほど、今年2月から4月にかけてメディアで大きな話題になりました。スイスでもメディアで取り上げられ、各地での上映がはじまり、わたしも先月4月に地元の映画館で鑑賞することができました。 この映画は、昨年2015年初夏に、原発事故地点から11キロ離れた年頭に避難解除されたばかりの被災地と、12キロ離れた避難所を中心に数ヶ月にわたり撮影されて、作られたものです。日本人もほとんど立ち寄らない場所に、あえてドイツ人が赴いて長期の撮影に臨んだことに、好奇心をくすぐられた人も多かったのでしょう、ドリス・デリエ監督に映画を作った背景について質問するインタビュー記事も多く出されました。これらのインタビューに目を通していくうちに、監督自身が映画に、二つの方向に向けて思いを込めていたことがわかってきました。そして、原発についてはとかく日本では国内の議論や視点に集中しがちですが、監督の指摘によって、思ってもいなかった方向に視界が開かれた気がしました。 160515-1.jpg
「映画フライヤーの一部」
この映画に関しては、映画祭の賞の受賞の時には日本でも注目されたようですが、それ以後はほとんど報道されておらず、日本国内の上映予定も未定のようですが、被災地を舞台にしたドラマをあえて作成して、ドイツ人が一体なにを伝えようとしたのか、知ってもらえる機会になればと思い、今回、監督自らが語る映画の(あらすじではなく)背景や、そこに込められた思いを、ご紹介したいと思います。 <作品ができた背景> ドリス・デリエ監督は、今月末に61歳になるドイツでは著名な女性監督で、1985年に東京の映画祭に参加するため初めて来日して以来、25回も来日している親日家であり知日派です。日本を題材にした映画もこれまで3本撮っており、2008年に公開になった「HANAMI」では、ドイツ映画賞銀賞を受賞しています。 デリエ監督の今回の映画構想は、原発事故直後にさかのぼります。原発事故以降日本に住んでいた多くの外国人が出国していきました。特にそれ以前から原発の危険意識が高かったドイツ人には、その傾向が強かったようです。ドイツでは日本全国が放射能汚染された危険地域であるかのような扱いであったといいます。そのような状況に監督は憤りを感じ、何が起きたのかまず自分の目で確かるべく、事故から半年後の秋に、日本を再訪します。 そして当時立ち入りが禁止されていた避難地区にも、ガイガーカウンターを片手に許可を得て足を踏み入れ、何が起きたのかを目の当たりにして驚愕したといいます。同時にその惨状をみながら、自分になにか伝えられることができないかと考え始めたといいます。 そして2015年5月、被災の痕跡が生々しく残る南相馬市や仮設住宅敷地で、撮影が開始されました。映画は、登場主演人物こそ架空の人物ですが、舞台となる主役二人が住むことになる家屋やまわりの風景はすべて実際のもので、また仮設住宅に居住する方々にも出演してもらい、事実に寄り添うように撮影されていきました。桃井かおりさんが芸者という設定も、外国人好みの空想の産物ではなく、実際に釜石の芸者さんの話が下敷きとなっており、映画の終盤に登場する3人の若い芸者さんは、その芸者さんが伝授した歌と踊りを披露しています。 <日本へ向けられた思い> 気晴らしの場はもちろん、食堂すら1件もない避難解除地区と仮設住宅地区での数ヶ月に及ぶ撮影が、外国人撮影スタッフにとって骨の折れる難行であったことは容易に想像されますが、それでも映画をあえてとろうとする監督には、映画を通じて特に語りかけたいと思う人たちが当初から念頭にありました。それは、まずは日本の被災者たちでした。 「私にとって重要だったのは、映画の最後になにかなぐさめになることを提供することでした。」「ドイツ人と日本人の間の交流から」ある種の「軽快さが生まれ」、交流を通じて「お互いにその痛みを越える」ことができる、そんなことを、トラウマを抱える日本の人々に示したかった、と監督はインタビューで語っています。そして、どんなにつらいことがあっても、ひとつ「すばらしいことは、わたしたちはお互いのなかに痛みやつらさをみつけることができれば、お互いに本当につながり合うことができる、ということです。このような深い絆は、幸せや喜びよりも、むしろつらさをわかちあうことでより強くなるように思います。」とも言っています。(2月15日付のNDRでのインタビュー)このような思いを日本人に示し、また原発事故の被害者に生きる勇気を贈りたい、という気持ちが映画に託されました。 <ドイツへ向けた思い> 日本から1万キロ離れたドイツでは、福島の事故をきっかけに、それまでのエネルギー政策が大きく転換され、脱原発が決定されました。福島の事故をきっかけに脱原発を政府が公式表明するという、ドイツとスイスの劇的な状況変化について、ドイツ語圏ではよく「フクシマ効果」と表現されます。福島の原発事故は、少なくともドイツやスイスにおいて、政策大転換に決定的に重要な役割を果たしたといえます。 デリエ監督はこのような事実関係を、すこし違う観点からとらえ、独特の言いまわしで表現します。「事故によって脱原発あるいは、少なくともそう向かおうと道を歩むようにな」ったわたしたちドイツ人は、「日本と深い関係に」なったのであり、福島の事故は、日本だけでなく、わたしたちのものでもあるのであり、日本とドイツは原発事故を通じて繋がったと言います。しかし、そうでありながら、ドイツがつながっているはずの片方の先端である、日本の原発事故のその後の状況、汚染地域や除染の進捗状況、また今も避難所で生活している人々の様子などは、ドイツ人にとってあまりよく知られていません。しかしもっとそのことを知る必要があるのではないか、そして「わたしたちが少しはそのことを記憶できるよう」でありたい、そんな思いから、知日派である監督が、ドイツと日本を繋ぐ架け橋となるような作品を「ドイツ人に送ろう」として、この作品になりました。(Vip.deの3月18日のインタビュー) この映画の海外用タイトルは「フクシマ、モナムール Fukushima, mon Amour」ですが、ドイツ語のタイトルは「福島からのあいさつ」です。原発で繋がったドイツ人に対してフクシマから「あいさつ」を送る、そんな思いをこの映画のタイトルにも託しているといいます。 この映画に関するドイツの主要メディアから地域紙まで目を通した20本以上の記事では、どれも好意的な評価があふれていました。また、上映がはじまって2ヶ月を経た5月半ばの現在でも、ドイツ各地(大都市だけでなく中小都市の映画館を含めて)で上映が続いており、動員数は増え続けています。監督のドイツの人へ伝えたかった思いは、ドイツでは順調に伝達されているようにみえます。 ちなみに、今年は福島の事故から5年であるのと同時にチェルノブイリの事故から30年後ということで、原発についての報道が多くされていますが、ドイツでは脱原発に舵をきってから5年の歳月を記念し、これまでの自身の脱原発の歩みを振り返る機会ともなっています。この5年の間で、精力的に再生可能エネルギーの開発に取り組み、原発は遅くとも2022年までに段階的に廃止する明確な計画を打ち出してきました。最終処分場も2031年までに決定される予定です。今年一般向けに、ドイツ連邦環境・自然保護・原子炉安全省がドイツのエネルギー政策の歩みと今後の展望をまとめて一般向けに発行した小冊子においても、紙面が大幅に占められているのは廃炉と最終的な廃棄処分の問題で、原発問題の関心が、廃炉後の次なる長期の国家的な計画の段階にすすんでいることがよくわかります。 160515-2.jpg
「ドイツ連邦環境・自然保護・原子炉安全省の脱原発計画 についての冊子の内容の一部」
一方、福島の原発事故以後、ドイツとほとんど同時に政府が脱原発の決定を政府が下したスイスでは、ここまではっきりした道すじには至っていません。最古の原発は2019年稼働停止することが決まりましたが、ほかの4基については、寿命に制限を設定していないため、 段階的な脱原発の今後の計画が明確になっていません。日本の原発事故のすでに2年後の段階でアンケート調査によると、事故直後と比べ環境意識や省エネ意識がかなり薄らいでおり、今後もその傾向が強まることが予想されます。デリエ監督の言い方を踏襲すれば、ドイツが原発事故以後に日本との「深い関係」をもったのに対し、スイスでは思ったより日本との関係が深くなかった、あるいは関係が、年月をへて薄れてきたと言えるのかもしれません。 話を映画にもどしましょう。監督は知日派であるとはいえ、日本に対し未だに異質と親和性両者の感情が同居していると言います。監督のこのような二つが相反する感情は、映画のなかにもにじみでているように思われます。一方で異質である日本の国やそこに住む人の生き方に、一定の距離を置いてそこでくり広がることを静かに見つめ、またその一方で、親和性を感じる人たちに、遠くドイツから共感の気持ちを示して、傷みを分かち合いたいと手を差し伸べようとする。「日出ずる国」(ドイツ語でも日本のことをよくこう表現します)へ、ドイツからの「あいさつ」とも読み取れる、暖かいまなざしがこめられた比類のない映画だと思いますので、機会がありましたら、日本のみなさんにもぜひみていただけたらと思います。 160515-3.jpg //// 参考文献及びサイト(文中に引用したサイトを含む) —-映画に関するデリエ監督への主要なインタビュー記事 Doris Dörrie: Überleben in Fukushima, NDR.de, Interview, 15.2.2016. „Alle Drehorte mit dem Geigezähler ausgemessen”, Die Welt, 6.3.2016. ‘Grüße aus Fukushima’: Doris Dörrie spricht über ihren neuen Film, Vip.de, 18.3.2016. «In Japan bin ich immer noch ein Elefant», Züritipp, 23.3.2016. Magdalena, Miedl, “Grüße aus Fukushima”: Wo die Angst unsichtbar lebt, Für ihren Film “Grüße aus Fukushima” hat Regisseurin Doris Dörrie direkt in der ehemaligen Sperrzone gedreht, Salzburger Nachrichten, 31.3.2016. „Grüße aus Fukushima”: Liebeserklärung an eine Katastrophenregion, BZ, 6.4.2016. —-映画についてのほかの主要な記事 Seelenreparatur im Sperrgebiet, Tagesanzeiger, 1.6.2015. Walli Müller,”Grüße aus Fukushima” von Doris Dörrie, NRD,9.3.2016. Zum Kinostart “Grüße aus Fukushima” Rosalie Thomass: “Japans Katastrophe ist auch unsere”, Abendzeitung. Das Gesicht dieser Stadt, 9.3.2016. Bert Rebhandl, Doris Dörries Fukushima-Film Japan, schwarzweiß, FAZ, 11.3.2016. Christina Tilmann, Grüsse aus Fukushima. Ein Elefant trinkt Tee, NZZ, 23.3.2016. —-ドイツ連邦環境・自然保護・原子炉安全省の脱原発計画についての冊子 Bundesministerium für Umwelt, Naturtschutz, Bau und Reaktorsicherheit, Alle Aussteigen! 30 Jahre nach Tschernobyl: Was noch zu tun ist, 2016. —-スイス人の「フクシマ効果」と環境意識低下について Der Fukushima-Effekt ist verpufft, Tagesanzeiger, 24.2.2013. Der Fukushima-Effekt ist verpufft, SRF, 11.3.2014.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振 興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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