5000ユーロからの幸福 〜ドイツの経済学者による幸福研究

5000ユーロからの幸福 〜ドイツの経済学者による幸福研究

2016-04-20

幸福とは何が、幸福になるにはどうすればいいか、こんな話題は、哲学・宗教あるいは自己啓蒙本の独断場で、学術研究が入る余地のないテーマだと長く考えられていました。しかしドイツでは、社会や人間の幸福を最大化するという目標をかかげ、80年代かられっきとした学術的な課題として、社会学や心理学、神経科学を中心に実証的な研究が徐々にすすめられてきました。ドイツ、ニュルンベルク工科大学で経済学を教えながら、1990年代半ばから学際的な幸福研究に関わってきたカールハインツ・ルックリーゲル教授は、幸福についてのこれまでの研究成果をまとめ、明快で一般市民にもわかりやすい提言を続けており、その発言は近年、ドイツやスイスの主要な新聞やテレビでもたびたび取り上げられてきました。
経済学者からみて幸福とはどのようなもので、社会全体の幸福を最大化するにはどうすればいいというのでしょう?ルックリーゲル教授の主張は、哲学者の論じる茫漠とした幸福論や宗教書の教条的な幸福論とはかなりトーンが違い、新鮮な示唆に富んだもののように感じます。今回はそのルックリーゲル教授の示唆する内容を、近年の教授のメディアでの発言や論文からまとめて、紹介してみます。
人が個人的(主観的)に感じる心地よい安らかな心身の状態 Wohlbefindenと理解される「幸福」とは、二つの側面から成り立っているとします。日常感じる感情のような感覚的な側面と、満足・充足感といった自分で少し客観的になって認知・認識する側面です。実際の幸福を感じる状況や、関連する側面や環境について、学際的な研究が重ねれられてきた結果として、まず、幸福感(幸福と感じる・認識する情感)に大きく影響する要素を、以下の6つのカテゴリーにまとめます。
1.物理的かつ心理的な健康状態
2.自分が満足できる、自分を満足させることができるような仕事や行為・課題(有償の仕事とは限らない)
3.個人の一定程度の自由
4.心的態度(人生での目標や優先するものや感情マネジメントなど)、人生哲学、宗教心など
5.物質的な基本的欲求と生活を保障するにたる収入・経済的な安定
6.人的関係(社会関係)
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近年の研究で、とくに重要だとわかってきたのは、人間関係(社会的関係)です。パートナー、家族、友人、近隣の人や同僚などと十分な時間をもつことで、幸福感が保てたり、さらにその人たちになにかしてあげたり、頼りになることを示すことを通して、褒められたり評価されると、強い肯定的な気持ちになり幸福感が増します。二番目に重要なのは、心身の健康です。健康は至福感や肯定的な気持ちになるための基本となっているとします。一方、ここにあげた六つの要素のうち、重要性からみると最後にくるのが、物質的な基本的欲求と生活を保障するにたる収入・経済的な安定です。もちろん食事や住居などの最低限の基本的な欲求はみたされていなくてはならず、ある程度の収入があることは不可欠です。実際に、下から20%の低収入社会層には、不満が強くみられます。しかし人々が執着するほど、お金は、幸福感に影響しないことが徐々ににわかってきました。
お金と幸福感の関係は複雑で、簡単な相関関係ではあらわれません。世界中の西側諸国で1960年代以降、 一人当たりの収入は恒常的に増えてきているにも関わらず、それでも以前より幸福感が高まっているわけではないことも、お金と幸福感関係が簡単でないことを端的に示しています。2011年のドイツの幸福指標では、 収入があがるにつれて幸福感が相対的にある程度あがっていきますが、手取りの収入5000ユーロがピークで、それ以上になると収入が増えても、幸福感が上昇していませんでした。月に手取り5000ユーロの収入を得ること自体が決して簡単ではありませんが、それ以上の収入がある人がより幸福であるわけではなく、もっと幸福になるためには、良好な人間関係や、他人からフィードバックがある役割を演じるなど、お金では換算できない自身による労力の投資が必要になってくるということになります。逆に、5000ユーロの手取りがなくても、人間関係などほかの分野に自身が労力を投資することで十分幸福感を上げることが可能だということもできます。
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なぜお金が多くなることで、簡単に幸福は増えないのでしょう。その理由は、お金を多く所有すると人は通常、より欲も増えるためだと考えられます。物理的に基本的な欲求需要が満足されても、高い給料にもすぐになれてしまい、むしろ物理的な欲望は、いつもさらに上を目指そうとし、満足よりも、さらなる上と比較して不満足に陥るからのようです。総じて、幸福感は、お金が増えても一定以上は変わらず、お金との相関関係は概して薄いことは、近年では大学でも講義されるほど、学問の世界では広く知られる事実になっているそうです。
ただし個々人によって、何が幸福感を強くしたり、弱くしたりするかは若干異なります。また一般の傾向として、そして物質的なものやキャリアを重視する人々は、社会的な人間関係やそこでの貢献を人生の中心に考えている人よりも、相対的に、不満が強いという統計データもあります。
人々が幸福感を高めるために、政治や経済界、あるいは個人でできることがかなりあるとわかったことも、これまでの研究の成果です。具体的に社会における人々の幸福を最大化するため、どんな措置が有効なのでしょう。まず、経済成長イコール幸福の増加、というこれまで漠然と信じられていた方程式が、まちがいだということが学術的に証明された以上、政治は、経済成長を目標にせず、人が幸福感や満足感を高めることができる主要な分野に、政策を集中することが賢明な選択となったと言います。例えば、公平な教育機会は、社会での主体的な参加のための不可欠の前提であるため、健康分野同様に中心の政策課題となるべきだとします。
また、この先労働力の供給が減少すると予想されるドイツにおいて、企業にとっては良い人材を十分確保できるかが企業の明暗を分けるようになると考えられますが、企業にとっては従業員が幸福感をもてるように配慮することが必要不可欠になっていくといいます。 優秀な人材が、就業先を選ぶ際、給料などだけでなく、企業が従業員にどのような配慮を行うかを、これまで以上に重視されるようになると考えられるためです。幸福感の強い社員をもつことが会社にとっても非常に有益であるという事実は、2012年にハーバードのビジネスレビューにおいても発表されました。具体的には、従業員に対する接し方( 具体的に、一人一人への細かな配慮、正しい評価、チームや 会社の良好な雰囲気、公平さ、研修などによる社員の能力向上への努力、社員自分の裁量に委ねる 部分を広げることなどがあげられています)、職場の環境、ワークライフバランスの3分野を充実、魅了的に改革することが重要とします。
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ここまで読んで、以前、紹介したドイツのドラッグストア・チェーン「デーエム」を思い出しました。ドイツ国内で従業員からも顧客からも最も高く評価をされている小売業者「デーエム」が重視・実践している従業員への待遇は、ここで言及されている従業員への待遇によく似ています。その「デーエム」が、ヨーロッパ最大のドラッグストア・チェーンとして成功をおさめていることを考えると、ルックリーゲル教授が薦める企業の改革は、かなり説得力があるもののように思えます。(「デーエム」の社内方針と実績については、「ベーシックインカム 〜ヨーロッパ最大のドラッグストア創業者が構想する未来」をご参照ください。)
また教授は、個々人のレベルでも、自分自身が考えている以上に、自分たちの意識の持ちようが、自分の幸福感を強めたり弱めたりしていることがわかってきたともいいます。近年の心理学では、それらの姿勢や考え方を変化や強化することが可能で、幸福感を高めるために効果的な姿勢や考え方も明らかになってきました。
まず、自分が達成できるような無理のない目標をたてること、 やたらに他と比較してそれでくよくよ悩むことを避けること(自分の高望みの目標や欲求が満たされなかったり、常にほかと比較すると、自分への自信を喪失してしまうだけでなく、勇気をなくし、怒り、フラストレーションもたまってしまうため)、ほかの人に親切にすることなど、普段心がけて気をつけるべきことがあげられます。また、幸福感を高める考え方自体をトレーニングによって身につける、あるいは強化することも提案されています。具体的なトレーニングの内容をいくつか紹介してみましょう。
まず、楽観主義(楽観的な考え方)の強化です。楽観的な人は、悲観的な人より幸福な人が多いことがデータからもわかっており、楽観主義は幸福・満足感の中心的な指針であると考えられます。楽観主義の強化トレーニングの詳細については語られていませんが、以下のようなことのようです。自分ができることを成し遂げることで自分に自信をつけ、それを持続させることなどを通して、自分の中の肯定的な気持ちを大切にするようにします。これによって 物事全般に対しても肯定的な気持ちに重点が置ける良い循環に入り、楽観主義を維持・強めることができるというものです。
感謝できることを記録するなどして、それらに思いをめぐらし意識化することも、幸福感を高める効果的なトレーニングになるといいます。目安として、2、3ヶ月に2、3回 、1週間の間、三つの感謝することを日記などに記録することが提案されています。意識化された感謝の気持ちは、妬みや欲、敵視や不安、怒りなどの否定的な感情を抑制するだけでなく、当然でない重要なことをはっきり自覚することもできるようになるとされます。
フロー効果も有力だとします。フロー効果とは、自分が発揮できるような新しいことに色々挑戦し、没頭する(ように自分を仕向ける)ことです。それによって、嫌なことが自然に視界から消え、気にならなくなります。生活のどの分野においても、ネガティブなことにたいしてこのフロー効果は有効だといいます。
ルックリーゲル教授によると、 人々の幸福を最大化を目指す幸福研究は、今後、政治や学問研究の方向性や課題を考える上で無視できない、重要な地位を占めるようになるといいます。さすが楽観主義を薦める幸福研究の一人者だけあって、自身の研究分野の将来についてもかなり楽観的な展望です。さて、みなさんは、これらの話を聞いて、どのくらいご自身や社会全体が幸福になれそうな楽観的な見通しを抱かれたでしょうか?
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参考リンク
—-カールハインツ・ルックリーゲル教授のプロフィールサイトと書き下ろしコラム
Webvisiten Karte. Karlheinz Ruckriegel
Karlheinz Ruckriegel - Glücksexperte, Gastkolumne
Karlheinz Ruckriegel, Wohlbefinden statt Lottogewinn. Glück ist subjektiv - aber man kann es messen, Focus Online, 11.11.2013.
Karlheinz Ruckriegel, Glück beginnt am Arbeitsplatz. Die Glücksformel für den Job aus Harvard, Focus Online, 22.11.2013.
Happy New Year! So werden Sie 2014 glücklich, Focus Online, 31.12.2013.
—-インタビュー記事とテレビ番組
Christian Brandt, Was macht ein Glücksforscher?, National Geographic Deutschland, 6.8.2014.
Horst Peter Wickeln, “Bei 5000 Euro netto ist die Glücksgrenze erreicht”, Die Welt, München Glückforscher, 1.1.2013.
Stephanie Kundinger, Nürnberger Glücksforscher “Such dir eine Arbeit, die du liebst”, Süddeutsche Zeitung, 30. 3. 2014.
Stephanie Kundinger, Nürnberger Glücksforscher. Es geht nicht nur um mehr Gewinn, Süddeutsche Zeitung, 30. 3. 2014.
Wie wird man glücklich? - Ein Glücksforscher erzählt, Franken Fernsehen, 29.5.2015.
BGE Bedingungsloses Grundeinkommen, Bayerischer Rundfunk (放映日不明)(2015年4月3日視聴)
Was macht glücklich? Reiffeisen Nachrichten Südtirol. (Youtube Video)(2015年4月3日視聴)

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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