クリスマスソングとモミの木のないクリスマス? 〜クリスマスをめぐるヨーロッパ人の最近の複雑な心理
2019-12-12
お祝い気分にひたりきれない最近の事情
ヨーロッパの年間行事で最も大切なものは何か、とヨーロッパ人に尋ねれば、誰もがクリスマス、と答えるでしょう。今年も今の季節は、華やかな飾りやイルミネーションが街に輝き、一見、例年となにも変わりません。しかし、そのような華やかさとはうらはらに、水面下では、これまでの恒例行事が色々な角度から再考を迫られ、クリスマスに対する見方が、少しずつ変わってきているように思われます。このまま少しずつ見方や姿勢がずれてゆき、数十年後にふりかえると、2010年代のクリスマスの祝い方・過ごし方とはかなり変わったなあ、ということになっているかもしれません。
今回は、このような、表層的なヨーロッパのクリスマスの光景をみているだけではなかなかみえてこない部分、ヨーロッパ人の心理面で近年起きてきていると思われる地殻変動について、ドイツ語圏を例に、(客観的というより、個人的な印象に依拠しながら)素描してみたいと思います。
クリスマスソングが歌えない
11月末、スイスのある小学校で、恒例のクリスマスの歌唱曲のリストから3曲を削除した、というニュースが、スイスの国中に流れました。
スイスや多くのヨーロッパの国では、クリスマス前の四週間、アドベント(待降節)と呼ばれる時期からクリスマスにかけて、様々なキリスト教にまつわる催しや飾りつけが行われますが、その一環として、公立小学校ではたいていどこでも、クリスマスソングの歌唱をします。と、ここまでは、よくある普通の話で、国のニュースになりようがないのですが、これまで歌われていたクリスマスソングの一部を、スイスの一つの小学校で歌わないことを決めた、というニュースが先日、メジャーなメディアや全国の公共放送で一斉に報道されました。
ある学校の歌う曲の選曲という一見ささいにみえる話が、なぜ国のニュースとして報道されたのか。この(小学校の歌の選曲と国のニュースという)アンバランスにみえる組み合わせ自体が、この話の、一筋縄ではいかない複雑な問題性を物語っているといえるかもしれません。
なにが問題なのでしょう。まず最初の問題として、曲を削除せざるをえない事態になったことです。削除の対象となったのは、いずれもイエスの誕生について歌った曲(«Go tell it on the mountain», «Fröhliche Weihnacht überall» «S’gröschte Gschänk»)で、昨年この歌を生徒たちが歌ったことに、催しの間とその後、学校側に、(口頭やメール、電話で)多くの苦情が出され、一部の内容は非常に侮辱的なものもあったといいます。このため、今年は、新しく赴任した校長の判断で、トラブルを未然に防ぐ目的で、前回物議を醸した曲が歌のリストから外されました。
苦情を述べた人たちが主にどんな人であったのかについては報道では明確にされていませんが、一部のイスラム教徒や無神論者の親であったという理解が一般的です。イスラム教と無神論者のなかには、子どもが通う学校がキリスト教色を帯びるのを強く忌避する人たちがいるとされます。
一方、削除したことで、新たな問題が発生します。削除するという行為を非常に不快に思う人たちがでてきて、それを公にしたのです。キリスト教の伝統を重んじる主要な二つの政党も、ただちにこのような学校の反応に疑問を示し、ある政党(CVP)は学校でのクリスマス行事の扱いについて明確な方針を示すよう、政府に公開質問状を出しました。もう一つの政党(SVP) は、学校がキリスト教文化の遺産を大事にし、クリスマスを祝うことを法律に明記すべきだと主張しました。ひとつの小学校の選曲リストが、(スイスの伝統を全般に重んじる)保守勢力によって、国家レベルの問題にまで格上げされたことになります。
ほかにも、報道されたオンラインの記事につけられたコメントの多さから、様々な立場の人がこのことに関心をもち、国のなかでかなり意見が異なっていることがうかがいしれます。
ちなみに、公立学校で、スイスの慣習をどう遂行すべきかというテーマが、国家レベルの問題として政治家にも問われたのは、今回がはじめてではありません。最近の例でいうと2016年、公立中学で生徒が、先生と握手をしなかったことがあり、このことが国内で大きく報道されました。握手をしなかった理由が宗教的(イスラム教)なものであったため、宗教の自由とスイス社会の義務の問題と位置付けられて注目されたためでした。結局、法務大臣自ら「握手の拒絶は受け入れられない」と明確な非難のコメントを出し、学校のある州も、授業終了後の教師との握手によるあいさつは就学生徒の義務とし、それを拒絶すれば最高5000スイスフランの罰金を科すとしました(「たかがあいさつ、されどあいさつ 〜スイスのあいさつ習慣からみえる社会、人間関係、そして時代」)。この件は、このような明確な態度が政治家や州によって示されたことで、議論が収拾されていきました。
政治学者Laura Lotsは、クリスマスの選曲の一件について、驚くには全く当たらない。スイスだけでなくドイツやほかのヨーロッパ諸国でも同様な問題が、クリスマスが近づくこのころはいつもでてくる、と言います(Die Empörung, 2019)。
今後も、クリスマスというヨーロッパのキリスト教色が濃厚になる時節には、なにかと議論の火種が多いということであり、類似する騒動や国中を巻き込む議論がたびたび起こることがまぬがれないということのようです。そして、そのような対立を避けようとする人たちは、今回の選曲のように、予防措置的なふるまいをとる傾向が強まるということなのでしょう(同時にそのような動きに反発する動きもまた、今回のように活発になるのかもしれませんが)。
環境からみたクリスマス行事の再点検
また、近年、環境の観点からも、クリスマスという伝統的な行事について、冷めた見方や、一部厳しい批判的な姿勢が広がっています。特に今年は、具体的な環境改善をもとめる活発な動きが、若者を中心に、これまでにないほど社会で広範にみられました(「ドイツの若者は今世界をどのように見、どんな行動をしているのか 〜ユーチューブのビデオとその波紋から考える」「食事を持ち帰りにしてもゴミはゼロ 〜スイス全国で始まったテイクアウェイ容器の返却・再利用システム」)。この影響で、環境アクティビストだけでなく、一般の人にとっても、クリスマスという行事への困惑や憂いが強くなっているようにみえます。
いくつか具体的な例からみてみます。
プレゼントと称して大量に購入・消費する習慣への疑問
クリスマスはプレゼントがつきものであり、年間の商品購入はクリスマス前の時期に集中します。例えばドイツでは、年間の小売業の年間売り上げの15%が、11月と12月の2ヶ月に集中し、玩具と本にいたっては年間売り上げの4分の1(EHI)、ボードゲームに限れば、3分の1がこの時期に購入されます。「デジタルゲームの背後で起こっているテーブルゲーム・ルネサンス」)
その一方で、クリスマスがものを消費したり購入するだけの商業主義的な習慣になっており、本来のクリスマスを祝う姿とかけはなれている、という批判的な見方は、エリート層に限らず、社会に広くみられます。そうとはいえ、それでも多くの人は、クリスマスを恒例どおりにプレゼントを家族や友人、同僚の間で渡し合っています。家族や周りと連動している伝統行事であるがゆえ、勝手に自分だけでやめるのも難しいためでしょう。内心はしかし、不本意であったりして、複雑なのではないかと察します。
包装
プレゼントの中身だけでなく、きれいな包装も問題の範疇に入ってきました。通常ヨーロッパでは日本に比べ包装は全般に少ないのですが、クリスマスのプレゼントは、クリスマスのムードを演出する一部であり、金銀にきらめく通常より高級な包装紙で包むのが好まれます。しかし、それを破り捨てて、ゴミ箱に直行させるというのが、これまでの一般的な包装の消費の仕方であり、この時期、包装紙のゴミはほかの時期に比べ1割増えると言われます(Jeitziner, S.56.)。一方、ヨーロッパは、日常的には買い物でエコバックをもって一枚でもプラスチックの袋やごみを減らそうとする生活習慣がかなり根付いたお国柄です。開けた途端に、古紙となって廃棄することを一定の時期だけ是認することは、自分の普段の信条に矛盾しているようにみえます。とはいえ、プレゼントは人にあげるものなのであるので、自分の意向だけではなく相手の気持ちに沿って包装を配慮する必要があるため、簡単に自分の意志で習慣を断ち切ることは難しいのが現実です。
クリスマスツリー
クリスマスツリーとなるモミの木も、クリスマスを環境的に「罪深い」行事として映し出す、象徴的な存在です。というのも、ヨーロッパでは、1.5から2メートルほどもある堂々としたモミの木をリビングルーム中央部に飾るのが、伝統的な「古きよき」クリスマス風景となっているためです。
モミの木をプラスチックにすれば毎年使えて環境にいい、という意見は毎年のようにメディアで聞かれるものの、やはり1年最大の伝統行事でのヨーロッパ人の本物へのこだわりは強く、プラスチック製はあまり普及していません。とはいえ、(竹などとは大きく異なり)寒い地方でゆっくり成長するモミの木を、数週間のために購入して破棄することに、罪悪感は強まる一方のようで、有機栽培で育てたものを購入するとか、使用後リサイクルできないか、などのテーマもまた毎年のようにメディアで議論されています。しかし、今のところ画期的な解決方法もみあたっておらず、数週間のクリスマスシーズンが終わったあと、ゴミとして廃棄されるのが一般的です。今年も自ら美しくかざったクリスマスツリーを自宅で眺めながら、クリスマスらしい、と素直に喜ぶだけではおさまらない複雑な気持ちを抱く人は多いことでしょう。
イルミネーションライト
今年ドイツで2000人以上を対象にしたアンケート調査の結果、ドイツの家庭では、今年のクリスマスシーズン、全部で170億個のランプがクリスマスのイルミネーションとして点灯されると概算されました。この数は、前年より5億個も多い数です。ただし、今年は、昨年より多くの人(72%)が、LEDランプを使用するため、前年よりも電力も費用も少なくなるといいます。
ちなみに、今年の家庭のイルミネーションは、利用時間をトータルで180時間と計算すると、5億1000万キロワットの電力を消費することとなり(昨年は6億キロワット)、この電力は、17万世帯が1年間で消費する電力に相当します。電力コストは1億5300万ユーロです(ED-Technik, 2019)。
きれいな照明と省エネ志向。クリスマスが終わるまで、どちらを優先するか、今夜も悩む人たちが少なからずいるのではないかと想像されます。
特別なことを追求するクリスマスの在り方の限界
ほかにもヨーロッパのクリスマスといえば、豪華な肉料理や、冬のヨーロッパでは通常手に入らない南方からのエキゾチックなフルーツを食べるといった習慣があります。
これらのクリスマスにまつわる習慣をみると、なにか特別のことをすることが、クリスマスらしい、という考えであることがわかります(一年で最大のお祭りなのですから、当たり前といえば当たり前のことかもしれませんが)。
特別なこととは、ひとつには、貧しい人・困っている人への寄付や奉仕活動のようなキリスト教的隣人愛のコンセプトに沿ったものもあります(例えば、年間の寄付の3分の1は、年末の2ヶ月に集中しています。「共感にゆれる社会 〜感情に訴える宣伝とその功罪」)。そしてもうひとつの特別なことが、前述のような、きらびやかに室内をかざったり、高価な食べ物やプレゼントを購入・消費するというものです(ちなみに、プレゼントの習慣は、今となっては想像しにくいですが、もともとは感謝や隣人愛といったキリスト教の理念からきています)。
これらの習慣は、長い時間をかけて、ヨーロッパに根付いたものです。ヨーロッパが貧しい時代には、特別のことをする意味がお祝いのムードと直結し感慨深く、祝い気分をもりあげる重要な項目であっても、なんの問題もありませんでした。しかし、毎日が昔のお祝いに匹敵するほど、ものにあふれるようになった今日の西側ヨーロッパでは、もはや、そのような「豪華な」特別なものを揃える祝いの仕方は、高揚感が至福感をもたらすものではなくなってしまいました。
豊かになったが故、祝いの高揚感に欠けてしまうという、自分のなかのジレンマ自体、解決し難い問題ですが、そこに環境という違う側面からの力学(肉や遠くから運んできたエキゾチックな果物を食するのは環境破壊に加担しているという、罪意識に働く力学)や、多文化共生社会というヨーロッパの(リベラル・左翼が中心になって)掲げる理想像がプレッシャーとしてかかり、自分たちがこれまでこの上なく愛おしんでいたはずのクリスマスという伝統の在り方を前に、戸惑や失望感や喪失感が強くなってしまっているようにみえます。
商業的なクリスマスは最高潮
とはいえ、商業・観光側面からみると、ヨーロッパの「クリスマス」は絶好調で、年々そのブランド力を発揮し、市場を拡大させています。
それを象徴する存在に、クリスマス市(クリスマスマーケット)があります。かつて、クリスマス市は、いくつかの伝統のある都市や大都市でしか開催されていませんでしたが、近年は、小さな都市や村でも、クリスマス市やそれに似た風貌の露店が立ち並び、クリスマス前の1ヶ月間、通常のお店と並行して、日夜開業しています。
それに負けるなといわんばかりに、通常の店やスーパーでも大々的なクリスマスの飾りが、年々早くからとりつけるようになっており、今年は、ハロウィンが終わるか終わらないかのうちにクリスマスの装飾をはじめる店が多く目につきました。
クリスマス市の伝統がとりわけ強いドイツではクリスマス市を10月中旬から、開催する都市もでてきましたし(バイロイトでは、10月17日、ドイツで今年最初のクリスマス市がはじまりました)、長い伝統をもつ格別の演出効果を武器に、クリスマスという商法が、空間的にも期間的にも際限なく膨張している感じです。
クリスマス市は、もはや、この時期のヨーロッパの観光業界にとって、なくてはならない観光アトラクションです。暗くて寒い夜気、古い街並み、そこにきらめくクリスマス市(クリスマス・マーケット)という三位一体で体現されるヨーロッパの「クリスマス」は、南半球やアジアでは踏襲しえない現地だけにある特別のオーラや価値をもっているだけに、世界からクリスマス市観光のために大勢の人が訪れます。
おわりに
このようなわけで、観光客が大勢訪れ、表面的にはクリスマスのお祭り気分が最高潮に達しつつあるようにみえますが、ヨーロッパ人の内面をのぞくと、そのお祝い気分にすんなりひたれるほど単純ではもはやなく、むしろ、憂いをつのらせながら、クリスマスに今年も近づいているようにみえます。
これからも、それでもヨーロッパの人たちが、クリスマスを祝いたいと思うならどのような道があるのでしょう。少なくとも、頭に描く夢のようなクリスマスの像と、現実の間がすでに、乖離しているのは確かなので、頭のほうが現実のほうか、あるいは両方を修正・更新する時期が近づいているということなのでしょうか。
参考文献
EHI, Handelsdaten, Weihnachtsgeschäft in Deutschland (2019年12月9日閲覧)
Hochstrasser, Josef, Die kirchlichen Feiertage müssn abgeschafft werden. In: sonntagszeitung.ch, 8.12.2019, S.19-21.
Jeitziner, Denise, Oh Plasikbaum, oh Plaszikbaum. Wie kann man Weihnachten ökologischer feriern, ohne sie die Laune verderben zu lassen? Eine Anleitung. In: sonntagszeitung.ch, 8.12.2019, S.55-56.
Weihnachtslieder-Zensur: CVP stellt Fragen zum Vorgehen der Schule Will, Wil24, 27.11.2019.
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
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