「女性は、職業選択についていまだ十分真剣に認識していない」? 〜職業選択と学問専攻の過去・現在・未来

「女性は、職業選択についていまだ十分真剣に認識していない」? 〜職業選択と学問専攻の過去・現在・未来

2020-05-20

教育上のジェンダー平等パラドクスに対する新たな視点

今日のヨーロッパでは、就労が、性別により進む専門領域や職業選択が制限されるべきでないということが前提として受け入れられているだけでなく、それを制限する構造的な問題や意識上の障害があるのであれば、それをできるだけ取り除くべきという考え方も定着してきています。

このため、例えば、単なる企業の商品やイメージの宣伝だけでなく社会で一定の影響力をもつと考えられる各種の広告においても、このような社会的目標を反映し、女性や家事、男性は仕事といったステレオタイプ的な性別の役割分担を強調・助長するものや、特定の性別イメージを植え付けると思われる表象がないかが慎重に配慮されるようになっています(「ヨーロッパの広告にみえる社会の関心と無関心 〜スイス公正委員会による広告自主規制を例に」)。

一方、男女同権が進んでいるとされる国では、近年、新たな現象が観察されています(「謎多き「男女平等パラドクス」 〜女性の理工学分野進出と男女同権の複雑な関係」)。男女同権が進んでいるとされる国の方が、そうでないとされる国よりも、STEM分野へ進む女性の数がむしろ少なるという傾向です(英語圏では、理工系分野全般について、科学・技術・工学・数学の頭文字をとった「STEM」という表記がよく用いられます。この記事でも、理工系分野の総称として、STEMという表記を使っていきます)。Gijsbert StoetとDavid C. Gearyは、共著論文で、このことを初めて指摘し、「教育上のジェンダー平等パラドクス」と名付けました(Stoet and Geary, 2018)。

例えば、フィンランドやノルウェー、スウェーデンは、グローバル・ジェンダー・ギャップ・インデックスで上位に位置し、通常男女同権が社会で最も進んでいるとされる国々ですが、それらの国では、大学などの高等教育課程でSTEM分野を専攻する全学生のなかの女性の占める割合は25%以下にとどまっています。他方、同じインデックスで性差による差別が大きいとされる国々では、理工系科目を専攻する女性が多い傾向がみられます。最たる例は、アルジェリア、チュニジア、アラブ首長国連邦で、理工系科目の卒業者の40%が女性です。

つまり、男女同権が社会で進むほど、専門(専攻)や職業選択における性別の差異はなくなるだろうというこれまで一般的だった楽観的な予想は、根拠に乏しく、現状はそれとは、かなりかけ離れていたことになりますが、その原因はなんなのでしょう。女性のSTEM分野への進出を促進するにはなにが必要なのでしょう。それらのことが、改めて疑問として浮かびます。

このことに関して、先日、チューリヒ工科大学教授で行動科学や学習研究の専門家のシュテルン Elsbeth Sternが、インタビュー記事のなかで触れているのを最近、目にしました。そのなかで、シュテルンは、そもそも、女性の職業やそのための大学専攻について十分真剣に考えておらず、そのことが問題だ、と(たとえそう思っている人がいたとしてもなかなか臆していえそうにないような)厳しい指摘をしています。先述の共著論文でも、ユニークな分析がされていて注目に値しますが、それともまた一味違う、独自の視点です。

一方、シュテルンの意見は、斬新で刺激的ですが、この意見を尺度に世の中を見渡すと、たちどころに次なる疑問にもつきあたり、問題の解決に見通しがつくというよりは、むしろ逆で、問題領域がいかに壮大で、複雑にさまざまな社会の要因とからみあっているものかを改めて認識する最初の段階に引き戻されていくようにも感じます。

今回は、このような、様々な議論の呼び水になりそうなシュテルンの発言をご紹介し、わたし自身の考えについても、後半、若干言及してみたいと思います。みなさんも、シュテルンが開いた新しい扉からいっしょにのぞきこみながら、なにが今のような状況をつくっており、将来はどんなモチーフで、大学の専攻や仕事選びをする時代になっていくのかなどを、ごいっしょに考えていただければと思います。

シュテルンのジェンダー平等パラドクスの背景分析

まず、シュテルンの発言をそのまま引用し主要な主張を、ご紹介してみます。

分野において起きているジェンダー平等パラドクスに関係した質問で、シュテルンは以下のような回答をしていました(以下、その抜粋。Minder, 2020)。

「わたしには、女性がいまも、職業選択についていまだ十分真剣に認識していない、つまり、いつか、自分が身につけた職業で、自分自身の生活の糧をかせがなくてはいけない、ということをはっきり意識していないように思われます。」

(しかしそれは女子学生だけの問題ではなく)「女子学生が、仕事があまりないような(人文科学系 筆者註)学科を勉強しようとする時、親も教師も、男子学生より女子学生にはそれをやることを容認する傾向があります。」

(周囲の)「反対が少なければ、女性はなんとなかなると思い、そのような学科を勉強するでしょう。しかし、人文社会系の学問は、ほんのひとにぎりの優秀な人しか、その学問をいかした仕事につくことはできません。」

「わたしの若いころは、女性は大学に行く必要はない。どうせ結婚するから、と言いました。今はそんなことは言われませんが、若い女性になんの反対もせずに、コミュニケーション学を大学で学ばせるのなら、(女性は大学に行かなくてもいいというのと 筆者註)同じ方向だといえます。」(コミュニケーション領域の学科や心理学や社会学などとならび女性に人気の高い学問領域であるので、ここで一例としてあげられているのでしょう。ちなみにシュテルンは、1957年生まれで62歳です)

(女性がSTEM分野に進まないのがなぜ問題なのか、という問いについては以下のように回答しています)「二つの問題があります。一つは、社会全体における問題です。社会で本当に必要な専門家が足りていません。才能のある人を活かせていないのです。二つ目は、女性自身にかかわる問題です。女性は、自分によい仕事上のよい選択肢がないことに気づくのが、おそすぎることが多いのです。女子は学校で成績がいいのにも関わらず、です。やっと、50歳くらいになって、離婚のあとなどに、ようやく、自分には安定した経済的な基盤がなく、年金も十分にもらえないということに気づく(のではおそすぎるのです)。」

シュテルンのこれまでの仕事と見解

これはあくまでシュテルンの個人的な意見ですが、これまで教育や能力向上に長く関わり、観察してきたシュテルンだからこそもちえた慧眼で、これまで常識的と思われたものが揺り動かされるきがします。

他方、シュテルンのロジック(説明)でつかみとれているようにみえず、つっこみをいれて踏み込んでみたくなる部分もあります。つっこみをいれる前に、ちなみにシュテルンが、どんな人物なのかについて、以前にも触れましたが、ここでも簡単にふれておきます。シュテルンは、スイスで名高いチューリヒ工科大学で長年教鞭をとってきた、数少ない女性研究者で、教育制度や学習の仕方などについての専門家です。

シュテルンは、この分野のテーマの単なる専門家であるだけでなく、こどもたちが、それぞれ自分が得意な分野で、能力を伸ばし、能力や技能を身につける、という適材適所の思想と、またそのための社会の公平なしくみづくりを、一貫して重視し、そのスタンスを、公的に自分の意見として、ドイツ語圏のメディアで伝えてきました。

彼女の意見のなかでもとりわけ有名なのは、数年前からは、ドイツ語圏のエリート学校(ギムナジウム)の入学試験に知能検査を導入すべき、というものです。ギムナジウムは、ドイツ語圏のエリート養成教育機関として伝統的に存続してきましたが、近年、彼女の調査結果、スイスのギムナジウム生徒の三人に一人は、ギムナジウムに必要な知能指数がないことが判明したため、能力がないのに無理やり自分のこどもたちをいれようとする親のエゴをしりぞけ、逆に、本当に能力があるのに社会的・経済的な背景が不利なことで入学が不利になっている有能な生徒の入学を奨励するため、知能検査の導入が正当だと主張します(「進学の機会の平等とは?〜スイスでの知能検査導入議論と経済格差緩和への取り組み」)。

女性は職業選択やそのための大学教育の場について十分真剣に考えていない?

公平な学習のチャンスをすべての人に与えることを重視するシュテルンにとって、女性の専攻や職業選びが、偏った分野にとどまっていることも、不自然で、なんらかの問題や力学が背景にあるのだと考えます。

そして一つの大きな問題として、女性は、周囲(親や教師)が、女子生徒が大学で専攻することをあまりうるさくいわないこともあって、あまりそれで一生食べていけるか、ということを考えずに、大学の専攻科目を選ぶ傾向がある、と考えているようです。たしかに、「女の子は結婚するからいい」そんな言い方は日本でもかつてよくきかれるものでしたし、そういう雰囲気(女性は生計をたてることを男性ほど真剣に考えなくてもいい、という雰囲気)が社会全体にあれば、女性は、長期的な将来設計のもと専攻を選ぶのでなく、今、興味あることや目先の希望を優先して、専攻科目を選ぶ傾向が強くなってもおかしくありません。

そして、逆に、そうならないようにするには、どうすればいいのか。これへのシュテルンの提案はいたってシンプルです。まず、女子生徒がその科目で将来安定した仕事につけるかをまじめに考えるということで、周囲(親や教師など)もそういうふうに勧めることです。つまり、真剣に考えて選んでいれば、経済的に困窮することが少なくなる、というのが最初の提案です。

同時に、教育現場に具体的な提案もしています。真剣に考えてSTEM科目に進みたい人が多くなるように、教育の早い段階から、STEM科目のおもしろさに目覚めさせるような授業やプロジェクトを積極的に行うこともまた、重要だとします。おもしろいと思う人が増えれば、将来、STEM分野にすすみたくなる人が増えるだろう、という因果関係を楽観的に期待します。

本当に「真剣に」考えていないのかという点については、定義の仕方によって異なり、議論の余地が残るところのようにも思いますが、ここではそこには深くは立ち入らず、さらに、議論を先にすすめてみます。

女性が「真剣に」考えていないとすれば、それは女子生徒特有の問題なのでしょうか。(ここでは直接言及されていませんが)文脈からよみとると、シュテルンの意見はイエスです。逆に、男子生徒の専攻選びのほうに、親や周囲は、より、生計の見通しがたつのかをよく考えるように言ったり、圧力をかける傾向があるとみます。

実際、STEM分野は圧倒的に男性に占められていることが、その論拠でしょう。たとえば情報関係の就労者20万人のうち女性が占める割合は15%にとどまっています(2017年、スイス統計局の調査Schweizerische Arbeitskräfteerhebung (SAKE)結果)。

ただし、STEM分野の専門家が全般に、現在深刻に不足しているというのも、事実なため、女性だけでなく、男性のなかでも、あえてSTEM分野の仕事には行かない、いわゆる「理系離れ」の傾向が、女性ほど高い割合でなくても、みられることも(シュテルンの女性に特化したここでの議論では触れられていませんが)留意すべきでしょう。

職種や学科で人気がないものは、魅力がないから?それとももっと違う理由?

女子や、あるいは若者が全般で、STEM分野についての関心が比較的低いのだとすれば、それはなぜでしょう。シュテルンの答えはここでもシンプルでした。生徒たちがおもしろい、魅力的と思わないからだといいます。一方で、学校の教育現場でのSTEM分野の授業がつまらず、興味がそそられず、他方で社会人文科学系の分野は、とてもおもしろそうにみえる(あるいは実際におもしろいと思える)。これでは、勝ち目がない、というわけです。

そのため、(重複になりますが)シュテルンは魅力的な授業をはやいうちから行う必要性を訴えるわけですが、わたしの考えでは、単なる授業の内容(学校や大学の授業がおもしろさ否かということ)だけでなく、若者を取りかこむ現代の社会環境全体も、間接的に、女性を中心に若者全般をSTEM分野から遠ざける一因になっているように思われます。

ここからはシュテルンの議論を離れ、わたしの推測から、議論を続けてみます。

まず、スイスの若者全体の最近の特徴を、これまでのリサーチをもとに、ざっくり概観してみます。若者たちには、社会全般に危機感や抑圧されているという感じは少なく、むしろ現状にかなり満足している人が多く(「若者たちの世界観、若者たちからみえてくる現代という時代 〜国際比較調査『若者バロメーター2018』を手がかりに」)、昇進・出世志向は弱く、むしろワーク・ライフ・バランスを追い風に、パートタイムができる業務の人気が高まっています(「スイス人の就労最前線 〜パートタイム勤務の人気と社会への影響」、「フランスのキャリアママとスイスのミスター大黒柱の共通点  〜ヨーロッパの男女の就労に関する期待と本音」)。

また、男女同権がすすんでいる国であればあるほど、異性間で求められるパートナーも自分にない部分、役割をおぎなってもらうパートナーではなく、同じような人(学歴や家庭環境、家事の役割分担への考えなど)を期待する傾向が、世界的に強まることがわかっており(「容姿、財産、若さそれとも知性? 〜パートナー選びは、社会の男女同権の程度を示すバロメーター」)、男性も女性も関係なく、同様の仕事や学問観をもつ傾向が、これからの時代、より濃厚な特徴となっていくようです。

さらに、もっと広い視野から、若者と仕事について考えてみますと、いまの若者は、温暖化が深刻化することに強い危機感をもち、昨年から環境デモを行ってきた世代です(「ドイツの若者は今世界をどのように見、どんな行動をしているのか 〜ユーチューブのビデオとその波紋から考える」)。大学の専攻や仕事選びにおいても、温暖化や環境問題への配慮にプライオリティがおかれ、その上で、自分に仕事の方向性をさがすのかもしれません。

また、今の若者は、半分以上が100歳まで生きると予想されている、長寿世代です。

これらの若者の新たな傾向や特徴(長寿世代で、生計にまつわること以外に配慮する要素がずいぶん多いなど)を踏まえると(もちろん今年おきたコロナ危機によってまた大きな変化が起こることも想定されますが、とりあえずここではコロナ 危機以前までの動向で想定できる範囲で論をすすめていきます)、若者世代にとっては、女性も男性も同様に、(堅実なキャリアコースを目指すような)これまでのライフステージの切り込み方とは、違った仕切り方やタイムスパンで、自分の進路を決めようとする人が増えるのではないか、そうなっても不思議はない、と思われます。

それは換言すると、仕事に直結する専攻分野を、大学で選ぶという堅実なコースや想定からは、むしろ乖離していくということになるように思われます。

ただし、それは、職業教育的な側面がごっそり抜け落ちてしまうということではないでしょう。「人生 100 年時代における働き方」(玄田、2019)と題する論文のなかで、玄田が提唱していることは、職業選択における相反する側面を、二項対立的にとらえるのでなく、柔軟に両方をつなげる視点として、参考になるように思われます。

玄田は、「人類学者レヴィ・ストロースがその著書『野生の思考』(1962)で指摘した」「エンジニアリング」とその対概念である「ブリコラージュ」という概念を援用し、「先の見えな い人生 100 年時代を生き抜くには、良く計画されたエンジニアリング的働き方の整備と並び、あるものを適宜利用し柔軟にやりくりするブリコラージュ的働き方の充実がカギを握る」(12頁)としています。

エンジニアリングとは、「新たな情報を集めながら設計・計画を慎重に行い、科学的認識によって構造を適切に把握した上で事象を区別し、対応しようとする」ことであり、「長い人生をよりよく生きる方策として、自然科学の知見に基づき蓄積されてきたエンジニアリングが求められることは多い」とします。

「それに対してブリコラージュは、情報の収集が十分でなく構造の把握が困難な状況や、科学的認識が未だ及んでいない事態でこそ、意味を成す。ブリコラージュは、定まった概念よりは集められた何らかの記号や断片を手掛かりに、目の前にある道具や材料を並べ替えたり、再構成しながら、不確かな状況に対応しようとする。特に既存の科学的知見だけでは制御が不可能な事例では、エンジニアリング的対応は至難の業であり、ブリコラージュによる対応が否応なく 求められる」とします。

そして、「これまで重視されてきたエンジニアリング的 な働き方の整備に加え、ブリコラージュ的な働 き方の充実を誰もが出来るようになることが、人生100年時代を真に豊かなものにするのだろう」と考えています(21頁)。

「自由な」選択と「真剣な」選択

そもそも、そんな若者世代が生きるこれからの時代において、仕事について十分真剣に考えるという姿勢は、これから目指される社会の在り方と、ある種のパラドクスにあるのかもしれません。

Gijsbert StoetとDavid C. Gearyの上述の論文では、男女同権が進む国は、同時に社会保障がしっかりしており経済的にも恵まれている国であり、逆に、STEM分野の就労が比較的高収入であるという事実も職業選択に与えるインパクトが少ないのではと指摘していました。つまり、人々は、専攻や職業を選ぶ際に、(「手に職をつける」なければ将来が心配になるといった)、経済や社会的な要素から拘束をうけにくく、自分の好きなものや興味を優先し、比較的自由に専攻や将来の職業を選びとっているということになると考えます。

この説の延長線上で、この先について考えるとどうでしょう。経済的・社会的に恵まれて男女同権が進んだ社会で育ったこどもたちは、将来の生計を考え(堅実に)「真剣に」専攻を考え選択することと、「自由に」考え選択すること、どちらを優先・重視するのでしょうか。環境が恵まれていればいるほど、(将来の生計をたてることを切実に)「真剣に」考えるよりも、「自由に」選択したいと思う気持ちが、前面にでて、選択や決定においてこれを優先する人が多くなることは十分あるでしょう。ただし、国の経済状況は数年で変化する可能性はあり、そうなれば、また切実に「真剣に」手に職をつけることが重視される傾向が急に強まるかもしれません。

「真剣に」という言葉のニュアンス自体、これからの時代に、変わっていくかもしれません。シュテルンの言い方だと、「真剣に」とは、将来生計が十分たてられるかをしっかり考慮することをおおむね意味していると思われますが、将来、「真剣に」職業を考えるということは、自分の希望に正直に、あるいは、家庭とのバランスを十分考慮した上で、というニュアンスが強くなるのかもしれません。あるいは、長寿世代らしく、長いライフスパンでものごとを考え、数年先の就職の心配よりもずっと先に長くつながる自分の人生プランをみすえた上で、なにを学ぶか、を多面的に考える、という意味になるのかもしれません。

だんだん、議論の対象範囲が拡大してきて、収拾がつかなくなる恐れがでてきましたので、今回の議論はこの辺で、切り上げることにします。

みなさんは、シュテルンの指摘からどんなメッセージや新たな刺激を受けとられたでしょうか。

参考文献

Minder, Andreas. Frauen nehmen die Berufswahl immer noch nicht ernst genug. Alpha. Der Kadermarkt der Schweiz In: Sonntagszeitung.ch, 2.2.2020, S.41.

Stoet, Gijsbert/ Geary, David C., The Gender-Equality Paradox in Science, Technology, Engineering, and Mathematics Education. In: Psychological Science, February 14, 2018, pp.581-593.

玄 田 有 史 「人生100年時代における働き方」『季刊 個人金融 』2019 秋、12―21頁。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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