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スイスの職業訓練制度 〜職業教育への世界的な関心と期待

2016-10-02 [EntryURL]

世界的に注目される職業教育

スイスでは、義務教育の9年間を修了したあと、3人に2人が、日本で一般的な全日制の高校に通わず、「職業訓練」という実践的な職業訓練と学校教育が並行する教育課程にはいっていきます。特に男性にこのパターンが多く、2011年の国の統計では、男性の75%が 職業訓練課程を修了しています(女性は63%)。

先進国の国々のなかでは非常にめずらしい、このような実業教育制度について、アメリカのオバマ大統領をはじめ、各地の政治や経済界から言及されることが増えてきており、世界的に注目が集まっているようです。
2014年からは国際職業教育会議がスイス、ヴィンタートゥアで開催されるようになり、第二回目の今年は、日本を含め80ヶ国から行政、経済界、教育界や各種組織の専門家たちが三日間職業教育のあり方について3日間話し合われました。

高学歴化が進んでも、失業率が下がるどころか上がる一方という悩みを抱える多くの先進国において、教育と就業をどう結びつけるのかが、改めて問われていることが、職業訓練制度(見習い制度)への関心が高まってきた大きな理由と考えられます。というのも、職業訓練制度という独特の職業教育の伝統をもつドイツ語圏の国々は、ヨーロッパ全体で圧倒的に失業率が低いためです。スイスはそのなかでも特に低い失業率を維持しており、ドイツという大国の影に隠れてこれまであまり表にでることのなかったスイス独自の職業訓練制度の在り方についても注目されるようになってきました。これまでのフィンランド型に代表されるような国民の学力全般の底上げを目指す教育制度の改革から、あるいはそれと合わせて、即戦力となるような職業訓練に重きをおく教育の拡充へと、世界的な教育の関心が少しずつ変化してきているとも捉えられるかもしれません。

今回は、スイスの職業教育過程について概観しながら、そのような教育システムによって形作られててきたスイス人の国民性についても考えてみたいと思います。(スイスの教育のあり方全般に興味のある方は、「学校のしくみから考えるスイスの社会とスイス人の考え方」をご覧ください。)

スイスの職業訓練制度

スイスでは普通中学に通う生徒が2年生になると同時に、学校や職業情報センター、また自治体からの様々な案内や資料が配布されるようになります。進路選択に関する説明資料や、さまざまな分野の職業体験の案内などです。これに並行して、親や生徒を対象にした職業訓練制度についての説明会や個別相談や、学校のクラスの生徒全体での職業情報センターや職業メッセ(さまざまな職業を紹介する展示会)訪問もはじまり、自分が興味をもつ職種や会社が、見学や簡単な職業体験を受けつけていることがわかれば、学校の休暇を利用して、あるいは学校に許可をとれば登校日を利用しても会社や現場を訪問するようになります。そして中学3年生になると具体的に職業訓練生を募集している会社への応募や面接を受けはじめ、 中学卒業後の訓練先をみつけていきます。

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スイスの職業訓練について学校や自治体から配布される資料


中学を卒業した直後からはじまるスイスの職業教育課程で学べる分野は、工業分野、事務職種、流通・サービス関係、第一次産業分野、経済、情報、建設、健康、芸術などあげるときりがないほど、様々な分野・方面に広がっており、全部で250種あります。2013年8月現在、職業訓練生を受け入れている企業は、全企業数19万1千社の約3分の1の6万3500社あり、募集人数は9万4500人分です。特に受け入れが多い業界はサービス産業で、訓練先の約80%がこの分野にあたります。

商業や工業分野の一部では、全日制の学校で3年間学んだあとに約1年の職場での実習を行うという職業訓練制度も並行して導入されているところもありますが、職業訓練課程として最も一般的なのは、デュアルシステムとよばれる、職場と学校の二カ所で並行して学ぶ形のものです。実践と理論的な理解の両者を相互補完的に行いながら、仕事への理解を深化させることを目的にするためこのような形になっています。実践重視の2年間の課程と、3〜4年の職業訓練課程(職種によって必要な年数が異なる)があり、2年の課程のあとに後者の課程に移行もできます 。職種によって若干異なりますが、通常週の3〜4日職場で働き、1〜2日専門の学校へ通います。課程の最後に実践と理論の両面を審査する試験があり、合格すると連邦能力証明書が得られます。この課程の最中、あるいはそのあとに補完的な課程をさらに修了すると、大学などの高等教育課程に進むことができます。また、より専門性の高い資格や、管理責任者になるための課程も用意されおり、これらの課程は就業しながら受講することが可能です。

ただ説明だけを聞くとわかりにくいと思いますが、下の図をご覧いただくと、イメージがつかみやすいかと思います。州によって若干詳細が異なりますが、スイスで一般的に義務教育課程(ピンク色の部分)を終えたあとに、どのような進路(緑色から上の部分)が可能かを示した簡略図です。この図で最も重要なのは、細かいそれぞれの修学課程の種類ではなく、 まずこの図で矢印の数がやたらに多く、それが一方向ではなく左右さまざまな方向に、どの緑の枠からも伸びていることです。これは、どの課程にいっても、その課程をいったん修了すれば、上にさまざまな選択肢がある、というスイスの教育システムの特徴を示しています。上述のように職業教育を受けたからといって、その後の進路が限られてしまうわけではなく、高等教育への進学も、進学校卒業者同様に可能です。逆に進学校(大学などの高等教育のための進学を準備する教育課程で、ドイツ語圏で共通して「ギムナジウム」と呼ばれるものです。現在スイス全体で平均2割、ドイツでは5割の生徒がこの進路を選択しています)を修了した人でも、一定期間の職業訓練を経ることで、職業教育に転向したり、応用大学のような経験と実践を重視する高等教育に入学することも可能です。ちなみに同様の職業教育制度をもつドイツでも、これほど矢印の横やななめ移動はできないため(あるいは実質的に動きにくく)、職業教育課程修了後の大学などの高等教育へ進む人の割合は、ドイツよりスイスの方が圧倒的に多いと言われます。スイスも以前はもっと矢印が少なく、シンプルで硬直したシステムでしたが、時代の需要に合わせて、それぞれが専門的な能力や技術力を高めていくために、横やななめや上に移動を自在にできるように改善されてきて、全国的に共通のこのような制度に今日いたっています。

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このような実践力を重視した教育制度は、スイス人の就業の強力なバックボーンであり、失業率を低く抑えるのに貢献してきました。また同じ制度は、スイスにいる移民たちにとっても、多大な恩恵を与えてきました。高学歴でないと仕事ができないのではなく、中学卒業と同時に手に職をつける技能を学べるチャンスがあることで、語学力や経済的な事情などの理由で、高学歴のキャリアが難しい青年層にも、就労のチャンスが大きくなるためです。(ヨーロッパのほかの国の職業教育の状況やそれに伴う移民の就労問題については、前回、記事「就労とインテグレーション(社会への統合) 〜 スウェーデンとスイスの比較」で扱っています。)

国民性としての向学心

ところで、スイスで特徴的だと思える国民性に独特の向学心があるように思います。向学心といっても、一般教養としての勉強や、なんでも知りたいといった好奇心の赴くまま何かを勉強するという趣味の域ではなく、自分の仕事や将来のキャリアに直接役に立つと思われる技術や周辺分野を学ぶ意欲という意味での向学心です。それを物語るのが、研修や講座、訓練など実業に関わる教育機会の種類の多様さと、それを受講している人の多さです。

日本やほかの国でも、資格取得や様々なビジネス講座の受講に熱心な人はもちろんいますが、(特に日本では)就労時間が長いなどの時間的な制約もあるため、社会全体としては、過密な仕事や育児と並行して勉強を続けるのは大変なことです 。これに対し、スイスで仕事をしながら勉強をしたい人にとって、非常に恵まれている点があります。会社の就労時間を減らして、講座や講習にいくことに対して、社会全体でも個々の会社においてもかなり理解があることです。職業訓練生は職場と学校という2箇所で学ぶため、正規社員に対してもさらに高い技術や資格をとるために学ぶことに一般的に抵抗が少ないのかもしません。実際に、授業をうけるために、週休3日や4日という形で就業している人はかなり多く、どこの業界でも珍しくありません。当然、課程も就業しながらも受講しやすいように、全日制だけでなく、週に数日の授業や短期集中の授業、夜間、通信など色々な形が整っています。

単に大学を卒業したという学歴ではなく何が実際にできるのか、という資格(あるいはそれに伴っている技術や能力)を重視する姿勢が社会全体に一貫してみられることや、職業訓練制度後にも体系的な職業教育課程や資格試験があり、何が自分の次のキャリアのステップとなり、それにどれくらいの時間と労力をかかるのかがわかりやすいことも、具体的な自分の目標や学習計画をたてやすくしているといえるでしょう。このため意欲的に勉強を続ける人は、 20代の若者だけでなく、子育てなどでプライベートでも多忙な30代や40代にも多くみられます。

ただし、制度やまわりの理解など、仕事と並行して勉強を続ける環境がいくらあっても、本当にやる気がなければ勉強はできないでしょう。仕事を減らす分、当然収入は減りますし、試験やレポート作成などオフの時間に苦労をあえてするのは誰にとっても楽しいことではありません。それでも勉強する人が多いのはなぜなのでしょう。

ここからは私の個人的な意見になりますが、このような向上心に、スイス特有の教育システムが大きく関与しているのではないかと思います。職業訓練の道を歩むスイスの多くの若者にとって、日本で馴染み深い偏差値や全国模試などは無縁です。ほかの人との机の上の学力で比較したり、その序列を意識し自分は勉強ができないといったコンプレックスに凝り固まるような機会も時間も中学時代にほとんどないかわりに、スイスの子どもたちにとっては、自分の適正を考えながら、自分に合う仕事の方向を探すことが重要な課題となります。そしていざ職業訓練先をみつけて職業教育課程が始まると、厳しい職場の現実において、わからないことは嫌が応でも勉強しなくてはならず、学ぶことを忌避するより、勉強することの必要性を痛感、実感する人が多くなるのではないかと思います。つまり、職場で「なんのために勉強しているのかわからない」ではなく、「勉強しないと大変なことになる、勉強が唯一の救済手段」という現実感覚を持った上で、向上心を身につける方が(もちろんすべての人が該当するわけではありませんが)比較的多いのではないかと思います。

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駅に特設された情報処理関連の職業紹介コーナー


そして、講習や研修に参加して学ぶという習慣は、仕事の世界に限らず、スイスの社会の様々なところにも浸透しているようにみえます。例えば、子どもがまだ幼い時、子育ての細かい具体的なテーマについて講習やセミナーが地域や幼稚園、学校等でやたらに多く企画されており、それらの情報が満載されたかなり厚みのある「親のための研修(教育) Elternbildung」と題する市が発行する冊子が各家庭に配布されていました。そこに掲載されている講習や講座は無料のものが少なく、大半が有料であり、お金を払ってこれらのテーマについて学ぼうとする人が多いか、あるいは少なくともそのようなことを主催者側は想定しているようでした。

ボランティア活動においても、ボランティア活動への報酬の代わりの特典として、様々な研修が受けられることを募集要項に掲げる団体が多くあり、研修に高い価値を置いていることがわかります。また、これらの研修や講座を受講する際、ただ受けっぱなしにするのではなく、スイス全土で共通する研修手帳に記録を残す習慣が普及してきており、仕事以外で受けた個々の研修も、その受講者のヒューマン・キャピタルの一部として(実際に利用価値があるかは別として)大切に捉える傾向が強くなっています。このような傾向にも、研修や勉強が自分の役にたつとする建設的な見方と、それに基づいた向上心がよくあらわれているように思えます。

おわりに

高学歴化しても失業率が高止まりしている先進国でも、産業振興のための技術や知識を効率的に伝授することが急務の途上国においても、共通して、職業教育は大きな課題となっています。このため、スイスの職業訓練制度に期待をよせ、同じような 制度を導入したいと考える国も少なくないようです。ただし経済規模、政治状況、社会構造、ジェンダー、宗教などが様々な事情が国によって異なっており、 簡単にスイス型の職業教育を異国に移植することは難しいでしょう。他方、ヨーロッパや世界の各国同士が、職業教育という課題について多く情報交換をし合い、連携をとりあうことで、今後それぞれの国にあった職業教育の形がみえてきたり、スイスにおいてもさらにその形が発展していく可能性は大いにあるでしょう。社会や時代の変化に応じ、世界的に職業教育がどのように変化・発展を遂げていくのか、これからますます目が離せなくなりそうです。

参考文献

——世界職業教育会議 
http://www.vpet-congress.ch/

——スイスの職業訓練制度について
Kathrin Hoeckel, Simon Field und W. Norton Grubb, Learning for Jobs. OECD Studie zur Berufsbildung, Schweiz, 2009.

Berufliche Grundbildung 

内閣府 平成26年度委託調査 教育と職業・雇用の連結に係る仕組みに関する国際比較についての調査研究 WIPジャパン株式会社2015年3月、第2章スイスにおける教育と職業・雇用の連結

Benjamin Schlegel, Das duale Bildungssystem Deutschlands und der Schweiz, Abgabedatum:13. März 2013

Urs Gassmann, Das duale Bildungssystem der Schweiz(2016年9月19日閲覧)

Berufsbildung in der Schweiz. Viele Wege führen nach Rom, Swiss Skills Bern 2014.(2016年9月21日閲覧)

Bildung, Beruf und Laufbahn, NZZ am Sonntag Spezial, 18. 4.2010.

„Die Stärke unseres Berufssystems besteht darin, dass es sich selber reguliert”, Interview, MM 37, 7.9.2015, S. 26-29.

Patricia Brambilla, Lehre auf Platz 1, MM(Migros Magazin) 06, 8.2.2016, S.20-21.

Die Uni ist auch nach der Lehre möglich, Beruhfswahl, Der Landbote, 30.3.2016, S.4.

Anja Burri, Die Schweizer Berufslehre wird zum neuen Exportschlager, Tagesanzeiger, 5.1.2015, S.1-3.

——スイスの職業教育についての海外です関心や期待について
Duales Bildungssystem, So blickt das Ausland auf die Schweiz, NZZ, 30.3.2016.

Berufsausbildung als Exportgut

Mauro Dell’Ambrogio, Duale Berufsbildung als Exportschlager?, NZZ, 27.10.2015.

——他
Du musst da rein!, NZZ, 26.2.2012.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「越境EC」と「輸出ビジネス」の違いとは?

2016-09-25 [EntryURL]

越境ECは、
インターネットを通じて日本の商品を販売し、海外諸外国へ配送することを「越境EC」といいます。と説明されることが多いです。

政府もこの越境ECにとても力を入れています。補助金やセミナー開催など。
セミナーなどはいつも満員御礼ですね。

さて、わたしたちがやっている「輸出ビジネス」といったいどこが違うのでしょうか。

基本いっしょです。

わたしたちが昔からやっているネットを使った海外販売です。
すなわち海外向けにサイトを作って、とか以外でもeBayや米アマゾンも越境ECとなります。

違うところはどこでしょうか。

わたしたちは、どこから仕入れて海外に販売することが多いです。
いわゆる「転売」です。個人間のCtoCの取引が多いです。

越境ECは、メーカー・卸自らが海外に向けて販売します。
ここが大きな違いです。

わたしは転売の限界をずっと言っていますが、こういう理由があるからです。
もちろん転売での輸出ビジネスでも月20~30万くらいは稼ぐことはできますが、輸出ビジネスで起業したいとかお考えの方は転売だけではやめておかれた方がいいでしょう。
税金や今後の売上を考えるとやっていけません。

今後の流れを予想すると、
有名メーカーの商品は出品できなくなり、中小メーカーは越境ECで自ら販売する。

となると、わたしたち個人レベルの販売者は淘汰されていくのでしょうか。

わたしもいくつかの政府関係主催のセミナーに参加しました。

米アマゾンはアメリカの銀行口座が必要だから代理業者に委託して作らないといけません、とか平気で講師が説明していました。

知識レベルが低すぎてびっくりでした。

このような政府系のセミナーに呼ばれる講師の方は、大きな会社で、BtoBの取引で成果を出している方々のようです。貿易会社ですかね。
ネット輸出ビジネスの実務はやったことがなく薄い知識を寄せ集めているのでしょう。ネット輸出と貿易はまた違いますので。

わたしたち個人レベルの販売者は淘汰されていくのか。

逆です。
ますますチャンスが拡大します。

わたしのコンサルティング会員さん達にはお伝えしていますが、わたしたちは越境ECする会社の「代行」の仕事がドンドン増えます。

発送代行、出品代行、リサーチ代行、サイト制作などなど。
そしてメインは「販売代行」です。

昨年、販売代行の会社を作りましたがなかなか調子いいです。
またコンサルティング会員さんたちとも代行の仕事をするための何か作ろうかと考えています。
いろんな分野で強い人といっしょに輸出ビジネスをやりたいですね。


就労とインテグレーション(社会への統合) 〜 スウェーデンとスイスの比較

2016-09-23 [EntryURL]

スウェーデンの状況

スウェーデン、と聞いてどんなことを連想されるでしょうか。女性が働く環境がよく整っている国、15年後にすべての決済をキャッシュレス化するというほど IT技術が普及している社会、ファッションや家具、児童文学など多様な分野での世界トップクラスのブランド力、あるいは色とりどりの家が並ぶ落ち着いた街の風景等々、世界中どこでも、スウェーデンにまつわるイメージやメッセージは、 たいてい肯定的なものなのではないかと思います。

それだけに、近年、スウェーデンでたびたび暴動が起きており、今年の夏だけで十数の都市で、車300台が放火されたというニュースを聞くと驚きます。端から見ると、豊かで、福祉が行き届いているようにみえる国で、一体なにが起こっており、その理由は何なのか、と他の国で同様なことが起きたというニュースだったらあまり気にならないかもしれないことが、スウェーデンとなると、気になり、引っかかります。今回はそのようなスウェーデンの状況をスイスと比較しながら、背後にある、移民や難民の受け入れの取り組みの問題やその課題について考えてみたいと思います。(移民や難民側からみた同様の問題については、以下の記事にまとめてありますので、興味のある方はご参照ください。 「ヨーロッパにおける難民のインテグレーション 〜ドイツ語圏を例に」)

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スウェーデンの移民・難民の受け入れ

スウェーデンは昨年一年間だけでも、アフガニスタンやイラク、シリアなどか来た16万3千人が難民申請をしており、住民一人当たりに換算すると、ほかのEU 諸国よりも多くの難民を近年、受け入れてきました。 難民や移民の受け入れに並行して、インテグレーション(社会への統合)のための手厚いプログラムの導入にもはやくから熱心でした。現在、難民のためにも、語学と職業訓練、実習を組み込んだ2年間の支援プログラムが用意されています。プログラムの受講は義務ではありませんが、受講することと引き換えに社会福祉手当が受けられるため、受講する難民の割合は高いといいます。

このように手厚い移民支援を早くから行うことで、移民や難民の社会へのインテグレーションも順調に進んでいくはずでした。しかし現在、これまでのインテグレーション政策の成果についての国内外での認識は、むしろ違っているようです。

近年は、外国からの移民や難民が住む大都市の近郊の集合住宅地区で暴動が断続的に起きており、収束の気配がありません。また、政府の移民調査委員会(Delmi)によると、1997年から99年に移民としてスウェーデンにきた人々のうち、2年後に就労したのは30%で、10年後にも65%にとどまります。難民のためのプログラムも受講1年後に就業したのは、男性は28%、女性にいたっては19%だけです。

多額を投じてインテグレーションのプログラムを国が推進しているのにうまくいかないとすると、なにが原因なのでしょう? これまでの研究調査や報道をまとめると、暴動の背景として、主に二つのことが指摘されています。

居住区のゲットー化

まず、外国人とスウェーデン人の居住地の分化の問題です。近年の暴動のほとんどは、外国人が密集する集住している地域でおきています。

1960、70年代にスウェーデンの中間層のために、大都市近郊に大規模に集合住宅が建てられましたが、次第にそこからスウェーデン人は引越していき、それに代わって外国人がそこに集住するようになりました。このような傾向は年々強まり、現在は外国人が極度に集中する地区ができあがってきました。頻繁な暴動でニュースでもたびたび名前がでる、スウェーデンの南部の国内3番目の大都市マルメ近郊の集合住宅の並ぶ地区ローセンゴードは、その典型です。地区の外国人の割合は90%以上にのぼっています。マルメ自体が、外国人の割合は44%で、国全体の割合よりも2倍多く外国人がいる都市ですが、わずか3kmしか離れていないローセンゴードでは、さらにその2倍の密度で外国人が住んでおり、事実上スウェーデン人がほとんどいない地域になっています。

ブリュッセル近郊のモーレンベーク地区も、外国人が密集して集住していたところでしたが、外国人が地域的に集中し、いわゆる「ゲットー化」してしまうとどこでも、外と交流も、それによって得られるはずの仕事やほかの社会生活上の機会も大幅に減ります。その結果が語学習得の遅れや失業などの悪循環をさらに招き、結果として様々な不満が紛糾し、暴動などの暴力的な形として現れる傾向が強くなります。

労働市場への統合の難しさ

しかし、住む場所よりも社会構造の根幹に関わる問題で、さらに複雑で解決するのが難しいと思われるのが、移民や難民たちの就労問題です。上述のように労働市場への統合が、国の期待するようには、進んでいません。 移民や難民の言語習得や就労を支援するプログラムは、他国によりも充実しているはずなのに、なぜ、うまくいかないのでしょう。

そもそも労働市場に参入しようにも、スウェーデンの労働市場では、移民や難民がすぐに就業できるような雇用先が極めて少ないという指摘があります。高度な技術産業大国であるスウェーデンの労働市場では、難民や移民がすぐ手にできるような単純労働者の参入できる市場は小さく、就労のためには高度な専門的スキルとスウェーデン語の語学力が不可欠とされます。概算では、移民がつけるようなスキルの要らない仕事は労働市場全体の5%にしかならないといいます。高度な専門的なスキルと語学力の欠如というないないづくしのダブルパンチで、外国人たちにとっては市場への参入がきわめて難しい状況のようです。

外国人の労働市場の就労の難しさは、しかし今にはじまったことではありません。先ほどとりあげたスウェーデンの南に位置する都市マルメでは、1980年代の産業界の不況で、失業率がいっきに高くなりましたが、当時から外国人とスウェーデン人にはすでに大きな差がありました。スウェーデン人は5%にとどまっていたのに対し、マルメの外国人の失業率は20%以上でした。その後も労働市場に統合されず、外国人の間では生活保護などの公的扶助を受ける生活が、親からこどもに継承されるケースが増加しています。

一方、国全体のスケールでみると、スウェーデンは経済成長率4%と、ヨーロッパ諸国のなかではダントツの経済成長率をほこっており、国民の大半はその恩恵を多かれ少なかれ受けています。このため多くの国民にとって、労働市場に統合されず社会からも疎外された人々や郊外の出来事は、自分に関係ない人や遠くの出来事のように感じられ、無視される傾向が強く、事態の収束にはなかなかつながりませんでした。それどころか、暴動が国内の極右勢力を刺激しており、外国人への反発が今後も強まることも予想され、予断を許さない状況です。

スイスの職業教育制度とその実績

一方、スイスは、国の規模も外国人の占める割合もスウェーデンと比較的に似ていますが(スウェーデンの人口は990万人、スイスは830万人。外国人の占める割合はスウェーデンが2割弱 、スイスは約25%)、このようなスウェーデンの状況とは、 ずいぶん異なっています。ゲットー化した外国人集住地区もなければ、移民・難民絡みの暴動や不穏な動きも、今のところありません。もちろん、感情的に外国人に嫌悪感を覚える人が少ないわけでも、右翼勢力が特に弱いわけでもありませんが、スイス社会で移民や難民が孤立したり、対立が深まっている、といった印象は、多くの人に共有されておらず、メディアでも見当たりません。今年1月にスイスの主要日刊新聞NZZ (Neue Züricher Zeitung) に掲載された記事の副題に「なぜほかのヨーロッパの隣国よりもスイスのほうが、インテグレーションがうまくいっているのか。今のところは」(NZZ, 26.1.2016)というものがありましたが、この副題にあるような理解が、スイスでは現在一般的だといえます。

スイスがインテグレーションでスウェーデンやほかのヨーロッパ諸国よりもうまくいっている主要な理由として、スイスでは、就労面での外国人のインテグレーションが、かなり進んでいることがよくあげられます。そのためには、国の経済全体が堅調であることがもちろん重要ですが、同様に、移民や難民が労働市場に入っていきやすい職業訓練制度も決定的な役割を果たしていると言われます。

職業訓練制度というスイス全体にみられるユニークな制度の詳細については、改めて取り上げる予定ですので、 ここでは概観を説明するだけにすることにしますが、職種によって若干異なりますが、3〜4年の間、週に3、4日職場で仕事を学び、1日か2日だけ学校に通うという就業と教育を並行して行う実業教育制度を主にさします。ドイツ語圏で長い伝統をもつ仕事の見習い制度にルーツをもつものです。

これは、難民や移民のために設置したものではなく、スイスに住む住民全体のためのもので、義務教育期間修了(中学卒業)とともに、生徒全体の約6割以上がこの実業教育課程に進み、仕事を学んでいきます。課程を通じて実践的で専門性の高い仕事と知識をえられるため、その後の就職も容易になります。結果として、スイスの25歳未満の失業率は、2015年現在3.3-7.5%と、資料によって数値は若干異なりますが、EU諸国の平均25歳未満の失業率21.1%に比べると、3分の1以下という、圧倒的に低い数値に抑えられています。

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2015年のヨーロッパ各国の25歳未満の失業率をパーセンテージで色分けした地図
出典: Wo die Jungen arbeitslos sind, Tagesanzeiger, 22.7.2015.



一人一人の子どもが、自分にあった職種の受け入れ先をみつけることは決して簡単ではありませんが、移民や難民の子供たちも、学校や就職支援センターから全面的に細かな支援を数年にわたって受けることができ、中学校あるいはその後1年間の(まだ職業訓練先が見つからない生徒のための)準備期間が修了するまでに、大多数の子どもたちが、なんらかの職業訓練生としての受け入れ先をみつけて、労働市場への最初の一歩を踏み出していきます。

進学校のエリートを対象にしたインターンのような職業訓練制度を導入している国はいくつかありますが、スイスのように社会全体に広く開かれた雇用促進システム は、ドイツ語圏以外ではヨーロッパでもめずらしいものです。イギリス、フランス、スウェーデンや南欧などにもほとんどありません。例えば、スウェーデンでは、職業訓練は公立進学校の一部などで行うことができますが、逆にいえば、進学校にいける成績がまずなくては、職業訓練の恩恵にもあずかれないということになります。また制度としての伝統が長いドイツでも、訓練生の受け入れ先の不足や、高学歴志向におされて、スイスほどにドイツでは職業訓練制度は現在さかんに利用されていないといいます。

職業訓練制度の対象となるのは主として青年層だけですが、外国出身の若者たちが、若いうちに失業の身となって社会から疎外化されるのではなく、就業して社会の主体的な担い手となっていくことで、ゆっくりしかし確実に、社会全体のインテグレーションが深化するという、好循環につながっているといえます。

次世代が受け継ぎ、深化させるインテグレーション

このようなインテグレーションの実績は、日常の生活ですぐ目につくことではありませんが、ふとした機会に、それを実感するようなことがあります。スイスで現在最も読まれている日刊フリーペーパー『20分(20 Minute)』の今年6月のひとつの記事でも、そんな実感がとりあげられています。

アルバニア対スイスのサッカーの国際試合が開催された際、スイスが勝利に終わったのですが、その夜チューリッヒの街頭では一切不穏な動きはなく、平和裡におわった、という通常では記事にならないような「何もなかった」ことを報道した記事です。むしろ記事では、「アルバニア人のインテグレーションは成功した」という見出しのとおり、スイスでのアルバニア人の社会でのインテグレーションがすすんでいるということに注目していました。2000年ごろ大勢のアルバニア人が難民としてわたってきたころに、セルビアやクロアチア、あるいはトルコ対スイスの試合があると、パブリックビューイングでも緊張が走ったことと比較しながら、スイスのアルバニア人とその周囲の関係が現在かなりよくなっていると報じられ、ここでもアルバニア人が労働市場に参入できたことが大きかったというコメントがのせられています。

アルバニア系移民に限らず、スイスと外国という二つの文化のなかで育った移民の若い世代は、労働力としてだけでなく、文化的な溝を埋め、国内の異なる文化に橋をかけるという意味でも、社会のインテグレーションに大きな役割を担っているといえるでしょう。

私事になりますが、わたしも今年、小学校のPTAの仕事のなかで、似たような感慨を得る機会がありました。初夏に、自分の子どもが通う、チューリッヒ近郊のごくごく普通の市立小学校で、設立40周年のお祝いに、児童の親たちである約200家族が、お国自慢の料理を持ち寄った時のことです。参加家族の国籍を数え上げててみると合計47カ国にものぼりましたが、企画から当日の受付、食事会の間にいたるまで混乱も一切なく、みんなでわいわい飲食を共にして、大盛況のうちに無事に会が終了しました。食事会をしたことで、スイスでは、外国人が増えているだけでなく、ますます多様・多彩になっていて、しかし、それに気づかないほど、移民や難民にまつわる摩擦や問題も少なく、 同じ地区に居住していたのだという事実に、改めて気づかされました。

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ただし、先述の新聞記事の副題に「(少なくとも)今のところは」と断りがあるように、今がよくても、これからもインテグレーションが順調にうまくいく保障はありません。現在のスイス各地の多国籍の学校で一緒に学んだスイスと外国籍の子どもたちが、将来労働市場に参入していく時にも、これまで同様に、社会に広く門戸が開かれた労働市場や就労システムが維持されているかが、重要な鍵となってくるでしょう。

また、このようなスイスの現在の事例は、将来のスイスにおいての具体的なノウハウや自信につながるだけでなく、国境をこえて、インテグレーションが難航している国々、あるいは今後インテグレーションが今以上に重要になってくる国々においても、示唆に富む一例になっていくのではないかと思われます。

参考文献・サイト

——スウェーデンのインテグレーションをめぐる状況について
Niels Anner, Ausser Kontrolle, Hintergrund Schweden, NZZ am Sonntag, 28.8.2016.

Helmut Steuer, Flüchtlingskrise Schweden ist jetzt ein Land im Schockzustand, Welt N24, 19.2.2016.

Bernd Parusel, Integrationspolitik in Schweden, Analysen und Argumente, Perspektiven der Integrationspolitik, (von Konrad Adenauer Stiftung )Ausgabe 217, Sept. 2016.

Sven Astheimer, Arbeitsmarktintegration Schwedens Flüchtlingspolitik ist teuer und erfolglos, FAZ, 13.5.2016.

渡辺博明 「スウェーデンの移民暴動に関する報道をどう見るべきか」、シノドス、2013年7月4日。

——EU諸国およびスイスの青少年の失業率について
Europäische Union: Jugendarbeitslosenquoten in den Mitgliedsstaaten im Juli 2016, Das Statista, Statistik-Portal

Jugendarbeitslosikeit, Schweizerische Eidgenossenschaft, Statistik Schweiz.

Wo die Jungen arbeitslos sind, Tagesanzeiger, 22.7.2015.

——スイスのインテグレーションをめぐる状況について
Martin Beglinger, Lob der Mehrheitsgesellschaft, Warum die Integration in der Schweiz besser funktioniert als in vielen europäischen Nachbarländern. Bis jetzt, NZZ, 26.1.2016.

D. Pomper, Die Interation der Albaner ist ein Erfolg, Party statt Prügel, 20 Minuten, 13.6.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


テレビ取材でわかったSEOの本質

2016-09-21 [EntryURL]

協会の公式サイトにスイスの現地情報のコラムを執筆していただいている穂鷹知美氏。
良質なコンテンツを書いていただいています。
先日、某テレビ局から連絡がありました。

穂鷹さんのコラムを読み、詳しく話を聞きたいという取材の申し込みでした。番組の特集に関することのようでした。
実際に放送されたテレビ。

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実はこの件でSEOの本質がわかったような気がしました。
わたしが担当者の方と電話で話したとき、「これだけ詳しい内容のが他にありませんでした」と言われていました。
協会会員限定のメルマガの質問コーナーで、先日ページの文字数について書かせていただきました。
確かにコンテンツの文字数も大事で、実際穂鷹さんのコラムもボリュームがあります。

しかし重要なのは「滞在時間」だと思います。
長々と書いても読んでもらえる内容でないといけないということです。

そして「専門性」だと思います。
これはユーザーがほしい情報が書かれているというユーザービリティに通じることだと思うのです。
これからのサイト作りは、テクニック的なことよりしっかりとしたコンテンツ作りなることは間違いないでしょう。


世界屈指の観光地の悩み 〜 町のテーマパーク化とそれを防ぐテーマパーク計画

2016-09-15 [EntryURL]

観光地の苦悩
観光業は、最先端の技術や大規模な開発費用がなくてもすぐに始められ、煙突なしのクリーンな産業でもあるため、世界中いたるところで地域振興の中心的な柱になっています 。その一方、国内外にあまたとある観光地間の争いはさらに熾烈になっており、よっぽどの名所や特別な何かがない限り、集客は容易ではありません。
日々宣伝にあけくれて苦戦している大方の観光地にとって、圧倒的な知名度を誇り、宣伝しなくても連日人が押し寄せるような観光地と聞けば、憧憬の的以外の何物でもないでしょう。しかし、世界有数の観光地のなかには、観光客が多すぎることに頭を抱えているところもあります。バルセロナ、ヴェネツィア、ロンドンなどです。例えば人口160万の、スペイン第二の都市バルセロナには、年間3千万人が訪れています。世界的に有名なバルセロナの教会サグラダファミリアだけでも1千万人で、 1992年のバルセロナでのオリンピッック開催以降、観光客数は増加の一途をたどっています。
観光客が多くて、なぜ頭を抱えなくてはならないのかというと、生活に関わる様々な点で、深刻な弊害がでるためです。家賃や物価が上昇し、 過剰な交通量でいたるところが渋滞、公共交通手段もいつも満員です。ほかの公共施設やインフラなど、公共財全般も、利用過多のため機能不全になったり質が低下します。昔から住んでいる人が都市を離れていき、地縁は薄れ、コミュニティーは衰退します。都市計画の概念でいうところの、都市の居住者にとってのアメニティー (生活のしやすさ、快適さ)全般が著しく低下することになります。
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もちろん、観光産業は地域経済を潤しているため、観光産業を否定することはできません。160万人の都市バルセロナでも、12万人が観光産業に就業しており、観光はひさしく都市の主要な産業となっています。しかし、居住者が上記のような生活事情で、町から姿を消していけば、歴史的な建造物などが残ったとしても、そこは生活空間としての都市ではなくなります。イタリアのピサ大学で社会学と観光人類学を講義する Duccio Canestrini 氏は、このように過度な観光地化のために変質する都市の状況を「テーマパーク化」と表現します。
テーマパーク化を避け、 地域全体の活性化につながるような観光産業にするにはどうしたらいいのでしょうか。南ドイツ新聞の先月8月のインタビュー記事で、Canestrini氏は、実際にヨーロッパで検討あるいは実現された対策や構想をいくつかあげています。そこには、世界的な観光のトレンドをおさえつつ、地域性を活かそうという発想がみられ、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを前に、海外からの観光客の受け入れ準備が進んでいる日本の方が読んでも、参考になるかと思いますので、今回はそれらの案について、世界的動向やスイスの例などを補足しながら、紹介してみたいと思います。
訪問制限
まず一つ目は、なんらかの形での都市への来訪者の人数の制限です。建造物の入場を制限するケースはたびたびありますが、この対象を都市全体に広げるものです。
人口約26万のイタリアの都市ヴェネツィアには年間3千万人以上の観光客が訪れますが、 そのうち260万人ほどしかヴェネツィアに宿泊しておらず、圧倒的多数が日帰り観光客と推測されます。日帰り観光客の中には、飲食や購買などでお金を都市に落としていく人ももちろんいますが、 無料のテーマパークのように都市を訪問・利用するだけで、ほとんどお金を落とさない旅客もいます。このような観光客が増えると、都市にとっては恩恵よりも混雑や負担が大きくなり、都市側には不満がつのるようです。特に、問題となっているのが、近年世界的に人気が高く、マス・ツーリズムとして定着してきたクルーズ客船の旅客です。例えばドイツでは、クルーズ客船を舞台にしたドラマの人気も影響し、1998年30万6千人だった客船乗客数は、2015年には181万人にまで増えています。客船の大型化も進んでおり、今日の大型船は5千から6千の乗客を収容できます。クルーズ客船で訪れる旅客は、大挙して都市の訪問客が押し寄せるものの、飲食と宿泊が客船で提供されているため、 都市に落としていく金額が少ないとされます。
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このため、バルセロナやヴェネツィアは、具体的に市域や都市の中心部のシンボリックな空間への訪問の制限を検討中です。制限を実施した都市はまだありませんが、どちらの都市でも市長が実施への決意を表明しています。

テーマパークに観光客をひきつける

一方、観光客を制限するのではなく、特定の箇所に訪問が過剰に集中しないように、別のところへ移動させる方法で、受け入れる案も検討されています。 ただし、ほかのところへ移動させるといっても、ただで観光客が「ほか」に向かうはずがありませんから、「ほか」の魅力をアピールする、あるいは新たにつくりださなくてはなりません。その際にキーワードとしてでているのが、おもしろいことに、また「テーマパーク」です。例えば、やはり過剰な観光客数に苦慮するフィレンツェは、空港近くに町にそっくりの、新しい「テーマパーク」を建設して、観光客の一部をそちらで受け入れるという壮大な構想があるといいます。
わざわざヨーロッパにきて、偽物のテーマパークに行くような人が実際でてくるのかと、このような案をいぶかしく思われる方も多いかと思いますが、世界的な動向をみると、突飛な発想というより、むしろ、近年の観光のトレンドをとらえた動きともいえます。
世界的なテーマパーク・ブーム
というのも、テーマパークは、世界的に空前のブームだからです。世界最大級のテーマパーク25箇所で、2006年から2015年の10年間で訪問客の数は26.3 %増加しており、去年一年間で4億2千万人が訪問しています。2015年、ディズニーグループは売上が前年比で7% 増加しましたが、これは特にテーマパークによるところが大きいといいます。テーマパークだけで162億USドルをあげています。
特に、近年めざましい成長をみせ注目されるのが、今年6月に上海にオープンしたディズニーランドに象徴されるような、アジアでのテーマパークの人気です。中間層が急増している中国では、2015年の1年間で中国では、21のレジャーランド(遊園地)がオープンし、さらに20箇所が今建設中です。レジャーランドの中でもテーマパークは人気で、現在中国内で、 789箇所あります。2011年から2016年の5年間の間で、中国のテーマパークの売り上げは毎年平均10.2 % 増加しました。
複製されたものへの愛着
ところで、テーマパークの中身をみてみると、どこかの建物や風景などをそっくり真似する複製文化と切っても切れない親密な関係にあります。日本でも、欧米の街並みを再現したテーマパークが高い人気を長年維持していることからもわかるように、テーマパークのなかの複製された建造物や風景全般は、 否定・非難の対象というより、本物でないことは承知の上で、エキゾチックなアトラクションとして、肯定的に受容されているといえます。
Duccio Canestrini氏は、このような傾向に注目し、「アジア人は、ヨーロッパ人ほど本物であることにこだわらず、複製を広範囲で受け入れる」と捉えます。つまり、見かけが同じで、使い勝手がよければ、本物でなくても受け入れるという複製やテーマパークへの親和性は、アジア人の間で特に強いと理解しているようです。そしてヨーロッパでは、このような海外(特にアジア)からの旅行客の傾向に目をつけ、新たにテーマパークを建設することで、一部の観光地の過剰な訪問客数を緩和させるための切り札にもなりうるのでは、と期待をよせているようです。
アジア人が果たして本当に本物かをあまり気にせず、複製物に親和性が強いのか、と議論をはじめたら長くなりそうですので、この先の議論は文化論の専門家にまかせることにして、ここでは、とりあえずテーマパークのプラグマチックな特徴に注目してみましょう。テーマパークは、本当には生活していない場所であり、そこで居住者と交流したり、現実の生活を見学、体験することはできません。他方、住民がいませんから、観光客の需要を最優先・最適化してサービスを提供することができます。このため、手っ取り早く名所の見学や体験を一通りしたいという人たちの中では、ある程度潜在的な需要があるでしょう。さらに、 交通が便利で本物の町を訪ねるよりずっと時間が節約できるとか、治安面で安全性が高い(窃盗や詐欺などを常に警戒しないで闊歩できる)とか、高齢者や子連れにやさしいバリアフリーの街並みなど、本物の都市にはない特典がいくつかつけば、立ち寄りたいと思う旅行客の数は、さらにぐっと増えることも考えられます。
また、オリジナル作品を保護するため精巧な複製を作成し、複製を博物館で展示するという手法はヨーロッパでもすでに広く普及しているため、町そのものをそっくり複製し公開する という発想を、価値あるものの複製を作成し公開するという考えの延長・応用として捉えれば、 都市の側としても複製をつくることに対して、抵抗が少ないのかもしれません。
いずれにせよ、このような発想を実現した新たな観光地が今年誕生しました。南仏の ショーヴェChauvet洞窟の複製です。この洞窟には人類最古の絵画と言われる洞窟画がありますが、絵画を保護するため、洞窟そのものは非公開です。しかしこの近くに、精巧に複製した洞窟が今年4月からオープンしました。まだオープンして日が浅いので成功か否かの評価は難しいですが、少なくとも評判はいまのところ上々で盛況とのことです。
スイスのハイジのテーマパーク構想
観光客が多すぎるという理由ではありませんが、オリジナルの世界を再現した、体験型のテーマパークを作って観光客を呼び込もうという話は、ちょうどスイスでも持ち上がっています。世界的に有名なヨハンナ・シュピリの『アルプスの少女ハイジ』の原作のモデルとなったのはマイエンフェルトというところですが、そことは別の地域であるザンクトガレン州のスキー場の一角であるFlumserbergに、ホテルと山岳鉄道会社が1億スイスフラン以上かけて、ハイジの世界を体験できる12のテーマに分かれた建物の集合施設を作る計画です。
原作の舞台となった場所とは異なる場所とはいえ、 スイスののどかな放牧地は、一般の旅行客にとっては、同じような風光明媚な風景に映り、「ハイジの世界」として旅行客にアピールすることはそれほど難しくないかもしれません。現在、原作のモデルとなった地域との間の合意や出資者の問題があり、正式にいつ実現するかははっきりしていませんが、もしも実現したとすると、20万人の新たな訪問者がくると見込まれています。
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おわりに
本物の都市と、すべてが複製や虚構で本当の生活がないテーマパーク。一見相反するようにみえ、観光地とテーマパークを並列して補完させあう関係は、最初聞くと、あまりに突飛な気がします。一方、もし本当にテーマパークが建設され、これまで都市がすべてになってきたいくつかの機能を代わりに担ってもらうことができ、観光地の負担が減少すれば、多少の観光業界の経済的な損失を合わせてもあまりある貴重な、居住者自身のアメニティーという都市の大切な要素をとりもどすことができるでしょうし、それによって、そこを訪れる観光客にとっても、本来の町の生活をより多く体験、感じる機会が増えることになるでしょう。
そう思うと、経済的な条件や立地条件など厳しい条件は多々ありますが、名所そっくりのテーマパークという壮大な構想は、過剰な観光客に対する対策として、意外に建設的で、長期的には都市へ恩恵をもたらす案なのかもしれません。
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参考サイト
——Duccio Canestriniへのインタビュー
Silke Wichert, Wir müssen draußen bleiben, Süddeutsche Zeitung Magazin, 19. 8.2016.
——観光客の制限の検討について
Romina Spina, Anstehen für Venedig?, Besucherquoten für die Lagunenstadt, NZZ, 28.7.2015.
https://blendle.com/i/suddeutsche-zeitung-magazin/wir-mussen-draussen-bleiben/bnl-szmagazin-20160819-59686
Cornelia Derichsweiler, Barcelona will kein zweites Venedig sein, Massentourismus wird zum Politikum, NZZ, 26.4.2016.
“Venedig ist zum Albtraum geworden”, Massentourismus, Die Welt, 17.7.2015.
——世界的なテーマパーク・ブームについて
Julie Zaugg, Micky Maus im Reich der Mitte, Swissquote, Nr.4 Sept. 2016, S. 60-65.
——スイスのハイジの世界を体験できる集合施設の構想について
Christoph Zweili, Marion Loher, Ein Heidi Klon furs St. Gallerland, Tagblatt, 11.3.2016.
Wie das Heidi ins Sarganserland kam, Tagblatt, 5.3.2016.
5. März 2016, 15:49 Uhr
Janique Weder, St.Gallen baut seine eigene Heidi-Alp, Tagblatt Online, 15.3.2016.
Christoph Zweili, Heidimythos neu interpretieren, Tagblatt, 15.3.2016.
Sascha Zürcher, Konkurrenz für das Heidiland, Echo der Zeit, 1.4. 2016
——他
Barbara Gisi, Schweizer Tourismus im Jahr 2040 -Ein Essay, swissfuture, 01/2015, S.3-5.
Robert Zimmermann, Auf Lustfahrt, Geschichte, NZZ am Sonntag Stil, 28.8.2016, S.18-21.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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スイスのイノベーション環境 〜グローバル・イノベーション・インデックス (GII)一位の国の実像

2016-09-08 [EntryURL]

今夏、 「グローバル・イノベーション・インデックス(GII)」と呼ばれる、国別でイノベーションの状況を評価する世界ランキングで、スイスが6年連続で1位になりました。これだけ聞くと、なんだかすごいことのように思うのと同時に、具体的なイメージは湧かず、かえって次々と新たな質問がしたくなってきます。 ここでは「イノベーション」はどのように測られているのか。そこではスイスはイノベーションに関してどのような点が優れているとされているのか。また、実際にスイスのイノベーションの中心となっているのはどんなところや分野であり、イノベーションの推進をかかげるほかの国々にとって、参考になるようなことはあるのか。今回は、これらの疑問を明らかにしながら、「イノベーション大国」と評価されたスイスの実像について探ってみたいと思います。
グローバル・イノベーション・インデックス
このランキング・データは、アメリカのコーネル大学と、3大陸にまたがる世界最大規模のビジネススクールであるINSEAD、それに世界知的所有権機関(World Intellectual Property Organization 略してWipo)が、2007年から共同して毎年発表しているものです。 イノベーションに必要な人材や研究などへのインプット(投資)と、これによって達成された具体的なアウトプット(成果・業績)、またその効率性について、経済・政治・社会などの様々な側面から評価されます(内容は、この記事の下の「参考サイト」欄にのせてある公式サイトで公開されています)。評価項目は年により若干異なり、今年は、政治・規制・ビジネスなどの全般の環境、人的資源と研究・高等教育、情報やコミュニケーションを推進するインフラ整備、市場洗練度、ビジネスの洗練度、知的技術的財産、創造的生産という7分野の82項目が、評価の対象となりました。
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分析結果を一瞥すると、スイスは特に 「知識と技術のアウトプット」分野(1位)と、会社が具体的にイノベーションを実践できるネットワークや環境などを評価した「ビジネスの洗練度」分野(3位)で高い評価を得ていることがわかります。点数評価されたこれらのデータだけでは、具体的にどのようにイノベーションが進んでいるのかよくみえてきませんが、スイスのイノベーションの強さと特徴として、メディアでは、よく 以下の2点のことが指摘されています。
企業と研究施設の共同研究
まず、スイスの特に大手企業は研究開発に多大な投資を例年行っており、企業と大学や研究機関との共同研究がさかんなことです。スイス連邦工科大学チューリッヒ校(以下「チューリッヒ工科大学」と表記します)およびローザンヌ校など世界の大学ランキングでもトップを占める大学や研究施設には、基礎研究のすぐれた基盤があり、これらとの共同研究を進めるスイスの企業は、その多大な恩恵にあずかっているといいます。チューリッヒ工科大学だけでも、パートナー関係をもつ会社は科学、工学、経済分野の約300社あるそうです。
端的な例としてよく引き合いにだされるのが、チューリッヒ市に拠点を置くグーグル社とディズニー研究所です。1800人のスタッフを抱えるチューリッヒのグーグル社には、100人の研究者が働いており、北米以外で最大の開発拠点と位置付けられています。そこではチューリッヒ工科大学と連携しながら、3D技術や言語、画像、音、データなどを処理する最先端の人工知能研究がされています。ディズニー研究所のほうは、北米のロサンゼルスとピッツバーク以外には世界中で、チューリッヒ以外にありません。ディズニー研究所の所長は、チューリッヒ工科大学のコンピューター・グラフィック専門の教授が兼任していることもあり、強い連携関係のもとに共同研究がすすめられています。
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アウトプットを保護し活かす環境
また、研究開発の成果(アウトプット)の保護や市場へのアクセスのための法的制度やインフラがよく整っていることも、スイスのイノベーションを支える特徴と言われます。特に、知的財産権を管理・活用するための法的また会計上(税制度など)の制度や条件がよく指摘されます。GIIでは、特許出願数や特許・知的財産使用量の受け取り量などを評価した「知識と技術のアウトプット」分野の3項目で、スイスは、最高ポイントである100ポイントを取っていますが、これは、そのような恵まれた制度やインフラによるところが大きいといえるでしょう。
具体的にいくつかの例をあげてみると、前述のチューリッヒのディズニー研究所は、ヴィジュアル効果として利用できる特許を2010年4月からの1年間で70件以上を取得しています 。前回の記事(「複製不可能な最強の鍵は金属製? 〜IoT時代のセキュリティー考」)でとりあげた新しい鍵の技術を開発したスイスの企業「アーバンアルプス」は、2014年7月に起業されたばかりですが、すでにスイスの10件の特許を取得しています。また、ヨーロッパ各国の特許も請願中で、遅くとも来年までに特許を取得した後は、会社独自の技術と特許のライセンス契約を会社の主要な収益源にするとしています。
ちなみにチューリッヒ工科大学には、学生や研究者たちの起業を支援する独自のインフラも整備されており、毎年、40社以上が大学関連社によって起業しています。
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“Altocumulus Lenticularis” (チューリッヒ空港内にある Inigo Mnglano Ovalleの作品)

冷めたスイスでの反応
一方、連続6年目でイノベーションのトップのお墨付きをもらったというのに、スイス国内での反応は、概して冷ややかです。むしろ、今後の危機感のほうが強くにじみでた報道が、最近は目立っていると言えるかもしれません。その理由として、今年は2位との点数差が僅差であったことや、中国などアジア各国の追い上げが年々めざましいことや、スイスフランが依然非常に強く、産業界全般に大きな負担であることもありますが、 もっとスイスのイノベーションの根幹に関わる問題を目下、抱えているためです。
それは一言で言えば、「大量移民イニシアティブ」と呼ばれる、外国人労働力の流入を制限する国民投票が2014年2月にスイスで可決されたことの影響です。これにより、まず、スイスの企業も研究機関も海外から優秀な人材を確保するのが難しくなりました。また、EU との共同研究体制にもヒビが入る可能性が高くなりました。特に総額800億ユーロになるというEU史上最大の研究・イノベーション資金助成プログラム「ホライズン2020(Horizon 2020)」に来年2017年はじめからは参加できなくなる可能性があり、そうなると、最先端の研究をエンジンに世界のトップレベルのイノベーション力を維持してきたスイスの社会構造全体にとって大きな打撃を与える、と危惧されています。このため、国民投票の結果と矛盾が起きないような打開策を見つけ出すことが焦眉の問題なのですが、なかなか簡単ではないようです。
スイスにとって、国内外での政治的な変動や社会的な反動にも大きな影響を受けずにイノベーションを推進できる社会モデルこそ、あったら今、一番嬉しいイノベーションといえるかもしれません。
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参考サイト
—-GII 2016 について
GII Report
GII Analysis
GII 2016年度の日本語翻訳版
Thomas Fuster, Innovation im Vergleich 2016, NZZ, 15.8.2016.
Schweiz bleibt laut Wipo weltweit führend bei der Innovation, finanzen.ch, 15.8.2016.
Die Schweiz ist Innovations-Weltmeister, Tagesanzeiger, 1.7.2013.
—-企業と研究機関との共同研究について
Die ETH Zürich, die Universität Einsteins. Wissenschaft & Bildung, House of Switzerland (2016年8月26日閲覧)
Disney, IBM, Google
Disny Research, Geater Zurich Area (2016年8月28日閲覧)
Jan Schalbe, Die Disney-Magie wird in Zürich erzaubertMarkus Gross führt das einzige Disney-Entwicklungszentrum ausserhalb der USA - Weltweit führend in Animationsfilm- und 3D-Technik - Kooperation mit der ETH
Henning Steier, Google in Zürich. Von 2 zu 1800 Mitarbeitern, NZZ, 17.6.2016.
Marco Metzler, Wie Google in Zürich Computern das Denken beibring, NZZ am Sonntagvon, 17.8.2016
—-大量移民イニシアティブを可決した後のスイスのイノベーション問題について
Birgit Voigt und Charlotte Jacquemart, Die Verlässlichkeit der Schweiz ist beschädigt worden, NZZ am Sonntag, 28.8.2016.
Schweizer Forschungsplatz in Gefahr?, Echo der Zeit, SRF, 25.8.2016.
Heidi Gmür, Simon Gemperli, «Es wäre eine Art Notstopp», Masseneinwanderungsinitiative, NZZ, 31.8.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


複製不可能な最強の鍵は金属製? 〜IoT時代のセキュリティー考

2016-09-01 [EntryURL]

3Dプリンターによって揺らぐセキュリティー事情
3Dプリンターの普及により、製品の生産のあり方やその寿命が大きく変わってきています。製品開発にかかる時間と費用が短縮され、顧客の個別の需要に合わせて部分や色などが異なる、多様な仕様の製品をつくることができるようになっただけでなく、故障・紛失した部品を個々につくって代替・補充することで、製品の従来のライフサイクルを調整・長期化ことも可能になりました。しかしこのような技術は、非常に便利で、新しい可能性を開いただけでなく、新たな問題や危険も同時に生み出しました。例えば、複雑な構造の造形物でも作成が容易になったため、銃や武器などを勝手に製造することも可能となり、このような危険をどう回避するかが焦眉の課題となっています 。
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もっと生活に身近なところで、複製してほしくないものが複製される危険もでてきました。誰もがひとつは所持している金属製の鍵です。オリジナルを手にいれなくても、それを写した写真さえあれば、その鍵を複製することができることが技術の進歩で可能となり、これまで建物のセキュリティーを一手に引き受けてきた鍵への信頼は、大きくゆらぐ事態となってきています。
複製不可能な鍵の登場
しかしこんな不安をよそに、複製がほぼ不可能という、これまでにない新たな金属製の鍵の技術が、近年開発されました。2014年7月に設立されたスイスのアーバンアルプス社という会社の鍵です。
一体どのような鍵なのでしょう。一見すると、大きさも重さも、鍵の厚さも通常の鍵とほとんど変わりありませんが、よくみると内部へのわずかな開口部分があり、鍵の内側は空洞になっています。その内部の空洞に向かって、外からは見えませんが鍵の内側に、3Dプリンターの精巧な技術を活かした、立体的な構造の溝がつけられています。外部に開いた開口部分は非常に小さいので、鍵の内部の複雑な立体構造を、通常のカメラでみることは不可能です。もちろん、 スキャナも役にたちません。このため、高性能のX線を使って内部を解析しようとすれば、不可能ではないかもしれないが、精巧な内部構造の解析作業は費用と時間と手間が多大にかかるため、現状では、複製はほぼ不可能、と会社側は説明しています。確かに、鍵を盗みだし、それを高い費用と手間を介して解析して複製を完成し、それを所持者が気付かないうちに用いて犯罪を成功させることの採算とリスクを考えると、実際に被害がでる可能性はきわめて低いと言えるでしょう。
電気も磁気も一切使わず、まして電子機器にも依存しない金属製の一本の鍵は、 多少のことでは壊れませんし、充電もアップデートも必要ありません。電子機器のような多機能性はありませんが(それが鍵に必要かもわかりませんが)、持ち歩きも楽で、 子供からお年寄りまで無難に使いこなすことができる金属製の鍵の、格別な使い勝手の良さは、誰もがすでによく知っているとおりです。
以前、「『リアル=デジタルreal-digital』な未来 〜ドイツの先鋭未来研究者が語るデジタル化の限界と可能性」で、ドイツの未来研究の第一人者として知られるマティアス・ホルクス氏が、急激なデジタル化のプロセスは問題を起こすことが多いと指摘し、デジタル・ツールとアナログ形態の中間的な利用方法・形態が、これまで同様、将来におちても有望だ、と概観していることをご紹介しました。今回とりあげた鍵は、まさにそこで言われているような、ハイテク技術とアナログ・ツールを組み合わせた、理想的な形態と言えるでしょう。
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出典: アーバンアルプスの公式サイトhttp://www.urbanalps.com/

同社は、鍵と鍵穴と合わせて量産を可能にするソフトウェアも合わせて開発しており、金属粉を使って3Dプリンターで作成するこの鍵を、レーダーやセンサーから探知されない軍事技術、通称「ステルス」から名前をとって「ステルス・キーStealth Key」と名付けました。
近年、従来の鍵はもはや安全ではないとする見方が急速に広がり、デジタル技術を利用した施錠の方法に将来性を見る傾向が強まっている状況で、一見時代遅れにみえるような従来の物理的な鍵という形状を残し、物理的な複製をできなくすることに打開策を見出したことは、非常にユニークと言えるでしょう。
量産と多様化の利点を合わせた新たな鍵づくりの構想
また、今回の鍵の開発において、鍵業界における3Dプリンターの意味を、コピーが簡単になったという弱点に目を奪われて単なる脅威と位置付けるのではなく、むしろ安価でより高度なセキュリティーを保証する鍵を自分で簡単に作り、場合によっては量産化できる可能性、という新たな価値にして、セキュリティーに活かしたことも、危機をチャンスに見事に変えたイノベーションのお手本のようです。
会社によると、鍵は一本、従来の鍵の10分の1ほどの費用である2ユーロほどで作成が可能です。また会社の開発したソフトウェアを使えば、24時間以内に1000本のステルス・キーが量産できるといいます。これは、量産体制のコスト面などの優位性を尊重する一方、 個々の顧客の要望に合わせた製品の製造をめざすマス・カスタマイゼーションという製造コンセプトを体現したもので、ドイツ政府が推進する製造業の高度化を目指す戦略的プロジェクトインダストリー4.0の最終的なゴールとも共通するものだとも、説明されています。
スタートアップ企業としてのスタート
この新しい鍵の構想は、スイスでは早い段階から高い評価を受けてきました。会社設立したのと同じ年の2014年には、ベンチャーキックからの13万スイスフランの支援を受け、今年2016年にはW.A. de Vigier 賞という、スイスで名高いスタートアップ企業に送られる賞を受賞し、賞金として10万スイスフランを獲得しています。
目下、ヨーロッパ各国で請願中の特許が今年中か遅くとも来年の初めまでに完了することを見込んでおり、近日、市場に本格的に参入する予定です。そして将来的には、会社独自の技術と特許のライセンス契約によって収益をあげられると予想しています。
せまりくるIoT時代に向かって
世の中では、「IoT(Internet ot Thingsモノのインターネット)」と言われ、モノ がお互いにつながっていくと騒がれています。しかし、つながることは、便利さとはうらはらに、重要なデータが流出してしまう危険をいつも伴っています。個人情報の流出も深刻な問題ですが、セキュリティーに関わる情報も流出してしまうと、大変なことになります。これに対抗するため、さらなる高度なデジタル化・精巧化で、セキュリティーを高めようとするのがセキュリティー業界の現状だとすれば、 IoTでない、一切つながらない、ということによって機能の安全性を担保しようという、今回の逆転の発想から生まれた鍵は、時代のはやりの潮流にのることだけがいつも最短で最善の解決策になるとは限らないことを示唆しています。
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鍵市場は、「これほどダイナミックでない市場はない」(NZZ、2016年6月17日)と言われるほど、これまで動きが少ない市場であり、将来、このような鍵が実際に今後どれだけ普及するかは不透明ですが、 今回の開発された鍵とその経緯は、セキュリティー分野にとどまらず、 IoT化が広範に進む社会全体においても、発想の転換や、問題解決を探る発想の手がかりを示してくれているように思います。
/////
参考ウェッブサイト
アーバンアルプスの公式サイト(英語)
The Unscannable 3D printed Stealth Key | Felix Reinert | Urban Alps | TCT Show, 2015年11月3日公開
Stefan Betschon, Der Schlüssel im Schlüssel, NZZ, 17.6.2016.
Die kopiersicheren Schlüssel von UrbanAlps, Bilanz Das schweizer Wirtschaftsmagazin, 12.02.2016
Clare Scott, UrbanAlps Receives Prestigious Award for 3D Printed, Copy-Proof Stealth Key, 3DPrint.com, 1.6.2016.
3Dスキャン&3Dプリントでも複製困難な鍵をスイス企業が開発、fabcross ニュース、2015年6月1日
Schweizer Unternehmen entwickelt unkopierbare Sicherheitsschlüssel - dank dem 3D-Druck, 3Dnatives, 29.5.2015.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


生活の質を高めるヒアラブル機器 〜日常、スポーツ、健康分野での新たな可能性

2016-07-20 [EntryURL]

ヒアラブル機器の時代
ウェアラブル・コンピューターの専門家Nick Hunnは、2014年に耳に装着する電子機器製品を総称して新たに「ヒアラブル」と名付けました。そして、ヒアラブル市場(ヒアラブル機器とその周辺産業)はウェアラブル製品のなかでも特に成長が見込まれるとし、50億USドルもの産業になるだろうと予測しました。今年3月に出た最新のレポートではさらに、2020年にはヒアラブル機器は、13億個が市場にでまわり、180億US ドル近い市場になると想定しています。
今日、利用されているデジタル・メディアは圧倒的に視覚を介したものが多く、聴覚だけによるものは用途がいまだに限られています。また、コンピューターを搭載した腕時計などのウェアラブル製品は、市場にでたり話題にはのぼるものの、スマホの地位を揺るがすほど、社会に広く浸透しているようには、少なくとも現状では思えません。このため、冒頭のような予想を聞いても、本当に「ヒアラブル」 がそれほどこれから急展開するのか、と疑わしく思われる方も少なくないと思います。
しかし、ヒアラブル機器を、ただのハイテクを駆使したガジェットのトレンドとみるのではなく、これまでハイテク機器に縁がないと思われていた高齢者や障害者を含めて、生活する人々全員を様々な側面で支援しする可能性をその中にみると、確かに大きな需要が見込まれ、巨大な市場が潜んでいるようにも見えます。今回は、このようなヒアラブル機器の今後の可能性について、ドイツで今年初めに発売されたヒアラブル機器の機能を具体的にみていきながら、考えてみたいと思います。
耳装着型のコンピューター
ドイツのミュンヘンの会社ブラギBragi から今年販売されはじめたイヤホン「ダッシュDash 」は、イヤホンの常識を壊す画期的なものとして、メディアで注目を浴びています。それが、左右のイヤホンもブルートゥースでつながった完全なワイヤレス型のイヤホンであるだけでなく、耳装着型のコンピューターともいえる、多機能を搭載しているためです。
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出典:ブラギのダッシュの公式サイト http://www.bragi.com/

耳に装着するわずか13グラムの小さな本体には、4ギガバイトの容量があり、23のセンサーやマイク( ほかの周囲の音をとりのぞいて自分の声だけを拾えるマイク)も内蔵されているため、スマホなどを介さず、それだけで音楽を聞いたり、通話をすることができます。
イヤホンはシリコンで防水加工をした4バージョンがあり、きわめて装着性が高く、実際に装着したユーザーの間でも、ジョギングや水泳(水深1メートルまでの潜水が可能な防水加工つき)などの激しい運動をしても落ちる心配がほとんどない、と高く評価されています。さらに外の音を中に取り込むトランスパレンシー機能もついています。これによって、操作中も周囲の音に気づくことができ、音楽を聴きながら自転車に乗っていても、外の音に注意を払うことができます。
また心拍数やテンポ、エネルギー消費量、活動の時間などスポーツ活動の集計や健康管理機能も有しており、それらの報告を直接自動音声で聞いたり、記録に残すことができます。
これらの操作はすべてイヤホンへのタッチ(タップやスワイプなど)ででき、機能によっては、首を振るなどのほかの動作でも可能です。
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生活を手助けする機器
このような画期的なヒアラブル機器は、人々がケーブルに縛られずに完全に自由にしただけでなく、生活の様々な局面で人々をサポートする新しい可能性を開いたと、 ウェアラブル機器専門家たちの間で評価されています。
まず、視覚や細かな手作業を必要とせず、聴覚と簡単な動作だけで、通話や情報入手・交換などの様々なサービスを享受するツールとなることができるため、健常者だけでなく、病気や障害、高齢などの身体的な制限で、ほかのハイテク器具を使いこなすことができなかった人にも、オータナティブのツールとして使ってもらうことが可能です。ダッシュを考案したブラキのデンマーク人CEO、Nikolaj Hviid も、デジタル製品が、人を生活の色々な場面でサポートできることが多々あるはずだと確信し、「人に対する控えめな手助け」を作ることを、スタッフ全員の共通の目標として開発を進めてきたとインタビューで言っています。
また、健康や医療に関する機能としても、これまでのウェラブル機器以上のことが期待されます。聴力は、室内で人と話している間に、外から誰かがドアをノックする音にすぐ気づくといったように、複数のものに同時に反応・注意が向けられる特徴をもちます。また耳はほとんど動かない部位であり、圧迫感少なく長く安定して装着できるため、装着する場所として理想的だと考えられます。現在のダッシュには簡単な医療数値やスポーツ管理機能しかありませんが、将来、ヒアラブル機器が多様な需要に応えて、健康管理機能を拡充していけば、市場は大きく拡大するでしょう。
例えば、今後社会の高齢化に伴い、補聴器を必要とする人は格段に増えていくことが見込まれますが、このような人たちの間でも、従来の補聴器の役割を補完、代替するものとして、様々な機能やサービスを付随させたヒアラブル機器の需要が増えることが考えられます。長い伝統と技術をもつ補聴器と新しいヒアラブル機器が技術的に競合しながら、製品の質やバラエティーが飛躍的に今後向上していくことは十分ありえます。
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さらに、ハイテク・イヤホン型コンピューターは、アメリカのテクノロジー雑誌Wiredでブラウン氏が展望するように、調子が悪い時や問題があった時に、家族や病院に自動的にあるいは簡単にそれを知らせることができるといった、新たな機能を加えることによって、高齢者やなんらかの疾患や身体的な制限がある人たちが、できる限り自律的な生活をするための決定的な支援ツールともなる可能性があり、 社会の多様な人々や様々な局面で生活の質(クォリティ・オブ・ライフQOL)の向上に役立つ幅広い可能性があります。
人々の期待と市場の反応
このような多くの可能性を秘めたヒアラブル機器は、商品として出来上がる前から、社会において強い関心や期待がよせられたようです。それを端的に物語ることの一つが、ダッシュの開発資金調達の経緯です。会社は、当初、金融機関からの資金調達が難航し、結局、アメリカのクラウドファンディングでキャンペーンを行うことにしたのですが、クリエイティブなプロジェクトの資金調達の代表格であるキックスターターでキャンペーンを始めると、当初の目標だった26万ドルは、わずか48時間以内に達成しました。そしてたった七日間で、1万6人から3400万ドルを獲得するのに成功しました。これは、キックスターターのキャンペーンで、史上12番目に多い資金額であり、ハードウェアー商品として史上3番目に高い額、アメリカ以外の場所のファンディングとして最高額だったといいます。金融界の慎重な姿勢とは対照的に、画期的な発想のイヤホンに対して、いかに一般の人の間の期待や関心が高かったのかがわかります。
商品化される前年に、2015年のCEA(Consumer Electronics Associationの略。アメリカに本部を置く、消費者技術産業界2200企業からなる連盟)のベスト・イノべーション賞も受賞したのも、人々の強い期待を反映したものといえるでしょう。
さて実際の売れ行きはどうなったでしょう。販売開始からのこれまでの市場の反応は、少なくとも上々のようです。今年終わりまでに、60万セットを発送する予定で、販売初年から採算がとれる見通しだそうです。(1セット299ユーロの定価で大手通販でも販売されています。)これに伴い、会社従業員の数も6月は140人でしたが、年内さらに100人増やす見込みとのことです。
ソシアル・イノベーション企業として
最後に、この機器を手がけた会社ブラギについて少しご紹介します。
ダッシュの考案者でブラギの創立者Nikolaj Hviid は、ドイツの「Business Punkt」誌のインタビュー記事で、商品のマーケティングの手段に利用したくないし、陳腐な記事に仕立てあげるのもいやなので、ほとんど公の場で語ることはないそうですが、難病で自分の姉妹を失ったことが、製品を考案する背景にあったことを打ち明けています。生前に体の自由がどんどん失われていく姿を目の当たりにして、自分はオーディオ産業で成功したものの、それが人の本当の役にたっていたのかと考えさせられ、人々を手助けできるようなデジタル機器の開発という新たな目標を掲げ、未知の分野にたった15人のチームで、新しく飛び込んだのだといいます。
また、最新のものを最短で作るにはシリコンバレーにいくのが最上の策であるとはわかっていても、家族のためにミュンヘンに居続けることを選び、今も本拠地をミュンヘン市内に置いています。そして、これからも単に利潤の最大化を目指すのではなく、社会への貢献や会社のスタッフのワークライフバランスを最適化する会社の在り方を追求しようとしています。そんな会社で働くスタッフたちも、創業以来の「社会の役にたつ仕事をしている」という連帯的な目標意識や雰囲気が気に入っているようで、他でもっと高給が稼げるかもしれない様々な分野からの専門性の高い人が会社に集積しており、仕事のあとも会社の同僚たちがともに時間を過ごすことが多いのも、ドイツの会社としてはめずらしい特徴だといいます。
構想から3年半で市場に出たイヤホン型コンピューターの質は目をみはるものですが、その開発をした会社が、ソーシャルイノベーション企業らしい、社会への貢献やスタッフや家族の絆を大切にする会社であったからこそ、短い期間で画期的な商品を世界市場に出すことができたのかもしれない、と思いました。
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参考サイト
—-Nick Hunn のヒアラブル機器についての予測について
Nick Hunn, WiFore Consulting, The Expanding Market for Hearable Devices, London March 2016.
Nick Hunn, Hearables - the new Wearables, April 4, 2014,
—-ブラギ社の商品「ダッシュ」について
Bragi 社の公式サイト
Revolutionäre Erfindung aus München, ARD, 31.01.2016 | 6 Min. |
Bragi Dash: Jetzt kommt der Computer ins Ohr, Spiegel Online, 6.1.2016.
Bragi Dash Receives CES Best Innovation Award 2015, Croudfund Insider, Nov.12 2014.
スティーヴン・ブラウン、「ヒアラブル・デヴァイス時代の到来 〜高度なユーザー体験には「耳」こそが最適だ」、Wired(日本版)、2015年5月21日(原文 STEPHEN BROWN, MOBILE STRATEGY DIRECTOR of MUTUAL MOBILE)
Christian Träger, Kopfhörer-Test: The Dash - die Revolution im Ohr?, Computer Bild, 2.5.2016.
Geoffrey A. Fowler 、「ワイヤレスイヤホンが拓く『ヒアラブル』時代。超小型ワイヤレスイヤホン『イヤーイン』と『ダッシュ』を徹底比較」、「Wall Street Journal(日本語版)、2016 年 1 月 15 日
—-ブラギ創設者Nikolaj Hviidへのインタビュー
DAS OHR DIESES TYPEN IST SCHLAUER ALS DU, WORK: Bragi, Business Punk, 2.6.2016.(Blendle から閲覧)
Fragen an den Visionär Nikolaj Hviid - Gründer von BRAGI, Resulting. Ergebnisorientierte Beratung für visionäre Unternehmer (2016年6月24日閲覧)
Chuong Nguyen, Bragi CEO: The ears are the right place for wearable tech, Wereable Tech for your conneceted self 22. March 2016,

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


民泊ブームがもたらす新しい旅行スタイル? 〜スイスのエアビーアンドビーの展開を例に

2016-07-14 [EntryURL]

最近、民泊を斡旋する大手会社エアビーアンドビーについて、スイスでもよく聞くようになりました 。市場の急速な拡大に伴い、社会の様々な側面で波紋を呼んでいることが原因のようです。他方、これまでなかったこのような民泊のポータルサイトが普及してきたことで、既存の宿泊施設にとって代わるのにとどまらない、新しいツーリズムやライフスタイルが現れ始めているようにも見えます。今回は、世界的に注目されるシェアビジネス(主に個人が所有する「遊休資産」を必要な人と場所に有償で提供するビジネスの仕組み)の代表格であるこのエアビーアンドビーのヨーロッパでの現状を、スイスを中心に追いながら、民泊ブームのもたらしたものと今後の展開について考えてみたいと思います。

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エアビーアンドビーの概要

まずエアビーアンドビーの簡単な概要と、スイスの状況について、近年のメディアの記事を参考にして、まとめてみます。

エアビーアンドビーは2008年にカルフォルニアで当初、Air bed and breakfastというその名の通り、空気を入れた簡易ベッドと朝食だけを提供するだけの個人の部屋や住居を賃借する簡素な宿泊施設を斡旋する会社として始まりましたが、その後特に2012年以降、市場が飛躍的に世界中に拡大しました。今年6月現在で、190ヶ国、3万4千の都市や地域で2百万以上の宿泊オファー (部屋や住居全体)があるといいます。これは、マリオネットとヒルトンホテルグループを合わせたものよりはるかに大きな宿泊者収容力ですが、自分たちでは部屋を一つも持っていないため、従業員は1600人と、両ホテルグループの100分の1にすぎません。予約が成立すると、宿泊施設提供者から3%、利用者からは12パーセントの手数料をもらうしくみで、2015年の売り上げは約9億USドルにまで達したと言われます。

スイスでも急速に普及しており、今年5月現在のオファーは前年比で約2割増の全部で1万7千件あり、スイスすべての全宿泊ベッド数(24万)の4分の1(23パーセント)に相当する5万5千人分を占めるほどの宿泊者収容力をもっています。ヨーロッパのほかの国と比較するとオファーの割合はまだ少なめですが、稼働率は高いといいます。スイスの大手日曜新聞Schweiz am Sonntagによると、2015年にエアビーアンドビーを通して宿泊したのはのべ30万人以上で、前年のほぼ2倍に達したといいます。特に、チューリッヒ、バーゼル、ローザンヌやベルンなどの都会での宿泊が人気です。スイスのホストの平均年齢は39歳、女性の割は65%で、宿泊施設をオファーしている人の87%は、一つの物件しか出しておらず、ほとんどの人が自分の住居を提供していると考えられます。ちなみに、オファー数の6割以上は賃貸アパートの物件です。

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社会や行政側の反応

さて、このように急展開している新しいシェアビジネスについて、社会ではどのように反応しているのでしょうか。3年前までは、エアビーアンドビーは、オファーも2000件ほどで、ほとんどその動向に気をとめる人はいませんでした。しかしその後、急成長していく中、ホテル業界からの反発が強くなりました。スイスはここ数年、強いスイスフランの影響下で、ホテルだけでなくベッドアンドブレックファーストもキャンピング場もユースホステルなどホテル業界全般が停滞しているため、エアビーアンドビーという新興シェアビジネスに余計、神経質になっているようです。ホテル業界が不当だと特に抗議しているのは、ホテル業界が宿泊者数に応じて支払わなければならない宿泊料(保養滞在税)をエアビーアンドビーが払っていない点です。

ホテル業界と同じくらい、スイスでエアビーアンドビーに強い危機意識を抱いているのが、スイスの賃借人組合です。長期で賃貸するよりも旅行者などの短期の滞在者に賃借する方が儲かるからといって、家主が長期の賃借を渋るようになれば、ただでさえ都市部を中心にスイス全体で深刻な住宅難であるのに、その傾向が加速され、家賃がつり上がる傾向にもなると強く危惧します。そしてチューリッヒなど都市での法的規制を強く求めています。

実際に、ベルリンでは今年の5月から、特別の許可がない限り、住居全部を貸すことが禁止されており、10万ユーロまでの罰金が科せられることになりました。ベルリンはパリ、ロンドンに次ぐ人気の都市観光拠点ですが、人口も年間4万人増加しており、住宅供給がそれに追いついていません。このため、このような厳しい法的措置が下されました。ドイツの他の大都市ハンブルクやミュンヘンでも賃借への規制はありますが、ベルリンほど厳しいものはドイツでは初めてであり、ベルリンという都市の住宅難の深刻さが表れているといえます。

ただしスイスではまだ、ベルリンのような賃借禁止措置にでた自治体は今のところはありません。スイス政府も遊休資産を分配あるいは効率的に利用するものとして全般に肯定する立場であり、当面状況を見守る姿勢です。ただし必要によっては(つまり、既存の業界が大きな打撃を受けるようならば)、法的枠組みをつくっていくと見通しについても言及しています。

EUもシェアビジネス全般を禁止や規制などから守ることを、少なくとも今のところは原則としており、禁止は公共の利益が一定の規制阻止でも甚だしく損なわれる恐れがあるときの最後の手段に過ぎないとしています。

急成長に伴う混乱、対立を超えて、自治体と エアビーアンドビー両者からの歩みよりの動きもでてきています 。イギリスでは、ロンドンで自分のフラットや家を貸せるように法的に整備されました。これにより7000ポンド以下の収入の人は、民泊で得た収入が非課税となることが決まりました。エアビーアンドビー側も宿泊税を払う用意があることを全面的に示しており、個々の国や自治体との交渉を進めているといいます。例えば、スイスではすでにベルンやバーゼルでは宿泊料を支払うことで決着しています。今年6月には、アメリカを中心とした世界の190都市との協定を結び、ユーザーから徴収した税を支払うことに合意したとのエアビーアンドビー側の発表もありました。

新しい旅行スタイルの興隆?

さて、このように波紋を広げながらも着実に社会に根付いてきている民泊という宿泊形態ですが、これは単なる既存の宿泊業者からパイを奪う新興宿泊形態ということにとどまらず、新たな旅行パターンあるいはライフスタイルの興隆にもつながっているように思われる節があります。端的にそれを予感させるのは、エアビーアンドビーの利用者層と利用のされ方です。エアビーアンドビーによる情報とその分析内容を以下、整理してみます。

—-スイスのエアビーアンドビー利用する人は、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス人が全体の83パーセントを占め、スイス人は17パーセントです。これは、 アジアやアラビア諸国などの新興国からの観光客が多数を占める従来のホテルの客層とは、基本的に異なっています。

—-平均的な利用者は35歳で、多くの利用者は経済的な状況も悪くなく、単に安価の宿泊先を求める学生などが主流ではないと言います。家族との旅行で利用する人も多いそうです。

—-通常のスイスのホテルの平均宿泊日数は 2泊であるのに対し、エアビーアンドビーの利用者の平均宿泊日数はその2倍以上の4.5泊です。

—-スイスだけでなくヨーロッパ全体の傾向として、ビジネスで使う人も増加傾向にあります。利用者全体が急増しているためわかりにくいですが、出張でエアビーアンドビーを利用している人は現在、全体の1割を占めているといいます。

—-同様に、ヨーロッパあるいは世界全体の傾向として、エアビーアンドビーを利用する人たちは、仕事とレジャーの間にまたがった(どちらか片方だけではない)用途で利用している人が多いのが特徴です。このような傾向を、エアビーアンドビー=ヨーロッパでは近年新しく作り出されたbleisure と呼ばれるカテゴリーで捉えています。bleisureは近年、仕事の出張などで訪れる場所で、数日休暇をとるなど公私がはっきり区別しない旅行形態を示す造語(business とleisure を合わせた造語)で、特にアメリカ人の、若年世代(ミレニアル世代)で増えている旅行形態と捉えられます。

これらの新しい傾向をみると、一概に一般化するのは難しいものの、仕事の旅行と休暇の旅行を明確に分けるのではなく、時間と予算も効率良く兼ねた旅行にして、時には家族も連れて、従来より長めの滞在をするといった、従来の国内・海外旅行とは異なる新しい旅行スタイルがみえ隠れしているように思えます。もしそのような旅行形態が一つの新しいトレンドになりつつあるのだったら、複数の要因に基づく結果だとは思いますが、民泊という新しい宿泊形態がそのトレンドを後押ししたのは確かでしょう。

このような民泊をベースにした新しいスタイルの旅行が将来定着したとすれば、旅行業界や地域社会にどのような影響を及ぼすと予想できるでしょうか。上述のように、アジアやアラブからの観光客が多く宿泊する宿泊施設の客層とは、もともとあまり重なっていないため、従来のホテル業界への打撃は、ホテル業界が考えるほど大きなものにはならないかもしれません。ただしそれも当面の話であり、エアビーアンドビー=ヨーロッパでは、今後5年の間にさらに、休暇中のサービスや活動など宿泊以外のものも提供することに意欲的であり、今後の展開によっては、既存の旅行業界との新たな対立が生まれる可能性はあるでしょう。

宿泊先がある地域全体への影響はどうでしょうか。宿泊税を徴収するしくみが徐々に整ってくれば、そのお金が地域全体に還元されるでしょう。また旅行者の絶対数が増加することで、飲食・サービス業などの分野で新たな経済効果が生まれてくることも期待されます。そして民泊旅行客も取り込んだ新たな観光地構想やビジネスが、次第に生まれてくるかもしれません。ただし、住宅難が深刻な場所では弊害のほうが大きく、これまでのような民泊の攻勢は、全面禁止にこそならなくても、一定の規制を受けることは免れないかもしれません。

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旅行者にとっては、宿泊の選択の幅が増えることは、大きな利点であることは、もちろんいうまでもありません。テロなどの標的になりやすい都心や大手ホテル付近から離れた場所で宿泊できることのメリットも、今後はますます重要になるかもしれません。

さて、夏季の本格的な休暇シーズンを前に、みなさんにとって、旅情をかきたてられるのは、どんな宿泊形態や旅行スタイルでしょうか。

参考文献・サイト

——エアービーアンドビーについてのメディアの記事と会社が公開した情報
Die Wohnung zu vermieten liegt einfach im Trend, Swissquote, März 2016, S.34-39.

Danise Schmutz, Uber und Airbnb in der Schweiz im Gegenwind, SRF, 2.6.2016.

Widerstand gegen das grösste Hotel der Schweiz, Schweiz am Sonntag, 14.5.2016.

Airbnb erobert die Schweiz -doppelt so viele Gäste und harsche Kritik, Watson Schweiz, 17.5.2016.

Daniel Hügli, Airbnb bettet sich gut in der Schweiz, Cash, 19.04.2016.

Mieterverband: Airbnb verschärft Wohnungsnot, NZZ am Sonntag, 8.5.2016.

Wo Berlin uncool ist, NZZ, 16.4.2016.

Schutz für Sharing Economy EU warnt vor Verbot von Airbnb und Uber, 1.6.2016.

„AirBnb und Uber brauchen Konkurenz!”, Bilanz, 1.7.2016 (Blendle からの閲覧)

Nachbarn können bei Airbnb reklamieren, Tagesanzeiger, 2.6.2016.

Pascal Ritter, Studenten kassieren mit Airbnb ab, Schweizer am Sonntag, 18.6.2016.

—-bleisure について
Tiffany Misrahi, Are you a ‘bleisure’ traveller?, World Economic Forum, Feb. 11, 2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


嗅覚を活用した産業、ビジネス、医療 〜ドイツの最新嗅覚研究からの示唆

2016-07-07 [EntryURL]

みなさんが飛行機でどこかへ渡航される際、最初に降り立つ空港内で、自分が本当に外国にいるのだと、実感なさるのはどのような時でしょうか。空港内の従業員の姿やアナウンスの外国語の響きでも、もちろん外国であることがよくわかりますが、わたしにとっては、なにより免税店の香水の匂いなどが混ざったような空港室内空間に広がる独特の匂いを嗅いだ時です。初めて海外に行った時の不安と興奮が入り混じった遠い記憶がよみがえり、日本じゃないんだという実感がふつふつと湧いてきます。
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実際、嗅覚は五感のなかでも非常に強く多彩な感覚で、数十年たっても未だ鮮明に思い出せるほど記憶と強く結びついているということが、ここ数十年の間の嗅覚に関する目覚しい研究成果のおかげでわかってきました。ヨーロッパの歴史においては長い間、匂いをかぐという行為が動物的であり、「高等な」人の社会・文化的行動規範にそぐわないとし、聴覚や視覚に比べ嗅覚を軽視する傾向が強かったのですが、嗅覚は、日々の生活をつつがなく進めるための、視覚や聴覚にまさるとも劣らない重要な役割をするものであると言えます。嗅覚の研究のおかげで、嗅覚に対する注目も最近高まっており、少なくともドイツ語圏では、ちょっとした嗅覚ルネッサンスといった感じです。
このような嗅覚復権に大きく貢献したのが、近年続々と新しい発見をしているボッフム市のルール大学のハンス・ハットHanns Hatt教授です。教授は研究に従事するだけでなく、ヒトや動物の嗅覚の研究成果を、著作やメディアを通じて一般の人にわかりやすく伝えることにも精力的で、その貢献を讃えられ2010年には、ドイツ研究振興協会(DFG)からコミュニケーター賞という賞も受賞しました。今回は、このハット教授の手ほどきを受けながら(つまりマスメディアで取り上げられた数々の記事をもとにするということですが)、嗅覚研究の現状と社会や産業界に広がる新たな可能性を、ご紹介してみたいと思います。
スイスの香料産業
その前にまず、嗅覚を応用した産業やビジネスの現状についてスイスを中心に概観してみましょう。嗅覚に関わる産業といえば香料産業ですが、香料と聞いて、みなさんが真っ先に連想なさるのは香水かと思います。全世界的にみると香水の売り上げは400億ドルに達し、今後新興国の需要を受けてさらに伸びると予測されています。ただし、香水を販売している各社の名前やブランドは、世界的にも知名度が高いわりに、香水を自ら生産しているところは意外に少数派です。多くの場合、香料メーカーが、香水を販売する会社からの依頼を受け、要望に合わせて実際に調合・生産しています。
香料メーカーが生産しているものは、しかし香水類にとどまりません。洗剤、シャンプー、日焼け止めクリーム、トイレの芳香剤など、あらゆる消耗品に含まれる香料からアロマなどの食品香料まで、香料を手広く生産しています。近年は特に、健康志向のトレンドを追い風にして、ジュースや、アイス、加工食品、パンや菓子類など多種多様の食品において、脂肪やナトリウム(塩分)、砂糖を減らしつつも、味を落とさないようにするための手段として、様々な香料の需要が顕著に高まってきています。
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スイスには、このような香料産業の最先端をいく大手老舗香料メーカーが二つあります。香料の世界市場シェア1位のギボダンGivaudanと2位を占めるフィルメニッヒFirmenichです。ジュネーブに本社を置くギボダン一社だけで市場の25%、2社合わせると世界全体の香料市場の4割近くを占めています。ギボダンは約5500種類の香料エッセンスを常にストックしており、これらを混ぜ合わせ、毎日、数トンの香料を製造しています。
ただし香料は、 非常に個人や用途によって趣向が違うため、一律に大量生産できるものではありません。一番使われている香料の種類でも、市場全体ではわずか4−6%を占めるにとどまると言われます。国や文化によっても香りの趣向は大きく異なるため、中国、ブラジル、インドなど近年香料全般の需要が目覚ましく伸張している新興国の国々での需要をいち早く見つけ、あるいは新たに生み出すことができるかが、香料メーカーにとって将来の明暗を分ける生命線となります。
このため、大手香料メーカーはどこも研究開発にしのぎを削っています。その一環として、さらにギボダンでは、香りの専門家の育成を目的としたギボダン芳香学校も運営しています。この学校は、芳香分野の名門中の名門と知られ、市場にでる香料の3分の1は、この学校の卒業生によって作られているとも言われます。
香料マーケティング
香料入り商品や食材の攻勢と並行し、ここ数十年、香料を使った新たなビジネスも生まれてきました。バニラの匂いがする人に好感をもつとか、コーヒーの匂いがする空間はリラックス効果が高いなど、普段意識していないのに体や自分たちの行動や決定事項に影響も与えている香りの成分が、次々と最新の嗅覚研究で明らかになってきており、これらの効果を端的に応用したのがそのビジネスです。
香料マーケティングと一般に言われるもので、商品の売り上げや会社のイメージアップ、また快適な空間の演出を目的として、具体的には接客の場や売り場に特定の香りを放つというものです。20年ほど前からアメリカなどを中心に展開し、国際的な銀行や衣料品店、飛行機や車、ホテルロビーなどを中心に世界的なトレンドとしてある程度定着してきています。
しかし、それが実際にどのくらい売り上げや良いイメージ効果になっているかは、未だにはっきりと把握されていません。前述のように人によって香りの好みは多様であり、また単純に恒常的あるいは大量に投入される香りが、逆に人々に嫌悪感を強くさせる作業があることも考えられ、スイスの大手小売業社では、できたてのパンの芳香など自然にでてくる香りを店頭に放つ以外は、今もほとんど導入されていません。
一方、物を売ったり、好感を高めるなどの健康、快適さを追求する産業・ビジネス分野にとどまらず、リハビリや最新治療の可能性としても、香料への関心や期待が急速に広がってきています。
嗅覚の退化
ところで、匂いは、鍵と鍵穴のように、それぞれの匂いにそれに対応する嗅覚受容体というのがヒトには350あり、その嗅覚受容体(においセンサー)が匂いを感知し、脳にシグナルとして送信することで認識されます。ほとんどの匂いは多数の匂い分子が混ざったものであり、ひとつの匂い分子に対しても複数の嗅覚受容体が反応するため、感知される匂いのパターンは無限に近く組み合わせが可能で、非常に複雑です。このため、これまで知覚や聴覚に比べて嗅覚の研究はずっと遅れてきたのですが、近年やっと研究が進み、体の様々な部分も嗅覚と呼応して機能していることが明らかになってきました。
嗅覚は、脳の記憶や感情に強く関わっています。鼻は、呼吸するたびに香りを、脳に送り、直接記憶や感情の中心となる脳に送るためです。これは逆に言うと、嗅覚が衰えると、嗅覚以外の様々なところにも問題がでてくるということになります。脳に記憶されている思い出を端的に失うことになるだけでなく、味がよくわからなくなるため食欲も減退しますし、言語がスムーズに出なくなったり、鬱の症状になるなど、体の様々な不調に関連してきます。
しかし残念ながら嗅覚は年とともに全般に衰えていきます。65歳以下の2%、65歳以上は二人のうち一人に嗅覚退化がみられ、70歳以上の3分の1が、嗅覚を喪失しているとも言われます。さらに困ったことに、臭覚はメガネや補聴器のような補助器具によって、矯正することができません。
また今日、買い物先でも嗅がなくても賞味期限を視覚的な情報として入手できたり、危険な匂いを察知するセンサーが作動する、といった便利な世の中になっていることで、嗅覚がどうしても必要とされる機会も相対的に減っています。
嗅覚トレーニング
しかしハット教授は、使う機会が少なくなったとはいえ、昔の人に比べ、今の人の鼻が劣っているわけではないといいます。アメリカの研究者C. Bushdidによると、今でも人間は少なく見積もっても1兆種類(!)の嗅覚刺激を区別できるとされます。聴覚が約34万の音を聞き分けられ、目は230万から750万の色が識別できるのもすごいですが、嗅覚がそれらをはるかに上回る非常に高い感度の感覚であることがわかります。
衰えた嗅覚もトレーニングによって、完全には復活しないまでも、かなりの程度、回復できることが最近わかってきました。新たな色々な匂いを毎日嗅ぐことで、受容体と嗅覚細胞が増え、脳において、 新しい構造でそれらの香りが記憶されるようになり、嗅覚の喪失をかなり防げるようになるといいます。
また、これは高齢者だけで普通の人全般にも使えることがわかってきました。健常者と思っている人の間でも、汗、ミント、ビャクダンなどの特徴的な匂いで調べた結果、これらの匂いを部分的に判別できない人が意外に多くいることもわかってきたのですが、これらの人も日々トレーニングすると平均して100日後には、嗅覚が回復するという結果がでてきています。
特に嗅覚に問題のない人でも、色々な匂いを嗅ぐ嗅覚トレーニングは、意識的に匂いをかぎ、感情や記憶を呼び覚ますとき、脳で多くの場所が活性化されることもわかってきました。その時活性化される脳の部位は、計算ドリルや数独(すどく)などのいわゆる脳活性化トレーニングとは比べものにならないほど広くなるといい、嗅覚のトレーニングは、計算などの脳トレーニングよりも脳を刺激し活性化させる、とハット教授は豪語します。
ハット教授は、トレーニングの簡単な方法の一つとして、匂い成分を入れた容器を中身が見えないように少しだけ開けて、その中身をあてるというようなゲーム感覚のトレーニングも薦めていますが、ドイツやスイスでは、多様な匂いのエキスから匂いを推理したり、匂いを神経衰弱のように絵札とマッチさせるといった、ゲームがすでに何種も出ています。手っ取り早くあるいは、ゲーム感覚でトレーニングを行いたい人には、これらの市販の香料ゲームセットも選択肢になるでしょう。
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最新の香料を用いた医療
また近年、嗅覚受容体が、鼻だけでなく頭や、皮膚、前立腺、胃腸の細胞や精液にもあることが次々と発見されています。そして、匂いを特定の部分で感知することで、体内の様々な部分が連絡をとりあい、作用し合うしくみがあることがわかってきました。例えば、肝臓ガンの嗅覚受容体を、柑橘系の匂い分子によって活性化させ、それによってガン細胞の増殖を抑制したり、静止させることができることが、まだ臨床段階ではありませんが、理論上は可能なことが、今年新たに発表されました。ハット教授の研究チームの半分は、現在鼻以外の部位の嗅覚受容体の研究に従事しているとのことで、今後さらに鼻以外の部位の嗅覚受容体の働きが解明され、その応用可能性がさらに広がることが期待されます。
健康・医療分野以外でも、これまでの製造ラインでの常識やビジネスの在り方とは発想が大きく異なる応用可能性が見えてきました。例えば、コルクの匂いや体臭を感知する嗅覚受容体など様々なものがすでにみつかっており、もしも今後、これらの特定の匂いを感知する嗅覚受容体の感知スイッチを、鍵穴を塞ぐように技術的にオフにさせる技術が可能になれば、商品の生産の在り方やビジネスを根幹から変えることも考えられます。例えば、コルクの匂いを感知する嗅覚受容体をオフにすることで、コルクの匂いのもとを取り除かなくても、コルクの匂いのない美味しいワインを飲むことができるようになります。また足や体臭も、それ自体を取り除くのではなく、嗅覚上の操作でそれを気にならないようにすることができます。
今後また嗅覚研究からどんな新しい研究成果が出てくるのでしょう。また、社会や臨床の場においてそれらはどんな応用の可能性を開いていくのでしょう。ハット教授が薦めるように「目だけでなく、鼻をひろげて」日常生活や世界を捉え直すことで、見慣れた世界に、新たな地平がどんどん広がっていきそうです。
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<参考文献・サイト>
——香料産業について
Die Perfekte Verführung, Hintergrund und Gesellschaft, NZZ am Sonntag,S.24-7,20.9.2015.
Barbara Reye, Lust auf Duft, Tagesanzeiger, 23.12.2015.
Christoph G. Schmutz, Düfte aus Genf gehen um die Welt, NZZ, 13.9.2012.

Givaudan erfüllt die Erwartungen, Parfumhersteller, NZZ
, 30.1.2015.
久保村喜代子、「世界の香料産業とそのトレンド」、久保村食文化研究所(2016年6月26日閲覧)
——香料マーケティング
Duftmarketing Wikipedia (Deutsch)
Tom König, Duft-Marketing: Der Geruch der Verzweiflung, Spiegel Online, 26.12.2013
Nicht nur mit Bildern verführen. Duftmarketing beeinflusst Kunden bei ihren Kaufentscheidungen, NZZ, 26.4.2012.
——ハンス・ハット教授の研究に関する記事
Herr der Düfte, Auf Besuch im Labor des Duftforschers Hanns Hatt, NZZ, 21.6.2009.
Krebszellen haben Riechrezeptoren Duftstoffe als Therapie der Zukunft?, SWR2, 27.1.2015.
Gerüche: “Den Fußschweißrezeptor kennen wir auch schon”, Spiegel Online, 08.01.2014
Anatol Hug, Besser als Sudoku: Mit der Nase das Gehirn trainieren, SRF, 7.4.2016.
Communicator-Preis 2010 an Hanns Hatt
Fabienne Hübener, Auf der Suche nach dem verlorenen Duft, Verlorener Geruchssinn, NZZ, 5.2.2016.
Hanns Hatt, Wir haben verlernt, am anderen zu riechen, Migros Magazin, 19, 9.5.2016, S.39-43.
Die Erforschung des Riechens - Interview mit Hanns Hatt, Planet Wissen, 14.7.2014.
Herr der Düfte, Auf Besuch im Labor des Duftforschers Hanns Hastt, NZZ, 21.6.2009.
——他
人の鼻が1兆の匂いを嗅ぎ分けられることについて
“Humans Can Discriminate More than 1 Trillion Olfactory Stimuli” von C. Bushdid et al. in “Science”, erschienen am 21. März 2014.
(私が読んだのは次の論文解説
Nase kann eine Billion Gerüche unterscheiden, Science ORF.at, 21.3.2014.)
Riechgymnastik trainiert den Geruchssinn, Die Welt, 11.9.2007.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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