ツーリズムの未来 〜オーストリアのアルプス・ツーリズムの場合
2016-03-23 [EntryURL]
今日、24時間、様々なサービスに時間を問わずアクセスして、世界中から視覚・聴覚的な情報を簡単に入手することができます。また3D効果や4Dの技術で、臨場感あるバーチャルな世界を体感することも可能になりました 。これほど充実した情報と娯楽が提供される時代において、自分が時間と費用、労力をかけて行う「旅行」 に果たして意義や意味が、まだどのくらいあるのでしょうか。
スイスには「スイスフューチャー」という40年以上の歴史をもつ学会があります。学会名は万博のパビリオンにででもつけられそうな、かっこいい名前ですが、まじめなスイスの人文社会学系の学術研究団体です。この学会が年に4回発行する学会誌で、昨年、将来の旅行や観光について考える「未来のツーリズム」というタイトルの特集が組まれました。バーチャルな旅行や、スラムやチェルノブイリを観光するダークツーリズムなど、 様々な世界のツーリズムの傾向について取り上げる一方、冒頭の問いの答えるような指摘もみられました。今後もツーリズム(旅行)は廃れるのではなく、むしろこれまでにないような大きなチャンスを前にしているというものです。一体どういうことなのでしょうか。関連するエッセイの主旨を、補足しながら紹介してみると以下のようなことになります。
まず、どんなにデジタル技術を駆使して臨場感あふれる体感が再現できるようになっても、それはあくまで再生可能なコピーの一種にすぎず、その場、その瞬間でしか味わえない一回性の価値をもつものとは、一線を画します。このため、ツーリズムのもつ再生不可能性やオリジナルの体験は、依然として高い価値を持つことに変わりなく、その地位は一般的に代替不可能なゆるぎないものと考えられます。
また、出始めのときに店頭に並んだりして苦労して手に入れて貴重に思えたタブレットやスマホが、今は、各家庭あるいは個々人で一つもてるようになると、たちまち大した価値をもつようには思えなくなるのと同様に、オンラインでつながることが誰にでもいつでも可能になることで、オンラインの常態化は、「特別のすごいこと」ではなくなってきます。それと同時に、つながり続けていることに逆に違和感をもち、それを是としない心境(考え方)を持つ人が逆に増えてゆきます。このような心境は、JOMO( the joy of missing outの略)と呼ばれ、直訳すると「機会を逸することの喜び」です。なぜ、こんな略語の形で呼ばれるかというと、それ以前からあった言葉 FOMO the fear of missing out に対峙して出てきた言葉があるためです。
FOMOは、すでにオクスフォード英語辞典にも掲載されているほど、近年の社会で頻繁にみられるようになった心理症状の一つです。直訳すると「機会を逸することへの恐れ」であり、いつもノンストップでオンライン、アップデイトして大切な機会を逃さない、すべてをいつでも手にいれられる状況に自分をおきたいという衝動にかられることであり、そうしないと大切なことを逸してしまうのではないかという危惧にさいなまされることです。このような衝動や危惧を解消しようと、オンライン活動へのコミットや時間をいくら多くしても、状況は改善されず、それどころか、ついにはオンライン機器から離れられないほど、強く依存することになります。
これに対して、全部が必ずしも欲しい、あるいはなくてはいけないとは思わない、またそんなことより、自分の充足感を大切にする考え方が、JOMOです。 現在、どのくらいこのような考え方を支持する人がいるのか、正確に把握されているわけではありませんが、今後、社会全体でオンラインの常態化が進み、対応のスピードがさらに加速化されるようになると、その反動として、社会でこのような考え方に共感する人の数が、一定数増えていくことが予想されます。
JOMOのような考え方をもつ人たちにとって、何をどのくらいということよりもむしろ、自分にとってなにが重要か、それはなぜなのか、という主体的で個人的な理由や関わりかたに強い関心をもちます。そのため、ツーリズムは、自分が主体的に独自の体験をすることができる格好の機会として、とりわけ好感をもって受け入れられると考えられます。また、自然の只中の静寂のようなオンラインを前提としないツーリズムも、 オフラインというなかなか日常では得られない「ぜいたく」な時空を提供するものとして、高く評価されるようになります。
これらの理由から、 ツーリズムには今後も大きなチャンスがある、という結論にいたるのですが、具体的にどのような側面や要素が重要になってくるのでしょうか。世界中にあふれているものや、どこでも再生可能なものではなく、それぞれの場所に独自で特別なもの、人、文化、伝統がクローズアップされてくるだけでなく、ツーリズム全体における自然環境の比重も増すと言います。将来、世界的に圧倒的多数の人が、地方ではなく都市に居住すると予測されており、その分、余暇を別の環境、自然環境で過ごしたいと考える人の数が増加すると考えられるためです。その際「持続可能性」が、 ツーリズムの重要な柱になるとします。自然環境を観光資源とする「自然」訪問型ツーリズムで 、環境を維持存続させることが不可欠なだけでなく、今後は、ほかの産業界と同じように、環境への負荷や環境からのインパクトを無視しては、産業として成り立たないとします。
ここまで ツーリズムの将来の可能性をスイスフューチャーでの指摘に沿って、まとめてみましたが、「持続可能なツーリズム」 をもっと具体的に考える上で、オーストリアのアルプスの観光業界の現状と今後の指針は、示唆に富んでいます 。
オーストリアは、以前「オーストリア観光業界と日本人 」でもご紹介したように、ヨーロッパや世界各地からの観光客の集客に成功しており、国内総生産の15%が観光業という、世界有数の観光大国です。都市や文化施設の観光だけでなく、アルプスの「自然」を売りにしたツーリズムでも 名を馳せており、特に近年は、オーストリアではウィンター・ツーリズム(冬の観光・旅行)が、夏季のそれに宿泊数で上回るまで勢いを増しています。一見順風満帆にみえるオーストリアのウィンター・ツーリズムですが、実は根幹からゆるがされるような困難に直面しています。年々温暖化の影響が強くなっており、冬の観光名所である、アルプスのスキー・リゾートが大きな打撃を受けているのです。
アルプスは、フランス、ドイツ、スイス、イタリア、オーストリアにまたがるヨーロッパ随一の山岳地帯であり、観光業界からみれば、巨大な自然観光リゾートです。1950年代から夏季に大型バスなどで訪れるアルプス・マスツーリズムが始まり、それから10年ほど遅れて1960年代半ばごろからは、冬のスキー・ツーリズムが本格的なブームとなっていきました。近年はドイツ語圏のアルプス観光において、オーストリアが一人勝ちの状況が続いており、オーストリア一国だけで、全ヨーロッパのウィンター・ツーリズムの50%を占めるほどです。
観光客急増の背後では、これまで大規模な開発が行われてきました。2000年以降、ロープウェーやゲレンデ、人工雪施設やリフトなどに80億ユーロが投資されており、現在、オーストリアには、330のスキーリゾートがあり、ゴンドラやロープウェーなどスキーリゾートの設備を管理・経営する会社数は880社にのぼります。特に年間4300万の宿泊数をほこるチロル州では、リフトやロープウェーなどの輸送手段が900 以上あり、スキー・ピスト(スキーゲレンド内のコース)は全部合わせると2400キロにまで及びます。
しかし温暖化によって、積雪量が大幅に減り、氷河も年々減っています。このため、オーストリア全体ではピストの56%、チロルに関しては ピストの75%までが人工雪頼みという状況です。人工雪は経済的に高価であるだけでなく、環境への負担も多大であり、経済・環境面どちらからみても長期的な問題の解決にはなりません。また、今後も温暖化は弱まるどころか、強まることが予想されるため、特に標高1500メートル以下の場所でのウィンタースポーツを中心にした冬のツーリズムは難しくなると考えられ、将来は現在あるアルプスのウィンタースポーツのリゾートの半分がだめになるのではと考えられています。
このような状況下、これまでのようなウィンタースポーツ中心のリゾート開発には疑問の声が強まっています。しかし、代わりに具体的に何をどうするべきなのでしょうか。これまで国や州の観光業界が議論を重ねてきて、現在、打ち出されている具体的な指針は以下のようなものです。
—-スキーリゾートの大規模化
新しく大規模なスキー場を作るということではありません。既存の近接するスキー場が、共通のリフト券などのチケットの発行や、スキー場間の輸送・交通網を発達させ、スキーリゾート・エリアを拡大することで、降雪が少ないスキー場などをお互いに補完しあうという施策です。山あいの山岳地域のどこにどのくらい雪が降るのかは、天気のきまぐれで、予想もできなければ、対策も施しようがないので、近隣のスキー場同士が競合のかわりに、相互扶助的な関係で、リスクを最小限にしようというものです。
—-冬の保養地として
もともと標高が低いスキー場や、中・小規模の零細スキー場には、大規模なスキーリゾートに統括されることは、魅力より負担が多く、適策とはいえません。そのようなスキー場には、むしろ冬の保養地としての方向転換がふさわしいとされます。
冬の保養地とは、散策やそりすべりなどの軽いスポーツとウェルネスを組み合わせたもので、冬に雪なしでもやっていけるようなツーリズムのあり方です。オーストリア観光協会の調査でも、冬のレジャーとして、ウィンタースポーツ以外のものにも潜在的に興味がある人が、かなり多くいることがわかってきました。特に高齢者は、一定の年齢以上に達するとスキーをしなくなるため、ウェルネスなど、スキー以外の需要が大幅に増えることが予想されます。(ヨーロッパの健康志向を汲み取って、施設として広く定着しているヨーロッパの「ウェルネス」 施設やビジネスについては、「ウェルネス ヨーロッパの健康志向の現状と将来 」をご参照ください。)
オーストリアにとって、スキー客はこれからも、重要な観光客グループであり続けるにせよ、恵まれた自然環境のなかの保養地の滞在を主目的とするようなツーリズムが今後はもっと成長していくと考えられます。
—-夏の避暑地として
同じ地域でも、ハイシーズンを半年ずらして夏季にすると、新たなチャンスが見えてくるのでは、という提案もあります 。地中海一体も温暖化の影響で、夏に45度以上を記録する日が50日以上続くのもめずらしくなくなってきています 。そのため、これまでは、夏季休暇に太陽を求めて南下していた北ヨーロッパのバカンス客も、猛暑がひどくなるにつれ、南ヨーロッパから足が遠のくかもしれません。また、南ヨーロッパ在住の人たちにとっても、夏の暑さを逃れる避暑の需要が高まることも考えられます。そのため北と南両方面から、 格好の滞在の場として夏の涼しいアルプスで過ごす人の割合が今後増えるのでは、という希望的な予測があります。近年こそオーストリアでは、冬のウィンタースポーツ・ツーリズムの攻勢が目立っていましたが、夏季のアルプス観光が再び流行るようになるのかもしれません。
ただし、夏季のアルプスのツーリズムが再び活性化されたとしても、ツーリズムの最大資源である自然環境の維持保存や温暖化対策を至上命題とする、持続可能なツーリズム路線からはずれることは避けねばならず、「ソフトツーリズム」がキー概念として掲げられています。ソフトツーリズムとは、大規模な開発による集客効果でツーリズムを成り立たせるいわゆる「ハードツーリズム」という形態に対峙するツーリズム概念で、もともと地域がもっている独自の資源、自然風景や生態系、史跡や文化、生活習慣などを活かすツーリズムのことです。アルプスであれば、山の景色や牧草地の合間をぬった散策道や登山コース、地域の動植物との間で育まれ培われたきた食事や住文化、風習の享受や体験などが、ソフトツーリズムのコアとなるでしょう。
生活や社会環境の急激な変化や自然や気候の変動など、世界全体や地域を直撃する影響や変化を前に 、転換を余儀なくされているのはオーストリアのアルプス・ツーリズムだけではありません。今後、現状に安住したり、問題から目をそらすのではなく、それぞれの国や地域が、いかに新しい課題にどう対応して構造変換していくかが、それぞれの地域のツーリズムの将来の明暗を分けていくことでしょう。
参考リンクと文献
—-未来のツーリズムについて(今回紹介した要点が掲載されている『スイスフューチャー』のエッセイ)
Barbara Gisi, Schweizer Tourismus im Jahr 2040 -Ein Essay, swissfuture, 01/2015, S.3-5.
Gerd Leonhard, Echte Erlebnisse statt Beliebigkeit, swissfuture, 01/2015, S.6-8.
—-オーストリアのウィンターツーリズムの将来について
Bundesministerium für Wissenschaft, Forschung und Wirtschaft, Klimawandel und Tourismus in Österreich 2030. Auswirkungen, Chancen und Risiken, Optionen und Strategien. Studien-Kurzfassung, Wien 2012.
Florian Gasser, Sie opfern die Alpen, zeit online, zeitonline, 22. November 2012.
Stefan Müller, Die Kleinen sterben aus, zeitonline, 10. 11. 2014.
Österreich wegen Klima im Wandel, zeit online, 17. November 2014.
Wintertourismus Schnee war’s, Süddeutsche Zeitung, 24. Januar 2016.
Die Zukunft des Wintertourismus, ÖGZ, 05.11.2015.
—-他の参考サイト
What are FOMO and JOMO?
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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