デジタル・ツールと広がる読書体験
2016-02-03 [EntryURL]
電子書籍が登場した時、いずれ紙の書籍は追いやられて電子書籍の時代が来る、と予感した方は少なくなかったと思います。しかし電子書籍についての最近の動向を調べると、意外に普及していないことがわかります。
電子書籍化が進むアメリカでも全書籍で占める割合は、全体の30%にとどまり、2014年の1月から4月までの4ヶ月の売れ行きは、2012年の売り上げと比べ、停滞あるいは、下回る傾向すら確認されました。ヨーロッパ全体では電子書籍の売り上げは、いまだ全体の10%に満たず、ドイツにおいては、2015年の前半においても5.6%にとどまっています。ドイツでは、 専門書籍や英語の本では電子書籍の売り上げが増加傾向ですが、それ以外の分野では、電子書籍はほとんど普及していないのが現状です。アメリカに比べてドイツやオーストリアで売れ行きが伸び悩んでいる要因の一つとして、電子書籍がハードカバーの書籍の10%ほどしか安くないことがあげられます。 電子書籍は比較的高価であるにもかかわらず、本と異なり電子書籍は友人に貸すこともできませんし、インターネット・オークションなどで転売することもできません。また贈答用として書籍を買う場合も、包装してリボンをつけた普通書籍のほうが、オンラインショップで使えるギフト券よりも好まれることも容易に想像されます。
こういったわけで、出版業界全般が不調なのは事実ですが、とくに電子書籍によって従来の紙を媒体とした書籍が駆逐されるということは、少なくとも当面はないようです。むしろ注目されるのは、電子書籍を購入する人は、並行して従来の紙の書籍も購入していることです。少し前のデータですが、2012年の2500人を対象にしたこのアンケート調査では、電子書籍を購入する人のほうが、購入しない人よりも、むしろ紙の書籍を購入していました。家では紙、外出中は電子書籍、と使い分けて電子書籍を利用している人が多いようです。また、意外にも20歳から39歳までの若者層の間でとくに電子書籍の購買全体は減っていました。
そもそも、電子書籍は通常の紙の書籍とでは、読解や読後の効果になにか違いが生じるのか、という議論もあります。とくに、ヨーロッパでは、新しいものの取り入れになにかと慎重な傾向があるため、今回も長い読書の伝統を破った新しい読書スタイルである電子書籍というものに、すぐにとびつくよりも、慎重に検討・議論するような姿勢が、アメリカよりも、当初から強かったように思います。近年ドイツ語圏で、電子書籍に限らず、日常生活に普及してきたデジタル機器全般に警鐘をならす本が2012年に出版され、その主旨の正否をめぐって議論が巻き起こったのは、その端的な例でしょう。その話題の本、脳神経科学者のマンフレッド・シュピッツアー氏の「デジタル認知症」について、まずは簡単に紹介してみます(自分の専門外なので、多少不適切な言い回しがあるかもしれませんがその場合は、ご容赦ください)。
脳は、脳全体で1000〜2000億個あると推定される神経細胞 (ニューロン)から神経細胞へと、電気信号を出しあうことによって情報を伝える、シナプスという構造をもっています。これによって、脳であらゆる情報が処理されているのですが、それぞれの視覚情報、聴覚情報などが、ある特定の場所でひとつの事項として記憶されているわけではなく、さまざまな場所(センター)にその情報が伝達され、処理されています。網膜から得られた視覚情報が、いかに多くのセンターを使って認知されているのかを図式モデルに示したのが下の図です。
出典 M. Spitzer, Digitale Demenz, 67頁
つまり「認識する」という受動的に思えるようなプロセスですら、新たな情報を処理、つまり理解するために、脳にすでにある知識を駆使し、つまり脳の全体を使って行う、非常に能動的な行為にほかなりません。このようにシナプスは、見る、聞くなどの様々な形の刺激によって、限りなく発達することができますが、逆に「見る」など、いつも同じあるいは単調な刺激しか得ていないと、発達するどころか、むしろ退化することにもなります。記憶を例にとってみると、(エーデルワイスの生息域がどこかを机上で暗記してもすぐに忘れてしまうかもしれませんが)、実際にアルプスで エーデルワイスを探して、見つけることができたなら、記憶がさまざまなセンターに保管されることになり、それがいつでどこだったかを、簡単に忘れることにはなりません。(ものの認識・理解において、視覚情報源だけでなく、触覚のような別の情報源が決定的に重要であるという指摘は、ハプティック・デザイン専門家とも共通しています。詳しくは「ハプティック・デザイン 〜触覚を重視した新たなデザインの志向」をご参照ください。)
このような神経細胞レベルのしくみをふまえて、著者は、見る、聞く、触る、発言する、議論するなどを駆使した従来の学び方に比べ、デジタル・ツールの学習方法は、インプットが視覚に偏重しており、読解・認識、さらには洞察や発展的な考え方を得るために十分なシナプスの発達を妨げている、と危惧しているのがこの本の主な主張です。
もともと著者は、ドイツの国営放送 で2004年から8年間計200回近く放映された「心と脳」という長寿番組で、明快で簡潔に(毎回15分)脳のしくみを様々なテーマから解説することで、人気も知名度も高い人物です。さらに本書がセンセーショナルなタイトルで主旨もわかりやすく、また、教育学者や政治家などではなく、神経学という科学的見地からの教育や社会への警鐘であったため、メディアも大きく 取り上げることになったのでしょう。しかし現在は、たしかにデジタル機器の影響は一定程度認められるものの、デジタル機器の使用と学習や理解能力の関係 は、個々の人間や環境、またデジタル機器のコンテンツなどによっても非常に異なり、本書が打ち出したような明快な相関関係はみられない、ということで世間を巻き込んだ「デジタル認知症」の議論は、一応収拾がついているようで す。ただし、保守的な考え方が強い人たちの間では、デジタル機器全般の弊害を危惧する見方は、依然受け入れられやすいものであるには変わりなく、現在も、教育や社会全般のデジタル化に、一定のブレーキをかけているように思います。
テレビ番組「心と脳」
一方、デジタル・ツールを介した読書 が、逆にこれまで想像できなかったような恩恵を与える可能性もあります。もともと速読マシーンとしてドイツとアメリカで共同開発されて、昨年からタブレットやパソコン、一部のスマートフォンでも利用できるようになっている無料のアプリケーションソフト「スプリッツ Spritz 」はその好例でしょう。
通常の印刷された文章を読むには、 単語や行をつぎつぎに目で追い、視線を移していなかくてはいけませんが、知的能力や一般的な理解能力に問題がなくても、この単語や行を追う視線の移行がスムーズにできないために、通常の文章の読解に大きな困難が生じる場合があります。ドイツでは、学校に通う生徒全 体の4パーセントに、ディスクレシア(読字障害)とよばれるこの学習障害の症状が見られるそうです。しかし、この速読アプリケーションソフトを使うと、読みたい文章が、1単語ずつ順番に、定位置にあらわれるため、視線を動かさずに読むことができます。単語の長さは もちろん個々に違いますが、単語の1文字だけが赤文字となっており、赤文字の位置は単語が入れ替わってもいつも同じなので、この赤い文字の位置に視線を固定しておくだけで、それぞれの単語を視界内で 十分に読むことができ、続けて読んで行くことで、頭のなかで文章となって理解できるというしくみです。(単語の入れ替わる速度を 自分で設定できるので、速度を速くすれば、普通の人にとっては速読に使えます。)
このツールのおかげで、世界中から、これまで文章を読むのに苦労をしていた人から多くのポジティブなフィードバックが開発者に届いているといいます。残念ながら現在のところ、日本語はスプリッツの対象になっていませんが、今後、新たなツールやさらなる改良版など、デジタル・ツールを介して、読み書きの世界のバリアフリー化がさらに進むことが期待されます。
電子書籍からはじまった、デジタル・ ツールを介した読書の習慣は、まだスタートしたばかりです。これから先、さらにどんなものが生み出されまた淘汰され、そして、どんな 読書体験が広がっていくのでしょうか。今後の展開に期待がふくらみます。しかし、それは同時に、今回の「デジタル認知症」の議論のように、新しいツールを手放しで受け入れるだけではなく、その都度新たな角度から検証したり、議論したりしていく心の余裕や冷 静さもまた、これまで以上に必要とされる、ということでもあるかもしれません。
参考サイト・参考文献
—-電子書籍の近年の動向について
E-Books: Das gedruckte Buch darf weiterleben. In: DiePresse.com, 4.3.2015.
Der Hype um E-Books ist vorbei. In: futurezone, Technology News. 11. 10. 2015
Studie: E-Book-Verkäufe schaden Buchmarkt nicht. In: futurezone, B2B, 10. 10. 2012
—-著作「デジタル認知症」とその後の議論について
Manfred Spitzer, Digitale Demenz. Wie wir uns und unsere Kinder um den Verstand bringen, München 2012.
Norbert Rossau, Digitale Demenz? Von wegen! Hirnforschung. In: Die Welt, 02.01.13
“Digitale Demenz” ist ein Mythos. In: derStandard.at, 28. März 2014, 12:32
Führen digitale Medien zu „Digitaler Demenz”? Neues aus der Wissenschaft, Almuniportal
—-スプリッツについて
スプリッツ Spritz
—-日本のディスクレシア(読字障害)と新たなツールの活用可能性について
近藤武夫「鉛筆が苦手ならキーボードを使えばいい――読み書きの困難な子どものICT利用 / 特別支援教育」Synodos, 2015.12.04
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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