ヨーロッパの自治拡大の動きと共栄をさぐる道 〜南チロルの歩みと現状を鑑みながら

ヨーロッパの自治拡大の動きと共栄をさぐる道 〜南チロルの歩みと現状を鑑みながら

2017-11-23

今年10月はじめに、スペイン北東部のカタルーニャ州では、スペインからの分離独立の是非を問う住民投票が行われ、同月の下旬には、イタリア北部のロンバルディア州とベネト州でも、自治権拡大の是非を問う住民投票が実施されました。前者は独立、後者は自治拡大を問うものですが、両者とも、中央集権的な政治・経済体制の在り方に対する異議申し立ての動きであったという意味では、一致しているといえます。

このような異議や抗議が噴出する際、すでにあるほかの国や地域の政治体制が、目指す方向や具体的な形として掲げられることがよくあります。ヨーロッパのなかでも地方分権が強いスイスはそのような国の一つで、たびたびほかのヨーロッパ諸国で引き合いに出されますが、10月のイタリアの選挙で 、自治拡大を求める勢力が、目指す形として言及していたのは、同じイタリア国内の別の地方である、ボルツァーノ地方、ドイツ語で南チロル地方と呼ばれる地方です。

同じイタリアのなかで、この地方が、ほかの地方に羨望されている理由はどこにあるのでしょうか。今回は、歴史をたどりながら、この地域の自治の在り方について具体的にみていきたいと思います。その上で、自治制による地域の変化や、この地域の周辺地域や国との関係、また言語や文化的なつながりに注視しながら、現代ヨーロッパにおいて、地域の在り方や地域性とは何を意味するのかについても、少し考えてみたいと思います。

南チロルの歴史

ボルツァーノ(南チロル)とは、北部アルプスの山中に位置する7400 km²の広さのイタリアでも最も大きい県のひとつです。人口は52万人ほどで、イタリア語でボルツァーノ(ドイツ語でボーツェンBozen)という都市を県都とします。

イタリア最北に位置するこの地方の大きな特徴は、ドイツ語を母語とするのが人口の6割と、イタリア語を母語とする人の割合(2割)よりもはるかに多いことです(ちなみに、ほかにも4%が「ラディン語」と(あるいは「レト=ロマンス語」)と呼ばれる少数言語を母語とする人もいます)。

ドイツ語を母語とする人が過半数以上を占めていながら、イタリアの一地方であるという、複雑な事情のルーツは、ちょうど100年前にさかのぼります。なおこの地方の表記は、地元の多数派であるドイツ語話者の表記に準じて、以後、イタリア語の「ボルツァーノ」ではなく、「南チロル」とすることにします。

南チロルは、第一次世界大戦終結までオーストリア・ハンガリー帝国に属していましたが、19世紀後半にイタリア統一運動が進むなか、イタリア側にとっては「未回収のイタリア」の一部と捉えるようになっていきます。そしてオーストリアが敗戦を迎えた第一次世界大戦後は正式にイタリア領となりました。

それから20年後の1939年には、ヒトラーとムッソリーニの間で、南チロルについての新たな合意が達成されます。これにより、南チロルのドイツ語を母語とする人(以下、これらの人を「ドイツ語話者」と表記します)は、当時、ヒトラー支配下にあったドイツ・オーストリアに移住するか、残留するかを選択するかの選択を迫られることになり、1943年に南チロルの住民の3分の1がこの地を去り、3分の2は残留を選びました。

第二次世界大戦が終わると、南チロルに残ったドイツ語話者の多くは、南チロルがオーストリアへ再び帰属することを希望しましたが、戦勝国は、南チロルが引き続きイタリアに帰属するという決断を下します。ただし、1946年には、イタリアとオーストリア両国が、南チロルとそれに隣接するトレンティーノのドイツ語話者の地域に対し、自治権を与えるということで正式に合意しました。これによって、ドイツ語話者たちの間では、それまでのようなドイツ語の使用を禁止する「イタリア化」が強要されず、オーストリアとの関係もより密接となる自治の環境が整うと期待されました。

しかし合意された「自治」は実際にはほとんど機能せず、イタリアのほかの地方からの南チロルへの移住者の数が増加していったため、南チロルでは不満がつのっていきます。1950年代からはイタリアからの分離運動が活発化するようになり、テロ行為も繰り返されるようになりました。最も激しかったのは1961年6月の二日間には、37ヶ所で送電線をねらったテロ行為が勃発しました。

このような状況下、南チロルの行方について国際社会の関心も高まり、イタリア側も現実的な妥協を余儀なくされます。そして、1971年にイタリアの国会で、いわゆる「第二の自治」と呼ばれる南チロルの自治権を認める決議がされます。それ以降、実質的な自治が確立されていくのに従い、徐々に分離独立の動きもおさまってゆき、南チロルは自治権を享受するイタリアの1県という独自の道を歩み、今日に至っています。

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「特別自治州」の特権

現在、南チロル県は、隣接するトレンティーノ県といっしょにトレンティーノ=アルト・アディジェ州という「特別自治州」を形成しています。「特別自治州」とは、イタリアに5つしかない、通常州(普通の州)とは異なるその政治的な地位や経済的な権利をもつ州で、その特権的な地位は憲法でも保証されています。

これによって、南チロルでは教育、健康、社会、インフラなど広範囲で自治が認められ、そのために必要な財源として、この地域で収められた税金のうち9割が、一旦国に収めたあとにまたこの地域に戻され、自由裁量で自治運営に使うことができます。2015年の南チロルでは、5億3000万ユーロの歳入がありましたが、これは、お隣のオーストリアの70万人の人口を抱えるチロル州の同年の歳入(3億4000万ユーロ)よりも高くなっています。

潤沢な税収のおかげで、南チロルと、同じ特別自治州に預かるトレンティーノ県の2県では、ほかのイタリアの地域に比べ、教育制度や交通網、ごみの収集など多岐にわたるインフラ・福祉の分野で、公共サービスが充実しています。ただし、単に税収が多いだけでなく、官僚構造が効率的で、政治家や官僚たちの腐敗が少ないなど、運営の仕方や効率性が優れていることも、この地域の特徴とされます。

豊かになった南チロル

自治権の拡大により、南チロルには、平和だけでなく、経済的な豊かさがもたらされました。

2013年の南チロル県の国内総生産額は一人当たり4万ユーロです。これは、イタリアの平均は2万6500ユーロ、オーストリア平均の3万8100ユーロすら超える高さであり、ヨーロッパでも有数の非常に豊かな地域であることがわかります。失業者数も4.4%(2013年)と、イタリア全体の12.2%と比べると約3分の1という低さです。数十年前まで、険しいアルプスの山あいに小さな集落が散在する貧しい山岳地域にすぎなかった南チロルは、現在は、ヨーロッパでも有数の豊かな地域のひとつへと生まれ変わったことになります。

経済は主にサービス産業に集中しており、経済全体の4分の3に相当しています。なかでも強いのが、人やものの移動が自由で、通貨も共通であるほかのEU諸国からの観光客を対象にした観光業と、それに関連する販売や交通関係分野の産業です。風光明媚なアルプスが楽しめ、しかも治安や衛生面でもほかのドイツ語圏に全くひけをとらない高水準で、しかもドイツ語が問題なく通じ、地理的にも比較的近い南チロルは、とりわけドイツやスイス、オーストリアなどのドイツ語圏の人々の余暇スポットとして、高い人気を博しています。

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南チロルの人々の生活

わたしも3年前にオーストリア側から南チロルに入ったことがありますが、静かで、ごみもひとつも落ちておらず、ドイツ語の本がずらっと並ぶ本屋が佇む街並みは、どこから国が変わったのか見分けがつかないほど、ドイツ語圏のほかの都市と全くかわらないたたずまい、という印象を受けました。

ドイツ語話者とイタリア語話者が混在する南チロルでは、人々は実際にどのように生活しているのでしょうか。

まず言語ですが、南チロルでは両方の言語を学ぶことが義務になっており、両方の言語を解することが表向きの前提です。しかし現実には、二つ目の言語能力(ドイツ語話者にとってイタリア語、イタリア語話者にとってのドイツ語)が十分でないことが多いといわれます。

また、語学レベルの問題だけでなく、ドイツ語話者とイタリア語話者は、幼稚園から高校まで別々の学校システムがあり、それに通うため、共通のアイデンティティーというものが育つ土壌もないと、長年南チロルに住み、イタリア語をドイツ語の学校で教えるトスカーナ出身の教師のルカGabriele Di Lucaは指摘します(Spalinger, 2016)。

そうやって大人になった人々は、どのように、もうひとつの言語や言語話者に接することになるのでしょうか。仕事上、ドイツ語とイタリア語の話者がいっしょに働くことはもちろんありますが、お互いに必要最低限な接点しかもたないというのが現状のようです。プライベートでは別々の友人サークルや、スポーツクラブに所属することが多く、ドイツ語話者とイタリア語話者の婚姻は、南チロルの全婚姻の1割にとどまります。

イタリア語教師のルカは、なるべくお互いの間に距離をとるという選択肢が、平和的な共存のためにとられてきた、と説明します。特に、高齢のドイツ語話者たちにとっては、イタリア化にとりわけ慎重な姿勢が強く、余計な交流をしないという選択肢を自ら選択してきたといいます(Spalinger, 2016)。

地理的にも住み分けができています。ドイツ語話者は第一産業やツーリズムに就業している人が多く、都市ではなく周辺の地方に住む人が多いのに対し、イタリア語話者は町が多く、県都ボーツェンに限ると、住民の7割はイタリア語話者です。

南チロルのガイドの方に聞いたドイツ語話者の大学進学の話も印象的です。南チロルにも小規模の大学はありますが、総合大学がないため、地元にない専門科目を勉強したい場合は南チロルを出なくてはいけません。その際、どこにいくかというと、圧倒的多数は、オーストリアのチロル州の都市インスブルックにいくのだといいます。法学部に進みたい人だけは、南チロルで法律家として働くためにはイタリアの大学で修学することが不可欠なため、イタリアの大学へいきますが、それ以外の学科で、イタリアの大学に行く人はほとんどいかないのだそうです。

大学へ進学する地域のエリート青年たちが、地理的な利便性(ミラノへは200㎞、オーストリアのインスブルックへは45㎞)や、言語や文化の親和性・類似性から、このように大学を選択したあと、さらに人生はどう変わっていくでしょうか。ここからは推論になりますが、大学でどちらの国にいくかは、仕事や世界観、あるいはパートナーや友人などの交友関係など、将来の個々人の生き方に決定的な影響を与えるのではないかと思います。

これらのことを総合すると、イタリアよりもオーストリアに親和性が強い南チロルの文化やアイディンティティーが世代が移り変わっても、継続していくひとつの筋書きが、そこにも現れているように思われます。

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南チロルに対するイタリアのほかの地方の視線

イタリアでは2001年以降、中央から地方への権利移譲がひとつの流れとして進められてきました。しかしそれがかえって腐敗や官僚の肥大化につながっているという見解が近年広がっており、最近はむしろ地方分権の動きを見直す動きが強まっているといいます。

実際に、南チロル同様に、特別自治州であるサルディニアやシチリアなどほかの四つの州においては、南チロルのあるトレンティーノ=アルト・アディジェ州とは異なり、政治や経済がうまくまわっておらず、自治権によってむしろ中央政府に不当に扱われていると感じる人も少なくないと言われます(Spalinger, 2016)。

とはいえ憲法で保証された「特別自治州」下にある南チロルについての自治を見直そうという議論は少なくとも現状ではなく、アルプスの貧村からヨーロッパ有数の豊かな地域へと発展をとげた南チロルの自治体制は、イタリア各地で、羨望のまとになっています。特にその思いが強いのは、イタリアでも豊かな地方です。

例えば、ロンバルディア州(州都ミラノ)は、南チロルがある特別自治州トレンティーノ=アルト・アディジェ州の約10倍の人口を抱え、国内総生産の2割を占めますが、税金としてとられるほうが、中央からもどってくるものよりはるかに多いことに強い不満を持っています。中央に収める税収と戻ってくる額の差額は2015年には、520億ユーロにまで及びました。トレンティーノ=アルト・アディジェ州の5倍の人口のヴェネト州(州都ベネツィア)では、150億ユーロでした。

南チロルのような特別自治州になることは、憲法上の問題があり無理だとしても、とりあえず、南部イタリアなど、自分たちから遠く離れたほかの地域に流れてもどってこない自分たちの本来の税収を、なるべく多く自分たちのところに還元できるようにし、まずは財政枠を広げたい。そのような地方の欲求を中央にアピールする目的で行われた自治権拡大を問う10月22日の2州の住民投票では、どちらの州も9割以上が、賛成という結果になりました。

国という枠組みを超えてつづいているもの

南チロルは、国内の少数民族問題を解決し平和に導いた例として注目されており、講演などに世界から招かれることが多いそうですが、南チロルのケースは、確かに、現代でも各地でみられる自治をめぐる地方と中央の対立、分離独立運動の行方を考える際にも参考になることが多いといえるでしょう。

それらのテーマとは少しずれますが、わたしも、南チロルを訪問した際、個人的に地方の在り方や地域性ということについて、印象に強く残ったことが二つありましたので、最後に触れたいと思います。

ひとつは、南チロルが見出したユニークな地域振興の立ち位置です。南チロルが100年間イタリアに属してきたなかで、さまざまな衝突があり、今も、同じ地域に暮らしているドイツ語とイタリア語を母語とする人々の間での交流が少ないという批判もあります。その一方、自治権を獲得して以降は、地理的・文化的な中間に位置する自分たちの特性を最大限に利用し、ドイツ語圏の観光客を誘致するという平和的で経済的な地域振興に力を注いできたのも事実です。イタリアとオーストリアどちらにもある程度近く、同時に一定の距離を置く形を、自分たちの地域性として捉える、それまでなかった新しい南チロルの「形」や「時代」を作ってきたといえるではないかと思います。

もう一つは、言語や文化といったものは、政治権力や建築のように可視化されるものではないものの、国という枠をらくらくと超えていく強い絆のようなものを作りだす力をもっていると、いう実感です。少し大げさな言い方ですが、少なくともそう端的に感じる出来事が、観光の一コマでありました。

南チロルのワインとソーセージなどを食べ歩く秋祭りTörggelenにホテルのほかのゲストたちと参加した時なのですが、アコーディオンの演奏がはじまると、ドイツ語圏の違う国から来たゲストたちと、南チロルの地元のスタッフたちが、みんな声を合わせて歌いだしました。聞けば、誰もが知っている流行歌だといいます。

ゲストと南チロルの人たちは、お互いに国や地域にいったことがなく、お互いの文化や歴史について詳しく知らなくても、歴史や言語、文化によってなんらかの形でつながっており、それは、国という枠組をやすやすとこえるような、確かなつながりであること。それを、ゲストと南チロルの地元の人たちが声をひとつにして歌っている姿を見て、感じました。わたしが日本出身で、全くそのようなつながりがなく、歌も歌えなかったために、そのようなつながりが、とりわけ強く感じられたのかもしれません。

ドイツ語で流行歌のことは、「フォルクVolk」の「歌lied」で「Volkslied」と表されます。「フォルクVolk」とは、国民を指すこともありますが、歴史や言語、文化によって結びついた人々やその共同体全般を指す言葉でもあります。その晩、歌でつながっていたゲストと南チロルの人たちは、まさに、同じ「フォルク」だったのでしょう。

おわりに

ヨーロッパは、面積が小さい地域に国が密集しており、引かれている国境の密度は世界でも最上位ではないかと思います。この結果、国境の区切で回収しきれない問題や、線引きで新たに生じる対立も頻繁に目にします。

南チロルもそのような衝突や緊張の歴史をもつ地域のひとつですが、現在の南チロルをみると、国という枠組内の地域の軋轢を緩和させる道があることや、逆に国という枠組みでつながっていなくても、ほかの地域とつながる形があることを、自分たちの歩みのなかで、みせてくれているように思われます。

参考文献・サイト

Steininger, Rolf, Südtirol. Vom Ersten Weltkrieg bis zur Gegenwart, Inbsbruck-Wien 4. Auflage, 2015.

Echo der Zeit, SRF, 17.10.2017.

Lombardei und Venetien stimmen für mehr Autonomie. In: NZZ, 23.10.2017

Spalinger, Andrea, Gemeinsam einsam. In: NZZ, 15.6.2016.

Spalinger, Andrea, Die Norditaliener wollen weniger zahlen. In: NZZ, 21.10.2017.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。



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