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デジタルメディアとキュレーション 〜情報の大海原を進む際のコンパス

2016-12-07 [EntryURL]

ソーシャルメディア全盛時代のニュース情報源と信憑性
北米の大統領選でメディアがどのように消費され、選挙行動に影響を与えていたのかが明らかになってくるにつれて、ソーシャルメディアが人々の情報源として大きな役割を占めていることが、改めて注目されるようになりました。
米国の世論調査機関Pew Research Centerの調査で 、アメリカでは成人の44%がフェイスブックをニュース・ソースとして使われていることが公表されましたが、このような状況は北米だけでないようです。チューリッヒ大学の公共性と社会研究所所長Mario Schranzによると、スイスのアンケート調査でも、回答したスイス人の二人に一人が、やはりフェイスブックをニュース・ソースとして利用しているという結果がでたといいます。そのうち12%の人はメインのニュース・ソースとして用いていると回答しており、若者層に限っていえば、フェイスブックをメインのニュース・ソースとする人が4人に一人でした(Medientalk, 26.11.2016)。
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無料で簡単に入手できるソーシャルメディアのニュースにはしかし、偽情報がまぎれこんでいることがあり、その正誤とは無関係に、その内容が人々に広がり、人々の判断にも大きな影響を与える可能性があります。この点で、最近注目されているものに、ソーシャル・ボッツSocial Bots とよばれる、ソーシャルメディアに大量の情報を量産・発信するコンピュタープログラム(ロボット)の目覚しい発達とその影響力があります。南カリフォルニア大学研究者の調査では、アメリカ大統領選中でツィッターの議論に参加していた総勢の15%が人間ではなくソーシャル・ボッツで、つぶやき全体の5分の1はそれらが発信したもので、トランプ氏支持のつぶやきに限れば、その割合は3分の1にまでのぼっていました(Bessi and Ferrara, 7.Nov.2016)。ボッツが発信する根拠も責任者も不在の大量の情報が、国内の選挙だけでなく、対外戦争や国内の対立など、様々なジャンルにおいて世論や政治を左右する大きな役割を果たす可能性が、今後、高くなっていくのかもしれません。
確かな情報へのアクセス方法
これらの事実が明らかになってくると、このような時代にこそ、偽情報に翻弄されず、信憑性の高い確かな情報を確保したいという要望も、人々の間で強くなってくるのではないかと思います。他方、情報はインターネット上にあふれて、 知りたい確かな情報を、手間ひまかけずにすぐに見つけ出すことは簡単ではありません。
単なる言葉の意味や地理情報なら大手検索マシーン、時事ニュースなら公共放送局サイトにおいて無料で簡単に見つけることができますが、業界全体の動向や、総合的な論説・解説、専門分野の第一人者の意見などを知りたいときは、どうすればいいのでしょう。主要な検索エンジンにパスワードを入れてヒットする上位のコンテンツを逐一みていくのは、効率でも成功率でいっても、最良の策とはいえないでしょう。各種の情報サービスに登録するだけで自動的に手に入るわけでもありませんし、情報源となりそうなサービスが複数ある場合、自分に最良のものがどれかを見極めるだけにも、かなりの時間を要すかもしれません。 何をしようにも前も後ろもあふれる情報の海原で、どう舵取りすればいいのか、途方にくれてしまいそうです。
このような状況に対処する有用な手段として、情報の大海原のコンパス(案内役)である、キュレーションの重要性が今日、そして今後、一層高まっていくと考えられます。キュレーションとは必要な情報を収集、選別、評価して提示することであり、キュレーション・サイトを自称するサイトが最適のキュレーションであるとは限りません。サービスの名称とは関係なく、あるジャンルや専門分野について常に有能な人材が責任をもって収集・選別・アップデートしているものが、媒体やジャンルを問わず、質や内容が保証されるよいキュレーションであるといえるでしょう。
今回は、近年世界的に急成長しているヨーロッパ発の新たなサービス事業で、キュレーション機能に重きを置いている例を二つ紹介しながら、キュレーションの質や今後の展望についてみていきたいと思います。
ジャーナリズム界のキュレーション
まずとりあげるのは、以前にもとりあげたオランダの「ブレンドル」という会社のキュレーションについてです。ブレンドルは、2014年4月から始まったオンライン・メディア購読サイトですが、ほかの類似する業者と大きく異なり、主要な英語やドイツ語圏などの日刊紙や雑誌をすべて一つのポータルサイトからみることができ、しかも新聞や雑誌をまるまる購読するのではなく、個々に気に入った記事だけを購入することができます。今年からは北米の主要メディアとの提携が拡大し、北米へも本格的な進出をはたしました。(ブレンドルのオンライン・メディア購読サイトについての詳細は「ジャーナリズムを救えるか?ヨーロッパ発オンライン・デジタル・キオスクの試み」をご参照ください)
ブレンドルのサイトのように、世界中の新聞や雑誌がオンラインで簡単に読めるようになったことは大変便利ですが、他方、その中から自分が関心をもつテーマの記事が載っているの雑誌や新聞を探すことは依然として容易ではありません。タイトルにおどらされず、読み応えがある優良な記事をみつけるのには、相当の労力を要します。このような状況を受けて、ブレンドルは、街のキオスク(小さな商店)のように新聞や雑誌(あるいはその中の個々の記事)を販売するだけでなく、読みたい良質の記事をみつけるためのキューレーション・サービスにも力をいれています。
キューレーション・サービスは、専門に雇われたエディターたちによって行われています。エディターたちは毎日、 新しく入ってくる新聞・雑誌すべてに目をとおして、出版社や分野を問わず良質と思う個々の記事を選び、それを二つの手段で、顧客にキュレーション(案内)しています。まず一つ目は、ポータルサイトにカテゴリーや分野に分類しての提示です。顧客はあらかじめ自分の興味あるジャンルを登録しておけば、ポータルサイトからクリック一つでジャンルごとに、エディターが選んだ最新の記事にアクセルできる仕組みです。
もう一つは、毎日朝夕2回のメールニュースと一週間に一度のダイジェスト版のメールニュースで、ジャンルを問わずエディターがその時点で最新で優良なものとして選んだ15件前後の記事を、推薦する数行のコメントをつけて案内するものです。このような二つのキュレーションのしくみ、ポータルサイトのジャンル別と、個人的に送られるメールニュースのおかげで、顧客は、主要な記事を日々素早く概観し、あるいは過去にさかのぼって検索し、自分が興味あるものを効率よくみつけることができます。もちろん、このようなキュレーションを充実させることで、記事の購買を増やすことはブレンドルや出版業界の収入を増やすことになり、顧客、ポータルサイト運営者(ブレンドル)、出版社の3者すべてが得をすることになるしくみとなっています。
知の最前線にいどむキュレーション
一方、欲しい情報がどこにあるかがわかって、入手が簡単にできるとしても、依然として解決されない悩ましい問題があります。それは、重要な情報ソースだとわかっても、それが分厚い書籍や専門的な学術書などであるため、読了するのが大変だという(デジタル時代にはじまったことではない、書籍発達の歴史上、常に並行したあった )クラシックな問題です。
1980年代終わりから、経済分野の大学としてドイツ語圏で最高峰とされるスイスのザンクト・ガレン大学に在籍していた3人の学生も、同様の問題を抱えていました。講義やテストに備えて膨大な書籍に目を通す必要があるのに、時間は限られている。窮余の策として3人は、 主要な書籍の要約をつくり、その貸借りをお互いにはじめました。おかげで3人は無事に卒業しましたが、卒業後、それぞれがビジネスの世界に入ると、大学で学ぶ学生だけでなく、ビジネス業界でも、全く同じ問題で悩んでいることを実感するようになります。
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ザンクト・ガレン大学 出典:http://www.unisg.ch/de/studium/darumhsg

ビジネスを順調に進めるために、常に新たな専門分野やその動向を学んでいく必要性を感じつつも、順調で多忙である人ほど、書籍にじっくり取り組む時間を作るのは難しくなります 。しかも毎年、英語とドイツ語のビジネス書だけでも1万冊以上が出版されており、それを読むことはもちろん、一望することも普通の人には不可能といっていいでしょう。このような状況で、ビジネスに必要な文献は常にチェックしておきたい、読む前に大筋をあらかじめ知りたい、あるいは今読めなくても重要な書籍のせめて概要だけはおさせておきたい、といった需要がかなりあるのではないか、そう、学生時代に要約の貸借りをした3人は確信します。そして、ビジネス関連の本の要約を提供する会社ゲット・アブストラクトgetAbstractを設立し、2000年1月からウェッブサイトで、ビジネス本の要約を提供するサービスを開始しました。
会社はまもなく、その高い要約の質と書籍の評価で、学会、経済界、ジャーナリズムからも認められるようになり、現在は会社の公式サイトによると、世界中で出版社500社、中小大規模の企業とその従業員千万人以上と協力関係にあり、要約は世界で総計すると数千万の人の目に届くしくみになっているといいます。これまでに数百万の要約購読サービスが世界中で購入され、特に最近は、オーストラリア、アフリカ、南米、ロシアと中国で顧客が増えているといいます。ちなみに、今年7月からは日本の楽天もゲット・アブストラクトに出資しています。
年間一万冊以上の書籍類は120人の専門ジャーナリストが、パートナーの出版社と協力して目を通し、ビジネスでの実用性、イノベーションのレベル(そのテーマにおいてどのくらいの新しさ、独創性があるか)、叙述の仕方が論理的で明瞭か、の3点を重視した透明性の高い査定を経て、 優れた内容のものだけをビジネス書籍なら5ページ(読了時間約10分)の容量に要約しています。
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ゲット・アブストラクトの要約例 出典: https://www.getabstract.com/en/how-it-works/overview

要約の対象は、最初ビジネスに直接役立つと考えられる関連書籍だけでしたが、政治、経済、哲学、宗教、文学、自然科学、心理学、社会学の書籍類やレポート(世界銀行などの)、さらにTED Talksのビデオ にまで今日広がってきています。要約総数は現在、1万4千点以上になり、文章形式あるいはオーディオ・サービスの形で、ライブラリー・サイトで会員に公開されています。それらの要約の多くは、ドイツ語、英語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語、ロシア語、中国語の7カ国語で読めるようになっています。 ポータルサイトでの紹介以外に、毎週、顧客の興味がある分野にそって、メールでも案内が送られています。
様々なビジネスに関係する最重要文献を常に網羅し、その良質の要約を提供するゲット・アブストラクトは、世界でも比類のない独自のサービスであり、ビジネス分野における知の最前線をキュレートしているといえるでしょう。
キュレーション 〜今後の可能性
キュレーションは、無料で手に入るニュースや情報があふれる状況の対極にあるようにみえます。無料のニュース・ソースが、ソーシャル・ボッツやほかの人工知能に次第に場を奪われていくのと対照的に、あるいはそれらが横行すればするほど、これからキュレーションの重要性は高まり、今度も、人間の高い能力や技能を必要とする知識集約型産業の分野として確固たる地位を保っていくように思われます。
ただし、キュレーションの在り方自体も、現状維持に安住せず、進化、進歩していくことが、時代の需要に合わなくなったり、人工知能に仕事を代行されないために、必要なのかもしれません。ゲット・アブストラクトは、単なるリストアップや評価をするというキュレーションにとどまらず、高い評価を下したコンテンツを要約する、という新たな付加価値をつくりだし、 ゆるぎない地位を築くことに成功しました。同時に、今後も要約の対象をさらに拡大・充実させていくため、要約が望ましいと思われるものの提案も、公式サイトで随時募集し、自分たちの地場や経験を土台に新たな発展の可能性を探求しています。このような創意工夫や新たな挑戦の姿勢は、キュレーションが、これからも必要とされているものを提供し、しかも、人が主体的に関わる知識集約型の仕事でそれがありつづけるための重要なキーであるかもしれません。
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参考サイト
——フェイク・ニュース、ソーシャル・ボッツについて
Stefan Betschon, Die dunkle Macht der Algorithmen, Social Media, NZZ, 24.11.2016.
Alessandro Bessi and Emilio Ferrara, Social bots distort the 2016 U.S. Presidential election online discussion, firstmonday, Peer-reviewed Journal of Internet, 7. Nov.2016.
Stefan Betschon, Die dunkle Macht der Algorithmen, Social Media, NZZ, 24.11.2016.
Adrienne Fichter, Debatte um die Verantwortung der sozialen Netzwerke. Mit Wettbewerb gegen Fake News, NZZ, 24.11.2016.
——スイスのソーシャル・メディアとジャーナリズムについて
Medientalk: Wie gefährlich sind die «Echo Chambers»? , SRF, 26.11.2016)
——ブレンドルのオンライン・デジタル・キオスクのキュレーション・サービスについて
Mathew Ingram, Blendle Launches its ‘iTunes for News’ Service in the U.S. But Will it Work?, fortune, March 23, 2016.
——ゲット・アブストラクト getAbstractについて
公式サイト(英語)
Stephan Gemke, HSG Gründungsgeschichte: Thomas Bergen und getAbstract, Gastbeitrag, Prisma, 10.3.2014.
楽天のゲット・アブストラクトへの出資について

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


テイクアウトでも使い捨てないカップ  〜ドイツにおける地域ぐるみの新しいごみ削減対策

2016-12-01 [EntryURL]

世界中、ごみ問題に頭を抱えていない国はないといってもいいでしょう。 環境大国と言われるドイツも例外ではなく、様々な次元で、ごみの削減への取り組みがみられます。そのドイツで、今年秋から、テイクアウト用の飲み物を入れるカップを対象にした、新しいリユースReuseの仕組みが、民間主導でスタートしました。 リユースとは、使用後に全部あるいは一部を再使用することで、リデュースReduce (ごみに後でなるものを、特に製造や販売 の過程で、できる限り作らないようにすること)やリサイクルRecycle (再生資源として再利用すること)と並んで、ごみ削減の3本の柱の一つと考えられています 。
正確にいうと、ドイツのなかのベルリン、ハンブルク、ローゼンハイムという都市での取り組みなのですが、地理的にも離れた3都市で、同じような仕組みがほぼ同時にでてきたということは、単なる偶然ではなく、使い捨てカップのごみがドイツ全体で共通して問題になっていることを物語っているといえるでしょう。ドイツの使い捨てカップをめぐる状況はどのようなものであり、これに対しでてきた新たなごみ削減対策には、どんな特徴や工夫があり、重点はどこに置かれているのでしょうか。ごみの削減という世界共通の課題に向けた、ドイツの最も旬な事例を、今回はご紹介したいと思います。
捨てられてごみになるカップ
紙やプラスチックでできた使い捨てタイプの飲み物容器は、誰もがよく目にし、使用することもよくあると思いますが、ドイツでどれくらい消費されているのでしょう?
バイエルン州の消費センターの環境専門家ツヴォイナー=ハンニンク氏Matthias Zeuner-Hanningによると、一年にドイツ人は平均130の使い捨てカップを使っており、そのうちの60カップは、熱い飲み物を入れる容器です。これだけを聞くと、たいした量ではない気がするかもしれませんが、これがドイツの全人口約8千万人の規模になると、年間30億の使い捨てカップがごみになっていることになります。一時間に換算すると32万カップ、1秒で89カップです。しかも数は年々増える傾向にあるといいます。ドイツの民間環境・消費者保護団体Deutsche Umwelthilfe (DUH)によると、ベルリンだけで毎日46万カップが捨てられ、一年では総数1億7千カップ、2400トン以上のゴミとなっています。毎日、ベルリンで使用し破棄される容器を並べると、ベルリンからヴィネチアまで並べられる距離になります。
使い捨てカップは単にごみを増やすだけでなく、容器を作るために水や森林、原油などの環境資源やエネルギーも莫大に消費し、二酸化炭素も排出しています。ローゼンハイムのプロジェクト公式サイト「リカップReCup」によると、年間使い捨てカップを生産するために4万3千本の木材、3億2千kWh(キロワットアワー/キロワット時)の電力量、2万2千トンの原油が使われ、11万千トンの二酸化炭素が排出されているといいます。端的に水を例にすると、300mlの紙コップを作るのに水だけでも、半リットル以上必要であり、コップに入る容量以上の水が容器づくりに消費されていることになります。
しかし、もしも10%、使い捨てカップの利用が減ると、一年間で1億5千リットルの水、4トンのごみ、32万 kWhの電気、2千200トンの原油を節約できることになるといいます。
ごみ削減案1 リサイクル
前述のドイツ環境・消費者保護団体(DUH)の行ったアンケートでは、85%の人が、使い捨てカップは、公共のごみ箱の負担になっていて、公園などの公共の場所がそれによって汚れていると考えているといいます。使い捨てカップがよくないという意識が人々に強くあるのなら、なぜごみを減らせないのでしょう。
ほかの飲料水容器を対象にしたごみ削減対策として、ペットボトルやアルミ缶のリサイクルは、よく知られており、普及もしています。ならば、カップもごみとして捨てないで、紙コップは紙としてリサイクルすればいいのでは、と手っ取り早く考えたくなります。しかし紙コップは、確かに紙を使ってはいますが、液体がもれないように合成樹脂でコーティングしてあり、紙繊維とその合成樹脂を分離するのが非常に難しく、古紙としてリサイクルすることができません。プラスチックのカップもリサイクルされるものは一部にとどまっています。ドイツでプラスチックのごみ全体で現在リサイクルされているものは、40%にとどまり、残りは一般ごみ処理場に向かう運命にあるためです。
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ごみ削減案2 マイ・カップ持参のリユース
スターバックスなどのいくつかの大手コーヒーショップでは、カップを持参する人に割引をするというサービスをして、容器のリユースを支援する動きもでてきています。今年の7月中旬からは、ベルリン市内を走る鉄道駅約60カ所と自然食品店などが共同で、「ベルリンのためのマイ・カップ」という名前のカップも売り出しました。このカップをもって市内に36カ所にある自然食品店でコーヒーを買うと、割引サービスが受けられるというものです。
マイ・カップのリユースは、確かにごみ減量の観点からみると優れているのですが、いくつかの難点があります。常に自分でカップを持ち歩かなくてはいけず、使用後に持ち帰って自分で洗う手間も必要です。また、それぞれの店舗で異なるカップを指定しているため 、それぞれのお店に合わせたカップが必要になります。また、このようなサービスを行っている店舗はまだ少なく、たまたま飲みたくなった場所の近くに、持参のカップが使える店があるとは限りません。このため、よいサービスではありますが、実際にサービスを利用する人の数は限られ、一般的な動きとはなっていません。
ごみ削減案3 リターナブル・カップのデポジット制度
リサイクルも難しく、マイ・カップのリユース制もいまいち使いにくい。それならば、と新たにはじまったのが今回の試みです。一言で言えば、リターナブル・カップによるリユースの制度です。リターナブルとは、何度も洗って使うことができることを指します。つまり、ビール瓶などでよくあるリターナブルの瓶と流れはほとんど同じですが、カップをリターナブルするというのは、はじめての試みだそうです。
まず、コーヒーショップで飲み物を購入する際、デポジット料金(あずかり金)をあらかじめ上乗せした代金を払います。それを自分用として所持して利用することももちろんできますが、デポジット制なので使用後に、デポジット料金と引き換えに返却することができます。この制度の最大の特徴は、返却先は、購入したお店や同系列のお店だけでなく、市内でこの制度に参加しているほかのどのお店でもいいことです。このため、返却のため、購入店まで戻る必要がなく、飲んだら最寄りの提携する店にそのまま返し、またすぐ手ぶらになることができます。購入・返却できるすべての店はアプリで簡単にさがせます。ベルリンで9月半ば、ハンブルクとローゼンハイムでは11月からはじまりました。
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消費者と店舗の両方が得をする制度
この制度によって、まず消費者は、 使い捨てカップを使わないでコーヒーなどの飲み物を購入できる店の選択肢が広くなったのと同時に、容器の持ち歩きやその洗浄にわずらうこともなくなりました。現在のところ提携する店はそれほど多くありませんが、提携店が一定地域に比較的集中しているため、その地域内にいる限り、いつでも好きなだけ持ち出せ、簡単に返却できる使い勝手がいいシステムとなっています。
ローゼンハイムでこのプロジェクトの立役者であるパハリー氏とエッケルト氏Florian Pachaly, Fabian Eckertは、店舗にとっても損になるどころか恩恵が大きいと言います。 なぜなら、まず、カップは顧客が自分で払うため、店舗側は食器洗浄機で洗う以外、使い捨て容器のようにカップ費用も大きな手間もかかりません。それにもかかわらず、ごみ削減や環境に貢献することになり、お店のイメージアップにもなります。さらに、カップの返却に 店に立ち寄る人と新たな接点ができることは、店にとっても新たな顧客獲得のチャンスになると考えられるためです。
これまで、コーヒーショップや販売機などで販売する小売業者は全般に、効率や採算性、また販売不振を恐れて、飲料容器のリユースに消極的でした。しかし、リターナブル・カップのシステムは、少なくともこのように理論上は、ウィン=ウィン(消費者と店舗の両者が得をする)構想であると言えます。
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街で楽しく普通にできるリユースを目指して
このリターナブル・カップのデポジット制度は、スタートこそほぼ同時期でしたが、リターナブル・カップは、それぞれの都市で優先・重視することを反映して、都市によって色も形も素材もかなり異なっています。
ローゼンハイムは、500回以上利用できる耐久性を追求したシンプルなもので、デポジットは1ユーロと安く設定しています。カップがなるべく長く使えることと、多くの人に使ってもらいやすくすることが、とりわけ重視されています。
これに対し、ハンブルクとベルリンでは、それほどの耐久性はないかわりに、カップのデザインにこだわりがみられます。例えば、ベルリンで使われているカップは、見た目と触り心地も重視して竹を主素材としており、デポジットは二つの都市よりも高めの4ユーロですが、シンプルな白地をベースにしており、リターナブル・カップというより、目新しいスタイリッシュなカップといった印象を受けます。
ベルリンの発起人の一人ペヒ氏Clemens Pechは、このようなカップを採用したことについて、視覚だけでなくハプティック(さわり心地)にもこだわることで、街で持ち歩くのが億劫にならず、誰もが「楽しくリユースでき」、「普通の習慣になる」ことを目指したためとしています。 (Vieweg, 21.11.2106)。
ごみ削減への飽くなき挑戦
まだ3都市どこも、制度が始まってから日が浅く、提携店も少なければ、知名度も低く、成果について判断したり、今後の展開を予想できる段階とはいえません。しかし少なくとも、どの街でも、提携店や、リターナブル・カップの利用者は、 少しずつ増えているようです 。現在、ベルリンでは1500のリターナブル・カップが出回っており、スタート時点より4店舗多い、16店舗が参加しています。ハンブルクでは13店舗、都市人口約6万人の小都市ローゼンハイムではすでに20店以上が参加しています。
地域の店舗と消費者がいっしょに取り組む3都市のごみ削減対策の健闘を、まずは祈りたいと思います。一方、たとえこれらがうまくいなかったとしても、これらに刺激されてまた新たなアイデアや工夫が生まれて、ごみ削減への不屈の挑戦が、これからも続いていくことを願ってやみません。
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参考サイト
——使い捨てカップのごみの現状について
Webseite der DUH-Kampagne: www.becherheld.de
Sei ein Becherheld!, Deutsche Umwelthilfe
(2016年11月25日閲覧)
——ベルリンのリターナブル・カップ・プロジェクトについて
公式サイト”Boodha - Just swap it”
Martin Vieweg, Kampf der Pappbecher-Flut! Mehrweg statt Einweg. Projekt “Boodha - Just swap it”, natur. Das Magazin für Natur, Umwelt und besseres Leben, 21.11.2016.
——ローゼンハイムのリターナブル・カップ・プロジェクトについて
公式サイトReCup
Isabelle Hartmann und Dagmar Bohrer-Glas, Umweltsauerei Wegwerfbecher Coffee To Go-Becher zum Ausleihen in Rosenheim, 17.10.2016.
Coffee-to-go-Becher - Rosenheimer StartUp mit Initiative zur Müllreduzierung, Stadt Rosenheim, 17.11.2016.
“reCup”: Rosenheimer entwickeln Pfand-Kaffeebecher,
Ab November erhältlich, Rosenheim24de
, 11.10.16 07:49 aktualisiert: 12.10.16 12:34
——ハンブルクのリターナブル・カップ・プロジェクトについて
公式サイト”Refill it!”
——他
ベルリンの「ベルリンのためのわたしのカップ」公式サイト

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ヨーロッパの交通業界を揺るがす風雲児 〜ドイツ発の長距離バスからみた公共交通の未来

2016-11-21 [EntryURL]

世の中には、アイデアとしては優れていても実現化されないものがあります。また、現実に存在しても、 使い勝手が悪いなど技術的な問題が障壁となって、潜在的な需要があっても利用が伸びず、社会にゆきわたっていないものも多くあります。一方、ドイツでは、システムを使いやすく整備することで、潜在的な利用者をあっという間にひきつけて、事業開始からわずか2年で業界全市場の80%を占めるようになるという、これまでドイツでも例がないような、急成長を遂げた事業があります。フリックス・モビリティー社Flixmobility GmbHの 「フリックスバス FlixBus 」という長距離バスです。

フリックスバスは、その成長の早さと前途が注目されるだけでなく、デジタル時代の業務や分業の在り方、また未来の公共交通の課題(環境や社会的公平性)を考える上でも示唆に富むものと思われるため、関連する記事や公式サイトの情報を参考に、現状を概観し、まとめてみたいと思います。

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長距離バスの最短記録

ドイツでは、1934年に鉄道交通を保護する法律が施行されて以来、 全国の鉄道交通の競合相手となるような長距離公共交通サービスが長い間禁止されていました。このため、1989年まで分断されていたベルリンとほかを結ぶ路線のようなわずかな例外以外、長距離バスの運行は認められていませんでした。しかもその長距離バスはドイツの国鉄の姉妹会社によって運行されており、長距離交通は国鉄のほぼ独占状態にあったといえます。

しかし、2013年からはやっと長距離交通サービスが自由化されることになります。これに先立つ、自由化を目前にひかえた2011年、ドイツの国鉄が長距離バス路線を拡充しないことが決まると、一つの会社がミュンヘンで設立されました。今回の主役であるフリックスモビリティ社で、友人3人で設立されたこの会社は、自由化を機に新たなビジネスの準備をはじめます 。

そして、会社は早速2013年2月から早速、南ドイツのバイエルン州のミュンヘン、ニュルンベルクなどの街を直結するバス路線を手始めに長距離バス業界をスタートさせました。国鉄料金に比べて格安の料金の交通手段を提供したバス路線は、順調に乗客数を増やしていき、すぐに全国的に路線を拡大していきます。様々な方面からの乗客をハブ(地域的な中心)に集め、そこから主要路線で全国に行けるように徹底することで、競争が激しいハンブルク=ベルリン間のようなルートでもライバルよりも高い乗車率を確保し、競合相手を圧倒していき、同年の終わりには、路線はドイツ全土だけでなくドイツに国境を接する外国にまで拡大しました。

2015年に、ベルリン本社のライバル会社Mein-Fernbus と合併すると、長距離バス業界の市場占有率は70%以上になり、乗客数は前年比で47%増加し総計2千万人になりました。 公共交通としてこれまで例がない最短記録での業界トップへの躍進をはたしたことになります。

現在(2016年11月)では、今日ドイツ中で4000以上の路線をもち、毎日、ドイツ全土で毎日約1万の運行本数があります。ドレスデン、ベルリン間だけでも、毎日60便が運行しています。市場シェア率は80%を超え 、会社のホームページによると、すでに総計乗車数は5千万人にのぼるといいます。また2014年の夏から、オーストリアのウィーンやスイスのバーゼルといったかなり遠方の海外への路線もスタートし、現在ヨーロッパ全体で総計すると、 目的地(バスの発着地)は、20カ国、900都市を数え、連日約 10万本が運行されています。

バスをもたないバス運行会社

従来のバス会社が地域を特化した小規模な運行に終始することに終始しているうちに、新規事業者があっという間に長距離バスの全国展開を果たし、鉄道交通に対する主要な代替交通手段になるほど成長するとは、自由化がはじまった当初、誰も予想していませんでした。

しかもおもしろいことに、長距離バス業界を牛耳ることになる運行会社自体は、最初から今日までバスを一台も所有したことがありません。ヨーロッパ中で現在、約千台のフリックスバスが走っていますが、バスの運行は、パートナーである国内外250の中小の既存のバス会社(ドイツ国内の会社はそのうち150社)が行っています。

では国内外で千人ほどいる会社従業員が何をしているのかというと、国内外のバス千台の毎日10万本の運行状況管理、運行路線の計画、チケット販売、価格マネージメントといった全体を総括する業務です。 IT技術を駆使して、チケット購入(変更手続きも無料)から運行情報、停留所案内までの一貫したユーザーに使いやすいシステムをいち早く構築し、業界の首位に君臨した、という点では、世界的な自動車配車サービスのウーバーやカーシェアリング・サービスと似ており、これからの時代をリードするビジネス形態の一例といえるかもしれません。

また、バスは所有していませんが、均一した高い質のサービスを保証するため、車両について一律の基準をクリアすることを徹底させています。例えば、全車両で Wi-Fi が全線無料で、電源(コンセント)もほとんどの座席にあり、現在ない車両も今後数カ月の間に完備する予定です。また、身長が高い人でも前に足を十分伸ばせるよう座席もゆとりをもって配置されており、長距離バス部門に関する外部評価機関の評価でも、首位の座を享受しています。

会社の公式サイトによると、乗客2万人へのアンケートで97%が「満足」あるいは「非常に満足」と解答しているといいます。しかし、このようなアンケート調査によらなくても、これだけ短期間にこれだけ乗客数が増えたことがなにより、乗客がこの長距離バスサービスに満足していることの証といえるでしょう。そして、これまでほとんど知られていなかった長距離バスという交通手段を、人々がすぐに受け入れ、多用するようになったのは、格安料金に加え、乗り換えで不便が少ない長距離路線や遅延の少ない運行スケジュール、またバスの車内の快適性の向上などを徹底したことが、大きかったといえるでしょう。

国内外の新たなビジネス展開

さて、ドイツ全国の長距離バス網をすでに構築しその頂点に立ったフリックスバスは、今後、何を目指すのでしょうか。重点が置かれる点は以下の3点にまとめられます。

国内路線の増強
まず、中小都市の間の運行を増やし、需要が多い既存の主要路線もさらに本数を増やし、さらに既存の路線を補完する予定です。例えば、ベルリン=ハンブルク間は現在30分に一本運行されていますが、これを20分の一本の割合にし、1日それぞれの片道に50本以上のバスが運行されるようになる見込みだといいます。本数を増やすことは、乗客数を増やすことだけでなく、道路事情によってバスの乗り換えが予定どおりうまくいかない際のカスタマーサービスとしても重視されているようです。

海外への展開
また、周辺のヨーロッパ諸国への進出を、今後、さらに進めていく予定です。海外のフリックスバスの成長はドイツ国内より早いとすら言われており、今年の8月、ドイツ以外ですでに百万人の乗客数があり、フランスとイタリアではすでにフリックスバスは業界一位の地位にあります。今年末までに、さらにフランスの30の大都市もフリックスバスでつながり、オランダとクロアチアやスロヴァキア、ハンガリーといった東ヨーロッパ諸国での走行も予定されています。地理的にヨーロッパの中央に位置するドイツの地理的な位置も今後南、東、北へと自由自裁に拡大するのに、どこよりも非常に好都合といえるでしょう。

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北欧の現在のフリックスバス路線(路線全図の一部)
出典:https://shop.flixbus.com/?_locale=en&_ga=1.244798093.943276585.1479133968


新たなビジネスの拡大
さらに、すでにヨーロッパで20カ国900都市へアクセスできるバス路線を基盤とし、今後、多様な旅行ビジネスを新たに展開することが予想されます。現在、ホームページをみると、ハイキングやスキーなどのスポーツ休暇や、クルージングと組み合わせた旅行など、地域も目的も様々なヨーロッパ中の旅行プランがあり、9ユーロ別料金を払うことで自分の自転車も旅行先にもっていけるというサービスもみられます。旅行案内ニュースレターに登録した人には限定特別料金や割引クーポンなどのサービスも実施しています。長距離バスと旅行を組み合わせて様々な特典をつけた旅行サービスの需要は、今後、夏季など休暇シーズンには特に高くなると予想されます。

これまで長距離バスは、既存の旅行会社のパッケージツアーや学校の旅行に使われるという立場がほとんどでしたが、広域のバス路線ネットワークが整備されたことで自ら、旅行プランを作り、それをあらたな自分たちのサービス(商品)として、直接顧客にオファーできる立場にまわったといえます。

社会や未来に向けたアピール

公共交通という公共性の高い業界の主要プレイヤーとなったフリックスバスを運行するフリックス・モビリティー社は、私企業でありながら、少なからぬ社会的な影響力をもつ立場になったといえます。そしてそのような会社は、社会や未来に向けてどのような考えをもっているのでしょうか。今年11月、ドイツの主要日刊新聞上で会社創設者の一人、シュヴェムライン氏André Schwämmlein が指摘していることを以下、まとめてみます(FAZ, 1.11.2016.)。

フリックスバスがもたらした移動の自由
ベルリンからチューリッヒまではフリックスバスでは一人当たり50ユーロですが、国鉄(高速鉄道 ICEを使うと)170ユーロを超えます。これまで考えられなかったような格安の長距離バス網が拡充したことで、鉄道や自家用車、飛行機などこれまでの交通手段が高価で使いにくかった人たちにとっても、移動が容易になりました。学生や高齢者、あるいはこどもが多い家族など、社会の成員の少なからぬ割合がここに含まれます。
移動の自由が認められている国でも、安価な公共交通網がなく、ほかの移動手段も限られていると、以前記事でも扱ったキューバの現状でもみられたように(「キューバの今 〜 型破りなこれまでの歩みとはじまったデジタル時代」)、移動は一部の人々だけができる特権的なものでしかありません。
長距離バス網は、全社会層のモビリティーの自由を確保あるいは押し広げたという意味で、 社会的な公平性に貢献したということができます。

環境負荷が少ない公共交通手段
自家用車、鉄道、飛行機などのほかの一般的な公共交通と比べると、フリックスバスの明るい緑色の車体が堂々アピールしているように、大型バスは、一人当たりのCO2排出量の最も少ない乗り物であるだけでなく、道路の渋滞緩和にも貢献します。 総じて環境負荷が少ない移動手段として温暖化対策にも大きく貢献していることになります。

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競合による公共交通部門全体のサービスの向上や充実化
2015年にはドイツ内の格安航空機の乗客数を長距離バス利用者数が超えました。フリックスバス、長距離交通の手段を検討する際の選択肢として、多くの人にとって、なしでは考えられない状況となったといえます。

シュヴェムライン氏は、このように公共交通がお互いに「競合することは健全」と高く評価します。フリックスバスが市場に参入したことによって、ドイツの国鉄でも、価格やWi-Fi の整備など、サービス上明らかに改善がみられ、このように競合することが最終的に消費者たちにとって恩恵をもたらす結果になるためです。
同時にサービスが向上することで、鉄道自体も利用者が増える相乗効果にもつながるといいます。実際、バスが盛況といっても、国鉄の利用者も大きく減っておらず、2015年ドイツの国鉄乗車数はのべ1億3140万人で、バスの利用者2300万人よりもはるかに多い人が国鉄を乗車しています。

そして、バスや鉄道会社、飛行機など公共交通機関が競合しながらサービスを向上させ、消費者は価格や条件に合わせて選べるようになることで、「最終的に自家用車が不要になること」が、社会全体の目指す目標であるとシュヴェムライン氏はいいます。

終わりに 〜利用者の課題とモビリティーで広がる新たな地平

フリックスバスは、近い将来、ドイツだけでなくヨーロッパ全体の公共交通手段という、ヨーロッパ全体を覆う交通インフラを新たに担っていくという予測が、最近ますます現実味を帯びてきているように思われます。
もしそうなると、ヨーロッパ各国の社会は具体的にどのように変化していくでしょうか。例えば、フリックスバス創設者が指摘したように、社会正義(財力に関係なく長距離の移動が可能となるため)の観点や環境の観点において、公共交通手段がヨーロッパ全体で改善される可能性があるでしょう。しかし、ほかの交通手段との激しい値下げ競争で、フリックスバスのパートナーである地域の中小バス会社の従業員が、過酷な労働条件や安い賃金を強いられる危険もあります。また、バス交通だけが生き残り、鉄道やほかの公共交通手段が衰退し、公共交通の選択肢が 狭まる可能性もあります。

のぞましい形で長距離公共交通を維持するために、フリックスバスが長距離公共交通の強豪相手である鉄道に挑戦しながら公共交通全体の改善に寄与してきたように、これからは、長距離公共交通のモンスターとなりつつあるフリックスバスに対しても、厳しい目を向け、状況を見守ることが大切でしょう。具体的には、バスを利用する人々自身が、公共交通手段の価格や網羅する路線だけに関心をもつのではなく、利用者としての立場や、影響力をいかして、それぞれの国や地域でのフリックスバスやその周辺の環境の適切な状態の維持や問題の改善を常にもとめていく、はっきりした姿勢が必要だと思われます。

そして将来、公平で持続性のあるインフラとして複数の長距離公共交通がヨーロッパのなかで充実するようになれば、それらで密接に結びつけられた国々や地域では、地理的な近さを活かし、インターネット上でつながるレベルよりも、はるかに多様で多彩なつながりや交流が可能となり、有形無形の多大な恩恵を与えることにもなるのではないかと思います。

参考サイト

フリックスバス公式サイト(英語)

フリックスバス、ウィキペディアドイツ語版

Monopolist sind wir kein Stück”, FZZ, 1.11.2016.

Christoph Reichmuth, Wie Flixbus in Deutschland den Markt beherrscht, Luzerner Zeitung, 4.11.2016.

Christian Schlesiger, FLIXBUS.König der Straße, Wirtschaftswoche, 15.10.2016.

Matthias Sander, Verzweifelter Kampf der Schweizer gegen Flixbus, NZZ, 31.8.2016.

Kerstin Schwenn, Flixbus Die Fernbus-Sammler, FAZ, Wirtschaft, 3.8.2016.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


外国語学習と母語の関係 〜ドイツ語圏を例に

2016-11-14 [EntryURL]

英語を世界の共通語としたグローバル化が進む今日、日本をはじめ、英語を母語としない国ではどこも、世界の共通語として現在圧倒的な位置を占める英語が上手になりたい、そのために国としても英語教育に力をいれるべきという主張が強くなっています。他方、英語教育を熱心にすることで母語の能力が下がることや、最終的に英語が自国で優勢となって、母語が衰退する運命にもなりかねないのではないかという危惧の声もあります。実際に、熾烈な言語生存競争にさらされて、今後100年以内に現在世界で話されている6500語の半分が消滅すると言語学者たちは予測しています。
母語の将来のシナリオを考えると、以下のような4通りが考えられるでしょう。一つ目は母語がどこでも不自由なく使えるが外国語がほとんどできない社会、二つ目は、世界共通語が圧倒的に優勢となり母語だけでは社会の生活に不自由する社会、三つ目は母語と共通語が両方ともに不自由なく使われる社会、そして最後は、母語と共通語、どちらも理解・伝達するには不十分な語彙や学力しかない人が多数を占める社会です。そして、この4つのパターンのどこに向かっていくのかは、それぞれの国や地域の政治・経済状況、文化やコミュニケーションの変化、また学校での外国語や母語教育の在り方などによって大きく左右されることでしょう。
今回は、外国語学習事情と母語との関係について、ドイツ語圏を具体的な例にして、少し考えてみたいと思います。
ドイツ語話者の分布
ドイツ語を母語(第一言語)とする人は約1億人おり、母語ではないがドイツ語を話す人とあわせると、約1億3千万人だそうです。つまり、話者の人口規模はちょうど日本の人口と同じくらいということになります。話者の国籍は、歴史的に国境が動いたり、人々が世界中を移動した結果、国の数としては40カ国にのぼります。とはいえ、話者はヨーロッパ在住が圧倒的に多く、特にドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク国内とその周辺に集中しています。
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ドイツ語が話されている地域の分布図(黄色がドイツ語が公用語として認められている国で、ほかの色はドイツ語が共通公用語と認められている地域や少数民族としてドイツ語話者が居住している地域)
出典:ドイツ語(ウィキペディア、ドイツ語版)

ドイツ人にとっての英語
ドイツ語は、英語やオランダ語と同じインド・ヨーロッパ語族の一語派のゲルマン語派に属します。このため、英語とドイツ語の文法や表現はかなり似ており、ほかの母語の人よりも英語を学ぶのは楽なはずなのですが、ドイツ語話者の数はかなりいるため、映画、テレビ、書籍などで英語からドイツ語に翻訳や吹き替えされたコンテンツがこれまでは、かなり普及していました。このため、日常生活においてドイツ語圏にいる限りは 英語がほとんど必要なく、世代や職種によっては、英語能力は、今もかなり低くとどまっています。子どもたちにとっても、英語は日常に無関係の言葉であり、ほかの科目同様学校で習得するものでした。
しかしドイツ語圏ではここ数年の間に、大きな変化があらわれてきているようです。今年10月末のドイツの主要週間新聞『ディ・ツァイトDie Zeit』の記事 によると、ハンブルクの研究者が、最近のギムナジウム(大学進学を目指す人のための進学校)最終学年の生徒の成績と7年前の最終学年の生徒の成績を比較すると、一科目だけ、成績が大きく異なっており、それが英語だったといいます。最近の生徒の英語能力は7年前に比べると格段によく、同様の傾向は、ブリティッシュ・カウンシルが実施している毎年行っている英語能力テストからも裏付けられます。成績がよくなっているだけでなく、英語が好きだという子供も増えており、英語は、数ある科目のなかで唯一、移民の子供がドイツ語を母語とする子供に劣らない成績をのこす科目でもあったといいます。
このような傾向はどう解釈できるでしょうか。記事では、なによりもインターネットなど新しいメディアを通して頻繁に英語に接することが英語力向上に決定的に影響を与えたとしています。ユーチューブでの英語のコンテンツを見、世界中から参加しているオンラインゲームでコミュニケーションのために英語を駆使するといったように、若年層の余暇の過ごし方に、英語が欠かせないものとなっていることが大きいとします。
同じゲルマン語派のスウェーデン語やオランダ語の話者の話と合わせると、この説はかなり説得力があるように思われます。スウェーデン語やオランダ語は、ドイツ語話者に比べ、話者の絶対数が少ないため、基本的にテレビ番組や映画などのメディアのコンテンツが母語に吹き替えられずにオリジナルの英語のまま放映されているようですが、そうして英語に触れる機会がドイツ語話者よりも多いスウェーデンとオランダ人の平均英語能力は、ドイツ語話者のそれよりも、これまで高いものでした。
現状ではドイツ人は、まだスウェーデンやオランダ人ほど英語力は高くなっていませんが、世代による英語能力の差が近年広がってきており、将来のドイツにおいては、英語ができないことが、現在の文字の読み書きができないのと同様な、社会的に不利な状況を意味する時代になるかもしれないと『ディ・ツァイト 』の記事は最後に予想しています 。
子どもが興味をひくメディアやコンテンツを最大限活用することが効果的という見方は、教育現場でも実感されてきており、近い将来、教育カリキュラムも大幅に改善されることで、さらに、英語力向上に拍車がかかることも予想されます。
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イタリアのドイツ語圏である南チロル地方

スイスのドイツ語圏における外国語学習
一方、同じドイツ語圏でも、スイスのドイツ語圏(スイス居住者の65%が第一言語としてドイツ語を話します。)での事情は、ドイツと事情が少し異なります。スイスでは4ヶ国語の公用語があり、その地域で話すのとは別の公用語を義務教育中の学習が義務付けられおり、ドイツ語圏ではフランス語を学校で勉強しています。他方、スイスでは2004年以降、英語が小学校の必須科目になり、今ではドイツ語圏ではどこでも、フランス語よりも英語を先に学ぶカリキュラムが定着しています。例えばチューリッヒ州では小学校2年から英語、5年生からフランス語の学習がはじまります。
小学校から二つの言語を新たに学ぶことができるのは、非常に恵まれた環境だといえますが、実際にはかなりハードです。とくに現在のスイスでは親が外国出身の人がかなり多く、そのような家庭では、家庭で話す言葉以外に、ドイツ語、フランス語、英語と3カ国語を子供達が学校で学んでいるということになります。このため(予想はされていたことですが)、小学生にとって負担が大きすぎて大変だという意見が教育現場や親からよくあがります。
しかし、具体的に学ぶ言語の数や時間数を減らしたり、後の学年(例えば中学になってから)に移すなど、いざ変更するとなると、またそのことが新たな衝突をうみます。フランス語と英語のどちらをどれだけ減らすのか、なにを優先するのかなど、スイス内でも立場によって意見が大きく割れているためです。
議論に収拾がつかないため、たびたび、この分野の「専門家」として言語学者の意見に注目が集まりますが、これに対して、フリブール大学多言語学科教授のベルテレ氏Raphael Bertheleは、学問が解答できる範囲をではないと警鐘をならします(La Leçon, 26.10.2016)。言語を集中して長く練習すれば、そうでない場合より効果が高いことはこれまでの研究の結果でも認められますが、いつからするのが最適かとか、どのくらいの授業量が効果的かなどの問いには、非常に個人差がありほかの様々な要因が関わるため、これまでの学問的な成果では一概には言えないとし、社会を広く巻き込む言語に関わる議論と学問の間に、一線を引く立場を強調します。
今も、二つの外国語教育をどう両立すべきかについて、政治家や教育専門家を中心とした議論は続行中ですが、ちなみに両方の言語学習を課されている当の生徒たちは、どのように思っているのでしょう。メディアのインタビューや、これまでまわりで聞いた意見から得た印象をまとめてみると、まず英語は、 ドイツの場合と同様、スイスでも余暇で英語のコンテンツに触れる機会がインターネットなどを通じて多いため、「使える」便利な言語という認識が高いようです。そのため勉強のモチベーションもあがり、最終的に語学習得も楽になり、ドイツの若者と同様、プラスのスパイラルにあるようにみえます。一方、フランス語の方は、若者が夢中になるようなデジタル・コンテンツがほとんど充実しておらず、国の公用語といってもドイツ語圏で生活する限りでは、学校の学習時以外に接点がないため、なかなか上達せず、言葉を学ぶことに必然性より負担を感じる傾向が強く、勉強のモチベーションもあがらないという感じのようです。
しかし、若年層全般にとって、フランス語より英語のほうに人気や関心が高く、英語が重要な国際的なコミュニケーションの共通語としてスタンダードになっている時代だからこそ、フランス語習得は、国内のフランス語圏とのコミュニケーションという目的にとどまらず、大きな意味があるという意見もあります。
ちなみにフランス語は、2015年現在7700万から1億1千万人の人が第一言語としており、母語でなくても話せる人をトータルすると2億7千万人になる言語です。話者の数はアフリカを中心に2025年には5億、2050年までには6億5千万人から7億人に増加するとも予想されており、今後も、地域的には限定的されるかもしれませんが世界の共通語の一つとしての地位を今後も維持していくと考えられます。
ほかの隣国ではどこででも英語ができて当たり前の時代に、英語だけでは国際競争のスタート地点にたったにすぎません。そこにさらにフランス語能力という、プラスアルファーをもつことが、スイス国民にとって、大きな特典となるという意見です。
世界のなかのドイツ語
これまで、ドイツ語圏がどう外国語に向かうのかを見てきましたが、ここで見る角度を180度ずらして、世界においてドイツ語がどのように扱われているのかについてみてみたいと思います。

EU中のドイツ語学習

ドイツ語は、現在もEU圏内で最も母語とする人が多い言語です。またドイツ語を母語とするドイツ、オーストリア、スイスなどの国々は、現在経済的にもEUの他の国よりも良好であり、ヨーロッパ経済全体を牽引する役割を果たしています。将来イギリスがEUを脱退すると、経済だけでなく、相対的にドイツ語圏の文化の発信や政治的な影響力がさらに大きくなることが予想されます。
豊かなドイツ語経済圏に惹きつけられるように、近年、ドイツ語学習者が増えています。特に多いのはヨーロッパで、現在940万人のドイツ語学習者がおり、230万人のポーランドを先頭に、ロシアとイギリスが150万人、フランスの百万人と続いています。ドイツの首都ベルリンでは、今年、去年に比べドイツ語検定試験を受ける人が30%増加したといいます。
スペインやギリシアなど地理的にも歴史的にもドイツ語圏と緊密な関係にはなかった南欧の国々でもドイツ語学習者が、最近顕著に増えています。経済不振が続く自国からドイツへわたりチャンスを掴もうとする若者が多いことが主要な理由と考えられます。近年はギリシアが世界で最もドイツ語検定試験を受けた人が多かったという報告もあります。卑近な例ですが、先日オーストリアの田舎のレストランにいた1週間前にオーストリアに着たばかりというスペイン人のウェイターが、ドイツ語がかなり上手で驚きました。ウェイターのような複雑なコミュニケーションが必要ない職種に就く人でも、自国ですでにドイツ語を熱心に学習していたということに、スペインでのドイツ語学習のレベルや熱意の高さがうかがいしれるような気がしました。

世界的なドイツ語学習ブーム

世界全体をみても、ドイツ語を学ぶ外国人は増えているようです。外国語としてドイツ語を学ぶ人は、2010年から5年の間に6割増加し、現在約1500万人と推計されています。特に新興国で学習者が増えており、2015年現在で中国では11万7千人(5年間で2倍に増加)、インドでは15万4千人、ブラジルでは13万4千人です。ほかにもアジア、ラテンアメリカ、アフリカ、中東などでドイツ語学習者が増えているといいます。
学習者で最も多いのが学校の生徒で8割以上を占めています。2008年からは子どもたちの学校でのドイツ語学習を支援するPASCH という特別のプログラムがドイツの国のイニシアティブで導入され、これまで世界120カ国で60万人の生徒がこのプログラムでドイツ語を勉強しています。

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おわりに
いくつの、あるいはどの外国語を習得すべきかについては、場所によって違っても、誰もが母語だけでなく外国語をマスターしようとする風潮は、現在世界的に強くなっており、このような傾向は当面続いていくようにみえます。
とはいえ、事情はどうであれ、外国語の習得は誰にとっても根気のいる大変なことです。かくいうわたし自身もドイツ語を長く勉強してきて、今も落胆することがしょっちゅうありますが、そんな時に思い出すことがあるので、少々突飛な話しですが、最後にご紹介させていただきます。ドイツの著名な精神科医マンフレッド・シュピッツアー氏 Manfred Spitzerによると、2ヶ国語を話す人は、一ヶ国語しか話さない人より平均5〜6年、認知症になるのが遅いといいます。外国語を駆使して考えるというやっかいな作業が、少なくとも脳内を活性化するのに非常に役立つということのようです。(マンフレッド・シュピッツアー氏については、「デジタル・ツールと広がる読書体験」をご参照ください。)。
外国語の勉強を続けていらっしゃる方や、これから勉強しようという方には、外国語を学ぶ苦労が目に見える形ですぐに報われなくても、少なくともご自身の脳内ではその努力が形になってプラスの影響を与えるものなのだとぜひ安心なさって(あるいはそれをとにかく信じることにして)、勉強を続けていただけたらと思います。
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参考サイト
——言語消滅の危機について
Arnfrid Schenk, Da fehlen einem die Worte, Sprachensterben, Zeit Online, 12.9.2013.
——ドイツの英語学習について
Marin Spiewak, Do you speak English? Hell yeah!, Die Zeit online, 27.10.2016.
——スイスの外国語(母語でない公用語を含む)学習について
La Leçon - Frühfranzösisch auf der Probe, Kontext, SRF, 26.10.2016.
Sprachen, swissinfo, 23.8.2016
Christine Scherrer, So läuft der Unterricht von Fremdsprachen in der Schweiz, SRF, 13.5.2015.
Christophe Büchi, Französischunterricht, Vive le français!, NZZ online, 3.7.2016.
Thurgau überdenkt Verschiebung des Französisch-Unterrichts,swissinfo, 1.9.2016.
——世界のドイツ語学習状況について
Boom der Deutschkurse Immer mehr Sprachschulen - aber nicht alle sind seriös, Spielgel Online, 29,6.2016.
Jenni Roth, Deutsch ist geil!, NZZ online, 11.8.2014.
Deutsch liegt weltweit im Trend, Make it in Germany, 13.05.2015.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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地域経済・就労のサイクルに組み込まれた大学 〜オーストリアの大学改革構想とフォアアールベルク専門大学の事例

2016-11-08 [EntryURL]

大学や大学院などの高等教育機関は、その国や地域の学問や文化の重要な担い手であるだけでなく、研究開発によってイノベーションを促進し、高い技術や知識をもつ人材を育成することで、その国や地域の社会や経済に長期的に大きな影響を与えます。このため、どの先進国においても、高等教育政策については常に高い関心が払われ、様々な角度から議論が行われています。しかし意見や議論は多くても、答えを出すのは容易ではないようです。それぞれの国や地域の規模、教育レベル、インフラ、また高等教育に投じる予算によって目標は異なるでしょうし、状況・経過に合わせてその都度目標そのものの見直しや修正もおこなう必要もあるでしょう。

今回は、 オーストリアの高等教育の実情を観察しながら、先進国がこぞって議論している高等教育の将来について一考を加えてみたいと思います。まず、オーストリアの大学の現状と、近く実行される予定の国内の大学制度の見直し構想について概観し、そのあとは国家レベルの議論を離れ、フォアアールベルク専門大学という大学に注目してみます。フォアアールベルク専門大学は設立から4半世紀の比較的新しい大学ですが、独自の大学のスタイルを確立して成功している好例といえます。この大学を例に、大学の在り方やその可能性を具体的に考えてみたいと思います。

オーストリアの大学制度

オーストリアには、ほかのヨーロッパ諸国同様、エリートのための高等教育の場として機能してきた「総合大学 Universität 」の長い伝統があります。他方、1990年以降は「専門大学Fachhochchule」という新たなジャンルの大学が、ドイツ語圏(ドイツ、オーストリア、スイス)で広く配置されていくようになりました。「専門大学 」は、技術を学ぶ専門学校として各地にあった技術学校から発展した実践的で専門性の高い高等教育機関です。英語の「 University of Applied Sciences(応用大学)」に相当し、学部と修士過程だけで、博士課程はありませんが、当初より、公式には総合大学と同等の高等教育機関という位置付けがされてきました。

ほかのOECD諸国と同様に、オーストリアでも高学歴化が進んでおり、大学への入学者数がここ数十年で顕著に増加しました。特に増えているのが、大学のなかでも専門大学ではなく総合大学への入学で、2002年から2016年までの間に総合大学に在籍する大学生数は20万から30万9千人と54%増加しています。首都にあるウィーン大学一校だけでも、9万2千人の学生が在籍しています。これは、オーストリアで6番目に大きい都市 Klagenfurt am Wörtherseeの全人口である8万7千人よりも多い数です。

他方、専門大学が設置されて4半世紀を経た現在においても、オーストリアでは、専門大学への入学数はあまり増えていません 。これは同時期から、同様の専門大学を設置し、順調に学生数を増やしてきたスイスやドイツのバイエルン州とは対照的です。スイスやバイエルンでは、学生の3分の1が、総合大学ではなく専門大学に在籍していますが、オーストリアの専門大学学生数は全学生数35万人の13%にとどまっています 。

増え続ける学生を総合大学が一手に引き受けるという状況は、限界にきており、総合大学と専門大学の不均衡(学生数だけでなく、対象とする学問領域や研究予算の割り当てなど)にも疑問の声が上がってきました。このような状況下、国は2017年までに「未来の大学」構想をまとめ、2019年から2021年の間に改革を実施しようとしています。これを受けて、オーストリア国営放送局 (ORF)でも、ウェッブサイト上で、「大学の未来」と題して、見識者の寄稿記事やインタビュー記事の掲載をはじめました。この特集サイトに載っている記事を参考に、改革のポイントを大まかにまとめてみると以下のようになると思います。

総合大学と専門大学の差異化

本来、総合大学は理論、専門大学は実践(実業)を重視した学問を修める場とされてきました。しかし、総合大学は学科を熱心に増設し、専門大学は、従来の学部、修士課程にとどまらず博士過程を作ろうとするなど、オーストリアの大学ではすべての大学がすべてを欲しがる傾向が強いとされます(H. Holzinger)。

このためオーストリアでは実際には、専門大学と総合大学の間で、 差異がはっきりしなくなり、両方が重なって同じことを提供するような無駄もでてきました。このような両者の秩序ない膨張の方向は、大学システム全体にとって望ましくないと考えられ、まず総合大学と専門大学の本来の役割と対象学問分野を明確にすることが、改革の前提とされます。

協力体制の強化

それぞれの大学の役割や分野をはっきりさせた上で、次に、プロジェクトや目的に合わせて積極的に協力体制をとることが重要とされます。これまで、オーストリアではそれぞれの大学の自律性が強く、連携は総合大学、あるいは専門大学同士でも希薄でした。まして、総合大学と専門大学との間の協力体制はほとんどみられません。スイスの大学運営に長く関わり、今年初めからオーストリア学問議会委員長Antonio Loprienoも、オーストリアでは総合大学と専門大学の間の壁が厚いのにおどろいたといいます。しかし、「未来の大学」構想で目指すべきは、そのような分野や大学の壁を取り払い、既得権益に縛られず、体系的な協力体制を築くことであると強調します。同時に、場合によっては特徴や強みを最大限に活かすために、総合大学と専門大学の合併も視野にいれるべきとされます 。

総合大学の学生量の緩和

現在、学生数の過剰な増加で、教育・研究両分野でも機能不全に陥っている総合大学の状況をラディカルに改善するために、学生数が多い経営学や司法試験を目指す法律関連学部を専門大学に移すなど、一部の学科を専門大学に移管する案が有力になってきています。ただし、実際に実施するとなると様々な利害関係が対立することが予想され、どこのどの学科や規模が対象になるかが決まるまでには、しばらく時間がかかるかもしれません。

いずれにせよ、学科や分野の所属(総合大学か応用大学か)の検討は、今回一回限りの話ではなく、今後も、時代の変化に応じてつねに検討していくことが必要でしょう。そのためには、これまでのような硬直した制度ではなく、随時配置を見直せるような柔軟な制度がのぞましいと考えられます。

教育内容の向上と研究の促進

総合大学の学生数を減らすことは、授業や研究の質の向上につながるだけでなく、最終的に国が負担する費用のかなりの軽減にもなります。というのも総合大学を学生一人が卒業するまでにかかる国が負担する費用は、平均8万5千ユーロであるのに対し、専門大学は2万ユーロと、現在大きな差があるためです。オーストリアの総合大学では基本的に学生は、学生運営団体へのわずかな会員費を支払うだけで、学費は個人的に払いませんが、専門大学に入る場合は学費が必要です。

総合大学の学生数が減り、さらに制度的な改革や大学間の協力関係が進展すれば、ほかの教育や研究への予算も充実し、よりよい教育システムや研究環境の整備も可能となるでしょう。

フォアアールベルク専門大学

国家レベルの改革構想はまだ議論の段階ですが、お上の議論をよそに、望ましい大学の形を見出し、すでに軌道にのっていると思われるところがあります。オーストリアの最西端でドイツやスイスに国境を接するフォアアールベルク州の、人口5万人弱のオーストリアで10番目に大きい都市ドルンビルンにあるフォアアールベルク専門大学です。

この大学は、1989年に設立された 工業専門学校 Technikum を前身とし、オーストリアで最初の専門(応用)大学として1994年から大学としてスタートしました。(日本語では「専門大学」「応用大学」あるいは単に「大学」など、色々な呼称が使われることがありますが、ここではフォアアールベルク専門大学という表記を用います。)この大学の特徴を、幾つかのポイントにまとめてみます。

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スイスと国境を接するフォアアールベルク州(この先のライン川を越えるとスイスです)


実業・実践重視の姿勢

まずあげられる特徴は、一貫した実業・実践重視の姿勢です。専門大学であるため、当然といえば当然ですが、その姿勢が徹底しており、特に地元の産業分野における労働市場の需要に合う人材の育成に重きを置いてきました。

フォアアールベルク州には、製造業にたずさわる企業がいまだ多くあり、全就業者の31パーセントが製造業に従事しています。製造業関連のサービス業就業者も合わせると、地域の全就労者の半分以上の52%になります。製造業のジャンルは、家具用特殊金具、ロープウェイ製造、照明光学、繊維など多岐にわたりますが、特殊な高い技術力で、それぞれの専門分野で世界でも名高い企業が多くあります。商品のEU圏への輸出は6割で、ほかは世界中に輸出されており、一人当たりにするとフォアアールベルクからの輸出量は、アメリカや日本よりも多いと言われます。1.6%と現在も堅調な成長をつづけるフォアアールベルクの製造業の将来を担う人材を育成することが、大学設立同時からのゆるぎない大きな目標でした。

就業と学業の間の連続性を重視

また、実業を重視するカリキュラムだけでなく、就業しながらも続けられることに配慮した教育課程が充実しており、学生に就業経験者や就業中の人が多いこともこの大学の特徴です。

フォアアールベルク州では、2015年の時点で51%の半分以上の若者、男子だけでは68%が職業訓練を受けています(ドイツ語圏独特の若者を対象にした職業訓練制度についての詳細は、「スイスの職業訓練制度 〜職業教育への世界的な関心と期待」をご参照ください」。これはオーストリア全体の平均40%よりかなり高い数値であり、職業訓練が今もさかんなスイスの数値にむしろ近い数値です。つまり、オーストリアでは珍しく学歴よりも実業を重んじる伝統が、いまだに強く残っている地域だといえますが、そのような地域的なキャリアの在り方や地域の産業構造を尊重し、地域で将来働く、あるいは現在働いている人たちに、さらに質の高い技術を伝授するために広く門戸を開ことに、大学は重きを置いています。

現在、学生の40%が就業経験者であり、在籍中の学生の40パーセントは、就業しながら大学教育を受けており、大学は、地域経済・就労のサイクルに組み込まれた存在になっているといえるでしょう。

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フォアアールベルク州の職業を紹介・展示するメッセの様子


地元の企業との連携

大学は研究や開発でも地元企業と協力関係を築いてきましたが、2014年秋からは、さらに「デュアル学習Duales Studium」というコースをつくり 、教育課程においても企業と強い連携をとるようになりました。

これは大学の教育課程の一部の実習を地域の有力企業が直接担うというもので、電子工学の学部で導入されました。このコースでは、入学してからの最初の2学期の期間(1年間)は大学で理論を学び、3学期目からは、複数の企業で電気工学、電子工学、情報処理、経営学などのさまざまな分野について実習を通して学ぶことがカリキュラムに組み込まれています。 コース中合計12ヶ月の実習期間があり、 実習期間中は企業に雇用される形をとるため、企業から給料を受け取ることになります。

卒業前から企業と学生を緊密に結びつけるこの新しいコースへの企業への関心は高く、コースの開設と同時に36のフォアアールベルクやスイス、ドイツ、リヒテンシュタインの名高い企業がパートナーとなり、実習の場を提供しています 。企業だけでなく学生にとっても、いくつもの有力な会社で働くという貴重な経験を積むことができ、卒業後の就職にも有利につながるという期待もあり、評価は上々のようです。

大学間の協力関係

今年2016年からは、協力関係を企業だけではなく、他大学にも拡大しました。オーストリアでは大学間の協力・協調関係が乏しく、学生の移動や講義の互換性も、スイスなどに比べかなり難しいとされていましたが、今回協力関係を結んだインスブルック総合大学との間で、将来、研究や講義など広い分野で協力しあうことになりました。講義資料や材料やコース、また教員などの人材も共有・協力することで、内容を充実させるだけでなく、両大学間の学生の移動や講義の受講をしやすくなることが期待されます。

大学への評価

ところで、この州には総合大学が一度も存在しことがありません。歴史的にはアルプスの山あいの貧しい酪農地帯であり、長い間、 学問とは縁が薄い地域でした。産業時代以降、工業化がすすみ、生活は豊かになっていきますが、上述のように今日まで職業訓練の伝統が強く残っており、実業に直接結びつかない総合大学の設立には一度も至りませんでした。そして、そのようなフォアアールベルク州に最初にできた大学が、この専門大学でした。総合大学がないためその発想や制度に縛られることもなく、またオーストリア内部だけでなく、ウィーンよりも地理的にも文化的にもずっと近いドイツのバイエルン州やスイスの状況を参考にしたことが、独自の視点にたった大学の実現をもたらす大きな助けになったと分析する人もいます。

いずれにせよ、地域の産業の積極的な連携姿勢をとりながら、地域の労働市場に見合う高い能力の人材の育成を、人々の就業スタイルを尊重しながらすすめていくこの大学の存在は、地域で高く評価されるだけでなく、すでに地域経済に組み込まれた不可欠の位置にあるといえるでしょう。

それと同時に、実践重視を徹底させたフォアアールベルク専門大学のカリキュラムについては定評があり、特に電子工学と情報処理分野は、複数の外部評価で、オーストリア国内だけでなく、ドイツ語圏内の大学のなかでも上位を占めています。

ちなみに現在のフォアアールベルク州には、この専門大学のほかに教育大学(2007年創立、フェルトキルヒ市)も設置されています。

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フォアアールベルク第二の都市、フェルトキルヒ


ヨーロッパの大学のこれからの形

ヨーロッパでは、この約半世紀の間に大学進学率が著しく上昇してきましたが、この主な理由として、スイスの教育経済学者のヴォルター氏Stefan Wolterはとりわけ以下の二つのことがらをあげています。まず、 1968年以降、機会均等をもとめる声が強くなり、それまでエリート層が独占していた大学が大衆化したこと。また地域によっては、大学の学位をとることが、社会下層の人々にとって、社会での出世を保証するものと考えられる傾向が強くなったことです。しかし、大衆化した大学のレベルは低下し、研究レベルも下がり、結果として、そのような大学で学んだとしても、労働市場に適合した教育が十分に受けられず、そのような学歴志向が強くなったヨーロッパの国々では、熟練した労働力は不足しているのに、青年の失業率が高くなるという悪循環に陥っている国が多くみられるといいます。

今回みてきたフォアアールベルク州の大学においては、大学設立当初から、このような大衆化する大学の動きとは一線をひいた歩みであったようにみえます。大学が立地する地域にあった形の高等教育の在り方として、地域社会や経済に必要な具体的な需要に合わせて、実業分野に重点を置いてきました。結果として、高水準の大学という名声を手にいれだけでなく、研究開発と人材の両面で地域経済活動の潤滑油の役割も果たしてきました。

未来の大学は、これまで以上に色々な形が可能となっていくでしょう。そのなかで、今回みたような地域社会へ重点をシフトさせた大学の在り方も、有望な一つの形となっていくのかもしれません。

参考サイト・文献

——オーストリアの大学制度改正についての議論
Bundesministerium für Wissenschaft, Forschung und Wirtschaft, “Zukunft Hochschule” strategische Ausrichtung von Universitäten und Fachhochschulen, Pressegespräch am 15.02.2016.

Der Zukunft der Hochschulen widmet sich die Konferenz „Differenzierung im Hochschulsystem: Notwendigkeiten, Chancen und Risiken” am 21.10.2016

オーストリア国営放送局がウェッブサイトでまとめている特集「大学の未来」シリーズの記事一覧

Elke Ziegler, Gefragt: Hochschulen mit Profil, science, ORF, 24.10.2016.

ÖH und uniko bezweifeln „billigere FH”, science, ORF, 12.4.2016.

Studenten von Unis an FHs verlagern FH, “Zukunft Hochschule”, science, ORF, 15.02.2016.

Hochschulpolitik, FHs wollen nicht alle Studien anbieten, sceience, ORF (2016年10月30日閲覧)

Uniko will „endlich Taten sehen”, science, ORF, 7.6.2016.

Oliver Vitouch, Unis: „Hier sind Sie goldrichtig”, 19.10.2016.

FHs: Mehr Fächer, weiter praxisnah, Interview mit Helmut Holzinger, science, ORF, 20.10.2016.

Antonio Loprieno, Reiches Angebot, wenig Vernetzung, science, ORF, 18.10.2016.

Welche Fächer abgeglichen werden sollen, science, ORF, 17.8.2016.

——フォアアールベルク州の産業及び職業訓練について
Kein anderes Bundesland hat Zahlen in dieser Größenordnung, Die Wirtschaft, Die Zeitung der Wirtschaftskammer Vorarlberg, 69. Jahrgang, Nr. 41-42, 10.10.2014, S.4.

Andrea Lehky, Lehre: Wie machen das die Vorarlberger?, Die Karriere, Die Presse.com, 18.10.2015, (Print-Ausgabe, 17.10.2015)

Kleines Land, offene Grenzen - weltweit erfolgreich, Thema Vorarlberg, Standpunkte für Wirschaft und Gesellschaft, 6.2.2015.

——フォアアールベルク専門大学について
フォアアールベルク専門大学公式サイト(ドイツ語・英語)

Jobmesse, 2016, FH Vorarlberg, 9.-10.1.2016.

FH Vorarlberg, Wikipedia

Vorarlberger Michael Linhart ist höchster Beamter im Außenministerium, Vorarlberger Online, 2.12.2013.

FH Vorarlberg und Uni Innsbruck wollen Zusammenarbeit verstärken, FH Vorarlberg, Medieninformation, 9.4.2016

——スイスの教育経済学者のヴォルター氏Stefan Wolterへのインタビュー記事
Andrea Sommer, Für Eltern mit Uniabschluss ist eine Berufslehre oft keine Option, Berner Zeitung, Berner Zeitung, 17.09.2014.

——その他(オーストリアについて概観できるサイト)
Das Leben und Arbeiten in Österreich in 2010.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「100 next-era Leaders in Asia 2016-2017」に選出されました

2016-11-01 [EntryURL]

ジャパンタイムズ社の「100 next-era Leaders in Asia 2016-2017」(アジア次の100人の経営者)にネットビジネスの経営者で初めて選出されました。

「100 next-era Leaders in Asia」は毎年、日本・韓国・中国。台湾・フィリピン・ベトナム・ラオス・タイ・インドネシア・シンガポールの経営者の中からジャパンタイムズが選んで発表します。

2010年から続いていて、今までも有名企業や大企業の経営者や著名な人たちも数多く選出されています。
今年は日本から32名選出されました。

ジャパンタイムズ 2016年11月10日号にも掲載されました。

ジャパンタイムス2016年11月10日  100 next-era Leaders in Asia 2016-2017

越境EC・輸出ビジネスの実績や売上高以外に、パイオニアとして長く続けていること、その他の関連活動が評価されました。嬉しかったです。

これからも、「楽せず楽しく」、他の業界からも認められるビジネスモデルの構築と、ネットビジネスのメリットである、個人でも中小企業でも参入できることをアピールして、同時にネット輸出入ビジネスの健全化も図ったいきたいと思います。。


スイスのなかのチベット 〜スイスとチベットの半世紀の交流が育んできたもの

2016-10-31 [EntryURL]

5色の小さな旗がたなびく家屋をみかけたことはありますか? 「モモ」という蒸し料理を知っていますか?もしも、こんな質問をスイスでしたら、両方ともイエス、と応える人がかなり多いと思います。スイスでは、街中でよくタルチョと呼ばれるチベットの特徴的なカラフルな旗飾りをした家屋をみかけますし、モモに代表されるチベット料理も、アジア系のレストランや、 祭りの屋台でたびたび目にします。
一見、地理的にも文化的にもまったく接点がないようにみえる中央アジアの山岳地帯のチベットと西ヨーロッパのど真ん中のスイスの関係は、この半世紀の間に友好的に育まれてきました。その関係がもたらしたものは、旗飾りや食文化といった見える形にとどまらず、変化する時代とともに、スイスのコモンセンスのなかにも、精神性や世界観のような形で静かに溶け込んできたようにみえます。今回はチベットとスイスの間の半世紀に及ぶ関係をふりかえりながら、それによって特にスイス側に生じた変化やその今日的な意味について考えてみたいと思います。
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ヨーロッパで最初に受け入れられたチベット難民

ダライ・ラマ14世が1959年にチベットからインドに亡命すると、まもなくそれに追随するように10万人がチベットを去りました。そのうちもっとも多くの人が向かったのはインドで、約8万人の人が移り住みました。次に多かったのはネパールで、2万人のチベット人が入国します。ただし、当時ネパールには難民としての地位が保障されておらず、ネパールにたどりついてもいつチベットへ送還されるかもわからない状態にあり、物資面でもそこでの難民生活は困難極まる状況でした。そのような状況をみかねたスイス人の地理学者トニー・ハーゲンToni Hagen や赤十字社の働きかけによって、孤児などを中心に、1961年、スイスはヨーロッパの国として最初にチベット難民を受け入れるようになりました。
ただし、スイスはそれまで、アジアからの難民を受け入れた前例がなく、全く異なる文化と地域からの難民を大規模に労働力として受け入れることには、難民滞在許可を出す国側は当初、躊躇があったといいます。しかし、当時スイスは空前の好景気で、様々な工業分野で人出不足が深刻であったことや、 チベットが 大国で異質(共産主義)の隣国の脅威にさらされる「山の民」であるという認識が、戦時中のドイツを前に味わったスイスの歴史に重なり、スイス人の感情に強く訴えるものとなり、受け入れに好意的な世論が形成されていきました。そして1963年には、1000人規模のチベット人難民を受け入れることが決定されました。
スイスにチベット人が入ってくると、それを早速労働力として積極的に受け入れる企業がでてきました。代表的な例が、ヴィンタートゥア近郊の小都市リコン Rikonにある家族経営の金属器機メーカー「クーン・リコン Kuhn Rikon」です。クーン・リコンは、世界でも名高い高性能の圧力釜などを生産する会社ですが、当時国内で十分な労働力が確保するのが難しかったこともあり、チベット人難民の雇用に当初から積極的でした。早速リコンの工場近くに住居も提供され、仕事と住居を得た24人のチベット人たちは、新天地スイスでの生活をスタートさせますが、一部には、アルコール問題など、生活が荒廃していく人たちもでてくるようになりました。このことを深刻に捉えた経営者兄弟の兄であるヘンリ・クーン夫妻Henri und Mathilde Kuhnは、亡命地インドのダライ・ラマ14世を訪ね、そのもとを相談します。するとダライ・ラマ14世は、チベット人の精神的な支えとなるようなチベット仏教の寺院の建設を助言します。
スイスのチベット仏教修道院
助言を受けて、クーン兄弟Henri und Jacques Kuhnは、リコンにチベット仏教の修道院を建設することを決心します。まず財団を設立し、4000平米の土地と建設費のための10万スイスラン相当を寄贈し、21万スイスフランがさらに不足すると、こちらも兄弟が自費で補いました。ダライ・ラマ14世も5人の修道僧と修道院院長の派遣を約束するなど、ヨーロッパ初の修道院建設に全面的に協力します。そしてついに1968年11月、ダライ・ラマ14世を迎えて落成式が執り行われ、今日までアジア以外で唯一無二のチベット仏教の修道院が誕生します。以後、今日まで 1万点の貴重なチベット仏教に関する文書を所蔵するこの修道院は、ダライ・ラマ14世の亡命地であるインド北部のダラムサラを除くと、世界でもっとも重要な チベット仏教の拠点となっています。ただしスイスでは当時、新しい修道院を建設することが法的に禁止されていたため、 4階だてのモダンな外装で、登記上も 「チベット研究所」という名称が使われ、その後法的な規制がなくなったあとも変名せずに、現在にいたっています。(このため以下の文章でも修道院ではなく以下、チベット研究所という名称を用いることにします。)
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文化や宗教を尊重することで成功した社会統合(インテグレーション)
チベット研究所の建設に象徴されるように、チベット人は、スイスに来た早い段階から、リコンを中心にして自分たちの文化や宗教、帰属意識などを尊重される境遇にかなり恵まれて、それをもとにした相互扶助的な共同体組織が形成されていきました。いまでも共同体組織は活発な活動をしており、様々な伝統行事の開催に並行し、スイスの行事にも参加し、新たに来るチベット出身者の面倒も積極的にみています。現在スイスには、5000人ほどのチベット人たちが住んでおり、2世代目、3世代目とスイスで生まれ育った世代が増えてきていますが、スイスに住むチベット人はみな、多かれ少なかれ、このような当初からの文化や宗教の伝承の恩恵にあずかっているといえます。
このような精神的な拠り所の存在やネットワークの力は、当時、新天地スイスに渡った難民たちにとって、インテグレーションの上で大きな役割を果たしました。 同時期のベトナム戦争勃発後、インドシナ半島からボートピープルとしてスイスにきた人々も8千人いましたが 、これらの人々と比べても、苦労や問題が比較的少なく、結果として、スイスの人からも、チベット人は「歓迎すべき難民」(Corinne Buchser, 8.4.2010)として受けいられるようになっていきました。
交流・対話の拠点として
一方、チベット研究所は、当初から仏教の殿堂としてチベット人にとって包括的な精神的、文化的な中心になることだけを目指したわけではありません。東西の文化や学問、人の交流・対話の場ともなることが、これを建設するクーン兄弟の設立した財団の目的でも、ダライ・ラマ14世の強い希望でもありました。施設は一般に立ち入りが認められているだけでなく、誰でも参加できる毎朝の瞑想や、チベット仏教や語学講座が設けられており、併設されている貴重な文書やチベットに関する一般図書を所蔵する図書館についての利用説明会も定期的に行われるなど、西と東を結ぶかけ橋としての地道な活動を続けてきました。
しかしなによりも東西の対話や交流に大きく貢献してきたのは、ダライ・ラマ14世自身でしょう。ダライ・ラマ14世は世界各地をまわり、自ら積極的に異なる文化や地域の間の対話や交流を深める活動を続けてきました。
交流・対話によってチベットからスイスにもたらされたもの
ダライ・ラマ14世は、あるインタビューでスイスにくるのを、「もう一つの故郷に帰ってくるような気持ちthe feeling, coming to the another home 」と言っています(Tagesschau, 12.4.2013)。チベット人が窮地に陥っていた時に、ヨーロッパでも真っ先に助けの手を差し伸べただけでなく、移り住んできたチベット人々のために修道院を建て、チベット人が文化や宗教を大切にして生きることを尊重してくれたスイスという国とスイスの人々に、格別の思いがあるのでしょう。
確かに、スイスとチベットの関係は、スイス人からチベット人への善意や援助という一方向に偏った形でスタートしました。しかし、 その後の関係をよくみると、そのような一方向的な流れだけにとどまらず、スイスにもさまざまな形でチベットからの文化が影響を与えてきたようにみえます。
まず、ダライ・ラマ14世やチベット研究所を通して、チベットの仏教思想から精神的な次元で学べることがあるという見方や、耳を実際に傾ける姿勢が、一般市民の間にも広くみられるようになったことです。遠く離れた東方のチベット仏教指導者が伝えるメッセージは、メディアや講演会を通じ、スイスでここ数十年の間に広く受け入られるようになってきただけでなく、ほかの宗教指導者と比べても、群をぬく圧倒的な知名度と好感度を享受するようになりました。ダライ・ラマ14世が来訪する会場には多くの人が押し寄せ、講演する大会場は有名歌手のコンサートなみに満席となり、ダライ・ラマ14世関連の書籍は、本屋ではいつも平積みされています。
今年の10月中旬の3日間、ダライ・ラマ14世が再びスイスを来訪しましたが、政治の要人が中国との関係悪化を恐れダライ・ラマ14世との公式面会を控えるのとは対照的に、今回も大きく報道され、国民の関心の高さが伺われました。スイスでも最も読まれている無料日刊紙「20 Minute 」のチューリッヒ市会議員はダライ・ラマ14世を歓迎すべきかというアンケートでは800人以上の回答者の約9割が、歓迎すべきだと回答し、ダライ・ラマ14世来訪を圧倒的多数が、好意的に受け止めていることがわかります。
スイスのキリスト教会の状況
このようなダライ・ラマ14世への注目は、スイスのキリスト教会全般の状況と相関関係にあると解釈することも可能でしょう。今日、スイスでは伝統的な宗教であるキリスト教会を離れる人が、急増しています。毎年平均、4万人が教会を脱退しており、特に多いのは大都市です。この数年の間に、バーゼル、ローザンヌ、ジュネーブ、チューリッヒなどの大きな都市ではどこも、キリスト教徒が、都市人口の半分を切るようになりました。
特に、プロテスタント教会からの退会者は多く、1970年ごろはスイス人の二人に一人がプロテスタント信者だったのに対し、1990年には40%、2000年には34%となり、現在プロテスタント信者、スイス在住者の4人一人、全体の25.5%にまで落ち込んでいます。カトリック界は、新しくスイスに移り住んでくる人たちが比較的カトリック教徒のことが多いため、プロテスタント教徒ほどの教徒の急減はありませんが、全人口のなかでのカトリック教徒の占める割合は、2000年の42.3%から、2012年は、38.2 %まで減っています。一方、急増しているのは、特定の宗教に所属しない無宗教の人たちです。現在は、スイスのなかで5人の一人が宗教的に無所属です。
なぜキリスト教離れが進むのかについては、様々な角度から分析や言及が可能かと思いますが、ここでは、長い間ヨーロッパで大きな役割を果たしていたキリスト教が今日、社会全般に存在力、求心力が低下していることだけをおさえておきます。 そして、結果として、ダライ・ラマ14世のメッセージを受け入れる社会の潜在的な受け皿は、これまで以上に大きくなっており、ダライ・ラマ14世の言葉の重みも相対的に重くなってきたと言えると思います。
分断ではなく連帯を強調するメッセージ
具体的にダライ・ラマ14世が具体的につむぐ言葉のメッセージについてみると、内容もすぐれて、今のスイス(やほかの世界各地)の人々に訴えかけるものに聞こえます 。例えば、先月チューリッヒで開催された様々な宗教指導者が集った祈祷会でも、ダライ・ラマ14世が、宗教は人や意見の対立を深め、立場の違う人を分断するのではなく、お互いへの思いやりや寛容さをもち平和に共生するという、共通の目標のために人をつなぎ、連帯させるためのものだと発言しています。
国際社会でも国内の社会でも、社会には出身地域や政治的な方向性、宗教、貧富の差など、いくつかの社会的溝があります。そしてそれらは、なにかをきっかけに深刻な差別や対立へとつながる危険をはらんでおり、世界を眺めると、実際にそれが起因して内戦状態に陥っている地域が残念ながらいくつもあります。今後、負の連鎖から逃れるどころかさらに溝は深まり、暴力的な対立や差別が世界的に広がっていくのではないか 、という漠然とした不安を感じている人が、今日少なくないのではないかと思います。
そのような人たちにとって、その分断や対立を深化させるのではなく、むしろ社会をひとつにまとめていこうという、ダライ・ラマ14世のわかりやすい示唆と前向きのメッセージは 、希望や共感をもたせるものとして、非常に心に響くのではないかと思います。
キリスト教会との関係
耳を傾けているのは、一般市民だけではありません。キリスト教会においても、チベット仏教に歩み寄り、ともに共有価値観を強調する姿勢が近年目立ちます。今回のスイス来訪のきっかけもそうですが、ヨーロッパのキリスト教会自体はここ数十年、積極的にチベット仏教の最高指導者を、平和祈祷会やキリスト教会の年間行事などの教会が主催する集まりに招待しています。特定の宗教や主義に固執せず、宗派を超越した寛容と思いやりを重視するダライ・ラマ14世も、このようなキリスト教会側の柔軟な姿勢を評価しているようで、毎年のようにヨーロッパ各地でキリスト教会や関連団体が企画する会議や集会に参加しています。
それらを鑑みると、短期的に可視化できたり、計測できるような形ではありませんが、お互いの関係を通じて、スイスにいるチベット人だけでなく、スイスの人たちもまた視界が広がり、より柔軟な世界観をもつのにつながってきたと言うことができると思います 。
チベット研究所創立50周年を祝う2018年
リコンのチベット研究所は2018年秋には創立50年になります。ダライ・ラマ14世が、すでに2015年の時点で、 50周年の折に来訪することを自ら決めてチベット研究所に伝えてきたそうです。まだ少し先の話ですが、50周年の祝いは、ダライ・ラマ14世やリコン・クーンの財団が目指し促進してきた、スイスとチベットとの間の文化交流や対話が、 半世紀の間に多くの豊かな実りを結実したという実感を、チベット人だけでなく、スイス人も感じる、喜ばしい節目となるのではないでしょうか。
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参考サイト
——今年10月のダライ・ラマ14世のスイス訪問について
Zwei Stunen anstehen für den Dali Lama, NZZ am Sonntag, S.15, 16.10.2016.
Brigitte Hürlimann, Begeisterung in Zürich. Das Phänomen Dalai Lama, NZZ, 17.10.2016.
Brigitte Hürlimann, Dalai Lama in Zürich, Für den Frieden sind nicht nur die Götter da, NZZ online, 15.10.2016.
Der Stadtrat hat nun doch Zeit für den Dalai Lama, 20 Minute, 11.10.2016.
——スイスにおけるチベット難民の歴史について
Alexander Künzle, Rikon zwischen Riten und Kochtopf, Swissinfo, 26.7.2015.
Exil-Tibeter in der Schweiz „Ihr seid in Europa, ihr seid unsere Hoffnung!”, FAZ, 15.5.2008.
Veröffentlicht: 15.05.2008, 11:10 Uhr
Corinne Buchser, Die Tibeter - erwünschte Flüchtlinge in der Schweiz, Swissinfo, 8.4.2010.
Dorothee Vögeli, Eine Integrationsgeschichte aus den sechziger Jahren. Frau Sprüngli und die Ansiedlung tibetischer Flüchtlinge in Rikon, NZZ online, 14.9.2015.
Benjamin Hämmerle, «Die Lage in Tibet hat sich massiv verschlechtert», Tagesanzeiger, 11.4.2013.
——ダライ・ラマ14世へのインタビュー(英語)
Dalai Lama im Interview mit der Tagesschau, 12.4.2013.
——スイスのダライ・ラマ14世についての報道
Dalai Lama besucht die Schweiz, srf.ch 12.4.2013.
Der Dalai Lama füllt das Hallenstadion wie ein Rockstar - nur leider nützt ihm das nichts, watson.ch, 23.7.2016.
Uwe Justus Wenzel, Der Dalai Lama und der Papst. Weltweisheitslehrer, NZZ online, 6.7.2015.
Nadine A. Brügger, Das Lächeln des Dalai Lama, Basler Zeitung, 6.2.2015.
——スイスのキリスト教会について
Stefan Ehrbar und Fabienne Riklin, Austritte. Schweizer wollen nicht mehr einer Kirche angehören: Kirchen verlieren Mehrheit in den Städten, Schweiz am Sonntag, Aargauer Zeitung, 20.3.2016.
Jedes Jahr laufen der Kirche 40’000 Menschen davon, Tagesanzeiger,29.12.2013.
——チベット研究所について
チベット研究所サイト(ドイツ語、英語)
Petra Kistler, Ein Stück Tibet im Tösstal, Veröffentlicht in der gedruckten Ausgabe der Badischen Zeitung, 3.2.2009.
Richard R. Ernst, Dialog zwischen Ost und West, 2008.
——-マヌエル・バウアーManuel Bauer(4年間ダライ・ラマ14世に同行して写真集を発表したスイス写真家)へのインタビュー
1.1.1.1. Manuel Bauer, wie bist du persönlicher, Fotograf des Dalai Lama geworden?, GLOBETROTTER-MAGAZIN, winter 2009
——他
Johannes Beltz, Wie der Buddhismus in die Schweiz gekommen ist, «Wie der Buddhismus in die Schweiz gekommen ist», Matthias Pfeiffer und Kuno Schmidt (eds.), Blickpunkt 3, Religion und Kultur, Sekundarstufe 1, Schülerbuch, Zürich: Lehrmittelverlag, pp. 150-152.

Tibeter Sonam Dhakpa, «Dann schiessen sie, ohne zu fragen», Freiburger Nachrichten
, 12.04.2013.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


デジタル時代の博物館 〜博物館の特性を活かした新しい在り方を求めて

2016-10-23 [EntryURL]

秋も深まり、日本でも博物館や美術館を訪れる方が多い季節かと思います。前回の記事( 「ミュージアム・パス 〜スイスで好評の全国博物館フリー・パス制 」)で、スイスでは博物館が共同するイベントやミュージアム・パスの普及により、近年博物館を訪れる人が増加していることをお伝えしましたが、もちろん、博物館や美術館自身も、来訪者数を増やしたり、来訪者の層を広げるため、色々な新しい試みや工夫をしています。そして、従来型の展示方法とその保護に重点が置かれる紋切り型の展示とは対照的な、新しい展示方法や、内容、新たなサービスが現れてきました。また、これらに並行して、博物館や美術館のイメージや社会的な意義が変化し、学際的な重要性も高まってきているように思われます。
今回は、そのような、ヨーロッパの博物館や美術館全体にみられる新しい試みや変化について、いくつか紹介してみたいと思います。(以下では、前回の記事同様、特定のテーマや目的で展示・公開されている鑑賞や観察を目的とした美術館や博物館などの公共施設の総称として「博物館」と表記しています。ご了承ください)
視覚以外の感覚の活用
具体的に博物館の新しい展示方法や工夫をみていく前に 、まず、今日の博物館が置かれている状況を確認してみます。
様々なコンテンツが自宅や移動中に入手できるのが当たり前のデジタル化時代において、とりわけ、人々が簡単に鑑賞できるものはなんでしょう。視覚・聴覚的なコンテンツです。一方、博物館の展示で主になっているものは、なんでしょう。これもまた、視覚的なコンテンツです。博物館の展示物は、オリジナル、立体的な複雑さ、規模などの特別性はありますが、視覚的なコンテンツであることに変わりはなく、その意味では、博物館の展示品とデジタル・コンテンツとの間で明確な差異は認識されにくくなります。結果として、わざわざ博物館に足を運ぶ必然性も感じられにくくなります。
一方、この論理を逆転させれば、つまり、デジタル化が進んでも手に入りにくいものを、博物館で提示することができれば、ほかのデジタル・メディアとの差異が明確になり、博物館の存在意義が高まることになります。もちろん、博物館が単に入館者を増やそうとするために、結果として展示の質が下がったり、内容の多様性が大きく制限されるようではこまりますが、デジタル時代の博物館の場が最大限活かされるような展示を意識することは、決して間違った方向ではないのではないかと思います。
嗅覚と展示
実際に、デジタル・コンテンツが追随できない、従来の展示とは全く異なる内容の実験的な展示が、昨年と今年、複数の博物館で開催されました。一つは、様々なにおいを提示するという、嗅覚を全面に押し出した展示で、 バーゼルとチューリッヒの博物館で開催されました。
ドイツの嗅覚研究第一人者ハット教授によると、人が嗅ぎ分けられるにおいの種類は、視覚や聴覚で区別できる種類の数よりもはるかに多いといいます。また、嗅覚によって記憶される記憶は、数十年後にも、おなじにおいいをかぐことで記憶がよびさまされるというほど、脳裏に深く刻まれそうです。 このように人の感覚と優れて深い関係をもつ嗅覚ですが、視覚や聴覚的よりもはるかに、生成や再現が難しいため、これまでそれを応用、利用した文化活動は非常に限られていました。しかし、近年、嗅覚のしくみを解明する研究が目覚ましく進んでおり(詳細は、「嗅覚を活用した産業、ビジネス、医療 〜ドイツの最新嗅覚研究からの示唆」をご覧ください)、ビジネスや医療分野だけでなく、今後博物館のような文化活動分野でも利用、応用範囲が格段に広がる可能性があります。
例えば、展示室に視覚的な展示物と並んでにおいを配置することで、展示物の鑑賞に、独特の印象や、特定の記憶と結びつくような印象を与えることができるでしょう。保存・復元された歴史的な屋内や屋外の博物館の空間においても、家具や調度品、あるいは建造物を並べて訪問者に鑑賞させるだけでなく、歴史的に特有だったなんらかの香りを放つことで、歴史的な趣をより印象的に伝えることができるかもしれません。
触覚と展示
触覚も、現状のデジタル・コンテンツで、ユーザーが享受不可能な重要な感覚です。ヨーロッパで唯一のハプティック研究所を率いるドイツのグルンヴァルト教授は、視覚に偏って依拠する現代社会においては全般に、 触覚はなおざりにされており、便利なデジタル機器の普及により、多様なものに触れる機会や頻度も減っていると言います。(詳細は、「ハプティック・デザイン 〜触覚を重視した新たなデザインの志向」をご覧ください。)
このような状況を逆手にとって、博物館で触るのはこれまで原則禁止でしたが、触覚によって確かめられるような対象物を博物館が積極的に置くようにすれば、博物館は、ここでも、デジタル・コンテンツとの差異をつくることができ、博物館の意義を確保することができます。
そのような意図が直接、特別展の直接の契機になったかは不明ですが、昨年、スイス有数のデザイン博物館では、「触ってください!」という、文字通り展示物を触ることを全面に押し出す特別展がありました。触覚という感覚をいろいろな角度から喚起・意識させる展示物で構成された特別展は、比較的小規模であったにも関わらず、博物館の展示として斬新な試みであったためか、メディアでも大きく取り上げられていました。
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見ないで様々な形と材質の物に触る体験。(「触ってください!」の展示会場で)

触るものとほかの展示を合わせることでも、展示物を視覚的に観察することでは味わえない体感が加わり、展示効果を高めることも可能でしょう。例えば、ヴィンタートゥアの産業博物館でのクレイ・アニメについての今夏の展示では、さまざまな作品ビデオや実際のアニメで使われたモデルの展示と並び、クレイアニメの材料として優れた材質である工作用粘土 を来訪者が自分でこねて作品を作ることができるコーナーが設けられていました。このようなコーナーを設けたことで、クレイの材質感を実感でき、展示内容が格段わかりやすくなったと言えます。
見た眼の印象と触った感じの違いを楽しむといった、視覚と触覚のギャップをつくった作品の鑑賞も、デジタル・メディアにはできない博物館ならではの醍醐味になるかもしれません。
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クレイ・アニメの粘土を実際に触ることのできるコーナー

体験型
現在、テーマパークは世界的に非常に高い人気を誇っており、集客の原動力として、観光業界でも大きく注目されています(詳しくは、「世界屈指の観光地の悩み 〜 町のテーマパーク化とそれを防ぐテーマパーク計画 」をご覧ください)。通常の展示のように一方向からだけではなく 、来訪者の体を取り囲む全方向から情報や刺激が送られてくるテーマパークには、確かに圧倒される独特の迫力があり、博物館の展示よりも強い臨場感や一体感が「体験」できることが多くあります。博物館の限られた空間で、街や自然風景のような大掛かりな演出をすることはできませんし、博物館とテーマパークとは基本的に役割が異なりますが、そのようなテーマパークでの訪問者(受容側)の「体験」を重視する演出を、部分的に取り入れることは可能です。
実際、「体験」効果を意識した展示を部分的に導入することが、ヨーロッパの博物館でも増えてきているように思われます。「体験」型の展示は、特に現代からは想像しにくい異なる時代や地域の生活や状況について、直感的に理解するのに優れ、( 極端な印象や、効果が過剰にならないよう配慮すれば)子どもなど、展示への予備知識が乏しい人に興味をもたせたり、ぐっと引きつけるのに最適です。
体験型を全面に出した展示で人気を集めている博物館の一つが、オーストリアの首都ウィーンの「タイム・トラベル・ウィーン」です。 ウィーンの歴史を即席で学ぶことを目指した新しい博物館で、施設そのものが中世から続くワインセラーであり、独特の雰囲気を放っていますが、その施設内にいくつかの時代を象徴する体験型の展示部屋を配置しています。例えばその一つの、当時そこに実際あったものを一部再現した防空壕では、小さな換気口がスクリーンとなっていて戦時中の様子が轟音とともに映し出され、戦時中の状況や防空壕での心細さを、わずかな時間ではありますが、文章の説明や当時の写真よりも、強く追体験することができるようになっています。
この博物館の1時間足らずの早足のガイド付きツアーでは、歴史の詳細を知ることはとうていできませんが、外国からの観光客や 家族連れが、当地の歴史を知る足がかりとしてはちょうどよいようで、人気急上昇中です。世界有数の博物館激戦区であるウィーン市内で、2012年のオープン以降、順調に入館者数を増やし、昨年は入館者数17万5千人 と、ウィーンの年間入館者数トップ20位にくいこみました。
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ウィーンの博物館「タイム・トラベル・ウィーン」


博物館の多様なガイド・サービス

ここまで、展示の手法に関する新しい試みや傾向についてみてきましたが、最後に、博物館側のガイド・サービスにおいての新しい動きについて紹介します。博物館入館者を対象にしたガイドや、それをインスタントにまとめたオーディオ・ガイドは、これまでかなり普及してきましたが、そのようなスタンダード・ガイドに加え、 年齢や需要に合わせた特別のガイド・サービスが、近年、非常に発達してきています。
まず、多いのが子どもや家族向けのガイドです。博物館の展示は普通、子どもには多すぎて退屈してしまうか、自分が興味をひかれることがたとえあったとしてもそれを見つけることは簡単ではありません。まして、館内で自力で情報を読み取り理解することもできません。そのため、子どもたちは、長い間、一般の博物館では重要な来訪者とは捉えられてきませんでした。しかし近年は、既存の博物館で子どものためのコーナーを設けるところや、子どもに特化した博物館をつくるところもでてきました。そのような特別のスペースをつくらない博物館でも、積極的に子どもや子ども連れの家族を対象にしたガイドを開催し、子どもたちにとって博物館に親しみやすくなるよう努めるところが増えています。
子どもたちのためのガイドは、具体的に一般の大人向けとどう違うのでしょう。 スイスのヴィンタートゥアの4〜8歳向けのワークショプ付きガイドの内容を例として紹介してみます。まず、専門の学芸員に付き添われ博物館のひとつの作品について、時代背景や作家の生い立ちを織り交ぜた解説を聞きます。(学芸員によると、一つの作品に集中するのが、この年齢層の鑑賞方法としては適切なのだそうです)。作品を前にした学芸員とのやりとりでインスピレーショを得た子どもたちは、その後博物館内のワークショップ用のアトリエに移動し、絵画やねんどなど毎回異なる材料やテーマをもらって、自分の作品として形にしながら、作品で得たインスピレーションを発展させます。この全行程の所要時間は約1時間半から2時間で、親の同伴が不要なため、親自身にとっても、しばしの間、展示を静かに鑑賞したり、博物館カフェでくつろげる時間ともなり好評です。ほかにも博物館はそれぞれ、学校の学年に応じた特別ガイドやワークショップを毎年企画し、学校の課外学習の場を提供しており、年間を通じて、児童は何度か異なるテーマや課題のために、博物館を訪問するのが、恒例となっています。
数年前からは、ドイツやイタリアを中心にしたヨーロッパ各地で、認知症の人のための新たな博物館ガイドもスタートしました。スイスで最初に認知症の方のためのガイド・サービスを提供し始めた博物館の一つであるヴィンタートゥアの自然博物館では、来訪者は、周辺に生息する野鳥の声を聞いたり、鳥や小動物の剥製に手を触ることができます。博物館を訪れる方には、過去によく耳にしたり目にした鳥や動物に博物館の中で再会することで、記憶がよみがえって、それを嬉しそうに話し出す方も多いそうで、認知症の人に対し、博物館という施設が、かけがえのない環境を提供していると言えるでしょう。
このように、対象を特化したガイド・サービスの充実させることで、これまで博物館に縁の薄かった人たちを、博物館を利用・鑑賞にいざなうことができれば、博物館側にとっては、新しい顧客の獲得であり、博物館の重要性が社会的に広く認知されることにもつながるでしょう。
おわりに
長らく、利用者に合わせるというより、博物館が「博物館らしく」不動の存在としてあることが博物館の存在意義のように思われる時代が続いてきましたが、デジタル技術の高度な発達という時代的な変化は、博物館に大きな変化を迫っています。
しかしそれは、ただ画一的に、一時的にちやほやされるデジタル最先端の技術を導入するような常套手段に安易に頼るということとは限らないでしょう。むしろ、従来のやり方や在り方にこだわらず、発想を少し自由にして、訪問者の需要や関心に寄り添って博物館にしかない、できないような展示内容を考えたり、ほかの博物館との協力を追求することによって、博物館らしい新たな可能性が掘り起こされていく のではないかと思います。
博物館にとっては大変な時代の幕開けなのでしょうが、 一般市民にとっては、博物館は、今後、ほかでは代替し難い刺激に満ちたおもしろい場所となっていくのかもしれません。
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<参考サイト>
——嗅覚に関する特別展(スイス、バーゼルとチューリッヒ)について
Belle Haleine - Der Duft der Kunst, Museum Tinguely, 11. Februar - 17. Mai 2015
Übler Gestank in Zürcher Ausstellung. Das Museum Kulturama zeigt, wie es war, als Shampoo und Unterhose noch nicht erfunden waren. Schnuppern auf eigenes Risiko, Tagesanzeiger, 28.9.2016.
Rita Angelone,100 Gerüche im Kulturama: Ein Paradies für Schnuppernasen, Die Angelones, 30.9.2016.
——美術館Schaudepot の特別展「触ってください!」(チューリッヒ)ついて
Bitte berühren!, Schaudepot, 27.11.2015 - 20.03.2016
Bitte berühren: Eine Ausstellung über und für den Tastsinn, Kulturplaz, SRF, 16.12.2015.
Paulina Szczesniak, Mit frischem Blick auf alltägliche Dinge, 25.11.2015.
——産業博物館のクレイ・アニメの特別展(スイス、ヴィンタートゥア)について
http://gewerbemuseum.ch/ausstellungen/aktuell/detailansicht/gmwausstellung/plot-in-plastilin/?no_cache=1
——博物館「タイム・トラベル・ウィーン」(オーストリア、ウィーン)について
Wiener Geschichte im Schnelldurchlauf , ORF.at, 14.05.2012
David Rennert, 5D-Erlebniskino bietet fragwürdige Zeitreise für Touristen durch Wien, 13.3.2013.
——子どものためのワークショプ付き博物館ガイド(スイス、ヴィンタートゥア)について
http://museumoskarreinhart.ch/de/sehen/demnaechst.html
——認知症の方のための博物館訪問(ドイツ、スイスほか)について
«Aufgeweckte Kunst-Geschichten» - Menschen mit Demenz auf Entdeckungsreise im Museum(2016年10月15日閲覧)
Führungen für Menschen mit Demenz, Winterthurer Zeitung, 16.09.2015.
Kleiner Leitfaden für einen Museumsbesuch mit Menschen mit Demenz (2016年10月1日閲覧)

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ミュージアム・パス 〜スイスで好評の全国博物館フリー・パス制度

2016-10-16 [EntryURL]

映画館よりも来場数が多いスイスの博物館
スイスでは、博物館に行く人が増えています。2014年スイスでは2080万人が博物館に行っており、この総数は映画館の総入場者数(1480万人)よりも圧倒的に多い数です。(ちなみに以下の記事の「博物館Museum」には、日本語で一般的な「博物館」だけでなく、美術館、植物園、動物園、古城なども含まれています。今回扱った資料の多くで、特定のテーマや目的で展示・公開されている鑑賞・観察を目的とした公共施設が、一括して「博物館」として扱われていたためですので、あらかじめご了承ください。)
特に2010年代に入ってからその増加が顕著で、スイス在住者で、1年で少なくとも一回以上博物館を訪れた人の割合は2010年に人口の46%だったのに対し、わずか4年後の2014年には59%になっています。年間4カ所以上の博物館に行く人も、2004年には13%だったが、2015年18%に増えました。スイス在住の人だけでなく、海外からスイスの博物館に来る人も近年急増しています。特に2015年は、前年比で外国人の博物館入館者数が1.5倍増加しました。過去10年に、200の新しい博物館もオープンしています。
インターネットで多様なコンテンツがいつでも簡単に入手、閲覧できる時代において、なぜスイスでは博物館に行く人が増えているのでしょうか?とりわけ外国人にとっては、物価が世界一高い国とされるスイスで博物館に行くの経済的に負担が大きいはずなのに、なぜ外国人の入場者数が急増しているのでしょう?
博物館が開催するイベント
スイス全体の博物館入館数が近年増えている理由は、大きく二つあると考えられます。それは、全国の博物館が共同して毎年開催しているイベントと、博物館にまつわる新しい制度の普及です。
全国的に博物館が共同して開催するイベントは二つあります。一つは、国際博物館の日と世界的に定められている5月18日に近い日曜日の一日を、国際博物館の日にちなんで、無料で博物館に入館できる日として門戸を開けるイベントです。 イベントに参加する博物館は年々増える傾向にあり、今年はスイスの250博物館が参加しました。
二つ目は、博物館の開館時間を大幅に延長して夜中まで博物館を訪れるようにするイベントです。普段は5時に閉館する町の博物館が、夏の週末の一夜だけ、一斉に深夜の12時や1時まで開館時間を延長し、開館中博物館の間ではシャトルバスも運行して、博物館のはしごもできるようにします。付近のカフェなども夜中まで営業するなど、町ぐるみで盛り上がる恒例行事でもあります。20年前にベルリンではじまった企画でしたが、夜の街の広域が会場となる一大イベントとしてその後、ヨーロッパの都市の間で急速に広がってきました。 5月から9月の間、各地でこのような催しものが開かれています。
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夜のリートベルク美術館Museum Rietberg(チューリッヒ)

全国共通のミュージアム・パスの誕生
このような大型イベントと並行して、年間を通じて博物館への動員数を底上げするのに貢献しているのが「ミュージアム・パス」という制度です。これは、ミュージアム・パスというものを入手すると、その後1年間あるいは恒常的に、この制度に参加している博物館のどこにでも何度でも行くことができるというフリー・パス制度です。1996年に、博物館や文化の振興のためミュージアム・パス財団が設立され、新たな博物館入館のツールとして、スイス全土でスタートしました。
今年でちょうどこの制度が導入されてから20年たちましたが、この間、ミュージアム・パスの発行数に並行して、パスを使った博物館入場者数も劇的に増加してきました。昨年2015年は、このパスを使った博物館入場者総数は80万人以上で、2004年の2倍以上となっています。これまでに174万のミュージアム・パスが発行されており、昨年2015年の発行数は前年比で5.7%増えています。ミュージアム・パスの収益も昨年は800万スイスフランにまで達しています。
ただし、ミュージアム・パスがはじまった1996年当初からこのように順調にいっていたわけではありません。全国の博物館を対象にするミュージアム・パスというアイデアは、スイスだけでなく、ヨーロッパでも前代未聞であったため(ちなみに特定の都市や地域での数日間に限られたミュージアム入館パスのようなものは、観光促進の目的で各地でみられます。)最初は博物館側も参加に消極的で、初年にミュージアム・パスの制度に参加した博物館は150館だけでした。利用者の数もふるわず、初年は、3万程度という販売予想をはるかに下回る3000ほどのパスしか販売されませんでした。
ライフアイゼンバンクの協賛
しかし2000年からライフアイゼンバンクReiffeisenbankという銀行が、ミュージアム・パス財団のパートナーとなると、状況が好転していきます。まず、それまでミュージアム・パスは、1年有効期限のパスを購買するという形でしか入手できなかったのですが(ちなみに2016年現在、年間パス代金は166スイスフランです)、ライフアイゼンバンクがパートナーになったことで、この銀行の特定のクレジットカート保有者は、自動的に自分のクレジットカードを、ミュージアム・パスとして使えるようになりました。なんの手続きもいらずに、ただ通常のクレジットカードを博物館入口で提示するだけで、無料で入館できるようになったのです。
ライフアイゼンバンクは、スイスで100年以上の歴史をもつ銀行であるのと同時に、協同組合です。協同組合という立場から、組合員の文化的な福利厚生の貢献や文化や地域経済の振興にもつながると考え、ミュージアム・パスを支援するようになりました。(ちなみにスイスではライフアイゼンバンクに限らず、協同組合という形態が今でも根強い支持されており、市場でも重要な役割を果たしている協同組合がいくつもあります。詳細は、「協同組合というビジネスモデル」をご参照ください。)
ミュージアム・パスのカード化
顧客に無料でミュージアム・パスを配布するという前代未聞の福利厚生策が講じられたことによって、銀行の顧客の一部である40万人が一挙にパス所持者になりました。その後、さらに銀行のデビットカードもミュージアム・パスとして有効となり、ミュージアム・パスの利用者数が拡大していきます。 カード所有者一人につき16歳未満の5人の子ども(親戚関係にない子どもにも有効です)も、無料でいっしょに入館することができます。このような簡単で便利な制度を利用し、2015年までに、銀行の兼用パスで53万人が博物館に入館したといいます。
ライフアイゼンバンクの銀行経営にとっても、ミュージアム・パスとの提携は、メリットをもたらしました。新規の顧客の獲得です。パートナー関係がはじまって15年たった2015年においても、博物館パスを兼ねる銀行カードの新規発行数は、前年より5.8%増えています。マイナス金利時代が続き、新規の顧客獲得で苦戦する銀行が多いなかで、ライフアイゼンバンクにとってはミュージアム・パスという特典が、顧客をひきつける重要な武器のひとつになっているようです。
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ヴィンタートゥア美術館 Kunstmuseum

広がる協力関係
ライフアイゼンバンクがミュージアム・パス事業に参入し、ミュージアム・パス保持者が増えてきたところで、これまでミュージアム・パスに猜疑的であった博物館の間に変化がみられるようになります。 これまで参加を躊躇していた博物館が態度を一転して、むしろ積極的に参加するようになったのです。この結果、現在はスイス全国で500近い博物館が、ミュージアム・パス事業に参加しており、パスを見せれば無料で入館することができるようになりました。小国スイスにおいて500という博物館の数は非常に大きな数であり、わずかな例外を除き、ほとんどの全国の主要な博物館に、ミュージアム・パスで無料入館できるようになりました。
ミュージアム・パスの威力は、実際に博物館にいくと実感できます。わたしもパスの愛用者の一人ですが、 一言でいえば、博物館の敷居が低くなったとでも言うのでしょうか。子連れ世代にとっては週末の気軽な行楽として楽しめますし、シニア世代にとっては、博物館が、出費を気にしない気晴らしの楽しみにも、街中へ出かけるきっかけともなるでしょう。自分に気に入るか事前にはよくわからない展示内容でも、無料なので躊躇なく、ちょっと立ち寄る気になれます。ミュージアム・パスは家族連れやシニア世代はもちろん、すべての人にとって、気軽に博物館に立ち寄れる機会を作ってくれているように思います。
さらに、ライフアイゼンバンクだけでなく、ミュージアム・パスとパートナーとの提携に関心をもつ企業も増えていきました。一つは、スイスの国鉄です。国鉄がパートナーとなったことで、各駅の切符売り場でミュージアム・パスの購入が可能となり、売り場の数が一挙に増えました。売り場が増え、鉄道の切符と合わせて購入できるという便利さも増したことで、国鉄切符売り場でのミュージアム・パスの売り上げは、その後順調に伸びていきます。現在では、購買されるミュージアム・パスの半分以上の62%が、スイスの国鉄の販売所で売られています。国鉄はさらに、ミュージアム・パスをみせると、鉄道旅行も1割になるという実験的なサービスを行ったところ、これも好評で、現在この実験的なサービスは延長継続されています。
また、スイスの国鉄や観光局によって設立されたスイス・トラベル・システムという会社も、ミュージアム・パスの提携パートナーとなりました。スイス・トラベル・システムは、スイス・トラベル・パスというスイス国内の主な鉄道、湖船、バスを通用期間内乗り放題できるという公共交通パスを販売していますが、2005年から、この鉄道パスをミュージアム・パスとしても有効にすることにしました。つまり、この鉄道パスを購入した外国人旅行客は、パスの有効期間中(期間は3日、4日、8日、15日の4種類の中から選べます)、ミュージアム・パスの対象となる博物館にすべて無料で入館できるようになりました。
物価の高いスイスで、博物館が無料でみられるという特典は、海外からの旅行客にとっても非常に魅力的なようで、トラベル・パスでの博物館入館も好調です。例えば、2006年のミュージアム・パス使用は55万人で、前年比で48%増えましたが、この5割近い増加は、トラベル・パスを利用した外国人の来訪によるところが大きかったと分析されています。また、2015年のスイス・トラベル・パス販売数は、25万枚でしたが、これを利用して前年比で7.4%増の17万の博物館入館がありました。
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外国からの観光客が最も多く訪れるレマン湖畔の古城博物館「シヨン城Château de Chillon」
出典: Schweizer Museumpass, Verband der Museen der Schweiz, Kultur-GA weiterhin auf Erfolgskurs. Schweizer Museumspass: Erfolgsgeschichte seit 20 Jahren, Medienmitteilung 23. 6. 2016, S.4.

もちろん、ミュージアム・パスの導入によって最も恩恵を得ているのは、博物館です。入場者が右上がりに増えて行くのに並行して、ミュージアム・パス財団の収益がどのようなしくみで博物館に還元されているのか詳細は明らかされていませんが、2015年は、720万スイスフランが博物館全体に支払われたといいます。これは前年比で2.2%ほど多い金額でした。
スイスの博物館をめぐる環境や制度から思うこと
豊富や情報や多様な娯楽が家でも楽しめる時代において、ハコモノの博物館の環境は厳しく、 集客力を保持するのは大変なことです。このような逆境下ではじまった、毎年大勢が訪れる夜の延長開館や無料入館日などの博物館のイベントや、ヨーロッパ唯一の博物館の広範なネットワークをつくったミュージアム・パスの歩みには、いくつか参考になることがあるように思います。
それは、単に、イベントやミュージアム・パスに類似する制度を導入するか否かというレベルのことだけではなく、例えば、零細で規模が小さい博物館のようなものであっても、同業者同士が提携・協力することで、サービスに新たな付加価値を生み出す可能性があるということ。さらに周辺の関連産業とリンク・提携することによって、訪問者に使いやすい魅力的なサービスを新たに作り出せたこと。そして、それらが連綿と広がることによって、これまで縁のなかった潜在的なユーザーや、海外からも人を動員させる全く新しいネットワークにまで発展させられたことなどは、分野やレベルを問わずビジネス・コンセプトとして、好例を示しているのではないかと思います。
同様に、前代未聞のミュージアム・パス事業がスタートしたものの状況が思わしくなかった時期に、決定的な役割を果たしたのが、協同組合の銀行であったことも、非常に意味深く思われます。経済的な採算を過剰に重視することも、逆に文化に偏重するあまり運営が困難に陥ることも避け、文化と経済の両面のバランスをとることが肝心な博物館という難しい業界を相手にし、協同組合という独自のスタンスからテコ入れしたことで、事業が軌道にのる転機となりました。長年にわたって地域や人々の間に育まれてきたライフアイゼンバンクへの信頼感や、組合員の福利厚生や地域全体の振興という協同組合の原点にある思想が、個々の博物館や関連産業に、お互いへの不信感や孤立化ではなく、共通の目的を持たせ、連携や協力への気運を高めるきっかけになったと言ったら言い過ぎでしょうか。
なにはともあれ、ミュージアム・パスは、スイスの博物館を訪れる誰にとっても、抜群の優れものです。スイスにご旅行の際には、ミュージアム・パスの特典がつく鉄道チケットのスイス・トラベル・パスをつかって、ぜひスイスの博物館を堪能なさってみてはいかがでしょうか。
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参考文献・サイト
—-スイスのミュージアム・パスについて
Schweizer Museumpass
166スイスフラン(年間)
Reiffeisenbank Museum

Reiffeisenbank-Blog, Geschichte über Menschen, Geld und die Schweiz,
“Ich mag tolle Geschichten und das Eintauchen in eine neue Welt”
, 9.11.2015.
Museumpass, Medienmitteilung4. Februar 2016
Schweizer Museumpass, Verband der Museen der Schweiz, Kultur-GA weiterhin auf Erfolgskurs. Schweizer Museumspass: Erfolgsgeschichte seit 20 Jahren, Medienmitteilung 23. 6.2016.
Der Museumspass feiert Geburtstag, Swiss Info, 13.3.2007.
Der Museumspass wird immer beliebter, Volksblatt.Li, 23.6.2016.
Dominik Heitz, Basler Museen künden Vertrag, Basler Zeitung, 4.9.2010.
—-スイスの博物館について
Venessa Simon, Wollen wir ins Kino oder ins Museum?, Tagesanzeiger, 25.05.2016.
Julia Stephan, Schweizer Museen sind europäische Spitze, Schweizer am Sonntag, 28. Juni 2014.
Elias Kopf, Ins Museum? - Zur Kasse, bitte!, K-Tipp, 9/2005, 4.5.2005.
Verband der Museen der Schweiz, Museumsbesuche in der Schweiz. Statistischer Bericht 2013.
Lange Nacht des Museums, Wikipedia.
Miriam Glass, Museumspass: Deutsche expandieren in die Schweiz - das ärgert die Basler, Schweiz am Sonntag, Basellandschaftliche Zeitung, 18.8.2013.
—-スイス・トラベル・パスについて
http://www.myswitzerland.com/ja/swiss-travel-pass.html

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


スイス人の就労最前線 〜パートタイム勤務の人気と社会への影響

2016-10-07 [EntryURL]

職業上の新たな「自由」
私たちの社会で認められている「自由」には、言論の自由、宗教の自由、居住移転の自由などいろいろあり、職業選択の自由もその一つですが、近年のスイスでは、職業に関して、どこで何をして働くかだけではなく、一週間の仕事量や時間を決めるという、もう一つの職業の「自由」が強く意識・要望されてきているようです。それが何よりよくあらわれていると思うのが、近年のパートタイム勤務の急増です。1994年からの20年でパートタイム勤務は8.5%増加し、現在は全就労者の36%、女性では10人に6人、男性では10人のうち1.6人がパートタイム勤務です。パートタイム勤務は一般の社員の間で増えているだけでなく、管理職にまで広がってきており、今日スイスは、ヨーロッパで最もパート勤務が多い国と言われています。
近年、先進国では、ワーク・ライフ・バランスという言葉がよく聞かれ、仕事量を減らす就労の在り方にも注目が集まっていますが、今回は、パートタイム化が進むスイス社会について、普及してきた背景や、パート勤務の具体的な形、またパートタイム化により社会で生まれてきた新たな問題にも目を向けながら、詳しくご紹介したいと思います。
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就労割合を選ぶ働き方
ところで、スイスのパートタイム勤務は、日本で同じ言葉で思い浮かべるものとは若干異なるので、最初に簡単に概要を説明しておきます。スイスではパートタイムは、一週間分の仕事時間量を100%とし、そのうちの30%や80%など、部分的に勤務すると理解されることが多く 、一般的に時間給で不規則に働くのではなく、規則的に働く就業形態をさします。規則的な就労として、産休や病気の時も賃金支払いの継続も認められ、年間最低4週間の休暇も法律で保障されています。パート勤務の賃金は、業種や会社によって異なりますが、ヨーロッパ全般に正社員の賃金の平均7−8割という比較的高水準に保たれており、パート勤務でも経済的にも社会保障の面でも大きなデメリットが感じられないことが、スイスでパート勤務が好まれる大きな理由といえそうです。(ただし実際に問題がないわけではありません。例えば、スイスの雇用均等推進機関は、就労パーセンテージが少ないと将来年金生活に入った後に厳しいと経済状況に陥る可能性があると警鐘を鳴らし、最低70%は働くようによびかけています。)
具体的にどんな理由でパートタイム勤務を選ぶことが多いのか、主要なものを三つあげてみます。
-自分の勉強のため
前回の記事「スイスの職業訓練制度 〜職業教育への世界的な関心と期待」で詳しく触れましたが、就労しながらさらなるキャリアップのための勉強をしている人が、スイスにはかなりいます。このような人たちにとってパートタイムという就労の仕方は、大変人気があります。
-ほかの仕事と兼業している
パートタイムという就業形態で複数の仕事についている人もたびたびみかけます。職業情報センターの職員の話では、スイス人は若くから職業教育が始まるため、平均して3種類の職業資格をもっているそうです。このため、自分のライフステージに合わせて仕事を選択したり変更するだけでなく、パートタイムという形で複数の仕事を同時並行して続けたい人も一定数いるようです。一つの仕事では時間数が少ないため、別の仕事もかけもっている人もいるでしょう。例えば、歯科衛生士で保育士、学童保育師で老人ホームの介護福祉士、公立中学校の校長で民間企業の経営者といった、兼業パターンの方に私も会ったことがあります。
-家庭の仕事(家事、育児、介護など)との両立のため
パートタイムをする人で最も多いのが母親であり、パートタイムの理由として一番多いのは、家庭と仕事の両立のためと考えられます。2014年のスイスの統計調査では、子どもが6歳以下のスイスの母親のうち27%が専業主婦、61%がパート社員で、100%働いている人はわずか13%です。20年余り前の1992年においては子どもが6歳以下の母親の56.4%が専業主婦、33.8%がパート社員、100%働いている人は9.8%であり、就労する女性はこの20年で2倍弱と、かなり増えていることがわかりますが、内実をみると100%の就労者数はほとんど増えておらず、圧倒的にパートタイムとしての就労が増加したことがわかります。
母親にパートタイムが多いのには、外的な理由と内的(心理)的な理由があります。外的な理由は、預けると端的にお金がかかりすぎるためです。託児所への公的な援助が少ないため、子ども一人を1日預けると100スイスフラン(日本円で1万円以上)ほどかかるのが一般的で、チューリッヒの都心部では150スイスフランもかかるところもあります。このため子ども一人でも託児所に週5日間預けると相当の額になります。スウェーデンでは、親が働いているか否かを問わず、子どもが1歳から就学前に預ける場所があり、80%以上の子どもがそこに入っているといいますから、同じヨーロッパでも幼児を抱える親の環境はかなり異なり、なかでもスカンジナビアとはスイスは対極に位置しているといえるでしょう。
しかし、母親が100%働かないのは外的理由だけでなく、スカンジナビアやフランスではかなり前から解消されているとされる、心理的な理由によるところも大きいと考えられます 。家族の役割分担の考え方や、子どもや家族のために家にいることをよしとする伝統的な考えが今も潜在意識に残っており、 100%就業することへの(母)親自身にある抵抗や躊躇です。このため、経済的に託児所に預けることが可能でも、片親や両親がパートタイム勤務をし、週のうち数日だけ子どもを預けるパターンもたびたびみられます。
ちなみに女性だけでなく、男性でも、パートタイムを希望する人は年々増えてきており、1994年から2014年の間に男性の間でもパートタイムが8%から16%と2倍に増加しました。特にこの傾向は若い世代に強くみられます。
パートタイム就労を可能にする恵まれた環境
ところで、子どもが大きくなっても、パートタイムから100%に割合を引き上げる女性は多くありません。2012年の25歳以下の子どもをもつ母親で100%働いているのは17%にとどまっており、圧倒的多数の61%がパートタイム勤務です。このことは、子供が小さいため第三者に委ねたくない、あるいはあずけるのが高額で割りに合わないからなどの理由では説明できません。一体どういうことなのでしょうか。
「パートタイムで働くことは、多くの人が好んで身につけたいと思うラベルのひとつになった」(Thier,6.7.2015)と昨年のスイスの主要な日刊新聞NZZの記事では説明されています。女性は、仕事をするかしないかを選択できる自由を、1960年代以降徐々に獲得してきましたが、今日においては、仕事と家庭のうちの一つを選び取る自由にあきたらず、どちらも手に入れるという新たな選択肢への要望が強くなっており、それを実現するための手段として、パートタイム勤務の人気が高まってきたということのようです。そして、100%働くのでも、専業主婦になるのでもなく、パートタイムが選択できるということが、「女性、特に子どもを持つ母親にとっては、自由な女性の生き方 の象徴(原文を文字通り訳すと「解放の象徴」)になっている」といいます。
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また、パートタイム勤務をするいうことは、別の言い方をすれば、すべての人に当てはまるわけではありませんが多くの場合、100%働かなくてもいい経済的に豊かな状態であるともいえ、それが社会的な現象となるということは、なにより社会全体が豊かであることの証といえるかもしれません。
パートタイム勤務が生み出す社会的な問題
ここまで読まれて、生活に困らないなら、なにも100%働く必要ないはないし、ワーク・ライフ・バランスもよくなって、万々歳じゃないか、と思われる方も多いかもしれません。実際、そのようにパートタイム勤務を是とする風潮が着実に浸透してきており、若い人の間では就職する前の学生時代から、稼ぎより時間を大切にし、パートタイムを最初から所望する傾向が顕著だといいます。しかし、パートタイムは、それをする当人にはよくても、その人数が特定の分野で増大することで、社会全体のマクロな側面においては、全く新たな問題を生み出しています。
昨年、ちょっとした物議を醸す発言がありました。NZZ 誌の日曜版にのせられた、ベルン大学教授で著名な経済学者のヴォルター氏Stefan Wolterの提言です。氏は、教育への投資に対してどれくらい収益をもたらすかを考える経済学の「教育の収益率」という概念を社会全体に適応し、高等教育の収益率を計算しました。その結果、高学歴者のパートタイム化が進んできており、国や州が高等教育を受ける大学生のために負担した費用に対して十分な収益がとれていないことを問題視し、卒業後働かないあるいは働く割合が少ない人には、なんらかの形で返済義務を課すべきではないかと提言しました。
確かに、高学歴者の間でパートタイム勤務は高い人気です。2013年、修士課程卒業の3分の1の人が100%で働いていません。2007から2013年までの間に、90〜100%働いている人の割合は、70から65.5%に下がっており、逆に50〜90%働く人は26.6%から30%にあがっています。2014年現在、女性で大卒の5万人が専業主婦をしており、その数は過去10年で2倍に増加しています。(ただしこれは、スイス独自の特殊な状況のようです。ほかのヨーロッパの国では共稼でないと生活できないことが多いと言われます。)高等教育に籍を置く学生数をみると、近年の傾向として女性のほうが多くなっており(2014年、男性6828人に対し、女性は7534人)、大卒などの高学歴の女性のパート勤務の人数は、今後もさらに増えると予想されます。
高等教育の費用は本人も一部は負担しますが、大部分は国や州が負担しています。大学5年間で勉強する一人の学生に対して、国や州は平均して、11万5000スイスフラン払っており、医学においては、一人の医師を養成するためには、その10倍以上の120万スイスフランの費用を支払っています。ヴォルター氏によると、高等教育修了者の就労が50〜60パーセント代まで減ると、社会の教育収益率は負に転落するといいます。
経済学者の提言自体は、スイス社会には急進的すぎたようで、政治家からの支持も得られず、一見、一過性の騒ぎだけで終わったかのようにみえます。他方、この発言に限らず、近年、女性の解放を象徴する華やかなイメージのパートタイムの裏の側面、パートタイム化する社会が直面する問題の断片がメディアで指摘されるようになってきており、社会全体においてメリットとデメリットの両面をもつパートタイム就労の全貌が徐々に明らかになってきました。
まず、一部の産業部門の人員不足の深刻化です。その最たる例は医師で、日曜新聞Schweiz am Sonntagで取り上げられた調査によると、100%働いていない医者は全体の3分の2になるといい、医師が大幅に足りない状態が続いています。すでにスイスでは毎年、外国から2000人の医師を新たに外国から入れていますが、これは近隣諸国の医者不足につながる危険がありますし、スイスでも去年可決された移民の人数を制限する国民投票(「大量移民イニシアティブ」と呼ばれるもの)の結果、今後外国から大量に医師を入れること自体が難しくなることも考えられます。来年からスイスでは新しく医学部の受け入れ学生数を現在年間900人から1300人に増やす予定ですが、100%働くよう医師を強制できない以上、実際にどのくらいの医師が実働労働力として供給されるのは不明です。高齢化が進むスイス社会で医師不足は、文字通り死活問題であり、パートタイム勤務が常態化する医師界の窮地を今度どう切り抜けていくかは、医療界だけでなく社会全体に関わる課題です。
労働力不足は教育界でも顕著です。特に女性が教職を占める割合が圧倒的に多い小学校では、パートタイム勤務が常態化しており、必要な数の教師を自分の学校に雇い入れることは、毎年、校長の最大のミッション(任務)といっても過言ではないでしょう。
また、パートタイム勤務が広がることで、新たな社会の差異化、階層化にもつながるという危惧もでています。例えば、近年、金融業界でもパートタイムが増えています。もともとこの業界は基本給が高く、80%働くだけで十分生活できるといわれており、医学界同様に、パートタイム勤務に拍車がかかってきているようです。このため、経済力があり100%働く必要がないため時間に余裕ができる就業者層と、生活が厳しいため就労時間が減らないあるいはさらに増える就業者層といったふうに、 就労者の間で、非就労時間の量をめぐって、階層化、分極化が今後進むのかもしれません 。
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それでも、アングロサクソンの国々のように自らが教育に投資しているのなら(アングロサクソンの国々では高等教育は自腹ですが、大陸ヨーロッパでは、高等教育の機会の平等を確保するため、費用の全額あるいは大部分を国や州が負担するのが一般的です)ある意味で公平かもしれません。しかし高等教育の費用の大部分を公的に援助してもらいながら、そこで得た高度な技術を100%の就業という形で社会に十分還元するかわりに、少ない割合のパートタイムをするかあるいはまったく就業しないで、自分の利害を優先するのが、 社会において果たして公平なのか、と言われると、それも一理あるような気がしてきます。
このようにパートタイム全盛期のスイスでは、その恩恵を多くの人が享受している一方、パートタイム化が進む社会の課題や新たな問題も、また、どこよりも鮮明にみえてきています。
しかしこれらの問題がみえてきたといっても、パートタイム大国スイスにおいて、パート勤務自体を減らしたほうがいいという社会的な合意はなく、むしろトレンドは逆向きです。もし何らかの措置や対策をとるとしても、パートタイム勤務者がなぜ100%で働かない、あるいは働けないのには、社会制度や環境、健康、私的な理由など多様なレベルの個々の事情が長期・短期で絡んでおり、どの理由は認め、なには認めないのかの線引きは非常に難しそうですし、かといって、そもそもパートタイムをめぐる公平さとは何なのか、と議論をはじめると、意見はかなり割れて、着地点がなかなか見えそうにありません。
とはいえ、パートタイム化の進行に並行して、新たに出てくる難問や社会の疑問に対しても、パートタイム先進国らしく、自ら解答や社会的合意を模索することも、これからのスイスの重要な課題になっていくでしょう。
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参考文献・サイト
——スイスの女性の働き方について
Als Frau das Wort zu greifen, bleibt ein Risiko, Interview mit Franziska Schutzbach. In: Migros Magazin, Nr.39, 26.9.2016, S.36-40.
Nicole Anliker, Emanzipierte Rebenmütter, NZZ, 14.15. Sept. 2013.
Hausfrau und Mutter zu sein, ist meist keine Entscheidung fürs Leben, Iterview mit Andrea Maihofer, Migros Magazin, Nr.36, 2.9.2013, S.97.
Nicht alle Familien sitzen im selben Boot,Migros Magazin Nr.46,11.11.2013, S.16-21.
Nicole Althaus,Das Vergessene Kapital der Emanzipation, Bücher am Sonntag, NZZ am Sonntag, Nr.3, 27.3.2016.
——経済学者 Stefan Wolter の発言について
Jenni Thier, Wohlstandsproblem Teilzeitarbeit. Falsche Anreize bei Bildungsfinanzierung, NZZ, 6.7.2015.
Wer nach der Uni Teilzeit arbeitet, soll zahlen, 20 Minute, 7.7.2015.
Michèle Midmer, «Studierten Hausfrauen eine Rechnung zu schicken, ist falsch», Tagesanzeiger, 7.10.2014.
«Ohne Anreize funktioniert es wohl nicht». Interview von Jenni Their, mit Bildungsökonom Wössmann über Bildungsrenditen, 6.7.2015.
——医学界のパートタイム就労について
Steigender Ärztemangel: Junge Mediziner wollen nur noch Teilzeit arbeiten, Aargauer Zeitung, 13.10.2013.
Anja Burri, Verteilkampf ums Medizinstudium, Tagesanzeiger, 4.2.2016.
——金融・銀行業界でのパートタイム就労の人気
Banker arbeiten immer häufiger Teilzeit, 20 Minute, 3.8.2016.
——パートタイム就業者の将来的な(老後の)問題
Für eine sichere Altersvorsoge mindestens 70 Prozent arbeiten, 9.6.2016.
Teilzeitarbeit. Die Uhr tickt - Sorgen Sie frühzeitig vor, Beobachter, 29.2.2016.
——その他
Teilzeitarbeit. Keine Angestellten zweiter Klasse, 16.10.2015.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振
興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


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