ブログ記事一覧

公共放送の近い将来 〜消滅?縮小?新しい形?

2020-03-15 [EntryURL]

公共放送に未来はあるのか?

前回(「ヨーロッパの公共放送の今 〜世界的に共通する状況とローカルな政界との関係」)では、公共放送をめぐる現状についてメディア環境の変化と、政治との関係からみてみましたが、今回は、今後の公共放送の存続の可能性について、具体的に少し考えてみたいと思います。

国の公共放送という枠組みを超える?

ところで、前回に言及したイギリスのBBCの一連の話をきいた際、一瞬、奇妙な感覚を覚えました。BBCの運命が、たった一国、イギリスの政権が握っているという事実にです。考えてみれば当たり前のことであるのに、それに違和感を感じるほど、BBCは、イギリス一国だけでなく、ほかの国々に親しまれている放送局なのだと思います。

そこで逆に考えてみます。公共放送は、どこの国でも、現在、そこの国民の受信料や税金でまかなわれるしくみですが、このような経済的な基盤やしくみを、現代に適応させて改変していくことはできないのでしょうか。

もちろん、第一に、自国の人々が必要とする情報を報道する義務をもつ報道機関であるという位置付けに、全く異論はありません。しかし、知名度と信頼をほこる高品質のメディアの代名詞であるBBCのようなであれば、それこそ、それを享受したいとするほかの国の人々からも経済的な支援を期待することはできないのでしょうか。

例えば、『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』といったアメリカの新聞は、ニューヨークやワシントンの住民の購読料だけでもっているわけではなく、今日、アメリカ国内のほかの州や、また国外にも多くの購読者をもっています。これらの新聞は、アメリカ社会や、国際社会でのアメリカのポジションを理解したいと思う人、また、国際社会に通じる最先端の動向をアメリカのなかに読み取りたいとする人など、世界中の別の国の人たちから購読されています。

ドイツ語圏の新聞でも、国内だけでなく国外の人によく読まれているものがあります。ドイツの週間新聞『ディ・ツァイト Die Zeit』やスイスの日刊紙『ノイエ・チュリヒャー・ツァイトゥンクNeue Zürcher Zeitung』はその代表的なもので、ドイツ語圏の国々に共通する問題意識をもち、かつ相対的な見地で論評することができること、また、当国の経済や産業との利害関係が希薄な立ち位置であることなどを強みにして、国内のメディアとはまた違う立ち位置から問題に鋭く切り込むことを売りにし、国外購読者層を獲得しています。

『ニューヨークタイムズ』や『ディ・ツァイト』を国外の人で、わざわざ読みたいという人がいるように、イギリス以外の人々、実に世界中の人々で、ぜひ視聴したというのなら、その人たちを、巻き込んで、課金するしくみを新たに作ることはできないのでしょうか。

デジタルメディアの時代は、(国の規制が働かない限り)国境を超えてさまざまなメディアにアクセスできるのが特徴であり、公共放送も、その地の利(国境がないデジタルメディアの環境)を最大限活用し、視聴の代償(視聴料)を求めるしくみに転換することも、ひとつの生き残りの可能性ではないのかと思います。

国外にも視聴者を増やすことは、単なる財源確保の問題にとどまらず、国際社会でのその国の役割を考える上でも大きな貢献を果たすはずです。その国の人や社会への理解者を増やしたり、国際社会での存在感を高めるため、また、共通の新しい議論や理解をつみあげていくために、公共放送のような中立的なソフトパワーは、今度の時代においても、ある一定の有効性を発揮すると考えられます(「カルチュラル・セキュリティ 〜グローバル時代のソフトな安全保障」)。そういう意味では、公共放送が、広義の外交や安全保障のための重要なキャピタルでありツールでもあるという点を、政権も国民も、十分に理解し、改めてそれへの自覚や責任をもつこともまた、重要でしょう。


Museum für Gestaltung Zürich

デジタル武装した公共放送の新しい形

また、これまでの公共放送の在り方から逸脱すること、どこまでこれまでのハードウェアをぬぎ捨て、新たな形、デジタル武装した形に変革できるか、ということは、今後の公共放送の可能性を考える上で、重要なキーになるかもしれません。というのも、テレビやラジオという旧来の公共放送がたよりにしていたメディアツール自体の利用が減っているのは歴然とした事実であるためです。

端的にスイスの例をあげてみます。先述した国民投票の結果は、受信料制度の廃止に反対する人が多数(71.6%)を占め、従来通り受信料をとって公共放送が運営されることに落ち着きはしましたが、同時に、大幅な受信料の減額も実施されることになりました、

予算を削減しなくてはならないし、既存のメディアであるラジオやテレビ離れする人をさらにいかにつなぎとめるという大きな課題もあるというわけで、存続する土台は一応保証されたものの、いまも、ある意味で、変わらず、公共放送は苦境にたっているといえます。そのような状況にあって、これまでの形にこだわらず、内実をとることに徹したストラテジーが、近年、目立ってきました。つまり、つまり視聴の形でなく、視聴のされかた(なるべく多くの人に、なるべく長く多く利用してもらう)に焦点を絞った、コンテンツの配信に精をだしています。

ユーチューブ・チャンネルの活用
そのひとつが、ユーチューブ・チャンネルのフル活用です。独自のコンテンツが視聴できるホームページもありますが、それと並行して、2007年はじめから、ユーチューブのチャンネルを開設しました。ユーチューブというチャンネルにも配信ツールを拡大することで、若者を中心に、より多くの人にアクセスしようとしています。

2018年のユーチューブでの公共放送ビデオのクリック回数は850万回で、1日に換算すると23万3000回になり、視聴された時間をみると、年間で3億5400万分になりました。これを1日になおすと16160時間公共放送の内容がユーチューブで視聴されたことになります。これは、前年比で22%の増加であり、ユーチューブを通した視聴は好調に伸びてることになります(「若者の目につくところに公共放送あり 〜スイスの公共放送の最新戦略」)。

「聴く」メディアの重点化
もともとラジオは、西ヨーロッパでは、テレビよりも長い時間利用されるメディアとして親しまれてきました。少し前のデータですが、2014年のシュトゥットガルト新聞によると、ドイツ人の5人に4人がラジオを聞いており、聴取時間は1日平均4時間でした。時間的に長く利用されるだけでなく、ヨーロッパでは、テレビや紙面のコンテンツよりも、ラジオのほうが(なぜか)その内容を信用できるものだと考える人が多くなっています(EBU, 2016)。

このようなヨーロッパ人のラジオ習慣の素地をいかして、公共放送は、無理に、競合相手が多い視覚中心のコンテンツにこだわらず、ラジオに慣れ親しんだ人たちをターゲットにしぼり、コンテンツを使いやすく充実させることは、ひとつの有力な可能性であるかもしれません。

実際に、スイスの公共放送もその可能性をはやくから追求し、ポッドキャストでのコンテンツの普及に力を入れており、いくつかのコンテンツは、安定軌道にのったかのようにみえます。その代表がスイスのラジオのニュース番組「時代のエコー(こだま)」(ドイツ語)で、ポッドキャストで月間25万回ダウンロードされているといいます(「聴覚メディアの最前線 〜ドイツ語圏のラジオ聴取習慣とポッドキャストの可能性」)。

ほかにも、ニュースのコンテンツに、従来型のニュースとは一味違うエッセンス、たとえば、建設的ジャーナリズムのようなアプローチを試すのも、ほかのニュースソースから差異化するためのキーになるかもしれません(建設的ジャーナリズムについては「公共メディアの役割 〜フェイクニュースに強い情報インフラ」)。

話は少しずれますが、紙という媒体の情報の媒介を仕事としていた図書館という施設も、今、デジタル媒体が主となる時代をむかえて、存続の危機的な状況にあります。これまでのように、本の貸し出しだけでは、地域社会で存続する意義が弱くなりつつあるためです。換言すれば、この危機を切り抜けるのに、あくまで、紙という媒体の貸し出し業務というこれまでの業務にこだわるか、それとも、違う可能性を模索するのか、岐路にたっているといえるかもしれません。

一概にどちらが正しいというような話ではなく、それぞれの図書館が地域の需要に合わせて新たに取り組んでゆかなければならない課題でしょうが、図書館によっては、本や情報媒体にこだわることをやめ、全く新しい、公共施設の新たな役割を模索するほうに舵をとるところもでてきました。例えばスイスのヴィンタートゥーア市立中央図書館は、人と人をつなげる出会いの場所や、共に学ぶ場としての役割、また住民のデジタルリテラシー全般の向上につとめるサービス業務、あるいは小学校と連携し、教室の拡張のような役割を積極的に受け持つなど、自ら新しい機能を付加させようと模索している、スイスでもパイオニア的な存在です(「デジタル・リテラシーと図書館 〜スイスの公立図書館最新事情」)

公共放送にとっても、過去の慣例や組織としてのしがらみにとわれず、またほかのメディア環境と共存しうる新しい在り方、ビジョンを模索することは、必要十分条件ではないですが、必須条件であるに違いないでしょう。


Museum für Gestaltung Zürich

公共放送の強み

2018 年10月、韓国のソウルで開催された国際公共放送会議(PBI)では、このような差し迫った公共放送の問題について、世界の公共放送担当者らが一堂に会し、基調講演でBBCのトニー・ホール会長は、「公共放送の強みとして」以下のような3 つの点を挙げ、「こうした強みを生かしてチャンスをつかもうと呼びかけ」たといいます(田中、2019、99−100頁。以下の内容も、同文献からの引用)。

■健全な民主主義のための公共放送
信用できるニュース・情報はますます見つけにくくなっています。健全な民主主義のために,公共メディアの正確性と独立性の原則がこれまで以上に重要です。

■自国の社会・文化を反映し,地元に貢献する公共放送
公共メディアは,自国の文化を映す責任と能力を持っています。ここ数年,世界市場でコンテンツが爆発的に増加し,視聴者は世界中からコンテンツを得られますが,それらは必ずしも自分のコミュニティー,国,文化を反映したものではありません。

■分断される視聴者をつなぐ公共放送
公共メディアは,人々を結びつける重要な役割を担っています。今年の初め,BBCは世界の人々の4分の3以上が,自国がますます分断されていると思っているとの世論調査結果を発表しました。ソーシャルメディアはその傾向を悪化させています。だからこそ,公共メディアの使命であるユニバーサルサービスの提供がより重要です

ホールは同時に、「ヨーロッパの公共放送はアメリカのメディア企業に対抗するため,協力を始めて」いることをあげ、「新しいコラボレーション」が新たな時代を切り開くことへの期待を示します(田中、2019年、100頁)。

公共放送がもしもなくなるあるいは大幅に縮小したら?

確かに、ここで指摘されているように、いつもは、当たり前の空気のような存在になって意識しませんが、公共放送は、良質の情報を通して、計り知れないほど、間接的に社会で役割を果たしていることでしょう。それが実際になくなったり、大幅に縮小されたら、状況がどんな風になるのでしょう。少し具体的に考えてみます。

中立的で、公益を重視するメディアが確保されなくなったり、貧弱になったり、入手が困難になれば、適切で十分な情報を得るため、人々は、日々、自分たちでさがし、選択しなくてはならなくなります。それは、どんな感じなのでしょう。

端的に言えば、ほかの商品と同じような選択と消費のプロセスに似てくるでしょう。本でも電気危機でも自転車でも、今日商品として手に入る商品は、非常に多様です。ニュース情報の入手先も、多様な選択肢のなかから、それらのラインアップや広告や影響力をみながら、自分たちで選んでいくことになります。その作業は、ほかの商品を選択する時と同様に、良質なものを選ぼうとしても選べている保証は限りません。特にフリーでアクセスできるものや、検索で単に上位にあがってくるもの、社会の一部の人だけでなりたっているコミュニティのものだけをみていたり、あるいは特定のサイトや人の情報だけをみているのでは、(ジャーナリストや専門家の目が全く行き届かない情報である場合があり)、限定的な視点や、非常に偏った内容、偽情報がまぎれているものを入手してしまう危険があります。

このような状況が日々つもりつもっていき、数年がたつと、どのメディアに依拠して情報を得ているかによって、今以上に、異なる対立的な世論が乱立していくのかもしれません。そして、正当性を主張するそれぞれの世論や意見の、どちらがどれくらい正しいかを図る物差しや基準を成立させること自体も、公共放送の情報がなければ、難しくなるのかもしれません。そうなると、今後は、民主主義的な社会の基盤すらゆるがすことになるかもしれません。民主主義的で均整のとれた判断の前提として、良質の情報は不可欠であるためです。

また、公共放送がなくなれば、世界のどこかの場所の話題やテーマには詳しくなるかもしれません。その一方、経済的にだれの採算にもひっかからない地域や自国の地味な情報は切り捨てられ、まったく、手に入らなくなるかもしれません。そうなると、国民が同じ情報を共有することで自然にうまれるゆるやかな連帯意識や共通の価値観も、保つことが難しくなるでしょう。また、自分が住む地域や国の情報が断片的にしか得られず、それを知る専門家もおらず、自分の体験と印象と直感だけで人々が判断している社会とは、どんな社会なるでしょう。

公共放送についての議論で不可欠なもの

このように考えると、公共放送の今後についての議論で、ひとつ大事な論点が浮かびあがってくる気がします。

それは、このような公共放送をなくすか、あるいは(受信料という経済基盤をとりあげるなどして)大幅に削減する、と決定する際に発生する、具体的な弊害や損失を、なにでどのように補完できるのか、それとも補完しなくてもいいのか、という具体的な問題の詰めの部分です。そこを、綿密に検証・協議しない限り、いくら公共放送について議論しても、内実を伴わない単なるイデオロギー論争にすぎず、いざ実施された時、ただちに「こんなはずじゃなかった」という数々の(想定しない)問題に直面してしまうかもしれません。

例えば、公共放送をサブスクリプション制にすべきかという議論は最近ヨーロッパ各地でよく話題となりますが、メディアの競争原理や経済的側面だけが強調され、具体的な(サブスクリプション制にして公共放送が今と同じようなことが提供できなくなった際にだれがなにをどこまで補完するのかすべきか、という)点は、ほとんど具体的に触れられておらず、うわすべりの議論にとどまっているようにみえます。

スイスの国民投票で問われたのも、公共放送の受信料を廃止し(ほかの課金制度に移行させる)か否かという点だけで、受信料の高さや、その制度がどう民間メディアを圧迫しているかということが大きな問題であり、受信料を廃止した際に実際に公共放送は、内容的にどれだけの損失があり、その社会的影響をどうカバーするのか、あるいはほかのメディアがどう補完するか、という具体的な詰めの部分については、最後まで、廃止賛成論者の話を聞いていても、よくみえてきませんでした。

つまり、公共放送が現在提供するサービスのなにがどのくらい必要か、それを公共放送以外のものが代替できるのかというところをまず考え、そこから、公共放送が必要か否か、サブスクリプションが適切かいなかというのを先に決める、というのが、もっとも議論の順序として妥当であるように思われます。そして、それを議論する際、それぞれの国のなかで、政府やその審議会だけでなく、国民やほかのメディア関係者をまきこんで、具体的に手段や内容を吟味・検討していくのが、一番のぞましい形でしょう。

デジタルテクノロジーやメディア環境はこれからも数年で急激に変化しつづけるのでしょうから、見通しをたてることも、具体的に議論をするということも難しいでしょうが、公共放送が、数年後に、多数の国民が全くのぞんでいなかったような状況になってしまった、ということにならないですむことを祈りたいです。

公共放送はどこにむかっているのでしょう。公共放送の運命はいかに。


Sara. H., Venilia. Montreux biennale 2019 (sarah.ch)

参考文献

Armin Wolf の公式ホームページ

「BBC受信料について与党有力議員、首相官邸に警告」BBC News Japan、2020年02月18日

Cueni, Philipp, Der wahre Geist hinter «No Billag», infosperber, 09. Feb 2018

Daum, Matthias/ Wanner, Aline, No-Billag-Initiative: Ich zahle nur, was ich brauche. In: Zeit Online, 3.2.2018.

Dettwiler, Gabriela, In sozialen Netzwerken zählt nicht die Quelle, sondern der Inhalt. Doch das kann auch eine Chance für die Medien sein, NZZ online, 20.02.2019, 14.48 Uhr

EBU, EBU research shows strong public service media contributes to a healthy democracy, Press Release, published on 08 Aug 2016

EBU, Democrady and PSM. How a Nation’s democratic health relates to the strength of its public service media, MEDIA INTELLIGENCE SERVICE SEPTEMBER 2019

FPÖ vs. ORF:”Die persönlichen Angriffe werden immer heftiger” Dieter Bornemann. Interview von Theresa Hein. In: Süddeutsche Zeitung, 30. April 2019, 10:00 Uhr

小林恭子「BBCの「受信料廃止」はどこまで現実的なのか。問われ始めた有料「公共放送」の存在価値」2020年2月21日

Köppel, Roger, Entwicklung der Schweizer Medienlandschaft, SVP, 27. Januar 2018

中村美子「ヨーロッパの公共放送 ~進む財源制度改革と不透明な未来~」、第27回 JAMCOオンライン国際シンポジウム、2018年12月~2019年3月

中村美子「受信料廃止を決めたデンマーク~新メディア政策協定と公共放送の課題~」『放送研究と調査』Sept, 2018.

Nezik, Ann-Kathrin, Öffentlich-rechtlicher Rundfunk: Wer vertraut ARD und ZDF? , Zeit Online, 25. September 2019, 17:01 Uhr Editiert am 26. September 2019, 10:36 Uhr, DIE ZEIT Nr. 40/2019.

Stadler, Rainer, Öffentliche Medien stärken auch die Privaten, NZZ online, 17.11.2016, 12.00 Uhr

Stellenabbau bei BBC- «Bis jetzt bekam das digitale Publikum wenig Service public», Aus Kultur Akutualität, 4.2.2020, SRF, Mittwoch, 05.02.2020, 08:30 Uhr

Studien zu Medienvertrauen und Glaubwürdigkeit der ARD, ARD, Stand: 06.03.2018, 00.00 Uhr

Surber, Michael, «No Billag» verfing einzig bei SVP-Anhängerschaft. Die Angst vor einem «Sendeschluss» bei der SRG war ausschlaggebend für das Resultat. In: NZZ, 19.04.2018, 10.36 Uhr

田中孝宜「BBC ホール会長の基調講演に見るヨーロッパの公共放送の現況。国際公共放送会議(PBI)報告」

『放送研究と調査』Feb. 2019

450 Stellen weniger bei der BBC. Aus Randez-Vous, 30.1.2020, SRF, News

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


ヨーロッパの公共放送の今 〜世界的に共通する状況とローカルな政界との関係

2020-03-09 [EntryURL]

「BBC、お前もか。」

最近は毎日、新型コロナウィルスの感染関連について、報道されない日はありませんが、みなさんは、ニュースソースとしてどのようなメディアを主に利用しているでしょうか。例えば、検索で「コロナウィルス」、「ニュース」といれてみると、公共放送局や、新聞、雑誌、民間テレビ局、オンラインのニュースポータルサイトなど、さまざまなニュースメディアのニュースがあがってきますが、実際に、そこからニュースを入手しようとする時、なにを基準・理由に、選ぶでしょう。タイトルでしょうか、ニュース発信元でしょうか。それとももっと異なるファクターからでしょうか。

いずれにせよ確かなのは、デイリーニュースに関するものだけでも、今日、多様な発信先があること。裏を返せば、公共放送が、ニュースの主要発信者としての以前のような圧倒的な存在感をもちえなくなった、ということでしょう。

このようなメディア環境の急激な変化を受けて、ヨーロッパでは、公共放送の在り方を改めて問う動きが活発になってきています。その手始めとして、公共放送の受信料という制度を見直す動きが各地で相次いでみられます。2013年にフィンランドで受信料が廃止され公共放送税が導入されたのを皮切りに、デンマークやスウェーデン、ノルウェーでも受信料を廃止し、税金として徴収する制度に移行することが決定、あるいは検討され(中村「ヨーロッパ」)、スイスでは、公共放送の受信料を廃止すべきかが国民投票で問われました。

公共放送の在り方を見直す風潮は、イギリスのBBCにも及んできたようです。受信料を廃止し課金制度にすることや、オンラインサイトの縮小、テレビのチャンネルの削減と61のラジオに関しては大部分を売却するという、これまでの公共放送の在り方を全く覆すような見直し案を、現在イギリス政府が検討中であることが最近、明らかになりました。

BBCは、数ある世界の公共放送のなかでも、知名度でも品質でも最高峰に位置する放送局といえるほどであるにもかかわらず、例外にはならず、ほかの国の公共放送局と同様に、存続の意義を根幹から問われているかと思うと、時代の変化を強く意識させられ、考えさせられます。

今回と次回の記事では、このような、ヨーロッパ全般の公共放送が直面している現状についてドイツ語圏を中心に整理し、そのような状況にあってどんな方向性・可能性があるのかについて、具体的に少し考えてみたいと思います。

公共放送が直面している物理的な問題

今日、存在感が薄くなっているのは公共放送だけではありません。むしろ、新聞社や民放などの民間報道機関のほうが深刻な状況にあるといえるでしょう。ネット上に存在する様々な情報発信源との読者獲得の熾烈な競争を強いられ、報道機関としての影響力が相対的に減少しているだけでなく、有料購読件数や広告収入の減少により、財政基盤が揺らいでいるためです。これに対し、公共放送は、少なくとも、財政面では、受信料という安定した経済的な基盤ゆえ、大きな打撃は受けずにきているわけですが、その「不変」で「安泰」的な在り方がむしろ、現代のメディア環境においては「不自然」であり、変わるべきだ、と考える人もまた、逆に増えているようです。

まず、その多岐にわたる豊富な(批判側からみると、「肥大化しすぎた」)コンテンツの提供の在り方に対して、批判の声があがっています。オンラインの発信が、メディアの主流となりつつある今日、公共放送と、民間の新聞や雑誌、テレビやラジオ局の間の、住み分けは難しいため、そのような圧倒的でコンテンツをもつ公共放送が、民間の報道機関を圧迫し、民間メディアをますます窮地に陥れているのではないか、と批判されます。

それに加え、若者を中心に公共放送の視聴者の減少が深刻であり、歯止めがかからない見通しがたってないという事実も、公共放送の存在を当然のものとみなしていた、これまでの認識をゆるがしています。例えば、2016年のスイスのドイツ語圏では、日々、240万人が視聴していますが(民間放送は140万)、これは2000年と比べると60万人少なくなっており、視聴する人の年齢は顕著に高齢化しています。スイスの公共放送の第一報道局(スイスのテレビ、ラジオのメイン放送局、時事問題を主に扱う)の視聴者の平均年齢は60.8歳です(ちなみにスイス全体の平均年齢は42歳)(「若者の目につくところに公共放送あり 〜スイスの公共放送の最新戦略」)利用者がどんどん減っていて、特に一定の世代にだけ偏重しているのに、「公共の益にかなっている」と正当化することはできない、というのが批判者の主張です。

スイスで、受信料廃止の提案を国民投票にもちこんだ人たちも、テレビ・ラジオ以外にも多くの情報発信源やツールが存在し、それを選択することができる現代において、視聴するしないに関係なく、国民から強制的に受信料を徴収する公共放送の在りかたは理不尽なだけでなく、メディア業界の市場原理(自由な競争)をさまたげている。今後は、公共放送も、受信料を財源とするのでなく、ほかの民間のメディア同様に、広告料や有料サービスを財源として運営されるべきだ、という言説を繰り返しました(「メディアの質は、その国の議論の質を左右する 〜スイスではじまった「メディアクオリティ評価」」)。

このような批判は、今日、受信料に基づく公共放送をもつどこの国でも可能であり、また、どこの国でもこれらの批判点に真っ向から反証するのが難しい状況です。つまり、公共放送は、どこの国も例外なく、窮地に陥っているといえます。

公共放送と国内の政情

と、ここまで中立的な要因をあげてみましたが、公共放送についての最近のヨーロッパの議論をみると、それとはまた少し異なる側面もみえてきます。

公共放送のどこまでの、なにが必要なのか、といったことを声高に提言したり、実際に決めていくのは、通常、公共放送でも、国民ではなく、現行の政権であったり、有力な政治勢力です(スイスだけは例外的に、国民投票という形で、最終的に国民が決める権利を保障されていますが)。そして、それぞれの国の内情に少し分け入ってみていくと、政権や有力な政治勢力が重視することや方針の背後には、公共放送と政治とのそれまで培われていた関係が透けて見えたり、政治的なかけひきや抗争が「公共の利」の大義の下で展開しているようにみえる一面もあります。もちろん、国によって状況はかなり違い、また政情は刻々と日々変わっているので、静態的に決めつけてかかることは危険ですが、スイスとオーストリアの最近の事例をあげてみます。

スイスの場合
先述の受信料廃止の国民投票の結果をみると、廃止に賛成を投じたのは、ほとんど(保守・右派の)国民党支持者だけでした(Surber, 2018)。その国民党の受信料廃止の国民投票への支持をアピールしている公式のページをみると、先ほどの(民間メディアを圧迫し市場競争原理を歪めているといった)言説とは異なる内容も熱心にかかげられていて注目されます。例えば、公共放送は、旧東ドイツにあった「秘密警察」のようであり、フェイクニュースを発明したのはトランプではなく、スイスの公共放送だ、などという非難・罵倒の言葉です (Köppel, 2018)。

これは、受信料という制度とは直接関係がなく、むしろ報道内容に対する批判であり、そこに対して強い不満があることをあらわしています。スイスの国民党では、スイスの公共放送が、親EU派で、左寄りであるという猜疑的な見方が強く、自分たちの政党の言い分を中立的に扱ってもらっていないという不満が根強く、公共放送の弱体化をのぞむ声があり、それが、受信料廃止を国民投票にかけた、主要な理由のひとつであったと考えられます。

オーストリアの場合
オーストリアは、昨年まで極右政党(自由党)が保守党(国民党)との連立政権にはいっていましたが、この自由党も、与党時代に、公共放送の弱体化をあからさまに画策していました。特に、オーストリア公共放送の看板テレビキャスターで、政治家にも鋭い質問でつっこむヴォルフArmin Wolf など何人かの公共放送のジャーナリストを敵視し、ソーシャルメディアなどで激しい批判を繰り広げることが常態化していました。

例えば、自由党党首で同時副首相だったシュトラッヘHeinz-Christian Stracheは、80万人のファンをもつ自身のフェイスブックのアカウントで「オーストリア公共放送は、偽りをニュースにするところだ」というコメントも公然とのせ(FPÖ, 2019)、テレビ受信料も支払っていませんでした(オーストリアでは、ラジオとテレビの受信料を別べつに支払うシステムで、片方だけ払うことが可能となっています)。

ただし、自由党は昨年、自らのスキャンダルで野に下って今日にいたるため(「保守政党と環境政党がさぐる新たなヨーロッパ・モデル 〜オーストリアの新政権に注目するヨーロッパの現状と心理」)、公共放送への政治的圧力を強力に行使することはできくなったようです。現在は、自由党と公共放送の問題は(問題がなくなったわけではないにせよ、社会的な影響力が少ないため)、話題になることもほとんどなくなりました。

改めて、世界で問われている公共放送がどうあるべきか、というオープン・クエスチョン

これらの例は、(従来、政権のプロパガンダを流すなど、国の直接的な関与が強い)国営放送とは一線を置いて、中立な立場からの報道に徹しているはず(べき)の公共放送においても、ふたをあけると、国の政権や政治勢力と、無関係でいることは難しく、政権が、現在、公共放送が苦境にたっている状況を利用し、公共放送への影響力・圧力を強めようと試みた事例ととらえることができるでしょう。

実際には、(スイスの受信料廃止案は国民投票で否決され、オーストリアの自由党は野に下り影響力が減ったため)それらの政党の試みは実現せず、今も、どちらの国でも公共放送は安定的に存続していますが、今後も、公共放送の行方を政権や政治が、大きく握っている状況は、とくに変わっておらず、政権が変わればまた同じような圧力が強まるかもしれません。

イギリスのジョンソン首相の現政権は、BBCとの関係が悪く、昨年の選挙後、いくつかの番組には大臣が一切出るのを拒んでいるといいます(450 Stellen)。今回のBBC改革案の背後にも、政権と折り合いが悪いがために、間接的に、予算や事業の削減・縮小という形で、政治的な圧力をかけられている、という解釈も可能かもしれません。

ただし、そのような政治的な圧力というファクターを過大視することも、逆にほかの社会的な文脈や変化する状況を看過する見解に陥る危険があります。最初にあげたような、メディア全般の危機的な状況がゆるぎなくあることは歴然としており、このようなメディアをめぐる環境の大きな変化を受けて、今後の公共放送がどうあるべきか、というオープン・クエスチョンが、今、切実に問われていることは間違いありません。

次回(「公共放送の近い将来 〜消滅?縮小?新しい形?」)は、このような公共放送をめぐる状況をふまえつつ、今後、公共放送には、どのような可能性が秘められているのかを、具体的に少し考えてみたいと思います。

※参考文献は、次回の記事のあとに一括して表示します。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


数年後の食卓を制するのは、有機畜産肉、植物由来肉、それとも培養肉? 〜新商品がめじろおしの肉関連食品業界

2020-03-04 [EntryURL]

有機畜産の危機

先月、スイスの経済専門ニュース番組で、有機畜産の売り上げが伸び悩んでおり、有機畜産農家が苦境にたたされている、という報道がありました(Eco, 2020)。

有機農業商品への関心は、西ヨーロッパで近年、大変高く、小売で有機農業商品を置いていない店を探すほうが難しいほどです(デラックスなキッチンにエコな食べ物 〜ドイツの最新の食文化事情と社会の深層心理)。これに並行して、特に2010年代以降は、畜産業界の間でも、動物福祉の観点から家畜の飼い方への配慮意識が強まっており(「食事は名前をよばれてから 〜家畜の能力や意欲を考慮する動物福祉」)、持続可能性と動物の福祉の向上の両立をかかげる有機畜産が、ひとつの食品生産の在り方のゴール(達成すべき目標)のようにみられてきたように思います。

このため、有機畜産は、これからも当然、畜産業のメジャー部門にこそならなくても、安定的に存続するのだとわたしも思い込んでいましたが、今回のニュースは、実はそんな単純な話ではなかった現実を示したといえます。

他方、肉関連の食品産業・市場の最新事情から有機畜産のポジションを改めてとらえてみると、有機畜産が苦境に陥っている理由が、容易に理解できます。新しい食品が続々市場に参入し、消費者の行動に新しいダイナミズムが生まれつつあり、そこで拮抗する中で、ひとつの結果が、有機畜産の現状にあらわれているのでしょう。

今回は、スイスの有機畜産が、なぜ窮地にたっているのかを、そのような食品業界の新しい文脈をふまえながら、明らかしてみたいと思います。同時に、スイスに限らず、現在世界同時的に起こっている、肉関連食品産業の地殻変動の状況、またその先の未来像についても、一瞥してみられればと思います。


有機畜産の仔牛肉の割引セール

スイスの有機畜産業

今回のニュースで具体的にとりあげられていたのは、コープという大手小売業者に卸している仔牛肉の有機畜産農家とその商品についてでした。

ところで、スイスでは、コープとミグロという二つの巨大小売業者(二社でスイスの小売市場の6割を占めます)がありますが、どちらも生活組合であり、持続可能性や家畜の福祉の促進のため、これらの分野で一定の高い条件をみたした農作物や酪農食品に、それぞれ独自につくった品質保証のラベル(マーク)をつけて販売してきました。有機畜産食品もその一部として、同じラベルを関して店頭にならんでいます(コープとミグロについては「スイスとグローバリゼーション 〜生協週刊誌という生活密着型メディアの役割」、「バナナでつながっている世界 〜フェアートレードとバナナ危機」)。

ニュースによると、コープが、有機畜産の仔牛肉のラベルを今年末に打ち切る方針を急に打ち出したということで、これまで、このラベルに見合うよう投資を続けてきた畜産家にとっては、大きなショックになっているということでした。

なぜこのような窮地に陥ったのでしょう。まず、肉市場との関係から考えてみると、仔牛肉の有機畜産家は、現在の肉市場で、二重に不利な状況に置かれていることがわかります。一つは、仔牛肉を扱っているための不利さ、そしてもう一つは、(皮肉にも)有機畜産であるがための不利さです。一つずつみていきましょう。

扱う家畜によって分かれる明暗

人口の増加に伴い、世界的な肉全体の消費量は増えていますが、西ヨーロッパという地域に限定してみると、肉の消費量は、2000年ごろをピークに減り続けており、特にここ数年顕著な傾向となっています。例えば、2018年のベルギーの一人当りの年間肉消費は75.2kgで、2010年(82.4kg) に比べると、7kgも減っています。スイスでも、2010年当時に比べ、2018年の一人当たりの肉の消費量は、7%減りました(Schweizerinnen, 2019)。

ただしその内訳をみると、すべての種類の肉の消費が全般に減っているわけではなく、勝ち組と負け組に分かれています。勝ち組は鶏肉です。例えばスイスの鶏肉の売上げは、2018年は前年比で1.5%増えており、骨つき肉だけでみると、10%も増加しました。

これに対し、豚肉は5.9%、ラム肉は6%前年比で売り上げが減っています。牛肉も消費が減っており(1%減)、仔牛肉だけに限ると6.3%減少しています。さらに、ヒレ肉にだけに絞ると、仔牛肉のヒレ肉は、15%も売り上げが減少しています(Schweizerinnen, 2019)。先ほどのニュースによると、コープも、2010年から2017年の間に仔牛肉の需要が、20%も減ったことで、有機畜産の仔牛肉のラベルの廃止に踏み切らざるをえなくなったと言います。

なぜ、これほど大きく肉のなかで明暗が分かれてきたのでしょう。まず、人々の間で強まっている健康志向が原因と考えられます(「便利な化学調味料から料理ブームへ 〜スイスの食に対する要望の歴史的変化」、「ウェルネス ヨーロッパの健康志向の現状と将来」)。牛や豚の赤肉が鶏肉に比べ、大腸ガンを発がんする危険性を高めるという説が一般に広く知られているためです(世界保健機関も2015年にそのように発表しています)。

また環境への負荷(メタンガスの放出量や飼育に必要な飼料や水の量など)も大きな要因でしょう。牛肉、豚肉、鶏肉で比べると、牛肉が圧倒的に大きな問題であり、次に豚肉、鶏肉となると、メディアでもよく指摘されています。

不利な有機畜産

もうひとつ、有機畜産であること自体が、市場経済で不利な立場に自分をおいやっているという構図があります。有機畜産業は、どうしても従来型の畜産業より高くつくため、(若干、助成金で少しは穴埋めできても)最終的な小売価格では、通常に肉と大きな差がでてしまうという市場競争の厳しい現実の構図です。

例えば、スイスの2月末における、(特売価格でなく)通常の値段として表示されている100グラムの価格をみると、スイスの有機畜産商品のカツレツなどにする仔牛肉は、9.21スイスフラン、牛肉のヒレ(フィレ)肉は、10.85スイスフランで、豚肉のフィレは、6スイスフラン(ラベル)です(最初の二つは、コープのNatuffarm、最後のものは、ミグロのTerraSuisseという有機畜産の規格で売られているものを参照)。

一方、ディスカウント商品を手広く揃えているドイツ系のスーパーのリードルLidlでは、牛肉のヒレ肉は、4.99スイスフラン、豚のフィレが100g、3。69スイスフランです。これらの肉は、すべてスイス産のものですが、それでも、上記のスイスの有機畜産農家の肉と比べると、ほぼ半額です。

さらにこれを、隣国の国々と比べると、スイスの肉の割高感は一層強烈なものに感じられます。スイスの肉の値段(平均)は、隣国のEU諸国の肉の値段と比べると、2.3倍も高く、隣国ドイツと比べても大きな値段の開きがあります。例えば、スイスでは、年間の肉の消費量が52.1kgで、ドイツの60.1 kgよりも8kgも少ないにもかかわらず、スイス人がスイスで肉を購入するのに支払っているトータルの金額は、ドイツ人のそれに比べ、ほぼ2倍になります(Schweizer, 2019)。このため、スイスのスーパーに行くかわりに、週末に国境を超えて、近隣諸国へ行く、いわゆるショッピング・ツーリズムもあとをたちません(「スイス人のショッピング・ ツーリズム」)。

こんなに値段が違うのでは、有機農業や有機畜産に高い関心をもつ人が多くても、実際の購買でためらってしまう人がでてしまう。つまり、有機畜産が売れないのは、従来型の畜産で生産される肉が(有機畜産のものに比べ)安すぎることが問題だ、と有機畜産家やそれを擁護する人たちも、ニュースのなかでこぼしていました(Eco, 2020)。

新たな脅威 肉の代替食品の台頭

以上、肉市場との関係から、有機畜産の問題をみてみましたが、問題はしかし、これだけではありません。有機畜産にとって、ある意味で、もっと大きな競争相手、脅威となるものがあります。それは、近年、店頭での存在感を顕著に増している、肉の代替食品です。

肉の代替食品(ここでは大豆などの植物由来の材料で、肉ではないのに肉に近い食感が味わえるよう工夫をこらした食品全般を指すこととします)は、新しい食品であるにもかかわらず、市場に出回るようになってすぐあとから、売れ行きを顕著に伸ばしてきました。2015年、ドイツのソーセージ会社が肉なしソーセージ7種の販売をはじめると、同年末の総売り上げでは、すでに3分の1を占めていますし、マクドナルドでも、2010年2月からドイツでは菜食「ヴェギバーガー」を販売するようになると、まもなく毎月220万個が売れるようになったといいます(「肉なしソーセージ 〜ヴィーガン向け食品とヨーロッパの菜食ブーム」)。

肉の代替食品は、当初、ウィンナー、ナゲット、ウィーン風とんかつ、肉団子といった、肉を材料にしたヨーロッパの典型的加工食品の形に似せたものがほとんどでしたが、近年は、味付けが基本的にされておらず本格的に調理できる食品もでてきて、より一層(生)肉に近づいてきました。

植物由来肉 肉市場に新たな競合相手として登場

例えば、「プランテッッド・チキンplanted chicken」(畑育ちのチキン)という今年1月からスイスで全国の大手スーパー「コープ」の店舗で販売されるようになった食品は、新たな代替食品の時代の幕開けを感じさせるような、画期的な出来栄えの食品です。

販売されているのは2種類あり、スパイシーな香辛料をあらかじめからませたタイプのものと、プレーンタイプのものがありますが、プレーンのほうは、肉の代用食品として、好きな調理方法で、調理することができます(ただし、タンドリーチキンのような長い間浸けおくような調理法にはまだ適しておらず、改良の途上だといいます)。

プレーンタイプをタイカレーで鶏肉のかわりに入れて実際に食べてみたところ、わずかに豆類独特の後味がのこるものの、鶏肉の繊維質を秘密のレシピで再現していることをウリにしているだけあって、みかけも食感も、鶏肉のささみにかなり似ていました。

ちなみに、香辛料をからませたタイプのものは、スイスの菜食レストランの老舗ヒルトルHiltl(世界最古のベジタリアンレストランとしてギネスブックにものっており、味にも定評があります)のレシピに基づいており、そのまま焼くだけで調理が完了するタイプです。

どちらのタイプも、これまでの肉なしソーセージのレベルでなく、肉の食感をかなりまねており、菜食主義者やヴィーガンの人、あるいは肉の消費を減らしたいと思っている人が、肉の代わりとして定期的に購入することは、十分想定できる食品だと思いました。ちなみに値段は100g で約4スイスフランで、(鶏肉の部位によりますが)おおむね、スイス国内の普通の鶏肉よりも若干高く、有機鶏肉よりも安い値段といったところです。

ところで、この食品には、ほかの肉の代替食品に比べ、すぐれた点がほかにもある、と生産者はいいます。まず、原料が、白いんげんと水、なたね油のみであることです。これまでの肉の代替食品は、味や食感をよくするために、非常に多くの添加物が含まれており、それが逆に、肉食より不健康なのでは、という声も少なからずありましたが、それに比べると、この食品は、非常に「健康的」だとします。

また、大豆でなく、いんげん豆を使っていることも、重要なポイントだと生産者は言います。大豆を主材料にする食品が増えると、ともすれば、アマゾンの貴重な森の伐採などにつながるおそれもでてくるので、スイスで簡単に調達できる材料を使って食品を実現することを、重視したといいます。いんげんを材料とするこの食品なら、100%、スイスの材料でつくれるため、地産地消になると、胸をはります(Lacourrège, 2020)。

ちなみに、アメリカのビヨンド・ミートbeyond meet 社の植物由来の肉(フェイクミート)は、昨年から、ヨーロッパ各地の店頭(冷蔵および冷凍食品として)で売られており、肉のオータナティブとして現在、最もヨーロッパでメジャーな商品となっています。ただし、これらは、ウィンナーやハンバーガーのような決まった調理法の食品であり、自由な調理を想定したものでは、少なくとも今のところはないようです。

擬似肉  1.0

スイスの名高いトレンド研究所GDI の研究員シェファー Christine Schäfer は、「肉の代替商品はとてもエキサイティングで、わたしはよく、古いiPhoneと比較します。今日のiPhoneと比べると最初のものはとても古臭くみえます。同じようなことが植物性の肉にも起こるかもしれません。なぜならそのうち、本当に本物の肉と見分けがほとんどつかなくなるかもしれないからです」(Leuenberger et al., 2020, S.25)、と言います。

確かに、今回紹介したプランテッッドチキンも、現時点で画期的ではありますが、まだ改良の余地があるともいえ、これが最終的な形でなく、今後さらなるめざましい発展を期待できるのかもしれません。

シェファーが言うように、そのうち、本物と見分けがつかないほどの高品質にならなくても、マーガリンのように、(パンにぬりやすいという)別の利点をそなえ、風味もバターにかなり近づけた、バターのオータナティブとして定着している食品のようなものが、でてくると、食品の選べる選択肢が広がり、楽しくなりそうです。

有機畜産のジレンマ

肉を食べなくても肉のような味覚があじわえる。また、全般に食品の選択肢がどんどん広がっていくこと。そして、それらの代替食品を利用することが増え、肉を食べる回数や量を減らすことで、環境負荷が減り、自分の健康も促進さえるのであれば、消費者にとってどれも一見、喜ばしいことです。

しかし、冒頭の話にもどすと、有機畜産家にとっては、かなりやりきれない状況です。時代が、持続可能性を追求し、動物の福祉を重視し、環境負荷の少ない食文化を目指そうというところまでは、有機畜産業も、まったく同じ意識であり、自分たちなりの形で、持続可能な食品生産のありかた目指してきたのに、なぜ、自分たちが大きな、打撃を受けているのか、納得できない気持ちでしょう。

しかし、それこそが不可避のジレンマであるようにもみえます。有機畜産が目指していたものは、今の時代のトレンドコンセプトとぴったりあっている反面、ミートレスという別のトレンドからは、むしろ、けむたがられてしまうというジレンマです。

少し具体的に想像してみると、わかりやすいように思われます。前述の擬似肉といってもいい肉に非常に近づいてきた植物由来の代替食品を買う人たちは、主にどんな人たちでしょう。最初は興味本位で、買う人もいるでしょうが、定期的に消費する人は、少なくとも現代のヨーロッパにおいては、宗教や健康上の理由というよりも、とりわけ環境への配慮や動物の福祉への配慮からであり、肉の代替品として消費する人たちだと思われます。

一方、有機畜産の肉を買う人、あるいはこれまで買っていた人はどんな人でしょう。やはり環境意識や動物の福祉への高い人でしょう。普通のものより高くても、質を重視し、有機畜産の肉を選択してきた人たちでしょう。

こう考えると、植物由来肉と買う人と、有機畜産の肉を買う人たちは、全く同一グループではないにせよ、環境や動物に配慮するという共通する関心や優先事項をもっており、部分的に重なっている可能性があります。

さてここで、また考えてみます。これまで、有機畜産の肉を買っていた人たちにとって、植物由来肉という選択肢がどんどん広がってきている現状はどんな風にうつっているでしょう。

植物由来肉は、本物の肉に比べ環境負荷が少なく、家畜を殺傷することにならないため有機畜産でもまだ若干のこっていたと思われる良心の咎めもなくなります。本物の肉よりも健康的な感じもします。また、値段を比べると、ほとんど変わらないか、有機畜産の肉のほうが植物由来肉より若干高めです。

このように植物由来肉に、畜産商品と比べて有利な特徴がならんでいたら、有機畜産の肉をこれまで選んできた人たちが、その手を、植物由来肉のほうにのばす回数が増えていったとしても不思議はないのではないでしょうか。つまり、肉の消費を気にする人が増え、肉の代替商品に参入する商品が増えてきたことで、肉全体の消費をまんべんなく減らすのではなく、よりによって有機畜産の肉の生産者たちに、偏って打撃を与えるようになってくるというジレンマが、現在の食をめぐるロジックに組み込まれているように思われます。


ビヨンド・ミート社の植物由来肉を使って自宅で作ったテリヤキバーガー

さらなる脅威?培養肉

さらに少し先をみると、新たな手強い競合相手となる可能性をもつ新商品もまた、市場に刻一刻と近づいています。それは、肉細胞を人工的に培養して育てる培養(人工)肉です。

2015年にはじめてオランダでつくられまだ5年の歳月しかたっていませんが、時代の需要や期待を反映し、めざましく開発がすすんできました。

スイスの二大大手スーパーも、すでに、その潜在的な可能性に強い関心や期待をよせています。例えば、コープの子会社ベルBell は、オランダの培養肉会社Mosa Meat を200万スイスフランで買収し、2022年か23年に店頭に培養肉を販売することを念頭において準備中だといいます。ミグロも、培養肉開発のスタートアップ会社Aleph Farms の研究開発に参与しています。どちらの会社も、人工肉が、動物保護の観念から(動物を殺さずにすむという意味で)顧客に受け入れられやすく、また、従来の肉に比べ、抗生剤や成長を促進させるホルモンなどを使わないことで「健康」というイメージをアピールできると考えているようです(Bürgler, 2020)。

まだ培養肉は生産コストが非常に高く、また培養にエネルギー膨大にかかりますし、また倫理的な問題もあるため、これまでの植物由来の擬似肉に比べ、市場で定着するには、ハードルが高いように思われますが、100%肉の成分からなる商品であるという意味では、本物に肉の競合相手としての存在感を増す可能性がありそうです。

おわりに

こうして肉の代替食品の急速な発達を概観すると、数年前まで、SFの世界としか思えなかったことが、次々と現実となっており、今さらながら、感心します。

一方、革命的な食品であるだけに、これまでなかったような新しい問題(問い)も続々と浮上してきます。

良心的な消費者として優先すべきことは一体なにになるのでしょう。環境負荷を減らす食品を選ぼうとすると、それは、肉の代替食品を選ぶことなのでしょうか、有機畜産の肉を選ぶことなのでしょうか。

肉の代替商品を選ぶ代わりに有機畜産の肉を選ぶ人が少なくなり、安い肉を選ぶ人と、肉の代替食品を選ぶ人たちに二極化していくとすれば、それは、動物の福祉や持続可能を目指す有機畜産を間接的に衰退させることにつながりますが、それでもいいのでしょうか。

将来、さらに培養肉が登場した時は、生物を物理的に殺傷せずに作り出す「肉」(培養肉)と、衛生的で良好な環境で育てた家畜を畜殺して生産する「肉」(有機畜産肉)のどちらの肉のほうがよりのぞましいのでしょう。その時配慮するのは、モラルでしょうか、自分の健康でしょうか、環境への影響でしょうか。それとも値段でしょうか。

これからの時代、スーパーの店頭は、人々にとって、肉を買うか買わないか、肉ならなにを選別するかといった選択行動を通じて、倫理的思索をしたり、自分の世界観を自問する現場になっていくのかもしれません。

参考文献

Bürgler, Erich, Ein Chicken-Nugget aus dem Labor für 50 Franken. In: Sonntagszeitung, 16.2.2020, S.42.

Eco, Tierfreundliche Label – Risiko outgesourct, SRF, 24.02.2020, 22:25 Uhr

Lacourrège, Deborah, Huhn, gepflanzt. In: Coopzeitung, 20.1.2020.

Leuenberger, Dinah/ Hettinger, Yvette, «Die privaten Küchen sind am Verscheinden». (Interview mit Chrstine Schäfer). In: Migros Magazin, 24.2.2020, S.21-25.

Planted food のホームページ

Schon bald gibt es Laborfleisch im Supermarkt. Nahrungsmittel-Revolution, 03. Januar 2020 um 11:52 Uhr

Schweizer geben für Fleisch doppelt so viel wie die Deutschen aus, Watson, 10.05.19.

Schweizerinnen und Schweizer essen weniger Fleisch. In: NZZ online, 21.02.2019, 10.28 Uhr

statista, Entwicklung des jährlichen Fleischkonsums in Europa in den Jahren 2010 bis 2020 (in Kilogramm pro Kopf) (データの元 Henrich, Philipp, Entwicklung des jährlichen Fleischkonsums pro Kopf in Europa bis 2020, 15.11.2017)

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「ゴミを減らす」をビジネスにするヨーロッパの最新事情(2) 〜ゴミをださないしくみに誘導されて人々が動き出す

2020-02-24 [EntryURL]

前回(「ゴミを減らす」をビジネスにするヨーロッパの最新事情(1) 〜食品業界の新たな常識と、そこから生まれる食品のセカンドハンド流通網)に続き、今回も「ゴミを減らす」をビジネスにする可能性や、流通の新しいしくみを、最近のヨーロッパの動きをみながら、考えていきたいと思います。今回スポットを当てるのは、持ち運びや、消費などの用途に使用されるモノ、使用や消費前からすでにゴミになるとのがわかっているモノに対する削減の取り組みです。

記事の後半では、前回、今回扱ってきたものを補完するものとして、商品のライフサイクル(商品がつくられ、使用され、ゴミになるまでの周期)をなるべく長くすることに貢献するビジネスについても、触れたいと思います。

包装しないでバラ売りする店

前回扱った、もともと使える(食べられる)ものであってもゴミとなるものの量も非常に大量でしたが、商品の持ち運びや保存といった、利便性のために使われ(使用後に例外なく即座にゴミとなる)容器や梱包材などのゴミの量も深刻です。

これら、商品が売れる売れないに関係なく、ゴミになることが当初からわかっているモノを減らすには、どうすればいいでしょう。究極の答えは、とてもシンプルで、簡単にみつかります。容器や梱包材をいちいち捨てずに、何度も繰り返し使うようにすればいいわけです。ただし、それが、これまでの流通・小売の流れでは難しかったの事実です。ならば、そこで、なにか工夫の余地はないか。

そんな発想で、新しい売買のスタイルをとる店が生まれました「梱包しない店Unverpackt-Laden」と呼ばれる店です。

具体的にどんな売買をする店なのか、ヴィンタートゥーア市の「むき出しの品物bare Ware」という名の店内を、例として、のぞいてみます。

店は街中の一角にあり、一見なんの変哲もない普通の自然食品や自然コスメティックを扱っているこじんまりした店のようですが、よくみると、商品の売り方が、スーパーや一般の小売とかなり違います。店内で売られている、穀物や香辛料、はちみつなどの食品や、洗剤やシャンプーなどの商品は、大きな容器に入っており、どれも量り売りを原則としています。

つまり、ここのお店の顧客は、自分で家からからの容器をもってその店へ行き、からの状態でまず重さを計り、その後、欲しい商品の中身をいれてから再度、重量を計ります。そして、(差し引いた)容器に入れた分量の料金を会計で支払います。ちなみにこの店では、容器を持ち合わせない人も店頭で購入できるように、空き瓶などの容器も若干用意してあります。


梱包しない店の店内の様子。 シャンプーもクリームも、自分でもってきた容器に中身を入れて購入する


ヴィンタートゥーアの店は、2017年5月に二人でスタートしましたが、現在14人のスタッフを抱えるまでに成長しており、市内唯一の梱包をしない店として、市内での認知度もかなり高くなってきたようです。

ちなみに、現在、スイスでこのような「梱包しない店」は37箇所あります。これらと、もともと包装や梱包をせずに販売する習慣が強い(農家が直接販売する)街の定期的な市場などを合わせると、食品や日常生活用品を、梱包・包装のゴミを出さずに商品を購入できる機会は、かなり増えてきているように思われます。


布製のエコバックより、商品の形がくずれにくい籐製のかご

食品の容器を減らすしくみ

テイクアウェイ(テイクアウト)の飲食産業が、年々拡大しているヨーロッパでは(「ドイツの外食産業に吹く新しい風 〜理想の食生活をもとめて」)、テイクアウェイの容器類も、毎日大量に破棄されるゴミの代表的なアイテムとなりつつあります。

他方、マイカップを持ち歩くなど、テイクアウェイ市場で容器を使い捨てにしないための消費者の意識も強まっており、ゴミ削減の手法が各地で模索されています。昨年コラムで、スイスの大手飲食店が相次いで参加をはじめた、どこでも(提携している店に)返却可能なリターナブルの容器のシステムについて紹介しましたが(食事を持ち帰りにしてもゴミはゼロ 〜スイス全国で始まったテイクアウェイ容器の返却・再利用システム)、これも、そのような流れの好例といえます。


リターナブルの容器を並べているファミリーレストランの一角



ドイツでも、リターナブルのコーヒーカップを流通させる試みが、4年前から、いくつかの都市ではじまりました(「テイクアウトでも使い捨てないカップ  〜ドイツにおける地域ぐるみの新しいごみ削減対策」)。その後の現在までの展開について、業界をリードする「リカップReCup」を例にみてみます。

リカップは、学生時代からゴミの削減について施策を模索していた二人の青年(Fabian Eckert と Florian Pachaly)が、小都市ローゼンハイムで実験をしたことがきっかけで起業された会社です。実験とは、街の26のベーカリーとカフェに、使い捨てのカップの代わりに、デポジット制の(提携先のどこにでも返却可能な)共通のプロトタイプのコーヒーカップを使ってもらうというもので、2016年11月から、8週間行われました。この実験の画期的な点は、使ったコップを、購入したお店だけでなく、提携しているほかのどの店舗にも、使用後洗浄などせずにそのまま返却できることです。ビール瓶などでよくあるリターナブルの瓶と流れとしては、ほとんど同じですが、カップをリターナブルするというのは、はじめての試みだったといいます。

この結果が大変好評であったため、会社を設立し、正式に事業としてスタートすることになりました。

リカップ社がすすめるリターナブルのコーヒーカップのシステムを簡単に説明すると、まず、リカップ社のコーヒー・カップ(約1000回までの利用が可能と言われる高品質のプラスチック製カップ)を使いたい飲食店や小売業者は、リカップ社のサイトでパートナー登録をします。パートナーは、システム代金と呼ばれる、管理費(12ヶ月契約の標準プランでは、月額31ユーロ。つまり1日1ユーロ)を支払うと、希望する数とサイズのカップをひとつにつき1ユーロで、リカップから借受けることができます(ちなみに、契約は6ヶ月や24ヶ月でも可能ですが、管理費用が前者は36ユーロで、後者は28ユーロです。カップの種類は、0.2、0.3、0.4リットルの3種類あります)。

パートナー事業者は、コーヒーなどの飲料水の販売時に、カップを、さらに自分の顧客にも1つにつき1ユーロのデポジットで貸し出します。この際、使い捨てでなく、リカップのカップを選ぶ顧客には、20セントや30セントの割引をするなどのインセンティブが推奨されています。顧客は、パートナー事業者のどこにでも、使用済みカップを戻すことができ、その際、デポジットの1ユーロを返却されます。リカップのカップを扱っているお店(パートナー事業者)は、リカップのアプリで全国、どこの地域でも、簡単にさがすことができます。

2017年5月にミュンヘンで正式にスタートしたころは、まだパートナーの数は、カフェやベーカリーなど50店舗にすぎませんでしたが、当初から、メディアが、ごみを減らす画期的なシステムとして注目し、頻繁に報道したため、関心をもつ店舗や地域が、その後、全国的にひろがっていきました。

現在は全国で、3000の店舗がパートナーとなっており、ハイデルベルクとアウグスブルクとのふたつの都市では、大手ファストフードの、マクドナルドも試験的にリカップを利用しはじめ、本格的な採用を現在、検討しています。昨年末に問い合わせした際、国内からの問い合わせが非常に多く、その対応に追われて国外への問い合わせになかなか応じられない状況だという返答でしたので、ここ数年でドイツ国内の市場が、一段と広がっていくのかもしれません。

ちなみに、今月1月末、リカップ社は、ドイツの主要メディアの一つ『ディ・ツァイト』が選ぶ今年の「持続可能性への勇気賞」にノミネートされました(3月に受賞者が決定)。

成功の秘訣

現在、ドイツには、リカップだけでなく、ほかにも同様のリターナブル・カップのシステムが、それぞれ一定の地域を拠点にして、いくつかあり、この4年間で、テイクアウェイの市場の拡大と並行して、リターナブル・カップのシステムが定着しつつあるようにみえます。

その成功の要因を考えると、単に、ゴミを減らすという、人々の環境意識に響いたからということでなく(それももちろん大きな要因ですが)、リターナブル・システムに直接関連する三者である消費者、店舗、地方自治体それぞれにとって、メリットを生むしくみとなれたことが、かなり大きかったのではないかと思われます。

まず、消費者は、これによって、(使い捨てをカップを使用しなくてはいけないという)良心の咎めを受けずに、気楽にテイクアウェイができるようになりましたが、それだけでなく、リカップを選択することで、若干の割引サービスも受けられるようになりました。

店舗にとっては、戻ってきたカップの洗浄という新しい手間が発生しますが、使い捨て容器の購入費用はかからなくなり、ごみ削減に貢献することで、店のイメージアップが期待できます。パートナー店としてアプリに掲載されたり、使用後のカップを返却するのに立ち寄る人も増えてくると、顧客が増える可能性も高まります。

自治体にとっても、使い捨てカップが減ると、直接ゴミの処理費用が減るだけでなく、公園などの公共空間や施設のゴミ箱があふれて美観を損なうといった景観上の問題も少なくなります。このため、自治体によっては、積極的にホームページなどを通じて、地域の商店に、リターナブルのカップの使用をよびかけるところもでてきました。

このようにみていくと、今後、消費者と店舗、自治体の三者がすべて得をするウィン=ウィンの状況が続くことで、普及がすすんでいくことが容易に予想されます。


リカップと同様のコンセプトで現在、ドイツ、ゲッティンゲンを中心に展開している
リターナブル・カップのひとつ「フェア・カップ」
出典: FairCup https://fair-cup.de/

潜在的なゴミをなるべくゴミにしないためのしくみ、受け皿

さて、ここからは番外編として、新しい動きではありませんが、ゴミ対策としてすでに長い実績をもち、貢献している、スイスにいくつかの動きをご紹介してみたいと思います。

モノにとって、いつかはこわれたり、不要となるのは、避けられません。例えば、長年使っていた電気工具も、部品が壊れて使えなくなることがありますし、新しい食器を買ったことで、スペースの関係で、これまで使っていた食器を手放す必要がでてくることもあります。これらは、これまであげてきた(余剰のゴミや梱包の)ゴミよりは、(すぐにゴミになるのでなく、長い期間利用される分)問題視されることは少ないですが、ここにも、ゴミを減らすために工夫の余地はあるでしょうか。

まだ少なからずある、とわたしは思います。使われる期間を少しでも長くすることができたり、使わなくなった時点でそれをほかにまだ必要とする人に受け渡すことができれば、相対的にゴミの量は減らすことにつながるためです。

スイスでみかけた、商品のゴミになるまでのライフライクルをなるべく引き延ばすためにの、有効なサービス・ビジネスの例を、以下、紹介してみます。

できるだけゴミになるまでの周期を延期するしくみ

まず、破損したり紛失した部品を、簡単に修理できるような環境を提供し、必要ならば修理のサービスも請け負ってくれる場所として、大型工具専門店が重要な役割を果たしているように思います。例えば、スイス大手工具専門店の一つハスラーHasler では、専門知識をもつ数十名が常に店頭で待機しており、店頭や電話で、修理に関する多様な相談を受け付けています。

それと同時に、生活環境に存在するありとあらゆる工具や家具、インテリア類の部品類が取り揃えられており、それらを(自分で修理することができる人には)販売するかたわら、修理業務を請け負っています(参考文献に、ハスラーの店内が実際にみられるサイトを提示してあります)。自分で直すことが難しい電気工具などが壊れた場合の修理代は、新品の値段の半分以上になはならいことを保証しており、修理中は、無料で代替商品を利用することもできます。

これらのリソースを駆使すれば、家具や用具、機械類などで、破棄せずに、なおして、長く使うことができるものはかなり多くなります。

修理に必要な電気工具や、よく利用される道具類の一部は、貸し出しサービスもしているので、それらの道具類をレンタルですませ、自ら購入することを省くことで、ゴミをださないようにすることもできます。

いろいろなものを受け入れるリサイクルショップ

壊れていなくても、手放したい時もありますが、そんな時、もしもゴミという選択肢以外のものがあれば、ゴミにならずにすみます。

スイスには、ゴミ箱に直行せずにすむ、有望な選択肢があります。リサイクルショップです。リサイクルショップ自体は、どこの国にもあり、決して、めずらしいコンセプトでもなんでもありませんが、スイスのリサイクルショップが言及に値するのは、使用感が強くあるものや、非常に多様なものを、かなり柔軟に受けいれるためです。

例えば、使用された絵葉書、一部使用された包装紙や壁紙、あみかけの毛糸がついた編み棒、はぎれ、サビていたり古ぼけた用具類、手作りの木工品や縫製品、松葉杖、古い家族写真、洗浄したジャムの空き瓶などを、リサイクル・ショップでよく目にします。これら、持ち主の判断によってはゴミとして捨てられてそうなものでも、ゴミ箱に直行する前に、リサイクルショップでもう一度展示されるチャンスがあれば、だれかが気に入って購入してくれ、ゴミになるまでの周期が延期されることになるでしょう。

おわりに

二回にわたってゴミを減らす、をビジネスにした事例をみてきましたが、これらの事例を見返すと、ゴミになるかならないかは、質や量の問題にとどまらず、受け皿やしくみの有無に大きく左右されるように思われてきます。

また、関わってくる異なる立場の人たちが、それぞれ、できるだけ恩恵を受けられるものであればあるほど、その受け皿やしくみは、存続・発展できる可能性が高いともいえるでしょう。

そのような着想を、ビジネスとして定着させるのは決して簡単なことではないですが、ゴミを減らすという「需要」は、依然として多分にあり、その意味で、この「需要」に応えるビジネスチャンスもまだ多く眠っているといえるかもしれません。

参考文献

「むき出しの品物bare Ware」のホームページ

Foodwaste.ch

Haefeli, Rebekka, Auf dem Teller statt im Abfall: Der Kampf gegen Food-Waste ist salonfähig geworden. In: NZZ, 21.05.2019.

ハスラーHasler (工具専門店)のホームページ

ハスラーHasler店内の様子

Kollmeyer, Barbara, Danish company Too Good To Go eyes new American front against global food waste. In: Market Watch, Published: Jan 15, 2020 5:33 a.m. ET

Möller, Mathias, Mit dem Handy Food-Waste bekämpfen. In: Basler Zeitung, Samstag 27. April 2019 18:15

Too good to go スイスのホームページ

Too good to go, 1 Jahr Too Good To Go in der Schweiz, Zürich, 19. Juni 2019

Vogel, Benita, Vorkämpferin gegen Verschwendung. In: Migros Magazin, S.46-49.

unverpackt einkaufen ohne verpackung

Unverpackt einkaufen, Wo kann man in der Schweiz unverpackt einkaufen?, 16. Januar 2020

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「ゴミを減らす」をビジネスにするヨーロッパの最新事情(1) 〜食品業界の新たな常識と、そこから生まれるセカンドハンド食品の流通網

2020-02-17 [EntryURL]

ゴミ問題を逆手にとったビジネス

ゴミを減らす。これを、モラルや義務として遂行するだけでなく、このことを軸にした新しいビジネスや、流通させるツールも、近年、生まれてきました。今回と次回(「ゴミを減らす」をビジネスにするヨーロッパの最新事情(2) 〜ゴミをださないしくみに誘導されて人々が動き出す)の記事では、このような「ごみを減らす」ことに起因・関係する新しい動きについて、ヨーロッパ、特にスイスを中心に、紹介します。とりあげるのは個別の事例ですが、ここから、今後、ゴミの削減をめぐってどんなビジネスモデルや市場が築かれつつあり、日常生活に定着していくのかを、少し展望できたらと思います。

ところで、記事では「ゴミ」として、身近な生活環境で発生する典型的なものを扱いますが、そこで「ゴミ」と一言でくくられていても、実際には多様なものであるため、この記事では、ゴミとなる要因から、三つの系統に分けて考えていきます。

1)(消費されずに)ゴミになる余剰物

2)(消費・使用されていたが)消費・使用されなくなる、あるいはできなくなりゴミとなるもの

3)(消費される商品そのものではなく、商品の品質を保ったり、持ち運びの利便性のために使われ、その用途を終えて)ゴミとなるもの

この3系列のそれぞれのゴミの削減に対する、新しい取り組みについて、記事では順番にとりあげていきたいと思います。具体的には、1)の余剰でゴミとなるものについての動きを、今回みていき、2)と3)のゴミをめぐる動きを次回で扱っていきます。


スイスの有料ゴミ袋に入った一般ゴミ

余剰として(消費されないまま)ゴミになるものの現状

食品類は、余剰として消費されないままゴミとなってしまうものの割合が高い代表的なものです。生産者や小売業者において、みかけで分別されて規格に合わないとして破棄されるだけでなく、店頭や購入後の一般家庭でも、賞味期限が切れたり、使いきれなくなり廃棄されるものが多くでるため、日々、大量の食品がゴミとなっています。スイスでは、実に全食品の3分の1が、このような過程のどこかで、廃棄処分されているといいます。

ヨーロッパ全体でみると、年間1000億ユーロに相当する食べものが捨てられていると概算され、ヨーロッパと北米の廃棄される食料を合わせれば、世界中の飢餓に苦しむ人の食料がまかなえられるとも言われます。

一方、ここ数年間に、フードウェイスト(食品廃棄物)に対する取り組む企業や団体の活動もヨーロッパで活発化しています。以下、そのうちの二つのサービスを具体的にみてみましょう。

「まだ食べられる」の売買アプリ

小売や飲食店で、余剰がでて、売りたいと思っても、販売ルートがなければ、販売することができません。そんななか、簡単に余剰がでた際、それを潜在的な消費者に提示する、という、食品事業者と消費者の間をつなげる、画期的なサービスが、スマホのアプリとして、デンマークのコペンハーゲンで2016年、開発されました。「Too good to go」(廃棄するのはもったいない、の意味ですが使い捨てのカップのかわりに持参する自分用のコーヒーカップCoffee to goと語呂合わせした響きになっています。愛称は頭文字をとってTGTG)というサービスで、スイスでも2018年からスタートしました。

しくみを、スイスのアプリに沿って簡単に説明すると、余剰を販売したい飲食店や小売業者は、余剰がどのくらいでるかを見積もり、ピックアップ先の住所、値段、いつ、何時以降にピックアップ可能かを登録します。するとアプリ上の「すぐに食べる」「明日」「お昼ご飯に」「夜ごはんに」「ベリタリアンフード」「パン類」「加工していない食料品」などのカテゴリーの該当する場所に、オファーとして提示されます。余剰を買いたい人は、希望するオファーを選択し、決済をすませ、指定された時間に赴くと、注文していたものが手渡しされます。ここで販売されるものの値段は、定価の約3分の1が主流で、販売側は、手数料として、スイスでは販売一件につき、2.90スイスフラン(1スイスフランは約110円)をTGTGに支払います。

今年1月末現在、スイスでは約2000の食品業者がサービスを提供しており、68万人がこのアプリを利用し、すでに86万食が捨てられずに済んだとされています。これは、概算で2150トンのCO2の排出をおさえたことになります。

現在、TGTGはほかのヨーロッパ諸国でも急速に広がっています。2020年1月中旬現在、ヨーロッパ14カ国でサービスを展開し、パートナー会社は37335社、アプリのダウンロードは1860万回にのぼります。廃棄処分を免れた食事は、トータルで2910万食にのぼります。


アプリの例。左は、時間帯に分けてピックアップが可能な店と値段が提示されており、
右は、すでに今日の分として売り出してなくなっている食品。

食品廃棄という新たな評価の指針

ただ、少し腑に落ちない不思議な気も、正直します。これまで余剰を一般向けに売るという新しい販売方法は一切あるいはほとんどなかったにもかかわらず、なぜ、これほど参加する食品事業者が増えているのでしょう。

最初に思いつく理由は、余剰の食品を販売して売り上げを若干伸ばすことができる、という理由です。ただし、定価の3分の1で売りますし、余剰は日によって違うでしょうが、それほど多いものではないでしょうし、また、準備したり、手数料などを差し引くと、もうけとして期待されるものにはならないと、参加している菜食レストラン「ティビッツTibits」も公言しています。

しかし、それでもティビッツをはじめ、いくつかの名の知れた大手食品事業者は、このアプリに賛同しています。それはどうしてでしょう。結論を先にいうと、事業者にとって、食品廃棄を減らすために努力し、またそのことをアプリへのオファーという形で提示することに、大きな意義があるからではないかと思われます。

近年までの動向をみると、飲食店や食品店などに対し、安いからおいしいから、ということ以外のものを、重視する消費者は増えています。例えば、有機農業生産物であること(「デラックスなキッチンにエコな食べ物 〜ドイツの最新の食文化事情と社会の深層心理」)や、ベジタリアンやヴィーガンの人向けの食事(「肉なしソーセージ 〜ヴィーガン向け食品とヨーロッパの菜食ブーム」)、テイクアウェイなど簡単に食せること(「ドイツの外食産業に吹く新しい風 〜理想の食生活をもとめて」)などが、その店の品質評価の指針として、消費者(あるいは消費者に大きな影響を与えている知識や意識が高いエリート層)に重視されるようになってきました。


ドイツ系の大手ディスカウントチェーンのリーフレット「持続可能性のための努力」
(扱っている商品の品質について、食品分野ごとに説明されている)



ここで、消費者に大きな影響を与えている知識や意識が高いエリート層というまわりくどい言い方をしましたが、これは、ドイツでの調査の結果に基いて浮かびあがったひとつの社会グループ概念ですので、少し補足しておきます。

ドイツのオンラインの戦略代理店「ディフェレント」のアンケート調査によると、多くの人は、人々が経済的に富裕なエリートより、知識や意識が高いエリート層に属したいという願望が強く、これらの人たちの考えやふるまい、ライフスタイルなどに共感することが多いことがわかったといいます。換言すれば、これらの人は、「社会の先駆者でありトレンドをつくっていく人」であり、企業にとってはマーケティングの重要な指針となるキーパーソンであることになります。「ダイヤモンドが将来も輝くために必要なものは? 〜お金で買えないものに寄り添うマーケティング」)

つまり、これらの消費者や消費者を先導するような意見をもつエリート層の要望に、飲食業界も(成功を追求するなら)敏感でなくてはならない、それが不可欠、という時代になってきたのだと思われます。

そして、「よき飲食事業者」であるための新たな要素として、これからは、さらに、食料の余剰を無駄に廃棄しないよう努めているか、ということもまた、新たな、評価の指針の一つとなっていくということではないかと思います。換言すれば、企業にとって、この売買アプリは、食品廃棄を減らす努力している企業であることを消費者にアピールできる機会であり、そのような理由もあって、積極的にそれを利用しようとする企業も多いと思われます。

ところで、TGTGのCEO のリュッケMette Lykke(本文に関係ありませんが、デンマーク語でリュッケは幸福を意味するそうで、素敵な名前です)によると、ヨーロッパにとどまらず、15カ国目として、アメリカの進出が現在予定されているといいます。リュッケは、アメリカへの進出の理由として、とりわけアメリカが非常に食品の廃棄が多いことをあげています。ヨーロッパで廃棄される食品は全体の2割を占め、これでも十分多いと思われますが、(アメリカ農業省の統計データによると)アメリカでは、食品の3割から4割が廃棄されているのだそうです(Kollmeyer, 2020)

「昨日焼きたてfrisch von gestern」のパンを売る店

ヨーロッパ人にとって、パンは、日本人にとってお米に近い存在です。パンを1日一度も口にしない日はまずありませんし、二回食することは、多いというよりむしろ普通です。

このため、パン屋の数も多いですが、今日、売れ残ったパンを、翌日も売る店はまず見当たりません。消費者が焼きたてを期待しているため、あるいはパン屋が、前日の残りのパンを売っているとイメージダウンにつながると考えているとか、双方事情はいろいろあるのでしょうが、とりあえず、歴然とした事実として、毎日、膨大な売れ残ったパンが、ヨーロッパでこれまで廃棄されてきました。EU全体で、捨てられるパンの量は、1年で300万トンにもなります。

ドイツ国内では、パン屋は20%が売れ残り、余剰になっていると概算されており、もしもパン屋が木材の代わりに余ったパンを燃料として燃やせば、(パンは木材と同じくらい高カロリーなため)原発1基を減らすことができるともされます。

残ったパンの一部は、飼料にまわされたり、コンポストにまわされたりもしますが、基本的に、パンは次の日もまだ十分食べられるものが多く、理想的なのは、売れ残ったものを、当日の夜や翌日になってもパンとして売ることでしょう。

このため、さきほどのTGTG でも、残ったパンをオファーするパン屋がありましたが、気軽に街角で、普通のパンのように、買い求めることができる、前日に焼いたパンの専門店も、登場しました。2013年にチューリヒで誕生した、スイスドイツ語で(まだ)食べられる、という意味の「エスバー Äss-bar」という名前のベーカリーです。


エスバーのベルン支店内の様子
出典: https://www.aess-bar.ch/bern.html#news
前日に売れ残ったパンを売る店。スイスにいくつものチェーン店ができている



店内は上の写真でもわかるとおり、普通のパン屋と同じようですが、パン屋にオーブンやパン工房が付属していません。というのも、そこで販売されているパンはすべて、前日に複数のベーカリーで焼かれたもので、売れ残って、店頭でもう売れないものを、もらい受け安値で売っているためです。

消費者が通常のパン屋と区別しやすくし、また、パンを提供している複数のベーカリーと競合関係にならないようにするために、「昨日焼きたてfrisch von gestern」という文字が、ロゴや店頭の目立つところに書き添える工夫もされています。

一号店が開店してから今年で7年目になりますが、少しずつ都心の学生などの間に定着し、現在は、8都市に常設ベーカリーを設置し、大学などの3箇所に定期的に輸送販売も行うまでになりました。従業員の数も、現在100人まで増えました。

ちなみに、ここにパンを提供しているのは地元のパン屋で、ホームページの提携ベーカリーの欄をみると、ほとんどの街のパン屋がパンの提供をしていることがわかります。パン屋も、残ったパンを廃棄するよりも、このような場所に提供することで(無償で提供しているのかなど、詳細は不明)、フードウェイストに取り組むことに、賛同するのが普通の時代になったようです。

まとめ

ところで、これまでも、フードウェイストを減らす試みが、全くなかったわけではありません。小売や卸し業者、レストランの一部で、前日の食事を廃棄処分にするのではなく、貧しい人たちに提供するなどの活動をルーティンとして行ってきたところは、いくつもありました(し、今でもそのような活動を続けているところもいくつもあります)。

しかし、今回とりあげた動きは、これまでの動きと比べると、二つの点で異なり、また、その二つの点ことが、今後の発展のキーとして注目できるのではないかと思います。

ひとつは、フードウェイストに取り組むことが、業界でもはや、特殊でマイナーなことではなくなってきたことです。むしろ、これに積極的な姿勢をみせることが、「良識ある」ある企業としてのステイタスとなり、このままだと、数年後には、これが「普通」となって、しないほうがむしろ「悪い」会社のレッテルを貼られるようになるのかもしれません。

もう一つは、これまで、残った食品の配布を、慈善事業ではなく有料のサービスとして、幅広い層を対象に提供するようになったこと(あるいは、それが可能になったこと)です。このような言わば、食品のセカンドハンドの流通網ができ、そこで、有料サービスとして扱えるようになったことは、食品事業者にとって、大きな利潤を生むものではありませんが、様々な地域で、多様な需要や生活リズムで就労・生活している一般の人と、食品事業者が、ミクロな単位で売買契約を結ぶことを可能にしました。これによって新しい需要ができる可能性があり、破棄される食事の量を大幅に減らすことに貢献できるかもしれません。

このように考えると、今後、このサービスは、単なる余剰食品を減らすというミッションを達成するだけでなく、新しい食品購入の形を、ヨーロッパの人々に提供するものであるともいえ、食品の購入の在り方のひとつとして、根付くかもしれません。

次回は、「ゴミを減らす」を、また別の形でビジネスにしているいくつかの動きについてご紹介していきます。
※ 参考文献は、次回の記事の最後に一括して掲載します。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


スイスの職業教育(2) 〜継続教育(リカレント教育)ブームと新たに広がる格差

2020-02-07 [EntryURL]

はじめに

前回(「スイスの職業教育(1) 〜中卒ではじまり大学に続く一貫した職業教育体系」)は、スイスで義務教育課程卒業後に3人に2人が進む職業訓練制度と、そこから進むことができる高等教育などの第三期教育課程のしくみについてみていき、スイスの職業教育が、高等教育などの高度な学習といかに密接に結びついているかを概観してみました。

今回は、そのような職業教育をさらに補完する教育課程として、近年、受講者が急増している、リカレント教育(継続教育)にスポットをあて、その光と影の両面をおさえてみたいと思います。

スイス人にとっての継続教育

近年、スイスでは、レギュラーな教育(初等、中等、高等教育といった)とは別の教育が盛況を博しています。それは、「継続教育Weiterbildung」と呼ばれるものです。

これは、社会で一般的な教育コースとして定着しているもの、例えば、職業訓練課程や義務教育、また総合大学の課程(学位やマスター、博士課程)のほかに、補足するものとして受ける教育です。仕事をしながら受ける場合と仕事を一旦やめて受ける場合がありますが、いずれにせよ実務に関連する内容が主で(Vgl. BSF 2018, S.2, 5.)、日本で「リカレント教育」と一般に呼ばれているものに相当します。ただし、スイスでは「リカレント教育」という表記はほとんど用いられられず、またスイスの教育体系の文脈のなかで追加・継続される教育と位置付けられるため、以下では、スイスの表現を踏襲し、「継続教育」と表記していくことにします。

統計データからスイスの継続教育を概観してみます。2009年、スイス在住の25歳から64歳の人の80%、2016年のスイス在住の15歳から75歳の人の62。5%、年間で少なくともひとつの継続教育を受けています(BFS, 2010, S.5)。

世代別にみると、25−34歳で継続教育うけている人は76%で、35−44歳が70%、45−54歳が68%。55歳―64歳までは57%。65から75歳は3人に一人のみとなっています(BSF 2018, S.5.)。

現在の継続教育の約半分は、雇用者である事業体が従業員に対して自ら行なっていますが、最近、高等教育機関など、大きな教育機関による継続教育が顕著に増えてきています(SKBF, 2014, S.270)。継続教育の形態は、3分の1が、なんらかの課程(コース)で、74%。次がセミナー会議や催し21%。個人授業5%で、平均年間52時間受講しています(BFS, 2010, S.5)。

内容は、仕事に関連するものが72%で圧倒的で(BFS, 2010, S.5)、テーマは情報、金融、科学、技術などは半分以上を占めます(SKBF, 2014, S.270, 274)。

雇用者である事業者は、従業員の継続教育に理解があり、積極的な支援をすることが多いようです。継続教育に参加する人の4分の3が、直接的な経済支援だったり、仕事の時間という形であったりといった、なんらかの支援を雇用者から支援をうけていると回答しています(SKBF, 2014, S.270, 274)。

ほかのヨーロッパ諸国と比べてみると、スイスの継続教育はかなり高くなっています。25歳から64歳の人で、過去4週間の間になんらかの継続教育を受講した人の割合をみると、最終学歴が第三期の教育の人の受講は、4割以上で、国際比較でスイスはトップにあります。中期教育終了者も、4人に1人が受講しており、国際比較でデンマークに続き、2番目の高さです(BFS, Weiterbidlung, 2016.)。

これだけみると、スイスは特別のよう継続教育が進んでいるかのようにみえますが、世界的に、ハイテク産業やサービス産業の占める割合が大きい経済構造の国は、継続教育多くなる傾向があることがわかっており(SKBF, 2014, S.270)、そのようにみてみると、スイスが産業構造にみあう継続教育を行なっているのは、時代的な潮流に一致しているものとも解釈できます。

25歳から64歳の人継続教育受講の割合(過去4週間の間に受講した割合)赤色、青色、緑色が、それぞれ最終学歴が第三期の教育、中期教育、義務教育。
最終学歴が第三期の教育の人の継続教育受講者の割合は、4割以上で、国際比較でスイスはトップに位置しています。中期教育修了者の4人に1人も継続教育を受講しており、国際比較でデンマークに続き、2番目の高い割合です。
出典: BFS, Weiterbidlung, 2016.

継続教育産業の興隆

このような継続教育は、労働市場に見合う能力を身につけ、就労を安定させるだけでなく、キャリア向上など仕事上の満足度を高めるものであり、本来、大変望ましいものです。

しかし、そのような社会で大きな期待がかかる継続教育においても、いくつかの問題や課題が最近明らかになってきました。

まず、一つは、継続教育に費やす費用や時間が、際限なくふくらむ可能性があることです。一般的に、学位や博士課程などは、一通り課程を終えることで修了しますが、継続教育は、もともと教育体系に組み込まれているものでなく、教育体系を補足する教育であり、ひとつの継続教育を終えても、自分がまだ満足できなかったり、もっとキャリアの成功をめざそうと思えば、いくらでもまた受講できるものがみつかります。それ自体は、決して悪いことではありませんが、継続教育が多くなればなるほど、費用や労力がかさみます。

実際、MBAのように、コース費用が48000〜76000スイスフラン(日本円で550万から860万円)という多額の費用がかかるものもあり、現在、幼稚園から大学までの正規の教育予算の約5分の1にあたる費用が、継続教育に支払われているといわれます(Rost, 2019)。

しかし、このような継続教育の加熱化は、単なる就労者側の問題でなく、雇用者側の責任も大きいとされます。雇用者が従業員を採用する場合はもちろん、従業員の社内での評価でも、継続教育の内容や資格に過大に重視する傾向があるためです(Rost, 2019)。

一方、雇用者自身も、年々、その人の能力を本来推し量るのに有用とされていた継続教育の評価で苦労するようになってきました。スイス国内で公的私的な継続教育機関が3000以上あり、その継続教育の質や内容は、正規の教育機関の教育課程とは異なり、コントロールもされていないため、あまたある継続教育の質を見渡すことは不可能であるためです。

つまり、就労者にとって継続教育が利益となっている面は確かに多い一方、継続教育に膨大や時間や労力が費やされることで、個人や社会全体の不利益や不便も生じてきているといえるでしょう。

継続教育に最重要な目的は、継続教育産業を繁栄させることでなく、就労者にとって利便性の高い学習の場を提供することですので、単に、継続教育の量とコストだけが右上がりに増やすことを助長させないように、継続教育の内容の有効性や収益性を、事業者や社会全体で、クリティカルな視点で観察・監視することが、今後、重要になると思われます。

継続教育によって生じる格差

もうひとつ、継続教育において、新たな問題として浮上してきたのが、格差の問題です。

2016年スイスの就業者の7割が継続教育を受けていますが、内訳をみると、就業者の学歴によって、継続教育の受講量に大きな違いがあります。高学歴の人(第三期の教育課程修了者)の継続教育の受講率は高く、1年で継続教育を受講した人の割合は80%で、ほとんどの人が1つから4つの継続教育を受けていましたが、5%の人は7つ以上の継続教育を受講していました (SKBF, S.271) 。

このような高学歴の人の継続教育受講の割合は、義務教育しか受けていない人で継続教育受講を受けた人の割合に比べると4倍、中期教育修了者(職業訓練課程およびギムナジウムの修了者)の継続教育受講者の割合と比べると1.7倍にもなります。ちなみに、このような学歴による継続教育受講の比率の差は、ヨーロッパのほかの国ぐにと、ほぼ同じ程度です(SKBF, S.276-7)。

このような差は、まず、就業者自身の関心の高さの違いからくるとされます。高学歴の人は継続教育に関心が強くそれに対して自分で費用も多くだす用意があるのに対し、低学歴(義務教育が最終学歴の人)の人たちは継続教育への興味がそもそも低く、それにかける費用も少なくなっています。2011年の調査では、低学歴の従業員に対しても継続教育を費用や時間などなんらかの支援をする雇用者が8割以上ありましたが、それでも継続教育の受講は2割未満で、高学歴従業員の約半分以下でした。(SKBF, S.277)。

雇用者側でも、そのような向学心の高い高学歴の従業員に職場を魅力的にするための、一種の報酬として、継続教育を利用する傾向があるようです。教育研究者ヴォルターStefan Wolterは、「会社は、すでに高い教育があり能力をもつ従業員には、継続教育の機会を提供することに大きな関心がある。被雇用者の企業へのロイヤリティを高めるためだ」(Bürgler, 2019)と、高学歴者に継続教育が偏りやすい理由を説明しています。

いずれにせよ、継続教育という、本来、すべての人に開かれ、(低学歴の人でこれからキャリアをキャッチアップしようとする人にとっても、)チャンスになるはずの教育機会が、高学歴の人にとってはさらなる能力向上になる一方、そうでない人との能力差を広げるのにも一役買ってしまう可能性があるということになります。

これまでの自信と未来へのまなざし

ところで先日、ピサ・テスト(OECD(経済協力開発機構)が進めている国際的な学習到達度に関する調査)が発表になりましたが、それに対するスイスのメディアの報道に興味深いものがありました。

「2000年のピサテストの結果では、読解力も自然科学の学力も、テストの結果では、今回と同じように低いものだった。当時テストを受けた人は現在30代半ばである。そしてわたしたちが知っているように、彼らは無能な世代にはならなかった。むしろ、スタートアップの起業家や高学歴の世代となった」(Furger, 2019, S.23)。

だからピサ・テストなんぞを重視する必要はない、というこの記事の主旨が正しいかは別として、確かに、現在30代のスイスの人たちは、急速に高学歴化しています。25歳から34歳までの人は、高等教育課程を修了した人が51%で、過半数以上となっています。

スイスでは、経済・産業界と密接に連携する自国の職業教育を非常に誇りにされており、逆に、一部の高学歴の親たちに強くなってきた、近年の子供をギムナジウムにいかせ高学歴化させようとする傾向を、自分たちの教育制度を脅かす「国民病」(Hirschi, 2019)や「教育ドーピング」として、強く批判する風潮が、今も根強くみられます(「急成長中のスイスの補習授業ビジネス 〜塾業界とネットを介した学習支援」「進学の機会の平等とは? 〜スイスでの知能検査導入議論と経済格差緩和への取り組み」)。

それほど職業教育を重視・執心する姿勢は、一種のナショナリズムとも思えるほどですが、世界に平準化されそうな現代においても、ゆるぎなく、独自の職業教育の在り方に真価を見出し、ほかの国にたやすく流されようとしないスイス人の気概には、感心させられます。

同時に、スイスでは、現在の状況に安住しようとは思っていないことも注目に値します。国際競争力の高い労働人材を維持・確保していくため、第三期の教育課程修了者の割合を現在の4割から7割まで2030年に、引き上げることを2009年に目標とかかげました(Akademien, 2009)。ただし、ギムナジウム進学者は全体の2割という現在の割合で十分でこれ以上増えるべきではないという見方は依然社会に根強くあり、職業訓練制度からのルートで第三期の教育課程へ行く人を大幅に増やすことが中心的な課題とされています。

あと10年で、どこまで引き上げられるかは不明ですが、すでにそれを受け入れるための柔軟な教育制度や教育インフラはすでにできあがっています。これらを利用して、10年後、第三期の教育課程までのぼっていく人の相対数が、どこまで伸びていくのか。そしてスイス流の、職業教育を重視した高学歴化が今後、国の経済や産業にどのように貢献していくのか(あるいはしないのか)。現在の職業教育や継続教育だけでなく、長期的なスイスの動向に、今後も注目していきたいと思います。

参考文献

Akademien der Wissenschaften Schweiz, Zukunft Bildung Schweiz.
Anforderungen an das schweizerische Bildungssystem 2030, Bern 2009.

Bundesamt für Statistik (BFS), Berufliche Weiterbildung in Unternehmen im Jahr 2015, Neuchâtel 2017,

Bundesamt für Statistik (BFS), Bildung und Wissenschaft, Neuchâtel 2018 Lebenslanges Lernen in der SchweizErgebnisse des Mikrozensus Aus- und Weiterbildung 2016, Neuchâtel 2018.

Bundesamt für Statistik (BFS), Teilnahme an Weiterbildung in der Schweiz. Erste Ergebnisse des Moduls «Weiterbildung» der Schweizerischen Arbeitskräfteerhebung 2009, Neuchâtel 2010.

Bundesamt für Statistik (BFS), Weiterbildung in der Schweiz 2016. Kennzahlen aus dem Mikrozensus Aus- und Weiterbildung, Neuchâtel 2017.

Bürgler, Erich, Viele Schweizer halten Weiterbildung für unnötig. In: Sonntagszeitung, 10.02.2019

Furger, Michael, Pisa ist durchgefallen. In: NZZ am Sonntag, 8.12.2019, S.22-23.

Hirschi, Caspar, Der Hype ums Gymnasium bedroht unser Bidlungssystem. In: NZZ am Sonntag, 11.8.2019.

Höhere Berufsbildung in der Schweiz – Arbeitsdokument SWIR 2/2014

国立研究開発法人科学技術振興機構研究開発戦略センター『科学技術・イノベーション動向報告 ~スイス編~』(2 0 1 6 年度版) 2017年3月

OECD, Country notes: Switzerland. In: Education at a Glance 2019. OECD Indicators, Sept.2019, p.196-197

OECD, Learning for Jobs, Annex B, Summary assessments and policy recommendations for reviewed countries, Switzerland, Hoeckel. K., S. Field and W.N. Grubb (2009)

Pfaff, Isabel, Deutsche umgehen Schweizer Schulsystem. In: Sonntagszeitung, 29.12.2019, S.10.

Rémy Hübschi: Die Berufsbildung im Wandel der Zeit, Tagesgespräch, SRF, 19. November 2019, 13:00 Uhr.

Rost, Katja, Fehlentwicklung in der Berufswelt: Wenn Titel mehr zählen als Talent

SKBF, Bildungsbericht Schweiz 2014. Aarau: Schweizerische Koordinationsstelle für Bildungsforschung, Aarau 2014.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


スイスの職業教育(1) 〜中卒ではじまり大学に続く一貫した職業教育体系

2020-02-01 [EntryURL]

はじめに

OECDの最新の調査報告書によると、OECD諸国の学士課程への入学者の平均年齢が最も低いのは日本で18歳、最も高いのはスイスで24.5歳です。短期高等教育課程入学者の年齢の日本とスイスの差はさらに開き、日本は18歳、スイスは32歳です(OECD, 2019, p.196-7.)。

なぜ、スイスでは高等教育課程への入学年齢は、日本と比べこれほど高いのでしょう。(スイスの人からみれば、日本では入学年齢がなぜこれほど若いのか、ということになるかもしれませんが、)日本とスイスの違いは、どこにあるのでしょう。結論を先に言うと、スイスでは、中学卒業後すぐに職業訓練課程に進む人が多く(逆に普通科高校への進学は24%で、OECD平均35%と比較してかなり低くなっていますOECD 2016)、就労経験を積んだあとに、高等教育課程へ進学するケースが相対的に多いため、入学者の平均年齢が押し上げられているからと考えられます。

このようなスイスの職業教育の在り方について、2008年にOECD(ほか)が実施した職業教育訓練に関する比較調査では、高い評価がされています。とりわけ評価が高かったのは、以下のような点です(以下、その抜粋)。

・職業上の行き詰まるリスクの回避のため、モビリティを高める柔軟性が高い職業教育上の進路が導入されている。

・職業教育のシステムは、国、州(カントン)、専門組織間のパートナーシップが良好に機能しており、適切な国の評価手続が実施され質の管理が徹底されている。

・学校と仕事上の職業訓練がよく統合されており、事業者のなかで行われる職場訓練では、その事業者だけの特殊なものに偏っていない。

・スイスの職業教育制度には資本が十分投下されており、最新の設備も整備されている(筆者の補足:後述する職業訓練課程という基礎職業教育は無料、職業教育の高等教育はほかのスイスの公的教育機関と同程度の比較的安価での受講が可能)。

・高等教育でも、幅の広い職業教育のコースがある。

今回と次回(「スイスの職業教育(2) 〜継続教育(リカレント教育)ブームと新たに広がる格差」)の記事で、このようなスイスの企業と教育機関が連携した職業教育体系と、それに付随して、近年スイス就業者の間で受講が急増している、リカレント教育(継続教育)の在り方についてみていきたいと思います。

現在、職業教育やリカレント教育に対して、世界的に大きな関心が寄せられています。長寿高齢化する先進国では、今後、これまでより高齢になるまで就労する人が増えることが予想(あるいは期待)されますが、長く就労し続けていくためには、若いころ習得した職業能力や現場で積み重ねていく経験だけでは不十分であり、それぞれの職業分野で次々と新しくなっていく技術や知識を学習し、職業能力を更新していくことが不可避であるという理解が、一般的となってきたためです。このため、どの国でも、基礎学力を身につけさせる義務教育や、就労に最低限必要な職業教育だけでなく、就労に必要な能力を更新する学習・再教育を、社会の人々に浸透させることを大きな課題となりつつあります。

1990年代以降、改革・統合されてきたスイスの職業教育体系は、非常に独特で、ほかの国が一部だけを切り取って簡単に導入できるようなものではもちろんありませんが、スイスで重視していること、改革の成果、さらにそこで生まれている新たな課題や傾向など、多様な職業教育やレカレント教育にまつわる具体的なテーマや要素、実例は、日本を含め、今後、職業教育を全面的に推進していく世界各国においても参考になる点が多いと思われますので、ご紹介していきます。

スイスの職業教育の原点 職業訓練課程

最初に、スイスの職業教育体系の重要な柱となっている職業訓練という教育課程について説明します。

スイスでは中学卒業生の3分の1はギムナジウムと呼ばれる大学進学を目指す全日制の学校に進学しますが、残りの3人に2人は、職業訓練課程という教育課程へ進みます。これは、事業者(企業)の実習と職業訓練学校での座学を並行して進める場合が多いため、「デュアルシステム(英語ではDual Education)」ともよく呼ばれます。職業教育の課程として細かくみると、(最初の3年間学校で理論を学び、最後1年間をインターンして修了するという)中等職業専門校というものも若干、スイスに存在しますが、割合として圧倒的に多いのは実習と学校を組み合わせた教育課程です。なので以下でも、この課程についてのみ説明していきます。

職業訓練課程は、仕事の実務と理論を並行して学ぶことを重視し、通常、週のうち3〜4日を企業で働き、1〜2日は職業学校に通うという形からなります。3〜4年間の教育期間の終わりには、筆記と実技両方の修了試験が行われ、合格すると国が認定する職業資格証明証が授与されます。

職業訓練課程に進むには、工業分野、事務職種、流通・サービス関係から建設、健康、芸術までの250種の職業から進みたい職業みつけ、その職業訓練生として自分を採用してくれる事業者を自力でみつけなくてはなりません。通常中学2年ごろから、職場での職業体験などをさせてもらいながら希望の職種を定め、3年生になると、その職種で職業訓練生を募集する事業者に応募をします。

職業訓練生の受け入れは事業者にとっても収益性が高く(職業訓練生は若干の給料をもらいながら3年から4年といった限定した期間のみの就労契約で働きます)、訓練生を募集する事業者は年々増えており、現在、全事業者の約3分の1が、職業訓練生を受け入れています。

このような就労を伴う職業教育制度は、移民的背景をもつ生徒にとっても利点が多いとされます。移民的背景をもつ生徒たちは、語学力や経済力においてスイス人より劣ることが多く、高学歴のキャリアに進むことが難しいですが、この教育課程にすすめば、経済的な負担がかからず(職業訓練学校に年齢制限は特になく、通常公立で受講は無料)、職業訓練生として働くことで、企業から若干の月給も受け取ることができます。人気が高い職種では、スイス人に比べ、移民的背景をもつ人が職業訓練生になりにくいこともままありますが、現在、職業訓練生を募集している企業が多いため、移民的背景をもつ生徒にも、様々な職種が選べる可能性が高くなっています。無事に課程を修了し、国家に認定する職業資格証明証を取得することで、移民であっても就職が容易になり、キャリアの道が開かれていきます(「就労とインテグレーション(社会への統合) 〜 スウェーデンとスイスの比較」)。

このような職業訓練課程は、スイスのこどもたちの間でも、おおむね高い評価を受けているようです。例えば、義務教育卒業間際の生徒の調査では、職業訓練課程へ進むことが決まっている生徒で「とても満足している」と回答する生徒は7割を超え、ギムナジウム進学をひかえている生徒の6割弱より、1割以上高くなっています。実際に職業訓練課程にいってもその傾向は変わらず、職業訓練課程にいる人の大部分(70―75%)が、自分の選んだ職業訓練課程に満足していると回答しています。ちなみに自分の希望ではない職業訓練にいる人(6%)や、進学を希望していた人(約12%)は少数にとどまっています (SKBF, 2014, S. 128, 130)。最終的に、職業訓練課程に進む人の約9割が、修了資格を取得します。

職業教育におけるデュアルシステム(Dual Education)の割合の国際比較)


ほかの国に比べ、スイスはデュアルシステム(学校と職場両方で学ぶ職業訓練課程、グラフでは灰色)の割合が、圧倒的に高いことがわかります。ちなみにスイスほどデュアルシステムの導入率が高くないにせよ、導入している国はかなりあり、韓国や日本のようにデュアルシステムを一切導入していない国のほうが、この表をみると少数派です。

出典: OECD, Learning for Jobs, Annex B, Summary assessments and policy recommendations for reviewed countries, Switzerland, Hoeckel. K., S. Field and W.N. Grubb, p.11 (2009)

職業教育改革の背景

スイスにおいて職業訓練課程は、事業者からも支持され、現在もスイス在住の多くの人にとって、最初の職業教育の機会を提供していますが、このような制度は、これまで安定して存続していたわけではありません。20世紀後半には、制度の存続が危ぶまれました。それは主に二つの理由からです。

まず、1968年以降、ヨーロッパではエリートだけでなく一般の市民たちの間でもギムナジウム・大学という進路をとる人たちが増えてゆくようになったことで、相対的に職業訓練課程に進む人数が少なくなっていきました(1980年代に職業教育課程に進んだ人数は4人に3人で、近年は3人に2人)。このため、このままでは、優秀な人材がすべてギムナジウムに行って職業訓練課程に来なくなり、なし崩し的に(ほかの多くの国のように)長い伝統をもつ職業訓練制度が静かに崩壊していくのでは、という懸念が強まりました。

また、スイスでは、特に1990年代はじめから、生産拠点が国外に移転していきますが、それと同時に、国内の産業が、ハイテク産業やサービス産業へと大きく重心を移していき、産業界の需要が大きく変化しました。これにより、従来の職業訓練制度で、産業界の需要をカバーできない部分が増えました。

このような状況下、1990年代以降、職業教育のあり方が見直され、改革のメスがいれられるようになります。

まず、新しい国内労働市場の需要に対応し、また若者に魅力的な教育課程とするため、職業訓練課程で扱う職業の種類が大きく広げられ、従来ある職種の授業カリキュラムも見直されました。

開かれた第三期教育課程への道

また、職業訓練課程を専攻したあとも進路を幅広く柔軟に選べるよう、教育体系が統合・整備されます。ここでとりわけキーとなるのは、職業訓練課程からの第三期の教育課程への進学を容易に可能にするルートが整備されたことです。ちなみに、第三期の教育課程とは、初期教育課程(小学校)、中期教育課程(日本では中学校や高等学校、スイスでは中学、ギムナジウムや職業訓練課程など)を修了後した人を対象にした、高度な教育課程をさします。英語でTertiary education、third stage、third level、post-secondary educationと呼ばれているもので、大学などの高等教育課程は、ここに入ります。

スイスで高等教育機関に進学するには、大学入学資格というものが必要ですが、これは、従来、ギムナジウム修了者だけが取得できるものでした。(1970年代以降の改革で)職業訓練を修了した人でも高等教育に進むことが論理的に可能となりましたが、制度として整っていなかったため、例外的な扱いで、実際に、職業訓練生で大学に進学する人もほとんどいませんでした。

これに対し、1995年から、職業訓練生のための教育課程と大学入学資格が正規に設けられ、職業訓練課程修了者の高等教育機関への公式なルートが確立されました。これにより、大学入学資格を取得すれば、(ギムナジウム卒業生同様)大学に無試験で入学することができるようになりました。

これに並行して、1990年代以降、専門大学Fachhochschuleが、スイス各地に新たに整備されていきます。スイスの専門大学は、実業を重視する大学という位置付けで、ギムナジウム卒業者が通常進学する総合大学とは差異化されています。入学には、大学入学資格だけでなく、職業訓練課程を修了していることか数年間の就労経験が前提とされており、仕事をしながら通えるカリキュラムも充実しています。職業訓練課程修了者で、大学に進学する人の多くは、(総合大学ではなく)このような専門大学に進みます。

さらに、2002年、職業教育法が改正され、職人やエンジニアなどの職種での、高いレベルの職業教育も、「高等職業教育課程höhere Berufsbildung」という名称で、第三期の教育課程の一部として統合されました。つまり、それまで、職人やエンジニアの職業でマイスターの称号が与えられるような、その分野での最高の教育修了資格でも、職業継続教育としてしか認定されていなかったものが、これ以後、大学などの高等教育課程と同等のレベルと位置付けられたことになります。

教育改革の成果、現在の状況

このような1990年代以後の教育体系全般に及ぶ改革は、好ましい成果を生んできました。

まず、スイスでは、職業訓練課程にいきながら(専門)大学入学資格がとれることになったことで、高等教育への門戸が大きく開かれました。1998年から2011年までの間で、職業訓練課程を修了して専門大学入学資格を取得した人の数は75%増えました。このため、専門大学や総合大学に進学する人はトータルで全体の40%を超え、ほかのOECD諸国よりも若干高い割合になりました。

また、職人やエンジニアの職業継続教育が第三期の教育に統合されたことで、親が低学歴の社会層のなかからも、高等職業教育課程修了者が増えていくことになります。2012年、第三期の教育課程に在籍する人の3分の1が、この高等職業教育課程に在籍しており、その大多数は、低学歴の社会層出身です。

世界的に、高学歴(高等教育を受けた)の親の子供は、低学歴(高等教育を受けていない)の親の子供に比べ、高等教育課程を修了する割合が高い傾向がみられ、スイスでも(ヨーロッパの近隣国ほど差は大きくないものの)同様の傾向がみられます。この問題を緩和するため、これまでも様々な政策が試みられましたが、事情はあまり変わってきませんでした。

つまり、職人やエンジニアのための高等職業教育課程は、社会の学歴差を減らすのに大いに貢献しているといえます(SKBF, 2014, S.180)。

総じて、2018年、スイスでは、25歳から64歳の44%が、第三の教育課程の修了者となっており、OECDの46カ国の平均39%より高くなっています(OECD, 2019)。その約半分は、職業教育訓練課程出身者となっています。

1998年から2011年までの大学入学資格取得者の割合の推移
緑が専門大学入学資格取得者の割合、青がギムナジウムを卒業し大学入学資格取得者の割合、赤が両者を合わせたもの
出典: SKBF, Bildungsbericht Schweiz 2014, S.126.

専門大学卒と総合大学卒のキャリアの相違

ただし、職業教育訓練課程修了者が主にいく専門大学とギムナジウム卒業生が主にいく総合大学が、形の上で同位置に置かれても、卒業後のキャリアで実質的に差別化されていれば、このような制度の整備も意味がないでしょう。そこのところはどうなっているのでしょうか。

卒業後すぐの就業率を比較すると、専門大学の学生は、もともと就労経験があったり就労しながら高等教育を修了をするため、卒業直後の就業率は、総合大学出身者より高めになっていますが、卒業後5年がたつとほぼ同じ比率になります。卒業生の年収をみると(もともと業界の収入が低い芸術や健康・保健分野をのぞき)、分野に関係なく、専門大学と総合大学卒業生の収入は、1年後も、5年後をほとんど同じ程度です(SKBF, S.177-9)。つまり、就労経験を積みながら学ぶ職業訓練課程の経歴が、全日制のギムナジウムが学んだ経歴と、同じようにキャリアにおいて評価されているといえることになります。

また、これまでの研究で、キャリア・ルートが異なっても、一生で稼ぐ収入で換算すると、大きな差異がないこともわかっており(Pfaff, 2019)、総じて、職業訓練課程をルートに高等教育に入る場合と、ギムナジウムから総合大学に入るルートで、卒業後の就業率や年収に大きな違いがないことが、スイスの(少なくともこれまでの)教育システムの大きな特徴となっています。

職業訓練課程とギムナジウムという2本立てのシステムが、学歴格差、そして社会格差に直結していたなら、職業訓練課程に行く人は、年々大幅に減っていったでしょうが、このように、職業訓練課程から専門大学というルートが、ギムナジウムから総合大学というルートと同じように、将来の展望が保たれていることが、今も中学卒業後に職業訓練課程の選択肢を選ぶ人が多い理由ともいえます。

とはいえ、専門大学入学資格を職業訓練課程を修了してすぐとるとも限りませんし、資格をとったあとにすぐに大学に進学するとも限りません。専門大学は、就労経験のある人が入学を許可されており、逆に就労しながら大学に通う人の割合も高く、自分の仕事や家族生活との兼ね合いをみながら、大学で学ぶ期間を決定する人も多いことでしょう。このようなわけで、スイスの高等教育の入学者の平均年齢は、冒頭で示したように、世界的にも高くなっていると思われます。


専門大学の一つチューリヒ応用科学大学の図書館

おわりに

今回は、職業訓練課程を原点にしたスイスの職業教育体系の現状を概観しましたが、次回は、これらの職業教育体系に加えて、最近、高い人気があり、受講が増えている、継続教育についてみていきます。スイスの継続教育の現在の状況をみていきながら、スイスの職業教育の現状と今後の課題について俯瞰してみます。
※ 参考文献は次回の記事の下部に一括して提示します。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


保守政党と環境政党がさぐる新たなヨーロッパ・モデル 〜オーストリアの新政権に注目するヨーロッパの現状と心理

2020-01-25 [EntryURL]

EUのグリーン・ディール政策を追い越す新たな一手

昨年12月に新委員長フォンデアライエンのもとで発足した欧州委員会は(欧州委員会は、欧州連合(EU)の執行機関)、2050年までに温暖化ガスの排出を実質ゼロにすることを柱とした環境・経済・金融政策「欧州グリーン・ディール」を発表し、年明けの今月中旬には、石炭など化石燃料に依存する国々の再生可能エネルギーへの転換などを支援するための投資として、今後10年で1兆ユーロ(約122兆円)を投じる計画を発表しました。

発表直後、1兆ユーロという額の大きさと、本当にそんなに大金が集められるのかといった素朴な疑問がとりわけメディアをさわがせましたが、EUが環境対策に真剣に取り込もうとしている、という意気込みも、よく伝わってきました。

一方、今年の元旦に、EUよりもさらに10年はやい2040年にカーボンニュートラルとなることを、国家の目標としてかかげ、注目された国がありました。中欧の小国オーストリアです。オーストリアでは、その日、国民党と緑の党が最終的に連立政権樹立に合意したことが発表されたのですが、そこで明らかになった詳細の政策内容には、自動車税を増税する一方、国内公共交通すべてが格安で利用できる年間定期券制度や、一律12ユーロの航空券税の導入、国の電力の2030年までに100%グリーン電力化など、画期的な環境政策が盛り込まれていました。

ただしこの新政権がヨーロッパで脚光を浴びた理由は、単にラディカルな環境政策だけではなく、もっと広い文脈からであったようです。今回の記事では、オーストリアの隣国ドイツとスイスの主要メディアで、具体的にどんなことが、オーストリアの新政権で注目されたのかをみていくことで、逆に、ヨーロッパが今抱えている状況や、ヨーロッパが今後向かおうしている方向について、考えてみたいと思います。

180度方向転換した新政権

中道右派の国民党と緑の党が連立に合意したことが発表されると、「ほかのヨーロッパの国々もそうだが、とりわけベルリンでは、多くの人が本当なのかといぶかしげに自分の目をこする」(Krupa, 2020)と言われたように、主要メディアでは驚きが強かったのと同時に、ポジティブな評価が目立ちました。

もともとドイツの保守系あるいは一般大衆向けの新聞では、これまでも、保守的な姿勢を一貫して示してきたオーストリアの国民党とその党首クルツSebatian Kurz首相に好意的な報道をしてきたため、今回の新政権についても肯定的に報道されたことは、特に驚くには当らないかもそれません。しかし、良質のメディアとして知られる中道・リベラル系の各紙も、昨年までのオーストリア政権への批判的なコメントとはうってかわって、好意的な論調の記事でうめつくされていました(一斉に現れた肯定的な論調に、記者やメディア自身が驚く場面すらありました Servus 2020, Deutschland 2020)。

例えばドイツの『ディ・ツァイト Die Zeit』の時評をみてみると、「すばらしいポイントは、よりによってオーストリアの若い保守派のセバスティアン・クルツが、ドイツではまったくできないであろうことを、成し遂げたことである。それは黒緑の連立政権だ(ドイツ語圏ではそれぞれの政党がそれぞれ自分たちの政党を色でたとえる伝統があり、黒はドイツでは保守政党、緑は環境政党を意味します)」(Krupa, 2020)とあります。

「よりによって」という表現からわかるように、国政レベルの保守政党と緑の党の連立がはじめて達成されたことだけではなく(ドイツでは、国政レベルで保守政党と環境政党の連立はまだなく、スイスでは政府に緑の党議員が選出されたことはまだありません)、それが、オーストリアという国で起きたことが、ここでは、驚きとされ、同時に評価されています。

というのも、オーストリではすでに30年以上も前から極右政党が台頭していた国であり、近年ヨーロッパで勢力拡大が危惧されている極右政党の動きと合わせてみれば、いわば「政治的アヴァンギャルド」(Krupa, 2020)の国であるためです。前政権も、クルツの国民党と極右政党である自由党の連立政権でした。しかし昨年5月、自由党党首で副首相であった政治家の汚職疑惑が発覚し、連立が突然崩壊し、クルツ自身も首相辞任に追い込まれたため、9月末に前倒しで総選挙(国民議会定数183)が行われました。

総選挙の結果、クルツの国民党は、前回(2017年)比で6.1ポイント増の得票率37.5%を獲得し、第1党の座の維持に成功しましたが、連立パートナー選びは、それまで連立を組んでいた自由党や第二党の社民党との連立が事実上、困難であったため、当初、難航が予想されました(それまで連立を組んでいた自由党は、9.8%減の16.2%と大きく後退し、スキャンダルまみれの腐敗のイメージが強かったため、再び連立するのは、賢明とはいえず、第二党の社会民主党との連立も、方針の隔たりを理由に、両党ともに、当初から論外という立場を示していました。ちなみに、社会民主党は、5.6ポイント減の21.2%で過去最低の得票率でした)。

結局、国民党は、これまで対立関係にあった第4党の緑の党(得票率13.8%)との数ヶ月に及ぶ長い交渉を行い、300ページ以上の詳細にわたる具体的な政策がとりまとめられ、ようやく年明けに、連立が決定する運びとなりました。

ちなみにオーストリアの緑の党がはじめて与党入りしただけでなく、今回の政権では、ほかにも史上はじめてのことがいくつかおこりました。17人の閣僚の8人が女性と、オーストリアではじめて女性閣僚数が男性数をうわまわり、ボスニア=ヘルツェゴビナ生まれで10歳の時に難民としてオーストリアに移住したという経歴の法務大臣ツァディックAlma Zadicは、はじめての、オーストリア生まれでない大臣となりました。

緑の党が連立へ踏み切った背景

こうみていくと、国民党との連立政権を決断した緑の党が、今回の「驚くべき」展開のキーを握っているようにもみえますが、緑の党は、どんな経緯で、国民党との連立に踏み切ったのでしょう。

ドイツでは、「同盟90/緑の党」(以後、略称として「緑の党」と表記)が1998年から2005年まで連立政権に入っていましたが、その時のパートナーは社会民主党であり、ドイツからみると、保守と緑の連立というのは、未開の境地という感覚が強いのかもしれませんが、少なくとも、オーストリアの地方では、2003年から、保守(国民党)と緑の連立政権が成立して以来、地方議会で、常連コンビとして定着してきました。もう少し正確にいうと、社民と緑の党の連立が成立したのは、過去にも現在でも、ウィーンのみであり、ほかの地方議会ではすべて、緑の党と連立したのは国民党でした。

これには、オーストリアの緑の党の性格も一役買っています。ドイツやスイスでは緑の党は典型的な若者、インテリ、都市部に支持者が圧倒的に集中する党であり、当然、政党の性格も、これら支持層の関心をとりわけ反映していますが、オーストリアでは、それほどきれいに分岐されてはおらず、「地方にいけばいくほど、西にいけばいくほど、緑の党は、市民的(中産階級的)になる」傾向があるといわれます(Löwenstein, Mit Zuckerln, 2020)。つまり、西にいけばいくほど地方では、国民党と緑の党は、実質上、真っ向から対立する政党ではなくなっているといえます。

しかし、このような地方に展開してきた国民党と緑の党の親和性がある程度、背景にあったとはいえ、最初に入る政権が、国民党との連立というのは、緑の党にとっても、ひとつの賭けであり、勇気のいる決断でした。政権入りの決議のために開催された今年はじめの臨時党大会でも、緑の党党首コグラーWerner Koglerも、たしかに「これから数年の間、反対勢力でいるのは、らくなことだっただろう」し、「多くの人が想像するように、このように決断するのは決して簡単ではなかった」(Ruep, 2020)と率直に認めています。

実際、若い党員から、国民党と合意した連立政権契約書(Koalitionsvertrag、契約といっても拘束力はなく、連立政権の覚書に近いもの)がネオリベラルな政府プログラムにすぎず、環境保護の促進を国民党はブレーキをかけるに違いない(Österreich, 2020)という、厳しい批判を受けました。しかし最終的に、党内の反対者はごく一部にとどまり、党会議に参加した代表者の93.2%という圧倒的多数の賛成票を得、連立政権案が決定しました。

どうして、緑の党が踏み切ることができたのか。それは、逆に、緑の党が引き受けなければ、再び極右政党の自由党と政権に返り咲く可能性が高く、環境政策も停滞する、という(緑の党にとって)最悪のシナリオをなんとしても避けたいという意向が強かったからでした。ウィーンの副市長で、党内でも左寄りとされるウィーンの緑の党を率いるヘバインBrigit Hebeinも、これは危険でもあるが「信じれないほど大きなチャンスでもある。これによって、わたしたちは、この国の社会政治の言説を再びポジティブに転じることができるかもしれないからだ」 (Österreich, 2020)と、党の決断を支持しています。

ドイツの緑の党の共同党首のひとりハベックRobert Habeckも、このような党の決断に対して、「保守的な国民党を右翼ポピュリストのたまる角から」「再び民主主義の中央につれもどし、オーストリアに新しい形のオプションを与えることを、みずからの責任と課したオーストリアの緑の党は尊敬に値する」(Herholz, 2020)と、オーストリアの同志にエールを送っています。

画期的な環境政策と引き換えとして見送られた移民政策

一方、新政権に入った緑の党は、ラディカルな環境政策を推進するのと引き換えに、移民・難民政策で、国民党に大幅に譲歩することになりました。14歳までの少女のブルカ着用の禁止や、治安対策と称した難民や移住管理の強化などの、国民党の要望は、昨年までの批判する立場から一転し、容認することになりました。

緑の党の若者の一部では、このような緑の党の譲歩に強い不満がでましたが、この連立政権契約書にもとづいて連立政権に入ることが党大会で承認されているため、保守党と連立していくためには、難民問題で折れるのはやむをえない、と多くの党員は考えているのでしょう。ただし、もし今後、再び難民危機のような事態が勃発し、緊急に新たな対応が政府に迫られることになれば、意見が紛糾して連立はすぐさま崩れ去ることになるかもしれません。

このような緑の党の環境政策を優先する方針は、緑の党支持者たちの間ではどのように、とらえられているでしょうか。緑の党は、2017年の選挙で議席獲得に必要な4%の得票率を確保できず国会を離れていましたが、2019年には10.0ポイント増の躍進を果たしました。これは、なにより昨年の環境デモなどを中心にした国内で環境への関心の高まりが(「ドイツの若者は今世界をどのように見、どんな行動をしているのか 〜ユーチューブのビデオとその波紋から考える」)、躍進の大きな追い風になったためとされます。つまり、今回躍進した緑の党の支持者層のコアの関心は移民政策ではなくむしろ環境政策であると推察され、環境政策が推進されれば、緑の党の支持層は大きく減ることがないだろうという見方が、いまのところ有力です。

主要なメディアの報道と論点

さて、このようなオーストリアの新政権の方向転換は隣国のドイツやスイスでは、どのように映ったのでしょう。具体的に、主要な中道・リベラル系の紙面の内容を抜粋して紹介します。

『南ドイツ新聞 Süddetusche Zeitung』の時評では、今後、イデオロギーの溝を深める戦いでなく、避けがたい妥協を政治の中心に押し出すことが不可欠であるのであり、「環境温暖化から移民まで大きな問題は、すべてあるいは少なくともできるだけ多くの人が協働することが必要であり、異なる世代と異なる政治勢力が集まることでようやく解決策はようやくみつけられる。このため、保守と緑の政権は時代に完璧に適合している」(Münch, 2020)とします。そして「もしもこれ(オーストリアの連立政権 筆者註)がうまくいったなら、多くの人が勝利者になるだろう」し、「国民党と緑の党の同盟は、オーストリアを変えることができるだろうし、その上、例えばドイツのような、ほかの国のモデルケースにもなる」(Münch, 2020)と書いています。

『ディ・ツァイト』の時評では、多くのヨーロッパの国で、長い間つづいた保守と社民の二大政党の時代が終わりとなり、中道派が縮まり、これまででは予想がつかない事態になっているが、そんななか、世代や社会環境の違いが反映された支持者層をもつオーストリアの国民党と緑の党の連立政権は、「反対のものを結びつけ、新しい中道をつくりだすという」こころみだと評価します。そして、政党による支持者層の分裂はオーストリアだけの例外でなく、今日の西側諸国によくみられるため、このようなオーストリアのこころみが「もしもうまくいけば、ウィーンの黒緑(国民党と緑の党の連立政権 筆者註)は、まぎれもなくモデルとなるだろう」といいます。また、「そうなれば、両極(極右と極左 筆者註)は、自分たちの所属するところにとどまる。それは、ほかにほとんど害を及ぼさないところ、つまり周縁(はじ)だ」(Krupa, 2020)とし、両極のラディカルな政治勢力を抑制する効果にもなることを期待しています。

ドイツの中道右派として知られる高級紙『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(Frankfurter Allgemeine Zeitung 略名FAZ)』でも、このような政府が成立できれば、「ヨーロッパでは例がなく、近隣諸国にとって今後の見本として観察される可能性がある」(Löwenstein, Das Klima, 2020)とされています。

スイスの名高い日刊紙『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング (Neue Zürcher Zeitung、略名 NZZ) 』でも、「ウィーンの新しい連立政権は、国境をこえるひとつのイノベーティブな実験」であり「危険をともなったヨーロッパの未来モデル」だという時評を、連立政権が公表になった翌日に載せています(Mijnssen, 2020)。

このような高い期待は、メディアだけでなく、ドイツの一般読者の間でも観察されます。少なくとも『FAZ』の読者向けのオンラインアンケートでは、「オーストリアの保守緑の党の政府は、ドイツの見本か?」という質問に、55%がイエスと回答していました(1月10日現在の794票の投票結果。ちなみにノーが35、どちらともいえないが10%。)(Löwenstein, Das Klima, 2020)。

このようなメディアの反応は、なにを物語っているでしょう。わたしなりにまとめると、以下のようになります。

・ヨーロッパ中、中抜きの両極化傾向がみられ、これまでのような中道が中心となる政治のあり方を理想と考える人たちの間では、今度政情が不安定になる、あるいは危機的な状況である、と悲観的な見方が強かった。

・そんななか、今回のオーストリアの国民党と緑の党の連立は、(国民党は極右ではありませんが、党首は難民問題の強硬派として知られるため)中道派の両脇にあって、国民世代や社会背景が違い、分断していた人々を再びまとめていく動きにみえ、先行きがみえなかった政界において、新しい可能性を示した。

・全く異なる見解や社会背景の人々を支持者にもつ二つの政党が連立することで、環境問題のような国民の生活や国の産業全体に関わる大きな問題でも、大きな進展が期待される。

これらをみていくと、隣国の一連の記事や時評は、確かに、一方でオーストリアを観察・分析してはいるものの、その背後でとりわけ大きな関心としてあるのは、むしろオーストリアではなく、自国やあるいはヨーロッパ全体のこれからのことであり、オーストリアの政治の場を借りながら、自分たちやヨーロッパ全体のこれから進むべき道を模索している、つまり、モノローグに近いものであったといえるかもしれません。

おわりに

連立政権が始動して数日後に流れてきたニュースを聞くと、緑の党が入閣したことが実感されるのと同時に、(昨年まで極右が政界の中央に位置していた)オーストリアという国の今の現実もみえてきます。

緑の党の環境大臣が、リムジンでなく自転車で公務に出勤をはじめた同じ週に、オーストリア初のオーストリア生まれでない大臣に就任したツァディックは、これまでの閣僚とは比べものにならないほどのヘイトスピーチや脅迫を受け、早々に警察による警護対象者となったというのです。

いつかヨーロッパで、この政権の発足が、ヨーロッパの新しいモデルである「オーストリア・モデル」のはじまりだった、と言われる日が本当に来るのでしょうか。まだまだ先行き不透明な新政権の今後の行方に、ヨーロッパが熱く注目しています。

参考文献

Das türkis-grüne Regierungsprogramm im Überblick. Die Vorhaben der Koalition im Detail mit STANDARD-Analysen der einzelnen Kapitel. In: Der Standard, 2. Jänner 2020, 18:02

Deutschland und das „Wiener Modell“. Vorbildwirkung?, ORF, 3. Jänner 2020, 17.26 Uhr

Gasser, Florian, Kaufen Klimaschutz, opfern Asylpolitik. In Österreich stimmen die Grünen für die Koalition mit der ÖVP – und für viele Kompromisse. Ein konservativ-ökologisches Wagnis, das zum Modell für Europa werden könnte. In: Zeit Online, 4. Januar 2020, 20:03 Uhr

Herholz, Andreas, Habeck: Österreich-Bündnis nicht einfach auf Deutschland übertragbar. In: Passauer Neue Presse, 02.01.2020 | 16:58 Uhr

Krupa, Mathhias, Der zweite Frühling. Kommentar In: Zeit Online, 2. Januar 2020

Löwenstein, Stephan, Das Klima und die Grenzen schützen. In: FAZ, Aktualisiert am 02.01.2020-06:24

Löwenstein, Stephan, Mit Zuckerln und Grauslichkeiten. In: FAZ, Aktualisiert am 04.01.2020

Mijnssen, Ivo, Österreichs konservativ-grüne Regierung: Ein Zukunftsmodell für Europa mit Tücken. Kommentar. In: NZZ, 02.01.2020, 13.49 Uhr

Münch, Peter, Das Versuchslabor. Schwarz-grüne Koalition:Versuchslabor Österreich. Kommentar. In: Süddeutsche Zeitung, 2. Januar 2020, 9:35 Uhr

Österreich: Grüne stimmen für Koalition mit ÖVP. In: Süddeutsche Zeitung, 4. Januar 2020, 17:44 Uhr

Ramsauer, Petra/ Mijuk, Gordana, Rechts und grün: Taugt Österreichs Regierung als Vorreiter? In: NZZ am Sonntag, 4.1.2020.

Ruep, Stefanie/ Rohrhofer, Markus, Bundeskongress der Grünen stimmt mit 93 Prozent für Koalition mit ÖVP. In: Der Standard, 4. Jänner 2020,

Schiltz, Christoph B., Diesen Mut vermissen die Deutschen bei ihrer Führung, Meinung. In: Welt, Stand: 03.01.2020

Servus Grüezi Hallo / 8. Januar 2020 14:31 Uhr: In Wien wagen sie mal was. Podcast, Zeit Online.

Shell Jugendstudie. Jugend 2019. Eine Generation meldet sich zu Wort, 2019.

Zadic will nicht klein beigeben, ORF, 11. Jänner 2020, 13.22 Uhr

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


環境対策とコミュニケーション 〜身近な人々との対話に環境問題が織り混ざる時代の批判・ユーモア・価値観

2020-01-20 [EntryURL]

今回と次回の記事では、ヨーロッパ社会で、もっとも広く関心がもたれ、めまぐるしく日々進展している、環境問題・対策関連のテーマからふたつのトピックを扱ってみたいと思います。

「よくスキー場になんかいけるわね。人工雪がどのくらい環境に悪いと思っているの。スキー場に行くことで、あなたは、環境の悪化に加担しているのよ」スノーボード三昧の休暇を終えて帰ってきたところ、隣人に開口一番こう言われた、と先日、知人が言いました。

環境問題がますます深刻化していくことに危機感や使命感をもつ人が増えるということは、環境問題が人々の関係性に新しいタクトや指針も与える可能性がある。ここまでは簡単に想定できますが、それは、今回のような厳しい言葉を、身近な関係の人たちから浴びせられたり、あるいは自分が誰かに浴びせる、ということも意味するのでしょうか。誰かに「ふさわしくない行動」と思われるものを目にしたら、このように行動することこそが、むしろ、これからの新しい「環境意識が高い」人々の模範的な行動とみなされるようになるのでしょうか。

今回は、この話を下敷きにしつつ、環境問題(対策)とこれからのコミュニケーション全般に関して、少し考えてみたいと思います。後半は、コミュニケーションの問題から視座を広げ、コミュニケーションの背後にあるヨーロッパの多様性を尊重する価値観と、環境対策がどんな関係になっているのかについても、考察してみます。

今回選んだテーマは、環境問題やその対策と直接影響することではありませんが、今後、身近な人々の間でも増えていくかもしれない環境問題にまつわるコミュニケーションを、できるだけ誤解やトラブルを減らし、より効果的に、そして気持ちよくすすめていくために、一度、整理して考えてみる甲斐はあるように思いました。ここでわたしが考えたことやそれを通してみなさんが感じたことが、今後、わたしやみなさん自身がどう関わり、あるいはまわりの人の言動にどう接していくかが問われる際の、参考材料になればと思います。

批判の前提となるもの

今回の知人の話をきいて、ダイレクトな物言いにも驚きましたが、批判の対象が知人であったというのも、意外で驚きました。

というのも、その知人は、確かにスノーボード愛好家で雪山によくでかけますが、地域生活では多くのことを実行し、わたしからみると、模範的な市民といってもいいくらいの人であったためです。貧困家族の生活を楽にし、同時にごみを減らすために、有志たちと、食料や衣類や玩具を地域住民から集め、それを定期的に配布したり、小学校のこどもたちが、用具をなるべく捨てずに使い切れるように修復・裁縫をするボランティア活動をしています。食品類のラップや包装ごみを減らすため、蜜蝋をしみこませた布地を自らつくって、母親たちに配っていたこともあります。

隣人は、知人と親しい関係ではないようなので、知人のそんな地域での活動を知らずに、目についた「環境破壊に貢献する素行」で彼女を批判したと思われます。

ここで、ひとつ素朴に疑問に思います。環境問題は全体を一望するのは不可能と思えるほど多岐にわたり、複雑に絡まった問題群です。環境だけでなく教育や格差など社会のほかの多くの問題ともリンクしているはずです。それでも、誰かを、環境問題に関連して批判や評価する時、その目にみえる一部だけがわかっていれば十分なのか、と。

ちなみに、企業はこの点で、人とかなり違う状況にあります。企業ももちろん、批判の対象になりえますが、それを前提に、たとえば、環境負荷が大きい企業活動をしていれば、その埋め合わせるとして、ほかのところで、どんな環境にいいことをしているか、といったことを、少なくとも公にアピールできますし、実際に積極的に公表しているところが多くあります。例えば航空会社が、途上国で植林活動をしていることをアピールするといった具合です。

一方、個人の場合は、近所づきあいくらいでは(それほど親しくない関係では)、お互い、それぞれがしていることのほんの一部しか把握していませんし、できません。これは普通の人間関係ではなんの支障もない(逆に、お互いに監視しあわない自由な関係として利点も多い)ですが、そのような希薄な関係しかない人を、「目についた」一部分で、批判するのは妥当なのでしょうか。

これは反語ではありません。個人的には知人にとても同情しますが、それとは別に一般論として、自分自身に中立的に問いかけています。もし自分がそのような場に直面した場合(自分が言うほうでも、言われるほうであっても)、「環境的に」よくないと判断されることをみつけたら、お互いに批判・指摘しあって、互いの環境意識の向上につとめたり、行動改善をうながす、というのがのぞましいのでしょうか。それとも、ほかのところで何をしているのかわからないのに加え、自分も決して完璧ではないし、自分もできれば言われたくないし、互いにめんどくさくなりたくないからというなどを理由に、(政治行動などとは別に)個人的な関係上では、そのことには触れないでもいいのでしょうか。

ただし、もし隣人が、知人が街の環境や社会的な活動に長年関わってきたことを知ったとしても、隣人の態度が変わらないことも十分考えられます。人や場所や背景によって、環境問題で優先すべき、重要と考えることはかなり異なるでしょうから、隣人にとって、スキー場へ赴く知人のことがどうしても気になり、これからも批判や非難を繰り返するのかもしれません。

批判の内容、仕方、その効果

知人からこの話を聞いたわたしは、スキー場や人工雪について具体的にインプットできるような知識がなかったため、「隣の人は、あなたに意見を変えてもらおうと思って批判したのだと思うけど、その方法は、一方的すぎて心に響きにくく、賢明ではなかったね」という感想をとりあえず述べました。

「批判」という行為において、本質的な内容(メッセージ)ももちろん重要ですが、どんな風にそれを行うか、また、実際に、それがどのような効果をもつか(どのくらい伝わったか)、ということも、同じように重要なファクターだと考えます。このため、批判という行為は、内容だけでなく、やり方やその効果にも配慮することが、有効なコミュニケーションとなるために欠かせません。では、批判的な要素を保ちながら、人々がばらばらに断ち切れるのではなく、むしろ協力関係を持続的に保っていくためには、どんなコミュニケーションがいいのでしょう。

例えば、親戚のおじさんが、時々、高校生の甥っ子の家に訪ねてくるとします。おじさんが、くるたびに、甥っ子がスマホをいじる姿をみると、「スマホ依存症になるぞ」と怒鳴る状況を想像してみてください。甥はどう反応するでしょう。もしおじさんと甥っ子が、ほかにもいろいろな関係やチャンネルをもち、信頼関係がすでにあるなら別ですが、そういうものが一切なく、ただおじさんが、依存症だ、と一方的にコメントを繰り返すだけだったら、多分、「うるさいな」で終わってしまい、おじさんの甥っ子を思い伝えたかったメッセージ「スマホをしすぎるとよくないよ」は、甥っ子にほとんど届かないのではないかと思います。

大人の場合も同じで、ただ一方的に相手を批判するだけでは、伝わる成功率がかなり低いと思われます。誰だって、唐突に個人的に批判をされたら、困惑するでしょうし、批判の内容を吟味する以前に、その言われ方でフラストレーションがたまることも多いでしょう。あ、そうだね、いう通り。そしたら、もうそうしないようにする、と素直に納得する展開には、まずならないようでしょう。

ただし、成功率が比較的低いとしても、批判することで、相手の行動の変化をうながすプレッシャーとして働くことは、ままあるかもしれません。そのような批判を受けるのがわずらわしく、それを今後回避するため、なんらかの措置をとろうという思考が、批判されたほうにでてくるようなことは、(それが賢明な方法かは別として)ありえます。

ちなみに、今回の知人の場合、隣人に批判されたあと、パートナーと、人工雪がどのくらい環境負荷が大きいかを、そのあと、少し話したと言っていました。隣の人の批判になんらかのインパクトがあったといえるのでしょうか。


コミュニケーションするゴミ箱(スイスのソーラーパネルとセンサー付きゴミ箱。
ゴミ箱がいっぱいになった時は、自分でシグナルを出しゴミ回収車を呼ぶ)

苦情が殺到した少女たちのコーラス

もちろん、環境問題は、一対一のコミュニケーションでなく、多くの人に一斉に伝えるマス・コミュニケーションにおいても、重要なテーマです。昨年末、マス・コミュニケーションにおいて、環境に関するユーモア(今回は、皮肉に近いもの)はどうあるべきか(あるいは、どこまでが許容範囲になるか)をめぐり、物議をかもした事例がありました。

昨年末公共放送のひとつでケルンを本拠地とする地方局(WDR)が、童謡の替え歌として、小学生の女子のコーラスに歌わせたのですが、その歌詞が問題となりました。歌詞の内容は要約すると以下のようなものです。

わたしのおばあちゃんは、バイクにのって鶏小屋へいき、医者にはSUVに乗っていく。安いからといって毎日ディスカウントショップで買ってきた(子牛や豚肉の)カツレツを食べ、飛行機にはもうのらないといって(やはり環境汚染で問題視されている 筆者註)大型客船のクルージングの旅行を1年に10回する。

そして、節の終わりには、「おばあちゃんは環境破壊野郎」というフレーズが、リフレインされます。ドイツ語の文字通り翻訳は「環境雌豚Umweltsau」で、「雌豚」というのは、人を貶める時に使う通常こどもたちが使うとあわてて大人が、そんな言い方をしちゃいけません、というたぐいの言葉ですが、この言葉を、コーラス隊はくったくない笑顔で繰り返し歌います。

最後は、トゥンベリの有名なスピーチの一部、「わたしたちは決してあなたたち(大人)にこの問題からのがれさせたりはさせません」という声が流れます。

これが放映されると、批判の声が放送局に殺到しました。高齢者をいっしょくたにして貶めている、度が過ぎる、といった内容に直接関するものもあれば、なんでこんな歌を子供達が歌わなくてはならないんだ、公共放送のお金をこんなことに使うのは無駄だ、という意見などいろいろありましたが、痛烈でおもしろいじゃないかと擁護する声よりも、圧倒的に多かったのが抗議の声でした。このため公共放送側が謝罪することになり、コーラスのビデオもテレビのオンラインサイトからまもなく消去されました。

ところで、この歌の歌詞を聞いて、ドイツ人であれば誰もが、連想するものがありました。それは昨年、ドイツ中でさかんだった若者たちの環境デモ(環境改善へのラディカルな政策を求めるデモ)です。そこでは、スウェーデンの環境アクティビストのグレタ・トゥンベリに鼓舞され、今の年配の世代が環境負荷を積み上げてきた、そして今も積み上げていることで、若い世代の未来を奪いとっている、と主張されましたが(ドイツの若者は今世界をどのように見、どんな行動をしているのか 〜ユーチューブのビデオとその波紋から考える )、この歌では、まさにその環境破壊をつづけ、若者の未来を奪っているという「悪い大人」を具現化しているといえます。

このため、この歌の主旨は、年の暮れのドイツ人にとって、特にめずらしいものではなかったともいえます。にも関わらず、苦情殺到という反応が引き起こされたのは何を意味するでしょう。なににつけても、文句をつけて騒ぎ立てるのが好きな人たちが一定数の苦情屋がいて、話が大きくなったこともあるでしょうが、その分を割り引いたとしても、この歌が、娯楽カルチャーとして許容される範囲を超えている、と不快感を感じた人が一定多数いたからだと思います。

トゥンベリによって掲げられた社会を善と悪に分け大人の世代を(若者と分けて)敵対的にとらえるという単純に濃縮した環境観は、一方で、多くの人に環境意識を高めさせることに貢献しました。他方、現代のドイツを含めたヨーロッパのリベラルな社会の多くの人にとっては、誰かや、その人のなにかを、公的な場で、貶めたり、ばかにするような言動は(これまでのヨーロッパの歴史上の様々な経験に照らし合わせてみると、たとえ一見、とても正義にみたえり、害のないジョークにみえても、社会をある一定の極端な方向にあおる危険があるため)賢明ではない、というコンセンサスが社会にあり、そのコンセンサスを破ってまで環境問題の解決に向けて社会を(ある一定の方向に)動かしていくべき、あるいはそれを題材に娯楽にする、という考えは、少なくとも現在においては、定着していないのだということを、このコーラスのドタバタ騒動は、暗に示しているように思います。


スーパー前の分別ゴミ集積所

ヨーロッパのリベラルな多様性を認める価値規範と環境問題

ところで、このようなヨーロッパのコミュニケーションの上の合意(コンセンサス)は、もちろん、それだけが浮雲のように存在しているのではなく、一定の倫理体系の上に成り立っています。その倫理体系のひとつの重要な部分として、異なる生き方や価値観を認め、できるだけ多様性を尊重するというスタンスがるように思いますが、この倫理体系自体が、環境問題の推進とやっかいな関係にあるようにみえます。

西ヨーロッパでは、特に1968年以降、それまで当然視されていた、さまざまな規範や習慣や社会の役割分担が見直され、それらにしばられていた人々の考え方を解放するのと同時に、異なる人や考え方にも寛容にさせてきました。同性のカップルや、異教徒や、信仰心をもたないこと、女性のキャリア志向や、専業主夫という生き方が(まだ完璧とはいえなにせよ、以前と比べると比べものにならないほど)普通のこととして認められるようになったのは、ほかの人に害を加えない限りその人の生き方や嗜好の多様性を認めるという、リベラルな考え方が社会に浸透してきたおかげです。

このようにヨーロッパが推進してきた多様な生き方や価値を尊重する倫理体系やポリシーは、これまで、社会での多様な問題解決の重要な指針、エンジンとして働いてきました。しかし、環境問題については、どうでしょう。

今年はじめ、シドニー周辺で史上最悪の大規模な山火事が発生したにも関わらず、10万発の盛大な花火が、例年どおり開催されました。環境の非常な危機が身近にあり、取りやめを嘆願する署名が30万人近く集まっていたにもかかわらず、「観光業界にこれ以上大きな打撃を与えないために」花火を断行するのを是とする(経済的に強く裾野の広い)産業界の解釈がより尊重されたといえます。

オーストラリアまで例を探しにいかなくても、ヨーロッパのドイツ語圏でも同様の例は数多くあります。冒頭の隣人が問題にした、スキー場の問題もそうです。アルプスでは温暖化による積雪量の減少が、近年、深刻です。例えば、オーストリアではすでにスキー場の雪の平均7割は人工雪で、イタリアの南チロルの一部では90%から100%(!)が人工雪のところもあるといいます。このため、今後、標高1500メートル以下の場所を中心に、将来は現在あるアルプスのウィンタースポーツのリゾートの半分が立ち行かなくなるというのが専門家の予想です(ツーリズムの未来 〜オーストリアのアルプス・ツーリズムの場合)。

しかし、スキー場の多くは、持続可能性を追求するソフトツーリズムへ思い切ってシフトするより、基本的にこれまでとなにも変わらないやり方で、スキー場を運営しています(ごく一部の地域では、電力を大幅に再生可能エネルギーに替える、公共交通を充実させ自家用車の交通量を減らすといった、動きもみられますが)。むしろ、客数の増加で危機を乗り越えようと、既存のスキー場のさらなる快適化を目指し、ゲレンデを大規模化したり、高速のゴンドラの導入など、新たな投資に力をいれるスキー場も少なくありません。

このようなスキー場をめぐる状況は、スイスやオーストリア社会で問題として意識されるようになって久しいですが、いまだにスキー場と社会両者が妥協できる落とし所が見いだせていません。例えば、規模やエネルギー消費量を大幅に規制する。場所の条件で、スキー場を維持できるかを許可制にする(標高が低い、積雪量が少ない場所は閉鎖にする)。ウィンータースポーツ競技の若手育成助成金をなくし、環境負荷が少ないスポーツにまわす、といった案は、少なくとも今は、どの国でも「想定外」のオプションです。

ウィンタースポーツを愛好する人々(ケルンのスポーツ大学の研究では、ヨーロッパ・アルプスのスキー人口約5000万人いるとされます)も、それが「環境に悪い」と思う人は多くても、目をつぶって容認する場合が多く、その一方で、このような状況を憂い憤っている人がいる。そのような並行状態が続いたままです。

もしスキー場の価値を評価し、それに基づいてスキー場が必要かを「客観的に」判断するという話になったとしても、実際に、どのように「評価」するのが妥当かということでも、また一悶着ありそうです。スキー場の意義や問題点について環境だけでなく、地理的条件、地域の伝統、健康、社交など、どんな側面をみるかによって、評価点がかなり異なってくるでしょうから、多様性の価値を尊重する社会では、「評価」の仕方だけでも争点になりえます。

このように、多様な価値を尊重する社会は、自由になにかを活動させるのはとても上手ですが、意見をまとめ、ひとつの方向に動員するのが、苦手であり、それが故、環境対策に対しても、ジレンマに陥っているようにみえます。

とはいえ、多様な価値や生き方を尊重するというベクトルと、環境対策の強化に必要なベクトルが、同じ方向を向いていないとわかったところで、なんの解決にもなりません。そのふたつのベクトルになんとか折り合いをつけて進ませていくことが、課題であり、現代を生きている我々に課せられたふんばりどころといえるでしょう。


人力と車を組み合わせた車両
(チューリヒ応用科学大学の卒業祭「フラックヴォッヘ」のパレード車)

おわりに

知人の話をきっかけに、環境問題に関するコミュニケーションを、整理しようと試みてきましたが、はてなマークをつけながら気になる点を書き出しただけで、いまだに思考の整理がついたわけではありません。建設現場のような状態です。

しかしこのような思考の建設現場が、わたしには、まず必要であったのかもしれません。先日、スイスの討論番組で司会をつとめるリュティBarbara Lüthiが言っていたことを聞いて、この先に進む道がかすかにみえたような気がしたので、紹介してみます。

討論番組は文字通り、意見の異なる人が議論する番組で、すべての人に満足いくような番組になることは不可能といえるもので、司会する彼女にも、当初、厳しい批判が飛び交ったことに対し、「わたしは批判をうまく扱うことができるし、批判されれば、しっかり受け止めている。批判が建設的なものであれば、そこからなにかを得ることもできるし、変えることもできる」と考えており、この自分が仕事にあっていると確信していると言っています。また、よい仕事をするために、自分が知らないことを認める「ジャーナリスト的な謙虚さ」が不可欠だとします。「自分がすべてをわかっているわけではないのだと感じ始めると、いい問い(質問)が頭に浮かんでくる」(Eugster, 2020, S.27.)からだそうです。

リュティの発言を今回のテーマに結びつけて考えると、こんな解釈になるでしょうか。これからの時代、環境問題やその対策が、社会や生活のあらゆる側面で意識され、改革や修正が求められていくようになり、隣人や知人との他愛ない会話のすきまにも、環境問題や対策に関係する厳しい指摘や個人的な批判も、織り混ざってくるようになるのかもしれない。しかし、批判を受けることや変化自体に恐怖したり躊躇するのでなく、そこに進展につながる建設的な要素があれば、そこからなにかを得て、変わっていけばいい。考えていくうちに答えが見えなくなっても、そのことがまた、(前進するための)新たないい問いに、つながるのかもしれない。

次回は、現在ヨーロッパにおいて、最先端の環境政策と国民を再統合する政治のあり方として、注目・期待がよせられている、オーストリアの新政権についてみていきます(「保守政党と環境政党がさぐる新たなヨーロッパ・モデル 〜オーストリアの新政権に注目するヨーロッパの現状と心理」)。

参考文献

Arnu, Titus/ Prantl, Dominik, Es grunt. In: Süddeutsche Zeitung, 11.1.2020.

Batthyany, Sacha, Greta stört! In: NZZ am Sonntag, 29.9.2019.

Eugster, Andreas, «Routine strengt mich an» In: Coopzeitung, Nr.2, 7.1. 2020, S.26-27.
Eklat um Song

WDR-Kinderchor singt „Oma ist ne alte Umweltsau“, merkur.de, Aktualisiert: 07.01.20 11:25

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


グローバルな潮流と多様性の間で花開くものとは 〜普遍性の追求と「日本的なもの」

2020-01-06 [EntryURL]

マルチカルチュラルな世界における、日本的なものについて

前回(「マルチカルチュラルな社会 〜薄氷の上のおもしろさと危うさ」)に引き続き今回も、マルチカルチュラルな社会がどんな社会なのかについてさぐっていきたいのですが、今回は、マルチカルチュラルな社会とある意味で対極に位置する、ローカルな文化とその役割ということから、考えてみたいと思います。具体的には、「日本的な」もののマルチカルチュラルな世界での意味や価値といったことについて、エキスパートの意見を参考に、少し考えをめぐらしていきたいと思います。

アニメやアート、小説、食文化。どんなものでも日本発祥のものが海外で人気と聞くと、日本人として単純にうれしい気分になります。一方、それのどんなところが、ほかの国の人にとって魅力なのか。その辺りのところが、実はよくわからないと感じることもしばしばです。

以前、日本のドラマに熱中し、中学卒業後、日本にその後留学までしたスイスの中学生生徒がいました。ドラマの中の日本人のしゃべりかたがおもしろい、という理由でドラマ鑑賞を楽しんでいたのですが、なにがどうおもしろいということなのか、最後までどうもよくわかりませんでした。

毎年のように日本に旅行するドイツ人女性に、なぜ日本によく行くのかと訊いた時も、勝手にこちらの漠然とした予想とあまりに異なり、唖然としました。その人は、日本がとてもヨーロッパと違う文化をもつ国なので、日本へ行くと、異なっているものに対する感受性が研ぎすまされ、ヨーロッパにもどってくると、ヨーロッパのなかにある一見とても似ているようにみえるが少しずつ違う地域や文化の多様性について気づきやすくなる。それが、日本にいくとても大切な意味だ、と答えました。

また、合気道や俳句(ドイツ語に訳したもの)を愛好し、家では好んでお箸を使いごはんを食べていたが、それが共通して日本というルーツにつながっていたということに、長らく気づかなかった、と言う人もいました。その人にとって、日本由来のものであるということは単なる結果であって、重要ではなかったようですが、客観的にみて、この人が日本の文化になにか惹かれてたのだと考えると、一体どんなところだったのでしょう。本人でも意識せず説明もできないのに、他人が解釈するのは、かなりハードルが高いことのように思えます。

上にとりあげた人たちが、もしかしたら特殊な部類に属するだけなのかもしれないので、もう少しメジャーな例を考えてみましょう。スイスの本屋や図書館にいくと、多様な日本のマンガやアニメがならんでおり、人気のほどがうかがいしれます。しかし、それらを購入したり借りていく人たちは、具体的に、どんなところに惹きつけられているのでしょう。もちろん人によって違いがあっても、なにか共通する点があるから、一定のマンガがアニメが人気があるのだとすれば、それはなんでしょう。ストーリーでしょうか。背景となる日本っぽい雰囲気でしょうか。それともでてくる主人公たちのしぐさやファッションややりとりの仕方でしょうか。そしてそれは、日本人が感じている感覚と非常に近いものなのでしょうか。それとも実は違うところに魅力を感じているのでしょうか。

こんな風に、いろいろな海外の人にとって日本のどんなところがほかの国の人が惹かれるのかは、気になるところである一方、わたしにとっては、いまだに謎に満ちていてよくわからない領域。そんな風な印象をこれまで抱いていました。

そんななか昨年、日本らしさが、どんな風にほかの国の人に受け止められており、それがどう自社商品の人気と関係しているのか、というテーマについて、無印良品のアートディレクターの原研哉さん(以下、敬称略)の話を聞く機会がありました。チューリヒで行なわれたミニ講演会でのことです。

これは、日本と諸外国との関係が複雑きわまる方程式のように思えて途方にくれているわたしのような者には、ひとつの模範解答を示してもらえたような、示唆に富む内容でした。わたしだけでなく、ほかの方にとっても参考になる点が多いでしょうし、そこでわたしが抱いた所感もまたほかの人と共通するものかもしれないと思いますで、講演の内容とわたしの所感について、以下、抜粋して、紹介させていただきます。ちなみに、本文は、講演は原が最初日本語、後半は英語で講演を行ったものを、私の言葉でまとめたものですので、正確な原の言葉や表現を知りたい方は、今回の公演のベースとなっている、著書『日本のデザイン』(岩波新書、2011年)をご参照ください。

※講演会は、2019年10月2日チューリヒのSato slow living というチューリヒの日本雑貨や布団の専門店の中庭で、デザイナーで出版者Lars Müllerとの対話という形式で開催されたものです。

※講演では、無印良品については、海外での愛称である「MUJI」と呼称で呼ばれていたのと、講演の主たる内容が、海外での日本文化や無印良品商品の受容という観点からであったことから、この記事では、「無印良品」のことを、海外でなじみ深い「MUJI」という名称で、以下、表記していくことにします。

今年10月にオープンしたスイスのMUJI第一号店の店頭にある無印良品の哲学についての説明

世界を席巻するシンプリズム

(以下、講演の論点を抜粋して箇条書きで示していきます)

・近代以前、地球上では、場所や時代によって、様々な需要があり、それと供給をうまく橋渡しする形で、世界でいろいろなものがデザインされ、形を成してきた。

・ヨーロッパでは、産業化の時代以降、量産・消費社会となり、それまで特権階級しかもちえなかった、モノや装飾が庶民にまでわたるような時代になっていった。

・そのような新しい潮流のなかで、装飾や無駄を削ぎ落としたシンプルなデザイン、シンプリズムが、ひとつの新しいデザインの方向性として生まれてきた。

・そして、そのようなシンプリズムへの傾倒・指向は、ヨーロッパにとどまらず、(モノが豊かにいきわたるようになった)世界中で今日、共通してみられるようになった。アメリカからサウジアラビアまで、世界中地域的な違いはなく、どこでも観察できる。

・もちろん、すべての人においてではなく、同じような志向をもっているのはそれぞれの地域の一部分の人たちにすぎないが、そのような世界共通の志向が、世界中まんべんなくみられるようになったことが現代のグローバス社会の特徴である。

日本のエンプティネスの伝統

・一方、日本には、このような世界的なシンプリズムの発達とは異なる、もっと長い歴史がある。

・日本では、10年に及ぶ応仁の乱で京都が大きく破壊された状況下、それまでの贅を尽くした華やかで装飾を重んじる海外を踏襲した美観が一旦リセットされた。そして、なにもないことを美学とし、それを追求する全く新しい芸術や工芸が生まれてくる。(茶道、建築、生け花等々)。この構想を一言でまとめるとすれば、それは「エンプティネス」である。あるものから削ぎ落としていくシンプリズムと違い、最初からなにもない。なにもないから、感性をとぎすませ、想像力を働かせ、ない部分を補う。あるいは、様々な需要や用途にあわせて、それを使いこなす。

・そんなユニークな文化が日本でその後も継承されていった。

グローバルなデザイン志向とMUJI

・そして近代以降、別に発達してきた、日本のエンプティネスの文化と、西欧初のシンプリズムの文化が、お互いに出会うようになると、それぞれが求めるものは、似たような様相となっていた。

・デザインがユニバーサルであるのは必然ではないし、不可欠でもないだろうが、近代以後シンプリズムを信奉するようになった西欧的な文化的な潮流は、日本ルーツのエンプティネスからでてきた文化の価値を認め、評価するようになった。

・MUJIは求めているのは、そのような日本のエンプティネスを発祥とするモノやデザインの延長にあるものである。使う人に使い方を強要せずに、ゆだねる。最小で共通の機能だけをもつ、シンプルな形や機能をもつ(そのことによって、利用者は、逆に個性的に使えるようになる)。

・多様な使い方ができるので、利用者を選ばない。大勢の人が使える。流行とは距離を置いているので、流行に関係なく、長い間使える。そういう哲学でつくられたMUJIの商品は、世界で同じような需要をもっている人に受け入れられている。


スイスの第一号店が開店した週末のMUJI店内の様子

文化的な伝統と普遍的な志向のバランス

原の講演を一言でまとめると、個性的、地域や時代に特徴的なものを体現するものではなく、それらから一定の距離をおいて、共通する機能やデザインを追求したMUJIは、「日本的なエンプティネス」の文化というルーツをもち、それを継承している。そしてそれがシンプリズムを志向する世界中でも現在、高く評価されている、ということであったと思います。

これを聞いて、MUJIが世界で人気がある理由や、またMUJIを愛好する外国の人たちの気持ちが、これまでより想像しやすくなった気がしました。もちろん、MUJIの人気をもう少し違った風に解釈することも可能かもしれませんし、今回のものがMUJI当事者からの説明であるということに留意する必要もあるでしょう。しかし、それらの分を差し引いても、MUJIに長くたずさわってきただけでなく、デザイナーとして世界的に活躍する原が、MUJIを時代や世界の潮流のなかで位置付ける今回の解釈は注目に値するでしょう。

一方、日本というルーツと関連させ、MUJIの人気の背景を読み解く原の説明は、一般論に照らし合わせると、矛盾する点があるようにも、わたしには思われました。

一般的に、特定の文化的特徴を全面に出す文化や商品は、一時期、一部の人の間では、めずらしがられて(いわゆるエキゾチック効果)、一時的に流行することはありますが、いずれは、あきられる運命にさらされがちです。逆にいうと、長い期間、広く愛用されるためには、強烈な個性よりも、むしろ普遍的なメッセージや使いやすいさなど、世界的な共通項を重視することが大切であり、その意味で、シンプリズム志向が世界を席巻する今日においては、出身地の文化的な「自我」を押し出さないMUJIの商品が、世界で受けれられやすいというのは、頭でも想像がしやすく、理解できます。

しかし、原は、デザインにおいて、今日、グローバルな時代にこそ、(普遍性を求めるだけでなく同時に)ローカル性がとても重要なのだと言います。そして、ローカルなルーツからでてきた多様な文化が、グローバルなコンテクストでそれぞれ貢献するというのが、のぞましい目指すところであるとします。原はまた、日本の文化は、最初の端的な「ワオWow」効果を生むが、重要なのはそのあとの、二つ目のワオのほうだ、という言い方もしていました。(例えば、日本食がおいしい、塗り物が見た目がきれいなど)表層的な印象から反射的にでる「ワオ」も(それはそれでいいが)それだけで終わりにならず、それをきっかけに日本に興味をもってくれる人たちが、より深層にある日本のエッセンスを発見・理解し、第二の「ワオ」を経験することになれば、それはもっと深く長く続く(日本との)出会いになるのではないかと言います。

原はこのような言い方を通して、文化の深層にあるローカルな文化の真髄を理解することの意義や重要性を、改めて強調しているように思われますが、ローカルなルーツを重視するデザインと、普遍性を追求するコンセプトやデザインと矛盾することではないのでしょうか。講演を頭で整理しながら、このような新たな疑問に突き当たりました。


スイスのMUJI第一号店がオープンしたショッピングモールに現れた巨大なこいのぼり

現代という時代の日本の文化の位置、価値、意義、意味とは

講演を聞いて、日本文化の海外での受容の仕方にヒントをもらった一方、普遍とローカル性の間の矛盾する関連性という、新たなひっかかる問題が浮上したため、講演の下地となった原の著作『日本のデザイン』を改めて読んでみました。約10年前に連載された記事がもとになった本ですが、今回読み直してみて、今日においても未来の進むべき方向性をよく見通して照らし出しているように思われ感心しました。このように今でも十分読むに値すると思うのはわたしだけではなかったようで、昨年9月に英語訳が出版されたばかりです(Designing Japan. A Future Built on Aesthetics, Lars Müller Publisher, Zürich)。

本の中で、疑問への直接的な解答ではないですが、わたしの表面的で部分的な疑問よりもずっと広く、(マルチカルチュラルな世界を相手に渡り歩いてきたエキスパートらしく)大局的に世界や時代を俯瞰しながら普遍とローカル文化を論じている箇所を、新たにいくつかみつけました。

「西洋文化の蓄積は確かに途方もなく分厚いし、産業や文化を世界に敷衍していく仕組みは見事なものだ。しかしそれで世界は十分であるとは言えない。東洋の端の方に芽生えた密やかな文化であっても、世界に寄与できる点が僅かでもあるなら、必要な場所にそれを機能させていけばいい。世界は常に新たな発想を必要としている。西洋文明の発想で進んできて行き詰まっている世界でもある。奢りや自惚れは慎まなくてはならないが、停滞する世界のお尻をぴしりと叩いて、従来とは異なる価値観に、目を見開いてもらうことも必要なのである。評価されるのではなく機能するとはそういうことだ」(181−2頁)。

「経済がグローバス化すればするほど、つまり金融や投資の仕組み、ものづくりや流通の仕組みが世界規模で連動すればするほど、他方では文化の個別性や独創性への希求が持ち上がってくる。世界の文化は混ぜ合わされて無機質なグレーになり果てるのを嫌うのだ。これは「世界遺産」が注目されていく価値観と根が同じである。幸福や誇りはマネーとは違う位相にある。自国文化のオリジナリティと、それを未来に向けて磨き上げていく営みが、結果として幸福感や充足感と重なってくるのである」(230頁)。

「世界は文化の多様性に満ちており、それらの絶妙なる配合に敏感なアンテナを振り向ける人々が増えている」(128頁)。

「長い間、アジア唯一の経済大国として独自の道を歩んできた日本ではあるが、アジア諸国の経済の台頭と活性によって、自身の相対的価値をあらためて見つめ直す複眼の視点が今、求められている」(132頁)。

おわりに

社会がマルチカルチュラル化するグローバルな潮流のなかで今、自分がどのようなところに立っており、また、自分がそのような潮流とどう関わっていくのか、いきたいのか。そこで、自分が継承してきた文化はどのような意味をなすのか。これは、現代を生きていくどこの人にとって、今後、重要なテーマになっていくのではないかと思います。

原が示したことは、マルチカルチュラルな社会での日本というローカルな文化的ルーツをもつものの価値についてのひとつの考え方にすぎませんし、なにか正解があるという話ではありませんが、原からひとつのすっきりしたわかりやすいセオリーを聞くことで、自分自身の考えが刺激され、開拓されていく気がします。引き続き、これらのテーマについて、自分にとっての大切な課題として、考えていきたいと思います。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥーア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


PAGE TOP




MENU

CONTACT
HOME