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出生率0.8 〜東西統一後の四半世紀の間に東ドイツが体験してきたこと、そしてそれが示唆するもの

2018-12-16 [EntryURL]

今年最後の今回と次回の記事では、今年耳にしたニュースのなかで、とりわけ自分で印象に残ったものをピックアップしてご紹介してみます。今回は、スイスのニュース専門ラジオ放送局の「今日の会談」という番組で11月に取り上げた、東ドイツに関する内容を紹介してみます。今年、東ドイツでは、移民排斥をかかげる極右支持者のデモを繰り返され、対抗デモとの激しい衝突で死者もでましたが、この回では、東ドイツに多いこのような極右支持者のデモの背景を探るというテーマで、ベルリンの人口と発展研究所所長のクリングホルツReiner Klingholz氏が招かれ、東ドイツのこれまでと現在の状況を解説していました(Reiner Klingholz, 2018)。ちなみにこの番組は、毎回約25分、ひとつのテーマについて、それに関連する経済や政界人、あるいは専門家を招いて、集中的に議論やインタビューをするものです。

東西統一後に起こった人口動態の非常事態

冷戦崩壊(東西ドイツ統一)からわずかの間に、180万人もの人口が東ドイツから西ドイツに移動しました。これは、統一前の旧東ドイツ1450万人の人口の、単に数として大きいだけでなく、非常に年齢と性別に特徴がある移動でした。移住者の多くが若い女性であったためです。

これに対し、当初は、女性が多く移動したことに対し、労働者市場は、女性に厳しく、女性に十分な仕事がなかったため、西側に移動せざるをえない女性が続出した、という解釈がされていました。しかしよくみてみると、これまで想定していた事態とかなり違うことがわかりました。まず、当時男性と女性をみると、男性のほうが失業率が高かったため、失業問題が、女性だけが西側に移住する理由ではないことがわかりました。

では、なぜ女性たちがとりわけ西へ向かったのか。それは全く違う事情からでした。当時の東ドイツの女性と男性の学歴を比較すると、男性に比べ女性のほうがギムナジウムと呼ばれる大学進学を前提とする進学校に通う率が50%も高く、逆に普通中学校Hauptschuleしかでていない人や、そこを中退した人の数は、男性のほうが女性よりも100%も多いことがわりました。

つまり、若者世代の性別で、学歴に大きな差異があり、学歴が男性に来れば圧倒的に高い女性たちは、よりよいキャリアのチャンスを求めて、西側に旅立ったということだったのです。

残された東ドイツにあふれたもの ―男性と極右

西へ移り住んだ女性たちは、その後そこで仕事を続けたり家庭をそこで持ったのでしょう。東ドイツに戻ってくる人はわずかしかいませんでした。

この結果、東ドイツでは世界でもまれにみる特別な状況が生じてきます。まず1990・2000年代において20代・30代の若者の性別をみると、女性が男性に比べ30%も少なくなりました。これほど極端な若い女性の割合の減少は、世界にも例がないと言います。

女性が極端にこの地域に少なくなったことで、男性たちはパートナーを非常にみつかけにくくなり、家族をもつことも難しくなりました。そのころ東独では、失業率も高かったため、仕事もなく家庭の希望ももてない男性が2世代にわたって、急増したことになります。その状況はいかなるものだったかは、0.8という当時の出生率がなにより雄弁に物語っているといえるでしょう。世界の様々なところでこれまで出生率が計測されてきましたが、これほど低い出生率はこれまでありません。

ただし、男性が社会に多くなったからといって、男性が多かった西部開拓時代のアメリカ西部のように、社会が暴力にあふれていたわけではありませんでした。西部が、男性が集まってできた社会だったしたら、こっちは、むしろ残された人たちで形成されてきた社会で体質がもともと違います。当時の東独の男性は、暴力性はすくなく、むしろ内向的で、うちに引きこもるタイプであったといいます。

しかし、この頃から、東ドイツに極右勢力が次第に台頭してきます。パートナーがいないことや失業と、極右思想を直接結びける因果関係はありませんが、仕事にもパートナー関係にも失意した世代が、右翼の中心的な世代と一致しています。

このような怒涛のような東独の変化を観察してきたクリングホルツは、2008年、若者男性の救済のための政策をとうよう提言したといいます。新しい社会で、若い男性が、時代にあった適切な役割を果たしていけるように、まず、教育現場で、男子学生に考慮する授業の進め方をするよう提案しました。旧東ドイツからつづいてその当時も、学校教師の職は圧倒的多数を女性たちが占めていました。女性教員が必ずしも悪いわけではもちろんありませんが、男子学生にとって、女性教員が圧倒的多数を占める学校教育ではさまざまな問題の要因が、今日指摘されています。

ちなみに、女子が男子よりも高い学歴になるというパターン、また女性が自分と同じ学歴かそれ以上の学歴で、収入も高い人を自分のパートナーに選ぶ傾向が強いというのも、東ドイツに限らず、先進国のいたるところで起きている現象です。

さいわい数年前から、西側に流出する人よりも西から東にくる人の数が増えるようになり、西への流出は底をついたかのようにみえます。男子と女子の学歴の差も以前に比べれば緩和されました。

一方、現在ドイツの国会にも議席をもつ極右政党「ドイツのための選択肢(略称AfD)」の支持者は、30代・40代が中心です。この世代は、まさに、10から15年前、女性が忽然と自分たちのまわりからいなくなった東独時代に若者だった世代です。当時の若者達が直面させられた状況が、その後も長期にわたって影響を与え続けていると解釈されます。

生活水準全体からみてみると、東ドイツ時代に比べ、この地域の生活水準は格段よくなっています。なかでも、ザクセン州は生活水準がもっともあがった地域とされます。しかし、現在、極右政党の支持基盤が最も大きいのも同じザクセン州です。つまり、東ドイツで起こっていることを説明するには、生活水準だけでは、全く不十分であるということになります。

天秤の左右にのった女性と極右

ここまでが、ラジオで視聴した内容です。これを視聴してすぐに、やはり今年読んだ二つの記事が思い出されました。

ひとつは、オンライン・デジタル・キオスク「ブレンドル」からおすすめの記事として紹介され、今年3月に読んだ「わたしに一つの女性を世話してください。そしたら、ペギーダのデモには行きません」(Reinhard)というタイトルの記事です(オンライン・デジタル・キオスクそのそのキュレーション・サービスについては、「ジャーナリズムを救えるか?ヨーロッパ発オンライン・デジタル・キオスクの試み」、「デジタルメディアとキュレーション 〜情報の大海原を進む際のコンパス」)

ペギーダとは、旧東ドイツを中心として活動している民族主義的政治団体「西洋のイスラム化に反対する愛国的欧州人」の略語で、2014年からドイツ各地でデモを行っています。この記事は、2014年からザクセン州の同権および社会統合(インテグレーション)大臣として働いているケッピングPetra Köppingと彼女のザクセン住民との交流について書かれたものでした。

ケッピングは1958年生まれの旧東ドイツ出身者です。本来、彼女の職務は、男女同権や難民のインテグレーションなのですが、それを推進するためには、女性や外国人ではなく、住民の理解や支持が不可欠であると強く感じ、積極的にザクセンの住民のなかに入っていき、住民たちの話に耳を傾けてきました。このため、ザクセンとくに郊外では、自分たちの話を唯一聞いてくれる政治家として、人気を集めている人物のようです。

ケッピングのところには、ザクセンの住民から様々な手紙も届きます。その一つが、この記事のタイトルになっているようなものでした。ドイツが大量の難民を受け入れることに反対するペギーダのデモに行く男性が、ケッピングに、「女性を世話してください。そうしたら、ペギーダのデモにももう行きませんから」と送ってきたのでした。

ここで、この手紙を書いた人について、筋の通らない話だと一蹴したり、女性や難民の人権や大臣の仕事をなんだと思っているのだと、様々な政治や社会、モラルのレベルの問題として取り上げることは、いくらでも可能でしょう。しかし、この手紙の内容や書いた人を個人的に批判し、説教をたれることよりも、わたしには、今、もっとずっと大切なことがあるような気がしました。

この手紙を投函した人は、自分としては切実な思いにつかれて直接知りもしない州大臣に手紙を書いたのでしょう。自分勝手でナイーブな話ですが、そうだと切り捨てる以上に、今、ザクセン州でできることがないのか。あるのではないか。あってほしい、と思いました。

わたし自身が、東西統一まもない1996年からザクセン州に2年余り滞在し、ザクセンの人々を自分の目で見て接した経験があるから、余計、自分の感情が強く入ってしまうのかもしれませんが、それを差し引いても、東ドイツについては、何度指摘しても強調しすぎにならないほど、重要なことがあります。それは、東ドイツの人々は、母語こそドイツ語で共通ですが、西ドイツとは全く違う制度で生活していた人たちだったということです。そして、東ドイツが西側に統一されるという形でドイツが一つの国家となったため、その中で自分たちの全く新しい境遇になれていく必要がありました。

土地や建物こそ統一で変わったわけではありませんが、自分の住んでいた国が突如なくなって、しかも単一の新しい国として生まれ変わるのでなく、違う国の一部となって歩み始めるという経験は、あまりにも稀有です。同じ統一の経験を西側で経験した人たちにとっては、これがどんなことだったのかを理解するのは難しいでしょう。そのような不可解や不理解をかかえながら、これまで東ドイツの人は歩んできました。その道のりには、どのような前代未聞の様々な試練があったかは、容易に想像されます。

過去にさかのぼって当時の人に何かをすることはもちろんできませんが、ケッピングのように、現在の旧東独の人たちの気持ちを聞いて、なにが必要なのかを考え、なにかを変えていくことは、少なくともできます。以前、東ドイツの市民らの不安を少しでも取り除くすためにと開設されたホットラインについて紹介しましたが、これもまた、そのような試みのひとつとして、評価できるでしょう(「悩める人たちのためのホットライン」が映し出すドイツの現状 〜お互いを尊重する対話というアプローチ)。

未来の東ドイツの状況が、1990年代以降の様々な経験から多くを学び、よい道に続いて行くよう祈るばかりです。

東ヨーロッパ、そして世界全体で起こっていることとの相関性

もう一つ、このラジオのニュースを聞いて、すぐに思い起こされたのが、『アフター・ヨーロッパ』の著者で、今年3月にスイスの新聞の日曜版に掲載されたブルガリア人政治学研究者イワン・クラステフ Ivan Krastevへのインタビュー記事です。

これについては、すでに記事で紹介したことがありますので、詳細はここでは割愛しますが、東ヨーロッパは全般に冷戦終結後、若者を中心に出国する人が後を絶たず人口が減り続け、冷戦終結から四半世紀たった今日、社会に深刻な問題が生じてきていること。しかし事態の改善を試みようにも、EUという枠組みで移動する人口移動に対し(EU加盟国)の国レベルで対処することは難しく、根本的に、社会構造に由来する問題を解決することがいかに難しいことが、鮮明になる示唆に富む記事でした(「東ヨーロッパからみえてくる世界的な潮流(1) 〜「普通」を目指した国ぐにの理想と直面している現実」)

クラステフの指摘を聞き、東ヨーロッパが今置かれている状況の深刻さを思う一方、このような東ヨーロッパ全体の状況は、意外にも、イギリスのブレグジットの背景との相関性もあるのでは、という気もしてきました。というのも、イギリスのジャーナリスト、グットハートDavid Gooodhartが、ブレグジットの社会的背景を説明するために、大変興味深い分析概念を用いているためです。それは、「どこかSomewhere 」タイプと「どこでもAnywhere 」タイプという概念です。

「どこか」の人たちとは、安全、伝統、家族などを重視し、変化に慎重な保守派で、自分のアイデンティティーは、個人というより、なんらかの所属する集団に求めます。学歴はそれほど高くなく、地域に根付いていた生活や就労をしています。これに対し「どこでも」タイプの人は、順応性や柔軟性にたけ、自主性が強く、所属するグループではなく、自分が成し遂げることに重きを置きます。都会に多く、学歴は全般に「どこか」タイプより高い傾向にあります(「東ヨーロッパからみえてくる世界的な潮流(2) 〜移民の受け入れ問題と鍵を握る「どこか」派」)。

グットハートの説はイギリスの置かれた状況を説明するのに興味深いだけでなく、非常に汎用性の高い概念でもあるように思われます。「どこでも」派と「どこか」派の対立、また、「どこでも」派のいる中心から離れた周辺に取り残された「どこか」派が直面している様々な問題。これらは、現在、世界のいたるところで多かれ少なかれ起こっている問題ではないでしょうか。同様に、それらの対立や問題が緩和される見通しが見当たらず、当面、緊張や溝が大きくなる兆しがみられる、というのも、多くの国に共通しているようにみえます。

さらに、人の流れに視座を広げると、西欧社会は周辺国家の人々を巻き込み、封建時代の「奉公人」に匹敵するような世界的な階級社会化が起きているのではないか、というバルトマンの指摘(「人出が不足するアウトソーシング産業とグローバル・ケア・チェーン」)の重みも感じます。

東ドイツについてのニュース報道は、このように、今という時代や世界を鳥瞰する視界にまで、遠く連れさっていくような、非常に考えさせられる、どしりと重いテーマであり、わたしにとって今年、一番心に残るニュースとなりました。

次回は明るく、年の終わりをしめくくります

さて次回は、今回とは一転し、今年聞いた明るい「グッド・ニュース」のほうに的をしぼり、今年最後の締めの記事にしたいと思います。またおつきあいただければ、さいわいです。

参考文献・サイト

Reiner Klingholz zur Bevölkerungsentwicklung Ostdeutschlands, Tagegespräch,SRF, 16.11.2018. , 13:00 Uhr

Reinhard, Doreen,»Besorgen Sie mir einfach eine Frau. Dann gehe ich nicht mehr zu Pegida« In: Brigitte, Montag, 12. März 2018.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


日本へ行こう! 〜スイス人観光客の心理をさぐる

2018-12-13 [EntryURL]

行ってみたい、が。。。

前回、日本は、異質な感じがして理解しにくい一方、好奇心を駆り立てられる国として、スイス人の目には映っているようだという話をしました(「異質さと親近感 〜スイス人の目に映る今の「日本」の姿とは」)。

ただ、これまでは、そのように日本に興味をもったとしても、実際に行こうと思う人は、ごく少数派でした。1万キロも離れていて直行便でも12時間もかかる。国内で英語を話せる人が少なくコミュニケーションが難しい。そんな大小様々なことを理由に、日本旅行は敷居が高く感じられていたように思われます。

日本への旅行というテーマが話題になっても、行ってはみたいのだけど本当には行けないよ、というところで話が終わるのがこれまでの一般的なパターンでした。

しかし、スイス人と対話した展示会場では、そのような(わたしの中の勝手な)常識を覆す体験をしました。燕三条の製品や日本への関心を強く示した人たちに、いっそ日本に行ってみたらどうですか、と(こちらとしては)冗談半分のつもりで提案する展開になることがたびたびあったのですが、「そうですね。じゃあ、行ってみます」と、いとも簡単に答える人が、かなりいたためです。もちろん展示会場にいるという時点で、日本にもともと関心があった人である可能性は高く、そのことを差し引いて考える必要はありますが、それにしても、行きますか、ええ、そしたら行ってみます、とこれほど簡単に返答するノリは、20年余りドイツ語圏の人と関わってきたわたしにとって、新鮮な経験でした。

日本への旅行というものに抱く感覚や想定が、かなり変わってきている。日本旅行への敷居が確実に低くなっているようだ、と強く感じました。

近くなった日本

もちろん、そう返答した人のなかで、実際にどれだけの人が日本行きの旅行をするのかはわかりません。しかし、実際の観光客のデータをみると、スイスからの観光客が近年急増していることがわかります。2011年から5年後の2016年までの間に16410人から44232人と3倍に増加しました(訪日ラボ、2017年)。

人数的にみると、中国やアジア諸国からの韓国客に比べ、微々たるものにみえますが、日本にきたスイス人の数をスイス全体の人口比でみると、0.53%であり(2016年の場合)、これは中国からの観光客の人口比0.47%やイギリス人の観光客の人口比0.45%よりも、高い数値です(説田、2017年)。

どうして、こんなにスイス人のフットワークが軽くなったのでしょう。これには、様々な要因が重なっていると考えられます。とりわけ大きな要因となっていることをあげるとすれば、

・世界的に現在、航空運賃が安い

・スイスフラン高の影響で、海外旅行が割安に感じられやすい

・オンライン上の旅行情報や翻訳機能などの技術進歩のおかげで、言葉が通じない国での旅行がしやすくなった

といったことではないかと思います。しかし、これらの項目は、海外旅行全般を促進するものであって、日本への旅行に直接結びつく理由ではありません。ほかに、日本に足を向けさせる別の理由もあるのでしょうか。

日本観光の特典

あります。特に決定的なのが、日本にしかない観光資源と、旅行者にとっての高い安全性という二つのファクターであると思います。

観光資源については、歴史的な都市の街並みや自然をめぐる観光(スイス人は日本滞在中、ハイキングやウィンタースポーツなど、自然を堪能する過ごし方を比較的多くします)、日本食、アニメやゲーム関連施設など、非常にバラエティに富み、世界的にも唯一あるいは希少なものも多くあります。

一方、ただ観光資源があり、それを観光キャンペーンでアピールするだけでは、マスツーリズムにはなりません。安心して赴くことができる国である(と思える)ことがネックでしょう。その点、日本は、治安がよく、電車が遅れない。人はまじめで礼儀正しいというイメージが、スイスでは一般に知られており、観光のホスト国としては優良な印象です。

前回、日本はスイス人にとって、異質な感がするけれど、ポジティブな親しみももてる国だと書きました。それに加えて観光資源が豊富で、しかも安心していける国であると(思えたと)すれば、どうでしょう。これほどこの4点セットが揃った国は、世界を見渡してもあまり多くないのではないかと思います。

こんな日本は、とりわけ、あるタイプの人の心を惹きつけてやまないのではと想像します。それは、エキゾチックなものへの好奇心とちょっと冒険心がある人たちです。安心していける国であるだけでは、少し物足りない。できれば、ちょっとした「異質さ」を感じ、ちょっとだけ(スイス人的な感覚からすると)「冒険」的な体験をしてみたい。しかし本当に危険な冒険はお断り。そんな、スイスの無難な冒険希望者にとっては、とりわけ、今の日本はもってこいの国で、魅力的に映るのではないかと思われます。

不安がないというのは本当?

ここまで読まれて、しかしこれだけ自然災害などが頻発していて、本当に、そんなに安全だと思えるのか、と思われる方もいるかもしれません。

確かに、日本で台風や地震で大きな被害があると、スイスでも報道されています。福島の原発事故についても、たびたびその後の状況などについて様々な角度から報道されてきました。このため、それらが自分の滞在中に起こるうることも承知しており、不安が全くないわけではもちろんないでしょう。

一方、世界中では日々色々なことが起きており、それが連日どこの国でも、ごちゃまぜになって、海外からのニュースとして報道されています。このため、ニュースを聞いているだけでは、ある第三国において、そこでどのくらいの頻度でどのくらいの災害が起きているのかまで把握するのは難しいでしょう。またたとえ、日本での地震や台風被害について気をつけて聞いていたとしても、その怖さについては、(自国で地震や台風の被害は受けることはまずないため)実際にはあまりピンとこない、ということもあるかもしれません。

少なくとも、今回、日本に行ってみます、と会場で私に答えた人たちで、日本の地震や台風に対する危惧を表したり、どのくらい危険なのかを、たずねてくる人はいませんでした。ただし、今年のように、全国的に大規模な自然災害が続くと、今後、少しずつ観光客の知見や認識も変わり、旅行者の判断や行動にも恒常的な影響がでてくるのかもしれません。

いずれにせよ、日本滞在中は、日本人だけでなく、海外からの旅行者も最大限安全に過ごしてもらうために、日本の観光振興側は、今後、観光資源のアピールだけでなく、海外からの観光客にわかりやすい非常の場合に備えた情報やインフラを整え、それについても積極的に観光客に伝えていくことが、「安心して」行ける国でありつづけるために、非常に重要でしょう。

これに少し関連することとして、もう一つ、新しいヨーロッパの動きを付記しておきます。近年、ヨーロッパ社会では、世界的なフライトの急増を受け、環境への影響を懸念する声もまた強まっています。スウェーデンでは、今年、そこから一歩先に進み、4月からすべてのフライトに燃料税を導入しました。またスウェーデン国民の間でも、飛行機のフライトを抑制しようという言動がソーシャルメディアで盛り上がり、#flygsham(スウェーデン語で「フライトの恥じ」)という言葉が「今年の言葉」の有力候補にあげられるほどでした(Wolff, Reporter)。

環境問題というグローバルな問題に対して、観光客のホスト側の国として、日本はどう関わり、観光客たちにそれを説明したり、アピールしていくのか、ということも、今後、大きな課題となってくるのではないかと思います。

おわりに

ところで、これから日本に行ってみようという人も多かったですが、すでに行ったことがある人にも、展示会場でかなり会いました。展示をみながら、日本の滞在をなつかしく思いだしたり、そこでの「冒険」を話す人。また行きたい、とはりきっている人。少しできるようになった日本語で話しかけようとする人。このようなスイスの人の姿をみると、彼らがいかに日本を堪能したのかがよくわかります。

これから、スイスから日本へ旅立とうとする人たちも、これらの人たちと同様に、日本での旅で、たくさん感動することに出会い、日本人や日本についての理解を、いろどり深く多様に広げていってくれることを願うばかりです。

主要参考文献・サイト

日本政府観光局、訪日外客数の動向 (2018年11月22日閲覧)

説田英香「日本ブーム」到来 旅行先としての日本の魅力とは、スイスインフォ、2017年07月28日、09:14

訪日ラボ編集部「実は穴場インバウンド市場「訪日スイス人」:中国やイギリスよりも人口でみた訪日率高いスイスで起きている「プチ訪日ブーム」その理由とは?」、訪日ラボ、国内最大級のインバウンドニュースサイト、2017年9月11日。(2018年11月16日閲覧)

Wolff, Reinhard, Schweden bleiben auf dem Boden. In: klimareporter, 14. November 2018.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


異質さと親近感 〜スイス人の目に映る今の「日本」の姿とは

2018-12-03 [EntryURL]

1990年代半ばごろまで、日本からの観光客は、ヨーロッパのいたるところでみかけられ、カメラをぶらさげて急ぎ足で各国を横断する観光客の代名詞にまでなっていました。しかし、そのようなヨーロッパ観光地で名物だった「日本人観光客」の姿は、バブル経済がはじけて以降、一気に影をひそめます。今日、ヨーロッパの観光地で、博物館の多言語の音声ガイドで日本語サービスがなかったり、観光地の入り口に、観光客への歓迎の意を示すために並んで飾ってある国旗に日の丸がないのをみると、日本からの観光客の存在感が小さくなったことが実感されます。

一方、世界への観光客の輩出の勢いが衰えたのとはうらはらに、日本という地理的な国土は、海外からの観光客が大勢訪れる、一大観光地へと、急激に変貌しつつあります。福島の原発事故や、大地震、大型台風など、毎年のように大きな自然災害や惨事に見舞われ、一時的に客足が大きく落ち込む時期はあったものの、ここ10年間、観光客の数は、順調に伸びてきました。2007年に800万人を超えた外国からの訪問者数は、2016年にはその約3倍の2400万人、2017年には2870万人になっています。

ヨーロッパからの観光客も増加の一途をたどっていますが、どんな経緯で、なぜ今、日本に大挙して来るようになったのでしょうか。もちろん観光キャンペーンが功を奏しているなど、直接的な要因も大きいですが、その背景で、ほかにどんなことが起こっているのでしょう。例えば、日本はどんな国として、近年、ヨーロッパ人の間では映っているのでしょう。

先日、それ(ヨーロッパの人の日本への関心や日本へ渡航するモチベーション)を、かいまみたように感じる出来事がありました。2年に一度開催されるスイスのデザイン展示会Designers Saturdayに、今年新潟県の燕三条の地場産業の公開行事「工場の祭典」が招待されたのですが、そこで通訳として関わらせてもらった時のことです。展示会場で老若男女の来訪客とやりとりするなかで、スイス人たちが、現在、日本についてどんな風に感じているのかが、透けてみえてきたように感じました。

今回と次回の記事では、その時に得た印象や気づきをもとに、現在のスイス人が日本についてどんな思いを抱いているのか、また、実際に日本に行く人たちの観光客の心理について、ほかの事象や統計にも照らし合わせながら、考えてみたいと思います(ちなみに、今回会場で直接対話した方の圧倒的多数が、スイス人であったため、スイス人について語るという形式をとりますが、ここで「スイス人」について書いたことの少なからぬ部分は、ヨーロッパ人全般にも該当するかもしれない、と推測します。)

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異質な国 日本

スイス人にとって、日本について思う時、最初にくる印象とは、ずばりどんなものでしょう。誤解を恐れず一言で言うと、ヨーロッパとは別の文化、歴史的なルーツをもつ国、よくも悪くも自分たちとは「異質な国」、といった感じではないかと思います。ただし、面と向かってこうスイス人に聞いたとしても(相手への配慮に重きを置き、単刀直入に回答するとは限らない)スイス人のメンタリティを考慮すると、即答で同じような回答を得ることはまずないと予想されますが。

日本は、G7のメンバーであり、民主主義的な国家運営をし、国際社会への協力的な姿勢も戦後一貫してみせてきた(スイスや西側諸国の)「仲間」です。他方、いまだに、独特の伝統や慣習がさまざまな形で強く残っており、独自の秩序が成立している国というイメージが、スイス人の間に、強くあるのではないかと思われるためです。

ただし、異質である感じが強いとはいえ、「異質であるから」ということだけで、侮蔑や見下げる対象とはほとんどなっていないようです。ヨーロッパでは、19世紀以降、帝国主義や植民地化や二つの大きな戦争、共産社会主義体制との対立と冷戦状態など、さまざまなことを経験しながら、150年前には当たり前のようにとられられていた、直線的な文化経済発展論や、単純な西欧人優位論を繰り返し吟味、検証してきました。そして、今日、文化相対主義や、多文化主義を唱えてみたり、それぞれの文化の位置づけを考えるよりそれぞれの異文化間の間での円滑なコミュニケーションの手段や方法について重心をシフトさせて考える時代になってきたように思います。

このような時代には、ある文化圏の人々が、自分たちが有するもの、ヨーロッパ的なものと違っているからといって、すぐさま劣っている、と即断することは、愚かで「進歩的」ではない、という考えが(少なくとも表向きには)広範に定着しています。日本は、なかでも、西側諸国の仲間としてつきあいの長い国であるだけに、異質性がみられるというだけで、安直に評価を目減りさせるというような考え方は、まず一般的な支持が得られなくなっているように思われます。

言ってみればスイス人にとって日本とは、近所づきあいを長らくする仲になってはいるけれど、いまだに、いろいろと勝手が違うところがあり、家族や友人のように打ち解けるような仲にはなっていない、といったところでしょうか。

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日本のロボット観への理解、そのような日本人へのまなざし

では、具体的にどんなことが「異質な感じ」を抱かせるのでしょう。それを細かく言及しはじめると、日本の歴史や文化、メンタリティまで実に多岐の分野にわたり、それだけで膨大なテーマになってしまいそうです。しかし、「異質性」自体がこの記事の本題ではないので、ここでは最近顕著にみられる「異質性」を感じる例として、一つの分野に限定して話をすすめてみます。

それは、数年来繰り返し、メディアと通じスイスで紹介・注目されてきた、日本人のつくるロボットや日本人のロボットへの思い(ロボット観)、といったロボットにまつわるテーマです。

いくつか、今年、日本のロボットについてとりあげたメディアを例として紹介してみましょう。スイスの公共放送の主要な科学番組である「アインシュタイン」では、5月にロボットについての90分の特番が組まれ、様々な種類の最先端の世界の多様なロボット技術が紹介されていましたが、そのなかで、ホンダの二足歩行ロボットのアシモ、石黒浩教授のアンドロイド、初音ミクなどが紹介されていました。

ヴィンタートゥアの産業博物館では今年5月末から11月はじめまで、「Hello, Robot」というタイトルで多種多様なロボットにまつわるものやアイデアを展示していましたが、冒頭のロボットのイメージというコーナーでは、ガンダムの模型とマンガ『攻殻機動隊』が展示され、展示内部には、犬型ロボット「アイボ」やあざらし型のセラピーロボット「パロ」、また石黒浩教授とそのそっくりアンドロイドが並んだ大判の写真などが展示されていました。

また、今秋、ロボット映画特集を組んだ映画館では、「攻殻機動隊」が数回上映されていました。

このようなテーマが、近年スイスで繰り返しとりあげられてきたのは、そのロボット構想や思想自体が、世界的にみても時代を先取って優れてユニークなものと位置付けられているため、ということももちろんありますが、それだけでないように思われます。それらを生み出し、それらと関わる日本人の姿が、非常に独特に映り、関心をそそられたからではないかと思われます。

例えば、日本人が、ロボットを仲間のように扱い、ラジオ体操を朝から会社でしていたり(させるようにプログラミングしていたり)、介護施設のセラピーにぬいぐるみのようなやさしい動きをするセラピーロボットを利用するというのが、「日本の典型的なロボットとの関わり方」であるかのように、スイスでは紹介されます。これらを見れば、日本人はロボットを強く信頼し、人に対するような感情を抱いて接していると思うでしょう。

このような(スイス人の目に映る日本人の)「態度」は、スイスでは、異質な感じを抱かせます。スイスやヨーロッパでは、生き物でもないものに生き物のような愛情をかけることが、非人間的に思え、抵抗を強く覚えるためです。一概に悪いと思わなくても、生理的に受け難いようです。

ただしそのような倫理的なタブーを乗り越えて、もっともロボットを介護分野などでも多用すべきだという主張は、ヨーロッパでも最近、少しずつでてきています。昨年コラムで取り上げた、2016年にアウトソーシングの仕事に従事する人々の問題を告発し、昨年話題となった『奉公人』の著者バルトマンも、介護分野などにもっとケア・ロボットを導入し代行させることを提案する一人でした(「人出が不足するアウトソーシング産業とグローバル・ケア・チェーン」)。

そして、バルトマンもそうですが、ロボットを人の代替として未来において奨励すべきだという主張がヨーロッパで出る時、必ずといっていいほど、引き合いにだされるのが、(ヨーロッパ人がイメージする)日本人のロボット観やロボットとの付き合い方です。

違和感と共感の併存がカギ

他方、異質に思うだけでなく、同じ日本人に対して、親近感を抱いている人も、スイス人の中には増えてきているように思います。日本に、洗練された様々な文化や産業、伝統があると認めたり、まじめで、協調性があって、ひかえめな性格、といった日本人の一般的なイメージが、主体性や個性がないというネガティブな評価ではなく、好感をもって評価されている場面をたびたびみかけます。

そのように好感がもたれやすいのは、日本人の美徳や態度が、スイス人の美徳や性格に相通じるところがあるから、といえるかもしれません。例えば、日本の製造業での高い品質や正確にすすむ電車などは、スイス自身が自国において評価したり、ほこりにしているところとも重なっています(例えば「スイス人と鉄道 〜国際競争力としての時間に正確な習慣)。

まとめてみると、日本に対して、異質感と親近感、両者が共存している、というのが、現在の日本への見方の特徴であるように思われます。今日、スイス人のなかで日本人や日本に違和感や不思議な感じをもち、好奇心を駆り立てられる人の割合は、その逆、つまり日本人でスイスやスイス人に違和感や不思議さや好奇心を抱く人の割合よりも、ずっと高いと言えるでしょう。

これは、少し冷めた捉え方をすれば、メディアが率先して、ポジティブなイメージと異質感がドッキングし、そのギャップがあるから余計おもしろい、と演出することが多く、日本が、なにか特別にセンセーショナルなものであるかのように仕立てあげられている、ということであるのかもしれません。

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次回に続く

不思議さと親しみやすさ、異質だけど信頼ができそう、といった、相反する二つの面が共存しているのが、今のスイス人の日本のイメージだとすると、そんなイメージを抱いたスイス人たちは、その先どうするのでしょう。このようなギャップに好奇心を駆り立てられ、そんな国にあえて行ってみたくなる人がでてくるのも不思議はありません。

次回は、そんな、日本に行ってみたいと思うスイス人に注目し、その人たちの心理や、日本側のこれからの課題について、考えてみたいと思います。

参考サイト

bei den Robotern. In: Einstein, SRF, 03.05.2018, 20:11 Uhr

«Hello Robot», Gewerbemuseum Winterthur,

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


「今日はちょっと、いろいろあって」 〜言葉の通訳と異文化間のコーディネイト

2018-11-26 [EntryURL]

わたしはプロの通訳ではありませんが、これまで、たびたび日独の通訳の仕事に携わることがあり、通訳という仕事をテーマに、先日スイスの新聞社から取材を受ける機会がありました。

質問を機に、自分のこれまでの通訳の仕事について改めて考えてみて、気づいたことがありました。それは、一つの言葉から違う言葉への変換作業だけでなく、その背後で、日本とドイツ語圏という二つの大きく異なる文化圏の人々のコミュニケーションの最適化をはかるため、なにができるか、必要かということに重きを置いてきた、ということです。そのことが、新聞の記事においても中心的に扱われていたため、もしかしてこのことは、自分ではこれまであまり意識せずに当然のことのように行なってきましたが、それほど自明なことではなく、新鮮に思う人がいたり、あるいは全く違う意見を持つ人もいるのかもしれない、と推察しました。

このため、今回は、自分が通訳する際の、表面的な通訳作業と同時に重視しているそのような部分について、ご紹介してみたいと思います。ただし、これはまったく私の主観的な判断と意見にすぎませんので、異文化間のコミュニケーションに関わっておられる方や、関心をもたれている方に、参考にしていただけるならもちろんうれしいですが、私の意見と違う方がいれば、どんな風にお考えなのかも、聞かせていただければうれしく思います(ちなみに、同じ言語の橋渡しであっても、全く違った条件と環境で橋渡しする作業である翻訳については、今回、対象外とします)。

「あんた、頭がおかしいのか!」

いきなり人を罵倒する乱暴な言葉で恐縮ですが、これは以前、日本である銀行に、一人の外国人に通訳として同行した際、その人が不満を爆発させて発した言葉です。知り合いでも、恋敵でもなんでもない、単なる窓口業務担当の人に発したこんな言葉を、わたしはそのまま通訳しませんでした。

その理由を、今改めて言葉で説明するとすれば、面と向かった人たちのコミュニケーションの間に立ち会う通訳という仕事においては、言葉を右から左、左から右に訳すことだけではなく、コミュニケーションを円滑にすること、そのためのケアサポートも重要な要素だと思うためです。

もちろん、法には例外がつきものであるように、状況によっては、この鉄則がむしろ不適切なこともあります。お互いがよくお互いを知っていて信頼関係がある場合や、ビジネスの交渉などで、言葉の正確な内容をできるだけ伝えることが、ほかの要素よりも最優先にされる場合です。そのような場合に、このような言葉が発せられたとしたら、それは、発話者が対話をどうすすめたいかの意図が込められた言葉として、強い語調やその直接的な意味を通訳することは、割愛できません。

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しかしそのような例外的な状況をのぞく、一般的な対話のなかでは、このような罵倒する言葉を一字一句訳すのでは、不十分であり、不適切であると思います。日本でこんな風な言葉を銀行の窓口担当者が投げかけられることは非常に異例であり、窓口担当の人に、ただ通訳するだけでは、状況や内容を理解してもらうのが非常に困難と考えるためです。

代わりにすべきことは二つあると思います。まず、発話者の言葉を無視するのではなく、違う言い回しを用いて(つまり、担当者の一般的な社会規範で許容されやすいような形で)、その発話者の主な意図を、相手に伝えること。またそれと同時に、発話者がなぜこのような態度や意見にいたったのか、その背景や状況を説明すること。実際に、それを通訳・説明された人が納得するかはわかりませんが、怒れる人の意図を察しやすく、また、状況を理解しやすくなるように、補足説明するところまでは、わたしにとって通訳の務めの範疇だと思われます。

言葉でない部分もカバーする通訳

このように考えると、わたしの想定している通訳、したい通訳の仕方というのは、プロフェッショナルな通訳業とは、かなりかけ離れているのかもしれません。正確に一字一句を吟味しながら真摯に伝え、その中で双方が理解し合えるのを目指すのがプロの通訳なら、わたしのするのは、個人的な裁量に基づきお節介なお膳立てにまで目配りし、時には言葉の正確さよりもほかのことを優先してしまう、手ぬるい通訳作業です。

しかし、それでもいつも、手ぬるい通訳作業のほうに心が傾いてしまうのは、ドイツ語圏と日本語圏の文化間のコミュニケーションの仕方やそのバックボーンとなる礼節や行動規範、優先されることが大きく違うためです。そして、そのような(個人的な問題でなく文化的な)違いがあるがために、相手側の目につき、気に障って、誤解や不快な印象を与えるのは、あまりに残念だと思うからです(冒頭の例は、発話者の文化圏的な背景よりも、本人の性格的な要素がむしろ強い例かもしれませんが)。

せっかく通訳を介して、対話する機会があるのなら、そのような文化的な誤差による不和を最小限にし、最大限、対話の内容のほうに、両者が集中して、内容を充実させてほしい。そんな気持ちが強くあり捨てられないため、言葉と考えを汲み取る意訳専門の手ぬるい通訳作業になっているのだと思います。

キャッチボールの球を空中で調整する

大きな違いとして、例えば、話す態度や表現の仕方などの(対話の内容とは直接関係のない)周辺の部分があります。ヨーロッパでは、ざっくばらんとしてオープンな語り口が、相手への信頼や好感度の高い人格的な部分を示しており、誠意ある態度として、ヨーロッパでは評価される傾向があります。これに対して日本では、そのような面が評価されることがある一方、全く対照的的な面、礼儀正しく、「なれなれしい」と感じさせない丁寧な態度が、(特に年齢が高い世代においては)、相手を敬う誠意的な態度として評価される傾向があると思います。

このため、率直な意見やダイレクトな質問がポーンとヨーロッパ人側から日本人側にされることや、逆に丁寧すぎてヨーロッパ人にはまどろっこしく感じられる説明が、日本人側からヨーロッパ人側に伝えられたりすることがあった際に、そのままで伝えるのでは、不十分でぎくしゃくしてしまいそうなことがあります。

このような場合、発話者のメッセージが、双方の文化圏で、しこりなく、できるだけしっくり受容されるように、それぞれの文化圏の礼儀作法に合うように多少変更したりします。やわらかな表現にしたり、丁寧さを少し加えたり、丁寧すぎずにざっくばらんとした感じになるよう丁寧さを一部削除したりする、といった具合です。

通訳を間に双方がキャッチボールをしている状況を想像してもらうとわかりやすいかもしれません。双方とも、ボールの受け投げ方にも、また受け取り方にも特徴があり、そのままではキャッチボールはうまくいかないというケースです。そこで片方からもう片方に飛んでいくボールに、それぞれが受け取りやすいように、空中で適切な速度や角度をつけていく。そんな感じに、少なくとも私自身はイメージしています。

「いっしょにご飯を食べに行きませんか?」「今日はこれから、いろいろあって」

別の例をご紹介しましょう。ドイツ人の独日通訳者に聞いた、上のような短いささいな会話でも、文化的な差異が、溝や影をつくることになりかねない、という事例です。

ある日、仕事のあとに「いっしょにご飯を食べに行きませんか?」とそのドイツ人が日本人を誘うと、「今日はこれから、いろいろあって」と言う返事が返ってきたそうです。

これは、日本人にあっては珍しくない返答パターンの一つで、特に問題ありませんが、普通のドイツ人に対しては、非常に不可解に映るといいます。まず、いろいろあって、というだけでは、はっきりした否定形が入っていないので、断っているのだとある程度推測はできるものの、断られているのが、わかりにくいこと。また、ドイツ人は誘われて断るときに、はっきりした理由を言う・言われるというのが慣例であり、「いろいろあって」というような漠然とした断り方自体に馴染みがなく、困惑してしまうといいます(このドイツ人は日本の文化風習に精通しているので問題ありませんでしたが)。

困惑すると、人間は良い方よりも、悪いほう、不安な方に気持ちが動き、よからぬ憶測に陥りがちです。日本人に距離を置かれているような、他人行儀にされているような、なんの配慮もなく、そっけなく断られているような、そんな憶測にまでなってしまうと、日本人はそれを全く意図していないにもかかわらず、誘った相手を、誘いを断ったこと以上にがっかりさせてしまうことになります。

要するに、ドイツ人にとっては、はっきり断られるほうが、答えがわかりにくいよりも、はっきりして気持ちがいいし、断られる時に、なにか理由が提示されていれば一番しっくりくる。一方、日本人としては、相手を困惑させたり、がっかりさせる、そんなことはなるべく避けたいと思っている、そんな状況であるとわかれば、通訳として、つい、ゆるくてお節介な異文化間の配慮を盛り込んだ通訳をしたくなる、ということになります。

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行動様式についても「通訳」

深々とお辞儀をして、相手への礼儀を示す日本人を通訳する時はどうでしょう。通訳を「言葉」の行き来とだけとるのであれば、お辞儀に関して、通訳の出る幕はありません。

しかし、この時、その日本人は言葉でなく態度で礼儀を示していることがよくわかれば、お節介通訳としては、一言二言それを「通訳」したくなります。それが、日本では相手への高い敬意を示す高い礼儀作法の一つであると、ヨーロッパ人の目に映る日本人の姿に、映像につけるナレーションのように、念のため、言葉をつけたしておきます。

それによって、目を合わせずにお辞儀で挨拶することが、相手に対して愛想がないからでも、目をそらしたいからでもないというと確認できて、先方が余計な困惑をせず、安心してもらえればいいと思います。

コミュニケーション・コーディネイトを目指した時の落とし穴

つまり、私にとって、通訳とは、言葉の通訳と同時に、双方に信頼できる快適な環境を最大限整える、いわばコミュニケーション・コーディネイトの比重が大きな仕事です。

そのためには、どちらか、あるいはどちらにも個人的に同調する必要はありませんが、どちらの文化やしきたりも、ある程度、理解する必要があります。しかしここで同時に、自分が陥りやすい落とし穴があり、肝に命じておく必要がある、と思っていることが二つあります。

それは、「文化」の違いを強調したり、ステレオタイプ化しすぎて理解することの危険性と、そのような文化的な違いが静態的でいつまでも変わらないものであるように捉える危険性です。二つの文化に接する時間が長くなっていくと、自分はわかっている、という思いが強くなります。その思いが、次第に先入観になり、多様な側面からなる文化や人に対する理解が、自分でも意識しないうちに、大雑把で単純なものになってしまう危険があります。また、それぞれの文化圏の人々の考えや行動様式は、すぐに目に映らなくても、常に変動しています。しかし、単純な見方をする傾向が自分のなかに強まることで、変化する部分を過小評価したり、見落とす恐れもあります。

それでなくても、こどもの連想ゲーム(いくつかのチームに別れ、最初の人が聞いた話を、順番に次の人に伝えていって、どのチームが一番正確に最初に伝えた内容を最後まで伝えられたかを競うゲーム)に象徴されるように、対話する人の間に入る仲介者が多くなれば多くなるほど、意訳や誤解の余地が増え、うまく伝わらない可能性が大きくなります。ですから、そんな先入観や大雑把な文化理解に凝り固まった通訳者が、自分流の解釈で筋を通そうとすれば、通じる話も通じなくなり、かえって誤解や問題を引き起こすことにもなりかねません。

常に時代は変化し、社会は胎動を繰り返し、世代は移り変わっていくことを肝に命じ、違いや変化に目をむけ、関心を持ち続けることが大切だと思います。

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おわりに

ところで、通訳業において、まもなく、これまで想像もしなかったような、とんでもないライバルが登場する可能性があります。膨大なデータを背後に急成長している自動通訳機能です。自動通訳は、多くの人にとって、通訳を介さずに直接多言語の人と対話できるという大きな恩恵をもたらしますが、その一方、自動通訳の質が人の通訳術にどんどん近づいてくれば、人の「通訳」はいらなくなるのでしょうか。

自動翻訳に代替され、ほぼ消滅するという可能性もありますが、自動翻訳との差異化に挑み、新たな形を模索しながら、生き残っていく道もあるかもしれません。例えば、こんな通訳者がいたらどうでしょう。ユーモアを盛り込んだ楽しい語り口でただの対話でもたのしく弾むようになる芸人風の通訳、マインドフルネス効果をいかして対立が緩和されたり商談が成立しやすくなるような通訳、あるいは、双方の異文化の違いだけでなく、世代の差にも配慮をした「誰にでもわかりやすい」が売りの通訳。

これらは、かなり飛躍した想定のようにも聞こえますが、これからの時代、通常の通訳業が危機に陥ったとしても、これまでなかったような付加価値がついた、たぐいまれな通訳者たちが新たに誕生することになるのかもしれません。

わたしも、自動通訳に完全駆逐されずに、これからもたびたび通訳業にたずさわっていくことができるように、知恵を絞って切磋琢磨していけたらと思います。

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穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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牛の角をめぐる国民投票 〜スイスの直接民主制とスイスの政治文化をわかりやすく学ぶ

2018-11-19 [EntryURL]

スイスは直接民主制の国として世界的に知られています。最近、この民主制を理解するのに格好の、わかりやすい事例がありましたので、今回はそれをみていきながら、現代スイスの政治システムとそれをとりまく政治文化について、概観してみたいと思います。

スイスの直接民主制とは

現在世界のほとんどの民主主義国家では、有権者たちが選んだ代表者(代議員)を議会に送る「間接民主制(代表民主制)」という政治制度を用いています。これに対し、直接民主制とは、有権者が、国(あるいは所属する州や地域)の法律や政策決定に直接関与する(参加する)制度です。スイスでは、有権者は一定数の署名を一定期間に集めることで、ある提案を、投票に持ち込むことを指します。国レベルのことを決める投票であれば、国民投票、州レベルや自治体レベルのテーマを投票で決めることは、一般的に住民投票と表されます。

スイス以外の国でも現在、直接民主制を導入している国は、ウルグアイ、スロベニア、台湾などいくつかありますが、直接民主制が19世紀以来続いており、国政レベルでもこの制度が頻繁に利用され、非常に重きが置かれている、という点で、スイスの直接民主制は、世界でも唯一無二のユニークな存在です(ただし、直接民主制がスイスの政治上重要だといっても、スイスにも議会があり、その代表を選出するのに間接民主制を利用しています)。

国民投票の種類

国民投票を具体例からわかりやすく説明するという本題に入る前に、国民投票の種類や概要を手短に説明しておきます(少し細かい話になりますが、しばしご辛抱ください)。

スイスの国民投票には、投票の対象となる内容の違いによって「イニシアティブ(国民発議)」と「レファレンダム」という二つのタイプがあります。

イニシアティブとは、連邦憲法改正案を提案し、その是非を可決するものです。スイスの有権者で、有権者の10万人の署名を18カ月以内に集めることができれば、誰でもイニシアティブを提案し、国民投票に持ち込むことができます。内容が明らかに「違法」と判断されるようなものはイニシアティブとして成立させることができないことになっていますが、違法性を事前に判断すること自体も難しいため、原則としてイニシアティブとして成立したものは国民投票にかけられることになります。

これに対し「レファレンダム」は、すでに存在する法律や憲法に関する異議を申し立てる国民投票です。正確にいうと、この中にも、さらに二種類のものがあります。一つは、連邦議会が通過した法律に異議がある場合に、国民投票に持ち込み、最終的に国民が法律の可否を決めることです。これは、「(随意の)レファレンダム」と言われます。法律の公表日から100日以内に5万人分の署名を集めることができれば、どの法律に対しても可能です。

もうひとつは、連邦議会が憲法改正案を承認した場合に行われる国民投票です。憲法を改正する際には必ず国民の承認が必要なため、国民投票が自動的に行われる運びになります。通常これは、「強制的レファレンダム」と言われます。

ちなみに、国民投票の提案の対象が憲法か、法律かによって、提案の採用条件が変わってきます。法律に関する国民投票(つまり随意のレファレンダムの場合)では、投票者の過半数の賛成票があれば、それだけで、提案は採用されます。これに対し、憲法に関わるほうの国民投票(つまりイニシアティブと強制レファレンダムの場合)では、国民の過半数が賛成であることかつ、賛成票が多数を占める州が過半数になる必要があります。

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有権者に配布された2018年11月25日国民投票の資料(全38ページ。この画像はネット上で公開されているものを撮影さいたもの)
出典: Bundeskanziel, Volksabstimmung vom 25. November 2018 - Erläuterungen des Bundesrates


スイスの直接民主制を学ぶ絶好の機会

一通りの国民投票の概要説明が終わりましたので、このあとは、最近の具体例に沿って、みていきます。

今回取り上げるのは、今年の11月25日の国民投票で問われた、三つの提案の一つ、「農業用家畜の尊厳のための」イニシアティブ(国民発議)です。イニシアティブの正式名称が長いため、通常略して「角のある牛Kuhhorn」(ドイツ語の場合)と呼ばれているものです。ちなみに、この記事では、基本的な内容が一致し、日本語としてすわりがいい、「牛の角」イニシアティブという表記を用いることにします。

角のある牛?牛の角??これらの言葉が、これまでみてきた政治制度の話とあまりにかけ離れているため、牛の角が政治となんの関係があるのかと、不審に思われる方も多いかもしれません。私も実際、初めてこのイニシアティブについて聞いた時、そうでした。なぜこれがスイスの国民投票のテーマなのか、話を続けていきます。

たった一人の行動からはじまった

このイニシアティブを立ち上げたのは、アルミン・カパオルArmin Capaulさんという、妻と二人で酪農を営む67歳の男性です。

カパオルさんは、酪農家としてこれまで除角(文字通り角を取り去ること)しない牛やヤギを飼育してきました。一方、大方のスイス農家で今日飼っている牛は、ほとんどが角のない牛です。遺伝的に角がない牛を選び飼育している場合もありますが、もともとは角がある種類の牛の場合は、ほとんどが若い頃に除角されているためです。

角があると牛舎も広くとらなくてはならず、世話をする人や牛が角で怪我をする危険がある、という経済や安全面の理由により、牛の除角はさかんで、カパオルさんの推定では(正確な統計データはありませんが)スイスで飼育されている牛の9割は、角がないと言われます。

カパオルさんは、しかし除角は牛の尊厳を奪うことと感じ、本来角があるはずの牛を少しでも除角せずに飼育する酪農家に助成金を支出できないか、過去10年近く、役所等を相手に請願を続けてきました。しかしなんの成果も得られなかったため、国民に直接是非を問うイニシアティブという手段にうったえることにしました。

とはいえ、署名を集め始めた当初は、本人も含め周りの誰もが、イニシアティブを成立させるために必要な18ヶ月で10万人の署名を、まさか本当に集められるとは思ってはいなかったようですが、農家に関係のない都市住民層なども巻き込み、次第に反響をよぶようになり、最終的にイニシアティブを成立させるための署名数より5万人も多い、15万人もの署名を集めることに成功し、めでたく国民投票にかけられる段取りが整いました。

ちなみに、イニシアティブは、憲法にまつわることの提案でなくてはならないため、農業に関する憲法の104条に、除角していない牛(やヤギなど角のある家畜)を飼育する農家に助成金をだして支援する旨を加筆する、という提案になっています。これによって、角のない牛を飼う人を規制するのではなく、角のある牛を飼う人を助成金で支援するという形で、角のある牛の割合が現在の1割よりも減らないよう食い止めたい、というのが彼の意向です。

たった一人の声も、社会で共感され、必要な署名を集めることができれば、国民投票にかけられる、これがスイスだ、とカパオルさんは、カパオルさんについてのドキュメント番組で語っています(Re:, 2018)。本当に、ほかの国ではまず考えられない、とてもスイス的な制度だといえるでしょう。(ただし、イニシアティブは一人では成立させることができません。7人以上27人以下の有権者からなる発議委員会を発足させ、それがイニシアティブを提出するという形式をとらなくてはなりません。このため、カパオルさんも、署名を集めるだけでなく、全国から賛同者を募って、最終的に15の州から16人を集めて発議委員会を立ち上げています。)

ちなみに、少し話はずれますが、このドキュメントを作成したのはスイスではなく、仏独共同放送局「アルテ」の中心的ドキュメント番組「Re: 」でした(スイスの公共放送としては、選挙の公平性を保つ必要もあり、カパオルさんに寄り添った特集を国民投票前に放映することは難しかったことでしょう)。角をもつ牛の飼育に農業助成金に奔走する人物という、きわめて「スイス的な」国内事情を反映した話であるにもかかわらず、それがヨーロッパの人物をクローズアップする番組で取り上げられ、番組をとおし、広くヨーロッパで知られるところとなったというのがまた興味深い話です(番組「Re: 」と、ヨーロッパ全体を対象にした仏独共同のメディア発信事業については「仏独共同の文化放送局アルテと「ヨーロッパ」という視点 〜 EU共通の未来の文化基盤を考える」をご参照ください)。

イニシアティブ提出後の困難と強力な味方の登場

署名を集めて、イニシアティブが成立するところまでは、本人も驚くほど順調にいきました。しかし、そのあとには壁が立ちはだかります。

イニシアティブの提案は、国民投票にかけられる前に、まず連邦議会(ちなみにスイスは二院制で、上院にあたる全州議会と下院にあたる国民議会からなります)で賛成するか、反対するか、あるいは対案をつくるかが協議され、採決の結果が連邦議会の公式見解として示されるのですが、牛の角イニシアティブの場合、社会民主党と緑の党の党員からは支持を受けますが、反対が多数であったため、両院とも提案を受け入れない、という公式見解が示されました。政府も同じ見解です。角を残すことで(起こりうる危険を避けるため)農家が牛を繋ぎ飼いすることになりかねず、そうすれば除角以上に、牛の福祉を害することことになるというのが主要な理由です。

国民投票は、連邦議会の公式見解に関係なく必ず実行されますし、最終的に提案を受け入れるかを決めるのは投票する国民自身であることは確かですが、有権者の判断の助けとして、連邦議会や政府の公式見解の影響力は少なくありません。

ちなみにこのような政府の公式見解は、提案の概要や賛否両論とともに公共放送や、選挙用紙といっしょに配布される資料、また政府のホームページ上の約3分間にまとめた提案についてのビデオでも示されます。

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政府のホームページ上の「牛の角」イニシアティブの説明ビデオ
出典: https://www.admin.ch/gov/de/start/dokumentation/abstimmungen/20181125/hornkuh-initiative.html


多くの農業団体も、カパオルさんの提案に反対を表明します。カパオルさんの提案は、大部分の角なしの牛を飼う酪農家が除角するのを妨げたり、まして除角を全面的に禁止するというものでないことを提案でも明記しており、多くの角なし農家と直接的な利害対立関係がないようにみえますが、どうもことはそう簡単でもないようです。

角のある牛への助成金を増やすことになれば、現在支給されている農業助成金の一部が減らさせる可能性が高く、自分たちの農業が圧迫を受けることが最も大きな懸案事項のようです。また、この提案が、直接的でないにせよ、自分たちの現在の牛の飼育の仕方を真っ向から否定しているような気がして、感情的に、受け入れ難いということがあるようです。角なしで牛舎を自由に動けるようにすることの方がむしろ、牛の生活の質を高めている、と強く反論します。

こういった提案の内容に関する否定のほかに、農業は基本的に農家が自分たちで最適化を計るよう進めていくべきものであり、除角の牛の助成金といった細かい話を、憲法で定めること自体が、政治的な処理として不適切、とする意見もみられます。

このように向かい風が強くても、資金力があれば、ポスターを各地に貼ったり、メディアに広告記事を載せるなど、ほかの大々的なキャンペーン手段で、国民に訴えることもできるしょう。しかし、いかんせん、このイニシアティブは基本的に一人の農民とわずかな賛同者や有志の支援者だけで運営しており、資金も人力が乏しく、国民投票のキャンペーン活動は、ささやかな規模にすぎません。カパオルさんと妻は、すでに貯蓄約5万5千フランを署名集めの費用などに使い果たしています。

他方、当初予想もしていなかったことですが、カパオルさんには、非常に強力な支援者がいることが、次第に明らかになってきました。それは、マスメディアです。資金力も政治的な影響力もないカパオルさんのところに、ここ数年、連日にように、メディアがおしかけ、繰り返しカオパルさんの言動を報道しています。国民投票の1ヶ月前の時点で、カパオルさんに関する国内外の報道は、記事だけでも4000件にのぼるとされます(Koch, 2018)。

メディアで脚光をあびる直接的な理由

なぜ、一農家のカパオルさんが、これほどメディアで脚光を浴びることになったのでしょうか。これには、直接的な理由と間接的な理由(社会的な背景)の二つがあると考えられます。

まず直接的な理由としては、単独で国民投票を起こしたカパオルさんが、人々がメディアで好んで読みたくなる(視聴したくなる)ような、好印象とユニークさを兼ね備えた人物であったからだと思われます。現代の一般的な政治活動やロビイストの常識とあまりにかけ離れた、大変ユニークな存在であり、カパオルさんの風貌や態度も、そのイメージを裏切らないような絵に描いたような農家風な風情です。

連邦議会の要人と会う時でも、いつもと変わらぬ服装、ボンボンのついたカラフルな毛糸の帽子にセーター姿です。討論会では、発言は飾り立てることも、声をあらげることはなく、淡々と牛思いのメッセージを繰り返します(参考リンクにある「牛の角」イニシアティブの公式ホームページIG Hornkuhを開くと、毛糸の帽子姿のカパオルさんが牛のマリアンヌと映っている写真がみられます。)

体の一部である角を除角することは、痛みを伴うだけでなく、牛の尊厳を奪うものだ。だから、今残っている除角させない農家だけはせめてこれからも除角しないように支援すべきだ。

自分の利害や政治的な野心とは無縁で、ひたすら牛(やほかの角もつ畜産動物)のため、という直球のメッセージやその行動力には、反対派も敬意を抱かずにはいられず、「誰もが好感を抱かずにはいられなくなる」(Koch, 2018)と言われるほどです。イニシアティブの結果とは関係なく、カパオルさんは、このイニシアティブの過程を通じて、押しも押されぬ、現代スイスの国民的なヒーローになったと言えそうです。

ということは逆に言えば、牛の角そのものの問題がスイス人に非常に大事だったから国民投票になったというわけではなく、またもしも、カパオルさんでなく、農業団体が同じようなイニシアティブを立ち上げたのであれば、これほどメディアで注目されることもなかったと言えるでしょう。

人気の背景にあるスイスの特有の事情

とはいえ、毛糸の帽子の農夫の言葉が、国の津々浦々に響きわたったのは、スイスという国のもつ事情も強く関連しているといえます(例えば、カパオルさんのような人物が同じことを訴えても酪農の伝統に縁がないアラスカやシンガポールでは、まったく国民の反応は違っていたことでしょう)。

スイスと聞いて、一般にまず連想するのは、ゆったりと牧草を食む高原の牛の姿を連想する人は多いと思いますが、それは、観光客だけでなく、スイス人自身にも共通しています。

日本人にとって、日本語という言語は、ほかの国と自分を差異化させるアイデンティティの上で、大きな比重を占めていますが、スイスではその限りではありません。スイスでは公用語が複数あり、言語で国内を一つに統一できませんし、スイスの公用語であるドイツ語、フランス語、イタリア語は、隣りの大国(ドイツ、フランス、イタリア)の母語でもあります。つまり、言語をもって国を一つに統一することも、ほかの国と差異を明らかにすることもできないわけですが、そのようなスイス人にとって、代わりに、アイデンティティの拠り所として高く比重が置かれているもの、それがアルプスの風景や伝統的な酪農を中心とした生活文化です。

アルプスはスイス全体に広がっており、どの公用語圏内でも同じような風景や生活文化がみられます。アルプスからはずれる低地の都市においても、天気が良ければ、山々が見渡せ、アルプスの山々との地理的なつながりを感じます。

アルプス、そしてそこで営まれる昔ながらの酪農文化は、「スイスらしい」象徴的な原風景として、多言語のスイスでも共通する重要な部分を占めているとされます。もちろん、異なる意見の人や例外もあり、年々変化もあるでしょうが、少なくとも、近年までのスイスの文化研究においては、スイス人のアイデンティティの重要な部分に、アルプスの風景や伝統的な生活文化があるという見解が主流です。

このため、スイスには国の動物と公式に認定される動物は存在しませんが、牧草地のどこにでもいて風景の一部となっている牛たちは、それに匹敵する存在であると思います。つまり、スイス人にとって親近感がとりわけ強い存在の動物といえます。

しかし、隣国の酪農業界との競争が激しい酪農で生計を立てることは非常に厳しく、酪農業界全体の高齢化も深刻であるため、離農する人があとをたちません。現在酪農家はスイス全国で5万軒ほどしか残っていません。一方、酪農を続ける側は、生き残るために、牛乳生産量の多い牛の飼育や、各種作業の機械化・自動化を進め、酪農経営の合理化を一貫してすすめてきました。(「スイスの酪農業界のホープ 〜年中放牧モデルと「干し草牛乳」」)

そのような現在のスイスの酪農の実情を断片的に象徴しているのが、カパオルさんが指摘する、増え続ける牛の除角なのでしょう。

カパオルさんが今回対象としたのは、除角というテーマだけですが、牛の飼育の仕方や農家への助成の在り方などを議論する時、これまで産業化・自動化を推し進めてきたスイスの酪農業界全体にも関心が向けられ、今後「合理性」「経済性」をどこまで問うのかといった、よりより深い根幹的な問題にもつながっていきます。自国の酪農の在り方について、経済性や合理性から語るのでなく、国民の感情に訴え、今は圧倒的多数が都市周辺に住み酪農に縁遠い国民たちの目を、それらの問題に向けさせたという点で、イニシアティブの成立如何とは別の次元で、大きな社会的なインパクトを残した、イニシアティブであったと思われます。

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おわりに

今回の事例を通して改めてみえてきた、スイスの直接民主制の特徴をまとめてみましょう。

―スイスでは、今回のような非常に特定の分野の限られた「牛の角」を扱うような特殊なテーマであっても、また潤沢な資金や政治的・社会的な影響力がない一市民であっても、有権者10万人の賛意が得られれば、国民投票になることが可能である。

―国民投票前には、政府やメディアは賛否両論者の意見を並行して提示したり、各種の議論番組を組み、国民がそれぞれ十分な検証をできるしくみが整備されている。

このような国民投票の機会が、スイスでは年に平均四回あり、毎回通常3から4件の案件が採決されるというのですから、国民の負担も半端ではありません。それでも、国民投票の投票率は通常毎、4割から5割で、全く選挙にいったことがないという若者は2割程度にとどまるということですから、自分たちの民主主義制度を守るために投票に行くことを義務と感じている人が、未だに比較的多いといえるのではないかと思います。

このような直接民主制、スイス人にとっては、あまりに「普通のこと」で、全く特別だと感じない、と言いますが、そのスイスであまりに普通となっていること自体が、ほかの国からみると、いかに特殊であるかが、今回の事例でかいまみられるのではないかと思います。

同時に、今回の国民投票のテーマやそれを扱う一連の発熱した議論自体が、スイスの歴史的な風土をよく映し出しており、改めてスイスのお国柄というものに触れられる気がしました。フェイクニュース、ポピュリストの台頭、移民の受け入れ問題。世界で昨今繰り返し報道されているテーマをざっと眺めてみると、そのことが、よりはっきりみえてきます。牛をどう扱うべきか、牛の角の役割や、除角の痛みがどのくらいあるのか、といったテーマを国民全体を感情的に巻き込みながら真剣に討論し、それらの賛否両論者の意見を、繰り返し報道する国は、スイスのほかにどこかあるでしょうか。

ところで、「牛の角」イニシアティブの結果はどうだったのでしょう。今回の記事はあえて選挙の一週間前に筆を置き、結果をここに記さないことにしました。このイニシアティブの結果や、スイスの直接民主制全般に興味をもたれた方は、これを機に、ぜひ、ご自分で結果を調べてみていただければと思います。例えば、下の参考サイトとしてあげた「スイスインフォ」(スイスの公共放送のオンラインニュース配信サイト)の「直接民主制へ向かう」では、スイスの直接民主制や今回の国民投票に関する様々な記事など、最新のテーマの記事が日本語でラインアップされていて、たちどころに豊富な情報を得ることができます。

主要な参考文献・サイト

Bundeskanziel, Volksabstimmung vom 25. November 2018 - Erläuterungen des Bundesrates

https://www.admin.ch/dam/gov/de/Dokumentation/Abstimmungen/November2018/Volksabstimmung_25.November2018_Erlaeuterungen_Bundesrat.pdf.download.pdf/Erlaeuterungen%20des%20Bundesrates%20zur%20Volksabstimmung%20vom%2025%20November%202018.pdf

「直接民主制へ向かう」、スイスインフォ

Gehört die Hornkuh in die Verfassung? In: Echo der Zeit, SRF, 16.10.2018, 18:00 Uhr

Koch, Carole, Bergbauer, Hippie, Hornkuh-Rebell: Das Phänomen Armin Capaul. In: NZZ am Sonntag, 20.10.2018.

Hornkuh-Initiative, Volksabstimmung vom 25.11.2018, Der Bundesrat, Schweizerische Eidgenossenschaft (2018年11月14日閲覧)

Hornkuh-Initiative. In: «Abstimmungs-Arena», SRF, Freitag, 2. November 2018, 22:25 Uhr

IG Hornkuh(「牛の角」イニシアティブの公式ホームページ。毛糸の帽子姿のカパオルさんが牛のマリアンヌと映っている写真がみられます)

Pro und Contra die Hornkuh-Initiative. In: Tagesgespräch, SRF, Freitag, 2. November 2018, 13:00 Uhr

Re: Die Würde der Kuh.Ein Schweizer kämpft für Rinder mit Hörnern. In: Arte, 5.10.2018.

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


スイスの女性の社会進出のネック、新潮流、これから 〜スイスというローカルな文脈からの考察

2018-11-12 [EntryURL]

前回の記事で、スイスの大手企業で導入が決まったクオータ制(役職の一定割合を女性に割り当てる制度)について、様々な異なる意見をみながら、クオータ制がもつ特徴を、長所だけでなく問題点や課題なども含め整理してみました(公平な女性の社会進出のルールづくりとは 〜スイスの国会を二分したクオーター制の是非をめぐる議論)。

今回は、このようなクオータ制が取り入れられる新たな時代において、スイスで実際に女性の就労がどのように、変化・発展できる可能性があるかについて、現実の今のスイス社会に即しながら少し考えてみたいと思います。

現在の女性の就労状況

まず、クオータ制の導入が決まったとはいえ、現在のスイスの社会を改めて見渡すと、女性の社会進出の実現化を阻む現実の事情が逆に照り返されて目立ってみえてくる気がします。特に女性で子どもをもつと、安心してキャリアの道を選ぶこともそれが順調に進むことが格段難しくなります。主要な問題点をあげてみましょう。

―育児支援が少ない
まずぶつかる壁が、育児支援制度や手当の貧弱さです。法的な育児休業期間は14週間のみで、母親にしか認められていません。このため、母親が早く仕事に復帰しようとすると、こどもの預け保育費用の高さが新たな大きな壁になります。低所得世帯以外は、子ども一人を保育所にあずけると1日あたり60〜150フラン(約6800〜1万7000円)かかります(子育て、2017年)。

この結果、スイスでフルタイムで働き子どもを保育施設に預けるとすると、保育料は親の平均収入の67%と世界一の高さとなり(フルタイムで2歳児を預けた場合)、児童手当や税金控除などの経済的支援を差し引いたあとの最終的な親の保育料負担額は平均所得の約3割を占めます(Jaberg, 2015)。

幼稚園から中学までの義務教育期間の公立学校での就学は無料ですが、全日制ではなく、給食もありません。終日働く親は学童保育等の、保育や給食サービスを任意で申し込むことができますが、こちらにも公的支援が手薄なため、こちらも低所得者以外の世帯にはかなり重い負担となります。

―圧倒的に女性の就労はパート形態が多い
このような状況下、スイスの女性の間で定着しているのが、パートタイムという就業の仕方です。現在、6歳以下のこどもがいる母親の82.7%がパートタイム就業しており、ヨーロッパ内でオランダに続く、パート大国です(Blumer, 2018)(ちなみにスイスでは、パートタイムは正規雇用の一つの形態として定着しています。「スイス人の就労最前線 〜パートタイム勤務の人気と社会への影響」)。

育児を両立させた就労に経済的な負担が大きく、パートタイムが多い今のスイスの現状では、女性の社会進出全般の土台自体が脆弱であり、クオータ制が目指すようなエリートキャリアコースを歩む人を増やしたいのであれば、まずはその土台の強化が大きな課題であるといえます。

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新しい動き

他方、新しい動きもでてきています。例えば、小さい子をもつ女性の間で、ここ10年で大きな変化がみられます。未就学児(幼稚園入園以前のこどもたち)の預け方の変化です。

10年前にも未就学児をあずける習慣はありましたが、その主要な理由は、子どもが幼稚園に入園する前に集団生活になれるため、あるいは移民のこどもたちが言語的な能力をつけるためであり、長時間あずけるのではなく、週に1、2回のみで午前中約3時間程度あずけるというのが、保育園よりも圧倒的に多い形態でした。しかしこの10年の間に、このような形態の預け保育をしている施設の需要が減っており、人数が集まらず閉鎖するところも増えています。代わりに需要も預かる子どもの人数も増えているのが、1日預けられるいわゆる保育施設です。

これは、自分の就労の時間や回数、あるいは融通性を優先し、預け先を選ぶ人が増えていることを示しています(ただし保育施設でも週五日すべてあずける人は未だに少数派です。これには上記のような経済的な理由もありますが、幼少の子どもを五日間保育施設にあずけることを好まない思考が親を含めて社会全体に根強くあることも大きいようです)。

今年9月には、幼児を育てる母親の就業に対する常識が、現代において大きく変わったことが明示される、裁判の判決もでました。これまでは、離婚後に子どもを中心に育てる親(主に母親)は、最年少の子どもが10歳になるまで養育を理由にして働かなくてもよく(その分、こどもの生活費および養育費を、子どもを主に養育しない親側が負担するという形で)、子どもが10歳になっても50%の就業まで、子どもが16歳になってはじめて、100%働くことを(養育費を負担する側の親が)法的に要求できるという暗黙のルールが存在していました。

これに対し、今回の判決では、子どもを中心に育てる親に対して、最年少のこどもが幼稚園に入園したら50%、中学に入学したら80%以上働くことを要求できるという見解がはじめて示されました。これは、現代の常識的な母親の(家にいるのが普通ととらえる)役割理解や就業の在り方を考慮し、時代遅れになった暗黙のルールを現代に適応させたものと評され、離婚後に子どもの養育費のことで争う親の新しいガイドラインになると考えられています。

数年前から一部の州では、全日制の公立学校制度を試験的に導入するところもでてきました。まだ本格的に全日制を導入することが決まった州はありませんが、試験的に導入している地域では親・教員・生徒の3者においておおむね好評であるため、今後潜在的な共稼ぎが多い都市部を中心に、徐々に制度として定着していく可能性があります。義務教育期間の学校が全日制になれば、就学児をもつ母親にとっては、丸一日の就労が経済的にも時間的にもしやすくなり、仕事の量や内容、職場で選択肢が広がるはずです(スイスの学校制度の概要については「学校のしくみから考えるスイスの社会とスイス人の考え方」をご参照ください)。

このような変化の上に、さらにガラスの天井を取り除く、さらなるいくつかの支援が加われば、女性の社会進出は飛躍的にすすむかもしれません。少なくとも、スイス企業の女性活躍推進などのダイバーシティに詳しいシリングGuido Schillingは、今年の報告書のまとめとして、トップの管理職の数値にはまだでてこないが、そこに向かっている次の中間管理職の女性の割合は確実に増えてきており、5年から10年先には、トップマネージャーたちが男女がかなり入り混じる可能性が高いと見込んでいます(schillingreport 2018)。

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スイスという文脈にあった女性の社会進出の方向性とは

スイスでも次第に女性の社会進出が進む兆しが見えたところで、次に、スイスでの女性の働き方において、スイスの社会になじみやすい、「スイス的な」就労の仕方というものがあるのか。あるとすればそれはどういうものであるかということを、少し考えてみたいとおもいます。

結論から先に言うと、スイスの女性の間で広く普及しているパートタイムという就労形態が、スイスらしい女性の社会進出の重要なポテンシャルになるのではないかと考えます(ここでいう、パートタイムという就労形態は、時間給で不規則に働くもの全般を指すのではなく、スイスで一般的な正規雇用の一形態として、一週間分の労働時間(スイスの労働時間は2017年現在平均約41時間)の一部に相当する仕事時間数分を就業するものを意味することとします。このようなパートタイム就労は、規則的な就労として、産休や病気の時も賃金支払いの継続も認められ、年間最低4週間の休暇も法律で保障されています)。

パートタイムの就労は、受領できる年金額が少ないことや、パートタイムでは昇進競争で男性と競争できる能力や経験がつめない、などの理由で問題視されたり、批判にさらされることも少なくありません。それでも、パートタイムが新たなキャリアの形にもなるとでは、と強く意識されたのは、パートタイム勤務のスイスの小学校や中学校の女性の校長がいるのを知ったためです。教育現場の最高位にあって責任の重い校長職を、二人の校長がシェアしたり、民間会社の経営に平行して校長業務をこなすケースを目の当たりにし、当初は驚きましたが、それがスイス社会で成り立っていることにさらに驚きました。責任の重い仕事であるからこそ共同責任者がいることが逆によい場合もあるといえるかもしれません。

パートタイムに任せる業種や職種範囲が非常に広いスイス社会全体に視界をずらして眺めてみると、教育業界だけでなく、パートタイムという働き方に、これまでのようなフルタイムキャリアだけでなく、パートタイムも新たなキャリアのルートとなり、女性の社会進出や昇進の道が開かれるのかもしれないという気がしてきます。

もちろん、フルタイムのキャリアに比べると、就労の時間的な制約があるパートタイムにはデメリットもありますが、パートタイムならではの利点もあると思われます。小さい子どもをもつ母親など仕事だけでなく子育てにもかなりの時間をさきたいと考える女性の心の葛藤も少なくてすみますし、パートタイムという形で女性進出が拡大したり、昇進しやすくなるとすれば、これまでのスイスでつちかわれてきた女性の就労や生活文化から大きく乖離した形態とならないため、まわりの理解や協力的な体制をつくりやすく、社会での緊張や対立も最小限にとどまると予想されます。結果論として、女性の有望なキャリアコースのひとつとして定着すれば、女性の社会進出の幅や可能性が広がるということになるでしょう。

とくに、社会全体が長寿化するこれからの時代においては、自分の生活やライフステージにあわせて健康で長く働くということが、これまで以上に重要なファクターになってくることが考えられ、そうなると、柔軟で長く働けるパートタイムという就労の需要も一層高まってくることが考えられます。ライフステージにあわせて、コンビネーションやパーセンテージを選択して働けるパートタイムという就労の形、そしてそこでのキャリアアップの可能性が広く普及すれば、女性だけでなく、さまざまな事情でフルタイムで常に働くことができない人々の就労を強く後押しできるかもしれません。

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おわりに

二回にわたって議論してきたことを簡単にまとめてみましょう。スイスの社会全体をみると、全般に少しずつではありますが、女性の社会進出がしやすい状況が整ってきているようです。女性自身の意識も少しずつ確実に変わってきています。ただし、見方によれば、その変化は遅々としすぎているということであり、今回、クオータ制が導入される運びとなりました。

これまでも、たびたび将来の就労に関する問題を扱ってきました。バーチャル移民やデジタルノマドなどの、新たな就労の形(「途上国からの「バーチャル移民」と「サービス」を輸出する先進国 〜リモート・インテリジェンスがもたらす新たな地平」)や、それらの柔軟な働き方を認めつつ健康被害を防ぐために必要な法制度の整備についての議論(「フレキシブル化と労働時間規制の間で 〜スイスの労働法改正をめぐる議論からみえるもの」)、また就労に関係なく最低限の生活費用を社会の成員すべてに保障する、ベーシックインカム構想もありました(ベーシックインカム 〜ヨーロッパ最大のドラッグストア創業者が構想する未来)。

これらの動きを総合して考えると、クオータ制度が目指すような雇用対象の人材のダイバーシティ(多様性)の推進にとどまらず、働く人々の働き方のダイバーシティ(多様性)もまた進めていけるかが、これからの就労問題の鍵になるといえそうです。

参考文献・サイト

Alabor, Camilla, Was das Zufallsmehr für die Frauenquote bedeutet. In: Tages-Anzeiger, 15.6.2018.

Bernet, Luzi, Die Schweiz braucht eine Regierung, kein Kaleidoskop. In: NZZ am Sonntag, Hintergrund, 30.9.2018, S.15.

Blumer, Claudia, über zwei Drittel der Mütter arbeiten - aber meist Teilzeit. In: Tages-Anzeiger, 6.10.2018, S.4.

Doppelvakanz im Bundesrat - «Arena»: Wird das EU-Dossier ausgebremst? In: SRF, News, Samstag, 29.09.2018, 01:09 Uhr

Zwei Rücktritte in der Landesregierung. Was bedeutet das für die EU-Politik? Und: Wer wird in den Bundesrat gewählt?
Eichenberger, Reiner / Bauer, Barbara, Ungleiche Löhne für Mann und Frau haben oft einen guten Grund. In: NZZ am Sonntag, 19.8.2018, S. 17.

Forster, Christof, Frauenquote.In: nzz.ch,14.6.2018, 20:47 Uhr

Frauenquote, Wikipedia (Deutsch) (2018年10月15日閲覧)

Friedli, Daniel, Mütter sollen nach der Scheidung an die Arbeit. In: NZZ am Sonntag, 14.7.2018

Giusto, Lina, Stadtzürcher Mütter sind häufiger berufstätig. In: Der Landbote, 10.10.2018, S.19.

Grüter, Rosanna, Brauchen Schweizer Festivals eine Frauenquote? Bytes/Pieces In: Virus, SRF, Donnerstag, 26.07.2018, 09:51 Uhr

Imhasly, Patrick, Eine Männerquote in der Medizin ist unnötig. In: NZZ am Sonntag, 16.4.2017.

Jaberg, Samuel, 「世界一保育料の高いスイス」、スイスインフォ(仏語からの翻訳・編集 由比かおり)、2015年2月20日

Jantzer, Petra, Frauenförderung statt Quotenfrauen. In: Swissinfo.ch, 07. März 2016 - 10:41

「子育て」、スイスインフォ、2017年12月8日

Mit einer Stimme Unterschied: Nationalrat spricht sich für Frauenquote aus Gleichstellung. In: Aargauerzeitung, 14.6.2018 um 18:20 Uhr

Kelle, Birgit, Dann mach doch die Bluse zu! In: The Europian, Das Debaten-Magazin, 29.1.2013.

Röösli, Lisa, Gesellschaft & Religion - Das Comeback der Frauenquote. In: SRF, Aktualisiert am Montag, 10.12.2012, 15:46 Uh

schillingreport 2018 - Die Führungsgremien der Schweizer Wirtschaft und des öffentlichen Sektors, schillingrepot(2018年10月9日閲覧)

Schlappe für Gleichstellung - Anteil der Frauen in Geschäftsleitungen sinkt leicht. In: SRF, News, Mittwoch, 07.03.2018, 17:11 UhrAktualisiert um 17:45 Uhr

Schöpfer, Linus, «Teilzeitarbeit macht die Väter unglücklich» In: Der Landbote, Kultur und Gesellschaft, 4.7.2018, S.25.

Schweizerische Arbeitskräfteerhebung und abgeleitete Statistiken: Arbeitszeit Mehr als 7,8 Milliarden Arbeitsstunden im Jahr 2017. In: BFS, Press release, 24.5.2018.

Tandem: Aline Rickli, Ursula Keller und die Wissenschaft. In: Kontext, SRF, 15.10.2018.

Wirtschaft - Deutschland führt VR-Frauenquote ein. In: News, SRF, Mittwoch, 26.11.2014, 04:03 UhrAktualisiert um 14:10 Uhr

Zaslawski, Valerie, Nationalrat stimmt für Frauenquote. In: nzz.ch, 14.6.2018, 11:56 Uhr

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


公平な女性の社会進出のルールづくりとは 〜スイスの国会を二分したクオーター制の是非をめぐる議論

2018-11-05 [EntryURL]

今年6月、スイスの国民議会で、企業の執行役員会と取締役会にクオータ制を導入する案が可決されました。クオータ制とは、役職をの一定の割合で女性に割り当てる制度です。これにより、将来従業員250人以上の上場企業の取締役員の30%、執行役員の20%以上を女性が占めることが義務付けられました(ただし罰則規定なし)。

この導入案は、わずか一票差(賛成95票、反対94票、棄権3票)で可決されました。国会の賛否のほぼ同数に割れたという事実は、スイスで現在も、女性の社会進出の問題の捉え方やその政策について、議員や政党によって考え方が大きく異なっていることを如実に表しているように思われます。

国会でなくスイスの社会全体としては、女性の社会進出を支援する策とししてのクオータ制導入についてどのように受け止められているのでしょうか。またスイスでは、実際に、クオータ制という枠組みはどう活かされ、定着していく見込みでしょう。今回と次回の記事では、これらの素朴な疑問を下敷きにしながら、スイスの女性進出の現状と今後の展望を整理してみたいと思います。

クオータ制は、ヨーロッパの多くの国々で、政界や経済界で女性の社会進出の鍵として導入されていますが、ヨーロッパ内でも国によって女性の就労をめぐる社会制度や就労状況にかなりの差異があるため、それが実際に今後、どのくらいの期間で定着するかあるいかしないのかは、国によってかなり違ってくるのかもしれません。スイスを含めたドイツ語圏は、ヨーロッパのなかでも、母親の家庭や育児の役割を重んじる伝統が根強いため、クオータ制や男女同権の先進国であるスカンジナビアの国々や、独自の男女同権の就労の歴史をもつ東ヨーロッパの旧社会主義国などとは、違った形やテンポで、クオータ制が展開をすることも考えられます。
今回のレポートでは、このクオータ制についてのスイスなどドイツ語圏での主要な賛成と反対の意見を、整理してみます。そして次回は、スイスの女性の就労全般の状況をより広い文脈でおさえ、スイスの女性の社会進出の方向性についてさぐってみたいとおもいます。

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共通する合意部分

賛否の議論をみていく前に、まず、女性のクオータ制に反対する人と賛成する人が合意している部分をおさえておきます。それは、女性と男性の同権とそれに基づく女性の社会進出の促進です。特に、近い将来、社会の人口構造が高齢化と少子化により、これまでにない規模と範囲の労働力不足が予想されるため、労働力不足を緩和する重要なファクターとしても、女性の人生における長期にわたる幅広い職種の就労が期待されています。つまり、女性も働きやすくする、女性進出をさまたげないようにする、ということは、スイスの現在の圧倒的多数の共通見解、前提だといえます。

ドイツ語圏に「女性(特に母親)は家庭と育児」という見方がスカンジナビアやフランスなどよりも近年まで根強く強くあったことも事実ですが、このような意見は、少なくても公的な場では支持を得られなくなっており、社会の一部や心情としてある程度支持されているとしても、思想としては社会での実際の影響力は年々減っているように思います。

一方、そのような社会的な合意があっても、いざ具体的にどのような策が女性の社会進出の上で妥当か、というところでは、大きく意見が割れている状況です。

クオータ制賛成派の意見

まず、クオータ制賛成派の意見をみてみます(賛成派の意見は、世界中おおむね一致しているので、詳細は、ほかの多くの研究や議論をご参照いただくことにして、ここではおおざっぱにまとめるに留めることにします)。

現在、女性は118の大手スイス企業で、執行役員になっている女性は11人しかおらず、企業全体の59%が、執行役員に女性が一人もいません。また執行役員の任期も女性は平均3.9年と男性の8.1年に比べ、2分の1以下の期間になっています(schillingerreport 2018)。

このようなデータをみて、クオータ制賛成派は、現在の多くの企業では、女性の実際の仕事能力や実績が、十分反映されていない状況にあると考えます。

十分に女性が職場で特に高い地位に付いている人が少ないのは、女性が、抜擢や選抜で振り落とされてしまうからであり、能力がある女性が少ないからではない。しかし、それをいくら繰り返し認められたとしても、なにもしないでいるのでは、企業内の女性の就業状況はなかなか変わってこない。能力ある女性求む、と掛け声をかけあっているだけでは、変化はあまりに遅々としている。だから、女性が実力主義で昇進していくのももちろんいいことだが、それだけでなく、もうすこしカンフル剤的なものを強行手段として必要だ。そう考え、有効な政策をとることを必要とし、制度として役職の一定割合を女性に割り当てることを義務づけるのが有効であると考えます。

この考え方の底流には、一旦、長年のねじれ(能力ある女性がそれに相当する地位につくことが「不当に」妨げられている状態)がほどかれれば、あとは、クオータ制に頼らずに女性が正当な地位につける社会が成立する、という楽観的な前提があるともいえます。

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反対派の意見

これに対し、反対派は、どのような点で反対しているのでしょうか。これについては、人や時期によってかなり異なりますが、主だった最近までの根拠を、以下、女性クオータ制についてのドイツ語のウィキペディアで整理されている論争項目を参考にしながら、整理してみます(Frauenquote, Wikipedia)。

―自由主義的経済の観点からの批判
スイスのクオータ制導入の決議では、保守系右派の国民党や中道右派の急進党は反対を表明しました。両政党は、制度的な措置で、政治が社会や自由市場に介入することを嫌う傾向が強く、女性であるということだけで昇進を促進しようとする措置を不服とします。彼らは、シンプルな実力至上主義をかかげ、女性だから起用するというのではなく、能力がある女性だから起用する、ということで解決すると考えます。これは結果として、「能力がともなわない」女性を起用することで貴重の経済活動に支障がでると考えることになり、クオータ制に反対する立場となります。

―新たな不公平を生むという批判
一概に割り当てを決めることで、新たな不公平を生むのではという反論や危惧もみられます。
例えば、力量的には高い男性でも女性でないことで優先されないというケースがでれば、今度は男性に対して不当だとします。例えば、ドイツの自動車メーカー、ダイムラーでは女性の就業は13.9%であるのに、監査役の委員は最低でも30%女性が占めなくてはならないというのは(ドイツで2016年から施行された法律により義務化された)、おかしいのではと異議を唱える人がいます。

ちなみに、女性を限定しなんらかの支援を打ち出す方針が、公平性からみて妥当かという議論は、就労に限ったものではありません。理系科目への女性進出が思うように進まない教育現場でも考慮すべき問題となっています(「謎多き「ジェンダー・パラドクス」 〜女性の理工学分野進出と男女同権の複雑な関係」)。

―最たる「差別」という見方
また、クオータ制が対象とする「女性」という枠組みそのものが、差別を前提にしている考え方で、「差別」の最たるものだとする意見もあります。
個性や能力や志向が違う様々な女性を、個々の人格とみるのでなく、性別だけで分けて、判断することを前提とするこの政策が、一面的であり、性差別の最たるものというものです。

―女性の間に新たな差別をうむ
女性のキャリア推進という社会進出の一定の方向に向かわせることで、女性のなかに新たな差別構造が生み出され、女性が、社会的強者の女性と、社会的弱者の女性というふたつに分けることになる、という指摘もあります。

その主張を認めてみると以下のようになります。クオータ制は、女性が男性と同じような高い地位につくことを目指すものであり、女性の就業のあり方が、そのような頂点を目指す就業の在りかたに、一元化されやすくなる、すくなくともそれを助長することになるのではないか。そうすると特に、無報酬でプライベートな領域で行われる育児や介護などの仕事やその社会的貢献を、(経済的あるいは社会的に認知されている)従来の就労ど同様に、積極的に認知しなければ、それらに従事する人々は、差別や批判にさらされやすくなる。そしてその人たちとは主に、高い地位や昇進といった目標や評価などとは無縁の、子育てや家族への就労時間を多く費やす母親となるといいます。

ここでは、本来、だれもが自分の人生をどう生きたいか、どのような就労の仕方をしたいかを選べるのが理想的であるとすれば、結局、家族や子育てを是とする母親という生き方が認められにくくなるというのは、時代に逆行するのではないか、というのが批判の核にあるといえます。

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―対象とする業種が一部であることは不公平?
また、現在民間企業に導入しているクオータ制が、主に大手企業という、ごく一部の業界であることもまた、不公平なのでは、という批判もあります。このような政策を実施するのなら、(女性の就労が現在少ない)ごみの収集や上下水道の清掃など、すべての分野で一貫して行うべきだ、という批判です。

―ほかの事項との優先関係
ほかに、クオータ制を問題視する見方として、ほかの優先制度と共存させることの難しさを指摘する声もあります。

国によっては、女性の雇用に関するクオータ制以外にもほかの擁護・優先政策をとっている場合があります。例えば、アメリカではアファマティーブ・アクション(歴史的・構造的に差別されている集団に対する特別優遇製作)があり、スイスでは4カ国の公用語の人才に対する割り当て措置があります。
これらは、社会的マイノリティを擁護・支援するという意味で同様に重要な課題であるというのが基本的なスタンスですが、このような支援措置が複数あると相互の優先順位が問題になったり、雇用や経営への拘束が増えまることで企業の負担が大きくなることを危惧する指摘です。

おわりに

このように、一旦クオータの是非の議論に分け入ってみていくと、様々な立場を反映し多様に展開しており、それぞれ一理あるようにみえ、国会でも二分したように、明快な是か非かの判断をするのが難しく思われます。

とはいえ、どの指摘をより重視、尊重すべきかと、議論が交わす時代ではもはやなくなりました。スイスではクオータ制への舵とりをすでにとることをすでに決めたため、これからはそれをいかに社会にできるだけスムーズに定着させるか、という段階に入ったといえます。

次回は、このようなクオータ制が前提となる女性就労の新たな時代において、どのような女性の就労が展開するかという点に、集中してみていきたいと思います。

※ 参考文献とリンクは、こちらのページに記載させていただきます。

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


若者たちの世界観、若者たちからみえてくる現代という時代 〜国際比較調査『若者バロメーター2018』を手がかりに

2018-10-29 [EntryURL]

今年8月末、若者の考えやライフスタイルを探る国際比較調査『若者バロメーター2018』が発表されました。これは、クレディスイスが、スイス、アメリカ、シンガポール、ブラジスの4カ国を対象に隔年(2016年までは毎年)行なっている依頼調査の最新版です。2018年版は、2018年月から5月にかけて上述の4カ国の16歳から25歳までの約1000人の若者を対象にしてオンラインで行われました。

今回の記事では、この調査結果を参考に、成人社会に着地寸前の人たち、あるいはすでに着地してはいるもののどんな人たちなのか、社会の大人たちにあまり把握されていない、若年層の考え方や特徴をとらえ、若者像の輪郭をとらえてみたいと思います。スイスの若者が対象のメインとなりますが、この調査が、アメリカ、シンガポール、ブラジルの4カ国の比較調査であることを活かして、同じ時代をいける世界全体の若者全体の状況や、そのなかの差異にも触れていきます。

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若者の最大の問題は年金?

いきなりですが、この調査で腑に落ちなかった部分から話をはじめます。というのもこのこと自体が、スイスの若者について考えるキーとなるように思われるからです。

それは、スイスの若者たちが、もっとも大きな心配事として、「年金問題」をあげていたことです。実に半数以上の人が問題にしているという調査結果でした。年金が誰にとっても重要なテーマであることは確かですが、時代が目まぐるしく変わっている現代において、二十歳前後の若者がなぜ、目の前にひろがる問題でなく、半世紀以上も先の将来に発生する年金を、よりによって最大の心配ごとと考えるのか、不思議に感じました。

ちなみにこれは世界的な現代の若者の潮流ではありません。ほかの調査3カ国で、年金問題が、上位の問題とあがったところはありませんでした。これらの国では、失業や社会保険や人種差別などが、心配事の近年の常連で、今回もそうでした。スイスでも、4年前の2014年や2年前の心配事のトップは移民や難民問題で、年金は上位の問題ではありません。またスイスの年金システムが、ほかの国に比べて、特に問題が多いわけでもありません。

スイスの社会の状況

結論から先にいうと、年金問題が心配ごとのトップにきた調査結果は、むしろスイスの今の若者の心境を如実に映しているのでは、という解釈にいたりました。どういうことかを順を追って説明するために、まずスイスの現在の社会状況を、他国やスイスのこれまでの時代と比較し、おおかまにとらえてみます。

・経済的に豊かな国で、職業訓練制度がよく整備されているため、若年失業率を含め失業率が全般に低い(「スイスの職業訓練制度 〜職業教育への世界的な関心と期待」)。

●若者の7割が中学卒業後、進学ではなく職業訓練課程へ進むため、若者のなかでの進学や受験のプレッシャーは他国に比べ少ない(「スイスの受験事情 〜競争しない受験体制とそれを支える社会構造」)。

●直接民主主義的な政治体制が安定しており、政治家や官僚の腐敗が少ない。

●社会のデジタル化は年々進んでいるが、その速度は速くはない。例えば、スカンジナビア諸国に比べると、未だに現金取引が多く、キャッシュレス化のテンポは遅々としている(「コインの表と裏 〜 キャッシュレス化と「現金」ノスタルジー」)。

つまり、一言で言えば、ほかの国やほかの時代の若者層に比べ、現代のスイスの若者たちは、社会的にも経済的にも安定し、大きな危機やプレッシャーも少なく比較的恵まれた環境に暮らしているといえます。

若者世代の目に移る世情

次に、この調査の背後の社会の動きと、質問のされ方について注目してみます。

この調査が行われる半年ほど前の2017年9月に、スイスでは、ちょうど老齢年金問題に関する国民投票がありました。つまりこのアンケートの実施の少し前まで、国民投票の前の恒例として、年金問題がクローズアップされメディアで多く報道され、国民的に大きく議論されていました。

次に、この調査での質問のされ方をみると、「次のリストには、近年よく議論されたり報告されるテーマがのっています。このリストのテーマをみて、そこからあなたが個人的にとりわけスイスで重要だと思う問題を五つ選んでください」という形式でした。つまり、この質問に回答するには、全リストのなかから、テーマを五つまで選べるのでなく、五つ必ず選ばなくてはならなかったようです。

これら(スイスの社会・経済状況、国民投票の議論、質問のされ方)のことをふまえると、年金問題が、今年突如として若者の心配のトップにきたことは、それが本当に大きな心配ごとであったからというより、むしろ政治や社会が安定しており焦眉の問題と感じるものがあまり見当たらず、近年メディアでよく耳にした年金問題を、五つのテーマのひとつに選んだ人が相対的に多くなった、という理解するほうが妥当と思われます。

その説を裏付けているようにみえる別のデータもあります。スイスでは年々政治に不満をもつ若者が減っており、今回、政治がうまくいっていないと回答したのは、20%にすぎません。同様に、社会や政治の改革が必要だと思う人も少なく37%にとどまります。これは、ほかの三ヶ国では80%にまで及んでいることと比べると、大きな差といえます(Burri, 2018, S.17)。 ほかの三ヶ国で危惧が強い失業率も、全体および若年失業率が低く抑えられているスイスでは、心配の種になりにくいとは明らかです。

2016年に上位を占めた難民問題も、以後、流入してくる難民の数が、ほかのヨーロッパ諸国と同様に激減したことにより、メディアでも扱われなくなったため、若者に問題として意識されなくなってきたのでしょう。

まとめてみましょう。あまりほかに問題があまり見当たらなかったおかげで、年金問題が逆に五つの選ばなくてはいけない問題テーマとして、今回、急浮上した。つまり年金問題がトップに選ばれたということ自体が、ほかに身近に焦眉の深刻な問題がないというのが、現在のスイスの多くの若者の認識と考えます。

スイスの若者たちの特徴

ただし、悩みが少ない、めでたしめでたしで、今回の記事を終わらせるつもりではなく、むしろ、その先のこと、そのようなあまり焦眉の大きな悩みを抱えていないようにみえるスイスの若者たちは、どんな人たちであり、どんなことに夢中になり、どんな世界観やライフスタイルの人たちなのか、それが今回の本題となります。

このことについて、今回の調査からまとめると、以下のようになります。

―政治に無関心
スイスの若者が今の政治に不満をあまり感じていないとお伝えしましたが、それを反映してか、あほかの三ヶ国に比べ、全般に、スイスの若者たちは政治活動に関心が低いという結果がでました。

(かっこ)いいと思うものを「イン」、(かっこ)悪いと思うものを「アウト」と答える簡単な回答形式で調査した結果、政治デモに参加するのを「イン」と答えた人は、スイスでは10%未満でした。これは、アメリカでは三人に一人、ブラジルでは四人に一人、シンガポールでも五人に一人が「イン」と答えていたのに比べると、非常に低い数値です。

スイスの若者が歴史をさがのぼって常に政治に関心がなかったわけではありません。ちょうど50年前、世界的に学生運動がさかんな時期には、スイスでも多くの若者がデモに参加したり、政治的な活動を行なっていました。

ただし、この調査を行ったGFS Bern研究所のヤンスCloé Jansは、政治全般に興味がないというわけではなく、単に、政治への参加の仕方が変わったのだと解釈しています(Burri, S.17)。確かに、男女同権や環境などについては強い関心をもっていることが調査でうかがわれます。

―ニュースに関心をもたない人が増加
政治に不満が少ないスイスの若者たちの間では、社会や世界について知ろうという関心が少ないためか、ニュースをみない人も増えているようです。

全然見ない(聞かない)人や週に一度くらいしか見ない人が全体の2割ほどおり、その数は年々ゆるやかに増えています。一方、そのようなニュース消費に消極的な若者が増えているのと反対に、1日に数回ニュースをチェックする、ニュースに強い関心をもつ人もまた増えています。つまり、ニュース消費が若者の間で二極化しているといえます。

ちなみに、ニュースのソースとして利用されるものは、インターネットのニュースサイトやニュース検索サイトなどのアプリがもっとも多く5割以上の人、次が、印刷されたフリーペーパー(5割弱)、次がラジオやテレビで、それぞれ3割強の人が利用しています。これに対し、有料の日刊紙や日曜紙などをみるのは、ずっと少なく、それぞれ1割ほどの人しか利用していません。

―身近なものに関心が集中
政治活動に関心が低いスイスの若者は、ほかのどんなことに関心をもっているのでしょう。

「イン」(人気)と「アウト」(不人気)のトップテンをみてみましょう。

「イン」
スマートフォン、ワッツアップ、音楽を聴く、ユーチューブ、外国の休暇、Eメール、公共交通機関、(ネットフリックスなどで)シリーズものを見る、インスタグラム、スポーティファイ

「アウト」
インテーナットにつながらない携帯電話、ドラックの消費、政党、固定電話、軍隊、喫煙、手書きの手紙、青少年団体、四輪駆動、デート・アプリ

ちなみに、クラブやパーティーにいくのを、「アウト」とする人は、2010年に5.8%だったのに対し毎回増えており今回は、11.5%と倍増しています。ドラッグや喫煙も半分の人が追求するに値しないと答えている人が多いのも、今の若者の特徴かもしれません。

優先順位を問う質問では、信頼できる友達、仕事と休暇のバランスをよくすることが非常に大切なものの上位になっており、政治参加は、対照的に28番目、下から3つ目の優先順位になっています。

これらを総合してみると、スイスの若者は社会の腐敗や不正義に立ち向かう政治活動などよりも、とりわけ、自分の日常や周囲の身近な部分を気にしたり、バランスをとって大事にする傾向が強いといえそうです(Burri, 2018, S.17)。

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4カ国の人気(イン)と不人気(アウト)のトップファイブ(赤いがスイス)
出典: GFS Bern, Credit Suisse Jugendbarometer 2018, Zusammenfassung der Studie und Übersicht über die wichtigsten Kernaussagen, S.67


―帰属意識の希薄化
若者たちは、頻繁にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を利用し常にほかの人と交流し、「つながっている」ことを大切にしているように見えますが、2015年以降、なにかに帰属している、所属していると感じる、帰属意識は全般に希薄になってきています。宗教共同体のような伝統的な組織への帰属意識が低いだけでなく、最近は、2年まに35%と急速に高まったオンラインコミュニティへの帰属意識も、落ち込んでいます(今回の調査では、1割強)。友人や家族への帰属意識にも、減少傾向がみらます(2年前はそれぞれ9割、今回は8割)。ただし、友人と家族はそれでも、帰属意識のなかでは、最も高くなっています。

ちなみに帰属意識(どこに所属しているような気持ちがするか)は、ブラジルやアメリカでもここ数年、同じように希薄になる傾向が観察されます。

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スイスの若者の帰属意識の推移(2010年から2018年)
(なにに帰属していると感じているかの調査結果。グラフの色が帰属先を示す。紫が友人、藍色が家族、青がスイス社会、水色が人間、薄紫がパートナー関係、赤がクラブ(スポーツや文化活動の)、緑がヨーロッパ社会、茶色がオンラインコミュニティ、黄色が宗教共同体)
出典: GFS Bern, Credit Suisse Jugendbarometer 2018, S.19.


―移民に対する意識変化
最後に注目したいのが、移民や外国人に対しての見方の変化です。上述したように、2014年と2016年において、一番心配なこととして移民や難民問題があがっていたのとは対照的に、今回は、対外国人や移民の感情がよくなっているという結果がでました。

2010年と今年2018年のデータを比べるとその結果はより顕著です。外国人を、問題ないとする人が14から24%に、メリットがあるとするのは7から16%と増え、逆に、非常に大きな問題あるいは大きな問題だとした人が、それぞれ21から12%、25から19%へと減っています。

全体に外国人を、問題が少ない、問題が全くない、あるいは外国人がいるのがむしろメリットだ、と回答した人のトータルの割合は、難民危機となった2015年をのぞき、ゆるやかに増えており、2018年は65%に達しました。若い世代の外国人とスイス人の関係に限ってみた場合、調和的(ハーモニー)であると答えた人の割合(青色)も、2010年には、11%であったのに対し、今回は、3倍の33%になっています。

このデータは、若者を取り囲む現在のスイス社会をよく反映しているようにみえます。スイスは、在住者の四人に一人が外国人で、国籍が現在はスイスでももともと移民出身者であった人も合わせると、スイスの住民の4割近くになるという移民大国であり、今日の若者たちは例外なく、様々な国や文化的背景の移民を自分のクラスメートにして学校生活を送っています。このような世代は、大人社会での移民に対する理解や偏見を知覚する前に、すでにクラスメートとして同世代の移民たちと出会っているわけで、移民をひとくくりにして問題視するという思考は(将来でてくるかもしれませんが少なくとも就業中や就業後まもないころは)定着しにくいように思えます。クラスメートのなかでスイス人と移民を分けて考えたり、移民や外国人として意識し区別する習慣自体が、なじみにくいようで、クラスメートに改めてどこの国の移民的背景をもっているのか、お互いに聞き合うこともなく、知らないままでいることも、よくみられる光景です。

まとめ スイスの若者の性格

まとめてみると、スイスの若者は、

●政治的な活動への関心は全般に低く、ニュースに関心をもたない人が増えている。

●率直な自分の判断や嗜好を重視し、身近なことへの関心や愛着はみられるが、家族や友達以上の大きな組織や宗教共同体への関心や、帰属意識は薄い。

●ほかの人や違うグループとの鮮明な対立構造もない。外国人や移民に対する許容範囲は広がっている。
というようなことになるでしょう。そして、これらの個々の特徴を関連づけながら社会背景をふまえて理解すると、以下のような若者の立体像が結ばれてくるように思われます。

●社会全般に危機感や抑圧されているという感じがなく、相対的に、なにか大きなものにすがろうという思考には向かわず、結果として、国家や共同体などへ、強い帰属意識をもつことが減っている。

●強いなにかへの帰属感やなにかへの強い危機感がないため、外国人や移民など自分と異なる社会・文化的背景の人への違和感や脅威と感じる意識は少なく、結果として許容できる範囲が広がる。

●社会への帰属先を強く求めない代わりに、自分の身近なものや、それをうまくバランスをとって自分の居場所やライフスタイルを作ることに強い関心をもつ。

●このため、よく言えば、ある特定の民族や宗教、政治的な方向などをふりかざす強力なイデオロギーにからめとられにくい。悪く言えば、自分の殻にとじこもりやすく、社会や世界的な問題に鈍感や無関心にもなりやすい。

おわりに 若者たちを分け隔てるものと共通化させる要素を求めて

今回の調査で、スイスの若者と、ほかの調査国(ブラジル、シンガポール、アメリカ)の若者の間には、共通する部分と同時にくっきりと違いがある部分の両者がみられ、それが並存しているような構図であるのが印象的でした。

違いが生じた主要な理由は、それぞれの国の社会・政治・経済環境などが大きく異なるためと推察するところまでは容易にできますが、もっと具体的に、どのような社会のファクターがキーとなって大きな違いを生じさせているのでしょうか。また、社会の表層に観察されるいくつかの類似性、共通する現象のなかで、とりわけ重要なことはどこなのでしょうか。スイスの若者が輪郭が少しつかめたかと思うと、途端に、このような新たな問いが浮かびます。

このように今の若者たちのことは、まだまだよくわからないことが多いですが、未来への社会で存在感を増していく新しい世代であるだけに、目が離せません。今後も、ほかの調査などを参考にしながら、若者たちの共時的な動きや地域的な差異の意味をさぐってゆければと思います。

参考文献・サイト

GFS Bern, Credit Suisse Jugendbarometer 2018: Eine Generation unter wirtschaftlichem und beruflichem Druck. Generation Digital. Solidarität trotz Unsicherheit und Herausforderungen durch Wandel, Juni 2018.(『クレディ・スイス 若者バロメーター』)

GFS Bern, Credit Suisse Jugendbarometer 2018, Zusammenfassung der Studie und Übersicht über die wichtigsten Kernaussagen, S.67

Batthyany, Sacha, «Der Aufmarsch von Nazis ist kein grosses Problem» In: NZZ am Sonntag, S.20-21. (Interview mit Aladin El-Mafaalani)

Burri, Anja, «Vielen wird es zu ungemütlich» In: NZZ am Sonntag, 26.8.2018, S.1, 16-7. (Interview mit Ueli Mäder)

Brunner, Simon, «Hohe Bereitschaft, den Wandel zuzulassen» In: Credit Suisse, Artikel Archiv, Veröffentlicht: 28.08.2018 (Interview mit Boris Zürcher)

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


デジタル時代の報道機関の「質」をめぐる攻防戦 〜「メディアクオリティ評価」と社会

2018-10-20 [EntryURL]

前回、それぞれのメディア(各紙やラジオ番組など)の質を明確にするという、スイスのメディアクオリティ評価の概要についてご紹介しました(「メディアの質は、その国の議論の質を左右する 〜スイスではじまった「メディアクオリティ評価」)。

今回は、メディアクオリティ評価が社会に実際に与えるインパクトや、報道機関とメディアクオリティ評価の関係について注目してみます。そして、メディアクオリティ評価という新しい評価制度が、報道機関や社会に最大限活かされるために、今後どのような課題があるのかについても考えてみたいと思います。

質の評価に対する報道機関の間の不信感

まず、メディアクオリティ評価と報道機関との関係をみてみます。メディアクオリティ評価は、報道業界からの要請をうけて始動したわけでも、背景にスイスのメディア業界に、共通の質の測定が必要だという切実な要望があったというわけでもありませんでした。

このため、メディア業界の一部では、当初、メディアクオリティ評価という新しい評価システムについて、困惑や不満が生じます。以下、2年前に最初に評価が実施された際に展開した議論から抜粋し、論点を紹介します(特記しない限り、Lüthi, 2016とMedientalk, 2016を参考にまとめたものです)。

メディアクオリティ評価について、メディア業界では、ドイツ語圏の大手日刊紙『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング(以下では、略名として一般的に使われている「NZZ」という表記を用います)』が「メディアが自分たちの質について公に議論することを歓迎する」(Lüthi, 2016)と賛同の意を示したように、評価を支持する声があった一方、不信感や不快感をあらわにする出版社も少なくありませんでした。スイスの約300メディアタイトルを扱う民間メディア企業からなる業界団体「スイスメディア連合」も反対の立場を表明していました。

特に、強い不満をもったのは大衆紙を扱う出版社で、メディアクオリティ評価がかかげる「質」の定義を問題視しました。主力とする通勤に読まれる(フリーペーパーなどの)新聞や、政治的な週刊誌は、同じ基準で評価はできない。大衆紙は、読者に寄りそう形の読み物であり、そういった性格上、「メディアクオリティ評価」が目指そうとするような評価で、高級紙と比べられては、必然的に、悪い評価になってしまう、というのが彼らの言い分です。そして、メディアの質とは、一律の基準に沿ってするものではなく、編集者と読者の期待に柔軟に合わせて評価するものなのでは、と主張しました。

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質を評価する側の主張

これに対して、評価機構側は、自分たちの立場や理解を明確にし、正当であると訴えました。チューリヒ大学コミュニケーション学教授でメディアクオリティ評価の中心的人物であるアイゼエッガーMark Eiseneggerの主張をまとめてみます(Lüthi, 2016)。

まず、メディアの質については、学問的に専門家の間で一般的に認知されている「質」のことであり、報道委員会や、オンブスパーソンなどのメディア倫理の組織でも用いられるもの、また優れたジャーナリズムを顕彰する場合にも用いられる基準にもとづくものだとします。

その上で、順序だてて、どのメディアにおいてもメディアの質の評価が必要であることを説きます。まず、民主主義社会を維持するためには、良質の政治的な議論が不可欠であること。良質の政治的な議論のためには、質の高いメディアが必要であること。良質のメディアがどれであるかを知るためには、それぞれのメディアタイトルの「質」を明確にする必要があること。そうであれば、大衆紙であろうとなんであろうと、社会や民主主義に不可欠な公共の情報メディアとしての役割を果たすメディアであれば、質がどんなものであるかを調べ、比較することには意味があり、重要だという主張です。

信頼を勝ち得るために残された課題

結局、いくつかの出版社が、評価のための資料提供など、調査協力を拒否しましたが、それでも予定どおり、初回メディアクオリティ評価は実施され、評価結果も発表されました。

メディアクオリティ評価が手放しで受け入れるわけにいかなかった業界の一部の反対意見をみると、メディアクオリティ評価側につきつけられた今後の課題がみえてくるように思われます。

メディアの評価は、学術的に確立された手法にのったものであっても、色や形や一見してわかるようなものや、自然科学的な測定数値がでるものでもないため、公平に検証されているのかがわかりにくいのも確かです。このような性格上、一般にすぐに理解され受け入れられにくいのも、無理がないといえるかもしれません。

そうであるとすればなおさら、メディアクオリティ評価が今後目指すところは、ほかでもなく、透明性が高い公平な評価を誠実に続けていくこと、そしてその実績を通して報道機関や一般消費者から信頼を勝ちとり、広範に共感、利用してもらえるよう、長期的に社会に働きかけることでしょう。

換言すれば、メディアクオリティ評価自体の質や公平性の保証・維持することが、メディアクオリティ評価が社会や報道機関への理解や影響力を広げるための、最強の近道といえるでしょう。

メディアクオリティ評価による報道機関の意識変化

今年発表された2回目のメディアクオリティ評価では、新たに7メディアタイトルを評価対象に加え、スイスのドイツ語圏とフランス語圏の主要なメディアタイトルを含めたより包括的な内容となっただけでなく、興味深い変化も観察されました。2回目の調査で、顕著に評価をあげたメディアタイトルがいくつかあったことです。なにもせずにそのような良い結果になったとは考えられないため、これらのメディアタイトルでは、質の向上に大きな配慮がこの2年間でなされたと推察されます。

調査の主要責任者の一人ドゥリッシュは、この事実に注目し、メディアクオリティ評価が、報道機関が質を上げることに投資したり努力する動機づけになった、あるいは少なくともなる可能性があるという解釈を導きだしています。メディアクオリティ評価は、2年置きに継続的に行われるため、単に毎回ランキングを示すのにとどまらず、質が向上したメディアタイトルを的確に指摘・評価することができます。そしてこのことが、最終的に個々のジャーナリストや出版社が、メディアの質全体の向上や維持の意識を高める効果につながる、といいます(Medientalk, Die Folgen der Medienkonzentration, 2018)。

社会での影響力が期待される「ラベル効果」

メディアクオリティ評価が報道機関に一目置かれ、報道のさらなる質の向上に報道機関が自発的に動くよう作用するとすれば、それはもちろんすばらしいですが、しかし、それだけではメディアクオリティ評価においての目標が十分達成されたことになりません。メディアクオリティ評価を、メディア消費者が実際にどのように利用でき、スイス社会で活用されることが可能かというのが、別の大きな問題として残っています。これについては、どのようにスイスで現在、考えられているのでしょうか。

このことについてみていく前に、今一度、メディアクオリティ評価の意義を整理してみましょう。メディアクオリティを明確に提示することは、まず、一般の人々に恩恵があります。良質のメディアがどれであるかについて公平・体系的に評価したメディアクオリティ評価は、とくに、フェイクニュースのような偽情報が横行し、真偽を見極めるのが難しい現代においては、言ってみれば、多種多様な道が交差する交差点での、行き先や交通表示のような役割を果たすと言え、社会で大きな潜在的な需要があると考えられます。間接的に偽情報の拡散の抑制にも役立つでしょう。

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同時に、良質の報道を行う報道機関にとっても、有利な状況をつくるはずです。その質が明確に評価によって保証されることで、人々からの信頼を勝ち取り、購読件数が伸びると期待されるためです(Bernet, 2018)。

しかし、人々がメディアを消費する際に、実際にいくらそれを活用してくれるかが肝心な問題として残ります。また、いくらあるメディアが良質であると評価されたとしても、予算が逼迫し、これまでのような良質の報道が難しい状況となるのでは、メディアクオリティ評価の主要な目標である、良質のメディアの存続、維持が実現できないことになります。

要するに、メディアクオリティ評価をメディアユーザーにもっと有効活用してもらうためのアイデア、メディアクオリティ評価と消費者をつなぐパイプとなるようなアイデアを、できるだけ早急に検討する必要があります。

しかし、これについては、まだほとんど議論がないようです。メディアクオリティ評価側も、あくまで中立的な評価を推進・持続することが最優先というスタンスからか、具体的で活用の仕方についての言及はありません。

数少ない具体的な構想として注目されるのが、スイスの主要な雑誌の編集長を歴任し、現在日曜紙『ヴォッヘンツァイトゥング Wochenzeitung』のメディアコラムニストを務める、フォイクトHansi Voigtのものです。メディアを評価することから話を一歩進め、メディアクオリティ評価を積極的に利用する具体的な二つの提案を、ラジオインタビューで述べていましたので、これについて、ご紹介します(Qualitätssiegel, 2018)。

フォイクトは、社会の他の分野では、消費者テストや、評価や格付けなどは、すでに非常に一般的な手法であり、消費者は、購買の際に、それらを参考にするというのが定着していることを指摘し、このような手法を、メディアにも応用できないかと提案します。例えば、途上国からの輸入商品につけられるフェアートレードのように、メディアにおいてこれまでなかった品質を保証するわかりやすいラベルのような機能にすることができないか、と考えます。

また、メディアの消費者が、正しいニュースを入手するための、手助けとして、ニュースやメディアを検索するときのアルゴリズムにおいても、メディアクオリティ評価を考慮するようになることが望ましいとします(ちなみに、建設的ジャーナリズムを推進するハーゲルップ率いる建設的研究所は、すでにグーグルとの間にパートナー関係を築き、検索エンジン上で建設的ジャーナリズムの記事を上位化させ、建設的ジャーナリズムがメディア消費者に届きやすくなることを目指しています「公共メディアの役割 〜フェイクニュースに強い情報インフラ」)。

いずれにせよ、フォイクトは、「メディアの質」も「(読む際の)重要なファクターとなるべき」ことは今日明らかであり、メディアクオリティ評価に何らかの具体的な役割が果たせるのではないかと強く期待しています。

おわりにかえて  〜ヨーロッパのメディア業界の不透明な先行きの先をみすえて

この記事の準備をはじめた今年9月に、欧州議会から飛び込んできたニュースがありました。インターネット上の著作権の保護を強化しようとする著作権法の改正案が賛成多数で可決され、今年末までに、欧州委員会や加盟国政府の間協議を重ね、最終的な改革案の合意を目指す、というものです。

これにより、ニュースソースをユーザーに仲介する、グーグル・ニュースなどのニュース検索サイトやニュース・アグリゲーターが、メディアのサイトの写真や見出しと数行の文章(メディアが無料で自分のサイトで公開しているもの)を自分のサイトで提示すると、著作者に使用量を支払ううことが義務付けられることになります。

ドイツでは、国内でもニュースサイトに使用料を支払わせる内容の法律が2013年に成立しており、この時同様に、ドイツのメディア業界大手の出版社は、今回の欧州レベルの法律化についても、自分たちの収入を増やす可能性のあるものとして歓迎しています。

一方、スイスの大手日刊紙NZZは、この法律に批判的です。まず、著作権の侵害を主張するのはおかしいといいます。もし本当に著作権侵害の問題があるなら、出版社は、グーグルがリンクがはれないようにするなど、内容の流出をブロックすることは、技術的に可能であるためです。

そして、報道機関自体もこれらのサイトによって(自分たちのサイトを多くの人の目に触れさせることができるという)恩恵を受けているのであり、ニュースサイトが「ただの剽窃者ではないことはわかっている」(Eisenring,2018)はずだとします。そのようなサイトに掲載するというサービスのために、グーグルが報道機関にお金を要求することすらも、合法であるはずだとします(Stadler, Das verschärfte EU, 2018)。

報道機関がどこも財政的に逼迫しているのは確かだが、そのようなメディア業界の問題は、「検索エンジンがテキストや画像を集めることとは、全く関係ない」話であり、このような法律でニュースサイトを拘束し、安直に収入を増やそうとすれば、「無意味な保護主義に陥る」だけで、「馬鹿げている」(Stadler, ebd,, 2018)とします。

このような議論をみてみると、将来のビジネスモデルがみえてこない危機感はどこの報道機関も同じであっても、生き残りを図るために、どこに活路を見出そうとしているのかは、報道機関によってもかなり異なっていることがわかります。

苦しいゆえ、著作権の解釈を端的に広げてデジタルな情報の規制を強めることで、少しでも自分の懐に入るものを増やしたい心理に至るのもわかりますが、それによって引き起こるであろう問題も看過できません。ニュースサイトが使用料を請求しないメディアコンテンツだけをサイトに提示する方針をとれば、使用料を要求しようとするメディアは、使用料が見込めないだけでなく、自分たちのサイトをおとずれる読者数が減少する可能性があります。また、使用料が前提となることでニュースサイトという事業自体への新規参加を難しくさせ、巨大なニュース・サイトが今後さらに市場を独占しやすくなる恐れもあります。

そもそも、昨今、広告を排除するアプリが世界的に急速に普及する状況にあり、ニュースサイトも含めてデジタルコンテンツの広告が、これまでのように広告料を容易に獲得できるかすらわからない状況であり、それを考慮すると、ニュースサイトを標的に端的な規制をすることによって、使用料や広告料などの収入を見込むということ自体が、無謀な話になっていくのかもしれません。

このように混迷をきわめている現在の報道機関を囲む状況ですが、フォイクトも述べていたように、報道機関にとっても「質」こそが、ソーシャルネットワークやニュースまがいの情報源から自分たちを差別化する重要なファクターであるという認識は、実際に年々着実に強まっているのは確かかと思います。今年の2回目のメディアクオリティ評価の際に、(少なくとも主要なメディア報道において)初回のメディアクオリティ評価で現れたような「質」の評価を疑問視する議論が蒸し返された形跡がなかったことからも、そのことが推察されます。

メディアの質に関連して、もうひとつ見過ごせない最近の調査結果があります。スイス国内外で共通して、公共放送を利用する人ほど、メディアへの信頼が大きく、また、メディアへの信頼が高い人ほど、ニュースへ代価を支払ったり、バナー広告など広告があることを厭わないというものです(Jahrbuch 2016. Qualität der Medien, Hauptbefunde, 2016)。これは、裏を返せば、公共放送に限らずどの報道機関も、(財政難などを理由に)報道内容の品質を落とすことで消費者からの信頼が減ると、さらに支持する人も収入も減っていくということでもあると思われます。

このような文脈において、今回スイスのメディアクオリティ評価のように、何か放送機関の当事者だけでなく、良質のメディアを必要とし推進する立場すべての人たちの間でも、質の高い放送を維持するためにできる支援はないか、これからも思索し、試していくことは、大いに価値があると思われます。
最後に、メディアクオリティのサイトの冒頭の文章をもう一度引用して、2回にわたったレポートを終えたいと思います。「情報メディアの質は、我々の民主主義の根幹に関わる重要なものである。メディアの質は公的な論議に露骨に表れる。」

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参考文献・サイト

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Stifterverein Medienqualität Schweiz, Medienqualitätsrating 2016 (MQR-16), Zürich 2016.(『メディアクオリティ評価 2016』)
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Berrnet, Luzi (Chefredaktor), Liebe Leserinnen, liebe Leser. In: NZZ am Sonntag, 9.9.2018, S.2.

Brunner, Christoph, Schweiz - Medienqualität: Publikum und Experten sind sich meist einig. In: News, Schweiz, SRF, Montag, 19.09.2016, 14:20 UhrAktualisiert um 14:20 Uhr

Dyttrich, Bettina et al., «Medien, die den Mächtigen auf die Finger schauen», Medienqualität. In: WOZ, Die Wochenzeitung, Nr. 5/2018, 1.2.2018.

スイス公共放送のラジオ番組「Echo der Zeit(時代のエコー)」の公式サイト(メディアクオリティ評価で最高の評価を得たメディアタイトル)

Eisenring, Christoph, Das Zombie-Gesetz der Zeitungsverleger. In: nzz.ch, 11.9.2018, 07:00 Uhr

Gujer, Eric, Die Schweiz braucht keine Staatsmedien. In:nzz.ch, 15.12.2017, 12:00 Uhr

Hitz, Martin, Schweizer Medienqualitätsrating 2016. In: Medienschau. Medienspiegel.ch, DIE MEDIEN IM SPIEGEL DER MEDIEN, 20. September 2016

Hollenstein, Edith, «Rendez-vous» holt das goldene Q. Medienqualitätsrating. In: persoenlich.com, 3.9.2018.

Hollenstein, Edith, Werber haben nur ein müdes Lächeln übrig. In: Persoenlich.ch, Das Online-Portal der Schweizer Kommunikationswirtschaft, 3.9.2018.

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Jahrbuch 2016. Qualität der Medien, Hauptbefunde, 2016

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Medientalk: Die Folgen der Medienkonzentration. In: Medientalk, Samstag, 29. September 2018, 10:33 Uhr, Radio SRF 4 News.

Medientalk: Was heisst «Qualitativer Journalismus»? In: SRF, Samstag, 24. September 2016, 10:33 Uhr, Moderation: Salvador Atasoy, Redaktion: Salvador Atasoy

Qualitäts-Ranking deutscher Zeitungen. In: Die Zeitungen, 11.8.2011

Qualitätssiegel für SRF-Sendungen. In: Echo der Zeit, 3.9.2018, 18:00 Uhr

Stadler, Rainer, Das verschärfte EU-Urheberrecht zwingt die sozialen Netzwerke zu strikterer Kontrolle und die Suchmaschinen zu einer Gebührenpflicht. Das ist unsinnig. Kommentar. In: nzz.ch, 12.9.2018, 15:51 Uhr

Stadler, Rainer, Was die Medien für die Schweizer Demokratie leisten. In: nzz.ch, 3.9.2018, 16:50 Uhr

Stifterverein Medienqualität Schweiz
V-Dem Institute, Varieties of Democracy, Democracy for All? Annual Democracy report 2018.

Von Matt, Rafael, Die Qualität im Schweizer Journalismus sinkt. In: news, SRF, 3.9.2018, 14:21 Uhr

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。


メディアの質は、その国の議論の質を左右する 〜スイスではじまった「メディアクオリティ評価」

2018-10-10 [EntryURL]

今日、新聞社、放送局、出版社などの従来型の報道機関は、ネット上に存在する様々な情報発信源との読者獲得の熾烈な競争を強いられ、報道機関としての影響力が相対的に減少しているだけでなく、有料購読件数や広告収入の減少により、存続のための財政基盤が揺らいでいます(「「情報は速いが、真実には時間が必要」 〜メディア・情報リテラシーでフェイクニュースへの免疫力を高める」、「ジャーナリズムを救えるか?ヨーロッパ発オンライン・デジタル・キオスクの試み」)。

このように、報道機関をとりまく環境が急激に変化していく状況下にあって、今後、社会において、どのような報道機関が必要で、それはどのような形(財源や規模など)で存続することがのぞましいのか、という議論が、最近、集中的に繰り広げられ、国民全体の関心を集めた国があります。今年3月初旬に、公共放送(テレビとラジオの)受信料の廃止を問う国民投票が行われたスイスです。国民投票を前にして数ヶ月間にわたり、様々な角度から公共放送やメディア全般の現状や問題がとりあげられ、賛否双方の意見が紙面や討論番組で飛び交いました。

受信料廃止の提案を国民投票にもちこんだ人々(急進民主党と国民党の一部)の主張は以下のようなものでした。テレビ・ラジオ以外にも多くの情報発信源やツールが存在し、それを選択することができる現代において、視聴するしないに関係なく、国民から強制的に受信料を徴収する公共放送の在りかたは理不尽なだけでなく、メディア業界の市場原理(自由な競争)をさまたげている。今後は、公共放送も、受信料を財源とするのでなく、ほかの民間のメディア同様に、広告料や有料サービスを財源として運営されるべきだ。

一方、連邦政府を含む反対派は、受信料という安定した財源が確保できなければ、公共放送は良質のラジオやテレビ番組がこれまでのように提供できなくなる。またメディアを市場原理にまかせることで、メディアの質と多様性が損なわれる危険がある、と主張しました(特に、スイスは国た小さいのに公用語が多いため、自由市場にまかせておくだけでは、それぞれの言語と文化を維持・尊重するメディア環境を維持するのが難しいとされました)。そして、メディアの質が劣化し、多様性が失われることは、活発で多様な議論を阻害することになり、強いては、直接民主制という政治制度をとるスイスにとって致命的な打撃となると、国民に訴えました。

最終的に、国民の71.6%という圧倒的多数が、受信料の廃止に反対票を投じ、スイスの公共放送は受信料を財源として維持されることが決まりました。

スイスでは、年に4回国民投票が行われ、国や州、自治体の政治上重要な事項を国民が直接投票で決めます。このような直接民主主義的な政治システムが実際にもうまく機能していることは、世界的に著名な民主主義研究機関V-Dem(Varieties of Democracyの略で、世界各国の民主主義と政治システムについて世界最大級の社会科学データベースを所有し、350以上の多元的な指標に基づき民主主義を測定する国際研究機関)も認めており、今年V-Demがまとめた年次報告書「万人のための民主主義?」において、スイスは、国民の政治参加度で世界一位に位置づけらています(V-Dem, 2018, p.71)。

このような自他共にみとめる国民の政治参加度の高いシステムをもつ国であるからこそ、国民の政治行動のために不可欠な公平で良質な情報をこれまで提供している公共放送が、受信料なしでは成り立たないという訴えは、国民に強く響いたのかもしれません。

特に近年の世界の情勢に目をむけると、近年、フェイクニュースなどの偽情報の操作や拡散が、現実の政治に与える影響やその脅威がリアルに感じられるようになってきており、このことによって、公平な情報源としての公共放送の果たす役割が、これまで以上に強く意識されるようになり、投票で擁護側にまわった人が多くなったとも考えられます。

いずせにせよ、この国民投票の結果、スイスの公共放送は、当面、受信料という収入源が保証され存続できることになったわけですが、公共放送以外の民間の報道機関やジャーナリストたちは、依然、存続の危機をさまよう厳しい状況から抜け出せていません。

公的な報道機関だけが繁栄するのでなく、民間の報道機関と競合しながら、多様なメディア環境を維持していくことが、社会にとって良質の報道環境を維持するために理想である、ということは、国民投票の選挙戦において政府も強調していましたし、多くの人の口にものぼりますが、そのために、実際に何をすればいいのでしょう。

もちろん民間の報道機関は、それぞれ財政基盤と読者層の確保のために様々なビジネスモデルを検討し試していますが、報道機関当事者以外の人々からも、間接的に良質のメディアを支援する新しい動きがでてきました。メディアの質を客観的に評価、格付けする「メディアクオリティ評価」というものです。
前置きが長くなりましたが、次回と今回について、このメディアクオリティ評価という新しい評価制度とその内容についてみていきたいと思います。まずその概要や評価の主要な結論について、今回ご紹介し、次回は、それを踏まえた上で、メディアクオリティ評価が社会に与えることが期待される効果やその課題といった、具体的な社会とメディアとの間の相互関係に目を向けてみたいと思います。

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「メディアクオリティ評価」の目的

「メディアクオリティ評価」は、文字どおり、スイスの主要なメディア(新聞や雑誌、テレビ番組など)の質を評価します。評価の実施及び発行責任者は、メディアや経済、政治分野の重鎮40人あまりのメンバーからなる「メディアクオリティ寄付者協会Stiferverein Medienqualität」(以下、「メディアクオリティ協会」と省略)という団体で、この協会の公式サイトの冒頭では、メディアの質の評価を行う理由を、以下のように説明しています。

「情報メディアの質は、我々の民主主義の根幹に関わる重要なものである。メディアの質は公的な論議に露骨に表れる。我々の目標は、2年おきに評価をすることで質の変化を測定し、メディア消費者、またとりわけメディア自身に、質についての意識を持つことを促進させることである。」

ここに記されているとおり、目標は、単なる現状把握のための調査ではなく、調査を2年おきに継続することで、長期的にメディアの質を向上させることです。2016年からはじまり、今年9月に2回目の結果が発表され、今後も2年おきに調査が継続されていく予定になっています。

研究調査費用は、スイスの複数の大企業や財団(それぞれ毎年1万から5万スイスフランを拠出)からの寄付でまかなわれます。ちなみに2016年に行った最初の評価費用は、450 000スイスフランでした。寄付者(企業を含め)は、この研究調査の意義に深く共感しているものの、研究調査のやり方や結果に一切関与せず、実際の研究調査は、スイスのドイツ語圏とフランス語圏の以下の三つのメディア研究機関が、独立・中立した立場で、構想、担当しています。

•チューリヒ大学研究機関公共性および社会 Forschungsinstitut Öffentlichkeit und Gesellschaft der Universität Zürich(略してfög )
•フリブール大学コミュニケーションおよびメディア研究学部 DCM - Departement für Kommunikationswissenschaft und Medienforschung an der Universität Fribourg.
•チューリヒ応用科学大学応用メディア学研究所 IAM - Institut für Angewandte Medienwissenschaft an der ZHAW Winterthur

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評価方法と内容

初回(2016年)と2018年では調査の仕方や対象としたメディア数に若干の違いがありますが、ここでは、2018年の評価を例にして、評価方法と内容を概観してみます。

対象となるのは、スイスの主要な50のメディアタイトル(「メディアタイトル」とは、新聞社、ラジオ局、テレビ局などが制作し消費者に消費される個々の新聞やテレビ・ラジオ番組をさします)で、以下の四つのカテゴリーに分けてそれぞれの質を分析し、比較します。

1、日刊紙、オンライン新聞
2、大衆紙、通勤紙(通勤時に簡単に読めるフリーペーパーなど)
3、日曜紙、週刊誌
4、ラジオ・テレビ番組

具体的な評価は、以下の二つの側面からなされます。

1)専門性、分析処理能力、多様性、関連性などに注目した評価
50のメディアタイトルが制作した2000以上(年間1000)の報道コンテンツ(番組や記事)を、上記の研究機関に所属するコミュニケーション及びメディア専門家が、そのメディアタイトルを、公の議論に寄与する多様な情報の質を提供しているかという観点から総合的に分析します。具体的には、報道される情報が、ただ時事的なことを叙述しているだけか、それとも社会的な文脈や背景を交えて説明しているか、多様な側面を考慮しているかなどがポイントになります。

2)一般の人々の理解
一般の人が、同じ50のメディアタイトルについてどう理解(知覚)しているかが調査されます。市場研究機関 GfK Switzerlandによるサンプル調査で、ドイツ語圏とフランス語圏の2169人(前回は1613人で43メディアについて)を対象に、50のメディアタイトルのうちよく知っているものについてオンラインで回答してもらいます。

ところでメディアの質の評価自体は、アメリカやドイツのメディア業界でも実施されており、特別めずらしいものではありません。例えば、ドイツでも2011年に、全国の77メディアについて調査、ランキングが発表されています。

しかし、「専門家による分析・評価だけでなくサンプリング調査により一般住民の質についての認識も取り入れた評価(格付け)は、スイス国内だけでなく世界的にみても他に例がな」く(MQR-18, S.3)、その意味では、独特の評価体系であるといえます。

2018年のメディアクオリティ評価の主要な結論

2018年の調査の主要な結果とそれに基づく専門家のコメントを、まとめてご紹介してみます(個別のメディアタイトルの評価は、これを読まれている日本の方にはあまり関係ないと思われますので割愛します)。

1。前回に続き今回も、一般の人々のアンケート結果と専門家の意見が、ほとんど一致している。

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専門家の報道内容の評価と一般人の理解・評価がほぼ一致していることを示す散布図
出典: Stifterverein Medienqualität Schweiz, Medienqualitätsrating 2018 (MQR-18), Zürich 2018. (『メディアクオリティ評価 2018』), S.11.


上の散布図では、縦軸が一般の人々の理解評価、横軸が放送内容の専門家による質調査の結果をあらわしています。(それぞれ上や右にいくほど評価が高くなることを示しています)左下から右上に向けう斜め線上にほぼ位置するメディアタイトルが多いことがわかります。

ちなみに、今回の調査では、一般の人々の公共放送(ラジオとテレビの報道番組)に対する評価が高くなりました。これについて、メディアクオリティー協会協会の会員で調査の主要責任者の一人ドゥリッシュ Andreas Durisch は、公共放送の是非を問う国民投票に向けて国内で活発に議論されていった過程で、一般の人々の間では公共放送への信頼がむしろ高まり、それが評価を高めるのにつながったのでは、と推測しています(Von Matt, 2018)。

2。専門家の評価は、メディアタイトルの大部分は2年前と比べ、質的に大きな変化がなかった。

その意味では、厳しいメディア環境にあっても、スイスの報道はおおむね良好に機能しているといえます。とはいえ、評価が若干下がったメディアタイトルは15ほどありました。評価が下がった理由は、主に二つあり、取り上げるテーマの多様性がなくなったことと、ニュースの背景への言及の減少でした。これらの現象の背景には、メディア出版社の予算削減の圧力があったと考えられます。逆に、評価で質があがったメディアタイトルは、4つありました(ebd., S.21)。

3。メディアのメディア集中化する傾向が強まっている。
ドイツ語圏、特にチューリヒへの集中化が目立ち、逆にジュネーブを中心とするフランス語圏のメディアが姿を消す傾向がみられます。また今後も報道の効率化やコスト削減と称して、この傾向が続くと見込まれ、メディアの報道の多様性が危険にさらされているといえます(Medientalk, 2018)。

4。公共放送をのぞく報道各社は、新たなビジネスモデルをいまだ見出しておらず、メディア全般の状況は楽観視できない。

おわりに

今回はメディアの評価の特徴や方法、その主要な結果についてみてきましたが、次回は、これらをふまえた上で、具体的にメディアクオリティ評価というものが、社会にどのような効果的な影響を与えられるのかについてさらに考えていきたいと思います。
<参考文献・サイトは次回の記事の後で、一括して掲載いたします>

穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
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