コメディは社会のセラピー 〜ドイツの人気コメディアンと「#MeTwo」ムーブメント
2018-10-03 [EntryURL]
先日、ドイツのテレビであるコメディアン・ショーを見て、ある思いがよぎりました。
今年の夏、ドイツのメディアでは、難民やイスラム教徒のトルコ系移民へ反発するで極右勢力支持者たちによる排斥的な動きが、連日のように報道されていましたが、笑いやユーモアというものは、もしかしたら現在のような状況において、他のイニシアティブよりも意外に頼もしい効力を発揮するのではないか。もちろんそれは、対立する人々の間を取り持つような直接的な取り組みにはならないにせよ、ユーモアを交えて捉えることで、偏ったり硬直してきた自分の頭の硬さが少しほぐれ、他人や自分自身を少し違う立ち位置からみえるようになるのでは、という思いです。
今回は、こんな思いにいたらせてくれた、このショーとそれを演じたコメディアンの話から出発し、コメディが社会にもたらすものの可能性について、(コメディ的)楽観的な視点で展望してみたいと思います。具体的には、このコメディアンがインタビューやショーの中で、今のドイツの社会状況や世界、またその中で自分のコメディの役割をどのように捉えているのかを観察し、同時に現代のドイツの社会的な文脈のなかで、このコメディアンやコメディがどんな位置にあるのかをさぐってみます。
人気コメディアンの正体
「Around the world」と銘打ったこのトークショーは、今年9月14日の金曜夜10時15分から0時までの週末のゴールデンアワーに、ドイツの民間放送局RTLで放送されました(私が住むのはスイスですが、ドイツ、オーストリア、スイスといったドイツ語圏の国々の主要な放送局のコンテンツが視聴できます)。ただしショー自体は、2013年秋から巡回独演会のプログラムとして公演されてきたもので、今回放映されたものは、2015年に公演・収録されたものです。
約1時間半に及ぶソロのトークショーをこなしていたのは、カヤ・ヤナーKaya Yanarという、今年デビューから17年目になる45歳のドイツの人気コメディアンです。しかし、ヤナーを、単なるドイツの人気コメディアンと紹介するだけでは不十分でしょう。
というのも彼が、ドイツに移住したアラブ=トルコ系の移民の子どもでありながら、「ドイツ人と非ドイツ人どちらにもにじように認められ」ているコメディアンであり、多くの移民たちにはとって、「移民的背景をもちながらドイツのテレビで自分の専門番組をもつようになった最初のエンターテイナー」として「重要なインテグレーションの象徴」的人物であるためです(Boran, 2006, S.282)。
言語的な特徴を正確に模写するすぐれ技を活かしたコメディ
ヤナーは、さまざまな言語の癖や特徴の模倣を得意技とするコメディアンです。これについては、今回のテレビ番組の紹介文がうまくとらえているので、少し長くなりますが、引用してみます。
「カヤ・ヤナーは、アジア、アメリカ、ヨーロッパを旅し、とんでもない冒険をする。カヤほど知らない国や文化の独特の特徴について感動する人はいない。どうして中国人は、四本足があって机じゃないものは全部食べるのか。。(中略)。。世界中ほとんどの国でバナナを「バナナ」に近い発音で表記するのに、トルコ語では「ムズ」なのか。。(中略)。。カヤ・ヤナーは、言語、文化、人々をよく観察し、それぞれの妙な習慣を明確に模倣する。親がトルコ人で、ドイツのパスポートを持ち、世界中の旅行に情熱を傾ける彼にしか、これらの独特の習慣にこんなにもあけすけに、鋭く観察することはできない。そしてカヤの手にかかると、単に隣人を笑うことで終わらず、いつも少しだけハートが重要になる。」(Kaya Yanar live!, 2018)
ヤナーは、現在のドイツでは、言語や文化、習慣の違いといった(ともすれば、政治問題にまで転じかねない、様々な人が神経を尖らせている微妙な)テーマを、いとも簡単そうに、持ち前の観察力と模倣力と、軽快なノリで、取り上げ、笑いに仕立てていきます。しかし誰かを犠牲にしたり不快にさせたりする笑いではありません。見下すような視線や、違和感や警戒心、笑い者にする突き放した姿勢もありません。あるのは、どこの国の人たちも、その言語的な発音やアクセントを正確に捉えながら、愛嬌たっぷりのキャラクターとして描写する演出です。
この点について、ヤナー自身も強く意識し、配慮をしているようで、自らも以下のように表現しています。「同じようにステレオタイプを扱う舞台でも」、「ステレタイプ自体を笑いものにするのと、ステレオタイプのなかにある人をからかう(笑いものにする)のは、描写の仕方として大きく違う。」(Loh und Grüngör, S.169)
このようなわけで、ヤナーのショーは、(見ているドイツ人も外国人も)ほかの地域の文化や人を扱っていても、人種差別的なのではないかと危惧されることもなく、ホールを占める老若男女の8千人ほどいるかと思われる観客と一体になって、安心して遠慮なく、思いっきり笑い飛ばすことができます。
移民としての生い立ち
人種や文化の違いを超えた立ち位置から眺望し、ユーモアと愛着で包みこみ、描写するようなヤナーのコメディは、彼の独特の持ち味であるのと同時に、現在のドイツのトルコ系などの移民的背景をもつ若者世代が共通してドイツで味わってきたもの、そしてそこから育まれた生き方やポリシーと重なる部分も多分にあるように思われます。
ヤナーの生い立ちに少し触れますと、アラブ系のトルコ移民の二世としてドイツのフランクフルトに生まれたヤナーは、エリート校(ギムナジウム)そして大学へと進学し(音声学等を専攻)、当時、トルコ系移民としては破格のドイツ社会でのエリート・コースを歩んでいます(当時通っていたギムナジウムには、彼と彼の兄弟の二人だけしかトルコ系移民がいなかったといいます)。その一方、国籍でいえばトルコ人であるにもかかわらず、トルコ語が満足に話せず、アラブ系でもありますがアラビア語も習得していません。
彼のこの複雑な事情や心境は、ドイツのトルコ大使館に行った時のエピソードとして、コメディでもでてきます(今回視聴したものではありません)。トルコの国籍をもち、外見もトルコ人的であるヤナーをみて、当然の帰結として、領事館スタッフは彼にトルコ語で話しかけるのですが、ヤナーには意味がわからない。ヤナーがトルコを解せないということがスタッフにとっては想定外であるため、トルコ語の質問に反応しない彼をみて、大使館員は耳が不自由だと思い込む。というふうにコメディは続いていくわけですが、とにかく、トルコ語が話せないということは、(笑いのネタにもなりますが)、彼にとってひとつのやっかいな問題でした。
最終的に、トルコ国籍を破棄してドイツ国籍を取得し、晴れて語学能力とパスポートが一致しますが、それでもまだ別の問題が残ります。語学能力とパスポートから見て完璧な「ドイツ人」であっても、ほかの人から「ドイツ人」と認識されるかはまた別の問題だからです。
「トルコ人」、「移民」、「よそ者」など「ドイツ人」ではない者とみなされることもありますし、自分自身でも「ドイツ人」、「トルコ人」、「トルコ系ドイツ人」どのように名乗るのが一番適切であるのかも、もはやよくわからなかったり、はたまた、それ自体、どうでもいいような境地にもなったりします(そしてそれがまた、コメディのネタになったりします。)
「#MeTwo」ムーブメント
このような、自分が持ちたい帰属意識と他者から認められている自分の像の間のギャップ、あるいは自分自身でもよくその辺りがわからない、あるいはそれを見極めること自体が、自分自身にとっては重要とは思えず、自分を拘束する社会のレッテルのような気持ちがする、と言う感覚は、ヤナーだけでなく、多くのドイツに育った移民たちに、共通しているようです。
ここで、ドイツの移民の歴史と現在の状況について、トルコ系移民を例に簡単にご紹介してみましょう。ドイツは戦後の高度経済成長に深刻な労働力不足に陥り、1961年にトルコとの間で雇用に関する二国間協定を結びます。この結果、1960・70年代の大勢のトルコ人が就業のためにドイツに移り住んできました。
二国間協定から半世紀以上がたった2015年の時点で、ドイツのトルコ系移民(本人あるいは親がトルコ出身である人たち全般をさします。トルコの国籍を現在保持しているかは無関係です)は、285万人おり、ドイツ全体の人口8169万人の約3.5%を占めています(Migrasionsbericht, 2015, S.162)。ちなちにドイツ全体では、なんらかの移民的な背景(本人あるいは親の少なくとも片方が外国出身)をもった人たちは、全体の21%を占め、人口でいうと約1712万人になりますが、そのうちの16.7%がトルコ系移民で、2位のポーランド系移民(9.9%)の約1.7倍の人数です(ebd., S.163)。
ところで、トルコ系移民がドイツにきてすでに半世紀以上がたった今年になって、改めて、移民的な背景をもつ人々たちが新たに連帯してドイツ社会にアピールするムーブメントが盛り上がりました。
今年7月末、トルコ系ドイツ人のサッカードイツ代表選手が、トルコのエルドアン大統領と写真を撮ったことでドイツで大きな批判をあび、最終的にドイツの代表を辞退する決断をしました。これを受けて、ドイツ国内で対話を推進する活動を行なっているジャンAli Canがオルタナティブ雑誌『Perspective Daily』誌上で、移民的な背景をもつ人たちに、ドイツ社会で差別について隠さず自由に語ることをうながす、新しいツイッターのトピック「#MeTwo」 を立ち上げたところ、三日間で4万人が自分の体験を語るほど大きな反響をよぶことになりました(ジャンの活動と、オルタナティブ雑誌については次の記事で紹介しています「悩める人たちのためのホットライン」が映し出すドイツの現状 〜お互いを尊重する対話というアプローチ」「ジャーナリズムの未来 〜センセーショナリズムと建設的なジャーナリズムの狭間で」)。その後も、書き込みが続いて、一連の動きは、ドイツの主要なメディアや政治家たちからも注目され、一目置かれました。
ところで、「#MeTwo」というトピックは、昨年世界的に広がった「#MeToo」を意識したものです。発音は同じで単語を入れ替えた「me two」という巧妙な命名がわかりやすかったことも、すぐに広がった理由のひとつかもしれません。
移民出身者は、ドイツ社会で成功していれば、よくインテグレートされていると称される。しかし、なにかに失敗すると、移民であることを理由にされる。ジャンや代表を辞退したサッカー選手は、現代のドイツの移民出身者が抱える問題を端的にこのように叙述しました。そこにあるのは「勝てば官軍、負ければ賊軍」のような不条理さであり、それへのいらだちが強く感じられます。
他方、ジャン自身も言っているように、このムーブメントは、単なる差別の苦しみや問題を訴えるにとどまらない、もっと広い視座をもったものでもあります。それを私なりにまとめてみると以下のようなことではなると思います。
移民的背景をもつドイツ人の多くは、二つの文化にまたがるアイデンティティー(ドイツ育ちでドイツ人でありつつも、家族のルーツとなる文化も大事にしているため)をもっていること。それをドイツ社会にもそれを差別の理由にするのではなく肯定的に認めて欲しいこと。二つの祖国やアイデンティティをもつ彼らにとって、ドイツ人対移民という単純な対立構図自体も受け入れがたいこと。そして、二つ(あるいはそれ以上)の文化的背景をもつ人たちが増えることが、ドイツ社会を分断するのではなく、むしろ橋渡しし、ドイツの将来をむしろ豊かにするのにも貢献できる、といったことです。
コメディはセラピー
一つの文化や一つの国を特別視したり、優れているといった考えに簡単に収斂できない独特の文化的背景やアイデンティティを持ってている人たちは、最終的に、文化やイデオロギー的な対立を超越したところに視線が向かっていくようです。ヤナーもまた、ドイツで、文化やアイデンティティの対立や矛盾がジャングルのように錯綜した社会に育ち、(ひとつの文化やイデオロギーに執着しない)最終的に見晴らしのいい眺望にたどりついたことで、独自のマルチカルチャー的(多文化主義的、様々な言語や文化の違いをテーマにした)なコメディのスタイルにたどりついたのでしょう。
とはいえ、彼が売りにするマルチカルチャー的なコメディをめぐる社会的環境は近年、緊張や対立が高まっており、多文化主義のお祭りのような無害さが強調されるだけでのコメディでも、済まなくなっているようにも思えます。
しかし、だからといって、コメディは誰かにお説教を垂れたり、何かをさとすものでもないでしょう。ヤナーもそれは毛頭考えていないようで、なぜドイツの極右政党AfDやトランプ大統領などについて扱わないのか、というインタビューの質問に対して、「僕は、自分のショーで、人種主義者を転向させようとしているのではない。時代を扱うそういう類のショーは自分には退屈だ」と言っています (Sarasin, 2017) 。
無害で気楽なだけでもだめで、ストレートなメッセージ性があるものも、現代において、ピントが外れているというのなら、コメディはどんなスタイルが可能でしょうか。個々人の好みによってその解答は異なるものでありえるでしょうが、ヤナー自身は、「自分にとって、何か憤慨するものがあったら、それについて笑う方がいい。それが、セラピーの本来の形だ」と言い(Kaya Yanar, 2018)、コメディを、一つのセラピーのようなものと解釈し、それに見合うようなスタイルを、自分のコメディのスタイルにしているようです。
このセラピー・コンセプトはコメディアンの彼自身だけでなく観衆みんなにとっても有効に働くといいます。そして、自身が憤慨することがあったら、どうするか(どうやってまた元気を回復するか)という質問への回答のなかでこう答えます。「ジョーク、チャーム(魅力)、そしてユーモアでだ。僕の観衆たちの前では、できる限りジョークを飛ばして息抜きにしている。そうすると、みんなにも笑いをもたらす。観衆はみんなユーモアを持っているからね。これ全体が、すごくチャーミングなことだと思わないか?僕たちみんなにとって大きなセラピーの時間なのさ。一緒に憤慨し、笑うのがすごく助けになる。心理学セラピーに行くよりずっと安いもんさ。」(Janssen, 2018)
おわりに
コメディやユーモアは、社会で特定の意味や意義など持ってはいませんし、強い特定の期待に応えるものでもありません。一方、ヤナーは、マルチカルチャーのコメディ・ショーは「慎重な配慮を要する(扱いにくい)感情的なテーマを取り上げ、そこにコメディを見出す」ことであり、「真面目にやらない、ということじゃない」。むしろ逆に、コメディアは、「コメディは、適切な場所に節度のある簡潔でふさわしい言葉を置くことができる」のだと言います(Kaya Yanar, 2018)。
はっきりしない存在だからこそ、色々な可能性も秘めており、意見や見方を自由に行き来して、様々な現象や人物にスポットを当てたり、異なった演出で、違った側面を引き出すこともできますし、他の場面で対立する人たちを共通して楽しませたり、共感させることもできるかもしれない。ヤナーに生き生きと愛嬌たっぷりに再現されるさまざまな国や言語の人たちや、それを演じながらセラピーとしてのコメディの意義を認めるコメディアン、ヤナーの姿を見ると、そんな楽観的な展望が開かれてくる気がします。
参考文献・サイト
Janssen, Sabine, Kaya Yanar: “Für uns alle ist das eine Therapie-Stunde” RP Online, 19.2.2018.
Kaya Yanar: «Ich bin der Kultusminister der Comedy». In: Bluewin, 23.2.2018 - 08:34, tsch
Kaya Yanar live! Around the World, RTL, Freitag, 14. September, 2018 • 22:15 - 00:00. In: Teleboy
Loh, Hannes und Murat Güngör. Fear of a Kanak Planet - HipHop zwischen Weltkultur, und Nazi-Rap. Höfen: Hannibal, 2002.(ヤナーの発言部分を本文に引用しただけで、本書は未読)
#MeTwo In: Wikipedia (2018年9月19日閲覧)
Perspectiy Daily, 24.7.2018, 10:11, Twitter(2018年9月19日閲覧)
Sarasin, David, «Die Leute lachen gerne über Zürcher». In: Tages-Anzeiger, 01.02.2017, 16:57 Uhr
Themen und Pesronen, Kaya Yanar (2018年9月17日閲覧)
穂鷹知美
ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。